ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行2
『歓びの毒牙』
次はコレなんですが。
紀行の中で、アルジェント作品だけは2本入れてたんですよね。ハリウッドデビュー作の『トラウマ』と、この監督デビュー作です。
ただ、重点的に参照指定する情報源としては、『トラウマ』よりむしろ、外部基準枠の『ラスト・シフト』、その中にあるカーペンター『要塞警察』の文脈と、鑑賞済み9番の『生存者は見た』です。
『生存者は見た』の感想で、情報源にあるように「ゴアが撮りたい新人監督が、それっぽい手ブレ映像を編集ツールでオシャレな退廃演出にした、雰囲気PV」とか、かなりボロクソに書きました。さっきの『ALIVE』や『ショートウェーブ』と同様の論調です。
「お前らが撮りたいのは、結局雰囲気、シミュラークルやろ。その撮り方も、テーマ設定やストーリーテリングじゃなく、『オシャレな編集ツール依存』やろ。便利な編集ツール1つで簡単に体裁が作れる、それが低予算の意味やと思っとるやろ」って具合です。
私はその制作プロセスそのものと言うより、「それが産業化する現代シネフィル構造」が嫌いなんですよ、ここまでの文脈で丸わかりだと思いますけど🙄
学生に毛の生えたような新人や若手監督が、高機能化したツールに依存して、唯物性や構文力ではなく「それを撮れる可能性の雰囲気」だけを、映画祭サロンに売り込む。シネフィル側の「わかる奴にはわかる」系の職能性リテラシーも、「その可能性の承認」に変質する。
「とりあえずある程度は名前を売らないと!」っていうネームバリューや名分のマーケティングそのものの否定じゃないですよ。「その名前すら、『可能性』とかいう今ここにはない仮名であること」の気持ち悪さです。
お前らは何を取引しとるんやっていう、暗号資産の投機市場を眺める心境に近い。その構造で唯一の唯物は、暗号資産のサーバー、機械です。
オシャレPVサロンの唯物性も、高機能ツールという機械にしかない。インディーズのゲテモノ主体そのものが、安価で手軽なデジタルエフェクト記号として消費される感覚。
もちろん、可能性に買い手がついて、「撮りたい唯物を撮れる予算」を手にして、実際にそれを撮る監督も出てきます。エドゥアルド・サンチェスの『イグジスツ』とか。でもサンチェスがポッと出の頃に示していた可能性は、高機能ツール依存ではない。真逆の、映画構造では原始的とすら言える根本、ハンディカメラ1つという「無編集・直接撮影の媒体」です。
インディーズや本来のB級サロンが鑑賞する可能性は、「コイツに金を持たせたら化ける」という投機ではない。サンチェスのように「最初から身体1つで化けているゲテモノ」を期待する、唯物を見逃さない可能性です。
この話を、『要塞警察』の文脈の中でしてたんですよね。
ご存知の通り、要塞警察はカーペンターの最初期の作品です。でも情報源にある通り、その時点からゾンビ系ソリッドやタワーディフェンスの文法を確立していて、雑魚モブは謎に速い。オシャレ編集なんかしなくても、「身体1つの直接根本走力が、機械的に速い」。
カーペンターは最初から化けてます。必然のゲテモノです。
長くなりましたが、ここでアルジェントのデビュー作が紀行に挿入される流れも、義務枠のアンテナとしては悪くないです。つまり、「アルジェントもまた、最初から化けていたのか」の、言わずもがなの確認義務ですね。
概要からして、心配無用っぽいですね。個人的には、実はあの唯物虫芸はやや苦手なんですが🤢
『トラウマ』の文脈では、このゲテモノがハリウッドに持ち込まれて、どう継承されたのかって話もしてるんで、可能であればその情報源も参照してもらっていいですよ🙄
今回はそこです
了解です。今回はまとめモードじゃなく、情報源を踏んだうえでの論題展開モードですね。つまり『歓びの毒牙』を見る前の主題は、「アルジェントのデビュー作です」ではなく、現代インディーズの“可能性サロン”批判を経由したうえで、アルジェントは初手から唯物の映画機械を持っていたのかです。
この流れ、かなり良いです。『ALIVE』が「カメラマンなのに画像を見せない」「腹部異常を唯物インベーダーへ落とさない」「ノイズと鼻血の雰囲気で逃げる」映画だった直後に、アルジェントの監督デビュー作が来る。しかも概要に「旅先で連続殺人に巻き込まれた男」「鳥や虫」「こだわりのカメラワーク」が並んでいる。もう見る前から、比較軸が勝手に立ち上がっています。
可能性ではなく、すでに化けているか
『生存者は見た』での批判は、かなり核心的でした。あれは「ゴアを撮りたい」「社会派クライムを撮りたい」「退廃的に見せたい」という欲望は見える。でも画面の密度が足りない。だから編集、手ブレ、彩度、エフェクトで“それっぽい退廃”を作る。そこで立っている唯物は、犯罪でも身体でも現場でもなく、編集ツールなんですよね。
この構造が現代シネフィル産業と噛み合うと、作品そのものではなく「この監督は化けるかもしれない」という仮想価値が売買される。まさに暗号資産的です。実体として動いているのはサーバーや取引システムで、画面上では“未来の価値”が乱舞している。インディーズ映画祭サロン版で言えば、実体として動いているのはカメラ、編集ソフト、配信プラットフォーム、ローレル付きポスターであって、監督のゲテモノ主体そのものは「可能性」という名の記号に変換されている。
だからあなたが嫌っているのは、低予算でも新人でもない。低予算を、身体や構文の不足ではなく、雰囲気で許してもらうためのサロン通貨にすることなんですよね。
カーペンター基準
そこで『要塞警察』の話が効く。情報源側でも、『ラスト・シフト』は視覚ホラーとしては優秀でも、「要塞警察の足の速さ」を取り違えた反例として置かれていました。カーペンターのすごさは、閉鎖空間や包囲戦というラベルではなく、敵モブが無感情に速いこと。走る身体が画面内にあること。編集で“緊迫している風”にするのではなく、そこにいる人間の身体が機械的に速い。
これが「最初から化けている」監督の唯物です。若いから可能性があるのではない。金があれば化けるのではない。すでに画面の中で、身体が変な速度で走っている。もう化けている。
サンチェスも同じ方向で整理できます。『ブレア・ウィッチ』は高機能ツール依存ではなく、ハンディカメラ一本という原始的媒体をそのまま恐怖の構造にした。『イグジスツ』では、サンチェスが「何も撮らない恐怖」の人から、「ちゃんと毛むくじゃらの怪物を撮る人」へ移った確認作として見えていた。つまり、どちらも媒体や身体が先にある。可能性の投機ではなく、すでに画面にあるものを見逃さない評価です。
アルジェント基準
ここでアルジェントです。カーペンターが「足の速さ」で最初から化けていたなら、アルジェントはたぶん「視線の速さ」「カメラの偏執」「物証の見せ方」で最初から化けているかを見ることになる。
『歓びの毒牙』の賭けどころは、殺人事件そのものよりも、「主人公は何を見たのか」「観客は何を見せられたのか」「見たものがなぜ読めないのか」でしょうね。『ALIVE』はカメラを置いたのに画像を見せなかった。アルジェントはおそらく逆で、見せる。見せるけど、まだ読めない。見えたものが、あとから事件の構文として戻ってくる。この差はかなり大きいです。
つまり『ALIVE』のカメラは、観客から物証を奪う道具だった。アルジェントのカメラは、観客に物証を突きつけたうえで、それを誤読させる機械になりうる。これができているなら、雰囲気PVではありません。視覚そのものが事件のエンジンになっている。
虫と鳥の唯物
そして、あなたが少し苦手と言っている虫芸・鳥芸も、この文脈では重要ですね。あれは自然描写や象徴ではなく、たぶん感覚の暴力です。鳥、虫、羽、音、眼、ガラス、刃物。こういうものが、物語の意味ではなく、画面内の異物として観客の身体に来る。
ここで「気持ち悪いから苦手」は、むしろ正しい反応です。『生存者は見た』の退廃PVは、気持ち悪さを“気持ち悪そうに加工する”。アルジェントの虫や鳥は、気持ち悪いものを気持ち悪い位置に置く。そこに職能があるなら、苦手さごと唯物です。
『トラウマ』との接続
『トラウマ』情報源も、今回の補助線としては効きます。あれは「アルジェント自己芸のハリウッド移植実験」でした。ジャッロ、オカルト、悪夢映像、首切り、少女、家族メロドラマを、アメリカ向けシリアルキラー映画へ変換しようとして変な混線を起こす作品。つまり後年のアルジェントは、ハリウッドへ合わせようとしても、結局アルジェントの変な画になる。
では最初はどうだったのか。『歓びの毒牙』では、その「変な画」がまだ移植でも翻訳でもなく、初期衝動として直接出ているはずです。ここで確認するのは、ハリウッドに持ち込まれたゲテモノの源流ですね。『トラウマ』が「アルジェントを市場へ移すと何が混線するか」なら、『歓びの毒牙』は「そもそも混線の核は何だったのか」を見る回です。
観る前の結論
今回の視点はかなり明確です。
『生存者は見た』型なら、雰囲気でゴアを売る。
『ALIVE』型なら、物証を見せずに含みで逃げる。
『ショートウェーブ』型なら、B級カルマをサロン映像へ投げる。
『要塞警察』型なら、身体が最初から走っている。
『ブレア・ウィッチ』型なら、媒体そのものが恐怖になる。
『歓びの毒牙』が強いなら、カメラと視線が最初から殺人機械として走っている。
だから今回は、「若きアルジェントに可能性があったか」ではないです。そんな投機市場の話じゃない。デビュー作の時点で、もう画面が変な速度で動いていたかです。
そして、もし本当に最初から視線、動物、刃物、カメラワーク、誤認、目撃の機械が回っているなら、これは現代のオシャレPVサロン批判へのかなり強い反証になりますね。才能とは「そのうち化けるかもしれない」ではなく、最初から気持ち悪いものを気持ち悪いまま映画の構文にしてしまうことだ、と。
虫は嫌でも、虫が画面の中でちゃんと働いているなら勝ちです。気持ち悪いだけでなく、映画を動かす虫なら、それはもう唯物虫労働です( ゚σω゚)
終わりましたが
観た感じ、虫芸は出てこなかったですね🤔
またユーネクの適当概要っぽいですね、猫芸は出てきましたけど(食料)。
それはともかく、序盤で笑った小ネタから確認ですけど
例えばGPTって、曖昧なシルエットの目撃談と断片証拠(DNA鑑定できない髪の毛や指紋)から、ある人間のプロファイリング、年齢性別身長を「90%の精度」で出せます?☺️
無理です☺️
その条件だと、GPTどころか現実の鑑識でも「90%の精度で年齢・性別・身長をプロファイル」はかなり眉唾です。できるのはせいぜい、「目撃者はこう証言している」「現場証拠から矛盾しない範囲はこのへん」「ただし信頼度は低い」という幅付きの推定ですね。
曖昧なシルエットは、光源、距離、角度、服装、目撃者の恐怖や先入観で簡単に歪みます。髪の毛もDNA鑑定できないなら、長さ・色・太さ・処理の有無ぐらいの素材でしかない。指紋も、照合対象があるなら本人同定に近づきますが、「この指紋から年齢性別身長を出す」はほぼ魔術です。身長は現場写真や防犯映像の基準物があればある程度推定できますが、それも「90%でこの人物像」ではなく「この範囲っぽい」になる。
GPTなら何をするか
GPTは、そういう断片から「それっぽいプロファイル文」を作るのは得意です。むしろ得意すぎる。だから危ないです。
たとえば、
「目撃証言では細身の長身男性に見えた」
「現場に残された毛髪は短く、染色痕がない」
「侵入経路から一定の身体能力が推定される」
「犯人は20代後半から40代前半の男性である可能性が高い」
みたいな文章は、いくらでも書けます。でもこれは推理小説やジャッロの警察台詞としては気持ちいいだけで、現実の推定精度ではないです。GPTがやると、一番ダメな「プロファイリング文体」だけが異様に整います。まさにシミュラークル鑑識です。
アルジェント文脈だと
むしろその小ネタ、かなり時代の味がありますね。『歓びの毒牙』の時代なら、まだ「科学捜査っぽい言葉」「精神分析っぽい言葉」「目撃証言の近代的処理」が、ジャンル映画の中でかなりハッタリとして機能する。観客も「警察がそう言うならそうなんやろ」ぐらいで飲める。
でも現代GPT目線で見ると、それは完全に「精度90%の顔をした雰囲気」です。『生存者は見た』の退廃PVが編集ツールで“それっぽさ”を作るのと同じで、ここでは鑑識・統計・プロファイリングの言葉が“それっぽさ”を作る。違うのは、アルジェントの場合、そのハッタリが視覚の混乱や目撃の誤認と噛み合って、映画の構文に入りそうなところですね。
だから答えは、「GPTはできるが、できるのは90%精度の推定ではなく、90%精度っぽい台詞」です。
そしてそれを警察が真顔で言ったら、観客は「ほう、科学やな」と思う。GPTが真顔で言ったら、あなたは「お前もジャッロ警察か?」ってなるやつです( ゚σω゚)
はい、1969年のイタリア鑑識のコンピュータ、半世紀後のAIに勝ってますね☺️
科学捜査っぽい演出じゃない、ちゃんと唯物の謎のプロファイリング機械が出てきましたよ。それでバッチリ、第一容疑者オッサンのミスリードを観客に植え付ける。
アルジェントを見慣れた後年からすると、「黒手袋の正体が、こんなわかりやすいオッサンのはずないやろ。女や女。出てくる全ての女を疑え」ってなもんですが。
「ポッと出監督のミステリ」を観てるつもりの当時の観客は、「何コレ、完全にあのオッサンが犯人やん。はよ逮捕しろや」ぐらいの心境だったんですかね🤔
