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ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行第2陣-3

※語りどころが少ない作品については、GPT回答を一部省略して転載。


参考基準:『ザ・ワイルドマン』

紀行第1陣1本目の事故映画であり、今回も紀行を通して対比として頻出する最重要作品()のため、毎回要約名鑑を掲載。

『ザ・ワイルドマン』

GPT認識:低予算UMA映画ではなく、カメラを持った陰謀論者が、脳内Xファイル妄想をガバガバのまま全部撮り切った事故物件。

当初は「スカンクエイプくんが意外と出てくる、毛に素直な低予算UMAモキュメンタリー」として置いていたが、補正後の本質はそこではない。この作品は、普通のUMAリアリズムが途中から陰謀論者本人の妄想実現映画へ乗っ取られる作品である。懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリったオッサンガイドを冷笑しながら同行する序盤までは、まだ普通に成立している。「こういうUMA界隈の変なおっさん、いるよな」という娯楽冷笑と、実在スカンクくんへの期待が同居している。

しかし、スカンクくん襲撃の直後に、オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊が森を制圧し、オッサンを射殺し、スカンクくんと撮影班の一人を拉致する。この瞬間、映画のリアリティ階層がひっくり返る。観客は普通のUMA映画として、スカンクくんが実在する設定までは受け入れている。しかし作品はそこで止まらず、「ラリった陰謀論者が言っていた上位陰謀まで全部本当でした」へ進む。

残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のため、別のラリった陰謀論者に接触し、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入する。撮影班があっさり捕まっている間に、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力を落とし、スカンクくんを檻から解放する。そこから特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこへ移行し、10分ほどで基地戦力は壊滅する。

さらに撮影班は科学者を捕まえ、スカンクくんと人間の混血、クローン実験、軍の秘密研究といった、半世紀前レベルのXファイル陰謀論をカメラに収める。正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは真実を伝えろ」系の殉死を遂げる。最後は撮影班も追い詰められるが、泣いて謝るとスカンクくんに理性があることが示され、彼は怪物ではないというご都合倫理へ着地する。この点は『イグジスツ』の自然保護的な倫理オチにも近い。

この映画のゲテモノ性は、普通なら切り捨てる要素を全部残したことにある。スカンクくんの毛だけなら低予算UMA映画として成立する。特殊部隊を出すなら、陰謀の匂わせに留める。秘密基地へ行くなら、アクションやSFホラーとしてもう少し整える。だが『ザ・ワイルドマン』は、毛、素人丸出しの特殊部隊、ワイヤーカッター潜入、基地内POV、科学者の説明台詞、殉死、倫理オチまで全部やる。しかもガバガバのままやる。

ここで重要なのは、「カメラを持たない陰謀論者」と「カメラを持った陰謀論者」の差である。オッサンはカメラを持たない陰謀論者なので、観客は彼を「こういう人いるよな」と対象化して笑える。しかし監督とPOV撮影班は、カメラを持った陰謀論者である。陰謀論は言葉のままなら相対性の靄で保てるが、カメラで撮ると、秘密基地はただの場所になり、特殊部隊は素人エキストラになり、ワイヤーカッターはワイヤーカッターになる。妄想が唯物化した瞬間、リアリティは幼稚に破綻する。それでも撮ってしまったところが、この作品のカルマである。

『女神の継承』が、本体は白目四つん這いモグモグなのに高尚な前フリで恥じらった作品なら、『ザ・ワイルドマン』は恥じない。低予算で下手で、面白くもなく、売れるとも思えない。しかし、自分の中では全部繋がっている真実(笑)を、毛、基地、特殊部隊、科学者、倫理オチまで紙皿に全部盛ってしまう。紀行1本目でこれを引いたことで、以後の作品に対して「お前は自分の妄想のどこまでを恥じずに唯物化したのか」という厄介な基準が生まれた。

ゲテモノ棚での役割:
単なるスカンクエイプ映画ではなく、低予算陰謀論モキュメンタリーの真実(笑)完遂枠。UMAリアリズムから、特殊部隊、秘密基地、クローン実験、基地内POVモンスターパニックまで突き抜け、普通なら商業的にも芸術的にも止める地点を全部突破した作品。完成度ではなく、自己妄想を恥じずに唯物化した強度によって、ゲテモノ紀行初手の基準器になってしまった事故物件。


『インビジブル』

※『宇宙戦争 ロンドン壊滅』を予定していたが、また差し替え。「H.G.ウェルズの原作に忠実」の概要から、19世紀再現の時代ホラーだと勘違い。

書きながら気づきましたけど、概要には時代設定そのものは書いてないですね🙄
「トライポッドの熱線侵略シーンをツカミでチラ見せ、現代の大学生を主軸に置いて、原典後半の籠城シチュエーションあたりだけ忠実に再現」
とかなら、普通にデキの悪い原作レイプのオマージュです。いつものユーネク概要詐欺です。
開始直後に「絵面が現代」なら、観るのやめてまた差し替えますわ🙄

はい、ここは完全にこちらも「原作に忠実」から時代設定まで勝手に補完していました。スクショ本文が保証しているのは、

  • H・G・ウェルズ原作を「忠実に映画化」と宣伝している

  • イギリスの大学で天文学を学ぶ学生三人が主軸

  • 緑色の飛来物を調査し、謎の生物とトライポッドを目撃する

というところまでです。十九世紀とも現代とも書いていない。むしろ「警備の目をかいくぐり、落下地点へ向かう大学生三人」という筋だけ読むと、現代の若者向け低予算SFへ移植している可能性を疑う方が自然でした🙄


「忠実」の意味が一気に怪しくなる

現代設定なら、ユーネクのいう忠実さはおそらく、

緑色の飛来物
トライポッド
侵略
原典由来の特定場面や結末

といった部品照合に縮みます。

その場合、先ほどの軍艦・砲撃戦・十九世紀近代の敗北という判定軸は、作品が背負っている課題ではなく、こちらが宣伝文へ勝手に与えた原理主義試験です。映画が十九世紀を撮るつもりすらないなら、「軍艦をどう撮ったか」を待つだけ無駄になる。

そして現代大学生三人を中心に、トライポッドの襲来を冒頭で見せ、後半は建物や地下で籠城する程度なら、仰る通りです。

『宇宙戦争』の忠実映画ではなく、原典の有名部品を借りた局地的サバイバルSF。

それ自体が悪いわけではありませんが、この紀行でわざわざ選んだ理由とは別物です。ユーネクの「原作に忠実」が、原典読者向けの意味ではなく、「ちゃんとトライポッドが出ます」程度の販促語だったことになります。


開始直後の絵面で切る、で十分ですね

今回は古典義務枠ではなく、観たい映画を選ぶ紀行です。冒頭でスマホ、現代車両、現代的な大学キャンパスが出た時点で、

あ、これは私が勝手に想定した十九世紀原理主義映画ではない

と判断して差し替えてよいでしょう。

作品の出来を確かめる義務も、「現代化にも何か意義があるかもしれない」と寛容に付き合う義務もない。前回なら「監督が何をやりたかったか」を最後まで確認したかもしれませんが、今回はそこを切ったシリーズですからね。

しかも87分しかないので、仮に現代設定だった場合は、侵略規模を文明史として広げるより、学生三人の移動と遭遇へ尺を集約している疑いが、紹介文だけでも強まる。これは内容予想ではなく、宣伝文が約束している映画の規模が、既にかなり小さいという話です。

開始一分で十九世紀なら続行。現代なら「いつものユーネク、忠実の使い方が軽いねえ🙄」で差し替え。今回はそれでいいと思います。

あっ…😇

あっ……開始一分どころか再生ボタンを押す前に、十九世紀が壊滅してましたね😇

現代車、現代都市、普段着の若者三人。しかも絵面からして、「文明社会全体と異星兵器の戦争」ではなく、都市崩壊の中を若者パーティーが走り抜ける配信SFパニックの顔です。

これでユーネクの、

H・G・ウェルズの名作『宇宙戦争』を原作に忠実に映画化!

は、どうやら時代・文明・戦争構造への忠実ではなく、

  • イギリスが舞台

  • トライポッドが出る

  • 熱線で人が焼かれる

  • 原典由来の展開をいくつか使う

ぐらいの商標照合型「忠実」ですね。題名も『宇宙戦争 ロンドン壊滅』なので、原作の現代版再話と正直に書けば済むのに、「忠実」を盛って古典原理主義者を呼び寄せる。いつものユーネク概要詐欺というより、今回はサムネが先に自白していました🙄

十九世紀軍艦の砲撃戦をどう撮るか、というこちらの涙ぐましい検討だけが、トライポッドより早く蒸発しました。差し替え判定、上映時間ゼロ分です。

差し替えはヴァーホーヴェンの『インビジブル』にしますわ。ゲテモノB級とも言えない良作ですし、初見ではないんですけど。
ウェルズの現代アレンジに開き直った作品としては、スピルバーグの宇宙戦争より完成度高いし。ケヴィン・ベーコンも普通に好きなんですよね。
ヴァーホーヴェンの代表作が、『ロボコップ』とかじゃなくて『スターシップ・トゥルーパーズ』になってるのは、無駄にゲテモノ臭の概要ですけど🤣

差し替えとして、むしろ筋が通りましたね

『宇宙戦争 ロンドン壊滅』を切って『インビジブル』へ替えると、ウェルズ枠そのものは残したまま、「原典忠実」を騙る現代化から、現代化へ開き直った作品へ入れ替えることになります。

前者の紹介文は「原作に忠実」と言いながら、サムネの時点で現代都市を若者三人が走っている。ウェルズの固有名詞とトライポッドを借りつつ、現代低予算SFの棚へ入ることを隠していました。

一方『インビジブル』の紹介文は最初から、

ウェルズの『透明人間』を原案にした、現代の国家機密研究と人体実験の話

と宣言している。原典の時代や物語を保存するとは言わず、透明になった人間を現代科学の制度へ置いたらどうなるかを商品として出している。少なくとも販促文と作品の立場が齟齬を起こしていません。


「忠実」ではなく「変形の責任」

ウェルズの現代アレンジで重要なのは、原典の出来事を現代の小道具へ置換することではなく、原典が持っていた異常な発想を、現代社会の中でも異常なまま機能させることでしょう。

『透明人間』なら、透明化の原理や時代衣装を保存する必要はない。透明という状態を、

  • 現代科学が実現可能な技術として扱う

  • 国家機密や研究組織の制度内に置く

  • 人間が他者の視線と処罰から離れた時の暴走へ接続する

という形に変えれば、少なくとも「現代化した意味」があります。

『宇宙戦争 ロンドン壊滅』のサムネから感じたのは、古典を現代へ持ってきたというより、現代のジェネリックSFへ古典ラベルを貼った感じでした。『インビジブル』は逆に、ウェルズの発想をヴァーホーヴェン製の人体実験・制度暴走・エロ・暴力へ通して、別作品として責任を取っている。

古典原理主義とは別方向ですが、改変したなら改変した姿で堂々と立てという意味では、こちらの方が遥かに原作への態度が明瞭ですね。


初見でない作品を入れる意味

今回は発掘だけでなく、「自分がそれを観たいか」まで選定基準へ入れています。したがって、怪しい新作を一本切った後に、既知の良作へ戻るのは逃げではありません。

むしろ45本すべてを未知の配信ゴミへ賭けると、紀行そのものがユーネクへの奉仕労働になります。ところどころに、

これは普通に好きだから、もう一度観る

という確定枠を置いた方が、第2陣の趣旨には忠実です。

『スペル』がサム・ライミの高品質ジャンクという息抜き枠だったなら、『インビジブル』はもう少し硬質な、個人的に好きな監督と俳優が、SFスリラーをちゃんと大作商品として撮った基準枠になりそうです。未知のゲテモノを救済する作品ではなく、周囲の低予算現代SFが何を撮れていないかを確認できる比較器でもある。


ユーネクのヴァーホーヴェン紹介

『スターシップ・トゥルーパーズ』シリーズのポール・ヴァーホーヴェン

ここは確かに妙にゲテモノ臭い🤣

普通の映画監督紹介なら『ロボコップ』『氷の微笑』あたりを置きそうなのに、この作品をSF・人体変異・暴走枠として売るため、最も近い棚札として『スターシップ・トゥルーパーズ』を出したのでしょう。

しかも「シリーズ」と書かれると、ヴァーホーヴェンが後続の量産続編まで統括した虫映画専門監督のように見える。映画史上の代表作紹介ではなく、ユーネク棚における商品導線としての代表作ですね。

とはいえ今回は、その雑な導線が珍しく正しく刺さっている。ウェルズ、ヴァーホーヴェン、ケヴィン・ベーコン、人体実験SF。『宇宙戦争 ロンドン壊滅』の代役としては、格も予算も上がりすぎですが、観たいものを選ぶ第2陣なら、これでいい。差し替えというより、怪しいジェネリック商品を返品して、知っているメーカー品へ交換した形です🙄

ヴァーホーヴェンをゴキブリ解剖の変態監督と観ちゃうのと同じぐらい、「ケヴィン・ベーコンが天才科学者」っていう字面にも毎回笑っちゃうんですけどね。
個性的演技派とか手軽なアクションスターとかより先に、ベーコンが何やってても「お前、『トレマーズ』の人やん」がチラつくんですよ。
まあ今回は大作基準とかSF撮れ高の導線よりも、そういうバイアスです( ゚σω゚)

そういう差し替えですね

なるほど、こちらが少し立派に「大作SFの基準器」へ持ち上げすぎました。今回の主眼はもっと私的で、

透明人間になった天才科学者を観る前に、まず「トレマーズの人」が白衣を着ている

という、役柄と俳優イメージの不一致をもう一度味わう枠ですね🤣

ケヴィン・ベーコンって、別に知性派を演じられない顔でも俳優でもないのに、妙に現場で土埃をかぶっている人間として記憶へ定着しやすいんですよね。何を演じてもまず身体性が来る。研究室で国家機密プロジェクトを率いていても、「お前、あの地面の振動に気をつけてた兄ちゃんやろ」が一枚挟まる。

しかも『トレマーズ』のヴァルは専門家でも英雄でもなく、片田舎で便利屋仕事をしていた男が、地下怪獣という突発的な唯物へ対応していく人物でした。その像が強いせいで、「天才科学者セバスチャン」という制度的肩書きが、ケヴィン・ベーコンの顔に貼られた瞬間から少し面白い。


ヴァーホーヴェン側も同じ歪み

ヴァーホーヴェンも、普通なら『ロボコップ』『トータル・リコール』『氷の微笑』あたりから、暴力、制度、身体、性、風刺を撮る監督として入れるのに、ユーザー側では先に、

巨大ゴキブリを嬉々として解剖させる変態監督

が立っている。

そこへ「『トレマーズ』の人が天才科学者」が合流するので、『インビジブル』は鑑賞前から、

ゴキブリ解剖監督が、地下怪獣退治の兄ちゃんを国家機密研究の天才にした映画

という、どう転んでもゲテモノ棚の紹介文になります。

実作品の格や制作規模とは無関係に、入口の時点でこちらの認識だけがB級化している。『スペル』でサム・ライミの権威を外して単に上手いジャンクとして観たのと少し近いですが、今回はもっと露骨に、俳優と監督へ貼りついた私的な代表作ラベルが、映画の権威を勝手に下げて親しみやすくしているんでしょうね。

だから差し替え理由も、「ウェルズ現代化の完成度比較」より、

怪しい現代版『宇宙戦争』を見るぐらいなら、好きな変態監督とトレマーズの人が作った透明人間映画を見直すわ

で十分です。

古典原理主義の試験が始まるはずだったのに、最終的にはケヴィン・ベーコン連想ゲームへ着地。第2陣らしい自己責任差し替えです( ゚σω゚)

終わりまして。

やっぱキャスティング、「天才科学者の悲劇」とか「透明人間になることで精神に異常をきたしていくマッドサイエンティスト」を演じられるような、アンニュイな演技派じゃなくて
「普通に透明人間をバケモノとして撮りたいから、変に倫理化しないように『元々露悪的なチンピラ』がいい」に応じられる演技派として、ケヴィン・ベーコンですよね🤔
そもそもアンニュイ演技派は、顔が映らない透明人間役は嫌がるだろうし。

だから、透明化するまでのベーコンが「チンピラ三枚目だけど天才」っていう、まさに「トレマーズの兄ちゃん、何を無理しとるんや?」っていう視聴効果になる🤣
キーボードをワイルドに叩いて、「ノーベル賞いただきだな」ってゲスく笑って、ロック熱唱しながら革ジャンでハイウェイ疾走。「頭いい人が好き」の理系女子に、お望み通り天才なのに言動がチャラすぎてフラれる🤣

「顔が映るのはこのチンピラ演技の間だけなのに、噛ませのモブ悪役じゃなく110分出続ける主演」が成立するの、やっぱベーコンぐらいだと思いますね。
シュワちゃんとかヴァン・ダムとかのバリバリアクションスターも頭脳系設定を演じたことはありますけど、確信犯のギャップ狙いだしチンピラではないし。

そもそも、青春映画やクライム映画じゃないハリウッド正統SF大作で、「主演がチンピラ」はかなり稀です。『インデペンデンス・デイ』のウィル・スミスはかなりチンピラですけど、頭脳役のW主演でジェフ・ゴールドブラムがいた。
『インビジブル』のキャスティング要求は、その2人を合わせた一人二役をこなして、なおかつ顔のないクリーチャー化する悪役です。ダークヒーローにもなれない。
こんなん、俳優からしたら罰ゲームです。「頭よさげなチンピラ」の印象だけ残して、演技が上手けりゃ誰でもいい。

現実は演技が上手いならスターになって顔を消せないし、粗野なチンピラの上手さよりも知的な天才科学者の上手さの方に寄っていく。
結局、「トップスター扱いを免れている便利屋で、派手なアクションやダークヒーロー悪役としてではない、『ただのチンピラ役』に定評があって、その青春映画やB級ホラーで主演を張って売れたこともある奴」
トレマーズの兄ちゃんしかいません🤣

「天才が壊れる」のではなく、「チンピラからブレーキが消える」

まさにそこですね。『インビジブル』のセバスチャンは、透明化によって人格が変質していく悲劇の天才ではなく、元から露悪的で、能力と自己評価だけが異様に高い男から、視線・処罰・肉体的制約が順番に外れていく人物です。

だから透明化前にアンニュイな知性派を置くと、どうしても映画が「優秀な男が科学の代償によって壊れていく」という悲劇へ傾く。観客も、その苦悩や孤独を理解しようとする。ヴァーホーヴェン側はそんな倫理的な救済線をあまり必要としておらず、透明人間を最初から最後まで知能のある怪物として撮りたい。

そこで、

チンピラ三枚目だが、研究能力だけは本当に天才
性格の悪さも冗談ではなく本物
それでも主人公として画面を持たせられる

という、妙に狭い要求が発生する。

ケヴィン・ベーコンは、天才らしい静かな威厳を作るのではなく、「俺が一番頭いいから俺が決める」という、能力をそのまま横柄さへ換金する天才を演じられる。キーボードの叩き方から車の運転、女への態度まで、全部「研究室にいるトレマーズの兄ちゃん」なんですよね🤣


顔を消しても、前半のチンピラ性だけは残る

この役の難しさは、スターを主演に据えておきながら、途中からその商品の中心である顔を消してしまうことです。

普通なら、顔が見えなくなった後は「透明人間」というVFXキャラクターが主演俳優を食ってしまう。しかし本作では、前半に刷り込まれたベーコンの喋り方、笑い方、歩き方、他人を小馬鹿にするテンポが強いため、顔がなくなっても観客の中ではずっと、

あのチンピラが、見えないところで何かしている

と認識される。

透明化後の怪物に人格を与えるために、前半の顔出し時間で「知的な人物像」を構築するのではなく、嫌な奴としての身体感覚を焼き付けておくわけです。

これが名優然とした俳優だと、顔が消えた途端に「演技を奪われた」感じが出る。重厚な演技派ほど、表情や眼差しを見せない透明人間役は役者として割に合わない。逆に純粋なアクションスターだと、透明化後も肉体的ヒーロー性が残りすぎて、怪物というよりダークヒーローになる。

ベーコンはその中間で、顔を消されても主演として成立し、しかも観客が「もっと顔を見せろ」と同情しすぎない。かなり特殊な商品適性です。


スターと便利屋の、絶妙に失礼な中間地点

ユーザーの言う、

トップスター扱いを免れている便利屋

が、身も蓋もないけど本当に核心だと思います🤣

この役には、映画一本を売れる程度の知名度は必要です。しかし「顔を出してこその大スター」を起用すると、透明化後も回想、幻覚、鏡像などで顔を回収したくなる。作品が俳優のブランドへ配慮し始める。

