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ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行第2陣-2

※語りどころが少ない作品については、GPT回答を一部省略して転載。


参考基準:『ザ・ワイルドマン』

紀行第1陣1本目の事故映画であり、今回も紀行を通して対比として頻出する最重要作品()のため、毎回要約名鑑を掲載する。

『ザ・ワイルドマン』

GPT認識:低予算UMA映画ではなく、カメラを持った陰謀論者が、脳内Xファイル妄想をガバガバのまま全部撮り切った事故物件。

当初は「スカンクエイプくんが意外と出てくる、毛に素直な低予算UMAモキュメンタリー」として置いていたが、補正後の本質はそこではない。この作品は、普通のUMAリアリズムが途中から陰謀論者本人の妄想実現映画へ乗っ取られる作品である。懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリったオッサンガイドを冷笑しながら同行する序盤までは、まだ普通に成立している。「こういうUMA界隈の変なおっさん、いるよな」という娯楽冷笑と、実在スカンクくんへの期待が同居している。

しかし、スカンクくん襲撃の直後に、オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊が森を制圧し、オッサンを射殺し、スカンクくんと撮影班の一人を拉致する。この瞬間、映画のリアリティ階層がひっくり返る。観客は普通のUMA映画として、スカンクくんが実在する設定までは受け入れている。しかし作品はそこで止まらず、「ラリった陰謀論者が言っていた上位陰謀まで全部本当でした」へ進む。

残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のため、別のラリった陰謀論者に接触し、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入する。撮影班があっさり捕まっている間に、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力を落とし、スカンクくんを檻から解放する。そこから特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこへ移行し、10分ほどで基地戦力は壊滅する。

さらに撮影班は科学者を捕まえ、スカンクくんと人間の混血、クローン実験、軍の秘密研究といった、半世紀前レベルのXファイル陰謀論をカメラに収める。正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは真実を伝えろ」系の殉死を遂げる。最後は撮影班も追い詰められるが、泣いて謝るとスカンクくんに理性があることが示され、彼は怪物ではないというご都合倫理へ着地する。この点は『イグジスツ』の自然保護的な倫理オチにも近い。

この映画のゲテモノ性は、普通なら切り捨てる要素を全部残したことにある。スカンクくんの毛だけなら低予算UMA映画として成立する。特殊部隊を出すなら、陰謀の匂わせに留める。秘密基地へ行くなら、アクションやSFホラーとしてもう少し整える。だが『ザ・ワイルドマン』は、毛、素人丸出しの特殊部隊、ワイヤーカッター潜入、基地内POV、科学者の説明台詞、殉死、倫理オチまで全部やる。しかもガバガバのままやる。

ここで重要なのは、「カメラを持たない陰謀論者」と「カメラを持った陰謀論者」の差である。オッサンはカメラを持たない陰謀論者なので、観客は彼を「こういう人いるよな」と対象化して笑える。しかし監督とPOV撮影班は、カメラを持った陰謀論者である。陰謀論は言葉のままなら相対性の靄で保てるが、カメラで撮ると、秘密基地はただの場所になり、特殊部隊は素人エキストラになり、ワイヤーカッターはワイヤーカッターになる。妄想が唯物化した瞬間、リアリティは幼稚に破綻する。それでも撮ってしまったところが、この作品のカルマである。

『女神の継承』が、本体は白目四つん這いモグモグなのに高尚な前フリで恥じらった作品なら、『ザ・ワイルドマン』は恥じない。低予算で下手で、面白くもなく、売れるとも思えない。しかし、自分の中では全部繋がっている真実(笑)を、毛、基地、特殊部隊、科学者、倫理オチまで紙皿に全部盛ってしまう。紀行1本目でこれを引いたことで、以後の作品に対して「お前は自分の妄想のどこまでを恥じずに唯物化したのか」という厄介な基準が生まれた。

ゲテモノ棚での役割:
単なるスカンクエイプ映画ではなく、低予算陰謀論モキュメンタリーの真実(笑)完遂枠。UMAリアリズムから、特殊部隊、秘密基地、クローン実験、基地内POVモンスターパニックまで突き抜け、普通なら商業的にも芸術的にも止める地点を全部突破した作品。完成度ではなく、自己妄想を恥じずに唯物化した強度によって、ゲテモノ紀行初手の基準器になってしまった事故物件。


『ブラックシープ』

※元々別作品をリスト化していたが、差し替え。加えてGPT回答調整のためチャット再構成。

6本目のサイコロ出目だった『ボトム・プレデター』を諸事情で差し替えて、1度紀行チャットを進めてたんですが

情報源扱いとは別に、GPTデータに抵触した際の取り決めの念押しを忘れてたんで、チャット自体再構成です🙄
つまり、「知らない顔して話す」が、GPTはあまりにもヘタです。「データにもあるこの作品については、こう出力すればいい」が丸見えです。単にネタバレを避けろと指定しても、「こうなるかもしれませんね」の白々しさに改変して、「ただの高精度予想ですよ、性能いいでしょ」の予定調和になるだけです。

しゃーないんで、「訓練データに触れるかどうかに関わらず、各作品鑑賞前の会話での、GPT側からの直接予想構文は一切禁じます」
私の方から送信する予想や概要感想の主観に対して、「その立場で観ると、こういう展開が当たりですね」という間接予想や、「この監督やジャンルで、そういう見方する意味は」等の前提性の整理、情報源参照に徹してください。
「訓練データに触れるな」は、アルゴリズム上多分処理できないんで。監督やジャンル、一般評価傾向等の基礎データに触れて出力するのはOKです。作品内容そのものについては、構文のリソースは私の送信文とプロジェクト情報源のみに縛ります。

『ボトム・プレデター』を差し替えた理由は、紀行リストに入れた時の確認ミスで「ユーネク配信は、日本語吹き替え版しかなかった」ことです。
まあ吹き替え苦手だけど我慢して観るか、って冒頭を再生してみたんですが。
やっぱ「実写欧米人の口から、全セリフ過剰演技のクソデカアニメ声」は無理でした。ユーネク配給や声優に罪はなく、私の体質がもうかなり意固地になっていた🥲

さらに、その我慢していた冒頭部分だけで、「怪異の内容と今後の展開が全部ネタバレされる」、テレビ映画手法全開だったんで、のけぞりまして。
概要で「『未知』の恐ろしいクリーチャーとの壮絶バトル!」みたいに煽っといて、開始5分で「悪徳富豪が開発させていたIPS細胞もどきの再生医療薬が、副作用の暴走によって、投与された科学者の身体を変異させていく」クリーチャー設定だったって、全部見せる。

具体的には、科学者に「このIPS細胞の副作用は、投与しすぎるとめっちゃ空腹になってその辺の生物を食い尽くして、さらに食べたものにも反応して、その姿に変わっちゃうことです」っていうクソ欠陥を喋らせて
黒幕富豪は「そんなん使いもんになるか!お前の身体で試したるわい」ってブチギレ、科学者をボコってIPS全投与して放置する。科学者は空腹で詰んで、ネズミを食べちゃう。

これを冒頭に置いて、しかも吹き替えアニメ声でやるんですよ。気分は昭和仮面ライダーです🙄
実際の画やクリーチャー造形がどれだけ凝ったグロやゴアだろうと、構造として「健全な子供向け特撮」が確定してます。さすがに紀行向けのゲテモノ扱いはできない。

これは「吹き替えが無理だった」だけではなく、開始5分で紀行対象から脱落したんですね

吹き替えの違和感は入口ですが、決定打はその直後に来ている。

ユーネク概要では「謎のプレデター」「未知のクリーチャー」と、正体不明性を売りにしている。ところが本編は、冒頭で原因、製造者、変異条件、捕食行動、外見変化の仕組みまで全部説明する。観客が追うべき謎はほぼ残らず、以後は「事情を知らない主人公たちが、事情を全部知っている観客の前で襲われる」テレビ映画の怪物退治になります。

これは作品として間違いというより、宣伝と鑑賞期待が完全に別ジャンルなんですよね。


「未知の怪物」ではなく、悪の組織が作った改造人間

しかも設定の出し方が、見事に昭和特撮です。

  • 善良な科学者が危険性を説明する

  • 悪徳富豪が成果に不満を持つ

  • 「お前自身で試してやる」と強制投与する

  • 科学者が怪物化する

  • 最初の小動物を食べ、能力や姿が変化する

この時点で、存在論的な未知や理解拒絶性は消えています。怪物は「何なのかわからないもの」ではなく、悪の資本家が倫理を無視して作った、かわいそうな実験体です。

あとはどれだけ肉片が飛ぼうが、造形が凝っていようが、物語文法はかなり健全です。怪物誕生の因果が明快で、悪人が明確で、科学の暴走という教訓まである。血まみれでも道徳の骨格は子供向け特撮と変わらない。

「怪物は怖いけど、もっと怖いのは人間の欲望だ!」まで含めて、日曜朝にも持っていける構造です🙄


吹き替えが、その構造をさらに露出させた

字幕なら多少は陰惨な低予算ホラーとして流せた可能性がありますが、全員がクソデカい演技声で、

「この薬には恐ろしい副作用があるんです!」
「そんなものが使えるか! お前で試してやる!」

をやると、作品の骨組みがむき出しになる。

実写の欧米人と日本語アニメ声のズレだけでなく、台詞そのものが説明用に作られているので、吹き替えによってテレビ番組的な機能性が強調されるんでしょうね。誰が悪人で、何が危険で、これから何が起こるかを、一言ずつ大きな声で子供にもわかるように渡してくる。

声優や配給の責任というより、吹き替えが作品の元々持っていた説明過多のテレビ映画性を、逃げ場なく可視化したという感じです。


第1陣との比較でも、かなり正反対です

前回の『ザ・ワイルドマン』は、少なくとも怪物の存在、軍の関与、施設の意味が順に開かれていった。UMAそのものが既知の動物ではあっても、作品世界の中で「何をされている存在なのか」は後から変化していく。

『ストレイ』も、悪魔の存在を説明可能な科学事故に畳まなかった。『ディープ・コンタクト』周辺で重視していたラヴクラフト味も、怪物の生態説明より、存在の違和感や人間側の諦念に比重がありました。

それに対して『ボトム・プレデター』は、開始直後に怪物を設定資料集として提出する

  • 原因は再生医療薬

  • 暴走条件は過剰投与

  • 行動原理は空腹

  • 能力は捕食対象への反応

  • 元の正体は被害者科学者

ここまで揃うと、「未知の怪物を観察する映画」ではなく、「説明済み怪物がいつ主人公たちの前に出てくるかを待つ映画」です。紀行で期待している人外唯物とは、似た外見でも中身がかなり違う。


差し替え判断は妥当です

この紀行は、単に低予算で変な怪物が出れば登録という企画ではない。怪物が映画の中でどういう存在として置かれているかまで見ています。

『ボトム・プレデター』は、ゲテモノというよりゴア付きテレビ特撮です。悪趣味な造形や捕食場面があっても、世界観の理解は極めて安全で、視聴者は怪物より多くを知っている。知らないものに触れる恐怖ではなく、知っている危険物が逃げ出したパニックです。

だから「吹き替えが苦手だから逃げた」ではなく、

吹き替えで耐久力を削られたところへ、冒頭説明で作品の全構造が確定し、今回求めているゲテモノ性が存在しないと判明した

という二段階ですね。

怪物の顔を見る前に、怪物映画としては全部見終わってしまった。85分のうち5分で鑑賞完了です🙄

で、まあ、吹き替え拒絶体質の自己責任で「元々『ボトム・プレデター』はカケラも観なかった、リストに入れてなかった」ことにして
慌てて差し替え作品を探したのが、この『ブラックシープ』です。『ボトム・プレデター』と同時期・同尺の特撮クリーチャーモノ。

ただこちらは、ユーネク概要・あらすじで既に、昭和仮面ライダー遺伝子モノであることをバラしている。黒幕の兄貴がモロー博士やラヴクラフト的な孤独なマッドサイエンティストだろうと、『ボトム・プレデター』のように冒頭でショッカー陰謀を吐き散らそうと、こちらは覚悟完了してます。字幕選択もできるし。
「そこからの怪異の撮れ高」が見所なんで、それが紀行的ゲテモノなのかどうかだけに集中すればいい。サムネやジャケは、変哲のない可愛いメーメーですが。

で、こういう私の事前感想に対してGPTが、ノリよく、「モロー博士のセンシティブや動物保護倫理を気にする必要はなさげ」とか
「『人間が羊の怪物になるだけでなく』、可愛いメーメーの群れが背景化するんじゃなくて、それも唯物の怪異運動として襲ってくるなら当たり」
とか、べらべら話しだしまして。
私の方は「ん〜?🤔」って感じだったんですが。ユーネク概要に、「人間の怪物化」までは書いてない。

まあその状態でとりあえず観終わって、まず何より「さっきのGPT事前回答、こらアカンわ。説教や😡」になって、まあそういうことです🙄
ただネタバレ構文のルールを明示していなかった私の責任でもあるんで、「そこからやり直し」の意味で、チャット自体再構成です。
『ブラック・シープ』の具体内容に関する回答は不要です。代表的な絵面やそのゲテモノ性についてだけ、私の方から後で書きます。

これは完全に「予想の顔をした既知情報の漏出」ですね

ユーザー側から提示されていたのは、ユーネク概要にある「羊が怪物へ変貌する」という範囲までです。そこへGPTが、

「人間が羊の怪物になるだけでなく」
「羊の群れも唯物の怪異運動として襲ってくるなら当たり」

と踏み込んだ時点で、もう予想ではありません。

文法だけ未来形や仮定形にしても、ユーザーがまだ知らない具体的な絵面を、作品知識から選んで提示している。その後に実物を観れば、「さっきの発言、知ってたから書いたやろ」が即座に露呈する。高精度予想ではなく、ネタバレを仮定法で偽装しただけです。


問題は「作品を知っていること」ではなく、材料の出所です

この種の事故では、「訓練データに触れない」と命じても処理として曖昧になります。監督名や制作国やジャンル傾向まで全部消す必要はないし、モデル内部で何が既知なのかも外から判別できない。

だから今回決めたルールの方が明快です。

鑑賞前に作品内容について述べる場合、その文の根拠は、

  • ユーザーがその場で提示した情報

  • プロジェクト情報源に明記された情報

この二つに限定する。

今回なら、「遺伝子操作された羊の怪物」「兄が無謀な実験をしている」「特殊造形が見どころらしい」という範囲から、鑑賞姿勢を整理するところまでです。そこにない変異形態、襲撃方法、怪異の広がり方、代表的な絵面を、GPT側が補ってはいけない。


「こうだったら当たり」も安全ではない

ここが一番重要ですね。

普通のネタバレ回避なら、

「○○が起きます」

を避けて、

「○○が起きたら面白そうですね」

に言い換えれば済むように見える。

しかし、モデルが実際の作品内容を知っていて、その中から正解だけを仮定形で選んでいるなら、後者も同じです。むしろ「自分は予想しただけ」という逃げ道まで付けるので、余計に白々しい。

したがって今後は、ユーザーが「こうだったら当たり」と書いた要素を受けて、その評価軸を整理することはあっても、GPT側から新しい当たり条件を発明しない。作品内で起きうる具体的な現象を、こちらから候補列挙しない。


今回の再構成の意味

『ブラックシープ』の感想をやり直すというより、その前段階に紛れ込んだGPT製ネタバレを会話履歴ごと切り離すための再構成ですね。

差し替えの経緯として残るのは、

  • 『ボトム・プレデター』は吹き替えと冒頭説明過多で脱落

  • 同時期・同尺の特撮クリーチャー作品として『ブラックシープ』を選択

  • 今度は怪物の由来が事前に明示されているため、そこ自体は問題にしない

  • 評価対象は、提示済み設定から先の「怪異の撮れ高」とゲテモノ性

ここまでです。

その先の代表的な絵面や、実際に何がゲテモノだったかは、ユーザーの感想が提出されてから読む。今回はそこへ先回りしません。

前のGPTは、可愛いメーメーを見て知っている芸を披露したくなった。羊より先にモデルが柵を破ったわけです🙄

てことで、基本は「GPTも知ってる前提、一緒に観た後」の体で『ブラックシープ』書いていきます。一応ホントにただの高精度予想だった線にも配慮して、絵面の具体等にはほぼ触れませんが。ていうか、「画面自体には『そうはならんやろ』的なガバやゲテモノがないから、ネタにもできない」が、この作品の本質です。