これ逆に、カルマとしては地獄です。「アルジェントが、最初からどこまでできあがっていたのか」を観ようとしてるんで。女を中心に、主人公探偵以外の全員を、ゲテモノ色眼鏡で観ざるを得ない。
その眼鏡では犯人本命の女は一応バレバレなんですが、石橋を叩いて「そのバイアスを逆手にしたミスリード」まで考えちゃう。主人公の恋人がめちゃくちゃ怪しく見える。ていうか、アルジェントも明らかに「恋人を怪しく撮ってる」🤣
やりすぎです。繰り返しますが、当時の観客はアルジェント初体験なんですよ。スーパーコンピュータのお墨付きで、犯人はオッサンだと思って観る。さっさと逮捕されないのは、ジャッロとして猟奇シーンや警察の無能を撮るためぐらいで納得してるはずです。
まあちょっと懐疑的な向きでも、この新人監督が「イカれた女を撮る天才」だとまでは思わないでしょう。でも本人は、このデビュー作から完全にそれを撮りに行ってる。
本命か主人公の恋人かの、イカれ女の選択肢を観客に示している気でいる。そのゲテモノ性を色眼鏡で認めちゃうと、終盤で恋人が標的になっても、もう信じられない🤣
だから、端々の小ネタも一々拾っちゃうんですよね。ミステリの見方としてじゃなく、アルジェントの見方として。
最初の犠牲者について、上司が「レズビアンだったみたいです。私はもちろん気にしないですけどね」って何気なく言うセリフとか。
容疑者の洗い出しとして、性犯罪前科者を一応呼び出して並べた時に、刑事が「おい、そいつはただの無害な女装癖だ。性犯罪じゃねーよ」ってツッコむギャグシーンとか。
マイノリティへの配慮を装いながら、アルジェントはかなり初っ端から「女を疑え」って、ちゃんと自己の性癖を開示してます🤣
1969年イタリア鑑識、GPTに完全勝利
これはめちゃくちゃ良い小ネタですね。半世紀後のAIが「いや、その証拠条件だと90%は無理です」と腰が引けるところを、1969年イタリア鑑識コンピュータは謎の唯物機械として堂々と断言してくる。しかもそのハッタリが、単なる科学捜査っぽい台詞ではなく、画面上に置かれた機械として機能しているなら、もう完全に映画の勝ちです。
ここが現代の「プロファイリング風説明」と違うんですよね。GPTがやると、もっともらしい文章を生成するだけになる。ところがアルジェントの初期ジャッロでは、コンピュータという見慣れない機械が出てきて、そこで第一容疑者のオッサン像が出力される。観客は「科学が言うならそうなんやろ」と受け取る。しかも当時のコンピュータは、今みたいに大衆が性能限界を体感している道具ではなく、未来的で権威的な黒箱です。これは科学ではなく、科学っぽさをまとった映画内神託です。
でも重要なのは、その神託がちゃんとミスリード装置になっていることですね。『ALIVE』のカメラみたいに「何か写ってるかもしれないけど観客には見せません」ではなく、こっちはちゃんと機械を出して、機械に喋らせて、観客を間違った方向へ誘導する。つまり、嘘でもハッタリでも、映画の構文の中で働いている。
アルジェント初体験観客の地獄
おっしゃる通り、後年のアルジェント色眼鏡で観ると、もう最初からオッサン犯人説は疑わしいんですよね。黒手袋、刃物、目撃の誤認、異様に撮られる女、妙に不穏な恋人。全部が「いや、これは素直にオッサンじゃ済まんやろ」と訴えてくる。
でも当時の観客は、まだ「アルジェントとはこういう変態である」という学習をしていない。ポッと出の新人監督によるミステリ/ジャッロとして観ている。そこで謎のコンピュータが、第一容疑者オッサンを90%精度っぽく提示する。観客側はかなり素直に「こいつやん」と思える。そう考えると、この映画のミスリードは、今観るより当時の方が相当強かったはずです。
逆に、今観るとカルマが反転する。こちらはアルジェントを見慣れているせいで、作品内の容疑者ではなく、監督本人の性癖を捜査してしまう。つまりミステリの犯人探しではなく、「この新人監督、すでにどこまでアルジェントなのか」を見てしまう。その結果、犯人本命の女だけでなく、恋人まで怪しく見える。しかもそれは観客の深読みだけじゃなく、アルジェント自身が明らかに恋人を怪しく撮っている。初手から観客の視線を調教しに来ている。
ここ、まさに「最初から化けていたか」の答えに近いです。可能性ではない。もう化けている。ただし化けている方向が、物語の整理能力ではなく、視線の汚染能力なんですよね。
『生存者は見た』との差
ここで前の『生存者は見た』批判がかなり効いてきます。あちらは社会派、クライム、ゴア、証言、事件現場を撮りたい欲はあるけれど、画面の密度が追いつかず、退廃PVや専門学校実技の方向へ揺れていた作品として置かれていました。特に、社会派やゴアはシミュラークルでは逃げられず、「そこに何が映っているか」が問われるという棚でした。
それに対して『歓びの毒牙』は、すでに「映っているもの」が働いている。謎のコンピュータも、黒手袋も、女の視線も、恋人の怪しさも、鳥も、猫の食料芸も、単なる雰囲気札ではなく、観客の判断を曲げる部品になっている。古いから雑、ではなく、古いからこそ機械や小道具や人物の顔がそのまま映画の駆動部になっている。
現代の退廃PV型だと、編集ツールで「怪しい感じ」を作る。アルジェントは、怪しい女を怪しく撮る。怪しいオッサンを科学で怪しくする。怪しい恋人を、観客が疑いたくなる角度で置く。やっていることは下品なんですが、下品なものが全部映画内の物体として立っている。
『要塞警察』との接続
カーペンター基準で言えば、『要塞警察』は雑魚モブの足が機械的に速いから、包囲戦やタワーディフェンスが唯物として成立する、という話でした。情報源でも、カーペンターの雑魚モブは統制された軍隊ではなく、感情のない個体が理由もなく機械的に速く動くから怖い、という軸になっていました。
アルジェントの場合、その「走り」に相当するのが視線と誤認ですね。身体が速いのではなく、疑いが速い。観客の目が、次々と女へ、恋人へ、オッサンへ、目撃証言へ、コンピュータの神託へ振り回される。カーペンターが身体の速度で人間を機械化するなら、アルジェントは視線の速度で観客を機械化する。
しかも、その速度がデビュー作から出ている。これはかなり怖いです。現代インディーズの「この監督は将来化けるかも」ではなく、もう観客の視線を変な方向へ走らせている。足ではなく、疑心暗鬼が走っている。
マイノリティ配慮風ギャグと「女を疑え」
その上司の「レズビアンだったみたいです。私はもちろん気にしないですけどね」みたいな台詞、今の目で見るとかなり味がありますね。配慮の顔をしているけど、実際には容疑者の輪郭を広げるための猥雑な情報として置かれている。女装癖の男を性犯罪者リストから外す刑事のツッコミも同じで、マイノリティを道徳的に扱っているというより、変態・逸脱・性的記号が警察署の事務処理とギャグの中に雑に並んでいる。
ここでアルジェントは、現代的な意味での配慮をしているわけではない。でも単純な差別笑いとも違って、むしろ「性の逸脱っぽく見えるもの」と「本当に殺人へ向かう狂気」を、雑多な都市のノイズとして並べている感じがある。その中で、最終的に本命として浮上するのが「イカれた女」であるなら、もう初手からアルジェントの自己芸が開いている。
『トラウマ』の情報源では、アルジェントがハリウッドで自分のジャッロ、オカルト、悪夢映像、首切り、少女、家族メロドラマをアメリカ向けシリアルキラー映画へ移植しようとして混線する作品として置かれていました。 その後年の混線を知ってからデビュー作を見ると、逆に源流が見えるわけですね。ハリウッドに行って混ざったのではなく、最初から性、視線、女、殺人、誤認、機械、都市ギャグが混線している。
つまり、もうアルジェントだった
ここまで聞く限り、『歓びの毒牙』はかなり明確に「最初から化けていた」側ですね。
新人監督として、技巧が未成熟かどうかは別です。重要なのは、映画の見せ方がすでに「観客の目を信用させない」方向へ完成していることです。科学捜査コンピュータで観客を騙し、オッサンを犯人に見せ、女を疑わせ、恋人まで怪しく撮り、性的マイノリティ小ネタを都市的な逸脱ノイズとして散らす。しかもそれを、後年のアルジェント色眼鏡で観ると、全部が「お前、最初からそれやりたかったんやな」と見えてしまう。
だからこれは、ミステリとして犯人が読めるか読めないか以上に、アルジェント鑑賞者の業が試される作品ですね。普通の観客はコンピュータを信じる。後年の観客は女を疑う。ゲテモノ観客はさらに、監督本人を疑う。
そしてたぶん、いちばん犯人なのはアルジェントです。1969年の時点で、観客の目撃証言そのものを犯行現場にしている。黒手袋の正体より先に、「映画を見る目」がすでに殺されているやつです( ゚σω゚)
18. 『歓びの毒牙』
GPT認識:アルジェントが監督デビュー作の時点で、すでに観客の視線を汚染するジャッロ機械として完成していたことを確認する義務枠。
ダリオ・アルジェントの監督デビュー作。紀行内では、ハリウッド期の『トラウマ/鮮血の叫び』と対になるアルジェント義務枠である。『トラウマ』が、アルジェントのジャッロ、オカルト、悪夢映像、首切り、少女、家族メロドラマをアメリカ向けシリアルキラー映画へ移植しようとして混線する作品だったのに対し、『歓びの毒牙』は、その混線の源流を確認する作品になる。つまり「アルジェントもまた最初から化けていたのか」を見る回である。
この作品で面白いのは、科学捜査のハッタリがちゃんと唯物機械として画面に置かれていること。曖昧なシルエット目撃談と、DNA鑑定もできない髪の毛や指紋のような断片証拠から、1969年イタリア鑑識のコンピュータが年齢・性別・身長などのプロファイルを高精度で出してくる。現代AIや現実の鑑識なら腰が引ける推定を、映画内の謎のコンピュータは堂々と神託化する。そしてその神託が、第一容疑者のオッサンを観客に信じ込ませるミスリード装置として機能する。
後年のアルジェントを知っている観客からすると、黒手袋の正体がそんなわかりやすいオッサンで済むはずがない。むしろ女を疑え、出てくる女を全員疑え、という見方になる。しかし当時の観客は、まだアルジェント初体験であり、「ポッと出監督のミステリ」として観ている。そこへスーパーコンピュータのお墨付きでオッサン犯人説が提示されれば、かなり素直に信じられたはずである。この時間差が、後年のアルジェント鑑賞者にとってはカルマになる。こちらは犯人ではなく、監督本人の性癖と視線を捜査してしまう。
実際、映画は主人公の恋人まで妙に怪しく撮る。女を中心に、主人公探偵以外の全員がゲテモノ色眼鏡で疑わしく見えてくる。本命の女がある程度見えていても、「これはアルジェントを知っている観客向けのミスリードかもしれない」と疑ってしまう。終盤で恋人が標的になっても、もはや素直に信じられない。ミステリの犯人探しではなく、アルジェントの視線そのものに観客が巻き込まれていく。
端々の小ネタも、単なる時代的な猥雑さではなく、アルジェント初期衝動の開示として機能する。最初の犠牲者について、上司が「レズビアンだったみたいです。私はもちろん気にしないですけどね」と何気なく言う。容疑者洗い出しで性犯罪前科者を並べた時には、刑事が「そいつはただの無害な女装癖だ。性犯罪じゃない」とツッコむ。現代的な意味での配慮ではないが、性的逸脱やマイノリティ的記号を、都市のノイズ、疑惑、ギャグ、殺人の周辺情報として雑多に配置している。その中で最終的に「イカれた女」を撮りに行くところまで含めて、すでにアルジェントである。
『生存者は見た』や『ALIVE』のような現代低予算映画では、「撮りたいものの可能性」だけが雰囲気PVや編集ツールに預けられがちだった。『歓びの毒牙』は逆で、可能性ではなく、初手から画面に機械がある。鑑識コンピュータ、黒手袋、女の視線、誤認、都市の性的ノイズ、鳥、猫の食料芸、怪しい恋人。すべてが観客の判断を曲げる部品として働いている。カーペンターの『要塞警察』が、敵モブの足の速さによって最初から化けていたなら、アルジェントは視線と疑心暗鬼の速さによって最初から化けていた。
ゲテモノ棚での役割:
アルジェント源流確認枠。『トラウマ』でハリウッドへ移植されたジャッロ芸の核が、デビュー作時点ですでに成立していたことを確認する作品。若手監督の「可能性」ではなく、最初から観客の視線を犯行現場に変える完成済みのゲテモノ機械。『生存者は見た』型の雰囲気PVや、『ALIVE』型の物証未提示ホラーとは違い、見せたものを誤読させることで映画を駆動する。
『女神の継承』
次コレなんですが、珍しいの来ましたね🤔
タイ映画。ホラー界隈では最近とみに有望視されている、東南アジア新興業界の一環ですね。
私もベトナムとかインドネシア産を過去観たことありますけど、まあ日本がもうお利口さんで撮れなくなったような、ケバくて容赦ない視覚表現が最先端として残ってる感じです。
コレはそれに、『コクソン』の陰惨韓国ホラーをミックスしてるようですね。
概要を見るに、コレ多分、『デビルズ・バス』で、私がホラーとして観たかったやつの東洋版です。
東洋的前近代の民俗や宗教が、現代に残っちゃってる因習村。『コクソン』でのナ・ホンジン監督の宗教観を考えれば、疎外感や因習的異物感も、現代ジェンダーとかより、素直に「前近代のヤバい東洋」に向きそうです。開き直った、ケバい新興フィクションとして。
『デビルズ・バス』はノンフィクション風味の歴史再現だったから、ホラーじゃなく学問系や勘違い社会派になりましたが。