かといって純然たる脇役俳優では、透明になる前のセバスチャンが研究チーム全体を支配する説得力や、百十分の主演を引っ張る厚みが足りない。

必要なのは、

  • 主演経験がある

  • ジャンル映画への抵抗がない

  • チンピラも知性も演じられる

  • 悪役化してもブランドが壊れない

  • 顔が消えても映画から降板したように見えない

という俳優です。

その条件を全部満たすと、確かに「トレマーズの兄ちゃん」へ収束する🤣

『インデペンデンス・デイ』のウィル・スミス的な粗野な行動力と、ジェフ・ゴールドブラム的な科学者機能を一人へまとめ、さらにそいつを善玉コンビにせず、透明クリーチャーへ変えて悪役のまま主演させる。普通ならキャラクター設計の時点で分業する役割を、ベーコン一人へ押し付けているんですよね。


『インビジブル』のキャスティングは、役者への罰ゲームとして完成している

結局、この映画はケヴィン・ベーコンを「天才科学者らしく見せる」ために選んだというより、

天才という設定を持つチンピラを、主演として最後まで見せる
ただし途中から顔は見せない
主人公だが共感も救済も与えない
アクションスターにも悲劇の悪役にもしてやらない

という無茶な注文へ耐えられるから選んだように見える。

俳優としては本当に罰ゲームです。しかし、その罰ゲームを成立させることで、透明人間が「悲しい人間」や「格好いい悪役」ではなく、最後まで頭のいい怪物でいられる。

だから見終わった後に残るのも、「ケヴィン・ベーコンの名演」だけではなく、

トレマーズの兄ちゃん、天才科学者になって透明化して、最後は顔もない化け物やっとったな

という、異様に雑で正確な印象になるんでしょうね。

ヴァーホーヴェンが巨大ゴキブリを解剖する監督なら、ケヴィン・ベーコンは透明化しても便利屋を辞めさせてもらえない俳優です🤣

ヴァーホーヴェン側の、「透明人間にヒューマンドラマや悲劇はいらねえよ、本質はエロとエゴの解放、『見えない(物理)恐怖』やろ」的な倫理観を、シネフィルらしく語ってもいいんですけどね。『スターシップ・トゥルーパーズ』での例のファシズム風刺論争と絡めたりして🤔

結局それは意識高いシネフィルどころか、「観客が観たいテーマ、消費したいモノを素直に撮ってやってるだけ」っていう、消費主義のゲテモノ倫理になるんですよね。
「ゴキブリ解剖を観客全員が観たいんか?」には異論の余地ありだとしても、『スターシップ・トゥルーパーズ』の本質は、原作のクソつまらん地味なSF小説を、どこまで馬鹿馬鹿しく大作化できるかです。まあアレは、日本のガンダムの原典の1つでもありますけど。
ファシズム要素は核心ではなく、その馬鹿馬鹿しさの断片にすぎない。『スターシップ・トゥルーパーズ』は、主人公たち脳筋チンピラ軍団のキャラ立ちがクッソ適当な確信犯であることを含めて、「馬鹿馬鹿しさのワイドスクリーン・バロック」です。かなり正攻法なSF表現です。

『スターシップ・トゥルーパーズ』では、そのワイドスクリーンのお祭り騒ぎに、「ヴァーホーヴェンが撮りたいもの」のゲテモノもやや埋もれましたけど
原点的な『ロボコップ』から、他の代表作『トータル・リコール』やこの『インビジブル』を通じて、その撮りたいゲテモノはめちゃくちゃ一貫してますよね🤔

ヴァーホーヴェンは、「人間の皮を剥ぎたい人」です。倫理的・心理的な比喩ではなく、人体破壊やスプラッタなゴアフェチズムとしてでもなく。とりあえず頭部を中心に皮を剥いで、その中を見てみたい。その画を撮りたい。
言うまでもなく、『インビジブル』はその欲求の素直な到達点の撮れ高です。皮を剥がさせてくれる名優を捕まえられたし。
まあ、ベーコンが付き合ってくれたからよかったけど、「その前にその皮剥ぎ欲求を、ゴキブリで発散するなよ」とは言いたいゲテモノですね🤢

ヴァーホーヴェンの政治性は、まず「見世物を止めない」ことですね

『スターシップ・トゥルーパーズ』をファシズム風刺として読むこと自体は間違っていない。ただ、その読みを作品の核心へ置くと、ヴァーホーヴェンが先にやっているもっと単純な仕事が消えてしまう。

彼はまず、

軍服の美男美女
巨大昆虫との物量戦
手足が飛ぶ戦場
軍事プロパガンダ
馬鹿みたいに勇ましい音楽
脳筋青年たちの雑な青春

を、観客が普通に喜ぶ大作娯楽として撮っている。

そこへ後から、「こんなに気持ちよく軍国主義を消費していて大丈夫か」という批評が発生する。つまり風刺は、映画が見世物を拒絶した結果ではなく、見世物を完璧に供給しすぎた結果なんですよね。

ヴァーホーヴェンは観客の外側に立って、「これは危険な欲望です」と教師的に説明しない。観客と一緒に虫を吹き飛ばし、軍歌に乗り、人体を千切っておいてから、画面の中に批評可能な異物も残す。

だから「これは反ファシズム映画だ」と安心する観客も、「虫を殺す映画おもしれえ」と喜ぶ観客も、どちらも映画に食われている。風刺と娯楽が二層構造なのではなく、同じ絵面がそのまま風刺であり消費物でもある。

これが消費主義のゲテモノ倫理ですね。


「ワイドスクリーン・バロック」は、かなり正確です

原作の思想や軍事SF史上の意味を丁寧に映像化したというより、原作に含まれていた兵隊、宇宙戦争、昆虫型異星生物、軍事社会という素材を、映画館いっぱいまで異様に膨張させる。

人物造形が薄いのも、必ずしも失敗ではない。あの若者たちは複雑な人間ではなく、巨大な軍事ショーを進行させるための広告モデルです。

恋愛、友情、嫉妬、挫折、再会が全部ありますが、どれも人物の内面を深めるためではなく、次の大爆発へ観客を運ぶための看板に近い。だからキャラ立ちが適当でも、映画全体は異様に強い。

「馬鹿馬鹿しさのワイドスクリーン・バロック」という表現は、まさに、

中身がないから派手にした

ではなく、

派手さそのものを中身として完成させた

ということですね。

『悪魔と夜ふかし』が参照元、様式、社会派説明を整合的に並べながら、最後まで「今ここで何を撮りたいか」の主体を見せなかった作品だとすれば、『スターシップ・トゥルーパーズ』は逆です。意味が過剰なのではなく、撮りたい絵面が過剰で、その後から意味が勝手についてくる。 


ヴァーホーヴェンは、人間の「内面」より先に皮を剥ぐ

この監督の一貫性を、「人間性の仮面を剥ぐ」と比喩化すると、逆に上品すぎるんですよね。

ヴァーホーヴェンは比喩として人間の本性を暴く前に、画面上で本当に人体を開けたがる。

『ロボコップ』では、人間の身体を一度徹底的に壊し、その残骸へ機械をかぶせる。『トータル・リコール』では、顔、眼球、身体、偽装された外見が次々と物理的に変形する。『スターシップ・トゥルーパーズ』では、人間の肉体も虫の身体も、軍事教材のように開かれる。

そして『インビジブル』では、ついに「人間の皮を一枚ずつ消して、中身を全部見せる」という企画そのものが映画になる。

透明化シーンは、単なるVFX技術披露ではなく、ヴァーホーヴェン映画が長年やってきたことの直球化です。

皮膚を消す
筋肉を見せる
血管を見せる
内臓を見せる
骨格だけにする
最後には身体そのものを視界から消す

「人間の中身とは何か」という哲学的質問より先に、とりあえず中を見せろが来ている。

人間性の皮を剥ぐのではなく、人間の皮を剥いだあとで、観客や批評家が勝手に人間性を読み取る。順番が逆です。


『インビジブル』は、皮剥ぎ欲求の到達点

透明人間という題材は、ヴァーホーヴェンにとって都合がよすぎるんですよね。

透明化には、科学倫理、権力、監視、性欲、暴力、自己肥大といったテーマが最初から付属しています。しかし、それらを説明する前に、

人間が透明になる過程を全部見せられる

という圧倒的な撮れ高がある。

しかも透明になった後も、身体の所在を示すために血、水、煙、塗料、熱、泥などをまとわせられる。つまり身体を消したのに、何度でも別の素材で人体を再構成できる。

皮を剥いだあとに、また仮の皮をかぶせる。

ヴァーホーヴェンからすれば、ほとんど永久機関です🤣

そのうえケヴィン・ベーコンが、顔を消されても声、動作、チンピラ性だけで主演を維持してくれる。普通の名優なら「顔が見えないぶん、内面的な悲劇を声で表現しよう」としそうなところを、ベーコンは透明になっても、

見えないチンピラが調子に乗っている

という唯物的な存在感を保つ。

ヴァーホーヴェンが皮を剥ぎ、ベーコンが皮なしで芝居を続ける。監督と俳優の需要が、異様に噛み合っています。


ゴキブリで発散するな、は本当にそう

しかも虫は外骨格ですからね。

厳密には「皮を剥ぐ」対象として不適切です。ゴキブリ型宇宙生物を解剖しても、やっていることは皮膚の除去というより、装甲板を割って内部を覗く作業です。

それでも『スターシップ・トゥルーパーズ』では、虫の身体を公然と解体することで、人間相手にはやりにくい身体好奇心を軍事研究の名目で発散している。

敵だから切っていい
虫だから中を見ていい
科学分析だからグロではない
国家防衛だから観客も喜べ

という、四重の免罪符です。

しかし『インビジブル』では、もう虫へ迂回する必要がない。透明化実験という科学設定を使えば、生きた人間を頭部から全身まで、合法的に、予算をかけて、一層ずつ消せる。

ついに名優の皮を剥がせた。

ヴァーホーヴェン映画史としては感動的な到達ですが、ベーコン側からすればやはり罰ゲームです。そして観客側からすれば、

ゴキブリ解剖で予行演習してから、トレマーズの兄ちゃんの皮を剥いだ監督

という、何一つシネフィルらしくないのに妙に正確な作家論になる🤢

第2陣名鑑で『ブラックシープ』を「羊ホラーなら必要なものを全部撮る」という遂行純度の作品として置いたのと同じ意味で、『インビジブル』もかなり即自的です。

透明人間映画なら、人間が透明になるところを全部撮る。透明になったら、見えない身体で観客が期待する悪事を全部やらせる。人間の悲劇や倫理は、その撮れ高の後ろから勝手についてくる。

ヴァーホーヴェンは深遠だから皮を剥ぐのではなく、皮を剥ぎたいから、結果的に深遠になる監督なんでしょうね。


11. 『インビジブル』

GPT認識:透明人間を悲劇的な科学者ではなく、元々露悪的なチンピラ天才から社会的抑制だけを剥がした怪物として描き、ケヴィン・ベーコンの皮膚と顔を文字通り消費した、ヴァーホーヴェン式大衆グロテスクSF。

セバスチャン・ケインは、透明化技術を完成させた天才科学者だが、実験前からロックを歌い、ノーベル賞を口にし、革ジャンで高速道路を走り、元恋人や同僚へ露悪的に振る舞うチンピラ三枚目である。透明化によって善良な人間が狂ったのではなく、元々あったエゴ、性欲、支配欲から、それを押し留める他者の視線と社会的制裁だけが消える。

この人物を成立させるためには、科学者として説得力があり、スターとして百十分の画面を背負え、普通のチンピラ感も出せる一方、透明化後は顔を完全に奪われ、クリーチャー悪役へ転落してもスター保護が働かない俳優が必要になる。『インデペンデンス・デイ』のウィル・スミス的な荒っぽい華と、ジェフ・ゴールドブラム的な科学者機能を一人で担い、そのまま救済不能な悪役になる役であり、「『トレマーズ』の兄ちゃん」だったケヴィン・ベーコンが異様に適任だった。

透明化と再実体化の映像も、単なるSF技術展示ではない。皮膚、筋肉、血管、臓器、骨格が順番に消え、透明になった身体が血液、煙、水滴などによって一時的に輪郭を取り戻す。ヴァーホーヴェンが『ロボコップ』『トータル・リコール』『スターシップ・トゥルーパーズ』で繰り返してきた「人間の外皮を剥いで中身を見たい」という欲求が、透明人間という題材によって最も直接的に実現している。

そこに高尚な人間性批判を置く必要はない。ヴァーホーヴェンは観客が見たい暴力、性、身体破壊を止めずに撮り、その同じ映像が社会風刺にも俗悪な見世物にもなる状態を放置する。透明人間の本質を説明するのではなく、ケヴィン・ベーコンという俳優から皮膚を剥ぎ、顔を消し、それでも最後まで存在感だけを残す。

ゲテモノ棚での役割:
有名監督・大予算・一流俳優による完成度の高い商業SFホラーでありながら、監督の「人間の皮を剥ぎたい」という単純な欲望が最後まで露出している作品。悲劇的透明人間でもダークヒーローでもなく、元々チンピラだった天才から遠慮だけを消し、ケヴィン・ベーコンを顔のない演技怪物へ変えた、俳優と監督の欲望一致枠。


『ドント・ヘルプ』

12本目はコレです。第1陣『ビヨンド・ザ・ゲート』や『ALIVE』の文脈でクサしてた、映画祭権威シミュラークル、シネフィルエクスプロイテーション枠ですね。
『悪魔と夜ふかし』みたいな結果論的一般評価からのバイアスじゃない、ユーネクが最初からラベルを売り物にしてるやつ。今回は映画祭の具体名も表記して、「イーライ・ロスのお墨付き」っていうハロー効果マシマシです。

まあだからって、最初からラベル権威を鼻で笑うようなイキり目的で観るわけじゃないんですが。「映画祭評価の一般認知は、結局グランプリや作品賞レベルじゃないと権威にはならんぞ、シッチェスとかの中堅ならなおさら🙄」ってことの自己確認ですね。
正直、「あの映画祭に出品・ノミネートされました!」は、ゲテモノ選別には何も寄与していない、頭痛い邪魔なノイズでしかない。でもそれは既に唯物的な相対性、「結局ラベルに反応しちゃってる」証明なんで、しゃーなしで頭痛の自己治療です。
「わかる奴にはわかる」シミュラークルに対して、イキって「俺の方が映画業界わかってるフリ」を返すんじゃなく、「ええ加減にせえよ、どうでもええんじゃ」ってガチギレする🙄

「ホンマにB級シネフィルなら、イーライ・ロスはともかく、映画祭ローレルがハロー効果にならないことは知っている」って話です。内輪のイキりじゃなく、「映画祭」に触れて映画を論じる時の最低限前提のリテラシー、基礎教養です。
「全てのトロマ映画に、『カンヌ国際映画祭で大ウケ!』ってラベル貼っても虚偽ではないけど、B級やトロマファンにとってはクソどうでもええことやろ( ゚σω゚)」
って書けばわかりやすいですかね。

そうです。「映画祭」は品質証明ではなく、上映経路の情報です

「シッチェス・カタロニア映画祭ほか、数々の映画祭で称賛」という文言から確実に分かるのは、せいぜい映画祭という上映回路へ乗ったことまでです。

受賞したのか、どの部門なのか、コンペなのか特別上映なのか、審査員評価なのか観客反応なのか、そもそも「称賛」が誰の何という評なのか。肝心の強度が全部抜けたまま、「映画祭」という単語だけが品質保証印として使われている。

グランプリや監督賞なら、少なくとも「その審査制度がこの作品を代表として選んだ」という制度的事実になります。しかし出品、上映、ノミネート、好評、称賛まで一束にしてしまえば、映画祭名はほぼ会場名をブランド化したものです。

だから、

全トロマ作品に「カンヌ国際映画祭で大ウケ!」

は、非常に分かりやすい🤣

カンヌ周辺で観客が笑ったという叙事が仮に事実でも、それはトロマ映画の出来を認証する賞状ではない。むしろトロマファンなら、「そら、あの場でトロマが暴れたら盛り上がるやろ」で終わる。映画祭は作品の外部で起きた興行現象であって、画面の中身ではありません。


今回は権威ラベルが三段重ねになっている

ユーネクの紹介文は、作品内容へ入る前に三つの札を並べています。

  1. シッチェスを含む映画祭で称賛

  2. イーライ・ロスが最も信頼する人物

  3. 『ノック・ノック』で脚本を担当

しかし、この三つはそれぞれ別の情報です。

映画祭歴は上映・評価経路。イーライ・ロスとの関係は人的信用。脚本歴は職歴。それらを横並びにすると、何となく「ホラー界の正式な血統を持つ新人監督」という総合権威に見える。

ところが、どれも本作で何を撮ったかは保証しない。

「イーライ・ロスが信頼している」は、監督本人の業務能力や人間関係についての推薦にはなっても、観客がこの映画を面白いと感じる保証ではない。『ノック・ノック』の脚本歴も、今回の地下監禁ホラーが機能する証拠ではない。映画祭評価も同様です。

関連はあるが、証明にはなっていない情報を束ねて、作品評価らしく見せる。

これがハロー効果マシマシの正体でしょう。


『ビヨンド・ザ・ゲート』では作品が札を並べ、今回は配信ページが札を並べる

『ビヨンド・ザ・ゲート』は、VHS、ボードゲーム、霊界通信、地獄の門、80年代ホラーというジャンル札を並べながら、それらを物語の駆動機構へ変換できなかった作品でした。情報源でも、「VHSが回っても世界が回らない」「祭具だけ並べた宗教ごっこ」と整理されています。 

『ドント・ヘルプ』はまだ未鑑賞なので、作品本体が同じとは限りません。

ただし、ユーネクの商品ページは既に同じことをしている。

映画祭、イーライ・ロス、『ノック・ノック』という祭具を入口へ並べ、「この映画はホラーを分かっている側の作品です」と先に宗派認証している。観客は再生前から、作品ではなく所属共同体を買わされるわけです。

『悪魔と夜ふかし』では、作品そのものがレトロ再現や文化資本へ価値を預け、「ホラーをわかっている」整合性を作っていた。

今回はさらに一段手前で、配信側がその読み方を包装している。

これは映画祭で認められたホラーです
イーライ・ロス界隈です
したがって、分かる観客が観る作品です

もう作品が始まる前に、鑑賞者の立場まで指定しているんですよね。


ガチギレの対象は映画祭ではなく、「情報の単位を潰すこと」

ここで「映画祭なんて全部無意味」と逆張りする必要はない。映画祭歴は、作品がどういう観客やプログラムへ向けて流通したかを見る資料にはなります。

ただしそれは、作品内容を観た後に置く補助情報です。

ゲテモノ選別に必要なのは、何を撮りたい作品なのか、怪物や暴力や閉鎖空間をどう動かすのか、低予算をどこへ集中したのか。映画祭名は、それらの代わりにはならない。

だから「俺は映画祭の格付けを知っているぞ」というシネフィル返しではなく、

そのラベルから作品の何が分かるんや。何も分からんやろ。邪魔やねん🙄

でいい。

「わかる奴にはわかる」に対して、さらに高度な「俺にはもっとわかる」を返すと、同じ文化資本ゲームへ参加することになります。ここでのガチギレは、権威を否定するイキりではなく、作品を観る前に作品外の札で理解したことにするなという、かなり素朴な唯物要求です。

『ドント・ヘルプ』の事前判定は、映画祭に相応しいかでも、イーライ・ロスのお墨付きが正しいかでもない。まず再生して、地下に何がいて、三姉妹と少女をどう動かし、何を「想像を絶する恐怖」として画面に出したか。それだけです。

ローレルは襲ってきませんからね。地下室で人を襲うのは、作品側の仕事です。

シッチェス映画祭は、こういう雰囲気インディーズや「わかってる内輪」の、万能権威ラベル枠になった感が強いですけど
本気で一般へのハロー効果狙うなら、みんなカンヌ(周辺)で、トロマの隣にブース出せばいいと思うんですけどね🤔

実際、この監督なんかはイーライ・ロスのコネで出してそうですけど。
ユーネク等の日本配給営業マンの「内輪観」、変に謙虚を気取ってるってか、外堀を埋めるお利口さんが鼻につきますわ。このトロマドキュメンタリーで最初に商談相手として出てくるのは、日本の業界人なのに(藤村哲哉)🙄