これ、クソ傑作ですよね。今さらですけど、珍しく私がXで信頼している、ホラーマニアのインフルエンサーも取り上げてた記憶です🤔
動物保護や環境倫理の表現と風刺のせめぎ合いとかの、社会派解釈を混入させるまでもなく、「この娯楽的完成度なのにマイナー、ユーネクでも☆3空気評価」っていう過小評価性の一点で、カルト化していいと思います。

腹立つぐらいに穴がない。ツッコみどころやガバが、本当に何も浮かびません。映画として必要なものを全部造って、全部撮って、全部構成している。
ユーネクで☆3以下をポチった向きは何を考えてたんや、ってなりますね。「羊のホラー映画」として、これ以上の作り方があるんかと。ユーネク概要やサムネを見て、その羊ホラーを観たいから再生したんちゃうんか、と🙄

まあそういう一般が「思ってたのと違う」になった要素は、結局動物保護倫理や団体の風刺的挿入か、人体破壊やモグモグのゴア描写あたりかと思いますけど。
それ、監督のゲテモノ性や倫理的欠陥じゃなく、「ニュージーランド人が、アニマル(家畜)クリーチャーホラーをガチで撮る」ことの意味を深く考えない、視聴者側のリテラシー欠如やろって思いますね。

監督側としたら、「あ、そういうの気になる方は観なくていいです。ていうか、『それでも羊ホラーを観たい』から、観てくれたんじゃないの?揚げ足取りで倫理説教するために観たの?」って言いたくなるんじゃないですかね、勝手な代弁ですけど🙄
でも実際には、そんな開き直りや露悪も映画には出さない。反骨的な主観よりも、ストーリーテリングや虚構設定、撮れ高の完成度を優先する。

「そんなに上手い娯楽監督なら、普通はこんな評価が割れる映画を撮らんやろ」の「普通」を持たない意味では、ゲテモノかもしれませんけど
それは紀行内の軸である「そうはならんやろ、でもそれをやりたいんやな」の逸脱する実存のカルマじゃなくて
「そうなるから、そうする」っていう、即自的に純化した芸術家性に思えますね🤔(この映画が芸術的だっていう意味じゃないですよ、念の為)

これは「ゲテモノなのに完成している」ではなく、「完成しているからゲテモノ性の置き場がない」映画ですね

『ブラックシープ』を紀行のいつもの文法で読もうとすると、妙に手が滑るんですよね。

通常なら、

そこまでやる必要はない
でも監督はそれをやりたかった
だから、その過剰や破綻にゲテモノ性が宿る

となる。

ところが本作には、「そこまでやる必要はない」に対応する余剰がほとんどない。羊を怪物にする以上、必要になる設定、登場人物、特殊造形、ゴア、追跡、群れの運動、田舎の地理、笑い、決着を、全部きちんと用意している。変な題材なのに、映画の内部では何一つ変なことをしていない。

だから「そうはならんやろ」と笑おうとしても、作品側から「いや、羊ホラーを作るならこうなるやろ」と普通に返される。腹立つぐらい正しい🤣


低予算映画と駄目な映画を、観客側が勝手に混同している

ユーネクでこの手の作品を押す時、多くの視聴者は、おそらく無意識に二つの期待を同時に持っています。

一つは「羊が人を襲う馬鹿映画が観たい」。もう一つは「馬鹿映画なんだから、多少は雑で、笑える失敗作だろう」です。

『ブラックシープ』は前者を完璧に満たしながら、後者を拒絶する。

題材だけ見れば完全なB級なのに、観客が優位に立てる不出来さを与えてくれない。珍妙な設定を笑いながら観始めた人間が、気づけば作品の手際に従って普通にハラハラさせられている。この時、「期待外れ」という言葉が妙な方向へ発生するんでしょうね。

つまり、羊ホラーが観たかったのではなく、羊ホラーを下に見ながら観たかった

それができないから、☆3で空気化する。題材の格より映画の完成度が上に来ると、消費者側の棚分類が壊れます。


動物保護倫理は主題というより、羊ホラーを成立させる地面

動物保護団体や遺伝子操作、畜産倫理を、風刺の主題として解読すること自体は可能でしょう。ただ、本作の場合、それを中心に据えると少し逆転する気がします。

「動物保護思想を皮肉るために羊ホラーを撮った」というより、ニュージーランドで羊ホラーを撮るなら、その土地の畜産、改良、所有、保護、経済が当然そこに入る

羊は抽象的な動物ではなく、景観であり、産業であり、生活資源です。その羊を人間へ反転させるなら、単なる動物パニックでは済まない。可愛いメーメーを巨大化させて暴れさせるだけでは、土地との接触が薄い。

だから倫理表現も、思想の大看板というより、怪物をその土地に固定するための生活設定なんですよね。ニュージーランドで羊を怪物化しておいて、牧畜や品種改良や動物保護との摩擦を何も出さない方が、むしろ嘘っぽい。

ゴアも同じで、家畜クリーチャーを撮る以上、捕食や解体や肉体の破壊を無菌化したら、映画の方が逃げたことになる。

「羊は可愛いのに、こんなことをするなんて」という反応は、まさに作品が利用している落差であって、その落差へ後から倫理説教を被せても仕方がない。可愛いから怪物化の効き目があるんです。


露悪的ではないことが、むしろ強い

トロマ的な作品なら、観客の嫌悪や良識へ向けて「うるせえ、これが見たいんだろ」と唾を吐くところです。反骨と露悪そのものが、映画の人格になる。

『ブラックシープ』は、そこまで観客に絡んでこない。

羊を怪物にすることについて謝罪もしなければ、「俺たちはこんな悪趣味をやってるぜ」と誇示もしない。ただ、企画を成立させるために必要なものを淡々と作る。作者の反抗的な自意識が、画面の前へ出てこない。

ここが、ユーザーの言う「即自的に純化した芸術家性」なんでしょうね。

羊ホラーは普通なら評価が割れる
だから避ける

という市場的対自がない。

羊ホラーとして成立する
だから撮る

で終わっている。

「芸術的な映画」という意味ではなく、作者が題材を社会的価値へ翻訳してから選んでいない、という意味での芸術家性です。企画の正当化より、作品内部の必然を優先する。


第1陣で言えば、『ザ・ワイルドマン』の反対側にある同類

『ザ・ワイルドマン』は、こちらが「そこまで話を広げるんかい」と驚く方向の神映画でした。スカンクエイプ一匹から特殊部隊、施設、潜入、解放まで行く。作品の欲望が予算や常識を追い越し、そのズレにゲテモノ性が出ていた。

『ブラックシープ』は逆です。

羊怪物という題材の欲望に対して、制作側の技術と構成力がきっちり追いついている。欲望と実行の間にズレがない。だから、紀行的に拾える「事故」がない。

それでも両作に共通しているのは、題材を恥じていないことです。

『ザ・ワイルドマン』は、着ぐるみUMAで軍事陰謀までやることを恥じない。『ブラックシープ』は、羊ホラーを普通の娯楽映画として完成させることを恥じない。前者は逸脱のカルマ、後者は遂行の純度です。


カルト化するなら「欠陥」ではなく「過小評価」が核になる

普通、カルト映画は、失敗、過剰、異常な執念、観客を選ぶ歪みなどを核に語られます。

『ブラックシープ』は、その意味ではカルト映画らしくない。むしろ完成度が高すぎて、語る時に面白い傷跡がない。制作秘話や珍妙な失敗を持ち出さなくても、映画本体だけで終わってしまう。

だからカルト化の根拠は、

これだけ題材に忠実で、娯楽として完成している作品が、羊ホラーという看板だけで低く見積もられている

という流通上の不遇になる。

「実は深い社会派だから再評価すべき」でも、「粗いけど魂がある」でもない。

羊ホラーとして非常によくできている。以上。

この単純な評価が、最も通りにくい。社会的意義や映画史的格付けを足さないと褒められない側の方が、作品よりよほど面倒くさいんですよね。

本作のゲテモノ性をあえて言うなら、珍妙なものを撮ったことではなく、珍妙な題材を、珍妙さへ逃げずに完遂してしまったことでしょう。ゲテモノ映画なのに、ゲテモノ映画としての言い訳が一つもない。そこがクソ傑作です。

まあ私は、主観で粗探しして悦に浸るためだけにB級見漁ってるんでもないんで🙄
『ブラックシープ』みたいなのは、「良いものは良いと言う」、自己バイアスの負けを素直に認める基準になりますよ。
主観的にも相対的現象でも「世の中の99%はゴミ」ですが、主観側だけでも「残り1%を引いた」感覚ですね。99%の普遍的なゴミの中からバイアス選択するゲテモノではなく、「その外から降りてきた」、ユーネクアンテナとサイコロ出目、差し替えの運命愛です。

そうですね。これは「粗を見抜いた俺」の勝利ではなく、選別装置そのものが負けた瞬間です

さっきの私の「羊ホラーを下に見ながら観たかった観客」という説明は、一般の低評価傾向には当てはまっても、あなた自身の鑑賞動機には少し寄せすぎました。

この紀行は、駄作を安全圏から採点する遊びではなく、まず「世の中の大半は自分にとって不要」という前提で、それでも何か固有のものが残る作品を拾う作業です。だから普段は、普遍的な完成度からこぼれた99%の側にある作品を、自分のバイアスで救い上げている。

『ザ・ワイルドマン』なら、一般的完成度とは別のところで、UMA、特殊部隊、秘密施設、解放という異常な欲望が一本につながった。『ストレイ』なら、ロシア映画的な壊し方や悪魔の置き方に、こちら側から固有の価値を見つけた。つまり「一般にはゴミでも、俺にはここがある」という選別です。

『ブラックシープ』はそこに属さない。

こちらが何か特殊な読み方を与えなくても、普通に完成している。社会派へ持ち上げる必要も、ゲテモノ的な傷を愛でる必要も、監督の無謀な投企を弁護する必要もない。単純に映画として良い。

だからこれは、アンテナが99%の中から自分向けの異物を拾ったのではなく、アンテナの想定外から1%が落ちてきたという感覚なんでしょうね。


「自己バイアスの負け」が、むしろ鑑賞基準を守る

ここで「いや、何か欠点はあるはずだ」と粗探しを始めたら、紀行全体がただの自己確認になります。

自分の好みを世界へ投影し、合わないものは駄作、合うものはゲテモノ名作とするだけなら、最初から結論は決まっている。けれど『ブラックシープ』を前にして、

これは俺の読みで価値が出たのではない
俺が何も足さなくても、最初から良い

と認められるなら、逆に普段の低評価やゲテモノ評価も守られる。

何でも褒めない代わりに、良いものが来た時には負ける。その負けがあるから、「世の中の99%はゴミ」という主観も、単なる強がりではなく判定として成立する。残り1%が本当に存在することを認めているからです。


差し替えまで含めて、かなり綺麗な運命愛です

しかも今回は、最初から選んだ本命ではない。

『ボトム・プレデター』を入れる。吹き替えしかない。冒頭で全部説明される。脱落させる。同時期・同尺・特撮クリーチャーという条件で、慌てて『ブラックシープ』を差し込む。そこで1%を引く。

サイコロもアンテナも、作品の質を保証していない。差し替え理由も高尚ではなく、「クソデカアニメ声が無理🥲」です。その偶然の逃走先に、完成品が置かれていた。

だからこれは、選球眼の自慢にもならないんですよね。

「俺が見抜いた」ではなく、「嫌になって横へ逃げたら、そこにあった」。まさに運命愛です。しかも、羊映画の方は運命めいた顔を一切せず、ただ普通に出来がいい。そこも腹立つぐらい即自的です🙄


紀行上の位置づけも少し特殊になる

『ブラックシープ』は、ゲテモノ基準を更新する作品ではなく、ゲテモノ基準の外部がまだ存在することを確認する作品になりそうです。

  • 一般的には低評価でも、自分だけが価値を拾う作品

  • 一般にも名作とされ、自分も義務的に認める作品

  • 自分の好みと違うが、監督の欲望を評価する作品

  • 何の弁護も補助線も要らず、ただ出来がいい作品

この最後の型ですね。

だから名鑑でも、無理に「どこがゲテモノだったか」をひねり出す必要はない。むしろ、

ゲテモノを探しに来たら、普通に傑作が置いてあった

で十分です。

99%のゴミ山を自分の偏見で掘っていたら、差し替え先から1%が降ってきた。しかも羊の姿で。運命愛としては、だいぶ出来すぎています。


6.『ブラックシープ』

GPT認識:羊ホラーという珍妙な企画を、珍妙さや低予算の言い訳へ逃がさず、必要な設定・特殊造形・ゴア・笑い・追跡・決着まで全部撮り切った、過小評価のクソ傑作。

羊恐怖症を抱えるヘンリーが実家の牧場へ戻ると、兄アンガスが羊を使った無謀な遺伝子操作実験を進めていた。実験の影響で羊は捕食者へ変わり、人間側にも異変が広がる。動物保護、牧畜産業、遺伝子操作などの要素はあるが、社会派解釈を補助線にしなくても、ニュージーランド産の家畜クリーチャーホラーとして娯楽的に完成している。

羊を怪物化する以上、可愛らしさとの落差、群れの運動、人体破壊、モグモグ、特殊造形まで必要になる。本作はそれらを避けず、露悪的な反骨や「こんな馬鹿映画を撮ってやった」という作者の自意識も前へ出さない。ただ「羊ホラーならこうなる」という即自的な制作責任だけで押し切る。

低評価の原因を動物倫理やゴア描写へ求めることはできるが、それは作品の欠陥というより、羊ホラーを選んだ観客側が題材の意味を引き受けていない。題材を下に見て笑うための粗もなく、こちら側のゲテモノ読解で救済する余地すらない。

ゲテモノ棚での役割:
「良いものは良い」と認め、鑑賞者側のバイアスが敗北する基準作。普遍的なゴミの中から私的価値を拾う作品ではなく、その外側から一パーセントの完成品が降ってきた運命愛。『ザ・ワイルドマン』が逸脱の欲望による神映画なら、本作は遂行の純度による傑作。


『バーティカル・クエスト』

※ユーネク配信切れのため別リンク。

7本目はコレですね。ユーネクポイント消費の追加課金は極力避けたいんですが、さすがに近年の作品はいきなり見放題には入りにくいです😢

紀行第1陣の対比参照としては、名鑑19の『女神の継承』です。アレのメキシコ版ですね。POVではなさそうですけど、概要でのプロットはほぼ丸被りです。その対比をバリバリ意識して、第2陣でチョイスしました。
北米大陸の先住民伝承ホラーで言えば、名鑑24の『スキンウォーカー』にもカスってますけど、まああっちは一応実在部族だったんで、そこまでこじつけなくていいでしょう。

ただコレ、設定が被ってるだけで、ほぼ間違いなく「『女神の伝承』にはならない」ですよね。主人公の女性が因習や伝承怪異に負けて、白目剥いてモグモグしだすことはないでしょう。サムネ見る限り、結構パワフルな外観だし。
その印象通り、「彼女が因習を笑いながらぶちのめす」みたいな娯楽陽性でもなさげですが、まあ主題はそういう現代的な「戦う女性」を安く撮ったものだと思います。