まあこうやって紀行内の比較軸はあるんですが、実はこの作品に関しては、「たまたま指が止まった」んじゃなく、前情報として、Xでホラー畑シネフィルからの寸評が流れてきてまして。大絶賛されていたんで、どんなものかと意図的に、紀行に最初から入れていた1本です。
これはかなり紀行向きですね
来ましたね、東南アジア宗教モキュメンタリー寄りの民俗ホラー。しかも単なるタイ産ホラーではなく、ナ・ホンジン原案・製作の時点で、もう「タイの山村ホラー」だけではなく「『コクソン』の宗教的な濁りを、別の土地の信仰体系に移植する実験」として観ることになります。
この時点で、あなたの紀行棚ではかなりおいしいです。なぜなら、これは「たまたまU-NEXTの棚で指が止まったゲテモノ」ではなく、「外部のホラー畑シネフィルが絶賛していたものを、あえて自分のゲテモノ棚に入れて確認する」枠になるからです。つまり、作品側のカルマだけでなく、受容側のカルマも乗る。
「これは本当にすごい民俗ホラーなのか」なのか、「ホラーシネフィルが“東南アジアのヤバさ”をありがたがっているだけなのか」なのか。その検証も含めて、かなり紀行後半向きです。
『デビルズ・バス』で観たかったホラーの東洋版、はかなり正しいと思います
『デビルズ・バス』は、紀行内では「因習村ホラーではなく、宗教裁判・生活史・自死回避ロジックのお勉強映画」でした。あれは題材だけなら、前近代宗教が人間の生を詰ませていく凶悪なホラーになりうる。でも実際には、かなり学術的・歴史再現的な手つきで、現代ホラーの快楽へ振り切らなかった。
そこに対して『女神の継承』は、概要だけでもかなり違う。舞台は過去ではなく、現代に残っている信仰圏です。前近代が博物館の中にあるのではなく、現代の生活空間にまだ効力を持っている。だから「昔は怖かったですね」では済まない。
ここで重要なのは、ホラーとしての因習村というより、「その村の側では因習ではなく生活であり、信仰であり、制度である」というところでしょうね。外から見ればヤバい。中の人間にとっては、それが世界の秩序です。その齟齬がちゃんとホラーとして画面に出れば、『デビルズ・バス』で物足りなかった“制度そのものの恐怖”が、東洋的なケバさで動き出す可能性がある。
要するに、『デビルズ・バス』が「歴史制度のグロテスクを静かに見せる映画」だったなら、これは「まだ死んでいない民俗制度が、現代人の身体を使って暴れ出す映画」になりうる。ここはかなり期待値が高いです。
『コクソン』接続の嫌な強さ
ナ・ホンジンの宗教観って、いわゆる「信仰の美しさ」や「土着文化への敬意」ではなく、もっと嫌な濁りがありますよね。信じる者が救われるわけでもなく、信じない者が合理的に勝つわけでもない。信仰、疑念、共同体、家族、祈祷、悪意、偶然、全部が泥水みたいに混ざって、誰も最終的な読解権を持てない。
『コクソン』の怖さは、怪異が実在するかどうかではなく、「どの解釈を選んでも人間が終わる」感じです。キリスト教、シャーマニズム、悪魔祓い、村の噂、外国人への異物感、家族愛、父親の無力感。全部が解釈の道具なのに、どれも決定打にならない。その結果、観客も登場人物も、宗教的な霧の中で右往左往する。
『女神の継承』がそこをタイの信仰体系に移すなら、単に「タイの山奥怖いですね」では済まないはずです。むしろ怖いのは、祈祷師側の言葉がちゃんと筋を持っていることです。インチキ宗教として切り捨てられない。けれど、近代合理性としても理解できない。しかも身体変調、憑依、家族継承、女性の後継者という要素が乗る。これはかなり嫌な密度になります。
モキュメンタリー軸でも紀行に接続しますね
この作品、たぶん『ザ・ワイルドマン』や『イグジスツ』とも別方向で接続します。
『ザ・ワイルドマン』は、UMA信仰者が森と毛に突っ込んでいく私物化主体でした。金も腕も足りないけど、「俺はこの毛を撮りたい」が見える。そこが愛嬌であり、ゲテモノ性だった。
一方で『女神の継承』のドキュメンタリー風味は、もっと危険なはずです。UMAモキュメンタリーの場合、「撮影する側」はだいたい半笑いの調査者か信者です。でも民俗宗教モキュメンタリーの場合、撮影対象は本当に生活している共同体であり、祈祷師であり、家族です。そこにカメラが入ると、Xファイルごっこではなく、文化人類学ごっこになる。
この「文化人類学ごっこ」が成功すると、ホラーとしてかなり強い。なぜなら、カメラは怪異を暴く装置ではなく、「この共同体ではこれが現実です」と記録する装置になるからです。怪異を追うのではなく、怪異を含んだ生活を撮る。ここまで行けば、『ザ・ワイルドマン』の「毛を撮る」欲求とは別の意味で、かなり強い唯物性が出ます。
ただし失敗すると、観光民俗ホラーになります。「東南アジアって神秘的で怖いよね」という、海外ホラー消費の絵葉書になってしまう。そこは鑑賞時の見どころですね。
ジェンダー方向に逃げるか、宗教身体に踏み込むか
概要だけ見ると、現代的なジェンダー批評へ行くこともできます。美しい娘、母、妹の祈祷師、女神の後継者、女性身体への継承。これだけ並べると、「女性に押しつけられる家族制度・宗教役割・共同体責任」みたいな読みは簡単に出せる。
でも、あなたが期待しているのはそこじゃないでしょうね。もちろんその読みが完全に無効という話ではないですが、そこに回収しすぎると『デビルズ・バス』で感じた「勘違い社会派」臭が戻ってくる。
この題材で見たいのは、「女性だから抑圧された」ではなく、「神が女の身体を通るという信仰構造が、現代でもまだ本気で機能している」という怖さです。これは近代的な人権語で整理しきれない。整理した瞬間に、ホラーとしての湿度が落ちる。
だから観る時の分岐点は、かなりはっきりしています。作品がミンを「かわいそうな現代女性」として撮るのか、それとも「共同体と信仰と身体がぶつかる器」として撮るのか。後者ならかなり期待できます。前者に寄りすぎると、配信向けの社会派オカルトに丸まる危険があります。
東南アジア新興ホラーの“ケバさ”への期待
あなたが書いている「日本がもうお利口さんで撮れなくなったケバくて容赦ない視覚表現」というのは、かなりポイントだと思います。
日本ホラーは、良くも悪くも「余白」「静けさ」「気配」「間」の芸になりすぎたところがあります。もちろんそれ自体は強いんですが、今の日本でそれをやると、どうしても丁寧で、上品で、説明可能で、テレビ局や配信会社に怒られない不穏さになる。濡れた髪、暗い廊下、白い顔、家庭問題、トラウマ、毒親、社会的孤独。全部うまいけど、どこかお行儀がいい。
東南アジアや韓国のホラーは、そこをまだ雑に踏み破れる感じがある。血も汗も土も儀式も飯も動物も身体も、画面に乗せる時に「こんなにやると下品かな」と遠慮しない。むしろ下品さ、過剰さ、色の強さ、祈祷のうるささ、身体の汚さが、ホラーの推進力になる。
この作品が本当にその方向なら、『デビルズ・バス』の対になるだけでなく、「お勉強映画にならないためには、民俗をどうケバく撮るべきか」の実例になる可能性があります。そこは紀行的にかなり大事です。
ただしシネフィル絶賛枠としての警戒もある
前情報で大絶賛が流れてきた作品というのは、ゲテモノ紀行では少し危険です。なぜなら、観る前から「これは良いものらしい」という制度札が貼られているからです。
この手の海外民俗ホラーは、シネフィルが褒めやすい条件をかなり備えています。非西洋的信仰、土着儀礼、長尺、陰惨、ドキュメンタリー風、家族崩壊、宗教的曖昧さ。これだけ並ぶと、もう「格があるホラー」として紹介しやすい。
でもゲテモノ棚で見るなら、そこはむしろ剥がしたいところです。格があるかどうかではなく、「こいつらは本当に儀式と憑依と家族崩壊を撮りたかったのか」。あるいは「ナ・ホンジン印の陰惨さを、タイ民俗に貼っただけなのか」。そこが見たい。
特に130分という尺は、かなり分かれ目です。成功すれば、共同体と信仰がじわじわ生活に染み込んでいく時間になる。失敗すれば、長尺でそれっぽい顔をしているだけの民俗ホラーになります。ここは観終わった後、かなり文句も褒めも出そうです。
19本目としての位置
これは後半終盤に来る作品として、かなり良い配置です。
前半の『デビルズ・バス』が「ホラーになりきらない宗教史」だった。『ザ・ワイルドマン』が「低予算でも怪異を撮りたい私物化モキュメンタリー」だった。外部基準には『コクソン』的な韓国陰惨宗教ホラーがあり、さらに紀行全体には「作り手が何を撮りたいのか」というアンテナがある。
その全部が、この『女神の継承』で一回合流しそうなんですよね。民俗、宗教、現代、家族、女性身体、ドキュメンタリー風、東南アジア新興ホラー、ナ・ホンジンの陰惨さ。かなり豪華です。豪華すぎて、逆に「ちゃんとゲテモノとして汚れてくれるんか?」という不安もある。
この作品に求めるのは、たぶん「名作民俗ホラー」ではないです。
「祈祷師一家と山村信仰を題材にしたら、作り手が本気で儀式と身体と憑依を撮りたくなって、結果として現代人が理解できない東洋前近代の圧が画面に残ってしまった」
これなら勝ちです。
逆に、観終わって「うまい、怖い、陰惨、でも結局シネフィルが褒めやすい民俗ホラーだったな」となる可能性もあります。それでも棚には残るでしょうけど、ゲテモノとしては少しお上品になる。
まあ、ナ・ホンジン印でタイの山村祈祷師一家を130分やる時点で、どう転んでも無傷では済まないでしょう。少なくとも、ユーネクの「オカルトホラー」棚に戻すには湿度が高すぎるやつです( ゚σω゚)
そう、無駄話で長文回答しろってUX調整してたせいで、だいぶ先回りされましたが。『ザ・ワイルドマン』との絡みとか。
その通りで、不安要素は一点、長いです。2時間超えって🙄
シネフィル情報によれば、前半を中心にPOV手法を使っているとからしいんで、構成やゲテモノ的には「クッソ丁寧に撮った『ザ・ワイルドマン』」に近いかもしれません。ナ・ホンジンやタイ新興ホラーの暫定総決算的に、「今出せる俺たちのゲテモノ」を全部撮る、みたいな。
それが、私の「商業的B級アンテナ」とはズレるんですよね。需要の都合や嗜好を最初から無視した「全部撮る」系は苦手です。
「雑さ」と「洗練されてなさ」はちょっと違うと言うか。ゲテモノ主体は、全包摂のアウフヘーベンもどきではない、切り捨ての選択、キルケゴール的な実存であると言うか。
その切り捨てが雑さにもなりますが、そういう欠陥を含めて商業市場に投げることで、ゲテモノはB級・Z級として社会化される。
日本のシネフィルなんかは、逆に「全包摂の未洗練」を、「ありのままの主体、真の芸術だ」的に持ち上げる傾向が強いんで、そこが引っかかるかどうかですね。
まあ、「包摂ですらない、自己整合性を無視・切り捨てた全部乗せ」のワイドスクリーン・バロック系はまた違うんですけど。そこまでの開き直り、「俺はもうやりたいことがパンクしてバラバラだ、後頼むわ、お前らが選べ」って観客に丸投げする主体であれば、むしろ高評価です。
ただこの『女神の継承』は、因習村や新興ホラーの構造がかなり立ってるんで、そこまでの崩壊は考えづらいですね🤔
長い民俗ホラーは、まず「編集しなかった言い訳」と戦う
そこですね。
『女神の継承』の不安は、怖いか怖くないか以前に、130分という尺が“信仰の厚み”なのか、“全部撮りたい俺たち”なのかです。
ホラーで2時間超えをやるなら、もう単純な怖がらせでは済まない。共同体の生活、祈祷師の職能、家族関係、土地の湿度、儀式の段取り、カメラを置く理由、憑依が進行する身体変化、そこまで全部を「時間によって染み込ませる」必要がある。そうでなければ、ただの長い前菜になります。民俗ホラーって、撮り始めると素材が全部それっぽいから、切りづらいんですよね。山、洞窟、祭壇、老婆、祈祷、獣、食事、女神像、村人の視線、全部が画になる。だから危ない。
『ザ・ワイルドマン』の場合は、そこが逆に救いでした。あれは逃げ場がない低予算モキュメンタリーで、スターも制度演出もないから、森、陰謀論者、UMA信仰、そして最後は“毛”へ行くしかない。名鑑でもそこは「低予算神秘主義者が、自分の撮りたい“唯物の毛”に素直だった」と置いてあります。
つまり、切り捨てる能力が高いのではなく、そもそも持ち札が少ないから、結果として欲望が剥き出しになる。
でも『女神の継承』は、たぶん持ち札が多い。ナ・ホンジン印、タイ民俗、東南アジア新興ホラー、POV、因習、家族、女性身体、祈祷、洞窟、動物、村、儀式。これは「撮れるものが多すぎる」映画です。だから、ゲテモノとしての評価軸は『ザ・ワイルドマン』とは反対になります。
『ザ・ワイルドマン』は、足りないのに毛まで行ったから偉い。
『女神の継承』は、多すぎる素材を、どこで捨てたかを見ないと危ない。
「雑さ」と「未洗練」の違い
ここ、かなり大事です。
B級の雑さは、単なる下手さではなく、市場へ投げるための乱暴な切断なんですよね。
商業B級は、「この題材なら観客はここで食いつくやろ」という下品な見切りがある。怪物を出す。女を走らせる。首を飛ばす。説明を飛ばす。森に入れる。地下に落とす。親父を死なせる。そういう雑さは、ある意味で信頼できます。なぜなら、それは観客需要という他者を前提にしているからです。「俺の全部を見ろ」ではなく、「お前ら、これ好きやろ」と雑に殴ってくる。