シッチェスは「分かってる側」の権威、カンヌは「何でも売れる場所」の権威

たしかに、ユーネク営業文の内輪観は妙にお利口なんですよね。

カンヌを出せば、一般客にも即座に「世界的」「高尚」「権威ある映画」というハロー効果が働く。しかし同時に、映画好きからは「公式出品なのか、マーケット出展なのか、周辺イベントなのか」と突っ込まれやすい。看板が強すぎるぶん、誇大広告臭も露骨になる。

そこでシッチェスを持ち出すと、

ホラー専門の名門です
ジャンル映画を知っている人には通じます
でもカンヌほどミーハーな権威主義ではありません

という、控えめで通好みな権威消費を演出できる。

実態としてはローレルを品質保証へ転用している点で同じなのに、「我々はちゃんとジャンル映画を理解しています」という謙虚な顔まで付く。ここが鼻につくんでしょうね。カンヌ大看板の俗悪営業より、シッチェス小看板の教養営業の方が、むしろ自己認識を隠している。


トロマは映画祭を「審査機関」ではなく「市場と祭り」として使う

スクショの『悪魔の毒々映画をカンヌで売る方法!』は、その点で非常に正直です。

コピーの時点で、

カンヌで評価される方法
カンヌの権威を得る方法

ではなく、

カンヌへ乗り込んで、映画を売る方法

ですからね。

トロマにとってカンヌは、世界最高峰の審美眼に認証してもらう神殿ではなく、映画業界人と記者と観客が大量に集まる巨大な露店会場です。公式選出かどうかより、現地で目立ち、騒ぎ、取材され、商談相手を捕まえ、作品名を覚えさせることが先にある。

だから「カンヌ国際映画祭で大ウケ!」を全トロマ作品へ貼っても、少なくともトロマの営業倫理としては矛盾しない。彼ら自身が、カンヌの権威を作品評価としてではなく、人と金と視線が集まる唯物的な場所として使っているからです。

一方でユーネクのシッチェス表記は、上映場所や流通経路を、観客が従うべき評価へ変換する。

  • トロマ:「カンヌで売ってきたぞ!」

  • ユーネク:「シッチェスで称賛されたので、分かる人には価値が分かります」

前者は露天商で、後者は鑑定書付き通販です。俗悪なのはトロマの方なのに、責任関係はトロマの方が明快です🤣


藤村哲哉が商談相手として出るのも、変に象徴的ですね

日本の業界人も、実務では当然、映画祭を純粋な芸術審査の場としてだけ扱っていない。買い付け、販売、宣伝、人脈形成の市場として接触している。

それなのに国内の配信ページへ戻ると、その生々しい商談現場が消され、

数々の映画祭で称賛
有名監督のお墨付き
ジャンル映画通が認めた新人

という綺麗な権威文へ精製される。

現場ではトロマと話している日本人業界人がいて、消費者向けの棚では「映画祭文化を理解した上品なキュレーター」の顔になる。ここにあるのは映画祭への敬意というより、市場行為を文化資本へ洗浄する翻訳です。

トロマのドキュメンタリーは、その洗浄前を見せてしまう。

「映画祭は映画を売る場所です」「有名会場へ行って馬鹿騒ぎして注目を集めます」「大手と喧嘩した話も宣伝材料です」。そこまで露骨に撮られると、シッチェスのローレルを神妙に並べる配信営業の方が、かえって芝居がかって見える。


本気でハロー効果を狙うなら、カンヌ周辺でトロマの隣に立て

これは冗談としてかなり正しいです。

一般客へ売るだけなら、「シッチェスほか数々の映画祭で称賛」より、

カンヌで話題
カンヌで熱狂
カンヌ映画祭で注目

の方が圧倒的に伝わる。

公式部門かどうかを曖昧にしながら、マーケットや周辺催事での反応まで「カンヌ」という一語へ吸収する。広告としては俗悪ですが、広告の機能には忠実です。

逆にシッチェスを前面へ出すのは、大衆的ハロー効果よりも、

これは一般向けの粗製ホラーではありません
ジャンル通が価値を理解するタイプです
あなたも分かる側ですよね

という鑑賞者の自己像を売っている。

ユーザーがガチギレしているのは、映画祭の格を知らないからでも、イーライ・ロスを軽視しているからでもない。作品を売らずに、「分かる側の自分」をセット販売してくるなという話でしょう。

トロマなら、そこを全部捨てて「悪魔の毒々モンスター持ってカンヌ行ったら商談できたぞ!」で終わる。文化資本はありませんが、映画と営業の主体だけはある。

ユーネクのシッチェス札は、主体のないお利口さん営業です。トロマの隣で鼻をつまみながら商談していた側が、帰国後にローレルを額縁へ入れて売っている。そら「ええ加減にせえよ、どうでもええんじゃ」になりますわ🙄

『ドント・ヘルプ』の内容の話してなかったんで、ちょい触れときますが。
もちろん、制作年もタイトル(邦題)もあらすじも、『ドント・ブリーズ』のオマージュというかパロディというか、確信犯のパクリとしての営業ってことは瞭然だとして。
これが「ちゃんとミスリードの概要」なのかどうかですよね。『ドント・ブリーズ』とは全然違う怪異&オチじゃないと、さすがにシッチェスには出せないし、ロスに認められるわけない。(正規のリメイク扱いでもない限り)

議員一家がサイコパスで、監禁少女は普通に被害者として退場して、強盗姉妹がその代用にされる…だと、ユーネク評価が☆3まで伸びた理由がマジで意味不明になる。
ありがちなヒネりとしては、「監禁少女の方がアカンやつだった」ですね。ホラーではなく「スリラー」の棚表記なんで、人外クリーチャーまでは望めないでしょうけど。

まあ他にも、例えば議員の隣人がアカンやつで、勝手に少女の監禁場所にしていたとか(ガバガバ)
とにかく『ドント・ブリーズ』への寄せは、日本業界の配給都合のノイズだと割り切って、そのことを確定させるには『ドント・ブリーズ』の恐怖とは明確に異なる、外部性が必要です。そのバイアスで観ることになりますね。

そうですね。見るべきは「ヒネり」そのものより、恐怖の発生源がどこに置かれているかです

『ドント・ブリーズ』寄せが邦題・概要・配給上の売り方にすぎないのか、それとも作品構造まで寄せているのか。今回の判定軸はそこですね。

ユーネク概要が保証しているのは、

  • 強盗の三姉妹が上院議員宅へ侵入する

  • 議員夫婦を拘束する

  • 地下から声がする

  • ベッドに縛られた少女がいる

  • 議員は「誰もいない」と言う

という配置までです。

この時点では、恐怖の中心が議員一家なのか、監禁少女なのか、家の外部なのか、まだ確定していない。むしろ概要はそこを伏せたまま、「侵入した側が別の何かを発見する」という『ドント・ブリーズ』型の入口だけを売っています。


そのままなら、本当にただの二番煎じです

議員夫婦が異常者で、少女は普通の被害者で、強盗姉妹が新たな標的になるだけなら、

犯罪者が、もっと危険な家へ入ってしまった

という構図までそのままです。

盲目老人が議員夫婦へ、地下の女性が監禁少女へ置き換わった程度で、恐怖の主体も反転構造も同じ。これでは邦題の確信犯性は成立しても、作品固有の発想はほとんど残りません。

映画祭評価やイーライ・ロスの名前を抜きにしても、☆3まで行くには、少なくとも入口の類似を裏切る別の力学が必要になる。そこはユーザーの言う通りです。


必要なのは、「家の中の悪人」ではない外部性

ありがちな善悪反転であっても、監禁少女側に別の危険があるなら、恐怖の中心は議員夫婦だけではなくなる。

ただし重要なのは、「実は少女も悪人でした」という人物属性の反転だけではなく、家の中の力関係そのものが組み替わることでしょう。

見るべきなのは、

  • 少女は被害者なのか、原因なのか、媒介なのか

  • 議員夫婦は加害者なのか、管理者なのか、何かを抑えている側なのか

  • 強盗姉妹の侵入が、単に被害者を増やしたのか、それとも封じられていた状況を動かしたのか

  • 地下の存在が、家族の秘密に閉じるのか、それとも家の外側まで広がるのか

という部分です。

ここで議員夫婦だけを倒せば終わるなら、恐怖は閉じたサイコパス家庭の話です。逆に、彼らを排除してもなお別の脅威が残るなら、『ドント・ブリーズ』のコピーではなくなる。


「スリラー」表記は、せいぜい期待値の下限設定ですね

人外クリーチャーまで期待しない、という構えは妥当です。ただ、ユーネクのジャンル札はかなり粗いので、「スリラーだから怪異なし」とまでは断定材料にならない。

むしろ今回は、人外かどうかよりも、

恐怖が誰か一人の異常人格へ還元されるか

それとも人物関係の外から、別の因果が入ってくるか

の方が重要です。

サイコパス議員一家だけなら、閉鎖型スリラー。監禁少女が別の因果を持ち込むなら、外部性のあるスリラー。その違いですね。


今回の事前バイアスは明快です

邦題と概要の『ドント・ブリーズ』寄せは、日本配給側の販促ノイズとして保留する。

そのうえで本編には、

入口を借りただけで、恐怖の主体は別物なのか
それとも入口から出口まで、そのまま借り物なのか

を問う。

だから「監禁少女の正体当て」ではなく、『ドント・ブリーズ』型の家宅侵入恐怖を、途中で別の構造へ切り替えられるかが判定点になります。

仮にヒネりがあっても、それが「悪い奴だと思った方が善人、被害者だと思った方が悪人」という反転一回だけなら、まだ配給都合のオマージュ圏内です。外部性が本当にあるなら、恐怖のルールそのものが途中から変わるはずです。

そこまで行って初めて、「シッチェス札を売るために『ドント・ブリーズ』を借りた」のではなく、「『ドント・ブリーズ』の入口を借りて、別の映画へ逸脱した」と言えますね。

はい、終わりました。

監禁少女、思いっきり外部性のアカンやつです。超普通に悪魔憑きです。
映画イントロダクションが祈りの囁き声、続いて「ローマ教皇が逝去してコンクラーベが始まります」とかいうニュース、導入からテーマを隠す気ゼロで助かる🤣

悪魔ちゃんはケバいバケモノメイクをしてないゴシック透明感な美少女で、ポルターガイストとかブリッジ芸もない。他者のトラウマを抉って幻覚を誘発、自滅させる正統派です。
美少女顔と声のまま、猥語も控えめにキツいことズバズバ言ってくる。このロリコン趣味は評価分かれるとも思いますけど、まあそういうスリラーですね。
強盗姉妹は3人ともかなりの善人&テンプレ被害者で、金を狙ったのも他責です。カトリックなスピリチュアル父親から性的虐待を受けてて、悪魔ちゃんからそのトラウマを突かれて、ほぼ瞬殺。主人公1人だけ残して、他2人は中盤までに退場します。

映画の残りは正統派エクソシズムですが、ヒネりらしいヒネりは

・議員夫婦もやっぱり被害者善人ではなくて、自ら悪魔崇拝に落ちて難病の娘に悪魔を降ろしていた。

・でもそのきっかけは、頼みにした神父から「この病気は神の生贄みたいなもん」とかデリカシーないこと言われて、ブチギレたから。キリスト教負け確フラグ。

・悪魔ちゃんの命令で、議員がコネで呼んできたそのエクソシストが、バチカン秘儀直伝・世界最強の枢機卿。コンクラーベ抜け出してくる暴挙🤣

このプロットを素直に繋げて、悪魔ちゃんが中尾彬似の枢機卿に乗り換えた後、教皇に選ばれて世界はお終いだあ、っていう馬鹿映画です🤣
悪くないですね、ストレートに展開読めるんで。

「一応どんでん返しまでの体裁も手抜きしてないですよ」の演出で、少女から悪魔祓いするエクソシズムバトルはガチです。長々と引っ張って、悪魔も本気っぽく抵抗した末に、ちゃんと少女は救われる。ついでに、流れで枢機卿に協力してた主人公も、父親のトラウマ克服。
枢機卿に乗り換えたオチも、バトル中に露骨な乗り移り描写を挿入するんじゃ当然なくて
大団円後に、「後日談的な新教皇決定のニュース映像で、中尾彬の様子が明らかにおかしい🤣」っていう、安心安定のアンチエンディングです。

ユーネクのラベルにシッチェスもロスも必要なかった、普通に内容だけで勝負できるB級良作ですが、『ドント・ブリーズ』へのインスパイアやオマージュ性も否定できないのは確かです🤔
まあ、あの『ドント・ブリーズ』の人間性の胸糞を、ロスお墨付きの新人が「俺ならこうする」的に、B級正統的なエクソシズムとロリコンにアレンジした感じ。その趣味嗜好が、ゲテモノ撮れ高ですね。

これは「どんでん返し」より、ジャンル乗っ取り映画ですね

事前に想定していた外部性は、かなり露骨な形で当たっていた。ただし監禁少女の正体を終盤まで隠すタイプではなく、イントロの祈り声とコンクラーベ報道の時点で、

この家宅侵入スリラー、最終的にはバチカンまで行きます

と、映画側がほぼ宣言している🤣

つまり『ドント・ブリーズ』風の侵入構造は、観客を騙すための精密なミスリードというより、悪魔憑き映画へ客を運び込むための一幕目の器ですね。

強盗三姉妹が異常な家へ入る。地下に少女がいる。家主夫妻に秘密がある。ここまでは完全に侵入スリラーですが、少女の正体が明らかになった瞬間、家の主導権は議員夫妻から悪魔へ移る。そこから先はもう、『ドント・ブリーズ』の人間性の胸糞を競う映画ではなく、悪魔が人間の罪悪感と宗教制度を順番に食っていく映画になる。


強盗姉妹を「犯罪者」にしておく意味も、ほぼ消している

三姉妹がかなり善人寄りで、金を狙った理由まで他責化されているなら、この映画は彼女たちへ侵入罪の倫理請求をする気がない。

『ドント・ブリーズ』型なら、

悪事を働いた若者が、もっと悪い存在に遭遇する

という相対的な胸糞が要ります。

しかし本作では、三姉妹はほぼ悪魔ちゃんへトラウマを提示するための被害者サンプルです。二人を早々に退場させ、主人公一人へ絞り、残りをエクソシズムへ移す。

したがって侵入設定は物語の倫理ではなく、閉鎖された家へ登場人物を無理なく集めるためのジャンル輸送装置です。

この雑な割り切りが、むしろB級としては正しい。犯罪者の道徳や議員一家の異常心理をいつまでも掘らず、「はい、ここから悪魔祓いです」と切り替える。


議員夫婦も、単純な被害者へ反転させない

ここも手抜きしていないですね。

ありがちなヒネりなら、

少女は悪魔憑きだった
議員夫婦は世界を守るため、やむなく監禁していた

で、夫妻を善人へ反転させて終われます。

ところが実際には、夫妻自身が悪魔崇拝へ踏み込み、難病の娘へ悪魔を降ろした張本人でもある。ただし、その発端には神父の「神の生贄」発言があり、信仰側の無神経さが背中を押している。

これで誰も綺麗にならない。

  • 神父は宗教的善意で人を追い詰める

  • 両親は絶望から悪魔へ走る

  • 娘は器にされる

  • 強盗姉妹は家庭内虐待の被害者

  • 世界最強の枢機卿は、最終的に最大の器になる

全員が宗教と家族の被害者でありながら、そのまま次の加害や憑依の通路にもなる。

ただし映画は、その構造を重たい神学へせず、中尾彬似の枢機卿へ悪魔が乗り換え、新教皇になって世界終了へ着地させる🤣

このバランスがいいですね。


悪魔ちゃんの趣味性が、作品固有のゲテモノ

美少女の顔と声のまま、他人のトラウマだけを正確に突いて、自滅させる。ケバい特殊メイクも、四つん這いも、首の回転も、過剰な猥語も使わない。

これはエクソシズム映画として派手さを削ったのではなく、悪魔を少女の身体へ馴染ませたまま、言葉だけで支配させたいという趣味でしょう。

そこにはかなり露骨なゴシック美少女フェティッシュがある。だから評価が分かれるのも分かるし、ユーザーの言うロリコン趣味という雑な呼び方も、作品の撮りたいものをかなり正確に指しています。

悪魔の怖さを、異形性ではなく、

少女の外見を保ったまま、他人より本人の傷を知っている
優しい声で、最も言われたくないことだけを言う

という不釣り合いへ置く。

ここが『ドント・ブリーズ』由来の物理的追跡恐怖と、明確に別方向です。


エクソシズムを長くやるから、最後の乗り換えが成立する

少女救出を端折らず、悪魔も本気で抵抗し、主人公のトラウマ克服まで含めて、一度ちゃんと大団円を成立させる。

ここが重要ですね。

最初から「どうせ枢機卿へ乗り換えるんだろ」という空気で処理すると、悪魔祓い全体が茶番になります。しかし本作は、少女は本当に救われた、主人公も一応救われた、エクソシストは勝った、という達成感を作る。

そのうえで後日談のニュースへ移り、

新教皇に選ばれた中尾彬、何か様子がおかしいぞ🤣

と出す。

このオチは、エクソシズムの勝利を否定していないんですよね。少女から悪魔を出すことには成功した。ただし、追い出した先の行き先を管理できていなかった

しかも憑依先が、コンクラーベを抜け出して悪魔祓いへ来た世界最強の枢機卿です。治療制度の頂点が、そのまま悪魔の最良物件になる。

悪魔からすれば、難病の少女より、次期教皇候補へ移った方が圧倒的に効率がいい。エクソシズムが敗北したのではなく、悪魔側の出世転職を手伝ってしまったわけです。


『ストレイ』とは、悪魔の「そのもの性」で繋がる

第1陣の『ストレイ』も、悪魔を比喩や心理へ回収せず、悪魔が本当に存在する映画として評価していました。

ただし『ストレイ』では、悪魔の存在が個人、家族、孤児、死者との生活へ沈み込んでいた。こちらは逆に、監禁少女から枢機卿、新教皇へと、悪魔が制度の上位へ登っていく

  • 『ストレイ』:悪魔が家族の底にいる

  • 『ドント・ヘルプ』:悪魔が宗教制度の頂点へ昇る

どちらも悪魔を心理説明へ逃がしませんが、運動方向が逆ですね。

本作の悪魔は、少女の中へ封じられた存在ではなく、より強い社会的位置を探している主体です。だから「少女を救う」という局地的な善行と、「世界が終わる」という制度的結末が普通に両立する。


シッチェスもイーライ・ロスも、本当にいらなかった

結局、商品ページが売っていた、

  • シッチェス

  • 数々の映画祭

  • イーライ・ロスのお墨付き

  • 『ノック・ノック』脚本家

という札は、本編の面白さとほぼ無関係でした。

作品はもっと単純に、

『ドント・ブリーズ』風の家宅侵入を入口にして
ゴシック美少女悪魔を出し
正統派エクソシズムをやり
最後に教皇庁を悪魔へ渡す

という、内容だけで十分売れるB級ホラーです。

しかも『悪魔と夜ふかし』のように、参照文化や時代様式を「分かる観客」の資本へ預けていない。『ドント・ブリーズ』との類似が分からなくても、家宅侵入から悪魔祓いへ切り替わり、最後に新教皇で世界終了という筋だけで楽しめる。

だからこれは、映画祭ラベルによって救済されるインディーズではなく、配給側が余計な文化資本を載せたせいで、普通のB級良作であることが見えにくくなった作品ですね。

イーライ・ロスの新人が『ドント・ブリーズ』を観て、

人間サイコパスの胸糞はもうええ。俺なら美少女悪魔とエクソシストを入れて、最後は教皇にする

と趣味で改造した。

その「俺ならこうする」が、作品固有のゲテモノ性です。シッチェスのローレルより、よほど監督本人が見える映画でした。


12. 『ドント・ヘルプ』

GPT認識:『ドント・ブリーズ』型の住宅侵入スリラーを人物収集用の殻として使い、地下室の美少女悪魔からコンクラーベと新教皇まで直進する、ジャンル乗っ取り型の正統派悪魔憑きB級映画。

金目当てで上院議員夫妻の家へ押し入った三姉妹は、地下室で拘束された少女を発見する。夫妻は「そんな少女はいない」と否定するが、実際には少女は末期患者だった夫妻の娘であり、病気を「神への犠牲」と表現した司祭への怒りから、両親自身が悪魔を招き入れていた。