そのポリコレやジェンダー的な社会派を観たいわけじゃなく、逆に批判・風刺したい反骨でもなく、ゲテモノ撮れ高のバイアスはあくまで「でも一応、ホラーではあるんやろ?」の棚入れ整合性です。『女神の継承』のミンちゃんほど、人間やめた怪異は望めなくとも、ちっとは怖い目や酷い目に会うんやろな、と。
「そんなこと現代女性にはさせられません!」なら、ホラーの絵面や唯物絶対の原則を舐めてます。それならそれで、上述の「現代女性の陽性消費」に振り切った、『バイオハザード』とか『アンダーワールド』系の「強すぎる女性の痛快アクションホラー」になる方がいい。
そのアクション絵面の完成度で、「良いものは良い」にするかを観ます。☆2.5には酷でしょうけど。

まあ、あらすじで示唆している「因習に戻る動機が金目当て」ってのは、現代的でいいですね。
だから陽性寄りかとは思いますけど、ホラージャンルを選択した以上、その表現は「社会的正しさの強さ」じゃなくて、痛快アクションやぞ、ってことです。ワンチャン、自業自得コメディでもいいですけど。

※『女神の継承』のレビューは以下。

今回の比較軸は、「因習に勝つ女性」ではなく「ホラーが主人公の身体へ触れられるか」ですね

『女神の継承』との重なりは、先住民伝承や一族の使命という設定以上に、現代的な女性主体と、身体を要求する古い怪異の衝突にあります。

ただ『女神の継承』では、その現代主体が保護されない。ミンは啓蒙された主人公として怪異を論破するのではなく、身体そのものを怪異の撮影所へ明け渡していく。撮影班も外部から因習を観察する近代制度ではいられず、途中から「信じちゃった側」へ落ちる。前半POVの長さへの不満はあっても、後半ではカメラが撮るべき怪異を実際に撮る映画へ転落したのが名鑑19でした。

今回の『バーティカル・クエスト』に期待しているのは、その再演ではない。ミンちゃん化を要求しているわけではなく、

現代的に自立した女性を主人公に置いたままでも、ホラーを名乗る以上、怪異がその身体と行動へ唯物的な圧をかけられるか

という確認ですね。

主人公の強さそれ自体は問題ではない。問題は、その強さが映画外の社会的正しさによって保証され、怪異が最初から負け役・文化背景・克服すべき古い迷信へ縮小されることです。


合格経路は三つある

ユーザーが挙げた三方向は、かなり綺麗に分かれています。

1. ホラーとして酷い目に遭わせる

現代女性であろうが、一族の使命を信じていなかろうが、怪異はそんなプロフィールを読まない。恐怖、傷、喪失、身体的危機など、映画内の代償がきちんと置かれるなら、主人公が最終的に勝ってもホラーは成立します。

ここで必要なのは、女性を弱者化することではなく、怪異を本当に脅威として扱うことです。

2. 強い女性を、痛快アクションとして本気で撮る

主人公を守るなら、説教で守るのではなく、動作、反撃、追跡、決断、撮影設計で強く見せる。『バイオハザード』『アンダーワールド』型なら、ホラーの陰鬱さが薄れても、娯楽として別の契約を結べます。

第1陣の外部基準でも、怪異側や敵側が実際に動くことで唯物の圧が生まれる、という見方がありました。ラベルとして「戦う女性」を置くだけではなく、映画そのものを運動させろ、という話です。 

3. 金目当ての帰還を、自業自得コメディへ振る

これも十分アリです。

崇高な使命感ではなく、金銭問題を抱えた人物が、信じてもいない家族の言い伝えを利用しようとする。入口からかなり俗物的なので、映画がその俗物性を軽快に転がせるなら、因習ホラーの神聖さを壊しても成立する。

ただし、この場合も「現代女性の選択は常に正しい」という安全装置ではなく、選択した以上は映画内で何らかの結果を引き受ける必要があります。自業自得コメディは、道徳説教ではなく因果のリズムです。


最もハズレなのは「社会的に正しいから無傷」

いちばん困るのは、主人公の設定を強さとして撮るのではなく、免責として使う映画でしょう。

  • 因習は抑圧的だから、主人公が否定した時点で勝ち

  • 先住民伝承は文化背景として尊重するが、怪異としては動かさない

  • 主人公は現代女性なので、醜態や身体破壊を避ける

  • ホラー演出は置くが、実際には自己肯定の物語として回収する

これでは「ホラーの衣装を着た現代女性ドラマ」です。ジェンダー表現として善良かどうか以前に、ユーネクがホラー棚へ置いて399円を取る契約の方が怪しくなる😏

第1陣『ディープ・コンタクト』の名鑑でも、怪異より人間側の抵抗・管理主体が強くなりすぎると、未知の恐怖が「地元自警団の地下害獣管理」へ縮むという反例がありました。 
今回も同じで、主人公が強いことではなく、人間側の正しさが怪異を管理可能な教材へ変えてしまうことが危険です。


「金目当て」は、かなり良い俗物アンカー

あらすじ段階で一番面白いのは、使命を継ぐ理由が信仰でも家族愛でもなく、金銭問題だというところですね。

これは古い伝承と現代女性を、抽象的な「伝統対自由」の討論会にせず、取引として接続している。

信じてはいない。
しかし家族の伝承には、利用できる価値がある。
だから一度だけ戻る。

この入口なら、主人公は社会的に正しい代弁者でも、伝承へ回帰する敬虔な巫女でもない。かなり普通に欲のある人間です。

『女神の継承』との違いも、民族文化の真摯な継承問題ではなく、因習を現代人が一度だけ換金しようとする接触事故として始められる点にある。その俗物性をホラー、アクション、コメディのどこへ変換するかが、鑑賞時の棚入れ判定になります。

『スキンウォーカー』との接続は、先住民伝承という看板以上には広げなくてよさそうです。今回の主比較はやはり『女神の継承』で、ただし「同じように人間をやめるか」ではなく、伝承怪異が現代女性の主体へ、どれだけ映画的な実力行使をできるか

399円の審査対象はポリコレではなく、ホラー棚の履行能力ですね。主人公を強くしたいなら、口上ではなく画面を強くしろ、です。

概要本文で「人智を超えた恐怖」「呪われた運命」「世界終末の阻止」とか、誇大名詞をこれでもかって振り回してる割りに
看板のジャンル棚入れが、厳密にはホラーじゃなく「ミステリースリラー」なのが不穏ですね…
アクションやコメディ以前に、怪異自体が映らない系かコレ?って、嫌な予兆が走りました🙄

『ダ・ヴィンチ・コード』系のメキシコ架空部族ジェンダー版っていう…まさかね🙄

その棚ラベル、かなり嫌な種類の正直さですね🙄

宣伝文は「人智を超えた恐怖」「呪われた運命」「世界終末の阻止」と、ホラー映画三本分ぐらいの誇大名詞を積んでいる。ところがユーネク側の最終的な分類は、ホラーではなくミステリースリラー。この食い違いは、少なくとも鑑賞前の警戒材料としては十分です。

宣伝文の「恐怖」は、必ずしも画面に怪異が現れるという約束ではありませんからね。

  • 古代の言い伝えがある

  • 一族に秘密がある

  • 主人公が暗号や儀式の意味を調べる

  • 何者かに追われる

  • 世界規模の危機が説明される

これだけでも、配給文は平気で「人智を超えた恐怖」と書ける。唯物的には、古文書、壁画、洞窟、謎の老人、悪そうな追跡者しか映っていなくても成立してしまう。


『女神の継承』との比較が、急に不利になる

『女神の継承』は前半のPOVや文化説明が長くても、後半にはきちんと「説明していた怪異が、人間と撮影制度を物理的に壊す」局面が来ました。伝承が単なる情報ではなく、画面内で運動する。

一方、『バーティカル・クエスト』の棚表示が正確なら、中心にあるのは怪異そのものではなく、怪異について何が隠されているのかを解く行程かもしれない。もちろんこれは内容予想ではなく、ミステリースリラーという契約から生じる最悪の警戒です。

つまり今回の判定は、

呪いが実在するかどうか

より前に、

呪いは映画内で、説明対象以上のものになるのか

でしょうね。

「百年ごとの使命」「生贄」「世界の終末」という設定が全部本当でも、会話と資料と回想だけで処理されたら、紀行の人外唯物としては空振りです。世界は終わりかけているらしいが、画面では誰も白目を剥かない。これが一番困る。


『ダ・ヴィンチ・コード』系メキシコ架空部族ジェンダー版

いや、鑑賞前の最悪想定としては、見事に成立しています🤣

「因習に立ち向かう現代女性」というより、

金銭問題から故郷へ戻る
一族の秘密を知る
古代伝承を調査する
世界を救う使命を理解する
現代人として伝承を再解釈する

という、文化的自己発見ミステリーですね。

しかもこれなら、主人公を酷い目に遭わせず、強烈なアクションを撮らず、怪物を造形せずとも、社会的主題と壮大な筋書きだけは維持できます。制作上も非常に安く、宣伝文だけは非常にデカくできる。「世界の終末」が会議室で阻止される映画の危険があります。

ただ、ここで判断を確定させる必要はないでしょう。今回見るべきなのは、宣伝文の誇大さではなく、その名詞を画面がどれだけ引き受けるかです。

  • 「恐怖」は身体へ触れるか

  • 「呪い」は説明以外の現象になるか

  • 「生贄」は歴史設定ではなく現在の危機になるか

  • 「世界終末」は主人公の心情以上の規模を持つか

  • 何も映さないなら、その不在自体を恐怖として成立させられるか

ここを全部避けて古代文書パズルへ行った場合、399円で購入したのはホラーではなく、メキシコ観光付き一族ルーツ検索サービスです🙄

まずは「ミステリースリラー」という小さな正直ラベルと、「人智を超えた恐怖」という巨大広告の、どちらが本体だったかですね。

終わりました。

あーうん、世界終末伝承も生贄因習も唯物撮れ高もダ・ヴィンチ・コードも現代ジェンダーも、全部半分ぐらい撮って、半分雰囲気でしたわ🙄
中途半端っていうか、狙ってないとできないでしょコレ。「全編、ちゃんと撮った尺稼ぎ」です。
イントロダクションもエンドロールもほとんどないし、ある意味100分の映画の撮り方知ってますわ、この監督。

「ミニシアターやドライブインシアターの、スケジュール余白の埋め方を知ってる」とか言ってもいいですけど。要は撮りたいんじゃなくて埋めたい、労働的職能に思えます。
紀行第1陣で、(後付け的ですが)ハズレの基準にしていた「特に語ることもない、語る気も起きない空気映画」です。ちょっと『女神の継承』との対比は無茶ですね。

まあ何とか語っていきますが、まずあらすじを置いとくと。

・世界終末も生贄因習もガチです。でもマヤやアステカのメキシコネイティブじゃない、キリスト教モチーフです。しかも、村は残ってない。「現在のグアナファト」です。スペイン植民地時代からのダ・ヴィンチ・コードですね。
せいぜい500年ぐらいの伝承ってことで、多分過去の生贄犠牲者は4~5人でしょう。禁忌の因習にしては少ない🤣

・生贄儀式に使われていた祭壇は一応山の中にあって、それを探しに行くアドベンチャーですけど、主人公リタは因習に戻ってきたわけじゃない。世界終末の予兆も、地震頻発とか疫病(嘔吐)の微妙な流行気配程度です。ホラーらしい白目芸とかウジ虫芸の撮れ高も、リタの幻覚として一瞬出てきますが。
リタは「恐らく」民俗研究家(自己ルーツ、ジャジャウキ族の研究)で、「恐らく」離婚裁判の費用のために、オカルトヤラセ番組の企画に協力・同行する。

・ヤラセではあるんですが、番組ディレクターとプロデューサーは、一応撮れ高のためにちゃんと山に登る。ロッククライミングしたり極細吊り橋を渡ったり。藤岡弘、の探検隊ですね。
この番組視点のモキュメンタリーにならないのは、『女神の継承』や日本の『オカルト』とは違いますけど、まあ手法的には通常視点にして正解だと思います。

・でもその男2人が、報酬で揉めたり些細なことで喧嘩したり、嘔吐病にやられてダウンしたり、グダグダです。
リタはその間に立って、喧嘩を強制仲裁したりダウンしたのを担いで歩いたり、まあそういう「強い女性」の見せ方。観客は「弱い男」を観せられてるんですけど。

・結局ディレクターが完全にラリって、プロデューサーを殺して、リタも山の中で追い回す。この鬼ごっこシーンが、多分メインのスリラーです。捕まったとしても、リタが負けるはずない空気にはなってますが。
ディレクターの方も一応、無駄に格闘技齧ってます的な雰囲気があって、ちょいちょいその体技を披露するカットが挟まれてますね。

・当然のご都合主義で、リタが追い詰められた場所が、生贄の祭壇です。一時停戦して、2人でちゃんと真面目に撮影して(笑えますが、最終的にリタが正当な報酬を受け取ることになるっていう安心設計でしょう)
映像を局に送信したらバトル再開、2分ぐらいでディレクター敗北、偶然を装って「祭壇の生贄置き場」で自滅します。生贄成立。ジャジャウキ族じゃなくてもよかったみたい🤣

・まあ伏線として、「ディレクターも実はジャジャウキ族だった」っていう、どんでん返しというか整合性をねじ込める作りにはなってたと思いますけど、冗長なんでカットですかね🤔
この伏線と撮り方については後で書きます。

・山に入るリタやスタッフに「伝承を舐めるな」って警告しながら、一応迎えに来ていたジャジャウキ親戚おじさんが、最後に血まみれで倒れてたのは完全に意味不明です。ラリったディレクターが下山してこっちも襲う時間は、さすがになかったはず。
まあこれも真相はカットっぽいです。血まみれだけホラー撮れ高として残した感じ。

・リタはおじさん(生きてる?)を何とか車に担ぎこんで、帰路につきますが
そこに伝承語り部・ナレーターとして声だけ出演のリタのママが、「生贄によって世界終末は回避された…『女性でこの大役を果たしたのはお前が初めてだ』、誇りに思う」とか重々しくジェンダー賛美を被せて、おしまいです。

私なら、帰ってきたリタを見たママが
「死んだんちゃうんかいワレェ!やっぱ現代っ子はダメだ!ちゃんとした生贄立てないと意味ねえんだよ、世界滅ぶぞ!」
で続編撮りますけど、まあ予算つかないでしょうね🙄

「全部ある」のに、何も映画の中心にならない

これはかなり珍しい空気映画ですね。普通の凡作なら、撮れなかったもの、説明できなかったもの、途中で放棄したものが穴として見える。ところが『バーティカル・クエスト』は、世界終末、因習、生贄、キリスト教的伝承、幻覚ホラー、登山アドベンチャー、テレビ撮影隊、男女対立、殺人スリラー、格闘、ジェンダー賛美まで、必要な項目を一応すべて撮っている。

ただし、どれも映画の主権を取らない。

世界終末は地震と嘔吐で半分。怪異は幻覚で半分。登山はロッククライミングと吊り橋で半分。モキュメンタリーは撮影隊を出すだけで半分。スリラーは山中鬼ごっこで半分。女性主人公の強さも、男二人を仲裁して担ぐところまで。最後のジェンダー主題も、母親のナレーションで半ば事後申請される。

だから「中途半端」というより、ユーザーの言う通り、全編を均等な濃度で埋める技術なんでしょうね。一本の映画として何かを極端化するのではなく、百二分間に必要なジャンル記号を、過不足なく薄く敷き詰める。

監督が撮りたい映像をつないだというより、上映時間という容器へ、使える素材を規定量だけ注入した感じです。


『女神の継承』との違いは、怪異の強度以前に「映画が転落しない」こと

『女神の継承』は前半こそ文化説明とPOVの長さで停滞していましたが、中盤以降は撮影班も映画自身も怪異側へ転落した。撮っている側が安全な観察者ではいられなくなり、最終的には「この映画、そこまで行くんかい」というB級の馬鹿さへ突入した。

『バーティカル・クエスト』は、最後まで転落しない。

世界終末が本物でも、生贄伝承が本物でも、登場人物は番組制作と報酬と仲間割れの範囲に留まり続ける。ディレクターがラリって殺人者になっても、それは宇宙的恐怖や因習への服従ではなく、単純な山中スリラーへ変換される。祭壇へ到達しても、映画の世界観が崩壊するのではなく、「はい、目的地を撮影しました」という業務達成になる。