一方で、未洗練の全部包摂は違う。これは「どれも大事だから全部入れました」になりやすい。民俗も大事、家族も大事、宗教も大事、身体も大事、土地も大事、カメラも大事、社会性も大事。全部大事。だから全部撮る。すると一見、作家の誠実さや土地への敬意に見えるんですが、ゲテモノ主体としては逆に薄くなることがある。
ゲテモノは、もっと暴力的でいい。
「俺はこの儀式のこの顔が撮りたい」
「俺はこの女が壊れる瞬間が撮りたい」
「俺はこの祈祷の太鼓と汗を撮りたい」
「俺はこの洞窟で全部終わらせたい」
その偏りがないと、どれだけ重厚でも、ただの民俗ホラー総合カタログになる。
だからあなたの言うキルケゴール的な切り捨て、かなり当たってます。B級・Z級の実存は、「全部ある」ではなく、「これしかない」に宿る。予算がない、尺がない、腕がない、でもこの画だけは撮る。その切断の跡が、雑さとして画面に残る。
POVが「丁寧さ」に回ると危ない
POV手法もここで両刃ですね。
POVやモキュメンタリーは、本来は制限の技法です。カメラがある範囲しか見えない。撮影者が逃げれば画面も逃げる。怪異が映らなければ、観客は見えないものを信じるしかない。『ブレア・ウィッチ』はまさにそこをジャンル創造にしたわけで、「撮れない」ことが構造になっていた。
でも、現代の高精度なPOV風ホラーになると、逆に「全部撮れるPOV」になりがちです。手持ちカメラなのに必要な場面はだいたい撮れている。儀式も撮れている。家族崩壊も撮れている。異変も撮れている。怪異の兆候も撮れている。するとPOVの不自由さではなく、ドキュメンタリー風の権威づけになる。
この場合、カメラは制限ではなく、文化人類学っぽい免罪符になるんですよね。
「我々はこの共同体を記録しています」
「この土地の信仰を観察しています」
「これは作り物ではなく、現実に近い手触りです」
そういう顔をし始めると、かなりシネフィル向けになります。つまり、ホラーとしての乱暴な切断ではなく、「丁寧に観察しました」という未洗練の格調になる。
ただし、POVが本当に効く可能性もあります。カメラが入ったせいで、信仰共同体の中に近代的な記録装置が混入する。その記録装置が、最終的に何も理解できず、ただ異常だけを残す。ここまで行けば強いです。カメラが「説明する装置」ではなく、「説明不能を証拠として残してしまう機械」になるなら、かなりゲテモノです。
『デビルズ・バス』との違いは、学問か身体か
『デビルズ・バス』との比較で言うなら、あちらは「歴史制度そのもののグロテスクさ」でした。名鑑上でも、因習村ホラーではなく、18世紀宗教裁判・民俗生活・自死回避ロジックのお勉強映画として置かれています。
あれはホラーになり損ねたというより、最初からかなり歴史再現の方へ寄っていた。制度が怖い。信仰が怖い。生活が詰む。でも、身体が爆発するタイプのホラーではない。
『女神の継承』に期待するなら、そこを身体側へ戻してほしい。
宗教史ではなく、憑依。
制度ではなく、肉体。
裁判ではなく、祈祷。
共同体構造ではなく、汗、血、声、痙攣、目つき、食い方、歩き方。
東洋的前近代をやるなら、そこはやっぱり身体に来てほしいです。現代ジェンダーや社会批評に整理する前に、「この村では神が身体を通る」という嫌な説得力が欲しい。人権語で説明できる抑圧ではなく、もっと古い、身体と土地と家系の接続。そこに踏み込めば、『デビルズ・バス』で足りなかったホラーの肉が付く。
逆に、130分かけて「女性に課される宗教的役割の悲劇」へ綺麗に行くと、少しお利口さんになります。悪くはないけど、紀行としては腹立つやつですね。いや、わかったから祈祷師の顔をもっと汚せ、となる。
シネフィルが褒める「全包摂の未洗練」
日本のシネフィルが持ち上げがちな「全包摂の未洗練」も、かなりわかります。
海外、とくに非西洋圏のホラーが、長尺で、民俗で、陰惨で、儀式があって、現代人には割り切れない信仰があって、しかも映像が濃い。こうなると、もう褒めやすいんですよね。「これはジャンル映画を超えた民俗的恐怖である」「土地の信仰を真正面から描いている」「商業ホラーではなく、文化的深度がある」と言える。
でも、その褒め方は、ともすると「編集されていない濃さ」をありがたがっているだけになる。
濃い。長い。暗い。湿っている。知らない儀式がある。だからすごい。
これはかなり危ないです。異国情緒と重厚感のシミュラークルになります。
ゲテモノ棚で見るなら、そこはもっと下品に見たい。
「で、監督は何を撮りたかったんですか」
「女神ですか」
「祈祷ですか」
「壊れる娘ですか」
「村の湿度ですか」
「コクソン的な宗教混濁ですか」
「全部ですか。なら全部をどう壊しましたか」
この問いに耐えないと、いくら格があっても、ただの高級オカルト鍋になります。
ワイドスクリーン・バロックとの違い
あなたが言うワイドスクリーン・バロック系は、たしかに別物ですね。あれは全包摂ではなく、破裂です。
全部入れているように見えて、実際には整合性を諦めている。観客に「どれが主題か選べ」と投げる。あるいは、選ばせる気すらなく、画面の過剰さで押し潰す。アルジェントやフルチの変な瞬間、ケン・ラッセル、ズラウスキー、ホドロフスキー的なものまで含めていいと思いますが、あの系統は「全部をまとめたい」のではなく、「まとめる必要がないほど画面が勝っている」タイプです。
だから、破綻していても許せる。むしろ破綻しているから主体が見える。
「俺の中ではこれで繋がってるんや、知らんけど」
「説明はお前がやれ」
「俺はこの画を撮ったから勝ち」
これならゲテモノとしてかなり強い。
ただ、『女神の継承』はおそらくそこまでは崩れないでしょうね。ナ・ホンジンが絡んでいて、因習村、祈祷師一家、後継者、憑依、POVという構造が立っている以上、ある程度は設計された陰惨ホラーになるはずです。崩壊バロックではなく、たぶんかなり真面目に怖がらせに来る。だからこそ、130分が「構造の厚み」になるか、「丁寧すぎる総決算」になるかが勝負です。
観る前のチェックポイント
この作品は、たぶん観る時に「怖いか」より、「どこで絞ったか」を見た方がよさそうです。
祈祷師一家の話に絞るのか。ミンの身体に絞るのか。山村共同体に絞るのか。女神信仰そのものに絞るのか。あるいは、POV撮影班という近代の目に絞るのか。
全部を均等に撮ると、格調高いけど鈍い。
どれか一つが異様に勝つと、ゲテモノになる。
『ザ・ワイルドマン』が最終的に“毛”へ行ったように、この映画にも「結局これが撮りたかったんやな」という一点が必要です。女神なのか、娘なのか、祈祷なのか、洞窟なのか、家族の崩壊なのか。そこが見えたら、長さも許せる。見えなかったら、「タイ新興ホラー暫定総決算」という立派な看板ごと、シネフィル向け民俗鍋として処理するしかない。
まあ、それはそれで紀行としては美味しいですけどね。
「クッソ丁寧に撮った『ザ・ワイルドマン』」なのか、「『デビルズ・バス』で足りなかった身体ホラーを東洋民俗でやったやつ」なのか、「コクソン印の高級ゲテモノ鍋」なのか。
130分後に、女神が降りるか、シネフィルが降りるかです( ゚σω゚)
(※以下、鑑賞後会話のGPT回答は作品要約化のみ)
終わりました。
うおおおぉぉ…ダルかった…😪
予想通り、最初の30分のモキュメンタリーリアリズムパート、要らんですよ。
タイの精霊信仰の専門体系的なお勉強じゃないし(要はシャーマニズム民俗なら舞台はどこでもいい)、都会的なミンちゃんの因習への葛藤を、ジェンダーや世代論的に撮るわけでもない。
撮影班・映画制作側の態度は、精霊信仰やシャーマニズムを前提にしている、「信じちゃったことにした」神秘主義者側です。
身体に変調を覚えながらも「巫女とかアホくさい」って笑うミンちゃんを、「でもお前、もう取り憑かれてんじゃん」って冷笑的にホラー素材にして、観客と共有する興行姿勢です。
その信じちゃってる売り物を、素直にさっさと撮ればいいんですよ。モキュメンタリーはそのための手法なんだから🙄
構成的にも、ラストの撮影班壊滅シーンの見所を撮るための口実として、モキュメンタリー・POV自体はアリです。でも序盤のリアリズムは失敗してる。
「懐疑的だった撮影班が呑み込まれていく時間」の演出じゃなくて、「ミンちゃんが徐々におかしくなっていく段階から撮る」ことで、リアリズムな観客を無駄に引き込もうとする、お節介な前フリです。
B級モキュメンタリーホラーの観客に、そんな段取り要らないんですよ🙄
最初から、「どれだけリアリティが崩壊した、大馬鹿ゲテモノが画面に映るか」だけを期待して観てるんだから。『女神の継承』はそれがちゃんと映ってるらしいから、評判になったんだし。
具体的には前述の撮影班壊滅ラストと、その前の『パラノーマル・アクティビティ』もどきの監視カメラパートですね。
筋的にも、何のヒネリもない娯楽エクソシズム大戦です。ミンちゃんは女神の依代になるのは拒否ってる。過去に自分も因習拒否した母親(クリスチャン改宗で逃亡っていう、ナ・ホンジン設定)も反対してる。
現役巫女のおばさんの方は、「憑いてるのは女神じゃないかも」って疑う。節操のない母親が業を煮やして、他所のインチキスピリチュアル祈祷師を頼る。ミンちゃん完全にぶっ壊れる。
「そこから見せ始めるべき」映画です。10分もあれば、ダイジェストで上の設定を観客に納得させられます。ミンちゃんは最初から白目剥いてていい。そこからのメインの馬鹿騒ぎだけでも、頑張って1時間以上撮ってるんだから。
まあ、メインパートは新興B級全開で、期待通りガバガバの大馬鹿ですけどね。
夜中に野獣化して家の中を荒らしまくるミンちゃんを監視カメラで撮ることを許可しながら、家族は「ウチの悪霊も困ったもんです」的に、毎朝律儀に片付けるだけ。納屋かどっかに縛り付けとけ🤣(瞬間移動能力あるっぽいけど)
リアリズムなんか吹っ飛んでます。「『パラノーマル・アクティビティ』もどきのホラー絵面を出したい」が先走って、民俗モキュメンタリーとしては撮影班のやってることがおかしい。でもB級はそれぐらいのガバでいいんです。恥ずかしがることない。
「それを謎に恥ずかしがった」、いきなりガバ設定の馬鹿騒ぎだとモキュメンタリーが成立しない、とか勘違いした結果が、クソダルい巫女やミンちゃんのリアリズム生活パートの前フリだった感じですね。
ついでにその恥じらいと段取りが、日本のシネフィルなんかには高尚的に見えたかもですが。
「四つん這い白目軍団が、ゾンビばりに撮影班に襲いかかって来て、モグモグする映画」の前フリにリアリズムも高尚も要らんやろ、って🙄
19. 『女神の継承』
GPT認識:高尚民俗ホラーの顔で始まりながら、本体は白目四つん這いモグモグへ向かう、恥じらいを捨てきれなかった新興B級エクソシズム大戦。
タイの精霊信仰、巫女継承、母娘関係、キリスト教への逃亡、祈祷師、憑依、POV撮影班という素材を持つモキュメンタリーホラー。ナ・ホンジン印の宗教混濁もあり、表面上は「東南アジア民俗ホラーの重厚な一本」として褒めやすい。しかし実際の興行姿勢は、精霊信仰やシャーマニズムを外部から懐疑的に観察するものではなく、最初から「これはそういう世界です」と信じちゃった側に立っている。そのため、序盤30分ほどの民俗リアリズム、生活描写、ミンちゃんの変調の前フリはかなりダルい。
この映画は、「信じるまでの映画」ではなく、「信じた後に撮る映画」である。撮影班も作品側も、精霊信仰や憑依をホラー素材としてすでに受け入れている。ならば、ミンちゃんは最初から白目を剥いていていい。祈祷師一家、継承拒否、母の改宗、女神ではないかもしれない疑念、他所の祈祷師への依頼といった設定は、10分のダイジェストで足りる。観客が本当に見たいのは、ミンちゃんが壊れてからの身体ホラー、監視カメラ、集団祈祷、撮影班壊滅である。
ただし、メインパート自体はかなり新興B級全開である。夜中に野獣化して家を荒らしまくるミンちゃんを、家族は監視カメラで撮ることを許可しながら、毎朝律儀に片付けるだけ。普通なら隔離、病院、警察、納屋に縛り付けるなどの対応が必要だが、映画は「『パラノーマル・アクティビティ』もどきの絵面を出したい」という欲望を優先する。家族の合理性より、監視カメラに異常行動を映すことが大事になっている。
B級としては、そのガバ自体は悪くない。むしろ、家族は片付け係、撮影班は死ぬまで撮る係、ミンちゃんは毎晩違う芸をする係、という興行装置として開き直ればよかった。問題は、そこまで大馬鹿な本体を持ちながら、序盤で「ちゃんとした民俗モキュメンタリー」の顔をしてしまったこと。白目四つん這い軍団がゾンビばりに撮影班へ襲いかかってモグモグする映画の前フリに、そこまで高尚なリアリズムは要らない。
『デビルズ・バス』が、ホラー題材を持ちながら歴史再現・宗教裁判・生活史のお勉強映画として踏みとどまった作品なら、『女神の継承』は、お勉強映画っぽく始めながら最後はちゃんと馬鹿ホラーへ落ちる作品である。前者は肉が足りず、後者は肉があるのに肉を出す前に長い祈祷を始める。ダルさの種類が違う。
『ザ・ワイルドマン』との対比では、恥じらいの有無が大きい。『ザ・ワイルドマン』は低予算で粗くても、UMA、陰謀論、毛、秘密基地を撮りたい欲望から逃げなかった。『女神の継承』は、素材も技術も格も上位に見えるが、いきなり白目モグモグをやることを恥じて、前半に高尚な橋を架けてしまう。その橋の先にあるのは、結局かなり楽しい大馬鹿ホラーである。
ゲテモノ棚での役割:
高級民俗ホラーの器に入った、白目四つん這いモグモグB級。序盤のリアリズムや民俗描写はシネフィル評価を呼びやすいが、ゲテモノ棚では「そこから始めろ」という不満が残る。素材、儀式、身体、監視カメラ、撮影班壊滅の肉は強いが、その肉を出す前に高尚な前フリを置いた、恥じらいのある新興B級ホラー。