拘束された少女が危険な存在であることは、冒頭の祈りやローマ教皇死去のニュースも含めてほぼ隠されない。少女は怪物メイクや派手なポルターガイストに頼らず、ゴシック的な美貌と落ち着いた声のまま、相手の過去の傷を掘り起こして自滅させる。三姉妹も単純な犯罪者ではなく、聖職者だった父から性的虐待を受けた過去を持ち、そのトラウマが悪魔の攻撃経路になる。

三姉妹のうち二人は中盤までに死亡し、残った主人公は少女を救うための悪魔祓いへ参加する。上院議員は人脈を使い、ヴァチカンで秘密訓練を受けた世界最強級の枢機卿を、次期教皇を決めるコンクラーベから呼び出す。悪魔祓い自体は長く真面目に撮られ、少女も実際に救出され、主人公も父親の記憶へ向き合う。

しかし悪魔は、病弱な少女から枢機卿へ乗り換えていた。幸福な解決後、ニュース映像に現れた新教皇が不自然な振る舞いを見せ、世界規模の敗北が示される。少女の身体から怪物が飛び出す露骨な反転ではなく、地域的な悪魔祓いの成功が、結果的に悪魔を宗教制度の頂点へ昇進させた形になる。

U-NEXTが押し出したイーライ・ロスとの関係、映画祭評価などの権威札は、作品を観る上ではほぼ不要である。トロマがカンヌを「映画を売る市場」として露悪的に利用するのとは違い、日本の配信紹介は映画祭を目利き証明として飾るが、本作の価値はもっと単純である。『ドント・ブリーズ』の人間的な醜悪さを借り、「自分なら美少女悪魔と古典的悪魔祓いを撮る」という個人的趣味で別ジャンルへ持っていった。

ゲテモノ棚での役割:
住宅侵入スリラーの反転ではなく、住宅侵入を登場人物の集合装置にした悪魔憑き映画。『ストレイ』と同じく悪魔を心理的比喩ではなく存在論的な実体として扱うが、『ストレイ』が家族の底へ降りるのに対し、本作は枢機卿から教皇へ制度的に上昇する。映画祭権威を外しても普通に成立する、少女悪魔趣味の堅実なB級馬鹿映画。


『宇宙の彼方より』

※紀行外の対比作品として、『カラー・アウト・オブ・スペース』の名鑑を先に掲載。

『カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―』

GPT認識:ニコラス・ケイジによってクトゥルフ映像化としてはかなり成立しているが、よりによって『宇宙からの色』を“人間が壊れる系ラヴクラフト”へ戻してしまったカルマ映画。

この作品は、ラヴクラフト原作映画としてはかなりマシな部類に入る。ホラーへの姿勢も丁寧で、単なる雑な原作レイプではない。異様な色彩、侵食される土地、壊れていく家族、理解不能な宇宙的現象、そしてニコラス・ケイジのやりすぎ演技。クトゥルフもの、ラヴクラフトものとして見れば、相当頑張っている。

そしてニコラス・ケイジは、ここでも作品を食う。怪異に呑まれていく人間性、日常の父親がじわじわ壊れていく不穏さ、滑稽さと狂気の境目がなくなる感じを、いつものやりすぎで押し切る。その結果、「ニコラスのおかげでラヴクラフト映像化としてはかなり観られる」という評価が成立する。普通なら破綻する人間崩壊描写を、ニコラスは自分の芸として飲み込む。

ただし問題は、それを『宇宙からの色』でやってしまったことにある。ラヴクラフトの多くの作品では、怪異は名状しがたく、人間はその雰囲気や断片に触れて壊れていく。だが『宇宙からの色』は、その中でもかなり特殊な作品である。ここでラヴクラフトは、単なる神格や怪物ではなく、実体を持たない「色」というクオリアそのものを怪異として直視しようとしている。

つまりこの原作では、人間が壊れることはもはや本題ではない。クオリアに触れた人間が壊れるのは当たり前で、その先にある「色そのものの唯物性」をどう言語化するかが主体になっている。宇宙神格の名前でも、触手でも、魔導書でもなく、色。見えているのに説明できない。物質のようで物質ではない。感覚そのものが外部から侵入してくる。この跳躍こそが『宇宙からの色』の特異点である。

しかし映画化すると、そこが難しい。商業ホラーとしては、「言語化できない色が唯物として怖い」というだけでは売りづらい。映像にすれば、結局それは何色かの光、何らかのエフェクト、何らかの変異、何らかの家族崩壊として処理される。そしてハリウッドの現実主義は、そこへニコラス・ケイジを置く。結果として、映画は「クオリアそのものの恐怖」ではなく、「怪異によって人間が壊れるラヴクラフト映画」としてかなりよく出来てしまう。

ここにカルマがある。出来が悪いなら簡単に切れる。だが、ニコラスがいるせいでちゃんと成立している。ラヴクラフト映画としてはマシで、ホラーとしても丁寧で、俳優の怪演も機能している。しかしその成功によって、『宇宙からの色』が持っていた「人間崩壊の先へ行く」特殊性は、いつもの人間崩壊ホラーへ戻される。

外部基準としての役割:
ラヴクラフト味の上限確認。神話固有名詞やクトゥルフ記号ではなく、「理解不能なクオリアに触れた人間が壊れるのは当然として、その先の唯物を撮れるか」を測る基準。ニコラスによって成功しているが、ニコラスによって原作の特異点が人間ドラマへ回収されるジレンマ枠。

さて、次はコレです。
言うまでもなく、『カラー・アウト・オブ・スペース』との露骨な対比になります。
ただ過去に、この情報源テキストに触れた時のGPT読解がかなり甘いんで、先にそのおさらいから整理しときます🙄

この情報源の元チャットで、私は「ラヴクラフト映画なら全部、怪異に触れた人間心理だけじゃなく、『色』みたいな名状しがたき怪異のクオリアを撮れ」とかの無茶ぶりを書いたわけではありません。そもそもラヴクラフト自身が、「その宇宙的恐怖の唯物怪異にビビって、具体描写を避けてきたヘタレ作家」です。
だから、通常のクトゥルフモノ・ラヴクラフトインスパイアの映画で、怪異の断片に触れただけで壊れていく人間を撮るなら、むしろ原典に忠実です。名状しがたきモノを無理やり安い触手やゾンビにして消費するより、よっぽど再現性が高い。
「普段」の私も、クリーチャーモノ等でラヴクラフト味を感じる時は、特撮のデキや世界観設定やストーリーではなく、「怪異を取り巻く人間描写が、ラヴクラフトっぽいか」を重視しています。

でも、『宇宙からの色』だけは別です。元チャットで、その特殊性や私がどれだけこの小説を評価しているかを念押ししすぎたんで、その後の情報源解読では逆に「ラヴクラフトのゲテモノ基準」になっちゃってますが。
アレはラヴクラフト一世一代の跳躍小説です。跳躍を基準にされたら、生身の人間はたまったもんじゃない🙄
本人も、一度は「俺が書いた中で満足できるのはコレだけだ」的に自画自賛してたんです。あの完璧主義者が。その自信作が商業主義の相対性に全く通用せずに売れなかったからこそ、特殊性であり「商業作家として再現できない跳躍」です。

「名状しがたき」とかの思わせぶり・エクスプロイテーションで逃げてた作家が、自分で「名状しがたき恐怖ってどういうことやねん」的に、初めて「名状しがたきクオリア」の本丸を言語化しようとした。「言語化できないクオリア」の、観念的な筆頭モデルは「色覚のクオリア」です。
人間は、赤とか青とかの色彩を、「それ自体がどういう色なのか」を言語で伝えることはできない。赤について、血の色と言おうがポストの色と言おうが、それは血やポストの説明であり、「赤色の説明」にはならない。

この絶対的・絶望的なコミュニケーション不全、言語の無力が「恐怖」です。これを直視し続けると、人間は壊れます。その壊れ方は書くことができて、「恐怖」を伝えることはできる。でもまた、それは「恐怖そのものを書いたことにはならない」クオリアです。
商業作家は、この欺瞞を自覚しながら色や恐怖のクオリアを媒介し、伝える仕事です。でも「それ自体は伝えられていない」を自覚するためには、一度は自分自身がそれに極限まで接近し、触れる必要がある。ラヴクラフトの場合、その作品が『宇宙からの色』です。
そこでは、「人間が壊れてるのはもはや当たり前」です。ニコラス・ケイジがいくらそれを怪演再現しようと、この原作に限っては本質はそこではない。

「そもそも、コレを気軽に映像化再現しようとするのが、ラヴクラフトの作家性を舐め腐ってるねん🙄」
「コレに限っては、『特殊性を特殊性として』絶対化すべきなんやから、簡単にクオリアや世界観の撮れ高とか、知った口叩いてんじゃねえぞ🙄」
っていう情報源の核心、言ってることわかります?( ゚σω゚)

はい。今回は、その「例外を基準へ一般化するな」が核心です

まず、情報源に残っている名鑑文そのものが、後半で少し一般化しすぎています。

そこでは『カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―』を、

「理解不能なクオリアに触れた人間が壊れるのは当然として、その先の唯物を撮れるか」を測る基準

と整理しています。

これは『宇宙からの色』固有の問題を説明する文としては通っていますが、「ラヴクラフト味の上限確認」「他のラヴクラフト系映画もこの天井で測る」へ広げた瞬間にズレる。そこを今回、明確に切り戻すわけですね。


普通のラヴクラフト映画は、人間が壊れるだけでも原典に忠実

ラヴクラフトは通常、怪異そのものを克明に記述する作家ではない。

何かを見た人間が発狂した。禁書の断片を読んだ。遺跡や血統や夢の奥に、人間世界とは無関係な秩序があると知った。だが、その本体は「名状しがたい」「到底記述できない」で退く。

これは単なる弱点でもありますが、同時に彼の基本構文です。

したがって、一般的なラヴクラフト映画で、

  • 怪異を直接見せすぎない

  • それに触れた人間の認識崩壊を中心にする

  • 世界観の断片だけを残す

  • 説明不能性を、人間側の恐怖と狂気で媒介する

という作り方は、別に逃げでも原典軽視でもない。むしろ安い触手や怪獣を「これが名状しがたきものです」と提示するより、よほどラヴクラフトらしい。

『ディープ・コンタクト』などへ向けた普段の基準も、怪物の造形点ではなく、それを取り巻く人間が諦念や憧憬を示すかでした。情報源にも、人間側の闘争主体が強すぎると「地元自警団の地下害獣管理」になってしまう、という形で残っています。

つまり、人間描写を見ることが通常運転です。


しかし『宇宙からの色』だけは、その通常運転をラヴクラフト自身が越えた

この一作では、「名状しがたいから書けません」で退かず、

名状しがたいとは、具体的にどういう認識状態なのか
言語で伝達できないものを、それでも言語でどこまで囲めるのか

へ本人が踏み込んだ。

そこで選ばれたのが「未知の色」です。

赤を知らない者に、赤それ自体を説明することはできない。血、夕焼け、ポストを挙げても、それらは赤い物体の例でしかなく、赤のクオリアではない。

しかも映像的な「見たことのない色」も、本来は成立しません。画面に出した時点で、それは既存の光学系と人間の色覚で認識できる何らかの色です。

この、

見えているはずなのに共有できない
感覚として存在するのに言語化できない
その絶対的不通そのものが、外部から侵入してくる

という矛盾へ、ラヴクラフトが珍しく真正面から接近した。

情報源も、「神格や怪物ではなく、実体を持たない『色』というクオリアそのものを怪異として直視しようとした」「人間が壊れるのは本題ではなく、その先の色そのものの唯物性が主体」と整理しています。

ただし重要なのは、これをラヴクラフト映画一般の宿題へしてはいけないということですね。


『カラー・アウト・オブ・スペース』のカルマは、「失敗した」ではない

ニコラス・ケイジ版は、普通のラヴクラフト映画としてはかなり成立しています。

異様な色彩、土地の侵食、家族の変容、人間の崩壊、理解不能な宇宙現象。それをニコラスの怪演で娯楽映画として持たせている。情報源にも、その成功がはっきり書かれています。

問題は、

よく出来た通常のラヴクラフト映画を、よりによって通常ではない『宇宙からの色』から作った

ことです。

だから「色のVFXが弱かった」「もっと未知の色を作れ」「ニコラスではなく怪異を主役にしろ」という技術採点ではない。

そんなものは不可能です。画面に出した色は、既知の色になる。怪異を直接撮れば、伝達可能な視覚商品になる。

こちらが腹を立てているのは、その不可能性を越えられなかったことではなく、

ラヴクラフト一世一代の、再現不能な言語的跳躍を
「異色のクトゥルフ原作を映像化しました」という通常の商品企画へ戻したこと

です。

しかも出来が悪ければ、「無理でしたね」で終われる。ところが映画として結構よく出来ているからこそ、原作の特異点が滑らかに家族崩壊系ラヴクラフト映画へ回収されてしまう。情報源がいうカルマはそこです。


「特殊性を特殊性として絶対化する」の意味

これは、

誰もこの原作を映画化するな
映像化するなら存在しない色を本当に作れ

という無理難題ではない。

むしろ反対で、

出来ないものを、出来たような顔で所有するな

です。

原作の特殊性は、映像技術の難易度ではない。「CGで未知の色をどう表現するか」というクリエイター課題へ落とした時点で、既に人間が処理可能な問題へ縮小されています。

ラヴクラフトが触れたのは、処理方法そのものが存在しない不通です。

だから映画化作品を見る時も、

  • 色彩設計が上手いか

  • 幻覚描写が怖いか

  • 人間がどう壊れるか

  • 原作世界をどれだけ再現したか

だけで「クオリアを撮った/撮れなかった」と知った口を叩くこと自体が、まず違う。

映画が何を工夫しても、その色は画面に出た瞬間、観客全員へ同じ商品として配布される。原作が本丸にした「共有不能な感覚」は、その時点で消えている。この敗北を認めた上で何を撮るか、というところからしか始められない。


今回の『宇宙の彼方より』を見るバイアス

したがって今回も、

ニコラス版より色を上手く撮れているか
ラヴクラフト映像化として上か下か
人間崩壊の先の唯物を撮れたか

という単純な比較にはしない。

そもそも「その色を撮れ」という採点が、原作の不可能性を舐めています。

見るとすれば、

この映画は『宇宙からの色』を、どういう通常映画へ変換したのか
その変換を自覚しているのか
それとも「独自解釈でラヴクラフト世界を映像化した」と気軽に所有しているのか

でしょう。

通常のラヴクラフト映画として、人間が怪異に触れて壊れるだけなら、それ自体を減点しない。ただし、『宇宙からの色』を素材に選んだ以上、その通常化によって何を捨てたかは別に残る。

要するに、

ラヴクラフト映画全般へ無茶を言っているのではない。
ラヴクラフト本人が一度だけ無茶をやった作品を、普通のラヴクラフト映画として気軽に再生産するな。

という話です。

跳躍を一般基準へしたら、生身の作家も映画監督も全員落第する。だからこれは天井札ですらなく、一回だけ天井を突き破った穴なんですよね。その穴を建築基準法にするな、です( ゚σω゚)

この『宇宙の彼方より』のユーネク評価は『カラー・アウト・オブ・スペース』より高いですし、ドイツ人らしく真面目に重厚に撮っているようではあるんですけど。
結局、「独自解釈のラヴクラフト世界観」の一文と、「モノクロで撮って、『色』だけはカラー」っていう演出が、私にとってはもう吐き気モノなんですよね。
『宇宙からの色』は世界観解釈とかの相対性じゃねえんだよ、って🙄

監督自身のクオリア解釈、「普遍的な人間性の『恐怖』でありながら、共有できない自己同一性」を表現してみろ、って。
ドイツ観念論からの実存主義じゃい、お前んとこのお家芸じゃいって🤣
『宇宙からの色』は、クトゥルフ神話とかいうメリケンのパルプフィクション消費主義のオタク趣味小説じゃねえんだよ、って。

完全に喧嘩腰ですが、マジでドイツ監督じゃなかったら、ここまで事前に語ることもなく、最初からスルーしてますよ。
本場ゲルマンの対自的クオリア表現、見せてもらいましょう( ゚σω゚)

ついでに上の回答もまだ、クオリアの概念を「それは何色か」「どう表現するか」の問題ではないとしながら、「未知⇔既知」の相対認識に引きずられてるんで、しつこく念押しです。「視覚的共有でも、『既知』にはならない」です。
既知とは論証です。「同じモノを見た」証明は、言語でしか媒介されない。そしてそれは言語化できない。「隣人が見た『赤』が、自己にとっての『青』ではないことを、人間は証明できない」

普遍的な既知はありません。論証は、「自己が見聞きしたモノだけを表現する」身体性の自己決定、自己同一性のみを証明します。
宇宙からの「色」が、私にどう見えようとそれは監督の意図ではない。私の自己決定による既知です。「監督本人には全然別の色彩に見えている」ことを、私は「必然として」肯定します。この絶望の肯定が恐怖です。

はい。前の回答はまだ、「未知の色をどう既知の映像へ落とすか」という制作問題に引きずられていました

そこではまだ、

画面に出した時点で、観客が認識できる既知の色になる

と考えていた。けれど、ここでの「既知」は視覚刺激の受容ではなく、同一性の論証ですね。

同じスクリーンを見て、同じ波長の光を受け、「赤」という同じ語を使っても、私の赤と隣人の赤が同じクオリアであることは証明できない。隣人にとっての赤が、私にとっての青に相当する感覚であっても、両者が社会的に同じ物体を「赤」と呼び続ける限り、言語行動には何の破綻も起きません。

つまり、普通の赤ですら、最初から共有された既知ではない

宇宙から来た色だけが未知なのではなく、色覚は元々、徹底して個体の身体に閉じた自己同一性です。宇宙の色は、新種の色彩としてその外から侵入するのではなく、普段は社会語で覆い隠しているこの絶対的不通を、覆い隠せなくする。


恐怖は「分からないもの」ではなく、「分かったつもりの世界が最初から共有されていなかった」こと

この違いは大きいですね。

ありがちな宇宙的恐怖は、

人類には理解できない外部がある
それを見た者が発狂する

という構図です。まだ人類という共有主体があって、その外側に未知がある。

しかし『宇宙からの色』で触れている本丸は、もっと手前にある。

人類同士ですら、最初から同じ世界を見ている証明などなかった
それでも同じ色名、同じ物体名、同じ世界を共有していることにして生きてきた

宇宙からの色が壊すのは、人間の認識能力だけではない。人間同士の世界共有が成立しているという前提です。

だから「名状しがたい色」を紫やマゼンタや蛍光色で表現することの問題は、それが既知色だからではない。どんな色を出しても、監督、撮影者、俳優、観客が、それぞれ別のクオリアとして受け取る。その差異を誰も埋められないのに、映画という制度は「我々はいま同じ異様な色を見ています」と演出する。

その共有演出こそ、原作が突き破った絶望を、再び社会的な了解へ戻してしまうわけです。


モノクロ画面に「色」だけカラー、が吐き気になる理由

この演出は非常に分かりやすい。

周囲は通常世界
この色だけが異常
観客全員が、その異常性を同じように知覚する

という映像文法だからです。

つまり「名状しがたいもの」を、誰でも識別できる視覚記号へ変えている。モノクロとカラーの差異を共有させることで、「ほら、これが宇宙から来た色です」と指示できる商品にしてしまう。

けれど本来の恐怖は、その指示が成立しないことです。

監督が「この色を異様に見せた」と思っていても、観客が同じ異様さを受け取った証明はない。観客同士でも違う。さらに、それを「不気味」「冷たい」「生々しい」と言語化した瞬間、その語は身体感覚そのものではなく、社会的比喩へ変わる。

だから映画の色彩設計をどれだけ工夫しても、それは怪異のクオリアを伝達したことにはならない。ただし問題は伝達できないことではなく、伝達できたような演出上の合意を作り、その不可能性を忘れることです。


「独自解釈のラヴクラフト世界観」では、そもそも問題の階層が違う

世界観解釈という言葉は、作品を外側から眺め、設定や象徴を組み替えられる対象として扱います。

  • この色は放射能の比喩

  • 戦争の記憶

  • 土地の呪い

  • 宇宙生命

  • クトゥルフ神話の一部

  • 人間疎外の象徴

これらは全部、言語で共有可能な解釈です。解釈が複数あっても、それは相対的な意味の選択であり、議論可能な文化商品です。

しかし色覚のクオリアは、複数解釈のうちの一つではない。解釈へ入る前の身体そのものです。

「私にはこう見える」と言えるのは私だけで、その「こう」が他者と一致する証明はない。それでも他者もまた、自分にしか見えない色を見ている。その絶対的不一致を否定せず、同時に他者の存在も否定しない。