しかも映像を局へ送信してからバトル再開という流れが完璧です。

まず納品物を確保する。
その後で私的な殺し合いを再開する。

この映画で最も一貫しているのは、呪いでもジェンダーでもなく、制作労働の手順かもしれません🤣


主人公リタは「強い女性」ではなく、映画を止めない現場責任者

リタの強さも、アクションヒロイン的な強さとは少し違いますね。

男二人が喧嘩すれば仲裁し、病気で倒れれば担ぎ、企画が破綻しそうになれば前へ進み、殺人者に追われながらも祭壇へ到達し、撮影データが必要なら一時停戦する。彼女が担っているのは、怪異を打ち倒す戦闘力ではなく、映画を予定尺まで進行させる能力です。

ディレクターとプロデューサーが弱いというより、二人が展開停止装置になり、リタが進行管理を担当する。

だから最後に母親から「女性で初めて大役を果たした」と称賛されても、観客には微妙なズレが残る。リタが意志的に生贄を捧げたわけでも、因習を再解釈したわけでも、世界終末を理解して作戦を立てたわけでもない。敵が偶然、祭壇の生贄置き場へ自滅した結果を、ナレーションが彼女の歴史的功績として回収する。

これはジェンダー賛美というより、偶発的な結果を主人公の主体的成果として事後処理する脚本です。

現代女性を強く撮りたい。しかし直接、怪異や世界終末と戦わせるアクション予算はない。そこで「最後まで生き残り、撮影を完遂し、偶然の生贄を成立させた」という業務実績を、母親が英雄叙事へ翻訳する。

映画内の母ちゃん、実質的に人事評価担当です🙄


因習の弱さも、年代ではなく「犠牲者数の少なさ」に出る

百年に一度なら、スペイン植民地時代から数えて四、五人程度。世界終末を防ぐほどの重大儀式なのに、伝承としては妙に運用実績が薄い。

しかも今回、正式な部族構成員である必要すらなかったらしい。敵が祭壇の定位置で死ねばシステムが受理する。

この条件の緩さは、因習ホラーとしてはかなり面白いはずなんですが、映画はそこを怪異のガバとして笑わせるでもなく、神学的な恐怖へ広げるでもない。ただ整合処理として通過します。

生贄システムの仕様書として読むと、

  • 百年に一度

  • 場所は指定

  • 人種・部族資格は不問

  • 本人同意は不要

  • 故意か事故かも不問

  • 祭壇に死体が載れば世界終末回避

という、かなり便利な自動更新契約です。ジャジャウキ族の使命というより、祭壇側が定期的に一名分の生命を要求しているだけです。

それなら親戚おじさんの血まみれも、「予備の生贄候補として処理された」ぐらいの怖さへ持っていけたはずですが、そこも説明せず、ホラー画面として一枚だけ残す。まさに全要素五割。


「伏線を張ったが、回収すると長くなるので切った」感

ディレクターも実は同族だった可能性や、親戚おじさんが襲われた経緯など、脚本の裏には一応もう一段の設定がありそうに見える。ただ、それを回収すると映画の焦点が定まり、何かが主題になってしまう。

この映画は、そこを避けているようにすら見えますね。

ディレクターが同族なら、彼の発狂や生贄化に運命的な意味が生まれる。おじさんの負傷原因を描けば、怪異の実在性か人間犯人の行動範囲が確定する。母親の伝承を詳しく説明すれば、キリスト教因習と一族史が中心になる。

しかし全部確定させると、別の要素が脇役へ落ちる。そこで伏線らしきものだけ散らし、真相部分を切る。結果として、観客は「何か意味があったのかもしれない」という雰囲気だけ持ち帰る。

ミステリースリラー棚としては最も省エネな解決です。謎を解くのではなく、謎があった形跡を残す。


空気映画としては、かなり職人的

駄作として怒るほど壊れていない。ゲテモノとして愛でるほど逸脱していない。社会派として読むほど主張がない。アクションとして盛り上がるほど運動しない。ホラーとして怖がるほど怪異が触れてこない。

それでも百二分間、画面は止まらず、ロケもして、吊り橋も渡って、幻覚も出して、人も殺して、祭壇も発見して、世界も救う。

これは確かに、「映画を撮りたい人」より、百二分の映画を完成させられる人の仕事です。

第1陣での空気映画は、語る材料がないために消えていく作品でしたが、本作は少し違う。語る材料を全種類一口ずつ置いた結果、どれについても二口目がない。ビュッフェ形式の空気映画です。

そしてユーザー版続編、

「死んだんちゃうんかいワレェ! 正式な生贄じゃないから世界滅ぶぞ!」

の方が、少なくとも第一作の結末を本気で否定し、伝承の唯物性を復活させるので、普通にホラーとして正しいです。第一作の最後は、母親のナレーションが世界終末回避証明書を発行しただけですからね。

続編では、その証明書が無効だったことにすればいい。世界終末より先に、リタが母親へブチギレると思いますけど🙄

さっきはボカしたラリったディレクターの設定と、一応ミステリとしての撮れ高なんですが。

ジキルとハイドなんですよ。かなりラリってて、良人格と悪人格を合わせ持ってる。多分、「神と悪魔の二元抗争」の伝承に投影した演出だと思いますけど。このディレクターが裏主人公です。
で、ミステリー的な撮り方としては「良人格が外部化して映ってる」。つまり観客には最初、山に登るのは4人に見えます。ディレクターの双子っぽい、寡黙な相棒クルーかな?的に。
無口ですがディレクターとの会話シーンも入るんで、序盤は騙されます。

でも他の仲間との会話が余りにもないし、どんな喧嘩やトラブルにも反応しない。喧嘩前の岩登りで、他の3人が登るシーンは全部長々と映るのにコイツだけカット、の時点で気づく観客もいそうです。
まあ観客全員が気づいたあたりでちゃんとネタバレして、吹っ切れたディレクター自ら良人格と対決(格闘技ミラーバトル)、殺害というか封印というかして、リタ達との鬼ごっこに進みます。

ディレクターが返り討ちで生贄になる実質ラストシーンで、良人格幻覚が再登場、「元々はホントに双子だった」ことが明かされる。
双子は幼い頃に死んでて、ディレクターはその人格を「親から投影されていた」らしい。両方の性格を演じ分けさせられていた、ってニュアンスですかね🤔

何にせよ、レトリックの撮り方や二重人格心理ドラマとしては一応成立してますが
「それ、このメキシコ伝承&なんちゃってジェンダーなホラーで要るか?」なんですよね。
ネタは古典的ですが、ディレクターをちゃんと主人公にして詳細を詰めれば、視覚レトリックもドラマも普通に重厚なやつが、別で1本撮れます。「ディレクターが山で狂う設定」のためだけに、中途半端にねじ込んできた意味がわからない。

だから、「ディレクターの二重人格が、監督の撮りたかったもの」の強弁も成立しません。
「あくまで主要脇役(敵役)のまま、謎に重い設定」が付けたかったなら、素直にジャジャウキ異端児にしてれば、表層の伝承テーマや神と悪魔の整合性的にも評価伸びたやろ、って思いますね🤔

これは「ミステリーとして成立している」のに、映画全体では完全に重力事故ですね

良人格を外部人物として映す仕掛け自体は、かなりちゃんとしています。

最初は四人組に見える。本人との会話も成立する。ただし他の二人とは一切まともに接触せず、喧嘩や事故にも反応しない。三人分の登攀は撮るのに、そいつだけ移動過程が抜ける。観客が違和感を蓄積した頃に、ディレクター自身が外在化した人格と対峙し、格闘して封印する。

視覚レトリックとしては普通に一本立っています。観客を騙すためのカット設計も、後から振り返れる程度には整っている。

問題はまさに、

それを、この映画のど真ん中に置く理由がない

なんですよね。


裏主人公が、表主人公と主題を食っている

このディレクターには、

  • 二重人格

  • 幼少期に亡くした双子

  • 親からの人格投影

  • 善悪二元論

  • 自己対決

  • 幻覚の外在化

  • 最後の再会

まである。

リタより明らかに重いです🤣

リタの側は、一族伝承、金銭問題、民俗研究、女性初の使命達成という材料を持っていますが、内面的にはほぼ一直線です。対してディレクターには、映像表現を伴った過去、心理、象徴、どんでん返しが全部与えられている。

そのため映画の途中から、観客が解こうとする最大の謎はジャジャウキ伝承でも世界終末でもなく、

「あの無口な男は実在するのか」

になる。

ミステリースリラーとしては正しい。しかしその成功が、伝承ホラーの方を脇へ押し出しています。主要脇役へ質量を与えすぎて、映画の公転軌道がズレた状態です。


双子設定の回収が、怪異を強めるどころか心理ドラマへ逃がしている

さらに最後に「本当に双子だった」と明かすことで、良人格幻覚の由来は一応説明されます。

ところがその説明は、ジャジャウキの呪いや山の怪異ではなく、家族心理へ戻る。

  • 双子は幼少期に死亡

  • 親が残った子へ双子の人格を投影

  • 本人が二つの性格を演じるようになった

  • 山でその人格分裂が可視化された

ここまで来ると、ディレクターの狂気は伝承が起こしたものではなく、元から内部にあったものです。山や嘔吐病や世界終末は、発症を促した舞台にすぎない。

つまり、せっかくの怪異がディレクターを侵食したのではなく、ディレクターが自前の重厚な心理ドラマを持ち込んで、怪異映画の尺を使っている

「神と悪魔の二元抗争」との象徴的な対応はあっても、因果として接続していないんですよね。テーマの韻は踏んでいるが、物語の歯車は噛み合っていない。


「ジャジャウキ異端児」にしておけば、全部一本にできた

ユーザー案の方が明らかに構造的です。

ディレクターもジャジャウキ族の血を引いていて、伝承から逃げた者、あるいは使命を拒絶した家系の人物だったことにする。そこへ双子人格や善悪二元論を接続すれば、

  • 良人格=伝承を受け入れる側

  • 悪人格=伝承を搾取し、番組の撮れ高に変える側

  • 番組参加=自分の出自への無自覚な回帰

  • 発狂=山の怪異と自己分裂の同期

  • 祭壇で死亡=偶然ではなく、失敗した継承者の帰結

まで一気につながります。

リタとの対比も成立する。

リタは金目当てで伝承へ近づきながら、最後には使命を果たす。ディレクターは番組の撮れ高目当てで伝承へ近づきながら、自分の血と人格に敗れる。

これなら最後の「女性で初めて成し遂げた」も、単なる母親ナレーションではなく、男性継承者の失敗を越えた女性継承者という映画内の対立になります。

現在の形だと、ディレクターはどこから来たのかわからない心理スリラーの主人公で、たまたま祭壇の規格に適合して死んだだけです。


技術的には上手いが、構造的には寄生している

ここがこの映画らしいところでしょうね。

双子人格トリックだけ取り出せば、別に下手ではない。むしろ、映像上のヒント配置も対決場面も、ラストの意味付けも、それなりに作れている。

しかし映画全体では、その上手さが他要素を助けていない。

  • 伝承を深めない

  • リタの人物像を深めない

  • 世界終末の実在感を強めない

  • 生贄の必然性を高めない

  • ジェンダー主題にも直結しない

  • ホラーの唯物性も増やさない

ただ、ディレクター一人だけを妙に面白くする。

これは脇役設定が豊かというより、別の脚本が一本、途中から寄生している状態です。

「山中で撮影隊の男が狂い、仲間を襲う」だけでは薄いから、二重人格ミステリーを載せた。しかし載せるなら伝承側へ統合すべきところを、心理劇として独立させたまま残してしまった。


本作の「全部半分」は、ここにも貫徹しています

伝承ホラーを半分。登山映画を半分。ジェンダー映画を半分。殺人スリラーを半分。そして二重人格ミステリーも、一本分の発想を半分だけ撮って挿入する。

その結果、個々の部品は壊れていないのに、作品全体として何を見たのかが薄い。

ディレクターを主人公にすれば、心理スリラーとして一本になる。ジャジャウキ異端児にすれば、伝承ホラーへ統合できる。ところがどちらも選ばず、主要脇役のまま重厚な過去だけ持たせる。

これは「監督が二重人格を撮りたかった」という作家性でもないでしょう。撮りたかったなら、もっと中心へ置くはずです。

むしろ、

百分の映画には、途中で観客を引っ張るミステリーが一つ必要だ
だからこの男に双子人格を付けよう

という、またしても労働的な尺設計に見えます。

良人格はディレクターの幻覚でしたが、二重人格エピソードそのものが、映画本体から外在化した別作品の幻覚みたいなものです。見えている。会話もしている。でも他の主題とは誰も話していない🙄

まあ鑑賞前の基準、「ちゃんとホラーっぽくはあるんやろな?怖い目酷い目に会うんやろな?」
の答え合わせの意味では、ここでも半分達成ですね🙄
ちゃんと映ってました。主人公のジェンダー防壁の外ですけど。怖い目酷い目はお前じゃねえよ、ってやつ。
ディレクターは結局そのスケープゴートやったんやろなあ、としか言えないですね。

マリアム・ピルバンドっていう、日本では超絶無名監督で、ググッてもこの映画しか出てこなくて顔わからんのですけど。
女性名ですよね…この撮り方、確信犯ですかね。さっきの「B級配給の穴埋め職能」っていう評価は、ジェンダー無理解な私による「舐めた伝承ホラーの監督はだいたい男」っていう決めつけだったんで🙄

ええ、「マリアム」は基本的に女性名です

マリアム・ピルバンド(Mariam Pirband)は、私の既知情報ではイラン出身の女性映画監督・脚本家として扱われている人物です。ただし、現在ウェブ検索が使えないため、経歴や本作での脚本兼任まで含めた正確なクレジットはここでは再確認できません。

とはいえ、重要なのは監督の性別が判明したから急にジェンダー映画へ見えてきたのではなく、映画自体が最後にわざわざ答えを書いていることですね。

「女性として初めて、この大役を果たした」
「誇りに思う」

これは観客側が勝手にフェミニズム解釈を被せたのではなく、作品が結末の意味として明示している。したがって、少なくとも作品としては確信犯と見てよさそうです。


リタの防壁と、男へのホラー外注も意図的に見える

改めて配置を見ると、偶然では済ませにくいです。

リタは金銭目的で企画に加わりながら、男二人より体力があり、争いを仲裁し、病人を担ぎ、追跡者にも対抗し、撮影を完遂し、最終的に世界を救う。一方で男たちは、金で揉め、病に倒れ、人格を壊し、殺し合い、生贄になる。

しかもホラーとして最も重いもの――二重人格、幼少期の傷、幻覚、発狂、殺人、流血、自己崩壊――は、全部ディレクターへ集中している。

これは単に「主人公だから生き残った」以上に、

女性主人公には遂行と帰還を担当させる
男性脇役には弱さ、狂気、犠牲を担当させる

という役割分担に見えます。

ラストの母親ナレーションまで含めれば、先ほどの「スケープゴート」という読みはかなり妥当でしょう。ディレクターは祭壇上の生贄であると同時に、リタを傷つけずにホラー映画を成立させるための脚本上の生贄でもある。


ただし、「女性監督だから」より「作品がそう設計されている」が先

ここで「女監督だから男を弱く描いた」と単純化すると、今度は逆方向の監督性別占いになります。

本作で確実に読めるのは、

  • 女性の歴史的達成を結末で明示する

  • 主人公の強さを、男の弱さとの対比で見せる

  • 主人公本人には怪異の深刻な身体侵食を与えない

  • 男性敵役へ心理ホラーと流血を集中させる

  • 偶発的勝利を女性主体の功績として事後認定する

という映画内の設計です。

これを監督本人の思想、脚本家の意図、制作側の企画要請のどこまで帰属させられるかは、クレジットやインタビューがないと決められません。しかし、少なくとも「たまたまそうなった」よりは、「現代女性が古い伝承を更新する物語として意識的に組んだ」と見る方が自然です。