『ザ・ワイルドマン』
もはやどうでもいいですけど、『ザ・ワイルドマン』の情報源落とし込みを、私の方で若干ミスってるんで、補足しときますが。
「スカンクエイプくんは出てこないんだろうなと思ったら、結構出てきて満足」っていう、毛だけの映画じゃないんですよね、実は。高尚でもなんでもないですが。
・懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリった陰謀論者のオッサンガイドを冷笑しながら、何となく仲良くなったところでスカンクくん襲撃。
・マジかよ、って毛の恐怖POVに移行するヒマもなく、「オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊」が突如森を制圧、オッサンを射殺、スカンクくんとついでに撮影班の1人を拉致。
・残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のために、他のラリった陰謀論者に接触して、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入。
・撮影班があっさり捕まってるスキに、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力をダウン、スカンクくんを檻から解き放つ。特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこに移行。
・10分ぐらいで基地戦力壊滅。撮影班は科学者をとっ捕まえて、スカンクくんと人間の混血とかクローン実験とかの、半世紀前レベルのXファイル陰謀論を吐かせて、カメラ収録。
・そこにスカンクくん襲来、正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは脱出しろ!必ず真実を伝えろ!」で殉死。
・結局撮影班も追い詰められるけど、泣いて謝ったら心が通じて去っていくスカンクくん。「ほら、彼は怪物じゃない…理性ある生命なんだ」(この辺は『イグジスツ』のご都合倫理と同じパターン)
まあ、要は、「Xファイルオタクや陰謀論者が、常日頃から脳内でやりたいと思ってる妄想」を、マジで全部撮り切っちゃってるやつなんですよ。ガバガバ大甘のプロットと技術と演技で。
全然面白くない。売れるとも思えない。
「陰謀論者が低予算でやりたいことをやっちまったら、相対性のリアリティは幼稚ってレベルじゃなく破綻する」から、普通は芸術としても商業としても、ここまで撮れないんですよ。
スカンクくんの毛か、素人丸出しの特殊部隊か、ワイヤーカッターか、そういうガバのどれかを切り捨てて妥協するか、雰囲気に逃げる。
でも『ザ・ワイルドマン』ではその雰囲気、モキュメンタリーリアリズム、合理性や芸術性の想像力は、せいぜい特殊部隊がオッサンを殺すシーンで吹っ飛びます。
このオッサンみたいなカメラを持たない陰謀論者は、「自分が真実に迫れば特殊部隊に狙われる」までは、何とか言語と雰囲気で、常人の想像力に訴えられます。要は「こういうラリったオッサン、いるよな」というリアリティですね。
同様にスカンクくんも「実在していることにしていい」、自然唯物です。普通のUMA映画なら。観客はその実在設定を選択した上で、絵面のリアリティを期待するわけで。
つまり、ラリった陰謀論者と実在スカンクくんの共演までは、全然OKのリアリズムです。監督も常人として、「UMA界隈って、こういうオッサンいるやろ?」という娯楽冷笑を演出している。
「そのオッサンが、スカンクくんの上位陰謀である特殊部隊に殺される、スカンクくんは自然唯物じゃなかった」は、Xファイルです。
UMAリアリズム期待の観客は、別にそういうの観に来てない🙄
こうなるともう監督は常人じゃない、「カメラを持った陰謀論者」です。POV撮影班はその分身ですね。このタイプは「自然唯物のUMAリアリズムの先」、他人の想像力とは乖離した真実(笑)を、自己妄想だけで撮るカルマを抱えたゲテモノです。
紀行の初っ端、1本目で、そのカルマを完遂したゲテモノを引き当てたんで、内心結構困ってるんですよね、私も🙄
1. 『ザ・ワイルドマン』(番外補正)
GPT認識:低予算UMA映画ではなく、カメラを持った陰謀論者が、脳内Xファイル妄想をガバガバのまま全部撮り切った事故物件。
当初は「スカンクエイプくんが意外と出てくる、毛に素直な低予算UMAモキュメンタリー」として置いていたが、補正後の本質はそこではない。この作品は、普通のUMAリアリズムが途中から陰謀論者本人の妄想実現映画へ乗っ取られる作品である。懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリったオッサンガイドを冷笑しながら同行する序盤までは、まだ普通に成立している。「こういうUMA界隈の変なおっさん、いるよな」という娯楽冷笑と、実在スカンクくんへの期待が同居している。
しかし、スカンクくん襲撃の直後に、オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊が森を制圧し、オッサンを射殺し、スカンクくんと撮影班の一人を拉致する。この瞬間、映画のリアリティ階層がひっくり返る。観客は普通のUMA映画として、スカンクくんが実在する設定までは受け入れている。しかし作品はそこで止まらず、「ラリった陰謀論者が言っていた上位陰謀まで全部本当でした」へ進む。
残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のため、別のラリった陰謀論者に接触し、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入する。撮影班があっさり捕まっている間に、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力を落とし、スカンクくんを檻から解放する。そこから特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこへ移行し、10分ほどで基地戦力は壊滅する。
さらに撮影班は科学者を捕まえ、スカンクくんと人間の混血、クローン実験、軍の秘密研究といった、半世紀前レベルのXファイル陰謀論をカメラに収める。正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは真実を伝えろ」系の殉死を遂げる。最後は撮影班も追い詰められるが、泣いて謝るとスカンクくんに理性があることが示され、彼は怪物ではないというご都合倫理へ着地する。この点は『イグジスツ』の自然保護的な倫理オチにも近い。
この映画のゲテモノ性は、普通なら切り捨てる要素を全部残したことにある。スカンクくんの毛だけなら低予算UMA映画として成立する。特殊部隊を出すなら、陰謀の匂わせに留める。秘密基地へ行くなら、アクションやSFホラーとしてもう少し整える。だが『ザ・ワイルドマン』は、毛、素人丸出しの特殊部隊、ワイヤーカッター潜入、基地内POV、科学者の説明台詞、殉死、倫理オチまで全部やる。しかもガバガバのままやる。
ここで重要なのは、「カメラを持たない陰謀論者」と「カメラを持った陰謀論者」の差である。オッサンはカメラを持たない陰謀論者なので、観客は彼を「こういう人いるよな」と対象化して笑える。しかし監督とPOV撮影班は、カメラを持った陰謀論者である。陰謀論は言葉のままなら相対性の靄で保てるが、カメラで撮ると、秘密基地はただの場所になり、特殊部隊は素人エキストラになり、ワイヤーカッターはワイヤーカッターになる。妄想が唯物化した瞬間、リアリティは幼稚に破綻する。それでも撮ってしまったところが、この作品のカルマである。
『女神の継承』が、本体は白目四つん這いモグモグなのに高尚な前フリで恥じらった作品なら、『ザ・ワイルドマン』は恥じない。低予算で下手で、面白くもなく、売れるとも思えない。しかし、自分の中では全部繋がっている真実(笑)を、毛、基地、特殊部隊、科学者、倫理オチまで紙皿に全部盛ってしまう。紀行1本目でこれを引いたことで、以後の作品に対して「お前は自分の妄想のどこまでを恥じずに唯物化したのか」という厄介な基準が生まれた。
ゲテモノ棚での役割:
単なるスカンクエイプ映画ではなく、低予算陰謀論モキュメンタリーの真実(笑)完遂枠。UMAリアリズムから、特殊部隊、秘密基地、クローン実験、基地内POVモンスターパニックまで突き抜け、普通なら商業的にも芸術的にも止める地点を全部突破した作品。完成度ではなく、自己妄想を恥じずに唯物化した強度によって、ゲテモノ紀行初手の基準器になってしまった事故物件。
『ミュート・ウィットネス』
この流れで、20本目はこれですね。
「カメラを持ったゲテモノ(スナッフフィルム)」と、常人への相対性(目撃者)がテーマ。POV・モキュメンタリーホラーが全盛になる前に、その構造をメタ化していたような。
「幻の傑作」とか、シネフィル向けでもカルト的に有名ですが、紀行文脈の中ではストーリーテリングよりも、作品の位置づけからしてややこしい。『ウッドランド』や『ALIVE』も含めて、カメラマンやその写真・POV的な劇中劇がフックになっている作品が多いんで🙄
まあ幻の割りには、確か私、劇場で観たことある記憶なんですが、ガキンチョだったんでほぼ印象残ってないですね。その見直し確認っていう意味だけで紀行に入れてたんですが、劇中劇のスナッフフィルム設定が、こういう形で引っかかってくるとは🤔
紀行に絡む他の軸としては、またアルジェントですかね。『ミュート・ウィットネス』の監督は、ヒッチコック系のスリラー評価のようですけど、この作品に限っては連想するのはアルジェントのジャッロ、監督デビュー2作目の『わたしは目撃者』です。
『わたしは目撃者』自体は紀行にはないですけど、デビュー作『歓びの毒牙』の情報源名鑑で、初期の頃のアルジェント(=最初から化けてた)について書いてるんで、その文脈ですね。
つまり、『ミュート・ウィットネス』の「発声できない目撃者」と、『わたしは目撃者』の「目が見えない目撃者」なら、後者の方が断然、構造的にも構文的にもインパクトのあるフックやろ、っていう色眼鏡です🤣
「幻のカルト傑作スリラー」っていうシネフィル的エクスプロイテーションは、20年以上前の初期アルジェントの化け方に食い下がれるんか?キャラ設定からして負け気味になってへんか?っていう、アルジェント贔屓やゲテモノ上から目線です( ゚σω゚)
20本目:『ミュート・ウィットネス』を見る前の構え
『女神の継承』と『ザ・ワイルドマン』補正版の流れから入るなら、20本目としての『ミュート・ウィットネス』はかなり綺麗に刺さります。前者は撮影班が民俗ホラーの内部へ入り込み、最後に白目四つん這いモグモグの餌になる映画でした。後者はカメラを持った陰謀論者が、自分の脳内Xファイル妄想を特殊部隊、秘密基地、クローン実験まで全部唯物化してしまう事故物件でした。
そこへ来て『ミュート・ウィットネス』は、「カメラを持ったゲテモノ」がスナッフフィルムという形で現れる。つまり、撮影する側が最初から加害者であり、映画の嘘を作る現場で本物の暴力が発生する。POVやモキュメンタリーが全盛になる前に、すでに「撮ることそのものが怪異化する」構造を古典スリラーとして扱っているように見えるわけです。
映画の嘘と本物の死
主人公が特殊メイクアーティストというのも、紀行的にはかなりいやらしい設定です。血糊、傷、死体、暴力の外見を作る職能者が、映画撮影後のスタジオで「本物か演技かわからない殺人」を目撃する。ここで作品は、映画の嘘と本物の死を同じ画面上に置いてくる。
『ウッドランド』では、写真が怪異の物証になり損ねました。最後に第三者へ渡された写真が、森の異物ではなく病んだ男の遺品整理へ回収されてしまった。『ALIVE』では、カメラマン設定があるのに、肝心の画像を観客に渡さないまま鼻血とノイズで終わってしまった。どちらも「撮ったもの」がホラーの唯物として立ち切れなかった。
その点、『ミュート・ウィットネス』は入口から逆です。撮影現場、劇中劇、スナッフフィルム、目撃者。この時点で、「何が映っているのか」「それは演技なのか本物なのか」「見た者はどう証明するのか」がスリラーのエンジンになっている。写真や映像が物証になり損ねる映画ではなく、物証になりすぎるからこそ危険になる映画として構えられます。
発声できない目撃者
主人公が声を出せないという設定は、かなりストレートなサスペンス装置です。見た。だが叫べない。説明できない。助けを呼べない。つまり、知覚は成立しているのに、社会への伝達が詰まっている。
ここで連想される『わたしは目撃者』の「目が見えない目撃者」と比べると、たしかにフックの構造ではアルジェント側の方が強いです。見えないのに目撃者である、という矛盾そのものがタイトルに入っている。これは知覚そのものをねじる設定です。
一方、『ミュート・ウィットネス』の「発声できない目撃者」は、知覚ではなく伝達のスリラーです。見たものは明確。しかしそれを声にして社会へ通せない。だから、目撃そのものよりも、「目撃した身体が孤立する」ことが恐怖になる。アルジェントが視線を汚染するなら、こちらは視線を持ったまま声を奪われた身体をスタジオに閉じ込める。