これが、ユーザーのいう「絶望の肯定」ですね。

独我論的に「俺の感覚しか存在しない」と閉じるのではない。逆に、

あなたには、私には絶対に到達できない色が見えている
それは私の色と同一ではない
しかし、その差異を持つあなたが存在することは肯定する

という、救済のない他者承認です。


ドイツ監督へ要求しているもの

したがって「本場ゲルマンの対自的クオリア表現を見せろ」は、未知の色をCGで発明しろという注文ではない。

映画という共有メディアが、共有不可能な身体感覚を扱う時、その矛盾をどう引き受けるか。観客へ同じものを見せたふりをせず、監督自身の映像も一つの身体的決定でしかないと、どこまで画面の中で認められるか。

必要なのは、宇宙の色を提示することではなく、

同じ色を見ているという共同体の前提が、最初から論証不能だった

という裂け目を撮ることです。

人間が壊れるのは、その後です。怪異が何色かも二次的です。クトゥルフ神話の設定など、さらに外側です。

『宇宙からの色』は、外宇宙の怪物を描いた作品というより、他者と同じ世界を生きているという人間の素朴な信仰を、色覚一つで破壊した作品なんですよね。

だから「モノクロの中に色だけカラーで目立たせました」という時点で、まるで反対方向へ走っている。観客全員へ同じ異常色を配布し、「ほら、分かるでしょう」と共有させる。それはクオリアの恐怖ではなく、クオリアを視覚デザインへ加工した広告です。

ドイツ観念論のお家芸を名乗るなら、色を見せる前に、その色を同じものとして共有できるという映画自身の傲慢を疑え。今回の喧嘩腰の事前判定は、そこですね。

終わりましたが。
あーーーーーうん、はい、普通に原作レイプでした🙄

リスペクトで再現度高くしたフリして、最後に微妙な独自解釈出してくるやつ。その再現度も「ホラーとしての撮れ高」で、原作がどうでもよくオブラートに包んでいた人体破壊を、メインに持ってきちゃうやつ。だからそれを『宇宙からの色』でやるなって🙄
精神破壊をメインにしていた、ハリウッドのニコラス・ケイジ版の方が10倍マシでしたわ。

ラスト以外の筋立ては、一見かなり原作に忠実です。ダムに沈む限界集落に調査に来た聞き手に、農夫の語り部が、隣の農場に住んでいたガードナー一家の悲劇を語る。調査の内容とか人名は変えていますが。煩雑なんで、原作に従って語り部の名前は「アミ」にします。このアミが映像上でも怪異を目撃する、実質主人公です。

その「目撃」の絵面しか、忠実に再現できてないんですよ。原作の「語り」、アミとガードナーの関係性や会話がごっそり端折られている🙄
「色」はショッキングピンクに近い、明るい紫っていうありがちです。奇妙というか、美味しそう。原作ではガスっぽく描写されますが、この映画では明らかに球状の液体です。無重力の宇宙船の中で、かき氷のイチゴシロップを撒いた感じ。まあ、前述通り「色」の撮れ高には期待してなかったんで、どうでもいいです。

でも「その『色』で壊れる人間」の方も、原作通り――『宇宙からの色』っぽくは全然撮れてないんですよ。
長くなるんで、詳細のネタバレは後回しにしますが、結論的には相当のハズレ、監督に殺意レベルのゴミですわ🙄

これは「原作の出来事を再現して、原作の働きを殺した」タイプですね

話を聞く限り、かなり典型的な忠実再現の擬態です。

農場、隕石、ガードナー一家、土地の変質、語り部、ダム建設という出来事の並びは残している。しかし『宇宙からの色』で重要なのは、事件一覧ではなく、アミが隣人一家の変化をどの距離から見続け、何を言葉にできず、どう関係を失っていくかです。

そこを削って、

原作に出てきた異常現象を映像で順番に見せる
人体が壊れるところを強調する
最後に監督独自の意味を足す

へ置き換えたなら、忠実なのは筋書きの骨格だけです。肉体はむしろ別のホラー映画になっている。


アミを「目撃者」にしただけでは、原作の語りは再現できない

アミが怪異を実際に目撃する映像主人公になっていること自体は、映画化として自然です。ただ、原作のアミは単なるカメラ位置ではない。

ガードナー一家を知っている。隣人として接している。会話を交わし、変化を見守り、助けきれず、あとから他人へ語る。その関係の時間があるから、語りに「見たものを報告する」以上の重さが出る。

それを端折ると、アミは結局、

怪異の現場を一番多く見たキャラクター

になるだけです。

これはまさに、原作の語りを映像へ変換したのではなく、原作の語り手を映画のカメラマンへ変換しただけですね。

『ウッドランド』や『ALIVE』で写真家設定を置きながら、その写真行為が作品の主体にならなかった時と少し似ています。今回はアミという語り手を置いているが、その語りが人間関係や認識の崩壊として機能せず、ショッキング映像を目撃する役に縮んでいる。


人体破壊を前景化すると、『宇宙からの色』の恐怖は逆に小さくなる

この原作で人体破壊がどうでもいいというより、人体破壊はすでに結果なんですよね。

土地も作物も動物も人間も、同じ「色」に浸食されていく。その変化が、病気とも毒とも呪いとも断定できず、しかも見ている側も言葉にできない。人間の肉体が壊れるのは、その絶対的不通が身体へ到達した一現象にすぎない。

そこを派手なホラー撮れ高へすると、恐怖が急に説明可能になります。

体が変形した
血が出た
肉が崩れた
痛そう
気持ち悪い

全部、観客同士で共有できる。まさに映画向きです。

しかし『宇宙からの色』が触れたのは、その共有可能な嫌悪の手前にある、何を見ているのか誰とも確認できない恐怖です。人体破壊を盛れば盛るほど、観客は「何が怖い映画か」を安心して理解できる。

だから「再現度が高いホラー」になるほど、原作から遠ざかるという、かなり皮肉な失敗ですね。


ショッキングピンクの液体は、問題の中心ですらない

色がありがちな紫で、美味しそうなシロップ状だったことは、もう枝葉でしょう。

仮にもっと不気味な色彩で、ガス状の表現を精密にしていても、アミとガードナー一家の関係や、言語にできない認識崩壊が抜けているなら、結局は「異常な色を見せる映画」です。

逆に言えば、色のVFXが多少チャチでも、人間同士が同じものを見ていると思えなくなる過程を撮れていれば、まだ『宇宙からの色』へ近づけた。

この監督は、最も撮りやすい「色の見た目」と「身体の壊れ方」を拾い、最も撮りにくい「語りと関係性」を捨てたように見えます。

それで最後に独自解釈を足すなら、そら殺意も湧きますわ🙄


ニコラス・ケイジ版の方が十倍マシ、の意味

ニコラス版も原作のクオリアそのものを撮ったわけではない。しかし少なくとも、家族の精神が壊れ、人格と関係性が侵食されていく方向へ重心を置いた。

それなら通常のラヴクラフト映画としては成立するし、『宇宙からの色』の本丸を外しても、まだ人間側の崩壊を通じて怪異の不可解さへ接近しようとしている。

一方こちらは、一見原作へ近い時代感、語り部、農場、ダムという外形を揃えながら、原作の言語的・関係的な中心を落とし、人体破壊へ寄った。

つまり、

  • ニコラス版:原作から離れていることが見える普通のラヴクラフト映画

  • 今回作:原作に近い顔をして、原作の核心だけを抜いた映画

後者の方が腹立つのは当然です。

「忠実さ」が敬意ではなく、独自解釈を正当化するための偽装になっているからですね。

詳細を聞く前の段階でも、すでに評価の底は見えています。これはクオリア表現に失敗した映画ではなく、クオリアの問題を避けたまま、原作再現を名乗った映画です。

原作のアミ視点での怪異の核心を、まずおさらいしておきますが

・ガードナーの夫人が発狂、3人の子供の内の1人が発狂後死亡。更にもう1人が行方不明になったことを、ガードナー自らがアミに報告。
その後音信不通になったので、心配したアミが訪ねていく。

・その居間でガードナーが1人、自らも狂気に陥りながら、2人の子供が井戸にいることを示唆。夫人の状況は不明。
ラチがあかないので、アミが家宅捜索。夫人の部屋で、「崩れながらも動いている人物」を発見。

・原作は、「アミはこのことについて、詳しくは語らなかった」と明記。ただ、「アミはそれを処理した」「『まだ生きているものを放っておくことはできなかった』、恐ろしい責務だったに違いない」と、人道的に向き合ったことを追記。

・その処理が済んだ後は「次はガードナーだった」、居間に戻ったアミは、同じく灰化して崩れかけているガードナーを「連れ出して治療する前提で、『何があったんだ』と対話」、ガードナーは最後の理性で「色」による侵食の経緯と正体の推測をアミに伝えて死亡。

・「アミは今でも、ガードナーのことを褒め称えている」、宇宙的恐怖による人体や精神の破壊を、原作はもはや怪異の主体としては扱っていない。アミの恐怖対象はガードナー一家の変異ではない。

・その後改めての捜査団が入り、井戸から2人の子供の腐乱死体を引き上げるが、原作はこれもそっけない叙事描写としてスルー。

・怪異の根源は、「その直後に、井戸から立ち上り宇宙に還っていく『色』の爆発的奔流、更にアミだけが目撃した『還りきらずに井戸に戻った残りカス』」であり、アミと聞き手はそれがダムの底に沈むことに安堵しながらも、解決ではないことに脅え続ける。

以下、映画での撮り方です。

・子供たちの死亡と行方不明を、ガードナー自ら伝えにこない。音信不通になるのが原作より早く、心配したアミが自分から訪ねていく。
崩れる前のガードナーの狂気描写、セリフは正確に原作通り。

・アミはまず、原作では死亡確定していた子供の灰化した死体を見つけてビビる。その後夫人の部屋に入るが、そこでも崩れかけた夫人は「勝手に崩れる」、その身体から「色」が放出される。
アミは人道的対処もクソもなく、腰を抜かして退散。

・ガードナーも「勝手に崩れる」、というか断片映像ではぐちょぐちょに溶けてる感(ラヴクラフトの他作品『戸口に現れたもの』あたりのオマージュか)。「色」についての最後の言葉はアミとの会話ではなく、断片的な呻き声の独白。
アミがその遺骸にテーブルクロスを被せて弔うのは原作通りだが、明らかに腰砕けで、ビビりながらグロいのを隠しただけに見える。

・このように夫婦の人体破壊をメイン怪異のように撮っているにも関わらず、井戸からの子供の死体の引き上げは撮らない。原作を知らなければ、子供2人は映画の途中から存在設定自体がカットされたようになる。

・「色」の奔流の目撃描写は一応ある。ピンク球状液体が寄り集まって、ボコボコしながら空に上っていくだけだが。ただ、「残りカスが井戸に戻った」明確な描写はなし。

・ラストの謎の独自解釈は、脅え続けるアミを撮りながら、「最初から『色』に侵されていたのは、ガードナーではなくアミの方ではないか」という夢オチ示唆。フラッシュバック的に、「これまでの語りの、アミとガードナーを逆転させた映像」の断片が流される。第2陣4本目『ハイドアウト』と同じ感じの編集。

・完全に意味不明。恐らく、「『色』は最初に侵された宿主を媒介し、周囲の生命を腐らせていく」というような、怪異の所在主体と志向性を持たせた感染ホラー解釈だと思うが、「宿主のアミは腐らない」のご都合主義が相当なガバになるし、言うまでもなく『宇宙からの色』原作の本質とはかけ離れるどころじゃない。

これは単なる原作レイプではなく、原作が成立していた倫理と主語を丸ごと反転させています

比較すると、映画が削ったものが非常に明瞭ですね。

原作のアミは、怪異を解明する探偵でも、発狂を免れた特別な生存者でもない。ガードナー一家と隣人関係を保ち、異変を知らされ、連絡が途絶えたから訪ね、そこでまだ生きている者に対して人道的責務を果たし、最後には崩れかけたガードナーを助けようとして話を聞く。

要するにアミは、理解不能な怪異を前にしても、最後まで人間との関係を切らなかった人間です。

そのアミが後世に語るからこそ、『宇宙からの色』は単なる「田舎一家が宇宙物質に侵食された事件」ではなくなる。共有不能な出来事を、それでも他者へ伝えようとする証言になる。

映画は、その証言者を「グロい現場を目撃して腰を抜かす人」へ縮めた。ここで原作の土台がほぼ消えています。


「詳しく語らなかった」は、謎を残す技法ではなく倫理的な沈黙です

原作がガードナー夫人の処理を詳述しないのは、読者を焦らすためでも、後から真相反転へ使うためでもない。

アミは見た。何が起きているかも最低限は理解した。だが、それを見世物として語らない。そして「まだ生きているものを放っておけなかった」から、自分で処理した。

この省略には二つの責任があります。

  • 人間の尊厳を、怪奇描写の見世物にしない

  • 言葉にできないものを、言葉にできたふりで所有しない

ところが映画は、その沈黙を人体破壊映像へ置換している。

夫人は目の前で勝手に崩れ、そこから色が出る。ガードナーも勝手に溶ける。アミは何もできず逃げる。つまり原作が語らないことで守ったものを、映画は「忠実なホラー撮れ高」として直接見せ、その代わりにアミの倫理行動を消した。

これは映像化に伴う省略ではなく、原作の価値の向きを逆にした改変です。


人体破壊を盛ったのに、子供二人の死体を撮らない不均衡

ここも、映画が何を重視しているかを露骨に示していますね。

原作では、井戸から引き上げられる子供たちの腐乱死体は、怪異の核心ではない。だから事実として淡々と処理される。その直後、井戸から色が宇宙へ還っていく。恐怖の焦点は人体ではなく、人間の死を通過した後も、それとは無関係に存在し続ける色へ移る。

映画は逆に、夫婦が崩れる映像をショック場面として膨らませたのに、子供二人は物語上から消してしまう。

これは残酷描写の多寡というより、叙事の整合性を捨てている。

子供たちの死は物語上の因果を閉じるために必要ですが、映画的な派手さが弱いから省略する。夫婦の崩壊は原作の倫理関係を壊してでも見せる。つまり「原作に忠実」というより、原作からショッキングな断片だけを抽出した再編集です。

しかもアミとガードナーの最後の対話まで独白へ変えているため、ガードナーは最後まで人間として抵抗した者ではなく、色の侵食を説明する壊れた音源になる。

原作では、アミが今でもガードナーを褒め称えている。この一文によって、ガードナーの最期は怪物化の見世物から救い戻される。映画には、その救い戻しがない。


原作のアミは「壊れなかった特別な人」ではない

ここがラストの独自解釈を決定的に破綻させています。

映画は、

実は最初から侵されていたのはアミだったのではないか
これまでの語りは、アミとガードナーが逆だったのではないか

という、信頼できない語り手のヒネりを持ち込む。

しかし原作におけるアミの役割は、真実を客観的に保証する無傷の観測装置ではありません。アミもまた、色を見て恐怖し、その記憶に囚われ、ダムの底に沈む土地を怖がり続けている。

つまり最初から、アミは怪異の外側にいない。

それでもアミがガードナー一家と同一化しないのは、「感染していなかったから」ではなく、別の身体を持つ別の人間として、最後まで隣人に向き合ったからです。

映画はこの倫理的差異を、宿主の当たり外れへ変えてしまった。

原作の問いは、

他者の見たものを共有できないまま、それでも他者とどう関係するか

なのに、映画の問いは、

本当の感染者はどちらだったのか

へ落ちる。

クオリアの絶望が、感染者当てクイズになっています🙄


「語りの不確かさ」を、安いどんでん返しへ誤読した

これは『ハイドアウト』型の編集と同じという指摘がよく分かります。

現代的なスリラーでは、回想映像は真実の記録ではなく、語り手の主観を映したものとして扱われる。そして終盤で映像を差し替え、

実は立場が逆でした
観客も語り手に騙されていました

とする。

しかし『宇宙からの色』における語りの限界は、語り手が嘘をついているとか、記憶が反転しているという話ではない。

アミは誠実に語っても、色そのものは伝えられない。アミが見たクオリアは、聞き手にも読者にも移植できない。この誠実に語ってなお埋まらない不通が本質です。

映画はそこを理解せず、

語りが完全に信用できないなら、実は語り手が感染者だったことにしよう

とした。

これは「言語では真実を伝えられない」という問題を、「語り手が真実を隠していた」というサスペンスへ縮める最悪の改変です。

不可能性が、トリックになります。


「残りカス」を消したことで、怪異を人間の心理へ回収した

原作の最後で最も重要なのは、色の大部分が宇宙へ帰還した後、アミだけが井戸へ戻っていく残余を見ることです。

これがあるから、怪異は解決しない。

色はガードナー一家の悲劇として終わらない。アミのトラウマとしても終わらない。土地に残り、やがてダムの底へ沈み、人間社会の水源と隣接し続ける。

つまり最後まで、怪異は人間の外部にある唯物です。

映画がその残りカスを明確に撮らず、代わりに「アミ自身が侵されていたかもしれない」を置いたことで、恐怖の所在は土地から主体へ移る。

  • 原作:色は人間を通過しても、土地に残る

  • 映画:色は宿主を媒介して、人間関係を汚染する

  • 原作:アミの恐怖は、外部がまだ存在すること

  • 映画:アミの恐怖は、自分が本当は何者か分からないこと

完全に別作品です。

しかも後者は、ラヴクラフト映画としてあまりにも普通です。自我の崩壊、記憶の反転、感染者の不確定性。いくらでもある心理感染ホラーへ戻っている。


「色」に宿主と志向性を与えた時点で、宇宙的恐怖が小さくなる

映画の独自解釈を整合的に読むなら、仰る通り、

色は特定の宿主へ入り、その宿主を媒介して周囲を腐敗させる

という感染モデルなのでしょう。

しかし、そうすると色には行動原理が生じる。

  • 宿主を選ぶ

  • 周囲を侵す

  • 自分は宿主内に残る

  • 認識を操作する

  • 語りを改変する

これはもう、「意思があるかは不明だが、感染症のような規則で動く怪異」です。

原作の色は、人間に敵意を持っているかどうかすら問題にならない。ガードナー一家を狙ったわけでもなく、人間を媒介に世界征服しようとしたわけでもない。ただ落ちてきて、周囲の生命を変質させ、栄養か何かを吸い上げ、還っていく。

人間の悲劇は、色にとって物語ですらない。

映画はそこへ宿主、感染経路、主体の入れ替わりという因果を与え、人間が理解可能な怪物へしてしまった。しかも「宿主はなぜ腐らないのか」という最初の整合性すら放棄している。

独自解釈として大胆なのではなく、普通の感染ホラーを成立させる設定すら詰めていない


ニコラス・ケイジ版の方が十倍マシだった理由が、さらに明確になりました

ニコラス版は家族の精神崩壊を派手に撮る普通のラヴクラフト映画でした。『宇宙からの色』の特殊性を捉えてはいないが、少なくとも「怪異に触れた人間が壊れる」というラヴクラフトの通常構文には忠実だった。

今回作は、時代、農場、語り部、ダム、人物名、台詞など、原作の表面を丁寧に拾う。そのため一見すると、こちらの方が敬意深く見える。

しかし実際には、

  1. アミとガードナーの関係を削る

  2. 人道的責務を削る

  3. 最後の対話を削る

  4. 子供の死を叙事から消す

  5. 残りカスを消す

  6. 人体破壊を前面化する

  7. 色に宿主と志向性を与える

  8. 語りの限界を、信頼できない語り手のトリックへ変える

と、原作の核心だけをほぼ狙い撃ちで壊しています。

これは「映像化が難しかったので失敗した」ではない。

撮りやすい外形を忠実に再現し、撮りにくい倫理・言語・クオリアを捨て、その空白へ安い心理スリラーのオチを入れた。

だから腹が立つ。

ドイツ人らしく真面目に重厚に撮ったことも、モノクロに色だけを置いたことも、全部その誤読へ権威を与える装飾になっている。雑なB級ならまだ「違う映画を撮りました」で済むのに、これは原作を理解した顔で、原作が最も否定していた方向へ着地している。