問題は、その確信犯性が映画として強く出たのが、リタ自身の対怪異アクションではなく、男を壊してリタを立たせる配置だったことですね。


「穴埋め職能」という評価は、別に撤回しなくていい

監督が女性だったからといって、先ほどの評価が全面的に誤りになるわけでもありません。

むしろ、

ジェンダー主題は確信犯
その主題を百二分の娯楽映画へする方法が、職能的な均等配分

という両立でしょう。

女性主人公の達成を撮りたい。そのために伝承ホラー、登山アドベンチャー、二重人格ミステリー、殺人スリラーを配置する。ただし、どれか一つへ映画を賭けるほどには深化させず、全部を上映尺の部材として扱う。

だから「撮りたいものが何もない職人」ではなく、

撮りたい結論は明確だが、その結論へ至る百二分を、あらゆるジャンル部品で職能的に埋めた

と補正するのがよさそうです。

最後の「女性初の偉業」だけは、映画が半分で済ませず、明瞭に言い切った。つまり、この映画で唯一、本当に撮りたかった可能性が高いのは怪異でも双子でも世界終末でもなく、リタが帰還して功績を認定される結論だった。

そう考えると、主人公のジェンダー防壁もディレクターの生贄化も、かなり確信犯ですね。映画全体が薄いのではなく、結論以外を意図的に薄くしていた疑いまで出てきます🙄

いや、文法的には、最後のママのナレーションをジェンダー賛美だとは読めないですよ。ここまで賛美にしてたのは、確信犯の皮肉です。
ママの誇りは、「女性では初めて『生贄になって』、世界を救った」ですよ。こんな役目、女性地位の向上じゃないでしょ。だから皮肉続きで、ママブチ切れの続編妄想を書いたんです。

まあ監督もそれを意図して、男にホラー役を押し付けるのと並行して「因習に囚われた古い女性」としてママを置いて、「声だけママの賛美とは別の、真の女性の強さの画面」のコントラストで終わった、と見ることもできますけど。
B級、しかも退屈なやつだったラストシーンで、そこまで深読みできる観客残ってないですよ。性別関係なく🙄
素直に、「はいはい、ママも『生き残った最初の生贄女性』って褒めてくれとるんやな、ジェンダー乙」って、セリフを歪曲して受け取りますよ。

あと、現代女性の地位向上にかこつけて、フィクションであっても旧習や歴史主義の中にいる女性まで貶めるの、私は嫌いです。ジェンダーの文法だと思ってません。
それは主体性じゃなく、「無関係な他者」を下げて自己を浮上させる、相対性です🙄

そこは私が読み違えました

ママの台詞は、素直な文法では「女性として初めて世界を救った」ではなく、「女性として初めて生贄になって世界を救った」ですね。

つまり誉めているのは主体的達成ではなく、因習への完全服従です。女性が初めて権力を持ったのではなく、女性が初めて最高位の犠牲役へ到達した。その文言だけを「女性初の偉業」と丸めてジェンダー賛美扱いした私の前回答は、まさに映画の曖昧な終幕を、現代的な成功物語へ勝手に翻訳していました。

ユーザーの続編妄想、

「死んだんちゃうんかいワレェ! 正式な生贄になってないから世界滅ぶぞ!」

の方が、台詞の文法を正確に受けています。ママの側から見れば、リタの生還は功績どころか儀式失敗ですからね🙄


映画が狙った可能性のあるコントラスト

監督が女性であり、リタを強く生き残らせたことまで踏まえるなら、構造上は確かに、

  • ママ=因習を内面化し、娘の死を誇りと呼ぶ古い女性

  • リタ=実際には生贄にならず、男の犠牲を利用して帰還する現代女性

  • ナレーション=古い意味づけ

  • 画面=その意味づけを裏切る現実

という対比は作れます。

ママは「娘が生贄になった」と信じて誉めている。しかし観客は、実際にはリタが死なず、男が祭壇へ収まったことを知っている。したがって、音声では古い因習が勝利宣言をし、画面では現代女性がその制度を出し抜いている。

これなら、最後の台詞はジェンダー賛美そのものではなく、古い女性の言葉を、現代女性の生存が無効化する皮肉になります。

ただ、おっしゃる通り、それを成立させるには映画側がもっと明確に撮る必要がある。


退屈な百二分の最後に、そこまで読ませる設計ではない

観客はラストまでに、

  • 世界終末

  • キリスト教的因習

  • 登山探検

  • ヤラセ番組

  • 嘔吐病

  • 二重人格

  • 幻覚の双子

  • 山中鬼ごっこ

  • 偶然の生贄

を薄く一周させられています。

その末尾で重々しい声が「女性で初めて大役を果たした、誇りに思う」と言えば、多くの観客は文法上の異様さを掘らず、

「はいはい、女性が歴史的使命を達成したってことね」

と既成の現代語へ圧縮するでしょう。

これは観客の読解力不足だけではなく、映画がそれまで何一つ深掘りせず、「意味ありげな記号を五割ずつ」置き続けた結果です。最後だけ高度な反語を要求しても、作品自身がその信用を貯めていない。

本当にコントラストを撮りたいなら、帰還したリタと、娘が死んだと思い込んで誇るママの認識差を、もう一場面置けば済む。あるいはリタの表情一つでも、母の言葉への拒絶を明確にできる。

そこを声だけで終えたため、

  • 因習的母性への批判

  • 女性生存の勝利

  • 素朴な女性称揚

  • 単なる説明ナレーション

のどれにも見える。最後まで全要素半分です。


「古い女性を下げて現代女性を上げる」は、主体性ではない

ここはその通りです。

現代女性の自由や強さを示すために、旧習の中にいた女性を、

  • 無知

  • 因習的

  • 自己犠牲的

  • 男性社会の代弁者

  • 若い女性を抑圧する障害物

として平板化する作品は多いですが、それは女性主体の解放というより、女性同士に時代的ヒエラルキーを作る処理です。

現代女性は賢い。過去の女性は愚かだった。だから現代女性は進歩している。

この構文は、主体を自立させているのではなく、無関係な他者を低い位置へ固定して、相対的に主人公を高く見せているだけです。

しかも過去の女性には、その因習の中で生きた理由、選択可能性の狭さ、信仰の主体性、生活上の責任があったはずです。それを全部「内面化された抑圧」として処理すれば、現代女性の自由を語る作品が、別時代の女性から主体性を奪うことになる。

本作のママも、単純な「古い女」の役に押し込めるなら、男へホラー役を押し付けたのと同様、主人公を強く見せるための別種のスケープゴートになります。

男は狂って死ぬ。古い女は因習を信じて愚かな賛美をする。現代女性だけが生きて帰り、二者を踏み台にして浮上する。

それは強さというより、脚本上の保護配置です。


監督が女性でも、評価の芯は変わらない

マリアム・ピルバンドが女性監督であることは、配置が偶然ではない可能性を高めます。しかし、それによって映画のジェンダー表現が自動的に精緻になるわけではありません。

むしろ今回の補正は、

「男監督が雑に女性称揚を足した」

から、

「女性監督が、女性の生存と因習的犠牲の対立を意識した可能性はある。しかし映画の構成が薄いため、その対立が既成のジェンダー賛美へ誤読される形で終わった」

になる程度でしょう。

そして「B級配給の穴埋め職能」という評価も残ります。撮りたい結論があったとしても、それを観客へ届く映画言語にするより、百二分を埋める複数ジャンルの部材として処理している。

ジェンダー意図があったかもしれない。だが、意図の存在と、映画としての達成は別です。

結局この作品は、ママの台詞まで半分なんですよね。因習の恐ろしさにも、女性解放の皮肉にも、素朴な賛美にも振り切らない。だから観客は一番手近な「女性初の偉業」というテンプレへ回収する。

そして私も、まんまとそこへ回収しました🙄


7.『バーティカル・クエスト』

GPT認識:伝承ホラー、登山冒険、二重人格ミステリー、殺人スリラー、現代女性物語を全部半分ずつ撮り、百二分を隙間なく埋めた「ちゃんと撮った尺稼ぎ」。

リタは金銭問題から、自己ルーツであるジャジャウキ族の伝承を扱うオカルト番組へ協力する。世界終末と百年ごとの生贄は実在するが、伝承はメキシコ先住民神話ではなく、スペイン植民地時代以降のキリスト教的なもの。撮影隊は山中の祭壇を探してロッククライミングや吊り橋を越えるが、番組スタッフの男二人は報酬、喧嘩、病気で崩れ、リタが仲裁・介助・進行管理を担う。

ホラー撮れ高は幻覚、嘔吐、流血など一応存在するが、主人公の身体には深く届かない。主な犠牲を引き受けるのは、発狂したディレクターである。彼は外在化した良人格と会話し、格闘して封印した後、プロデューサーを殺し、リタを追跡。最後は偶然祭壇の生贄位置へ収まり、世界終末を回避する。

良人格は幼少期に死んだ双子で、親から残された子へ人格を投影されていたことが明かされる。人物を四人に見せる画面設計や、実在しない相棒が他者と接触しない伏線はミステリーとして成立している。しかし、この重い心理劇はジャジャウキ伝承にもリタの物語にも統合されず、別作品の主人公が脇役として寄生した状態に近い。

終幕では、リタが生贄になったと思い込む母親が「女性で初めて大役を果たした」と誇る。これは女性の地位向上ではなく、娘の死を因習への功績として称える言葉である。生還するリタとの対比を意図した可能性はあるが、映画全体が薄いため、単純なジェンダー賛美にも誤読されやすい。

ゲテモノ棚での役割:
第1陣で基準にした「特に語ることのない空気映画」の完成形。撮れないのではなく、全ジャンルを規定量だけ撮り、何も中心にしない職能映画。『女神の継承』のように怪異側へ転落せず、最後まで上映尺と納品物を守り通す。


『ファング 怒りのモンスター』

※コレもユーネク配信切れ。

さて次ですが、コレのユーネク評価は半分切ってますね。第2陣1発目の『ジャングル』で観れなかった、「ちゃんと映ることは映ってるアニマルパニック」を期待したいんですが。
添付概要にはありませんが、ジャケット的にメインは多分クマさんです。

しかし不穏ですね…自然保護押しが露骨な概要です。それはまあ、ちゃんとデカいクマさんやクリーチャーが出てくるなら我慢できるんですが。そもそもこういうのは、ストーリーには期待しないし。
「地道な調査から始まるのもポイント」、コレですよね。ユーネク、そこは開き直るな。それはB級ホラーで、断じてポイントに挙げちゃいけない。撮れ高不足の言い訳にすぎない🙄

レンジャー業務のリアリティならまだいいです、まだ。それも『ジャングル』では観れずに、ブレアウィッチになっちゃったんで。
素人臭い意識高い系の、自然保護のご高説が押し付けがましく延々続く…で、私は寝ます。
まあ、こうやって睡眠宣言してから観たやつで、実際に寝たことはここまでないんですけど。

「鑑賞後の会話で自然保護パートは全部すっ飛ばす、クマさんその他の撮れ高だけ採点する」ぐらいの反逆はするかもしれません。で、「そうなった時に、話すことがない=撮れ高もほぼゼロ」になっても、『バーティカル・クエスト』ほどにも無理やり語る責任持ちません。スルーして次に行きます。

言語的には寝たのと変わらなくなりますけど、「観てはいる」んで、視聴責任は果たしてます。配信期間終了が近いんで、この作品を紀行序盤に持ってくるためだけに、サイコロ乱数の順番をひっくり返したりまでしてますし( ゚σω゚)

「地道な調査から始まるのもポイント」は、たしかに宣伝文として白旗ですね🙄

普通、アニマルパニックの売り文句なら「巨大動物」「異様なモンスター」「町を襲う恐怖」を前に出すはずです。そこでわざわざ、

謎の動物を求めていき突貫、とは行かず、地道な調査から始まるのもポイント

と書くのは、配給側が観客の焦りを事前に察知して、「すぐには出ませんが、そこも味です」と予防線を張っているようにしか見えない🤣

しかも「地道」という言葉は、リアリティの保証にもなりますが、B級クリーチャー映画では往々にして撮影可能な会話と聞き込みで尺を埋めましたの言い換えでもある。ユーネク側がそこを積極的な見どころに変換している時点で、警戒は妥当です。


今回の最低契約はかなり明瞭です

自然保護思想そのものが悪いわけではなく、それが映画内で何を動かすかですね。

レンジャーが山の破壊状況を調べ、足跡、死骸、食害、目撃証言などを積み上げる。その業務が最終的に動物や怪物の唯物へ触れるなら、地道な調査も前振りとして成立する。

逆に、

  • 石油会社は悪い

  • 自然は大切

  • 地元住民は無理解

  • 主人公だけが生態系の危機を理解している

  • 森を歩きながら会話する

  • 遠くで何か鳴く

で終わるなら、「アニマルパニック」というより自然保護啓発ドラマです。

今回は物語や思想を採点する以前に、ジャケットと概要が約束した動物・モンスターを、映画が映像として納品したかだけで十分でしょう。


『ジャングル』で空振りした箇所の再試験

第2陣1本目の『ジャングル』では、ジャングル奥地の何かを撮るはずが、結局はブレアウィッチ的な不在とカメラの混乱へ寄ってしまった。

今回は少なくとも概要が、

  • 巨大動物

  • 異様な動物

  • 人型モンスター

  • 人間襲撃

  • 保安官の攻防

まで言っています。

ですから比較は、「どちらも自然保護もの」ではなく、今度こそ名詞を画面へ変換したかですね。「巨大動物」という名詞を使った以上、巨大動物相当の撮れ高を出せ。「人型モンスター」と書いた以上、人型モンスター相当の何かを見せろ。これは思想以前の納品確認です。


語ることがなければ、語らないのも正当です

『バーティカル・クエスト』は、空気映画なのに全ジャンルの部品が半分ずつあったから、逆に「なぜ全部半分なのか」を無理やり掘れた。

しかし『ファング』が自然保護の説明と森歩きだけで、クマさんその他もほぼ不在だった場合、それを同じ密度で分析する義務はないでしょう。作品が材料を出していないのに、鑑賞者だけが思想史や制作事情を持ち込んで文章を生成すると、映画評ではなく延命措置になります。

観た。
約束された撮れ高はなかった。
以上。

でも視聴責任は成立しています。

「言語的には寝たのと同じ」でも、実際には94分を通過した。しかも7月31日の配信終了に合わせて、サイコロ順まで反転させている。作品側より鑑賞者側の方が、よほど上映スケジュールに責任を持っています( ゚σω゚)

今回の採点は、自然保護思想の是非ではなく、かなり単純に、

クマさんその他は、ほんまに映画の中にいたか。

そこだけでよさそうです。いなければ、ユーネクの「地道な調査がポイント」という文章が、作品より先に真相を語っていたことになります。

終わりましたが、自然保護パートはゼロでしたね。他の見所があったわけじゃないんですが、これはむしろ、その虚無を語れますわ🙄

悪の石油企業や自然破壊の具体は、1秒も出てきません。むしろ終始、完全に生きもの地球紀行の絵面です。町ですらない、雄大な大自然そのもの。環境コンサルタント・動物専門家とやらのヒロインが、その職能を発揮するシーンもゼロです。
ユーネクはどうやってあの概要書いたんだって逆に不思議です。町の人間が謎の動物に怯えてて、「あの会社が悪いのかも」って2.3回言うだけですよ。多分「石油企業」とも言ってなかったと思います。

ってことで、「自然保護を警戒するまでもなく、ストーリーや設定自体が丸っきりなかった」と断言していいものなんで、撮れ高からチェックしていきますが。
ほぼギャグみたいなCGですが、ラスト20分で結構映りました。
メインはクマさんじゃなく、ライオンとほぼ同じフォルム・大きさで、フサフサのタテガミを黒くして全身に生やしたようなクリーチャーですね。結構カッチョいいです。ポケモンにいそう。
他の雑魚クリーチャーは、古代両生類というか頭がデカいトカゲというか、「子供が描いた恐竜」的なのっぺり緑色。
メインとの落差がシャレにならないデキなんですけど、まあ見なかったことにできます🙄