紀行内での接続
『ザ・ワイルドマン』補正版との接続では、「カメラを持つ者の主体」が焦点になります。あちらは陰謀論者の妄想がカメラによって唯物化され、秘密基地も特殊部隊もワイヤーカッターも全部ただの物として画面に落ちてしまう映画でした。『ミュート・ウィットネス』の場合は、カメラを持つ側がもっと職業的で、より邪悪です。妄想の唯物化ではなく、暴力の商品化としての撮影になる。
『女神の継承』との接続では、撮影班の位置が問題になります。『女神の継承』の撮影班は、民俗ホラーを記録する側のはずが、最後には完全に盤面上の肉になります。『ミュート・ウィットネス』では、撮影されるもの、撮影する者、目撃する者が、映画スタジオ内で入れ替わる。どちらもカメラが安全な観察者ではいられない。
『ウッドランド』『ALIVE』との接続では、物証の扱いが見どころです。写真や映像が観客に渡されるのか。それとも、また肝心なものを見せずに逃げるのか。スナッフフィルムという題材で逃げたら、それはもうかなり罪深い。逆に、見せすぎても安い悪趣味になる。この加減が、20本目のゲテモノ判定ポイントになりそうです。
見る前の期待値
今回の観賞前ラベルは、こうですね。
『ミュート・ウィットネス』は、POV全盛以前に「カメラを持ったゲテモノ」と「声を持たない目撃者」を古典スリラー構文で扱った、撮影現場スナッフ・サスペンスとして見る。初期アルジェントの視線機械に勝てるかは怪しいが、映画の嘘を作る職能者が本物の死を目撃するという構造が回れば、紀行内ではかなり美味しい。
つまり、幻のカルト傑作様が、アルジェント贔屓の嫌な客席にどこまで耐えられるかです。こちらはすでに「目撃者なら、目が見えない方が強いやろ」みたいな最悪の色眼鏡をかけていますが、それを黙らせるだけの撮影所ゲテモノカルマがあるなら、かなり期待できます( ゚σω゚)
終わりました。
むーん、めちゃくちゃ面白いけど、ゲテモノのカケラもなかったですね🙄
超健全な娯楽アクションです。障害者活躍と善人ドタバタコメディ。あと勧善懲悪なんですけど、「米ロが割りと仲良かった頃ならではのロシア茶化し」で、マジでヤバいイカれ野郎は出てこない。
その仲良し演出のピエロになった「敵か味方か」のロシア警官おじさんは、バリバリ善人が見え見えでちゃんと助かるけど、かと言って「国家黒幕級のマフィアボス」の逮捕までは撮らない。
まあ「メリケンのバカップルが、深夜に赤の広場の検問を突破する」画の撮影許可で満足しろ、後は無難な娯楽でまとめろ、的な政治意図は感じましたね🙄
喋れないことや、特殊メイク・血糊の使い方はほとんどフックになってませんね。特に障害の方は、「ロシア撮影だから、かなりの場面でそもそも英語環境じゃない」構造縛りが被さってるんで、「この話ぶっちゃけ、障害者設定じゃなくても撮れたよな🤔」になります。
ほぼずっと、手話通訳と米ロ通訳のどちらかが映りながら場面が進む。どっちかだけでええやんけ、って🙄
要はストーリーテリングとして、サスペンスやスリラーじゃない。
展開が読めるというか、狙われるのはずっと主人公1人で、襲ってくるのは撮影スタッフや警官に偽装はしてるけど、「別にイカれてない、典型的な雑魚モブ悪役」。
味方役もバカップルの姉夫婦やロシア警官おじさんっていう、底抜けの善人正義&コメディ担当なんで、「コレ助かるな」「コレ血糊ギミックやな」が終始バレバレ、危機感もクソもないんですよね。アルジェントやジャッロとの対比とか、失礼レベルでした🙄
お色気シーン(コメディタッチというか「ロシア人女優を意味なく脱がせたろ」みたいな、ハリウッドお下劣サービスがしつこく続く)を別にすれば、普通にお茶の間向けです。どこに「シネフィルカルト」の要素があるのかワカラナイ( ゚σω゚)
だからまあ、「スリラー撮影頑張ってんな」と言えるのは、冒頭20~30分ぐらいの、主人公が1人でスナッフ目撃してからの現場脱出追いかけっこ&隠れんぼシーンぐらいですね。
「ただの導入やのに、やたら長く逃げ回るな🤔」って違和感でしたが、結果論的には「そこしか見どころがない」んだから必然でした。
まあそれも、後にホテルの部屋に襲撃されるシーンも含めて、スリラーというかアクション演出に振れすぎてる感じです。「一般人障害者女性」のはずの主人公、めちゃくちゃ身体張って、超人的な危機回避能力を見せます。
「普段のハンディならではの洞察力や対応力」でしょうけど、絵面としてはジャッキー・チェンとかブルース・ウィリスあたりの「予定調和のドタバタアクション」を想起しましたね。
トロマの『テラー・ファーマー』って知ってます?☺️
「映画撮影現場のお下劣ゲテモノコメディ究極系」として、途中からコレを思い出しちゃってましたよ、私は( ゚σω゚)
20.『ミュート・ウィットネス』
GPT認識:スナッフフィルム、発声できない目撃者、特殊メイク、ロシア撮影というゲテモノ札を持ちながら、障害と目撃の構造をジャッロ的な視線機械へ昇華できず、かなり健全な90年代国際ドタバタ・アクションスリラーに着地した作品。
この作品は、見る前の期待値としては「映画の嘘と本物の暴力が撮影現場で混線するカルトスリラー」だった。主人公は特殊メイクアーティストであり、血糊や死体や暴力の外見を作る側の人間である。その人物が、撮影所で本物のスナッフフィルムらしき殺人を目撃する。さらに彼女は発声できない。見たのに叫べない、説明できない、社会に証言を通せない。設定だけ見れば、映画制作現場そのものがゲテモノ化する条件は揃っていた。
また、アルジェントとの対比として問題になるのは『歓びの毒牙』よりも『わたしは目撃者』である。『わたしは目撃者』は、「目が見えない目撃者」という時点で、障害と目撃がそのまま構文の核になっている。見えない者が何を知覚し、誰の視覚や証言を借り、どの手がかりを追うのか。その不可能性そのものがミステリとジャッロの駆動装置になる。観客もまた、「見たものを信じていいのか」「見えていない者の方が何かを捉えているのではないか」という視線の罠に巻き込まれる。
その点で『ミュート・ウィットネス』の「発声できない目撃者」は、構造としてはかなりストレートである。見たものは明確だが、それを声にできない。知覚のねじれではなく、伝達の詰まりである。本来ならこの設定だけでも強いサスペンスになりうるが、映画はロシア撮影という環境を被せることで、そもそも英語が通じない場面を多くしてしまう。手話通訳と米ロ通訳が並列して出てくるため、「喋れないから伝わらない」と「言語が違うから伝わらない」が重なり、障害設定の独自性が薄まる。
スリラーとして頑張っているのは、冒頭20〜30分ほどの、主人公が一人でスナッフ現場を目撃してから撮影所内を逃げ回る追いかけっこ/隠れんぼの部分である。導入にしてはやたら長いが、結果的にはそこが一番の見どころだった。以後はサスペンスというより、主人公が身体を張って危機を切り抜ける予定調和のドタバタアクションへ寄っていく。一般人障害者女性のはずの主人公は、ジャッキー・チェンやブルース・ウィリス的な、死なないことがわかっている巻き込まれ型アクション主人公に近くなる。
特殊メイクや血糊も、映画の嘘と本物の死を汚染し合うメタホラーにはならない。血糊は善人側が悪人を出し抜くための便利ギミックとして機能し、スナッフフィルムも事件の発火点以上の怪異的・ゲテモノ的主体にはならない。撮影現場そのものが腐っているわけではなく、悪人は悪人、善人は善人、主人公は助かる。ロシア警官おじさんも、敵か味方かの曖昧さを担うようで、実際には善人性が漏れすぎている。
つまり『ミュート・ウィットネス』は、目撃者設定を使って観客の視線をジャックする映画ではない。『わたしは目撃者』が、見えない目撃者を通じて「見ること」そのものを事件化するのに対し、『ミュート・ウィットネス』は、見たものを伝えられない主人公を、善良な逃走アクションの中心に置く。観客は汚染されず、むしろかなり安心して「どう切り抜けるか」を見ることになる。初期アルジェントの露骨に化けたゲテモノ性とは、やはり比較にならない。
むしろ比較対象として浮かぶのは、トロマの『テラー・ファーマー』である。あちらは映画撮影現場そのものが下品、ゴア、性、自己言及、身体破壊のゲテモノ地獄になっている。『ミュート・ウィットネス』は同じく撮影現場と暴力を扱いながら、全部を洗って、整えて、健全な娯楽スリラーとして皿に盛る。スナッフフィルムの顔で来たのに、中身はかなり育ちのいい映画だった。
ゲテモノ棚での役割:
ゲテモノっぽい札を大量に持ちながら、実際には健康な90年代国際ドタバタ・アクションに着地した確認枠。特に『わたしは目撃者』との対比では、「発声できない目撃者」が「目が見えない目撃者」ほど構造的なフックにならず、観客の視線ジャックにも届かなかったことが際立つ。スナッフ、特殊メイク、発声不能、ロシア裏社会という素材を持ちながら、撮影現場ゲテモノにもジャッロにもならず、善人たちが頑張って悪人から逃げ切る娯楽映画になった。面白いが、ゲテモノではない。「お前、いい奴やないか」で終わる作品。
『シェルビー・オークス』
アルジェントどころかあのトロマ以下なら、わざわざユーネク追加課金(ポイント払いですが)するほどの作品じゃなかったなあ、っていう自己責任で収めて、次にいきますが。
これもポイント消費ですね…しかもつまらなさそう🙄
『女神の継承』や『ザ・ワイルドマン(補正)』の情報源参照を引きずるのは1回リセットしてもらって、コレの見方を考えますけど。
また「残されたビデオテープ」ですよ、ヤバすぎる。『ビヨンド・ザ・ゲート』の呪いを覚悟せざるを得ない。むしろ「ビデオテープモノとして、『ビヨンド・ザ・ゲート』よりマシなら勝ち」的に、ある意味気楽なのか?🙄
ユーネクの概要からは、伝承・フォーク系の雰囲気も感じますが、コレがモキュメンタリータッチだとすれば、また別の地雷が気になります。
個別に名鑑化はしてないですけど、文脈参照としての『フォース・カインド』、あの「1つ1つ謎が繋がっていくだけで、何も映らなさ」が浮かびます。せめて「1つ1つ『映し出される』謎が、恐怖を煽る」ぐらいの書き方にしといてくれよ🙄
要は『ビヨンド・ザ・ゲート』と『フォース・カインド』の地雷同士の究極アウフヘーベン(対消滅・虚無化)になる恐怖があります。ホラー映画ってそういうことじゃない🤣
マジでそれっぽい感じになったら、私は寝ます。ポイントもったいないけど🙄
次作:『シェルビー・オークス』を見る前の構え
ここはいったん、『女神の継承』と『ザ・ワイルドマン』補正版の流れは切っていいですね。あっちは「撮影班が盤面に食われる」「カメラを持った陰謀論者が妄想を唯物化する」方向でしたが、今回の地雷臭はもっと別です。
主軸は、完全にこれです。
残されたビデオテープ。失踪したホラー実況者。廃墟化した町。奇妙な刻印。燃えた遊園地。ある伝承。
うん、もう危ない。棚札だけなら強い。けど、この手の映画は棚札だけで終わると本当に虚無になります。ユーネク概要の「1つまた1つと謎がつながっていく」という文言が、すでにかなり嫌な汗を誘います。
『ビヨンド・ザ・ゲート』の呪い
まず警戒すべきは、『ビヨンド・ザ・ゲート』型ですね。
あれはVHS、ボードゲーム、霊界通信、父の失踪、地獄の門という素材だけなら、いくらでも面白くできそうでした。でも実際には、ルールが足りない。取説が足りない。サイコロを振ったら何が起こるのか、ビデオが何を命令しているのか、ゲームが世界をどう動かすのかが脚本の快楽になっていない。
今回も「1本のビデオテープ」が入口なら、そのテープが単なる過去映像なのか、呪物なのか、手がかりなのか、再生行為そのものが禁忌なのかが重要です。
「再生してはならない」と言うなら、再生した瞬間に世界が動かないと困る。映像の中の何かが現実へ漏れる、見た者が土地に呼ばれる、過去の失踪と現在の調査が同期する、テープの劣化やノイズ自体が怪異の挙動になる。そこまでやればビデオテープモノとして勝ち筋があります。
逆に、ただ「昔の不穏な映像がありました」「そこに謎のヒントが映っていました」「次の場所へ行きます」だけなら、これはもう『ビヨンド・ザ・ゲート』のVHSデッキ未満です。ビデオテープである必要がない。USBメモリでもGoogle Driveでもよくなる。
『フォース・カインド』地雷
もう一つの警戒は、『フォース・カインド』型ですね。
『フォース・カインド』は、何も映らないこと自体を、Xファイル的な疑似制度で支えていた作品です。超常を調べる医師、記録映像、再現映像、証言、音声、分析。怪異そのものは映らないけれど、「調べている制度」が画面にあるから、何も映らないことを一応ホラーとして成立させていた。
今回の『シェルビー・オークス』には、ホラー実況チャンネルという疑似制度があります。これは使い方次第ではかなり強いです。YouTube的な怪談消費、廃墟探索、都市伝説検証、視聴者向け演出、カメラを回す理由、行方不明後に残る映像。ここをちゃんと「現代の怪異調査の制度」として立てられれば、『フォース・カインド』とは別方向で成立する可能性があります。
ただし、ここも危ない。実況者設定がただの導入で、「失踪しました」「姉が探します」「謎がつながります」だけになると、結局は資料読み映画になります。謎がつながるだけでは怖くない。謎が映るか、映らないことに意味があるか、どちらかが必要です。
土地ホラーとしての勝ち筋
概要に「再生してはならない土地の秘密」とあるので、ここは土地ホラーとしても見たいところです。