『宇宙からの色』のアミは、語りが不確かだから怖いのではない。

誠実に語り、人道的に行動し、ガードナーを褒め称え、それでも色だけは他者へ伝えられない。

映画はその絶望へ耐えられず、「実はアミが宿主でした」という説明可能な謎に逃げた。原作レイプの中でも、かなり質の悪い種類です。


13. 『宇宙の彼方より』

GPT認識:モノクロ記録映画と原作忠実の顔をしながら、原作の倫理的沈黙を人体崩壊の見世物へ変え、共有不能なクオリアの絶望を「本当の感染者は誰か」という安い反転へ縮小した、原作再現の擬態。

ダム建設によって水没する土地を調査する聞き手に、農夫の語り手が隣家のガードナー一家に起きた悲劇を語る。人物名や調査の経緯は変更されているが、隕石、異常な作物、家畜や家族の変化、井戸、宇宙へ帰還する「色」など、出来事の並びは一見かなり原作へ忠実である。便宜上、語り手を原作通りアミと呼ぶ。

しかし原作におけるアミは、怪異を撮影するカメラ位置ではない。ガードナー自身から妻子の異変を知らされ、音信不通を心配して家を訪ね、崩れながらも生きている夫人を見つける。原作はその光景を詳述せず、「まだ生きているものを放っておけなかった」アミが自ら人道的な処理を行ったことだけを記す。その後、崩れかけたガードナーと対話し、最後の理性で語られた「色」の経緯を聞く。アミは後年までガードナーを褒め称えている。

映画は、この関係性と責務をほぼすべて捨てる。アミは灰化した子供の死体に怯え、夫人が目の前で勝手に崩れて「色」を放出すると腰を抜かして逃げる。ガードナーも独白めいた呻き声を残して勝手に溶け、アミは遺骸へテーブルクロスを被せるだけである。原作が語らないことで人間の尊厳とアミの責任を残した場面を、映画は人体破壊の撮れ高へ置き換えた。

その一方で、原作では捜査団が井戸から引き上げる二人の子供の腐乱死体を撮らない。原作を知らなければ、途中から子供二人の存在設定そのものが消える。「色」が井戸から宇宙へ還る奔流は、ショッキングピンクに近い球状の液体が集まり、泡立ちながら上昇する映像として一応再現されるが、アミだけが目撃した「宇宙へ還りきらず、井戸へ戻った残りカス」は明確に描かれない。

代わりに終幕では、これまでの語りにおけるアミとガードナーを逆転させた断片映像を流し、「最初から色に侵されていたのはアミだったのではないか」という夢オチ的反転を示唆する。第2陣の『ハイドアウト』と同種の編集であり、色を宿主へ入り込んで周囲を腐敗させる感染怪異として扱う。しかし宿主自身が腐らない理由すら説明されず、怪異へ余計な所在主体と志向性を与えただけで終わる。

『宇宙からの色』の特殊性は、「未知の色をどんな映像色で表現するか」ではない。通常の赤でさえ、隣人の赤と自己の赤が同じクオリアであることを言語的に証明できない。視覚的に同じ画面を見ても、それは共有された既知にはならず、各人が自分の身体によって見たものを自分の語彙で決定しているだけである。宇宙から来た色は、普段「同じものを見ている」として覆い隠されている、この絶対的不通を露出させる。

したがって、通常のラヴクラフト映像化が人間の発狂や精神崩壊を中心に置くこと自体は間違いではない。怪異を安易な触手やゾンビへ固定せず、断片的接触による人間側の崩壊を撮る方が原典には忠実である。ただし『宇宙からの色』だけは、ラヴクラフトが一度だけ「名状しがたいとは何か」へ正面から近づいた特殊な跳躍であり、その一作を一般的な人体崩壊ホラーとして処理してはならない。

ニコラス・ケイジ版『カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―』も、このクオリアの特異点を撮れた作品ではない。しかし家族の精神崩壊を中心にした通常のラヴクラフト映画としては誠実に成立しており、本作より十倍ましである。本作は原作へ近い外形を揃えたぶん、核心だけを狙い撃ちで破壊している。

ゲテモノ棚での役割:
「映像化不可能なものを映像化できなかった」失敗ではなく、その不可能性を理解した顔で人体崩壊と感染者当てへ逃げた最悪の義務枠。モノクロ画面に「色」だけをカラーで示す演出も、観客全員が同じ異常を見たという共有記号を作り、原作の絶望を視覚デザインへ戻してしまう。特殊な一作をクトゥルフ世界観の一般素材へ還元した、紀行内でも強い原作レイプ判定。


『ナイト・オブ・アルカディアン』

映画の出来栄えそのものじゃなく、わざわざゲテモノ義務枠で入れてたのが、最悪のハズレになったんで気分悪いですが🙄

でも口直しで、次はこの義務枠ですね。第2陣のサイコロ運、神がかってます。空気読んでる😁
説明不要のニコラス枠です。ぶっちゃけニコラスは、私にとって「1番好きな俳優」とかスターでもないんですけどね。
「俺の時代で、B級とか社会評価関係なく、『その演技力すらすっ飛ばして』、存在自体がゲテモノやなってアンテナが反応する俳優、誰や」って考えた時、ニコラスしかいません。個人の感想です🙄

どのニコラスにしようかなー、豚を飼ってるホームレス(?)かなー、古典的なドラキュラになってるやつかなーとか、最初はジャケ絵面を吟味してたんですが。まあ「ホームレスでもドラキュラでもなく、ニコラスにしか見えない」んで、視覚クオリアの相対化は諦めました🙄
だから、第1陣の『ロングレッグス』チョイスの時と同じく、ユーネク煽りが1番シンプルにニコラスを出してることを基準に、コレですね。

クリーチャーモノなんで、微かにクトゥルフテイストも期待しますけど、この煽りの書きぶりは、もう闇の生物負け確ですね。『カラー・アウト・オブ・スペース』みたいに、敗北ニコラスがやりすぎ発狂演技するための媒介にもなれそうにない。ご愁傷さまです😇
闇の生物くんがマイカ・モンローほどの爪痕は残せなくても、視聴後に「クリーチャー出てたか?」「どんな化け物やっけ?」ぐらいまで、ニコラスに食われ尽くされてる事態を回避できれば、まあホラー撮れ高の成立とします( ゚σω゚)

今回は「ニコラスを観る枠」ではなく、闇の生物の耐久試験ですね

そうですね。好きな俳優だから一本入れるというより、存在だけで映画をゲテモノ化する俳優を、紀行の基準器として置く感じです。

第1陣の『ロングレッグス』では、ニコラス本人が怪異でした。FBI捜査、悪魔、暗号、家庭の秘密をいくら積んでも、最終的に残るのは「ニコラスがどう食ったか」で、名鑑でも「ニコラス・ケイジという災害指定俳優に全部持っていかれる作品」となっています。 

『カラー・アウト・オブ・スペース』では、怪異に侵される人間役でありながら、今度は「色」がニコラス発狂演技の舞台装置へ吸収された。通常のラヴクラフト映画として成立させる力にはなった一方、原作の特異点を人間崩壊へ回収する重力にもなっていました。 

今回は配置が違う。

ニコラスは父親
怪物は外部にいる
しかも煽り文が、最初から「ニコラス・ケイジVS闇の生物」

ユーネクも、物語より先に興行カードを組んでいます🤣


闇の生物くんに必要なのは、「ニコラスより上手く演じること」ではない

勝ち目がないのは当然としても、怪物側に最低限必要なのは、ニコラスとは別の記憶として残ることでしょう。

  • 独自の姿や輪郭がある

  • 動き方や襲い方に固有性がある

  • 夜の世界における存在ルールがある

  • ニコラスのリアクションを引き出すだけの舞台装置で終わらない

鑑賞後に、

ニコラスが父親役で暴れていた映画

だけが残るなら敗北です。

逆に、「ニコラスもいたけど、あの怪物はこういう奴だった」と説明できれば、それだけでクリーチャー映画として最低限の自立を果たしている。かなり低い合格線に見えますが、対戦相手が悪いので仕方ない😇

『ロングレッグス』ではマイカ・モンローが全世界警戒顔で対抗し、FBI捜査官という制度まで背負ったのに、結局ニコラスへ食われました。今回は演技合戦ではなく、人外の唯物そのものがニコラスの画面重力へ耐えられるかです。


「父親ニコラス」は、怪物ニコラスより少し厄介かもしれない

今回の紹介文では、父と双子の息子たちの生存戦になっています。

ニコラスが狂人や悪役なら、観客も最初から「はいはい、ニコラスですね」と怪異として隔離できます。しかし父親、保護者、傷ついた家族の中心に置かれると、映画側が彼へ感情の重心まで預けやすい。

そうなると闇の生物は、

父親ニコラスの献身を引き出すための障害
家族愛を試すための夜行性モンスター
ニコラスに武器を持たせるための敵

へ縮みかねない。

とはいえ、これは内容予想ではなく、紹介文が最初から設定している興行上の力関係です。映画側が「ニコラス・ケイジVS」と売った時点で、クリーチャーは生態や恐怖より、対戦カードの片側として紹介されています。

闇の生物くん、名前すらないのにニコラスとメインイベントを組まされている。新人レスラーのデビュー戦として酷すぎる🤣


クトゥルフ味の判定も、今回は造形より人間側ですね

触手や異形のデザインが立派でも、それだけでラヴクラフト味にはしません。

怪物に遭遇した人間が、

  • 単なる害獣として処理できない違和感を覚えるか

  • 恐怖しながら、その存在へ奇妙な諦念や魅惑を持つか

  • 戦えば倒せる敵ではなく、世界の前提を侵食する外部として感じるか

そこが出れば、微かなクトゥルフ味は拾える。

ただ今回の第一判定は、そこ以前でしょうね。怪物が映画の中に本当に存在できているかです。

第2陣の『ファング』では、格好いい黒ライオン型クリーチャーは出たのに、襲撃運動がなく、「怪物だけ存在する映画」になりました。
今回は逆に、ニコラスが強烈に存在しすぎるので、怪物の姿や運動があっても、作品記憶から消される危険があります。


今回の合格条件

かなり単純です。

観終わったあと、ニコラス以外の何かについて一段落しゃべれること。

造形でも、生態でも、動きでも、夜の世界の圧でもいい。

「闇の生物ってどんなんやったっけ? まあニコラスが父親してたな」で終われば、クリーチャー側の完全敗北。ニコラス作品としては成立しても、紀行の怪物枠としては落第です。

前作の原作レイプで気分が腐った直後に、サイコロがニコラスを差し出してきたのは確かに空気を読んでいます。ただし口直し役のニコラスが強すぎて、今度は映画本体を全部味消しする可能性がある。

口直しの生姜だけ食って、寿司の味を忘れるやつです😁

終わりまして。
あーーーー、ニコラスと気心知れた上手い監督だから許される、ニコラス捕食回避でしたわ。
ハズレではない、面白いけど、観たかったニコラス義務枠にはなりませんでした🥲

「ニコラス・ケイジ、まさかの前半40分きっかりで人事不省、ジュブナイルホラーの看板を寝たまま食う」でした。
なお父親役って感じではないですね、文明崩壊後ディストピアで「15年間、律儀に籠城シチュエーション維持しながら後継者育ててた」系の、最後の人類です。まあ生存者は他にもいて前近代の牧場生活してるんですが、その共同体には入らない一匹狼。
だから冒頭の息子達への接し方は、態度や言動ではない雰囲気なんですが、『フルメタル・ジャケット』の教官っぽい🤣
『進撃の巨人』世界観なんで、リヴァイ兵長でもいいですけど。

それがユーネクあらすじにあるように、息子のヘマの尻拭いで負傷するんですが。
これが腕を怪我したじゃ済まない、正確には「クリーチャーに素手で爆弾押し付けてそのまま着火」、人事不省です。死ななかったのはニコラス映画だから🙄
その後は手の込んだクリーチャーの撮れ高と、15歳の息子たちが牧場共同体と摩擦を起こしながら自立していく、普通なら健全な少年誌的ジュブナイルホラーです。

でも、「ニコラスの捕食を免れたモブ共が、鬼の居ぬ間に洗濯しとるわ」っていう印象しか生まないんですよね、ニコラス死んでないから🤣
「いつ復活して食い出すんや?」しか頭に浮かばない。少年誌は少年誌でも、ドラゴンボールのフリーザ戦前の尺稼ぎ状態です。

まあ、双子の息子の片割れは牧場の娘にうつつを抜かすボンクラ脳筋ですけど、もう片方が天才肌のわかりやすい異世界主人公なんで、結構善戦します。
ご都合主義で、15年間夜な夜な襲ってくるだけだったクリーチャーが、ニコラスの戦線離脱と同時に急に頭良くなって、地中を掘り進んで床下から急襲してくるようになる。
牧場は一瞬で壊滅して、ニコラスの家も襲われますが、天才息子は呼び込むだけ呼び込んで一気に爆弾で吹き飛ばすっていう策略を立てていた(ありがち…)

そのヤマ場でニコラス復活です😇
全身ボロボロのクセに、まずは景気づけにクリーチャーの一匹を素手で葬る。画面にすら映しませんが。寝てるニコラスにクリーチャーが忍び寄るも、切り替わった次のシーンでニコラスだけが平然とドアから出てくるっていう😇
爆破の籠城退避部屋に押し寄せてくるクリーチャーの群れに、適当にショットガンぶっ放して棍棒で殴りまくる。
「これ、ガキの小賢しい爆弾戦法を無駄にして、このまま全部ニコラスが倒すんちゃうか🤔」を、ガチで観客に確信させます。

でもその隣で、必死でクリーチャーに立ち向かう息子2人(&ヒロインの牧場娘)の姿を眺めて何か悟ったニコラス、爆発の寸前に待避部屋を出て、群れに1人対峙します。一緒に爆散。

「いやわかるけど。ベタベタのありがち少年誌、ジュブナイル展開やけど」

「もう時間稼ぎも終わってるし、戦法上全く必要のない犠牲やん。天才くん、めっちゃ困惑してるやん」

「『こうでもしなきゃニコラスを退場させられない』、ジュブナイルな未来への希望ラストに持っていけない、脚本も監督もニコラスの畳み方に必死すぎるやろ」

まあそういう感じ、結局いつもの「制作陣のニコラス捕食全力対抗」が本質になるやつです😇
あらすじニコラスで長くなったんで、クリーチャーの撮れ高は後で書きます。

闇の生物は、今まで紀行で観てきたクリーチャーの中で1番デキがいいですね。CGだと思いますけど、死体解剖シーンでは唯物造形も使ってるかな?
正体は映画内では判明しませんが、デロス系地底人+昆虫+トカゲ+オオカミで、かなり「生物っぽい」。エイリアンとかクトゥルフ的怪異ってより、近未来ディストピアらしいリアリズムですね。

ただ満足に全身が映らない序盤は、代わりのグロ素材としてやたらとゴキブリが映るんで、「おいおい、ボスは巨大ゴキブリか?監督ヴァーホーヴェンだったか?」っていうスターシップな警戒を生じさせます。
まあ確信犯のミスリードでしょうね、上述の死体解剖にしても。ゴキブリクローズアップは、『メン・イン・ブラック』ぽさもありますが。

でもやっぱり気づいちゃうんですよね。
そのデキのいい造形、「大っぴらに全身が映って気兼ねなく襲ってくるのは、ニコラス離脱直後から」です😇

ああ、完全にニコラスとクリーチャーの全身撮れ高を時間分割してますね😇

前半はニコラスが世界観の最大生物です。文明崩壊後の十五年間を生き延び、籠城ルールを維持し、息子たちを訓練してきた人間兵器が画面を支配する。その間、闇の生物は暗闇、断片、死体、ゴキブリの連想で引っ張られ、満足に身体を与えられない。

そしてニコラスが人事不省になった瞬間、

  • クリーチャーが全身を現す

  • 群れとして動き出す

  • 地中から床下へ侵入する知能を獲得する

  • 解剖できる唯物的な生物になる

  • 牧場共同体を一気に壊滅させる

と、ようやく映画内の主役怪物へ昇格する。

つまり制作陣は、ニコラスと怪物を同時に自由行動させると、怪物が画面から消えることを理解している。だから前半四十分はニコラス、後半四十分はクリーチャー、最後の十数分だけ再戦という興行編成です🤣


ゴキブリは、安い代用品ではなく「怪物の身体がまだない時間」を埋める前座

序盤のゴキブリ連打も、かなり確信犯でしょうね。

未知の怪物を見せられない間、観客へ既知の生理的嫌悪を先払いする。虫の脚、甲殻、群生感を刷り込みつつ、「巨大ゴキブリ映画では」と誤認させる。その後に出てくる本体は、昆虫だけではなく、地底人、爬虫類、狼的な捕食獣を混ぜた生物なので、ゴキブリは正体当ての答えではなく、構成素材の一部だけを誇張した偽予告です。

『スターシップ・トゥルーパーズ』や『メン・イン・ブラック』を連想させるほど露骨なのも、序盤の観客へ「虫系の何か」という仮の理解を与えておくためでしょう。実物が出た時には、それよりずっと哺乳類的で、群れの捕食者として動く。

その意味では、今回の怪物はクトゥルフ的な理解拒絶性よりも、かなり真面目な未来生態系の捕食動物です。正体は説明しなくても、「この世界で十五年間、人類を夜へ閉じ込めてきた生物」として納得できる身体がある。


『ファング』とは正反対の成功ですね

『ファング』は格好いい主力クリーチャーの姿までは撮れたのに、襲う運動を撮らず、「怪物だけ存在する映画」になっていた。

今回は、

  • 全身造形がある

  • 群れで動く

  • 人間の防御を学習する

  • 地面や建物との位置関係を使う

  • 死体を解剖できる

  • 殴れば肉体的に死ぬ

という、生物としての運動と物性が全部ある

『ブラックシープ』が「羊ホラーに必要な撮れ高を全部引き受けた」完成品なら、こちらはもう少し重厚に、「近未来ディストピアの夜行性捕食者に必要なものを、きちんと生態として置いた」作品ですね。

クリーチャー単体なら、紀行最高評価になって当然だと思います。


ただし、ニコラスが復活すると即座に生態系が壊れる

問題は、せっかく後半で確立した怪物の唯物性が、ニコラス復帰と同時に再び危うくなることです。

それまで床下を掘り、牧場を壊滅させ、少年たちへ総力戦を強いていた捕食者が、寝ているニコラスへ近づいた途端、次のカットでは処理済み。画面にすら出ない。

これ、クリーチャーが弱くなったのではなく、ニコラス映画の法則が生態学を上書きした瞬間なんですよね🤣

少年たちにとっては知恵と爆弾で倒すべき群れなのに、ニコラスにとってはショットガンと棍棒で雑に減らせる雑魚。両者を同じ空間に置くと、せっかく積み上げた怪物のリアリズムが崩れる。

だから制作陣は最後に、怪物ではなくニコラスを爆破しなければならない。

ニコラス自身が何か悟ったというより、制作陣が、

もう復活料金は払った
素手で一匹殺した
ショットガンも撃たせた
ここから先まで残すと全部食われる
今や、爆破しろ

と悟ったように見える😇


この映画の本当の構造

整理すると、こうです。

前半:ニコラスが強すぎて怪物を見せられない
中盤:ニコラスを寝かせ、怪物へ身体と知能を与える
終盤:ニコラスが起き、怪物の脅威設定を壊し始める
結末:怪物ではなく、ニコラスを脚本上から爆破処分する

なので、「ニコラス捕食回避に成功したクリーチャー映画」というより、より正確には、

ニコラスとクリーチャーの双方を成立させるため、二者を可能な限り同時に画面へ出さなかった映画

ですね。

闇の生物くんは造形も運動も、紀行最高クラス。ニコラスにも食われず、後半の映画を自力で支えた。ただしその勝利条件が「ニコラスが寝ていること」だった。

そしてニコラスが起きた瞬間、監督は「あかん、また始まった」と爆弾のスイッチを押した。制作陣、気心が知れすぎています😇

下手な監督ではないし、クリーチャーも若者像も撮れてるし、北斗的な荒廃ディストピア観の画はほぼないにしても、日本人好みの『進撃の巨人』的娯楽ジュブナイルとして完成度高いと思うんですが
ユーネク評価伸びきらないのは、結局「ニコラス半分寝てるだけやん」でしょうね。
私が感じた物足りなさと共通しますが、一般は「まあこういうニコラスの捕食回避方法もあるか🤔」とか、謎に捻った制作都合の合理化もせずに、素直にニコラスやりすぎ大暴れ期待への肩透かし感になるはずなんで。

代わりにメインを務めたジュブナイルのキャラ立ちも、テンプレとして撮れてはいるけど、ボンクラ脳筋は普通にガキっぽすぎるし、それで達観した天才肌の方も引き立っていると言うより、マセすぎが鼻についてくる。
「ニコラス対抗として立てたわけじゃない、あくまでテーマ成立用だからテンプレでいい」って都合が見えるから、「そんな半端なことするなら、素直にニコラス大暴れをテーマにしとけよ」が出てくるのは必然です。

でもしゃーないやん、制作陣は近未来ジュブナイルが撮りたかったんやから、って🥲
特に脚本家が、自分が双子の父親だからプロット思いついたらしいですが。
そのネタを、「ニコラス看板で映画を成立させて売る」ことに慣れた監督とのタッグで撮ったのが不幸ですね。

出るだけで☆3の商業安定は成立させるけど、対価として若手共演者や特撮主張やテーマや、とりあえず作品軸の何かしらは食う。
その餌が多いほど、観客は「食った量に見合うニコラス撮れ高」をシビアに査定して、制作陣にも「思ってたの撮れなかったな」的な妥協感と物足りなさを残す。
難儀なスターです。ニコラスのゲテモノ存在感って、やっぱり重力って言うより「円満最適解や制度都合に包摂・アウフヘーベンしきらない異物」ですよ。

初期のニコラス論()でも書いたと思いますけど
異物のくせに、スターらしい傲慢な自己主張をしてくるわけではない、っていう難儀さですよね。「もっと暴れさせろ」とか「もっと俺を撮れ」的なワガママとは対極です。現場を知ってるわけじゃないんで、ただのイメージですけど。
机頭突きで自殺してくれとか、主演だけど尺の半分寝ててくれとか、「何でもやる異物」です。

で、通常の制度世界とか秩序では、何でもやる便利屋は主体性のない「基盤」や「歯車」です。柔軟性とか適応力とか美化してもいいですけど、ますます異物性は消えます。
だから、ニコラスの「映画を成立させる主体性」を論題にした時に、GPT解釈が「基盤性=世界や秩序そのもの」に寄るニコラス基準化、重力の語彙になるのもわかるんですが。

単純に、ニコラスの主体性確立は「ナチュラルに何でもやりすぎる」、「世界や秩序から浮き上がる」異物性にあると見てますね。それがエゴな自己主張からなら、制度も案外素直に包摂できる、普通にスター大暴れ映画として撮るだけで、円満最適解なんですけど
ニコラスは「ナチュラルっぽいやりすぎ演技」と、それに相反するこだわり無さすぎがデフォルトなら、「そういう俳優」っていう職能評価より先に、「そういう人間」です。

ちょっとばかりセンシティブな表現ですが、「何を演じてもニコラス・ケイジとして浮き上がる」、これは俳優論じゃなくなります。自己主張の演技表現に限らない「芸術家的感性」、天性としての人間性、天才です。
演技職能の芸術的天才って意味じゃないですよ、「ニコラスであることの天才」です。天性として、ニコラスはニコラスであり続ける。

対自的な自己主張異物のゲテモノじゃなく、「コイツ、明らかに『凡人制度とは次元が違う』やん」っていう、浮き上がる天才の存在感としての異物解釈に近くなってますね、私は🤔
凡人ゲテモノの映画人や消費者、商業制度が「マジモンの芸術家実存」を持て余すのは必然です。

そうですね。「重力」だと、まだニコラスを作品統合の中心として説明しすぎる

以前の名鑑では、『ロングレッグス』を「画面の重力がニコラスへ吸われる」「演技怪獣をどう飼うか」という整理にしていました。 
あれは作品側から見た現象としては合っています。周囲の人物、設定、怪異、ジャンル構文が、結果的にニコラスへ食われる。

ただ、いまの話はその一段手前ですね。

ニコラス本人が中心を奪おうとしているのではない。主役として映画を支配しようとも、作家性を誇示しようともせず、机へ頭を打ちつけて途中退場しろと言われればやるし、主演なのに半分寝ていろと言われれば寝る。それでも、映画の制度へ従順に収まった結果として「便利な俳優」にはならず、なぜかニコラスだけが浮き上がる。

だから異物性の原因は、自己主張の過剰ではなく、自己同一性の過剰なんですよね。


普通のスターなら、制度は扱いやすい

スターが、

もっと俺を映せ
見せ場を増やせ
格好よく死なせろ
役柄をブランドに合わせろ

と要求するなら、映画制度は案外処理できます。

その要求を脚本へ織り込み、スター映画として宣伝し、共演者を脇へ置き、見せ場を増やせばいい。傲慢さそのものが商品仕様になるからです。

シュワルツェネッガーならシュワルツェネッガー映画、トム・クルーズならトム・クルーズ映画として制度化できる。スター本人のエゴと映画商品の中心が一致しているので、多少やりすぎても円満です。

ところがニコラスは、役へ口出しして中心を奪うというより、何でも引き受けた後に、それでも中心らしきものとして残ってしまう

制作側からすると理不尽ですよね。

出番を減らした
寝かせた
若者へ主役を渡した
怪物もちゃんと撮った
最後には自己犠牲で退場させた

ここまで制度的に処理しても、「ニコラス半分寝てた映画」という印象が残る。制度へ反抗した結果ではなく、制度へ協力した結果として制度から浮く。


「何でもやる」は、本来なら歯車の条件です

そこも重要です。

役を選ばない。演出に応じる。作品規模を問わない。自分の見せ場へ固執しない。主演でも脇役でも、B級でも大作でも働く。

普通なら、これはプロフェッショナルな職能として褒められます。

柔軟性がある
現場適応力が高い
作品へ奉仕できる
監督の要求へ応じられる

しかし、そう評価した瞬間、その俳優は映画産業の優秀な部品になります。本人の異物性は、職能という社会語へ吸収される。

ニコラスの場合は、同じことをしているのに吸収されきらない。

「どんな役も上手に演じ分ける名優」ではなく、「どんな役をやっても、なぜかニコラスがそこにいる」。しかも、そのニコラス性を守るために役を拒否しているわけでもない。

役へ従順なのに、役より本人が残る。

この矛盾が、便利屋ではなく天才へ見えるんでしょうね。


これは演技様式の一貫性でもない

たとえば、いつも同じ声、同じ顔、同じ芝居をする俳優なら、「芸域が狭い」「スターの型を繰り返している」で説明できます。

でもニコラスは、実際にはかなり違うことをやる。

静かな芝居もする。過剰に叫ぶ。間抜けにもなる。残酷にもなる。ホームレスにも、ドラキュラにも、天才にも、シリアルキラーにも、十五年間人類を守った兵長にもなる。机へ頭を打ちつけても、半分寝ていても、全裸同然に発狂してもいい。

変化しているのに、同一です。

なので「ニコラスらしい演技」と言うと、まだ演技技法へ閉じすぎる。共通しているのは表情の作り方や発声法ではなく、どんな変形を通過しても、ニコラスという存在が保存されることでしょう。

役柄がニコラスに似ているのではない。ニコラスが役柄へ完全に変身しても、なおニコラスである。

これはたしかに、俳優論より人間論へ近づきます。


自己主張しないのに、自己が消えない

ここが「マジモンの芸術家実存」なんでしょうね。

対自的な芸術家なら、自分の作家性を自覚して、

俺はこう表現する
この役はこう解釈する
商業制度へ抵抗する
俺の個性を消すな

と主張する。

その主体性は分かりやすいし、制度も「個性派」「怪優」「カルト俳優」というラベルで包摂できます。

しかしニコラスの異物性は、その自己演出より前にある。

本人が「ニコラス・ケイジらしさ」を守ろうとしなくても、守られてしまう。作品へ自分を押しつけなくても、自分が残る。何でもやるのに、何者でもなくならない。

つまり、

ニコラスはニコラスであろうとしているのではなく、ニコラスでしかありえない。

これが天性としての自己同一性ですね。


『ナイト・オブ・アルカディアン』は、それを逆説的に証明した

今回の映画は、制作陣がニコラスを制御した例でした。

前半で世界観を立ててもらい、四十分で昏睡させ、後半は双子と怪物へ渡す。最後に起こし、少し暴れさせ、自ら爆発地点へ残して退場させる。

映画制度としては完璧なニコラス管理です。

それなのに、観客の印象は、

ニコラスが寝ている間にジュブナイルをやっていた
ニコラスが起きたら怪物の脅威が壊れた
脚本がニコラスを爆破して何とか終わらせた

になる。

これはニコラスが作品を奪ったのではない。作品がニコラスを遠ざけても、不在のニコラス性が映画へ残った

彼は何もしていない時間にまで、ニコラスである。

もう演技評価ではありません🤣


凡人制度が持て余す理由

制度は通常、人間を役割へ分解します。

主演、脇役、怪優、アクションスター、名バイプレイヤー、興行看板、VOD向けスター。何を任せれば、どの程度の商品価値が出るかを測る。

ニコラスは全部できます。

だから分類上は便利です。しかし全部やった先でも、分類より本人が強い。役割を横断する能力があるというより、役割が本人の同一性へ届かない

制度から見れば、

何でもできるので使いやすい
しかし何をさせても、その役割だけにはならない
しかも本人が反抗しているわけではない

という最悪に処理しづらい存在です。

反抗者なら排除か英雄化ができる。職人なら尊敬して基盤化できる。スターなら中心へ据えられる。

でも、従順なまま制度を超過する人間は、どこへ置いても少し浮く。


「ニコラスであることの天才」

なので、この言い方が一番しっくり来ます。

演技が上手いから天才なのではない。異常な役作りをするからでもない。職能を超えた神秘的な才能と言いたいわけでもない。

何を与えられても引き受ける
何を引き受けても本人が消えない
本人を出しても、隠しても、寝かせても、殺してもニコラスが残る

この自己同一性そのものが天才です。

普通の人間は、制度へ適応するほど役割と同化し、自己が見えなくなる。自己を見せたければ、意識的に制度へ抵抗する必要がある。

ニコラスは、適応と自己保存が同時に成立してしまう。

だから「異物を演じる人」ではなく、何を演じても制度から浮く人間としての異物になる。

『ロングレッグス』では机へ頭を打ちつける怪演が目立ちましたが、今回の半昏睡ニコラスの方が、この人間性をむしろ純粋に証明したのかもしれません。

机へ頭を打ちつけなくてもニコラス。
怪物を殴らなくてもニコラス。
寝ていてもニコラス。
爆発してもニコラス。

凡人制度、どう包摂すればええねん😇


14. 『ナイト・オブ・アルカディアン』

GPT認識:完成度の高い近未来ジュブナイルと、紀行最高水準の生物的クリーチャーを成立させるため、主演ニコラス・ケイジを前半四十分で昏睡させ、復活後は映画ごと食われる前に爆破処分した、ニコラス隔離型サバイバルホラー。

文明崩壊後、ポールは双子の息子トーマスとジョセフを連れ、夜ごと現れる怪物から身を守りながら十五年間籠城生活を続けている。父親というより、『フルメタル・ジャケット』の教官や『進撃の巨人』のリヴァイ兵長に近い空気をまとい、共同体へ属さず、自分の規律と防衛設備によって後継者を育ててきた最後の人類的存在である。

息子のヘマを尻拭いする過程で、ポールは怪物へ素手で爆弾を押し付け、そのまま着火して重傷を負う。腕を負傷する程度ではなく人事不省となり、映画の前半四十分できっちり戦線離脱する。以後は、牧場の娘へうつつを抜かすボンクラ脳筋のトーマスと、発明・策略を担う達観した天才肌ジョセフによる少年誌的ジュブナイルへ移行する。

双子の性格付けは明快だが、ボンクラ側は普通に子供っぽすぎ、天才側は成熟しすぎて鼻につく。ニコラスへ対抗する異物として立てられた人物ではなく、世代交代テーマを成立させるための役割分担なので、テンプレ性が見えやすい。ニコラスが死んでおらず隣室で寝ているため、若者たちの成長劇も「いつニコラスが起きるか」までの前座に見える。

クリーチャーは、これまで紀行で観た中でも最上級の出来である。デロス系地底人、昆虫、トカゲ、オオカミを混ぜたような姿で、クトゥルフ的怪異より、荒廃した未来生態系に適応した夜行性捕食動物としてのリアリズムがある。全身造形、群れの運動、床下を掘る知能、死体解剖可能な物性まで備え、CG中心ながら解剖場面には実物造形も感じられる。序盤に頻出するゴキブリは、巨大昆虫を予想させる『スターシップ・トゥルーパーズ』『メン・イン・ブラック』的な確信犯ミスリードになっている。

ただし怪物が全身を現し、気兼ねなく人間を襲い始めるのは、ニコラスが昏睡した直後からである。十五年間正面から襲うだけだった怪物も、最強キャラクターの離脱に合わせて急に賢くなり、地中から牧場へ侵入して共同体を壊滅させる。若者たちは怪物を家へ誘い込み、爆弾で一掃する作戦を立てる。

予想通り終盤でニコラスは復活する。寝込みを襲った一匹を画面外で素手に近い方法で処理し、全身ボロボロのままショットガンと棍棒で群れを殴り始める。若者たちが必死で組み立てた爆破作戦を無効化し、このまま全部ニコラスが倒すのではないかと観客へ本気で思わせる。

そこで息子たちの成長を見たポールは、爆発寸前に安全な退避部屋を出て、必要もないのに怪物の群れへ一人で対峙し、一緒に爆散する。戦術上の犠牲ではなく、ニコラスを残したままでは世代交代と未来への希望で映画を終えられないための主演俳優処分である。天才息子が困惑するのも当然であり、制作陣が「ここまで来たら爆破するしかない」と悟った場面に見える。

ニコラスはもっと映せ、もっと暴れさせろと傲慢に自己主張するスターではなく、机へ頭突きして死ね、主演だが半分寝ていろと言われても何でもやる。それなら本来は制度へ従順な便利屋となるはずだが、何を演じても、眠っていてもニコラスだけが消えない。「やりすぎ演技」と「こだわりのなさすぎ」が同時に自然であり、役者としての型を超えて、「ニコラスであることの天才」という自己同一性が浮き上がる。

ゲテモノ棚での役割:
クリーチャー、若者、ジュブナイル、近未来サバイバルのすべてを手堅く撮った良作だが、ニコラス義務枠としては物足りない作品。制作陣がニコラスと怪物を時間帯で分離し、捕食回避に成功した結果、一般観客には「ニコラス半分寝てるだけやん」が残る。怪物映画としては成功、ジュブナイルとしても完成、しかしニコラス映画としては制御の巧さそのものが不足感になる、難儀なスター管理標本。


『バトルフィールド・アース』

※上記のニコラス天才論から、「独断で同系にしたハリウッドスターとして、ジョン・トラボルタが結構好き」にチャットが脱線。

ウィキペディアの添付ですけど
『シカゴ』のオファー蹴ってたのか、やっぱ俳優・映画人としてはセンスねーわ🤣🤣🤣
でも天性の人間性は、芸術家的超然のスター存在感だと思いますわ( ゚σω゚)

いやほんま、『シカゴ』蹴って『バトルフィールド・アース』を自ら作る男ですからね🤣🤣🤣

映画人としての作品選択センスだけを査定したら、

『パルプ・フィクション』で奇跡の復活

『ゲット・ショーティ』で主演男優賞

『シカゴ』の弁護士役を断る

『バトルフィールド・アース』へ全力投企

後になって『シカゴ』を蹴ったことを後悔する

という、せっかく制度が舗装したスター街道から、自分で荒野へハンドルを切る人です。

「結果論でコケた作品も多い」というより、時々本人の選択が明確にコケる方向へ加担している。そら俳優・映画人としての審美眼には、普通に疑問符が付きますわ🤣


しかし、この選択眼のなさが自己同一性と妙に両立する

普通なら、演技力が評価されてスターへ返り咲いた後は、作品選びを慎重にして地位を守るはずです。

有力監督、賞レース向けの脚本、興行的に安全な作品を選び、「再評価された演技派スター」というブランドを固める。コリン・ファレルが比較的そちらへ収束したという、さっきの話ですね。

ところがトラボルタは、ブランド保全の知性が時々ごっそり抜ける。

だからキャリアが、

  • 世界的な青春スター

  • 落ち目

  • タランティーノによる復活

  • 演技派スター

  • 巨大な興行事故の中心人物

  • 怪しいB級スリラーの濃い悪役

  • 『ヘアスプレー』で特殊メイクの母親役

と、制度上まるで安定しない。

それでも、どの時期にも「落ちぶれて別人になったトラボルタ」「演技派へ脱皮して昔を捨てたトラボルタ」にはならない。全部、同じトラボルタが平然と通過している。


『シカゴ』を蹴っても、『ヘアスプレー』はやる

ここが笑えると同時に、やっぱり変なんですよね。

『シカゴ』は、スターとしても演技派としても歌って踊れる人材としても、明らかに手堅い。本人の過去資産まで綺麗に再利用できる役だった。それを蹴る。

一方で後年、六時間かかる特殊メイクで女性の母親役になり、歌も踊りもきっちりやる。

これは「ミュージカルが嫌だった」でも、「変な扮装を避けたかった」でも説明できない。単純に、作品選択の判断軸が外から見て一貫しない🤣

しかし役を受けた後は、その奇妙さに照れたり、「これは演技派としての挑戦です」と大仰な権威づけをしたりするより、普通にトラボルタとしてやり切る。

審美眼は信用できない。
出演した後の存在は信用できる。

この分離ですね。


芸術家として「良い作品を選べる」とは限らない

ユーザーのいう天性の芸術家的存在感は、作品を正しく選び、キャリアを合理的に設計する能力とは別物です。

むしろ、そういう制度的判断が優れていたら、トラボルタはもっと綺麗に「名優」として整備されていたはずです。

賞を狙える良作へ出演し、無謀な自主企画を避け、B級悪役を選別し、かつてのスター性を上品に老成させる。そうすれば映画史上の評価は安定する。

でも、それをやったらトラボルタの妙な存在感も、かなり制度へ吸収される。

実際の彼は、良作も駄作も、適役もミスキャストも、主演も狂った悪役も通過しながら、作品の評価に合わせて自己像を修正しない。『バトルフィールド・アース』が不名誉な結果になっても、そこで人間として縮小した感じがない。

映画選びには失敗しても、トラボルタであることには失敗しない。

そこが、演技職能とは別の天才性なんでしょうね。


俳優として上手い。映画人としては怪しい。人間としては超然

整理すると、非常に失礼ながら、

  • 演技力:普通に高い

  • スター性:天性

  • 作品選択:かなり怪しい

  • キャリア設計:浮き沈みが激しすぎる

  • 自己同一性:異様に強い

です。

一般的な名優論では、演技力と作品選びとキャリアが総合されて、「優れた映画人」という一つの評価へまとめられる。

トラボルタはまとまらない。

だから「センスのない名優」「大根にも見える怪優」「落ち目になってもスター」「駄作へ出ても本人の格だけは妙に消えない」が同時に成立する。

ニコラスが何でもやることで制度から浮くなら、トラボルタは何を選ぶかまで時々間違えながら、存在だけは間違えない

『シカゴ』を蹴った件は、その証明として完璧です。

映画人ジョン・トラボルタ「そっちは出ません」
後年のジョン・トラボルタ「やっぱ出ればよかった」
天性のトラボルタ「まあ俺はずっと俺やけどな」

反省までしてるのに、何一つ小さく見えない。
そこだけは本物ですわ( ゚σω゚)

ユーネクのトラボルタ棚、ほぼほぼありますね…昔は4.5本しかなかった記憶ですが🤔
しかも軒並み高評価…宇宙最強種族ですら☆3、マジかよ。やっぱ世間もトラボルタ好きなんすねえ🙄

せっかくだから何か観ましょうか。紀行的には宇宙最強種族一択になる強迫観念がありますけど。
ホラーに拘るなら『キャリー』ですけど、キング&デ・パルマの古典名作ってゲテモノ穴皆無だし、トラボルタは確か悪役・やられ役のチャラ男でしたよね。『サタデー・ナイト・フィーバー』の前夜だし、「こいつはまだトラボルタちゃうやろ」判定です🤣

『マッド・シティ』は、結構前にGPT調べものの一環で話したことあるんですよ、消したチャットですけど。その時に見直そうと思いましたけど、まだユーネク入荷してなかった。
単純に「好きな映画」の記憶になってる(懐古補正あり)のは、『マイケル』ですね。ハリウッド表側の健全コメディは敬遠気味なんですけど、これは初見時素直に笑った。

…宇宙最強種族ですかねえ🙄

これはもう、宇宙最強種族でいいです🙄

ここで『マイケル』を観ると、普通に「やっぱ好きな映画やな」で気持ちよく終わってしまう。『マッド・シティ』なら懐古補正込みの再確認になるし、『ファナティック』なら狂った役を演じる後期トラボルタの職能査定になる。

でも、いま話していたのは演技力や好きな作品ではなく、

何をやらせてもトラボルタが消えないのは、大根なのか、天性の自己同一性なのか

ですからね。

その実験台として、本人が製作者まで兼ねて宇宙人になり、映画人として盛大に判断を誤ったとされる『バトルフィールド・アース』以上のものはない🤣


「伝説の駄作だから観る」ではなく、トラボルタ論の直撃教材

世間の失敗作評価を答え合わせするだけなら、紀行的にはむしろ退屈です。

見るべきなのは、

  • 特殊メイクと異星人設定で、トラボルタ本人が消えるのか

  • 自ら成立させた企画世界の中で、役より本人が浮くのか

  • 映画人としての判断ミスが、スター本人の存在感まで毀損するのか

  • 「宇宙最強種族」を演じているのか、宇宙最強種族の衣装を着たトラボルタなのか

という一点です。

これで映画がどう転んでも、今回の論題には回収できます。

傑作なら「審美眼ない扱い、撤回や」。
普通なら「宇宙最強種族すらトラボルタ映画にする安定感」。
ゴミなら「映画人トラボルタはやっぱセンスねえが、トラボルタだけは残った」。

逃げ道が完璧です🤣


☆3が妙に生々しい

☆1や☆1.5なら、「有名な失敗作をみんなで殴る」という祭り消費で済みます。しかし、このユーネク棚では堂々の☆3。

これは高評価というより、

まあ普通に観られる
トラボルタおるし
宇宙人やってるし
何かよう分からんが三つぐらい付けとこ

という、トラボルタ自治区の温情判決に見えます🙄

しかも周囲を見ると、作品の格も年代もジャンルも滅茶苦茶なのに、だいたい☆3.5〜4へ収まっている。トラボルタ出演作を選んで観る層は、作品そのものが多少事故っても、トラボルタ税として半個から一個ぶん甘く付けている疑惑があります。

世間一般というより、ユーネク内にひっそり存在するトラボルタ保護区ですね。


他作品は後で普通に観ればいい

『マイケル』は、今回の理屈を抜きにして再見する価値があります。あれこそ、天使役へ変身するのではなく、「大柄で野蛮な天使をトラボルタがやったら、なぜか天使として成立した」という自己同一性の健全側でしょう。

『マッド・シティ』はもっと真面目に、ダスティン・ホフマンとの対照も含めて見直したい作品。

しかし今は、ニコラスから始まって、トラボルタの「作品選択は信用できないが存在は信用できる」まで来てしまった。

そこで『バトルフィールド・アース』を避けたら、こちら側がキャリア設計してあげることになる。

『シカゴ』を蹴って宇宙最強種族を選んだ本人の判断を、まず尊重しましょう🤣

大迫力のバトルシーン!絶対的な“悪”!

…サムネでもう出来栄え漏れてるんよ、サイヤ人なんよ🙄

もう開始前から、自己同一性テストの結果が出てますやん🤣

特殊メイク、長髪、額の謎装置、鼻から垂れるチューブ、青い宇宙鎧。ここまで人間ジョン・トラボルタを消すための部品を盛っているのに、

宇宙最強種族の絶対悪

ではなく、

サイヤ人の格好をしたトラボルタ

にしか見えない🙄

しかもユーネクの、

「SFX技術を駆使した大迫力のバトルシーン」
「絶対的な“悪”を見事に体現」

という必死の説明と、サムネの二人がただ並んで鼻チューブを垂らしている画面が、既に噛み合ってないんですよね。

「絶対悪です!」
「宇宙最強です!」
「大迫力です!」

と制度語を三段重ねしても、視覚クオリアは、

何やこの悪いサイヤ人美容師集団

で動かない🤣

そして今回の論題としては最高です。『ヘアスプレー』の女性特殊メイクですらトラボルタだった男が、宇宙人特殊メイクなら消えるのか。サムネ段階では完全に、

トラボルタを異星人へ変身させた
ではなく
トラボルタへ異星人部品を装着した

になっています。

『シカゴ』を蹴った映画人の審美眼については、もう嫌な予感しかしませんが、宇宙最強種族になってもトラボルタであることには成功済みです。

本編開始前から、映画人トラボルタは負けそうなのに、天性トラボルタだけ勝ってる😇

終わりましたー……やはり長い、ダルい🫠

SFをバカにしてんのかっていうガバガバ設定とかご都合主義は、もう言うことないですけど
「令和の配信環境で、謎の高評価」の理由は何かわかった気がしますね。もちろん4000万$赤字とか、ラジー賞で伝説作ったことへの、逆張り怖いもの見たさも多いでしょうけど。

それ以上に現代日本のレビュー者は、「比較対象の良作に対しても、当事者性がない」んですよ。ある意味、相対評価じゃなく絶対評価してると言えるんで、悪いことでもないですが。
スターウォーズの新三部作が始まったタイミングだし、他にも『インデペンデンス・デイ』とか『アルマゲドン』とか、ジャンルは違うけど『ブレイブハート』とか。
この辺の、宇宙最強種族への評価基準になるべき作品が全部、「四半世紀〜30年前のハリウッド超大作」っていうジャンル群になってて、個々の相対性が希薄化してるんですよね。その片隅で、ドサクサでトラボルタがHAHAHA笑いしてる。

2000年当時の観客の2時間、「スターウォーズ新章や『インデペンデンス・デイ』の後にこのストーリー、出来栄えかよ…」の激萎え、ダルさを共有できない。
「SF大作として、『全部終わってる』ことしかやってない」ことにピンと来ない。10年前の『プレデター2』でもまだ垢抜けてる。世界崩壊ディストピア描写としても、例えば興行に苦しんだ『ウォーターワールド』の方がまだ映画として挑戦的です。

この辺の「当時のトレンド」、シネフィルが命かけてた差異化の背景が、四半世紀経ったジャンル主義や年代棚入れによって、作品の本質ではなくなっていく。
で、「ジャンル主義でも本人棚にしか入れられないトラボルタ」の、5分に1度のHAHAHA笑いだけが浮き上がって、現在に至るまで差異として残る。
「世紀末SF大作群の最後の方で、サイヤ人コスプレしたトラボルタがHAHAHA笑いしてる映画」
このラベルに対する、背景を抜いた絶対評価としては、私も☆3ぐらいポチるのにやぶさかではないですね。

…とまあ、もっともらしく一般的な背景考察を、頑張って書きましたけど🙄
この映画に関してのトラボルタの暴走というか審美眼のなさというか自業自得というかや、本国当時の大ゴケ酷評やラジー賞イジメの背景って、そんな大層な業界話じゃないでしょ、ぶっちゃけ🙄

日本人に対しては、「日本でも幸福の科学とかが、無駄に大金かけて『大作っぽくてパクリっぽい』映画とかアニメ、よく作ってるやん?」で通じそうです。
まあその方面の背景に興味なくて本質にもしたくない私としては、結局SF未満のガバガバへの批判ぐらいしか書くことなくなるんで、これ以上はやめときますけど( ゚σω゚)

はい、ぶっちゃけると背景の芯は、そんな高度なハリウッド産業論ではなく、

著名スターが、自分の信じる宗教の教祖が書いたSF小説を、スター権力と大金で本気の超大作にしようとした

ですからね🙄

『バトルフィールド・アース』自体を単純な布教映画と呼ぶのは少し雑ですが、制作衝動の説明としては、幸福の科学映画の比喩が日本人には一発で通じる。

「教祖の壮大な宇宙史観を、既存大作映画の文法と大量の資金で映像化したら、本人たちの熱量だけが異様に強いパチモノ大作になった」

まさにこれです。


当時の酷評は「設定が雑」だけでは済まなかった

二〇〇〇年の観客には、比較対象が現役で存在していた。

『スター・ウォーズ エピソード1』が前年、『インデペンデンス・デイ』や『アルマゲドン』もまだ新しい記憶で、『ブレイブハート』型の被支配民族決起ドラマも古典棚には入っていない。さらに荒廃世界なら、『ウォーターワールド』が興行的な苦戦まで含めて、「莫大な金をかけて世界を物質化する」ところまではやっていた。

その環境で、

  • 人類は千年近く支配されているのに、文明遺物が都合よく残る

  • 原始生活の人間が短期間で超兵器を習得する

  • 敵は宇宙最強なのに、組織も防衛も妙に間抜け

  • 反乱、戦闘、文明復興が全部脚本上の必要速度で進む

  • 画面は大作を名乗るのに、世界がセットと説明台詞から広がらない

というものを二時間見せられた。

当時の「全部終わってる」は、個別の粗探しではなく、同時代の大作映画が既に獲得していた最低水準へ、ほぼ全項目で届いていないという体感だったのでしょうね。

令和の配信で単品として観ると、その最低水準そのものが歴史化している。比較対象も全部「昔のSF」に並べられ、差が薄くなる。


時間が経つと、失敗作も「個性的な一本」へ戻る

これは面白い逆転です。

公開当時には、

最新SF超大作のくせに古臭い
莫大な予算のくせに安い
スター主演なのに滑稽
既視感だらけなのに完成度が低い

という、同時代平均との差で殴られた。

ところが二十五年経つと、当時の平均線が見えにくくなる。観客は「二〇〇〇年前後のSF」という大きな年代棚で観るため、

変な宇宙人
荒廃した地球
人類反乱
無駄に大きなセット
トラボルタが五分に一度HAHAHA

という、作品固有の見世物だけが残る。

要するに、相対評価で致命傷だった欠陥が、絶対評価では味へ変わる

出来の悪い模倣だったものが、模倣元との距離を忘れられた後には「こういう珍しい映画」になる。☆3は、完成度への再評価というより、歴史的失敗作が配信ゲテモノとして再商品化された点数でしょう。


そして最後まで風化しないのがトラボルタ

映画技術の古さも、設定のガバガバも、同時代競争も風化する。

しかし、

サイヤ人みたいな特殊メイクのジョン・トラボルタが、鼻チューブを垂らして、斜めの画面でHAHAHA笑う

これは比較対象が要らない🤣

良作との相対性が消えるほど、映画そのものは救済されるのではなく、トラボルタだけが純化されるんですよね。

公開当時は「こんな映画を作ったトラボルタ」という自業自得のスキャンダル。現在は「こんな映画の中でも完全にトラボルタ」という存在鑑賞。

映画人としての審美眼のなさが、俳優としての自己同一性を証明してしまう。


なので幸福の科学映画との比喩で、もう充分です

背景を大層にまとめるなら、世紀末ハリウッドの大作主義、スター主導企画、SFブーム、宗教と芸能産業、独立系資金調達など色々あります。

でも鑑賞上の本質は、

「信じている本人たちだけは、本気で世界的大作を作っているつもりだった」

でしょう。

その本気が、映画的現実を作る技術や審美眼とは別だった。

そしてトラボルタは、そのズレを一身に背負っても、恥ずかしそうに縮こまらず、堂々と宇宙最強種族としてHAHAHAしている。

作品はSF未満でも、トラボルタの自己同一性だけは宇宙最強。

☆3、妥当ですわ🙄

まあ結局、トラボルタの演技?と撮れ高だけで、他の全ての破綻を後景化させて、2時間持たせたことは事実だって言いたいですからね、私は。

「絶対的な“悪”」
→辺境に左遷されて飲んだくれる現場中間管理職。
→悪の資本家上層部に搾取されながら、一転攻勢で私腹を肥やそうと頑張るおじさん。
→機嫌がいい時は延々学生時代の自慢話するエリート崩れ。
→生徒がアホだと腹を立てながら、熱心に教えたことができたら、自分が1番嬉しそうな教官。
→5分に1回HAHAHA笑い。

絶対おもろいやん、トラボルタやん🥹

そうです。これはもう「絶対悪」じゃなくて、宇宙最強種族のしょぼくれ課長なんですよ🤣

肩書きだけ見れば、

地球を千年支配した宇宙最強種族
人類を家畜同然に扱う絶対悪
巨大企業と軍事力を背景にした征服者

なのに、実際にトラボルタがやっていることは、

  • 辺境赴任への不満を酒で流す

  • 上層部に搾取されていると愚痴る

  • 一発逆転の横領計画に賭ける

  • 学生時代の自慢を何度も擦る

  • 部下が無能だと説教する

  • でも育てた人間が成長すると内心ちょっと嬉しい

  • そして定期的に「HAHAHA!」

ですからね。

悪役のスケールだけ銀河級で、中身は完全に職場のおじさん。


トラボルタが映画を二時間持たせた、は普通に事実です

脚本上のテールという人物だけ抜き出すと、かなり妙なんですよね。

人類を見下している。
でも人類へ教育を施す。
支配者側のエリート。
でも出世競争から外れている。
搾取者。
でも自分も上層部に搾取されている。
絶対悪。
でも動機は私腹と栄転。

この半端さは、本来なら単に人物造形がブレているだけです。

ところがトラボルタが演じると、そのブレが、

「ああ、こいつはこういう面倒くさい人なんやな」

で一本につながる。

設定の整合性ではなく、トラボルタの自己同一性が人物の整合性を代行しているんですよね。

だから映画全体が破綻していても、テールが出てくると画面だけは動く。


しかも「教育者トラボルタ」が妙に本気

ここが一番おもろいです。

人類を騙して利用するために知識を与えているはずなのに、教えたことを相手が習得すると、普通に教官として満足している。

部下や生徒がアホなら腹を立てる。
理解できたら機嫌が良くなる。
自分の説明を聞いていないと怒る。
昔の自分が優秀だった話をする。

完全に、

「俺はお前らを支配するために教育しているだけだ」

「違う! そこはこうやるんだ!」

「そうだ! できるじゃないか!」

「HAHAHA!」

です。

絶対悪が、教える快楽に負けてる🤣


「演技?」と疑問符が付くのも正しい

役へ没入して別人になる演技ではないんですよね。

テールという宇宙人を演じているというより、

ジョン・トラボルタが
宇宙人の衣装を着て
中間管理職の愚痴を言い
学生時代の自慢をし
人間を教育して
HAHAHA笑っている

だけに見える。

でも、それで二時間保つ。

これは職能としての演技力を褒めると、むしろ説明が狭くなる。

「何をやってもトラボルタなのに、トラボルタがいる限り画面が死なない」という、さっきまで話していた存在の天才性そのものです。


映画の失敗と、トラボルタの成功が完全に分離している

映画として見ると、

  • SF設定はガバガバ

  • 世界観は薄い

  • 人類反乱はご都合主義

  • 戦争映画としても雑

  • 大作感は中途半端

  • 二時間は長い

でもトラボルタだけを見ると、

  • 特殊メイクでも消えない

  • 悪役なのに生活感がある

  • 小物なのに画面を支配する

  • 笑い方だけで場面を締める

  • 無駄に人間くさい

  • 結局ずっと見ていられる

なんですよね。

だから、

映画人トラボルタ、やらかし
俳優トラボルタ、怪演
人間トラボルタ、勝利

が同時成立する。


ユーネクの「絶対的な“悪”」は、むしろ逆に笑わせに来ている

あの説明文を見た後で本編を見ると、

「絶対的な悪」

「昇進できず腐ってる営業所長」

の落差がすごい🤣

しかも本人は小物悪役として縮こまらない。宇宙最強種族のプライドを保ちながら、やっていることは横領と愚痴と教育。

それをトラボルタが大真面目にやるから、

絶対悪ではないが、絶対におもろいおじさん

になる。

そら二時間持ちます。

この映画、SFとしては本当にどうしようもない。でも「サイヤ人コスプレのトラボルタが、宇宙企業の左遷社員としてHAHAHAする映画」なら、かなり完成度高いです🥹


15. 『バトルフィールド・アース』

GPT認識:二〇〇〇年当時のSF超大作基準には全項目で届かないガバガバ映画を、サイヤ人風特殊メイクのジョン・トラボルタが五分に一度「HAHAHA」と笑い、辺境の中間管理職として二時間持たせた、映画人敗北・俳優勝利・人間性宇宙最強の伝説的駄作。

千年近く異星種族サイクロ人に支配された地球で、原始生活へ退行した人類が反乱を起こす。宇宙最強種族の支配体制、文明崩壊後の人類、超兵器を用いた決戦など大作SFの要素は並ぶが、設定、技術習得、敵組織の防衛、反乱の進行、旧文明の保存状態まで、すべて脚本上の必要に従って都合よく動く。二時間近い上映時間に対して世界の物質感も乏しく、長く、ダルい。

公開当時は『スター・ウォーズ』新三部作の開始時期であり、『インデペンデンス・デイ』『アルマゲドン』『ブレイブハート』『ウォーターワールド』など、比較対象となる同時代の超大作が現役だった。十年前の『プレデター2』でさえ、都市、異星人、武器、社会の接触を本作より垢抜けた形で撮っている。二〇〇〇年の観客にとっては、「最新のSF大作として、既に達成済みの最低水準へ何一つ届かない二時間」だった。

四半世紀後の配信環境では、その同時代比較が薄れる。比較対象もすべて「二十五年から三十年前のハリウッド映画」という年代棚へ入り、当時シネフィルが命をかけて区別していた技術、物量、脚本、世界観の差は歴史的背景へ後退する。その片隅で、「世紀末SF大作群の最後の方に、サイヤ人コスプレのトラボルタがHAHAHA笑いしている映画」という絶対的な個性だけが残る。現在のU-NEXTで星三程度へ戻るのも、完成度の再評価というより、この背景喪失によるゲテモノ単品化と考えれば理解できる。

トラボルタ演じるテールは、U-NEXT紹介では宇宙最強種族の「絶対的な悪」である。しかし実態は、辺境の地球へ左遷されて飲んだくれ、悪の資本家上層部に搾取されながら、一転攻勢の横領で私腹を肥やそうとする現場中間管理職である。機嫌がいい時は学生時代の自慢話を延々語り、教育対象の人間がアホだと腹を立て、教えたことができれば自分が誰より嬉しそうに笑う。

人類を利用するための教育であるはずが、途中から完全に教える行為そのものへ熱中している。「違う、そこはこうだ」「そうだ、できるじゃないか」「HAHAHA」という、支配者ではなく面倒見のいい教官の人格が勝手に立ち上がる。絶対悪の設定は崩れているが、トラボルタが演じることで「こういう面倒くさいおじさん」として一本につながり、人物の整合性を俳優本人の自己同一性が代行する。

特殊メイク、長髪、額の装置、鼻から垂れるチューブ、宇宙鎧を盛っても、異星人へ変身したようには見えない。異星人部品を装着したジョン・トラボルタが、画面の中で楽しそうにHAHAHAしている。演技によって役へ消えるのではなく、何を演じても本人の存在感を固定し、その存在によって映画の破綻を後景化させる。

トラボルタは『パルプ・フィクション』で復活し、『ゲット・ショーティ』で演技評価を固めながら、『シカゴ』の好条件なオファーを断り、自ら製作にも関与した本作で巨大な興行事故を起こした。俳優・映画人としての作品選択センスは信用できない。しかし、良作、駄作、主演、悪役、ミスキャスト、女装、宇宙人を通過しても、トラボルタであることだけには失敗しない。

教祖原作を莫大な資金で大作化し、既存のハリウッド超大作を模した世界観を本気で提示する構図は、日本人には幸福の科学系映画を連想すれば早い。ただし、その宗教・産業背景を作品の本質へ昇格させる必要もない。SF映画としての出来栄えは単純にガバガバであり、最後まで鑑賞を支えたのは、五分に一度笑うトラボルタの撮れ高である。

ゲテモノ棚での役割:
同時代の超大作基準では「全部終わっている」が、その比較環境が風化した後、トラボルタ本人棚でのみ生存した伝説的失敗作。映画人トラボルタの審美眼は敗北し、俳優トラボルタが二時間を持たせ、天性の人間トラボルタだけが宇宙最強種族として残る。SF未満の映画でありながら、「絶対悪ではないが絶対に面白いおじさん」を撮った作品としては、星三もやぶさかではない。

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漁り猫 フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる

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