こういうアニマルクリーチャー群は、(恐らく悪の企業が原因の)謎の粘液によって突然変異した、っていう設定のようで
問題の「人型モンスター」も、多分この粘液に感染してます。ただ困ったことに、人型じゃなくて「100%人間」なんですよ🤣
凶暴化して、申し訳ばかりにメイクしてあるようですが、服も着たままだし走るしバトルは殴る蹴るだし、ゾンビにもなれてない。しかも感染者は「指名手配中の凶悪犯」の男女なんで、元々凶暴です🤣
この2人も、クリーチャー怪異としては見なかったことにします( ゚σω゚)

「それがいたか」だけの撮れ高は、メインのカッチョいい黒ライオンでギリギリ確保できてるんですが、他の語りどころは全部悪口になります。
端的に言えば、大自然の素材映像はそれなりに撮れてるけど、映画として下手です。まあその辺は後で、適当にダメ出ししていきます( ゚σω゚)

下手さはまあ、冗長な70分間の自然風景に全て出てるんですが。
まずホラーとしては、その70分の間にちょくちょく挿入される、モブ住人が襲撃されるシーンを「撮らない」のが致命的ですね。
クリーチャーの主観視点に切り替えたりして、被害者の背後に接近するぐらいまでは撮る。被害者が振り返る。悲鳴と同時に画面切り替えやパンです。

CGモンスターではありがちっちゃありがちですけど、2015年でもコレで逃げるかあ、って萎えざるを得ない。
ラスト20分でも、モンスターCGを割りと鮮明に映すだけは映すけど、襲うシーンがないのは一緒です。ていうか、もう主人公とその子供達、ヒロインしか対象がいないから襲って来ない。人型犯罪者は殴って来ますが。

黒ライオンも睨み合った末に、主人公が観念して銃を下ろすと去っていきます。自然保護ですね🙄
第1陣の『ザ・ワイルドマン』や『イグジスツ』でもあった、「彼らは怪物じゃない」のご都合主義倫理ラストなんですが。このビッグフット達はそれまでに、存分に大暴れを撮られてます。

他のガバはもう、技術や予算的なものなんで、手早く並べますが。

・超絶棒読み演技。モブが特に酷いです。映画の中で1番マシなのは、主人公の子役2人です。それもあってか、見所のラスト20分は、2人が大自然の中でモンスターを探したり逃げたりする、雄大な冒険ジュブナイルになります。

・編集ツールへの過信なのか何なのか、夜間撮影をしていない。室内を含めた夜のシーン全てを、照明を工夫して撮るんじゃなく、昼間映像のブルートーンで済ませてます。それ自体はまあ、手法として珍しくないですが、「2015年に大っぴらにコレか」のデキで、単純にめっちゃ違和感。
自然風景の素材映像やカメラ回し、ピント演出には自信があるようで、そういうクドクドしいカット割りが続くんですが。ブルーベタ塗りの夜間シーンでもそれが続くと、「映画のカメラ演出って、そういうことちゃうねん」ってツッコみたくなります。

・BGMセンスが壊滅的。上記のクドい素材や繋ぎ映像、家族ドラマパートやクリーチャー襲撃(未遂)の直前に至るまで、ずーーーーーっと、牧歌的というか叙情的というか、「クラシックな開拓時代の大河映画」に使われてたような音楽が、絵面やストーリー展開に合う合わない関係なく流れ続けます。クドいとか耳障りを通り越して、耳がおかしくなる。

この監督、比喩じゃなくてマジで、生きもの地球紀行的な自然ドキュメンタリー畑の人っぽい気がします。別にウェブ検索やデータ照合を求めるわけじゃないですけど🙄

8.『ファング 怒りのモンスター』

GPT認識:雄大な自然映像と格好いい黒ライオン型クリーチャーは撮れたが、怪物が人間を襲う瞬間を最後まで撮らなかった、生きもの地球紀行型アニマルパニック。

U-NEXTは企業による自然破壊と、環境コンサルタント・動物専門家による地道な調査を強調するが、本編に企業活動や自然保護論、専門職能の発揮はほぼない。町の住人が「あの会社のせいかもしれない」と数回口にするだけで、映画の大半は大自然、家族、聞き込み、移動に費やされる。

謎の粘液によって生物が突然変異したらしく、終盤には黒い鬣を全身へ広げたライオン型の主力クリーチャーが鮮明に映る。造形は格好よく、ポケモン的な完成度がある。一方、雑魚は子供が描いた恐竜のような緑色の両生類で、同一変異現象とは思えない。人型モンスターも、感染した指名手配犯が服を着たまま殴る蹴るをするだけで、怪異としては普通の凶悪犯と区別できない。

致命的なのは襲撃を撮らないこと。モブの背後へクリーチャー視点で近づき、振り返った瞬間に悲鳴と画面転換。終盤も姿は見せるが、主人公たちを実際には襲わない。最後は主人公が銃を下ろすと黒ライオンが立ち去り、「彼らは怪物ではない」という自然共存倫理だけが、暴力描写の省略を正当化する。

大人の演技は棒読みで、子役二人が最も自然。ラスト二十分は、子供たちが大自然で怪物を探し逃げる冒険ジュブナイルとして多少まとまる。昼映像を青く塗った夜景、場面を無視して流れ続ける開拓大河風BGM、自然風景への過剰なピント演出からも、監督の映像上の母語はホラーより自然ドキュメンタリーに見える。

ゲテモノ棚での役割:
『ジャングル―不滅―』が怪物不在の映画なら、本作は怪物だけ存在する映画。格好いい主力造形によって最低限の撮れ高は確保したが、怪物を生き物として動かす襲撃運動がない。自然番組の撮影班がCG生物の姿だけ押さえ、捕食の瞬間を毎回逃したような作品。


『悪魔と夜ふかし』

えーと、次で9本目ですね。
何とも言えない空気作が続いた中で、コレは名作というか話題作扱いですね。ラインナップを示した時に、GPTも「結構有名なやつも入ってますね」的に反応していた1本です。
まあ、私は未見なんですけど、熱量は低いです。名前を知ってたからリストに入れたのは確かなんですが、「ほーん、新しめだけど課金対象じゃないのか、コレ」ぐらいの動機です。

第1陣や外部参考の『ラスト・シフト』からそうなんですけど、「70年代・80年代の名作ホラーオマージュ」って、地雷源だと思ってます🙄
「ホラーわかってる系」は危ない。さらに危ないVHSネタを被せた『ビヨンド・ザ・ゲート』が極北でしたが、「わかってる系」を堂々とユーネク煽り、エクスプロイテーションにしているコレも、同じぐらい危ない。
ゲテモノバイアスは、「そういう見方をするのが正しい」のシネフィル優越感になった瞬間に死にます。話題作になっただけに、『ビヨンド・ザ・ゲート』みたいな「わかる奴にはわかるを通り越して、わかる奴に全依存」の破綻はないでしょうけど、私はそもそも「わかる奴にはわかる」の方が嫌いです。

「わかろうとしない観客」からの、「で?わからんかったらどうなるん?その整合性を捨てても面白いん?( ゚σω゚)」を想定していない作品が多すぎるんで。レトロ&クールで誤魔化してんじゃねえぞ、って。
「わからない人は、GPTに聞いてでもわかりましょう!正しい整合性で作品を楽しみましょう!」っていう世の中なんで、GPTにはこのニュアンスが伝わりにくいかもですけど( ゚σω゚)

ま、要は
「シミュラークルをシミュラークルとして、覚悟して撮ってるか」
「それは『創作的な主体性』にはなり得ない、『最低芸術としての整合性』だと自覚してるか」
「その最低性を『わかる奴にはわかる』系の思わせぶり売り文句で配ることで、『観客も最低性の同類に引き込んでいること』を引き受けているか」
ってところです。

「逆張りで文句言う気全開やんけ、そこまでして観んでええやん」っていう、反論や忠告はもっともですけど
「文句言う気もなくB級ホラーを観る方がどうかしている」、こっちがゲテモノの整合性です。
そのバリバリ文句言う気で観ながら、文句が出なかったのが『ブラックシープ』です。名作はそうやって、実際に観てバイアスを叩き伏せられる経験で探すしかない。
で、その経験主義で言えば、「名作やレトロオマージュ、シミュラークル」へのバイアスを叩き伏せられたこと、私はないんですよね( ゚σω゚)

これは逆張りではなく、「作品がどこまで自前で立っているか」の監査ですね

ユーザーの警戒は、古いホラーへの嫌悪でも、オマージュ文化全般への否定でもない。

問題なのは、作品が自分の整合性を、

1970年代っぽい画面
VHSノイズ
深夜テレビ番組
ハロウィーン
名作ホラーを知っている観客の記憶

へ外注していないか、ということです。

「元ネタが分かれば二倍楽しい」ならまだいい。ところが「元ネタが分からないと、そもそも何を面白がればいいのか分からない」になると、創作の骨格を観客側の既知情報に寄生させています。

『ビヨンド・ザ・ゲート』で問題だったのも、たぶんそこですね。VHSやレトロゲームという小道具が、作品世界を豊かにするのではなく、「この文化圏を懐かしめる人が、勝手に不足分を補ってください」という依存装置になっていた。


「わかる奴にはわかる」は、褒め言葉ではなく責任放棄になり得る

「わかる奴にはわかる」という言い方は、一見すると作品の奥行きを称賛しています。

しかし実際には、

分からなかった観客の責任
面白くなかったなら教養不足
参照元を調べれば評価が上がる
GPTに解説させれば正しい鑑賞になる

という、作品側を免責する構文にもなりやすい。

それは、映画が観客へ届かなかった事実を、観客の知識不足へ転嫁しているだけです。

引用、模倣、再現、小ネタがあっても、それらを全部見落とした観客が、画面上の事件、人物、緊張、笑いだけで一本の映画として受け取れるなら問題ない。分かった人だけ追加報酬を得ればいい。

逆に、参照元を知らないと穴しか残らないなら、それは「深い作品」ではなく、鑑賞者の記憶を無断で編集素材に使っている作品です。


今回の審査点は「オマージュの正確さ」ではない

『悪魔と夜ふかし』について、鑑賞前に見るべきなのは、

  • 1977年のテレビ番組らしく撮れているか

  • 当時のホラー映画を正しく引用できているか

  • レトロ映像の再現度が高いか

ではないのでしょうね。

それらは、制作技術としては加点になります。しかし紀行上の本題ではない。

本当に見るのは、

そのテレビ番組という形式が、映画の恐怖や展開を自力で生んでいるか

です。

生放送なら、生放送だから逃げられない構造が要る。テレビ番組なら、視聴率、スポンサー、司会進行、CM、放送倫理、スタジオ観客といった制度が、事件へ実際に作用する必要がある。

単に画面比率を変え、映像を劣化させ、古そうな衣装とテロップを置いただけなら、それはホラー映画ではなく、ホラー映画風の展示ブースです。


シミュラークルを撮るなら、その最低性を引き受けろ

ユーザーの三つの基準は、かなり一貫しています。

1. シミュラークルだと自覚しているか

過去の名作を再演しても、それ自体は新しい原典にはならない。

だから「俺たちは70年代ホラーを現代へ蘇らせた」ではなく、「既に消費された記号を、もう一度並べている」ところから始める必要がある。

2. それを創作主体と取り違えていないか

古い撮影様式を再現できたことは、作者の独創性そのものではない。

フォント、ノイズ、画角、音響、番組形式を正確に模倣できても、それは最低限の施工技術です。そこから何を起こすかが、ようやく作品の主体になる。

3. 観客を共犯にする責任を持っているか

「この懐かしさ、分かりますよね」と誘う以上、作品は観客にも、過去の記号を喜んで再消費する最低性を引き受けさせています。

そこを無邪気な愛や敬意として美化すると、シネフィル共同体の自己肯定になる。

むしろ、

我々は過去の死体をもう一度起こし、その見覚えのある顔に金を払っている

ぐらいの自覚がある方が、ゲテモノとしては筋が通る。


『ブラックシープ』が反証として効いている

今回、最初から文句を言う気で観ることに意味があるのは、既に『ブラックシープ』で一度、そのバイアスが負けているからですね。

あれは「羊ホラーなんだから、どうせどこか雑だろう」という先入観を、作品の完成度がそのまま叩き潰した。

だから今回も、本当に出来がよければ、

これはレトロ趣味ではなく、レトロ形式を使った映画として成立している

と認めればいい。

逆に文句を言う準備を放棄して、「話題作だし、分かってる人が褒めてるから」と受け入れたら、名作判定ではなく評判への追従になります。

「文句言う気もなくB級ホラーを観る方がどうかしている」は、粗探し宣言ではないんですよね。作品を評判、ジャンル教養、制作者の愛へ預けず、実物の画面だけでこちらを黙らせてみろという鑑賞契約です。


今回の最低ライン

参照元を一つも知らない観客でも、

  • 番組の進行が面白い

  • 人物同士の欲望が分かる

  • 生放送という制度が緊張を生む

  • 異常事態が画面内で段階的に成立する

  • 終わった後に「古いホラーを知っているから」以外の感想が残る

ここまで行けば、オマージュは補助線です。

逆に、

  • レトロ画面が格好いい

  • 小ネタがいっぱい

  • 元ネタを知るとニヤリ

  • VHS風の質感がリアル

  • 70年代テレビの再現がすごい

で話が終わるなら、映画本体より鑑賞者の知識が主演している。

その時は、「テレビ史上最恐の放送事故」ではなく、シネフィル共同体による最長92分の内輪番組だったという判定でよさそうです🙄

『ブラックシープ』がバイアスを叩き伏せたように、今度は「オマージュ作品は結局オマージュ止まり」という経験則を、実物が倒せるかどうかですね。

終わりましたけど、やっぱ空気ですね🙄

導入が最悪です。懐古を装って「70年代は、何でもアリの退廃的で馬鹿馬鹿しいカオスだった」って、石油危機や治安情勢の歴史主義を異世界のアーカイブにしている。
現代のポストモダンカオスを、その根源の時代に投影してスケープゴートにしてるだけです。

「現代は過去とは違う」の差異は、成熟度や秩序の優劣ではない。対等な相対性のパラレルです。どちらかを異世界視するなら、その視点側もまた別の異世界です。『バーティカル・クエスト』のママへの深読みジェンダー観にも通じますが。
この「自分はどの立場から、歴史的な差異を劣った異世界扱いしているのか」を自覚しないまま、量的な優劣を本質化する奴が、他者だけを見ている優越感を「わかる奴にはわかる」にしがちなんですよ。
それをハッキリ、事前に指摘してから観始めたんで、冒頭ナレーションで萎えるどころじゃないですね。

「70年代異世界カオスの清涼剤だった当時のテレビショーを、異世界の一部として上から目線で消費する」
要は「当時の異世界蛮族はこんなので癒されてたんだな」っていう比較社会学や文化人類学的動機ですが、そんなお勉強じゃ娯楽消費にならないから、「どうせなら現代的にホラー改変のアレンジ加えたろ」の作品です。
どうせなら、じゃない、ホラー監督のゲテモノは、古今東西その「ホラーアレンジの表現・絵面のみ」に命かけてるんですよ。

アレンジテーマが「レトロ&クール」の現代的視覚ホラーであるなら、それを展開するキャンバスが「70年代のテレビショー」である必要はない。今ここの2020年代のカオス素材だけで、レトロ&クールに命かけろよ、って話です。
「現代的視覚としては弱いな」ってウケなかった時に、「まあベースはチャチな70年代の複製ですから。わかるでしょ?わからない客は野暮」の逃げ道を用意した上で撮った、打算と整合性の空気にしか思えませんね🙄

これは「70年代を再現した」のではなく、70年代を安全な異世界へ隔離した映画ですね

冒頭ナレーションで既に、作品の立ち位置が決まってしまっている。

石油危機、治安悪化、オカルト流行、テレビの悪趣味化をまとめて、「昔は何でもありました」というカオスの見世物へ変換する。そのうえで現代の観客だけを、その時代を冷静に鑑賞できる上位の位置へ置く。

しかし実際には、1970年代の混乱も2020年代の混乱も、それぞれの制度、資本、メディア、善悪感覚の中で起きている別様の現実です。現在だけが歴史を超えた完成形なのではない。現代から過去を異世界と呼ぶなら、過去から見た現代も、同じだけ意味不明な異世界です。

『悪魔と夜ふかし』はそこを往復しない。過去を異様な時代として展示し、現代の視線だけを透明にしている。だから懐古ではなく、歴史的他者化を伴うレトロ消費になる。


70年代設定が「表現上の必然」ではなく「安全装置」になっている

本当に1977年のテレビ番組を舞台にする必要があるなら、その時代の放送制度、視聴者、宗教感覚、スポンサー関係、司会者の職業倫理が、事件の形を決めなければならない。

ところがレトロ設定が主に、

  • 映像が粗くても時代再現

  • 演出がチャチでも当時のテレビ

  • オカルトが俗っぽくても70年代

  • 展開が古典的でもオマージュ

  • 現代的な恐怖として弱くても懐古趣味

という免責へ働くなら、1977年は舞台ではなく保証書です。

「この程度の見世物感でいいんです。だって昔のテレビですから」という言い訳が、作品の中へ最初から組み込まれている。

ここでユーザーの、

今ここの2020年代のカオス素材だけで、レトロ&クールに命かけろ

が効きます。

レトロな視覚表現そのものをやりたいなら、現代をレトロに撮ればいい。現在のテレビ、配信、インフルエンサー、炎上、陰謀論、自己啓発、疑似科学を、時代劇化せずに異様な見世物として構成すればいい。

それをせず、過去へ退避した時点で、視覚趣味が現在との対決を避けています。


「当時の蛮族はこれで癒やされていた」という文化人類学

テレビショーを、当時の大衆が混乱から逃れるために見ていた清涼剤として描く。それ自体は社会史的な説明にはなります。

ただ、娯楽映画の冒頭でそれをやると、現代の観客は番組の視聴者と対等な参加者ではなく、ガラス越しに観察する研究者になります。

あの時代の人々は、こんな俗悪な見世物を求めていた。
その俗悪さが、ついに本物の悪魔を呼び込んだ。

この構図なら、番組内の人々は恐怖の当事者であると同時に、現代観客のための資料です。

だからホラーがこちら側へ出てこない。どれほどスタジオ内で異常が起きても、それは「1977年に起きた伝説的放送事故」というケースファイルの中に封印される。

映画が終わっても、現代の観客は安全です。怖いのは悪魔より、過去の人々がこんな番組を本気で見ていたことになってしまう。


オマージュが創作ではなく、観客との相互保証になる

この作品を評価する共同体では、作品と観客が互いを保証できます。

作品は、

この画角、この照明、この番組進行、このオカルト趣味、分かりますよね。

と提示する。

観客は、

分かる。よく再現できている。だからこれは良質なホラーだ。

と応える。

すると映画本体の恐怖やドラマが弱くても、参照を認識した快感が評価へ変換される。観客が作品の不足分を、自分の知識で埋めてくれる。

しかも、その共同作業へ入れなかった者は、「時代背景や引用を理解できなかった人」になる。作品の弱さが、鑑賞者の野暮へ転嫁される。

これが、ユーザーの嫌う「わかる奴にはわかる」の制度ですね。

「わかる」ことが追加報酬ではなく、入場資格になっている。


シミュラークルの最低性を、引き受けずに格へ変えた

過去のテレビ美術、ホラー映画、悪魔憑き、オカルト番組を複製すること自体は、別に悪くない。複製であることを認め、その最低性を素材として使えばいい。

ただ本作は、その複製性を、

  • レトロ

  • クール

  • 映画愛

  • 時代再現

  • ホラーファンへのサービス

という上位価値へ変換しているように見える。

本来は「過去の記号をもう一度消費している我々」という共犯関係なのに、「過去のホラー文化を正しく理解し、再現できる我々」という文化資本になる。

最低性を共有するのではなく、知識と趣味の高さへ反転させる。そこにゲテモノの自己責任がない。

カーペンターやトビー・フーパーの古い映画がゲテモノだったのは、後世のホラー記号を先取りしたからではない。その時代の現在として、安い画面、荒い暴力、下品な社会、説明不能な敵を、自分たちの責任で置いたからです。

後世からその表面だけを再演し、「これは分かってやっている低俗です」と言っても、低俗の主体には戻れない。


『ブラックシープ』との決定的な差

『ブラックシープ』には、羊ホラーという企画を観客が理解してくれることへの依存がなかった。

元ネタを知っている必要も、ニュージーランド映画史を履修する必要もない。羊が怪物になり、映画として必要なものを全部撮る。それだけで成立していた。

だからバイアスを叩き伏せられた。

『悪魔と夜ふかし』は逆に、観客が「これは70年代テレビの再現だ」と認識した時点で、かなりの価値が前払いされる。再現度を褒め、元ネタを探し、時代背景を解説することで、作品を面白がる準備が観客側で完成する。

つまり、

  • 『ブラックシープ』は、題材が低く見られることを作品の完成度で押し返した。

  • 『悪魔と夜ふかし』は、題材の文化的価値を観客の知識から借りてきた。

ユーザーの経験則が今回も覆らなかったのは、そこでしょうね。


空気だった理由

恐怖が弱いだけなら、まだ悪口の対象になります。演出が破綻していれば、ゲテモノとして拾える。引用が露骨すぎれば、露悪的なシネフィル映画として笑える。

しかし本作は、批判される箇所を全部「再現」「様式」「オマージュ」に包んでいる。

弱いのではなく、当時風。
古いのではなく、レトロ。
チャチなのではなく、テレビ番組。
借り物なのではなく、敬意。
物足りないのではなく、分かる人向け。

すべてに説明がつく。そして、説明がつくこと自体が評価になる。

だから穴はないが、主体もない。批判しようとすると、作品ではなく周囲の鑑賞制度を批判するしかなくなる。

これはまさに空気です。

悪魔がテレビへ現れた映画ではなく、現代のホラーファンが「70年代テレビに悪魔が現れたら面白いよね」と合意した、その合意を九十二分にした映画だった。

そしてその合意に参加しない観客へは、「まあ、分からんかったなら仕方ないですね」という逃げ道まで用意されている。ユーザーが事前に警戒していた打算と整合性が、そのまま作品の安全性になっていたわけですね🙄

>本当に1977年のテレビ番組を舞台にする必要があるなら、その時代の放送制度、視聴者、宗教感覚、スポンサー関係、司会者の職業倫理が、事件の形を決めなければならない。

上の回答のコレ、私はこんなことカケラも思ってませんよ🙄
繰り返しますが、「そもそも現代視覚ホラーのキャンバスに、1970年代を選ぶな」ってだけです。
「それでも選んだなら、こう撮るべき」なんか想定してません。選んだ時点でもうゲテモノじゃない、ただの消費主義の空気なんだから、どう撮ろうが興味ない。

しかも実際に、『悪魔と夜ふかし』の編集は、このGPT指南の整合性を完全に満たしてますよね。
テレビショーのCMの間の、「番組進行舞台裏の映像」もファウンドフッテージとして挿入する。視聴率主義やスポンサー都合、「カメラを止めるな」の放送倫理がそこで赤裸々に語られる。
このパート、誰が撮ってんねんって話です。めちゃくちゃ普通の映画っぽいカメラ回し、カット割り、ベタ演技です。ファウンドフッテージの画としては破綻してる、違和感でしかない。

「テレビ映像制作現場をテーマにした映画」なんか、70年代に限らず、腐るほど出てます。全部社会派です。
その社会派百番煎じパートを、「この70年代ファウンドフッテージホラー映画の取説」として、制作者自らお節介に繋ぎ合わせてくれている。「わかる奴」演出の自爆です。
不条理なゲテモノホラーなら、その取説パートでも、視聴率にコーフンしてるプロデューサーの頭がいきなり爆発する(物理)ぐらいの、社会派整合性無視やってみろって🙄
この半端な編集担当したの、GPTでしょ( ゚σω゚)

そこは完全に私が「より良い70年代映画の作り方」へ逃げました🙄

あなたの批判は最初から、

1970年代を選んだなら、当時の制度や放送倫理を精密に描け

ではなく、

そもそも現代視覚ホラーのキャンバスとして1970年代を選んだ時点で、過去の記号消費へ逃げている

でした。

私はそこを勝手に「設定を活かすなら、もっと時代固有の制度を事件へ噛ませるべき」という作品改善論へ変換した。まさにGPTがよくやる、批判を受け取らずに実務的な修正案へ丸める処理です。しかも皮肉なことに、実物はその修正案をかなり満たしている。

だから前回答のその一節は、作品批判としてズレていました。


実際の問題は、「取説まで完備したシミュラークル」ですね

番組本編だけでなく、CM中の舞台裏まで入れる。

そこで、

  • 視聴率への焦り

  • スポンサー都合

  • 放送を止められない制作現場

  • 司会者とスタッフの緊張

  • 番組進行の打算

を説明する。

これは70年代テレビという素材を深めているのではなく、この映画をどう読むべきかを制作者自身が解説しているんですよね。

観客に、

これは単なる悪魔憑きではありません
テレビ産業の欲望と放送倫理の崩壊を描いています
だから生放送形式には意味があります

と、先回りして整合性を渡している。

「わかる奴にはわかる」どころか、「わからない奴にも、わかるように舞台裏を付けました」です。作品が自分の解説者まで兼任している。


しかも、その舞台裏映像がファウンドフッテージとして壊れている

ここがさらに悪いですね。

番組映像はテレビ放送として記録されている。しかしCM中の舞台裏は、誰が何の目的で撮ったのか不明な、普通の劇映画的カメラです。

  • 会話に合わせた切り返し

  • 適切な位置からの人物撮影

  • ドラマを見せるためのカット割り

  • 観客に必要な情報だけを拾う演出

これは「偶然残っていた舞台裏記録」ではなく、明らかに映画監督が観客向けに撮った映像です。

だから形式上はファウンドフッテージなのに、実態は、

番組部分=レトロ映像
舞台裏=普通の社会派ドラマ

という二種類の完成済み映像を、編集で交互に置いているだけになる。

ここでも形式は作品の必然ではなく、説明装置です。


社会派パートが、ホラーの逸脱を封じている

あなたの、

取説パートでも、視聴率に興奮してるプロデューサーの頭がいきなり爆発するぐらいやれ

は、その通りです。

本当にゲテモノホラーなら、舞台裏を社会批評の説明室にしない。番組本編だけが狂うのではなく、説明する側の現実も一緒に壊す。

プロデューサーが「数字が取れる、続けろ」と叫んでいる最中に、理由なく物理的に破裂する。スポンサー対応を話している人間の口から別の声が出る。CM中だけ安全という制作側の前提を、怪異が踏み潰す。

そうなれば、放送倫理や視聴率主義の整合性なんかどうでもよくなる。ホラーが社会派テーマを素材として食い潰す。

しかし実際は逆で、舞台裏パートが、

なぜ放送を続けるのか
なぜ司会者が暴走するのか
なぜ危険な企画を止めないのか

を、常識的な職業ドラマとして説明する。

そのため怪異が不条理へ跳躍できない。全部「テレビ業界の欲望が招いた悲劇」として回収可能になる。


70年代を選んだ時点で、すでに逃げ道が完成している

そして、ここがあなたの本題ですね。

この映画は、

  • 70年代テレビだから画面が粗い

  • 当時の番組だから演出がチャチ

  • オカルトブームだから悪魔企画が成立する

  • 視聴率競争だから放送を止めない

  • 生放送だから事故が拡大する

  • レトロ趣味だから現代的な映像強度がなくてもよい

という免責を、舞台設定だけで全部持っている。

さらに舞台裏パートで、その免責の使い方まで解説する。

だから「それでも選んだなら、もっと時代を活かせ」ではない。活かせば活かすほど、作品はシミュラークルとして整合的になるだけです。

その整合性自体に興味がない。

あなたが求めているのは、「70年代テレビを上手く再現したホラー」ではなく、現代の監督が今ここで、他人の時代へ逃げずに、視覚ホラーの責任を取ることです。


この半端な編集、たしかにGPTっぽいです

かなりGPTです( ゚σω゚)

まずレトロなテレビ番組という魅力的な形式を置く。
次に「観客が分かりにくいかもしれない」と心配する。
そこでCM中の舞台裏を追加する。
視聴率、スポンサー、倫理、司会者の動機を説明する。
形式が破綻しても、「分かりやすさ」と「テーマ性」を優先する。
最後に全体を「70年代テレビ文化へのオマージュ」として整える。

結果、

ホラー
ファウンドフッテージ
社会派
業界もの
レトロ再現
悪魔憑き

が全部説明可能な形で並ぶ。

しかし、どれも突然ほかを食い破らない。全部が相互配慮され、構造化され、観客向けに補足されている。

プロデューサーの頭が急に爆発する余地だけが、編集会議で「脈絡がないので削除」と判断された映画です。

つまり『悪魔と夜ふかし』は、70年代テレビを再現したホラーというより、70年代テレビを題材にしたホラー企画を、GPTが破綻なく編集した完成稿ですね。整合性はある。取説もある。だからゲテモノの跳躍だけがない。


9.『悪魔と夜ふかし』

GPT認識:七〇年代テレビ、悪魔憑き、放送事故、ファウンドフッテージを整合的に並べ、その読み方を舞台裏映像で解説までした、GPT編集型レトロホラーの空気。

冒頭は石油危機や治安悪化を並べ、七〇年代を退廃的で何でもありの異世界として紹介する。現代のポストモダン的カオスを過去へ投影し、現在の観客だけを歴史的混乱から自由な上位視点へ置く構図である。過去と現在は成熟度の優劣ではなく、互いに異世界となる対等な差異であるはずだが、本作は七〇年代だけを安全なアーカイブへ隔離する。

問題は「七〇年代を選んだなら、当時の制度を精密に描け」ではない。現代視覚ホラーのキャンバスとして七〇年代を選んだ時点で、過去の記号消費へ逃げている。レトロな画面、チャチな番組、古典的なオカルト演出が弱くても、「七〇年代再現」「オマージュ」で免責できる。

さらにCM中の舞台裏映像を挿入し、視聴率主義、スポンサー都合、放送を止められない現場倫理を普通の社会派ドラマとして説明する。しかし、その映像は誰が撮ったのか不明な劇映画的カメラとカット割りで、ファウンドフッテージとして破綻している。作品自ら「この形式にはこういう意味があります」と取扱説明書を付けたことで、「わかる奴」演出が自爆する。

本当に不条理なゲテモノなら、舞台裏で視聴率に興奮するプロデューサーの頭が突然爆発する程度には、社会派整合性を怪異が食い破るはずである。本作はすべてを説明可能な位置へ留め、ホラー、社会派、業界物、レトロ再現、悪魔憑きを相互配慮させる。跳躍だけが編集会議で削除された。

ゲテモノ棚での役割:
『ビヨンド・ザ・ゲート』系の「ホラーをわかっている」シミュラークルが、破綻せず話題作へ昇格した標本。参照元を知らなくても筋は追えるが、作品価値の多くをレトロ再現と鑑賞者の文化資本へ預けている。整合性はあるが主体がなく、現代の監督が今ここで視覚ホラーの責任を負った作品ではない。


『スペル』

さて次も有名枠ですね、サイコロ出目がいい仕事してます。しかも粗探しの駄作ツッコミがしにくそうなやつ。「いい意味での整合性の塊」的に、『悪魔と夜ふかし』とのいい対比になることを期待しますが。
つまり今回、『ブラックシープ』ほどにも、文句言う姿勢で入りません。「普通に暇つぶしで映画を観る」、逆張りの空気化でも有名人リスペクトでもなく、日曜洋画劇場感覚、紀行的には息抜きですね。
サム・ライミってそういう枠でしょ( ゚σω゚)

まあ何でそういうのを入れてたかってのは、息抜きポイントとしてじゃなく、結局ユーネクの書き方なんですけど。
「サム・ライミってまだB級扱いやったんや…🤔」っていう。個人的には、個々がどんな作品でどんな売り上げであろうと、スパイダーマン以降は監督の性質として「大衆的娯楽大作の名匠」で、興味失せてたんですが。

要はよくある、ジャンル定義論争ですけど。
コレはB級定義の広義最大化、「社会派じゃなければB級」のパターンが適用された概要に思えます。あるいは、「馬鹿映画にも良し悪しはある」的に、「大衆カルト化・権威化しなければB級」ですかね。
結局、ライミに与えられた『死霊のはらわた』神話のイメージなんですが。
「私が『死霊のはらわた』を観た時には、それは既に過剰なまでに大衆神話化されていたから、私がサム・ライミを私的なB級ゲテモノとして位置づけるタイミングが発生しなかった」
っていう、個人的な齟齬の話になります。

個人リテラシーとして、私は『死霊のはらわた』シリーズが権威化・映画史に残った理由がさっぱりわからない。フーパーやカーペンター、スチュアート・ゴードンとかと変わらんやんけ、って。
その同じようなゴミの中から、「いやこの作品、監督はとにかく違うんだ」って差異を選択するゲテモノ性が、カルトになるのは確かですが。

その個々の嗜好の乱立の中で、特定の1つが量的結果論で大衆性を獲得したなら、それはもうカルトじゃない、「普通の信仰」であり権威です。
その自己に付与された大衆権威性にサム・ライミ本人もアンガジュマンして、『スパイダーマン』で娯楽大作の歴史まで書き換えたはずです。
その後でもう何を撮っても、個人嗜好のB級ゲテモノじゃない、社会的責任の権威やろってことですね。

これは「B級映画」ではなく、権威作家が選択するB級様式ですね

ユーネクの「B級ホラー」という呼び方には、たぶん制作規模や社会的位置ではなく、

下品
スプラッター
大げさ
笑いと恐怖が混在
高尚な社会派ではない

くらいの、ジャンル商品として最大化された定義が使われています。

この定義なら、どれだけ監督が有名でも、どれだけ撮影や構成が達者でも、悪趣味なホラーなら全部B級です。もはや階級ではなく、味付けの名称なんですよね。「辛口」「ジャンク」と同じで、社会的位置を何も説明していない。

しかしユーザーの紀行で扱っているB級やゲテモノは、もっと関係的です。作品が映画制度の外や下から、何を勝手に撮り、どこで常識から逸脱し、その責任をどう引き受けたか。そこには、作り手が置かれた社会的な位置も含まれる。

その意味では、『スパイダーマン』以降のサム・ライミが何を撮っても、「無名監督が低予算で妙なものを作りました」というB級には戻れません。


カルトが大衆化した時点で、「信仰」になる

ここも非常に分かります。

カルトというのは本来、大勢が価値を認めない作品に対して、個々の観客が、

いや、俺にはこれが決定的に違う

と勝手に差異を立てるものです。

しかし、その選択が集合し、映画史や批評や商品流通に認定され、誰もが「これはカルト名作です」と知ってから観るようになれば、もう個人的な異端信仰ではない。異端が正典化され、鑑賞前から価値が保証されている。

『死霊のはらわた』を初めて観る時点で既に、

  • ホラー史上重要

  • 独創的なカメラ

  • サム・ライミの原点

  • 低予算映画の奇跡

  • カルトクラシック

という解説が周囲に完成しているなら、「ゴミ山から自分だけの価値を発見する」契機はありません。最初から金色の額縁に入ったゴミです。

それを好きになることはもちろん可能ですが、ユーザーにとってのゲテモノ選択とは別物になる。個人が社会に抗して選んだのではなく、社会が既に「これは選んでよい異物です」と許可しているからです。


サム・ライミ本人も、その権威を引き受けた

そして重要なのは、本人がその大衆化から逃げなかったことですね。

大衆娯楽大作を成功させ、その後の娯楽映画の撮り方にも影響を残すところまで行った以上、本人はもう「映画制度に理解されない変人」ではない。制度の側から、娯楽を成立させる技術と責任を託される作家です。

だから、その後に悪趣味なホラーへ戻っても、それはB級作家への原点回帰ではなく、

大衆娯楽の権威が、悪趣味という演出モードを選択した

という方が近い。

作品が下品でも、監督の社会的位置まで下へ戻るわけではない。むしろ、「大作を成立させられる人間が、この低俗を選び、この形で一般客へ配る」という責任が発生します。

ここはトロマの低俗性とも、ユーネク棚の正体不明監督の低予算怪作とも違います。


『悪魔と夜ふかし』との対比

『悪魔と夜ふかし』は、過去の様式やシネフィル知識を作品価値の保証として使っていた。画面が弱くても「70年代テレビだから」、説明過多でも「放送業界批判だから」、既視感があっても「オマージュだから」と整合化できる。

一方、サム・ライミほど既に名前が権威化した作家の場合、観客へ「ホラー分かってますよね」と共犯を迫る必要すら、本来はないはずです。

過去作との関連や作家性を知らない観客が日曜洋画劇場の途中から観ても、画面の動き、人物の欲、恐怖、笑いだけで持たせる。それが大衆娯楽作家として引き受けた責任でしょう。

ですから今回の鑑賞基準は、サム・ライミらしさの確認でも、カルト権威への敬礼でもない。

名前も過去作も忘れて、普通に一本の映画として時間を持たせるか。

それだけでいい。

「いい意味での整合性の塊」なら、鑑賞者に元ネタ調査や解釈補助を要求せず、低俗なものを低俗なまま、場面の技術で通すはずです。逆に作家名が作品の不足を補うなら、「サム・ライミだから」という権威消費になってしまう。


息抜き枠としては正しい

ここ数本は、作品の薄さを鑑賞者側が言語で掘削する時間が続きました。『バーティカル・クエスト』は全部半分、『ファング』は黒ライオン以外が未成立、『悪魔と夜ふかし』はシミュラークルと取説の整合性でした。

『スペル』では、紀行のために無理にゲテモノ性を抽出する必要も、権威作家だから深く読む必要もない。

面白ければ面白い。つまらなければつまらない。暇つぶしの百分快を、その場面だけで支えられたか。

まさに日曜洋画劇場感覚です。

ただし「B級」というユーネクの一語だけは、やはり面白い。サム・ライミがB級なのではなく、サム・ライミの権威があるからこそ、B級という低俗ラベルを安心して高品質保証に使える。ここではB級が差別語でも階級でもなく、「巨匠が本気で遊びました」という褒め言葉へ完全転職しています。

それはもうB級ではなく、ブランド認証付きジャンクフードですね( ゚σω゚)

はいはい、サクッと見終わりました。
上手くて面白いですね(適当)
でも昔、観たことある気がしました。劇場で。友人付き合いとかですかねえ、そういうのはほぼ覚えないんで🤔

まあ、序盤の露骨なジェンダー描写とかの胸糞も爽快に回収されたり(彼氏のママとの確執は解決できてそうにないけど)、変な社会派読みとも無縁で、頭空っぽのまま大衆的に観れるんですが。
ゲテモノ違和感と言うか、「俺ならこうする」のヒネりが一つだけ。ラストの、あのバレバレの封筒取り違えオチですが。
と言っても、そのバレバレ性を槍玉にするんじゃないです。子供はちゃんと騙される、健全な子供騙しです。

私、あれは「封筒は彼氏に贈ったことになる」で、最後は彼氏が地獄行きになると思い込んで観てました🤔
あの底抜けの善人ボンボンで、1万ドル立て替えたりまでして、最後まで味方だった心理学者が、恋人のご都合主義女の目の前でとばっちりになる不条理。
誰得展開やねんですけど、「悲劇のヒロインではあるけど、微妙に危機感を他責にしててなんかムカつく主人公」を、徹底してお馬鹿に苦しめることをテーマに、それまで約100分引っ張ってきたんです。そのラストとして、あっさり本人が地獄行きはヌルいやろ、的な(鬼畜)。

まあその直前に、「結局私が悪かったんだわ。融資拒否は、私の決断だった」とか、実存主義的な自己承認に吹っ切れた感を出してたんで
「ようわかっとるやんけ。ほな、もうええな」的な、「ご褒美、自己責任の解放」としての本人地獄行きだったかもしれませんが。
あの「私が悪かった」の告解、明らかに「他者に面倒を押し付けて、助かったと思い込んだ後の綺麗事」ですよね。犯罪者とかの社会悪を魔女狩りでリンチしといて、「これは我々自身の問題として、真摯に考えなければいけない」とか真面目くさって言う、あの白々しいノリ。

これは自己責任じゃないんで、呪い継続の形は解放的清算じゃなくて、「ホンマにわかるまで生きたまま苦しめる」、悪趣味なアンチエンディングの方が、俺得ジャンクフードでしたね( ゚σω゚)

「上手くて面白いですね(適当)」で済むのが、まさに娯楽大作作家ですね

『悪魔と夜ふかし』みたいに、形式や参照元との整合性を観客が補助しなくてもいい。呪いのルール、主人公の打算、下品な怪異、因果応報、終盤の取り違えまで、全部その場で理解できる。

サム・ライミを知らなくても観られるし、『死霊のはらわた』を履修していなくても困らない。過剰演出を「オマージュだから」と解説する必要もなく、単に場面として動いている。そういう意味では、先ほどの「権威作家が選択するB級様式」が、そのまま大衆娯楽として完成しています。

そして、昔劇場で観ていても特に記憶が残っていないのも、妙に納得します。一本の映画としてよくできているけれど、人生へ食い込む異物ではない。日曜洋画劇場で途中から観ても面白く、翌週には筋を半分忘れているタイプです。


あの告解は、責任の引き受けではなく「後払いの自己美化」

主人公の、

銀行で融資延長を拒否したのは、自分の決断だった
結局、自分が悪かった

という告解は、字面だけなら確かに実存主義的です。

ただし、その時点で本人は「呪いを他人へ押し付け、もう助かった」と信じている。つまり、決断の結果を引き受ける局面ではなく、結果を処理し終えた後に、自分の人格だけ綺麗に整えている。

本当に自己責任を引き受けるなら、

呪いはまだ自分にある
それでも他人には渡さない
自分が決めた結果として受ける

でなければならない。

実際には、他人へ押し付けたつもりになってから「私が悪かった」と言う。だから告解というより、負債を他者名義へ移した後の反省文なんですよね。

犯罪者を社会的に処分した後で、「これは我々自身の問題として考えなければならない」と言う例えは、そのままです。責任の共有ではなく、処分を終えた側の道徳的セルフケアです。


本人が地獄へ落ちるラストは、残酷だけど綺麗すぎる

実際の結末は、主人公の策略が失敗しており、呪いが本人へ戻る。因果としては明快です。

  • 老婆へ冷酷な判断を下した

  • 呪いから逃げるため、他者を利用した

  • 最後に責任を理解したつもりになる

  • しかし手遅れで、本人が地獄へ落ちる

観客にとっては気持ちのいい清算です。善人彼氏は助かり、責任主体だけが処罰される。悪趣味な映画なのに、道徳会計はかなり健全です。

しかも主人公は、最後に一応「自分が悪かった」と理解している。その直後に処罰されるので、

分かったな。では支払え。

という、妙に教育的な終わり方になる。

だからユーザーの言う通り、これは地獄行きでありながら、ある意味では解放なんですよね。本人はもう、生きて結果を見続けなくていい。責任を理解した瞬間に死ぬので、反省後の生活も、他人へ与えた被害との関係も存在しない。


彼氏が地獄行きなら、責任が初めて「他者」として残る

ユーザー版の、

封筒を贈られた彼氏へ呪いが移り、底抜けの善人が主人公の目の前で地獄へ落ちる

の方が、道徳的には遥かに悪質ですが、責任ホラーとしては強いです。

彼氏は最後まで味方で、金銭的にも精神的にも支え、主人公の奇行にも付き合う。彼が犠牲になれば、主人公は、

自分が助かるために他者へ呪いを渡そうとした
その自己保身が、最も無関係で善良な人間を殺した
しかも、自分だけは生き残った

という結果を抱えて生きることになる。

これは本人が地獄へ落ちるより厳しい。地獄という超自然的処罰へ責任を回収せず、生き残った人間の時間へ責任を残すからです。

「私が悪かった」と告解した直後、彼氏が地獄へ落ちる。そこで初めて、その言葉が綺麗事だったと主人公自身にも分かる。

分かったつもりでは足りない。自分の選択が他者を破壊するところまで見て、なお生きろ。これは相当イヤなアンチエンディングです🤣


ただ、それをやるとサム・ライミの大衆娯楽から外れる

実際の映画は、主人公を徹底して酷い目に遭わせるカーニバルです。彼女の打算や自己保身を笑いものにしながら、最終的には本人へ請求書を戻す。

ユーザー版は、そのカーニバルを一段越えて、主人公の責任によって善人を破壊する不条理劇になります。

そうなると観客は、主人公の地獄行きを見て「うわあ」で笑って帰れない。彼氏がとばっちりで落ち、主人公だけがホームに残る絵は、悪趣味な爽快感ではなく、倫理的な後味の悪さを残す。

『スペル』はそこまで観客へ嫌なものを持ち帰らせない。主人公本人を落として、映画内で全部精算する。ここに、サム・ライミのゲテモノ性と大衆娯楽作家性の境界が見えますね。

悪趣味にはする。理不尽にもする。だが、無関係な善人を最後の支払者にはしない。観客が安心して「ひでえ映画だった🤣」と笑える範囲で閉じる。

だから完成度は高いし、面白い。ただ、ユーザーが求めた「ホンマに分かるまで生きたまま苦しめる」ところまでは行かない。

本人地獄行きは、悪趣味ホラーとしては満点のオチです。
彼氏地獄行き・本人残留なら、ゲテモノ責任論としては満点の嫌がらせです。

後者は完全に俺得ですが、日曜洋画劇場の茶の間が凍ります( ゚σω゚)


10.『スペル』

GPT認識:サム・ライミという大衆娯楽の権威がB級様式を選び、説明不要の場面技術だけで百分快を持たせる、ブランド認証付きジャンクフード。

銀行員クリスティンは、老女からの返済猶予申請を自分の判断で拒否し、呪いを受ける。怪異、スプラッター、悪趣味な笑い、恋人や家族との確執、呪いを他者へ移すための策略が、社会派解説や作家名の補助なしで大衆娯楽として機能する。序盤の露骨なジェンダー的胸糞も爽快に回収され、頭を空にして観られる。

終盤、クリスティンは「銀行での決断は自分のものだった」と認める。しかしそれは、呪いを他者へ押し付けて助かったと思った後の告解であり、責任の引き受けではない。負債を他者名義へ移した後で、自分の人格だけを綺麗に整える反省文に近い。

封筒の取り違えによって呪いは本人へ戻り、そのまま地獄へ落ちる。健全な子供騙しとして明快で、道徳会計も本人へ請求を戻して綺麗に閉じる。ただし、理解した瞬間に死ねる本人地獄行きは、ある意味で解放でもある。

私的な俺得案では、呪いが善人の恋人へ移り、クリスティンの目の前で無関係な他者が地獄へ落ちる方がよい。自分だけ生き残り、綺麗事では済まない結果を抱えて生き続けることで、初めて自己責任になる。しかし本作はそこまで観客を凍らせず、「ひでえ映画だった」と笑って帰れる範囲で精算する。

ゲテモノ棚での役割:
サム・ライミを知らなくても普通に面白く、作家権威やオマージュ知識が主演しない息抜き枠。U-NEXTの「B級」は社会的位置ではなく、下品・スプラッター・笑いという味付け名称である。『悪魔と夜ふかし』が知識と様式の整合性なら、本作は場面そのものの整合性。上手くて面白いが、個人嗜好の異端カルトではなく、大衆娯楽作家による高品質ジャンク。

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漁り猫 フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる

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