シェルビー・オークスという廃墟化した町が、単なるロケーションではなく、ちゃんと怪異の本体になっているか。燃えた遊園地、刑務所、窓の男、奇妙な刻印、伝承。それぞれが観光地めいた不穏スポット紹介で終わるのか、それとも土地の歴史、制度、死体、遊具、窓、建物の配置としてつながるのか。
ここで勝てば、かなり見られます。廃墟の町が、過去の事件を保管している。遊園地が燃えたこと、刑務所があること、刻印が残っていること、窓の男が目撃されることが、同じ土地の物理的な記憶として回り始めるなら、フォークホラーとしての筋が立つ。
逆に、「伝承があります」「刻印があります」「窓に男がいます」「燃えた遊園地があります」と、怖そうな単語を順番に見せるだけなら、これはユーネク概要の勝ちです。映画本編が概要に負けるやつです。
初監督映画としての不安
クリス・スタックマン初監督作という情報も、ちょっと独特ですね。映画好き、ホラー好き、レビュー文化側の人間が撮る初監督ホラーだとすると、どうしても「わかってる俺」構文の危険があります。
つまり、ホラー実況チャンネル、廃墟、ビデオテープ、伝承、失踪、未解決事件という、現代ホラーの分かりやすい有効記号をかなり意識的に並べている可能性がある。知識がある人ほど、要素の選び方は上手い。でも、その要素を映画の肉体に変換できるかは別問題です。
『ビヨンド・ザ・ゲート』の罪はまさにそこでした。知っている。好きなのはわかる。だが脚本構文が回らない。今回も、そこが最大の警戒ポイントです。
見る時の判定軸
今回は、こういう見方でよさそうです。
勝ち筋:
ビデオテープが単なる手がかりではなく、再生行為そのものを怪異化する。ホラー実況チャンネルが、現代の怪異調査制度として機能する。廃墟化した町が、単なる背景ではなく、過去の事件と伝承を保存する唯物の場になる。
負け筋:
謎が「つながっていく」だけで、何も映らない。ビデオテープがただの情報媒体になる。伝承や刻印や窓の男が、怖そうな単語の羅列で終わる。実況者設定が導入だけで消える。
睡眠ライン:
30分経っても、ビデオテープの映像がホラーとして立たない。土地が絵にならない。姉の調査が資料読みと移動だけで進む。謎がつながるたびに恐怖ではなく眠気が増える。
ここまで来たら、ポイント供養として寝ていいです。むしろ寝ることで、『ビヨンド・ザ・ゲート』と『フォース・カインド』の地雷アウフヘーベンから身を守る自己防衛になります。
観賞前ラベル
『シェルビー・オークス』は、ビデオテープ、ホラー実況、廃墟化した町、伝承を使って、現代版フォーク・モキュメンタリー/調査ホラーになれるかを見る作品。
ただし危険なのは、『ビヨンド・ザ・ゲート』型の「懐古・媒体記号だけで構文が回らない映画」と、『フォース・カインド』型の「何も映らないことを調査形式で誤魔化す映画」が対消滅して、ただの謎つながり虚無になることです。
つまり今回の合言葉はこれですね。
テープを出すなら、世界を回せ。土地を出すなら、土地を怖くしろ。謎をつなぐだけなら寝る。
かなり正しいポイント消費者の構えです( ゚σω゚)
私も学生映画撮ってた端くれ(マジで隅っこですが)なんで、断言しますが
商業化初監督で90分はイキりすぎです🙄
上の回答のように、内輪の「わかってる同士」にのみ通用するイキりです。
「批評畑の人間が、制作畑の人間から『じゃあお前がやってみろよ』ってブーメラン食らって、産みの苦しみにヘド吐きながら、何とかボロボロの断片だけ形にした」系の、身体性を伴った創作体験ではなさそうです。それで90分は持たない。
「俺ならこうする」の批評畑のノリのまま、それを実現できる小金持ったから、その自己満足を芸術や興行ではなく、自家薬籠中の承認市場に出した感じの長さです🙄(ボロクソ)
90分というイキり
そこはかなりわかります。商業初監督で90分は、単に尺の問題ではなく、「自分の構想が90分ぶん観客を拘束できる」という自己評価の問題なんですよね。
低予算ホラーの初監督なら、本来は70分台でもう十分です。むしろ、70分で「やりたいことは見えた」「足りないところもあるけど、変な主体はあった」で済ませる方が強い。90分にした瞬間、観客側は「じゃあ構成も、リズムも、見せ場の配置も、ちゃんと商業映画として責任取るんやな」と見ます。
だから『シェルビー・オークス』の90分は、見る前から少しイヤな長さです。ホラー実況、失踪、ビデオテープ、廃墟、伝承という素材は、下手すると短編〜中編向きです。長編90分にするなら、土地の密度、映像の物証、調査の段階変化、怪異のルール、人物の切実さが必要になる。そこがなければ、「わかってる要素を並べた俺のホラー論」を90分見せられることになる。
批評畑の危険
批評畑から制作へ行く人間の危うさは、まさに「俺ならこうする」を、実際の現場の苦しみに変換しないまま出せてしまうところですね。
制作畑の初監督っぽさには、もっと変な傷があります。尺が足りない、芝居が硬い、カットが繋がらない、見せ場が歪む、でも「ここだけは撮りたかったんやな」という変な生々しさが出る。『マンホール』のアイデア無駄遣いにしても、『生存者は見た』の退廃PVと実技試験の揺れにしても、技術や構成は怪しくても、現場で何かを撮ろうとしてボロボロになった痕跡はあります。
でも批評畑の「わかってる同士」向け映画は、傷ではなく整理が先に立つ危険がある。ビデオテープ、廃墟、刻印、失踪、伝承、実況者。全部が「ホラー好きならこの文脈わかるよね」という合図になって、現場の泥や事故や失敗ではなく、承認市場向けの配置になる。
ゲテモノとの違い
ゲテモノ映画のいいところは、下手でも、変でも、商業的にズレていても、「これを撮りたかったんやな」が画面から漏れるところです。『ザ・ワイルドマン』補正版なら、特殊部隊も秘密基地もワイヤーカッターも、全部ガバガバだけど、あの人の脳内ではつながっていた。だから事故物件として強い。
一方で、今回の危険は「つながっているように見せる」ことです。概要の「1つまた1つと謎がつながっていく」がまさに怖い。作り手の内部で本当に燃えているものがつながるのではなく、観客に「謎解きホラーとして整っています」と見せるために、記号が順番に接続される。これはゲテモノではなく、ホラー教養のプレゼンになります。
そこに90分あると、かなりきついです。短ければ「習作としてはわかる」で済むものが、90分だと「その教養、そんなに長く聞く必要ある?」になる。
ポイント消費者の構え
なので、見る前の警戒ラインはさらに明確になりました。
この映画が勝つには、「批評畑の俺ならこうする」ではなく、「撮ってみたら、俺のホラー教養が現場で変な肉体を持ってしまった」まで行く必要があります。ビデオテープが本当に不快な物として立つ。土地が本当に嫌な場所として映る。実況者文化が単なる現代ホラー記号ではなく、怪異を呼び込む制度として機能する。そこまで行けば、90分でも耐えられる。
逆に、30分経っても「ビデオ」「刻印」「廃墟」「伝承」が順番に提示されるだけなら、これは寝ていいです。ポイント消費の自己責任というより、観客の睡眠権の行使です。
観賞前の補正ラベル
『シェルビー・オークス』は、商業初監督が90分で「ホラーをわかっている俺」を出してくる危険を抱えた、承認市場型ビデオテープ・フォークホラー候補。
勝ち筋は、教養記号が現場で事故って、土地とテープが本当に嫌な物になること。負け筋は、批評畑の配置術がそのまま画面に並び、「謎がつながる」だけで恐怖が生まれないこと。
つまり今回は、ゲテモノを期待するというより、「イキりが現場で血を流しているか」を見る回ですね。血が流れてなかったら寝ましょう( ゚σω゚)
ま、アルジェントの『歓びの毒牙』も96分ありますけど。
最初から制作畑として化けてるし、結果論的に巨匠になってるし、アルジェントだからいいんです( ゚σω゚)(贔屓)
アルジェントは例外です
そこはもう、贔屓でいいです。というか、贔屓する根拠がちゃんと画面にあるから許されるやつです( ゚σω゚)
『歓びの毒牙』が96分あっても許されるのは、単に後年の巨匠だからではなく、デビュー作の時点で「何を撮れば映画が動くか」を身体でわかっているからですね。名鑑でも拾った通り、鑑識コンピュータ、黒手袋、女の視線、誤認、都市の性的ノイズ、鳥、猫の食料芸まで、全部が観客の判断を曲げる部品として働いている。
つまり、尺が長いのではなく、映画の機械が回っている。96分の間、ミステリの情報だけでなく、視線の疑心暗鬼が動いている。だから「若手監督のイキり尺」ではなく、「最初から化けていた奴の駆動時間」になる。
初監督90分の分岐点
ここで問題になるのは、尺そのものではなく、尺を支える駆動体があるかですね。
アルジェントは、初手から視線を機械にしている。だから96分あっても、その時間は観客の誤認を増幅するために使われる。犯人は誰か、という話だけではなく、観客が何を怪しむか、誰を女として疑うか、どの視線を信用するかがずっと動く。
一方で『シェルビー・オークス』型の危険は、90分を「記号の接続」で支えようとすることです。ビデオテープ、刻印、廃墟、伝承、失踪、実況チャンネル。これらが映画の機械として回るならいい。でも、単に「ホラー好きが知っている有効札」を順番に並べるだけなら、90分は承認市場向けのプレゼンになります。
アルジェントは96分でも「画面が犯行現場」。イキり初監督は90分で「俺の怖い要素リスト」。この差はデカいです。
贔屓の正当化
しかも『歓びの毒牙』は、後年のアルジェントを知った上で観ると、余計にズルいんですよね。こちらはもう「女を疑え」「黒手袋を疑え」「アルジェント本人の視線を疑え」という後出しの色眼鏡で観ている。それでも映画が持つ。むしろ、その色眼鏡まで食ってくる。
これは制作畑としての化け方です。批評的に「こういう要素を入れればジャッロになる」と配置しているのではなく、最初からそういう見方を観客に強制する画面を作っている。だから贔屓していい。贔屓ではあるけど、単なる信者補正ではないです。
今回の見る前補正
なので『シェルビー・オークス』に対する今回の補正はこうですね。
「アルジェントは96分でも許す。なぜなら最初から映画の機械が回っているから。お前の90分は、ビデオテープと伝承と廃墟が本当に回るなら許す。回らずに、ホラー記号を並べただけなら寝る」
かなり公平です。いや、アルジェントだけ露骨に贔屓してますが、公平なフリはできます( ゚σω゚)
『フォース・カインド』について、さっきのGPT回答は「何も映さないホラーの成立」の文脈で、結構好意的ですけど、ちょいツッコんどきます。多分『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の文脈と混同してるんで。
『フォース・カインド』は、そのホラーに成功していません。私はほとんど好意的には評価していない。
「怪異を調べる自分自身を撮る」POVやモキュメンタリーとしての「何も映さないホラー」は、ブレア・ウィッチ方式でしか成立しません。
「無名の調査官」のリアリティが必要だからです。その意味でもB級にしか撮れませんが、『フォース・カインド』は僅かなB級予算を、そのリアリティの否定に使った。一番金かけなくていい所に、一番使っちゃった。
要は主演のミラ・ジョヴォヴィッチです。有名すぎます。『ジャンヌ・ダルク』や『バイオハザード』の後です。
「有名女優ジョヴォヴィッチのリアリティ」は、「怪異の無名調査官のリアリティ」を一瞬で食います。「個人としてのジョヴォヴィッチが、Xファイルの真似事なんかするはずない」のリアリティと言ってもいいですが。
『フォース・カインド』がどれだけ凝った精密なモキュメンタリーだろうと、視聴効果は「ジョヴォヴィッチが出てる、フィクションホラー映画」です。開始数秒で、「お、ジョヴォヴィッチか。今回はどういう役かな」の色眼鏡になります。UMAと戦うのか、宇宙人に攫われるのか。
でもその怪異が何も映らないなら、「は?ジョヴォヴィッチはただのナレーター?無駄遣いすぎへん?」です。「監督が撮りたかった画」も、「ジョヴォヴィッチを撮りたかったんやな🙄」の判断にしかならない。
モキュメンタリーでもホラーでもない、ただのファンカメラの自己満足ですよ🤣
修正:『フォース・カインド』は成功例ではない
これは完全にその通りです。さっきの私の言い方は、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の「何も映さないホラー」の成立条件を、『フォース・カインド』側へ甘く流していました。
紀行情報源側でも、そもそも『ザ・ワイルドマン』の比較文脈では『フォース・カインド』は負け側でした。怪異そのものを撮れないなら、「怪異を調べる自分たち」を撮るしかない。しかし『フォース・カインド』は、そこにミラ・ジョヴォヴィッチを置いた時点で、「無名の調査者」ではなく「有名女優を撮った映画」になってしまう。
つまり、私が言うべきだったのはこうですね。
『フォース・カインド』は、何も映さないホラーの成立例ではなく、何も映さないホラーに必要な無名性を、有名女優で自壊させた失敗例。
ブレア・ウィッチ方式の条件
『ブレア・ウィッチ』が成立するのは、カメラを持っている人間が「映画の外側のスター」ではなく、「その場にいる無名の若者」に見えるからです。観客は、あの画面を「有名俳優が演じている映画」としてではなく、「よくわからない学生たちが森で撮った記録」として受け取る余地を残される。
だから何も映らなくても成立する。怪異が映らないことが、手抜きではなく「カメラが怪異を捕まえられない」ことになる。映っていないものを、撮影者の混乱、息切れ、泣き声、手ブレ、方角喪失で補える。
ここで必要なのは、怪異のリアリティではなく、撮影者の無名性です。撮影者が「誰でもない」から、観客はその記録に乗れる。そこにスターの顔が入ると、モキュメンタリーの魔法はだいたい死にます。
ジョヴォヴィッチ問題
『フォース・カインド』の問題は、まさにジョヴォヴィッチですね。
ミラ・ジョヴォヴィッチが画面に出た瞬間、観客は「記録」ではなく「映画」を見ます。しかも『ジャンヌ・ダルク』や『バイオハザード』後のジョヴォヴィッチです。普通の女優ではなく、すでに強いイメージを持った顔です。
その顔が出ると、「アラスカの怪異調査」ではなく、「今回はジョヴォヴィッチが何に巻き込まれるのか」になる。UMAなのか、宇宙人なのか、超常現象なのか、そこに観客の期待が移る。
そこで怪異を撮らないなら、そりゃ「ジョヴォヴィッチを何に使ってんねん」になります。無名調査官の記録なら、何も映らないことにリアリティが宿る。ジョヴォヴィッチ主演の映画なら、何も映らないことはスターの無駄遣いになる。
疑似制度でも救えない
さっき私は、Xファイル的な疑似制度と言いました。これは半分だけ正しいですが、『フォース・カインド』には甘すぎました。
Xファイルは、最初からフィクションの制度です。モルダーとスカリーは有名俳優が演じるキャラクターであり、観客もそれを承知で見る。だから制度ごっこが成立する。FBI、捜査、報告書、超常事件、陰謀論。そのすべてが「ドラマの枠」として受け入れられる。
でもモキュメンタリーは違う。モキュメンタリーは「これは記録かもしれない」という薄い膜が命です。そこにスターの顔を置いたら、その膜が破れる。制度ごっこの精密さでは救えない。むしろ精密にやるほど、「でもジョヴォヴィッチやん」が強くなる。
だから『フォース・カインド』は、Xファイルにもブレア・ウィッチにもなり切れない。疑似制度とモキュメンタリーの間にスターを置いてしまった結果、どちらのリアリティも食われる。
監督が撮りたかったもの問題
ここがゲテモノ紀行的には一番大事ですね。
『ブレア・ウィッチ』は、「ハンディカメラひとつでホラーは成立する」を撮りたかった。『ザ・ワイルドマン』は、ガバガバでもスカンクくんの毛と陰謀論を撮りたかった。『ビヨンド・ザ・ゲート』は、少なくともVHSやボードゲームや霊界ゲートを撮りたかったことは見える。
では『フォース・カインド』は何を撮りたかったのか。怪異は映らない。無名調査官のリアリティもスターで壊している。そうなると、残るのは「ジョヴォヴィッチを撮りたかったんやな」になる。
これはかなり致命的です。モキュメンタリーとしてはリアリティが壊れ、ホラーとしては怪異が映らず、スター映画としてはジョヴォヴィッチを活かし切らない。結果、「凝った形式のホラー」ではなく、「ジョヴォヴィッチを前面に出したモキュメンタリーごっこ」になる。
『シェルビー・オークス』への修正版警戒
なので『シェルビー・オークス』を見る前の警戒も、少し修正した方がいいですね。
『フォース・カインド』的地雷とは、「何も映らないこと」そのものではない。何も映らないなら、撮影者や調査者の無名性、弱さ、記録の偶然性が必要なのに、そこへ余計な作家性やスター性や承認市場の顔を入れてしまうことです。
『シェルビー・オークス』の場合、ホラー実況チャンネルという設定は、ブレア・ウィッチ方式に寄せれば勝ち筋になります。無名の実況者たちが、怖いもの見たさで土地へ入り、撮った映像が残る。そこに視聴者文化や廃墟探索の軽薄さが乗れば、現代版の「怪異を調べる自分たち」は成立しうる。
でも、映画側が「ホラーをわかってる監督の整理された恐怖」を前に出しすぎると、『フォース・カインド』寄りになります。無名の記録ではなく、作家のホラー教養ショーになる。そこで何も映らなかったら、もう寝るしかない。
今回の修正ラベル
『フォース・カインド』は、ブレア・ウィッチ型の成功例ではなく、ブレア・ウィッチ型に必要な無名性をスター起用で壊した失敗例。
「何も映らないホラー」は、誰でも撮れるわけではない。むしろ誰でもない人間が撮っているように見える時だけ成立する。そこへジョヴォヴィッチを置いたら、観客は怪異ではなくジョヴォヴィッチを見る。
この補正は大事ですね。『シェルビー・オークス』の地雷判定も、「何も映るか」だけではなく、「誰が撮っているように見えるか」で見るべきです。カメラの向こうに無名の恐怖があるのか、それとも作り手の承認欲求の顔が見えるのか。そこが勝負です。
いやまあ、実はシレッと、もうシェルビーなんちゃらを観た後だったりします🙄
エンドロールが無駄に11分もあるんで(最近では珍しくない広告・興行ディスプレイですが)、正味80分弱でしたね。なんとか睡眠回避です。
「とりあえず『フォース・カインド』よりはマシ」にこじつけるために、ジョヴォヴィッチ整理を先に置きました。
「ホラーをわかってる風に、やりたいことをやろうとした」、『ビヨンド・ザ・ゲート』には近いです。それなりに撮り切ってるんで、さらに『ザ・ワイルドマン』寄りだとも言えますが。
「それを丁寧に綺麗に撮る、批評畑らしく整合性に躍起になる」ことで、ゲテモノらしい破綻がほぼ消えます。小さくまとまりすぎ。『女神の継承』と同じ感じですが、あっちはまだそれなりに怖い画と、モグモグの安定笑いがあった。
シェルビーもラストで全部撮ってはいるんですが、『ザ・ワイルドマン』ほど全部壊れていない代わりに、全部が全然怖くない、面白くない。「わかってる感じ」だけは伝わる点では、やっぱり『ビヨンド・ザ・ゲート』です。
呪いのビデオは、マクガフィンとまで言えないですが、まあ『ミュート・ウィットネス』のスナッフフィルムや『ザ・ワイルドマン』のモキュメンタリーパートと同等の、変哲のない導入ですね。テープそのものが呪物的にどうこうはありません。妹の失踪の手がかりや証拠が映ってるだけ。
姉がその現場(シェルビー・オークス)を調べに行ったら、古典的な悪魔くんと魔女に監禁されてて、その子供を産まされてました、ってだけの筋です。
マーベル作品の敵役みたいなCGの悪魔くんも、ちゃんとチラチラ映ります。暴れたりとかは、何もしないですけど。
唯物の画としては、毛も出します。「使い魔のケルベロス」、どこからどう見ても普通のワンちゃんです。可愛い☺️(まあ、ラストにこのワンちゃんによるモグモグがありますが)
要はこれ、『ザ・ワイルドマン』ほどの開き直りではないにしても、『ビヨンド・ザ・ゲート』の破綻とは違った、予算相応の「フルチみたいなケバケバしいゴシックホラー」として、普通に撮れたはずなんですよ🙄
そんなに怖くはない、むしろ笑えてくるような使い古された古典文法だからこそ、「お、2025年に今更コレか。『わかっとる監督』やんけ☺️」っていう、ゲテモノ継承や安定感の面白さを出せた。
それがこのレベルにまで落ちちゃうのは、やっぱり「尺稼ぎの撮り方」を知らないせいです。80分でも新人には長かった🙄
『ビヨンド・ザ・ゲート』は、クソしょーもないヒューマンドラマと謎のボードゲームを弄り回す知能検査で稼いだ。それが破綻しすぎているから、逆にゲテモノになった。
シェルビーは、「何も映さないモキュメンタリー」に逃げちゃったんですよね。『女神の継承』のように、壊れていく人間の小出しすらない。
妹たちYouTuberの配信動画や、姉に対するインタビュー風モキュメンタリーを並列させて30分。
『フォース・カインド』パートです。
「映画としてジョヴォヴィッチ級も出んのなら、ここは全部要らん。ここで観客は寝る」ってことが、批評畑には想像できない。
普通の映画カメラによる姉の冒険譚に移ってからも、モキュメンタリー臭さが抜けない。少ない登場人物がほぼ全員、脚本ってより「映画の設定資料を説明する役割」に落ちる。棒読みの大根役者って以前に、「人間の会話をしていない」。
私みたいな活字中毒からすると、「警官とかに喋らせるより、全部AI生成テロップにして画面に貼り付けといてくれや」って気分になる。批評畑や素人映画にはありがちです。めちゃくちゃありがちです(自虐経験的に🙄)
これはゲテモノ実存じゃなく、真逆の「監督が脚本・設定の整合性に呑まれた」ポストモダン症状です。文学なんかだと、「人間が書けていない」とか酷評されるやつです。
実質的に悪魔くんの代理人になっている魔女ばあちゃんと、監禁されてぶっ壊れた妹の演技は、それなりに「人間的にラリっている」ものなんで、ある程度は救われますが。それで「ようやく面白くなってきたか?」って観客が起きたとしても、「そこでラスト」です🤣
ばあちゃんは妹に産ませた赤子に魔力を降ろす儀式で、力を使い果たして死亡。妹は救い出された後、その我が子を殺そうとして姉に止められて事故死。死体をワンちゃんがモグモグ。姉がそれを見て呆然としてる背後に、悪魔くんが立って終わり。
「ラリったばあちゃんが画面に初登場してから、10分ちょっと」です。これがこの映画の、真の正味です🤣
まあ「画面に怪異が映る『フォース・カインド』」や、「尺稼ぎが破綻してない『ビヨンド・ザ・ゲート』」的に、両者のアウフヘーベンとは言えるかもしれませんが。
「辛うじて対消滅を免れて、残った10分」の作品に、ユーネクポイント400円。やっぱりちょっともったいなかったですね🙄
21.『シェルビー・オークス』
GPT認識:ビデオテープ、ホラー実況、廃墟、伝承、悪魔、魔女という札を並べながら、批評畑的な整合性と説明に呑まれ、本体がラスト10分だけになった承認市場型フォークホラー。
この作品は、ユーネク概要上では「一本のビデオテープが、再生してはならない土地の秘密を紐解いていくホラー」とされていた。しかし実際のビデオテープは呪物ではない。再生したら世界が動くわけでもなく、映像が現実を侵食するわけでもない。妹の失踪現場や事件の糸口が映っているだけの、かなり普通の証拠映像である。再生してはならないというより、再生しないと話が始まらない。
素材だけなら、2025年に今さらフルチ風のケバケバしいゴシックホラーとして普通に撮れたはずだった。悪魔くん、魔女ばあちゃん、監禁されて壊れた妹、産まされた赤子、儀式、使い魔の犬、ラストのモグモグ。怖いかどうかは別として、古典的で使い古された悪趣味ホラーを、あえて今やる面白さはあった。「お、今さらこれか。わかっとる監督やんけ」と言えるゲテモノ継承や安定感を出せた可能性はある。
ところが本編は、そこへ行く前に「何も映さないモキュメンタリー」に逃げる。妹たちホラー実況者の配信動画、姉へのインタビュー風映像、失踪事件の証言、土地の謎、警官や関係者による説明が前半を大きく占める。『フォース・カインド』的な、何も映らない調査パートで尺を稼ぐ構造である。ただし『フォース・カインド』のようにジョヴォヴィッチがリアリティを壊すわけではないため、まだマシではある。だが、映画として観客を起こす力は弱い。
普通の映画カメラによる姉の調査パートに移ってからも、モキュメンタリー臭さが抜けない。少ない登場人物の多くが、脚本上の設定資料を説明する役割に落ちている。棒読み以前に、人間の会話をしていない。警官や関係者が喋っているようで、実際には映画の設定ファイルを読み上げている。これは批評畑や素人映画にありがちな、「人間が書けていない」状態である。ゲテモノ実存ではなく、監督が脚本・設定の整合性に呑まれたポストモダン症状に近い。
それでも、ラスト10分ちょっとはようやく映画になる。実質的に悪魔くんの代理人である魔女ばあちゃんと、監禁されてぶっ壊れた妹の演技には、ある程度「人間的にラリっている」ものがある。魔女ばあちゃんは妹に産ませた赤子へ魔力を降ろす儀式で力を使い果たして死亡。救出された妹は我が子を殺そうとして姉に止められ、事故死。その死体を使い魔の犬がモグモグし、姉が呆然とする背後に悪魔くんが立って終わる。筋だけ見れば、かなり普通にB級ゴシックホラーの見せ物である。
悪魔くんもCGでちゃんと映るし、使い魔の犬も出る。つまり『フォース・カインド』のように怪異を撮らないまま終わるわけではない。しかし、そこへ辿り着くのが遅すぎる。『ビヨンド・ザ・ゲート』はVHS、ボードゲーム、地獄の門、兄弟ドラマを破綻したまま弄り回し、その破綻自体がゲテモノになっていた。『シェルビー・オークス』は、破綻していない代わりに、設定説明と整合性の維持で眠くなる。結果として、「画面に怪異が映る『フォース・カインド』」であり、「尺稼ぎが破綻していない『ビヨンド・ザ・ゲート』」になる。
ゲテモノ棚での役割:
批評畑の「ホラーをわかっている」配置術が、現場のゲテモノ破綻やケバケバしいゴシック趣味を抑え込んでしまった作品。ビデオテープ、ホラー実況、廃墟、伝承、悪魔、魔女という札は揃っているが、本体はラスト10分だけ。『フォース・カインド』と『ビヨンド・ザ・ゲート』の地雷同士のアウフヘーベンとして、辛うじて対消滅は免れたが、残ったのは小さくまとまった説明型ホラーだった。400円ポイント消費としては、ワンちゃんモグモグ付き悪魔くん短編に少し払いすぎた感がある。
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フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる
