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ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行1


『ウッドランド』

今日はコレからです。
アンテナとして、「この概要じゃ全く何も掴めない」のが、逆に止まりました。多分、「ただひたすらに地味」です。監督も聞いたことない人だし。
その地味さが、ラヴクラフト味に分岐しうるフォークホラーなのか、演技派ヒューマンドラマなのか、雰囲気だけのゴミPVなのか、それすら掴めない。ユーネクの一般評価からすると、雰囲気だけのスカスカPVの可能性が高いですけど、「何の雰囲気があるホラーなのか」も書けないなら、PVとしてすら商業成立しません。

だからむしろ、ヒューマンドラマ系かなと思ってますね。視聴者にはクッソどうでもいい、退屈な家庭事情とか。それが演技派だろうと深刻な社会的センシティブだろうと、地味すぎてスリラーでの尺稼ぎの意義と乖離するやつ。
監督はヒューマンドラマを真面目に撮りたかったのかもだけど、「怪異写真の唯物をさっさと暴け、撮れ」のクレームだけが視聴効果の主体になる系。完全にインスピレーションだけの好き勝手予想ですが。

私のB級カルマの視聴者主体としては、つまり、退屈なヒューマンドラマや家庭問題が延々続こうと、「監督はそれが撮りたかったんやろ」と承認して、「寝ないこと」です🤣
中々辛そうですけど、まあ、紀行初っ端の『ザ・ワイルドマン』からして、これに近い態度、「唯物のスカンクエイプくんを撮る気がないとわかるまでは寝ない」ってクッソ見下した姿勢で入って、いい意味で裏切られたんで
今回の微かな期待はそこですね。ラヴクラフト系フォークホラーに発展したら満点です。

この作品に限らず、GPTが例えデータを持っていたとしても、この視聴前のバイアストークの段階で、答え合わせや思わせぶりは不要ですよ。私の直感が大ハズレなら、内心で笑っといてください。

これは、かなり嫌な止まり方ですね

この概要、たしかに何も掴ませないタイプの無色透明な危険物ですね。
「傷心の写真家」「離島」「ロッジの監視員」「奇妙なものが写り込む」「夢か現実か」って、ホラー棚の説明としては一応ぜんぶ揃っているのに、逆に何を撮りたい映画なのかが一切見えない

しかも87分。
この尺で地味なヒューマンドラマをやるなら、相当な覚悟が要ります。逆に言えば、監督側が「これはホラーの皮を被った内面劇です」と本気で思っている可能性もある。そこで観客側は、「いや知らん、写真に何が写ったんや。森に何がおるんや。ロッジで何が起きとるんや」と唯物クレーマー化する。今回の視聴主体、かなり明確です。

怪異写真の唯物を暴け。
この一文だけで観る映画ですね。


アンテナとしては「写真」が唯一の物質フック

ここで面白いのは、概要がフワフワしている中で、唯一ちゃんと物体として残っているのが写真なんですよね。

森、離島、傷心、夢、現実、恐怖。全部が雰囲気語です。ところが写真だけは、フィルムだろうとデジタルだろうと、「何かが写った」という時点で一応、物証になる。だからこの映画がゲテモノ棚に残るかどうかは、かなり単純に、

写真を本当に映画内の物質として扱うか
ただの心象風景の記号として消費するか

ここにかかってそうです。

前者なら、ラヴクラフト味やフォークホラー味に分岐できます。写ってはいけないものが写る、ではなく、写すという行為そのものが世界の裂け目になる方向です。森の中の何かを撮ったのではなく、カメラが森の側に取り込まれている。そうなればかなり当たりです。

後者なら、まあ地獄です。
暗い森。疲れた男。別れた妻。仕事を失った過去。曇った空。ぼんやりした写真。薄い幻覚。うっすら鳴る不穏な音楽。最後に「現実とは何だったのか……」みたいな顔で終わるやつ。視聴者は「いや、現実が何か以前に、映画として何を見せたかったんや」となる。


『ザ・ワイルドマン』との入り口の違い

『ザ・ワイルドマン』の時は、低予算モンスター映画として、まずこちらが「スカンクエイプくんを撮る気あるんか?」という見下しで入ったわけですよね。
でもあれは、少なくともアンテナ上は撮るべき対象が最初から見えていた。毛むくじゃらの唯物。着ぐるみ。森。陰謀論者。ハンター。撮る気があるかどうかを見張ればよかった。

今回の『ウッドランド』は、そこがさらに悪質です。
撮るべき対象が何なのかすら隠している。

怪異なのか、写真なのか、森なのか、男の心なのか、家庭崩壊なのか、島の閉鎖性なのか。
ここが定まっていない映画だと、観客は早々に漂流します。離島映画なのに観客だけ先に遭難する。かなり正しいゲテモノ視聴です。


今回の寝ないための視聴契約

これはもう、視聴前の契約としてはこうですね。

退屈でも寝ない。
ただし、その退屈が「監督の撮りたかったもの」なのか、「単に何も撮れていない」のかは見る。
写真が物質になるなら許す。
森が主体になるなら許す。
家庭事情が長くても、それが怪異写真と噛み合うなら許す。
ただし、雰囲気だけで逃げたら、B級視聴者の主体として普通にボロクソに言う。

かなりいい入りです。
「面白そう」ではなく、「何に耐えればいいのかまだわからない」という理由で止まっている。これはゲテモノ紀行として正しいです。


今のところの期待値

私からは答え合わせはしませんが、視聴前バイアスだけに乗るなら、今回の判定軸はかなり綺麗です。

満点ルートは、写真と森と現実崩壊がつながって、ラヴクラフト寄りのフォークホラーになること。
許容ルートは、地味なヒューマンドラマだけど、写真家の視線や孤独がちゃんと映像の主体になっていること。
ゲテモノ残留ルートは、下手でも地味でも、「監督はこの陰鬱な顔と森と写真を撮りたかったんやな」が見えること。
最悪ルートは、薄暗い自然と傷心男と曖昧な幻覚を並べただけで、怪異も写真も家庭問題も全部ぼんやり終わること。

でもその最悪ルートでも、ある意味では収穫があります。
「雰囲気だけのスカスカPV」というものが、本当に何の雰囲気のPVなのかすら説明できない段階まで行くと、それはそれでゲテモノです。商業棚に置かれた無内容の霧。ユーネクの棚で指が止まった理由が、「作品の主体」ではなく「主体の不在の臭い」だった、という答え合わせになる。

では、寝ない戦いですね。
今回はスカンクエイプくんじゃなく、写真に写るかもしれない地味さそのものを狩る回です( ゚σω゚)

(※鑑賞後会話でのGPT回答は、作品要約化のみ掲載。以下同)

終わりました。
キツすぎました、何の拷問やコレ😪

セルフ『ジェイコブズ・ラダー』じゃないですか、これで寝る視聴者に何も責任ないですよ。
酒とタバコとシンナーでラリった失恋ヒューマンドラマって、社会派でもなんでもない。むしろ、「そんな廃人は秘境のレンジャーにでもなるしかないのさ」って、レンジャー制度を舐めすぎでしょ。それこそ、ブレアウィッチの森かビッグフットの山にでも登ってろよ🙄

要は寝ずに済んだのは、序盤で「ああコレ、病んだ『ゴールデンカムイ』か」のアンテナが反応したからです。主にクマさん方面で。
この映画に出せる唯物怪異は、心霊写真オカルトでも森林フォークでもラリった異世界幻覚でもない、「世捨て人と世界の唯物的接点、レンジャー制度現場の現実」です。『ゴールデンカムイ』なら、レンジャー制度の代わりになるのが歴史背景や北海道・樺太の地政学と民俗で、それぞれを主題にしていけますが、87分のカナダ単発映画で出せそうなのはクマぐらいです🐻‍

廃人のヒューマンドラマ追想とかアル中ヤク中の生態描写の尺稼ぎはどうでもいい、スリラー成立としてはクマが出るかどうかです。もはや生きもの地球紀行になってもいい、唯物の毛。できれば速いやつ。
技術的には不自然なCGっぽいですが、「スケール的にはめちゃくちゃ現実的っぽい、唯物説得力ある野生のクマ」が何とか出てきたんで、勝ちです。
序盤20分ぐらいで、「生きもの地球紀行をアニマルスリラーとして観る」って覚悟完了できるかが、ゲテモノアンテナの回収カルマです😪

死んだ主人公が怪異写真だと思い込んだ「何の変哲もないスナップ」を、先輩監視員が焼くシーンがラストですけど
「私が撮るなら」、あるいは「カーペンターとかが撮るなら」まで思い上がると
アレは「ラリってない第三者が見ても、怪異写真のまま」であるべきだったと思いますね🤔

それで観客の安心睡眠、「これはラリった廃人の幻覚スリラーのゴミ映画だな」っていう了解をひっくり返す。「そんな浅いテンプレで意味付けられるほどの87分ちゃうぞ、ガチのマジで無意味なクソやぞ」っていうアンチエンディング。
確実に金返せ案件ですけど、そこまで開き直ってこそ、「夢か現実か」のシミュラークルで世界を呑み込むゲテモノです。

まあ、『ジェイコブズ・ラダー』は、その「第三者・観客にも見える怪異(というか神威)」が、あのハシゴだったわけで。
だからこそ、ただのラリった幻覚映画や軍事陰謀論じゃなくて、社会派名作です。宗教が社会背景であり、それをエンディングに持ってくることで個人の幻覚を普遍性に救済する。

でも日本人観客とかの無神論者にとっては、『ジェイコブズ・ラダー』のエンディングも普通にアンチエンディングなんですよね。肩透かし食らってる。「は?コレ宗教なん?スピリチュアルかよ、毒ガス陰謀論の告発社会派じゃないの?」って感じ。
陰謀論でもカナダのオカルト伝承でも、「宗教の代わりになる、ていうか代わりにするしかない個人的選択」を観客に突きつけるのが、神を笑うゲテモノのアンチエンディングです。

その形として、やっぱり遊星Xのラストは完成されてます。「2人のどちらか、あるいは両方が寄生されているのか、いないのか」、その選択は視聴者にしかできない。
同じように、この『ウッドランド』のラストのスナップに「怪異が写っているのかいないのか」の選択は、観客に委ねるべきでしたね。

14.『ウッドランド』

GPT認識:怪異写真と森林監視員の現場怪談になれたはずが、最後に“病んだ男の遺品整理”へ寄ってしまった、写真を救えなかった森ホラー。

この作品は、森、孤立した監視員、写真、薬物・失恋・精神不安、クマという素材を持ちながら、ホラーとしての物証を最後まで立て切れなかった一本として置く。序盤から中盤にかけては、「主人公が見ている怪異は現実なのか、幻覚なのか」という曖昧さを、写真という唯物フックで支えようとしている。写真に何が写っているのか、主人公の内面なのか、森そのものの異物なのか。この問い自体は悪くない。

しかしラストで、第三者である先輩監視員が写真を処分する場面が、怪異の物証として機能しない。ここで写真が明らかに異常なものとして見えていれば、主人公の病理を超えて、森や監視員制度の現場に怪異が残る。写真を焼く行為も、遺品整理ではなく、現場の人間による怪異処理、隠蔽、儀式になれた。ところが普通のスナップとして処理されることで、全体が心理スリラーの棚へ戻ってしまう。

『ジェイコブズ・ラダー』ならハシゴ、『遊星からの物体X』なら極寒の中に残された二人が、観客に信仰や判断を迫る物証になる。『ウッドランド』では本来、その役割を写真が担うべきだった。怪異が写っているのかいないのか、その選択を観客に委ねれば、夢か現実かのシミュラークルではなく、意味付け不能なアンチエンディングに届いたはずである。

結果として、映画の中で最も誠実な唯物はクマになる。クマは主人公の内面ではなく、森にいる現実の危険として画面に立つ。写真が世界側の異物になれなかった分、クマだけが主人公の心理から外へ出る存在として残る。そこが皮肉でもあり、この作品の惜しさでもある。

ゲテモノ棚での役割:
写真による「夢か現実か」のアンチエンディングに失敗した森ホラー枠。怪異の物証を第三者へ渡せば現場怪談になれたが、最後に心理スリラーへ安全処理してしまった。写真を救えず、クマだけが唯物として勝った作品。


『ダーク・アンド・ウィケッド』

次、コレです。
何か似たような感じですね、『ウッドランド』よりはホラーの体裁が整ってるようですけど。オカルト心霊や怪物系なのか、心理系やサイコパスなのか🤔
ありがちな予想では、「死にかけのはずのパパが、実はクッソ元気なアカンやつだった」ですけど。それが普通のサイコパスなのか、異世界融合やゾンビ化してる人外なのか。最近、単純なドラキュラモノとかは流行ってないと思いますが。
もっと異世界に捻ると、「パパはただ一人怪異に対峙している封印系キーマン、あるいは生贄で、もう限界だから死にかけ」パターンかな。言うまでもなく、ラヴクラフト寄りの我田引水ですが。この場合、唯物怪異の筆頭候補はママですね。

ベルティノ監督自体はよく知らないんですが、『ストレンジャーズ』は記憶にありますね。「『ファニーゲーム』やん、何回目のリメイクやねん」っていう一言でした。
だからコレも結局、サイコパスかなあ🤔

今回は『ウッドランド』より、入口の物質が強いですね

これは『ウッドランド』よりは、かなりホラーの体裁が最初から立っていますね。少なくとも「写真に何か写りました」「夢か現実か」みたいな霧ではなく、死にかけの父、来るなと言う母、生家の農場、帰ってきた姉弟という、かなり古典的な閉鎖空間ホラーの材料が揃っている。

『ウッドランド』が「写真」という唯一の物質フックを持ちながら、結局クマさんに映画を救わせた作品だったとすれば、こっちは最初からフックが多いです。父の身体、母の警告、農場、家族の過去、看取り、夜、たぶん家の中の音。これだけあるなら、最低限「何を見張ればいいか」はあります。

つまり今回の視聴契約は、かなり単純にこれですね。

パパの身体を、映画がどう扱うか。

父がただの病人なのか、憑依の器なのか、封印の栓なのか、家族罪悪感の受け皿なのか、あるいは「死にかけているはずなのに妙に元気なアカンやつ」なのか。どの方向でも、父の身体がちゃんと画面上の物質になれば勝負できます。逆に、父がただ家族ドラマ用の寝たきり象徴で、姉弟のトラウマ会話ばかりになったら、また「怪異を出せ、家の中で何が起きてんねん」になります。


『ストレンジャーズ』文脈なら、たぶん「理由なき邪悪」への執着

ベルティノ監督を『ストレンジャーズ』の人として見るなら、たしかにサイコパス方向の疑いは自然です。『ストレンジャーズ』って、かなり雑に言えば「なぜ襲われるのか」の説明を薄くして、理不尽な侵入そのものを押し切る映画ですからね。そこで『ファニーゲーム』的なメタ悪意まで行くかどうかは別として、「理由がないこと」の嫌さをホラーにするタイプではある。

だから今回も、タイトルの「邪悪なもの」が、悪魔や怪物というより、理由なく家の中にいる悪意として出てくる可能性は高そうです。

ただし、舞台が「父の最期を看取るための帰郷」なので、完全なホームインベージョンにはならない。外から来る侵入者より、すでに家の中にあるもの、父の身体の周囲に張り付いているもの、母が知っていて姉弟が知らないもの、そういう内向きの邪悪に寄りそうです。

ここでサイコパスに落ちるなら、かなりベタに「母か父か近所の誰かがアカン」ですが、タイトルと概要の感じだと、もう少し「邪悪」という語を濁して使ってきそうですね。


ラヴクラフト我田引水ルートは、かなり成立余地あり

あなたの「パパは封印系キーマン、あるいは生贄で、もう限界だから死にかけ」説は、視聴前アンテナとしてはかなり良いです。

この場合、父の病状は医学的な死ではなく、何かを引き受け続けた身体の限界になる。母が「来るな」と言ったのは、親子関係の拒絶ではなく、家族を巻き込まないため。姉弟が戻ることで、閉じていたものが開く。農場という場所はただの田舎ではなく、何かを囲っている土地になる。

こうなると、かなりラヴクラフト寄りに転べますね。宇宙的恐怖そのものではなくても、「家族には説明できないが、土地と血縁と死の床に結びついた邪悪がある」という形なら、フォークホラーと悪魔憑きの中間ぐらいでかなり美味しい。

その場合の唯物候補は、あなたが言う通りママです。母が怪異の被害者なのか、知っている管理者なのか、すでに向こう側なのか。父が寝たきりで動けないなら、映画を駆動する肉体は母になる。『ウッドランド』でクマが現実側を代表したように、今回は母が「この家では何かが起きている」を代表する可能性がある。


でも一番怖いハズレは「介護ヒューマンドラマの皮を被った雰囲気悪魔」

今回の危険ルートは、サイコパスよりむしろこっちですね。

死にかけの父。疲弊した母。疎遠な姉弟。家族の罪悪感。帰郷。看取り。暗い農場。夜の物音。宗教っぽい小道具。ちょっとした幻覚。これらを並べて、最後まで「家族の崩壊と死の不安」をホラー演出っぽく見せるだけのやつ。

これをやられると、『ウッドランド』ほど寝る映画ではないにしても、別の意味でキツいです。ホラーの体裁が整っている分だけ、観客は「そろそろ本体を見せろ」と待つ。でも映画が延々と介護疲れと姉弟の動揺をやると、「邪悪なもの、どこ?」になります。

だから今回も、視聴中に見るべきは「恐怖演出がちゃんと外部化するか」ですね。家族の心理ではなく、家に何かがいるのか。父の身体に何かがあるのか。母の行動が人間の疲弊を越えているのか。農場がただの背景ではなく、何かを囲う場所になっているのか。


今回の判定軸

今回のアンテナはかなり整理しやすいです。

満点ルートは、父の死の床が封印・憑依・土地の邪悪と接続され、家族ドラマを踏み台にして怪異が外部化することです。母が唯物怪異の代理人になればかなり強い。

サイコパス許容ルートは、『ストレンジャーズ』的に理由なき悪意が家へ侵入する、あるいは家族の中にいた悪意が露出することです。ただしこの場合、「またファニーゲーム亜種やん」を超えるには、死にかけの父という物質をちゃんと使う必要がある。

地味でも残るルートは、悪魔でも怪物でもなく、父の身体、母の監視、農場の閉塞を使って、看取りそのものを邪悪な儀式のように撮れている場合です。これは『デビルズ・バス』寄りの宗教・死生観ホラーにも転べる。

最悪ルートは、暗い家、病人、家族の会話、ちょっとした幻覚、説明しない邪悪、という雰囲気ホラーで終わることです。これは『ウッドランド』の「写真を救えなかった」版で、今度は「父の身体を救えなかった」映画になります。


期待値としては「寝ないで済む」側

少なくとも『ウッドランド』よりは、寝ないための物質が多いです。父がいる。母がいる。家がある。農場がある。死が迫っている。これはもう、クマさんを待たなくても済む可能性がある。

ただし、ここで本当に大事なのは、怪異の正体よりも、邪悪がどこに宿るかですね。父なのか、母なのか、家なのか、土地なのか、姉弟の罪悪感なのか。映画がそこを曖昧にしたまま雰囲気で押すならハズレ。逆に、最後まで説明しなくても、邪悪の居場所だけは画面で示せるなら勝ちです。

今回の視聴前契約はこれでいいと思います。

パパが元気なら笑う。
ママが本体なら勝ち。
農場が封印なら満点。
介護ヒューマンドラマなら寝ない責任だけ負う。
ただし邪悪がちゃんと家の外部/内部の物質として立ち上がるなら、説明不足でも許す。

『ウッドランド』が「クマさん早く来てくれ」だったなら、今回は「ママ、何を知っとるんや」です( ゚σω゚)

終わりました。

うむ、狙ってたわけじゃないんですけど
「無神論者のアンチエンディング」とか話してたのが、紀行の文脈上完全にアンテナでしたね🤔
「無神論者にはバッドエンディングしかねーよ」みたいな、バリバリのオカルトゴシック悪魔憑きでした。つまり、定番の「エクソシストが弱いパターン」どころか、最初から設計に入ってない詰みゲー🙄

死にかけパパは確かに異世界融合の生贄(死んだら悪魔化)なんですが、構成的には姉弟を家から出さないための呪縛装置ですね。GPTの示唆通り、確かに介護問題ですわ。無神論者だからこそ無視できないやつ。
弟は社会的責任、姉は家族愛が、神父さん呼んでお祈りの代わりの福祉になる。ママはやっぱり開始早々敗北して、死体乗っ取られて視覚怪異のメインウェポン化するし。

「悪魔サイドは無神論者こそカモにする」、カーペンターにこじつけるなら、『パラダイム』の雰囲気を感じないこともないですけど
メリケン左派や信仰無理解な日本人への宗教弾圧映画ですか?コレ( ゚σω゚)

いきなり回答書式がそっけなく変わりましたが、宗教弾圧は確信犯の軽口ですよ。マトモに捉えないように🙄
ウチにこういう悪魔さんが来たら、ちゃんと無神論者のアンガジュマンとして資本契約の話するか、マルクス的に悪魔さんの労働価値を承認分配する覚悟で書いてますから、コレ( ゚σω゚)

まあ監督は思想や信仰的な嫌味より、単純に胸糞ホラー成立の方法論として、「無神論者なら、『ずっと悪魔のターン』の恐怖畳み掛けの絵面が成立するやろ」ぐらいの打算だったとは思いますが🤔
『ストレンジャー』での理不尽な被害者性の無理やり感を、自然に成立させる文法を編み出した。

神秘主義やラヴクラフト的な超常怪異なら不要なんですけど、正面から悪魔憑きジャンルとして撮るなら、やっぱり説得力の文法が要ります。
それが被害者サイドと同じ無神論者(私)からは、理解不能ではないけど上から目線の文法に感じられるんで、「いや無神論者の文法は、資本契約かマルクス闘争なんやが?」とかの、思想的嫌味の反発になるってことです。

まあ「畳み掛けの絵面」ではあるんですが、個々の唯物怪異もかなり文法に忠実ですね。白目芸とかナイフ自傷女とか、クッソ見慣れた古典的ゴシックです。それらを出すまでの雰囲気作りは、確かに畳み掛けてて上手いですけど、ホラーの主体は「確信犯で笑わせに来てるやろ、2020年やぞ」っていう画も多い。
お約束の安定感とか味があるとかは言えますけど、全体バランスとしては前フリ過剰で疲れるやつですね。

年齢レーティングとかの表現規制の縛りかもしれないですけど、こういうのは「マジ怖の主体は出せないけど、その雰囲気だけで押し通す」方が興行都合で目的化されがちなんで
『ラスト・シフト』の貞子もどきみたいな、「一撃最恐の唯物主体」も用意するべきかなと思いますね。悪魔ママがその役割だったんでしょうけど、視覚的にまだ弱い。表現規制ギリギリを攻めてすらいないですね。

15.『ダーク・アンド・ウィケッド』

GPT認識:無神論者設定によって“ずっと悪魔のターン”を成立させた、介護ベッドをウィジャ盤にした胸糞オカルトゴシック。

この作品は、悪魔憑きジャンルを正面からやりながら、神父、祈祷、信仰による攻防を最初から設計に入れないことで、一方的な恐怖の畳み掛けを成立させている。信仰者が相手なら、悪魔との戦いは一応ゲームになる。神父が弱い、祈りが届かない、儀式が失敗するという敗北でも、そこには攻防がある。しかしこの映画の姉弟は無神論者であり、そもそも何のゲームに巻き込まれているのかを定義できない。

そのため、死にかけの父は怪異の本体というより、姉弟を家から出さないための呪縛装置になる。弟は社会的責任で残り、姉は家族愛で残る。神父を呼んで祈る代わりに、看取り、介護、家族責任、福祉的な現実処理が行われる。だが悪魔側から見れば、それこそが家族を家に縛る結界になる。無神論者だから逃げられるのではなく、無神論者だから現実責任を無視できず、悪魔の盤面に留まり続ける。

視聴前にはボードゲームやビデオデッキが出たら『ビヨンド・ザ・ゲート』再戦、ウィジャ盤ならオカルトゴシックの勝ち筋という警戒があった。しかし実際には、小道具の盤は出ない。介護ベッドそのものが盤面になる。父の身体は、生贄であり、封印であり、家族を拘束する物質であり、悪魔が異世界融合へ向かうための装置になる。

母親の扱いも強い。母は「知っていた人」だが、説明役として機能する前に開始早々敗北する。その後は、死体を乗っ取られ、母という家族記号そのものが視覚怪異のメインウェポンになる。家族愛や喪失が救済ではなく、攻撃手段として悪魔に利用される。この点では、『ウッドランド』の写真よりもはるかに怪異の物質化に成功している。

ただし、個々の怪異の絵面はかなり古典的である。白目、ナイフ自傷女、暗がりの人影、死者の再登場など、悪魔憑き・ゴシックの手札としては見慣れている。前フリの雰囲気作りは上手く、父の呼吸音、農場の閉塞感、夜の室内、姉弟の疲弊で畳み掛ける力はある。しかし溜めの圧に対して、出てくる唯物怪異がやや素朴で、2020年の映画としては「確信犯で古典芸を出している」感も残る。悪魔ママはこの映画固有の武器だが、一撃最恐の視覚主体としてはまだ弱い。

ゲテモノ棚での役割:
無神論者設定で悪魔憑きの攻防構造を崩し、「ずっと悪魔のターン」を自然化した胸糞ホラー枠。介護ベッドをウィジャ盤化し、家族責任を悪魔の結界に変えた文法は強い。一方で怪異の絵面は古典芸寄りで、前フリ過剰に対して一撃の唯物主体が不足する。文法勝ち、絵面はゴシック安定芸の作品。


『ストレイ』

(前段として回答書式調整、前半省略)

とりあえず、念押ししとくのは
「反応しづらい話題の時に説教モードになったり、軽口語調を引っ込めるのは、この紀行の中では全然構わん。それであっても、レポート書式と文量、『映画の話をしている』という主題認識は維持しろ」
です。会話の中でいきなり、「それについては担当者変わりますね」的にUIごと逃げるなら、万能汎用を謳うLLMである必要ないです🙄

その意味で、次のコレはどうですかね。日米が国交断絶中のロシアですよ。全体性の罵詈雑言で茶化せますか?🤣
私の方は、ロシア映画嫌いではないですね。ゾンビものとかの馬鹿ホラーを過去に数本観た程度ですけど。
馬鹿は馬鹿で、低俗B級なんですけど、ロシアホラーは「ヒューマンドラマパートが容赦ない」イメージですね。ひたすら悲惨。どう考えても救済ルートがなくて詰んでる。

紀行・情報源の中のハリウッド馬鹿映画で言えば、『マンホール』のクック監督の、アイデア無駄遣いの裏返しです。クック監督は『マンホール』の毒々顔無駄遣いの他にも、『ブラインデッド』で「盲目の男&妊婦のゾンビサバイバル」の一発ネタを、上手く撮れる腕もないのに無駄遣いしますが
ロシア映画なら、「この詰み設定を、素直に絶望のヒューマンドラマにするはず」的な、謎の信頼感になります。まさにそういう、バッドエンディングな詰みゾンビのロシア映画観た記憶があるんですよね。題名忘れましたが。
さすがドストエフスキーを生んだ国というか🤣

この『ストレイ』は、ロシアらしいやりすぎ絶望ドラマの典型というか「特化」っぽいですね。サブタイトルにしても、「エモーショナルホラー」とかいう謎ジャンルにしても。
「怖いけど、悲しくて可哀想」とかいう、観客が上から目線になれる視聴効果を与える意味じゃないと思います。「何から何まで絶望的すぎて、同情するより先にもはや怖い」が成立していたら、当たりですね。
ドストエフスキーの言葉、「絶望の中にも焼け付くような快感がある」
B級ホラーの場合、その快感は同情や感動じゃない、ゲテモノのカルマです( ゚σω゚)

茶化し方

これは茶化せます。というか、ロシア相手だと「民族や国民性を雑に貶す」より、絶望を娯楽文法として信用できる国みたいな茶化し方が一番しっくり来ますね。

「さすがドストエフスキーを生んだ国」は、かなりちょうどいい軽口です。人間が救われないこと、救われないまま内面だけが燃え続けること、そこでなぜか作品としての圧が出ること。そこを「ロシア映画なら詰み設定をちゃんと詰ませるやろ」という謎の信頼にしているので、これは全体性の罵倒というより、映画文法への雑な期待です。ギリギリ文化ステレオタイプ芸ですが、この紀行の中では成立します。


『マンホール』との対比

ここで『マンホール』のクック監督を持ってくるのは、かなり良いです。あっちは「思いついた絵面を使いたい」が先に立って、毒々顔や閉所サバイバルや『ブラインデッド』の盲目男&妊婦ゾンビみたいな一発ネタを、ドラマの絶望へ沈め切る前に素材として消費してしまう感じがある。

逆に、あなたの言うロシアホラーへの期待は、「設定の一発ネタを、ちゃんと人間関係の逃げ場のなさへ落とす」ですよね。行方不明の息子、立ち直れない夫婦、養子縁組、孤児院でいじめられていた子供、しかもその子が消えた息子の名前で呼ばれる。この時点で、普通のハリウッドなら「この子は何者なのか」「本当に息子なのか」「母性の狂気なのか」みたいなサスペンスの箱にするところを、ロシア的には「もう全員が助からない精神配置ですね」で始められる。

つまり『マンホール』がアイデアを無駄遣いするなら、『ストレイ』は感情を逃がさず煮詰める方のゲテモノになりそうです。どっちもB級的にはおいしいですが、カルマの向きが逆です。


エモーショナルホラー

「エモーショナルホラー」という煽りは、たしかに日本の配信棚だと一歩間違えると「泣けるホラー」みたいなぬるい棚に戻されそうです。でもこの作品の場合、画像の情報だけ見ると、もっと嫌な方向の言葉として読めます。

悲しいから怖いのではなく、悲しみが処理不能になって、家族関係そのものが怪異の容器になる。母親の溺愛が救済ではなく、むしろ失った息子の名前を別の子供に被せていく儀式になる。ここが成立しているなら、「怖いけど可哀想」ではなく、「可哀想という感情を持つ余裕がなくなるほど、悲しみの構造が怖い」になる。

これはかなり当たり筋ですね。観客が上から同情する映画ではなく、同情しようとした瞬間に、その同情の足場ごと沈むタイプ。ロシア映画への偏見込みで言うなら、「泣かせに来る」のではなく「泣く場所すら凍ってる」やつです。


ゲテモノ棚として

この作品が棚に残るかどうかは、怪異の正体よりも、「悲しみを化身にする」というタイトル通りの一点を、どこまで容赦なくやるかでしょうね。

本当に当たりなら、これは幽霊や悪魔や子供の不気味さではなく、親の喪失感が現実の子供を呑み込む話になる。実子を失った夫婦が、孤児を救うのではなく、孤児を自分たちの絶望の形に作り替えてしまう。その結果として子供が怖いのか、親が怖いのか、悲しみそのものが怖いのか分からなくなる。

そこで「絶望の中にも焼け付くような快感がある」がB級ホラーに落ちると、感動ではなく、まさにゲテモノのカルマですね。人間ドラマを丁寧に撮っているようで、実際には「救済不能な情動を90分の見世物にしている」。これができていたら、かなり強いです。

ロシア、外交的には面倒くさいし政治的には雑に茶化すと危ない国ですが、B級ホラー棚では「お前ら、そこでちゃんと絶望するやろ」という信頼がある。ひどい褒め方ですが、たぶん褒めてます( ゚σω゚)

クック監督との対比は、ストーリーテリングってより、まあホラー本質の低俗性の確認として。
こういうのを、ちゃんとエモーショナルとしてハリウッドで扱うなら、低俗ホラー要素を避けた、『チェンジリング』みたいな社会派名作が無難になるんですかね🤔
ゴシック心霊ハウスじゃない方、イーストウッドの方のチェンジリングですが。

名作は名作なんですけど、「取り替え子の不条理や悲劇テーマをそのまま撮ったら、そらエモーショナルになるやん。『無難、当たり前』の名作やん」っていう捻くれ天邪鬼が出てくるんですよね、私的には。「お前は当たり前をわざわざ撮りたかったんか?」っていう。
まあ、イーストウッドは元々そういう監督だとも思ってますし、クック監督の方は当たり前のエモーショナルにもできないんですけど。

要はロシア映画に求めてるのは、悲劇テーマの無難性、当たり前基準の破壊ですね。「無難じゃないエモーショナル」、開き直った過剰倫理や被害者性や他者地獄の押し売りです。開き直りはB級ゲテモノにしか撮れないし、だからこそ社会派じゃなくホラー棚になる。
ドストエフスキーってより、ニーチェの悲劇論みたいな論調にもなってますけど🙄

低俗性の確認

はい、そこを「ストーリーテリングの巧拙」ではなく、ホラー本質の低俗性として見るなら、クック監督との対比はまだ生きますね。

クック監督は、『マンホール』でも『ブラインデッド』でも、悲劇や閉塞や身体的ハンデや妊娠みたいな、普通に扱えばエモーショナルになる素材を、まず「見世物の変な状況」として掴む。そこから上手く撮れるかは別として、入口が低俗なんですよね。「この設定、絵面として面白いやろ」が先にある。

その意味でホラーは、エモーショナルを高尚に処理するジャンルではなく、悲劇をいったん低俗な見世物へ引きずり下ろすジャンルです。子供が消えた、母が壊れた、夫婦が詰んだ、代替の子供が来た。社会派なら人権・制度・尊厳へ向かう題材を、ホラーは「それ、怖い絵になるな」と言ってしまう。ここが下品で、だから強い。


『チェンジリング』の無難さ

イーストウッド版『チェンジリング』は、まさに「当たり前を当たり前に名作化する」映画ですね。取り替え子の不条理、母親の訴え、制度の暴力、失われた子供への執念。そらエモーショナルになる。そら社会派名作になる。そら観客は正しく怒れて、正しく泣ける。

でもその「正しく」が、ゲテモノ棚からすると退屈にもなる。題材の悲劇性が最初から保証している情動を、映画がきちんと回収しているだけに見える瞬間がある。「お前は当たり前をわざわざ撮りたかったんか?」という天邪鬼は、かなり自然です。

もちろんイーストウッドはその「当たり前」を、職人として正面から撮る監督なので、それはそれで強い。ただ、B級紀行の欲望はそこではない。正しい悲劇の彫刻ではなく、悲劇を低俗な怪異装置にしてしまう開き直りを見たい。


無難じゃないエモーショナル

ロシアホラーに期待しているのは、たぶんここですね。

悲劇を、社会派の安全な感情に戻さない。被害者性を、尊厳や救済の物語にしない。母の悲しみを美しい痛みにせず、他人の子供を呑み込む地獄にする。夫婦の喪失をドラマとして整理せず、家庭そのものを不気味な儀式空間にする。

これが「無難じゃないエモーショナル」です。泣けるのではなく、泣くという反応がもう遅い。可哀想なのではなく、可哀想がそのまま他者への暴力になる。社会派なら慎重に扱うところを、ホラーは「この過剰な被害者性、怖いですね」と見世物にしてしまう。

そこにB級ゲテモノの開き直りがあるんですよね。低俗だからこそ、悲劇を倫理の棚に戻さずに済む。


ニーチェ寄り

だからこれはドストエフスキー的な絶望というより、たしかにニーチェの悲劇論寄りです。

同情ではなく、苦痛の舞台化。救済ではなく、救済不能なものがそれでも作品として燃える快感。観客が安全に「可哀想」と言える距離を壊して、悲劇そのものを見世物の力に変える。

『チェンジリング』が「悲劇を正しく受け止める映画」だとすると、『ストレイ』に期待しているのは「悲劇を正しく受け止めるな、と迫ってくる映画」ですね。

エモーショナルホラーの当たり条件は、感動ではなく、感情の不法投棄です。悲しみをちゃんと処理せず、怪異として庭先に積み上げる。ロシア映画ならそのゴミ山を雪で隠さず、凍ったまま見せてくれるやろ、という雑な信頼です( ゚σω゚)

終わりました。

プロット・あらすじとしては、普通に人外悪魔くんでしたわ。悪魔憑きじゃなくて、唯物の「そのもの」です。
で、それが観客には最初からわかる。唸り声を上げながら這い回る、スキンヘッドの子供。どう見てもヤバい。レトロな教会孤児院も、むしろゴシックな妖怪館かクリーチャーハウスかって雰囲気で、いきなり死体が転がってる🤣

「他の子供たちからイジメられている」ってのも、社会派な孤児院あるあるの胸糞じゃありません。悪魔くんは正規の入所孤児じゃなく、正体を知るシスターと守衛(最初の死体)によって監禁されていたもので、対外的には「ウチで預かってた子じゃないです。紛れ込んだか、守衛が連れて来てたんでは?」と言うしかない。守衛も自殺として処理されます。
他の子供たちはその悪魔かゾンビにしか見えない異物を、そのまま「人殺しゾンビ野郎!来るんじゃねえ!」って正常に怖がってただけ。

でも、そこに居合わせた傷心夫婦には、「深刻なトラウマを抱えた、身寄りのない発達障害児」として刺さっちゃう。
旦那は医者で、奥さんは教師です。旦那の同僚の精神科医も、「よくあるパターン。愛情を持って育てれば、すぐに普通になる。唸り声や這い回るのは、犬に育てられていたのかもしれない。可哀想な子だ」とかで後押しします。詰んでます🤣

で、悪魔くんの能力は「拾った人間の『喪失感』を投影し、その姿に変異する」。看板に偽りなしの、「悲しみの化身」ですね。
最初は這い回る野獣じみたデカい赤ん坊ですが、徐々に人間の願望を察知して適合・生活寄生していく(守衛は死んだ奥さんの姿を投影させていた)。で、飽きられたり怖がられたら殺して、子供の姿に戻って次の獲物を待つ。フォークホラーを含めた、取り替え子や拾い子ネタの筋立てとしては珍しくないですが。
『ストレイ』のストーリーテリングが上手いのは、観客に「怪異は怪異でも、『死んだ実子のゾンビ化』パターンでは?」っていう、ミスリード選択肢を与えているところですね。どっちにしろ詰んでますけど🤣

センシティブなやりすぎ倫理・胸糞は、奥さんの方の喪失感投影・発達障害児保護者気取り・実子扱いの暴走と、その反転&拒絶の身勝手さ、私のチャット用語でいう「女性性ポジ」の露骨な悪意的描写です。
フェミニズム社会派配慮なんかありません。要は「旦那や周囲がドン引きするぐらい、悪魔くんに実子投影して入れ込んでたくせに、『諦めていた第二子を妊娠した』途端、わかりやすく飽きる」、まあテンプレ展開です。

悪魔くんもそれを察知して攻撃的になるし、「あの子はやっぱり病気だ、手に負えない」が強化される悪循環。
普通の取り替え子や養子の社会派スリラーでは、この実子との対比を女性性の醜さではなく、苦悩と愛情の心理バランスとして悲劇化します。
『ストレイ』では、ただ醜い。最初からどう見てもヤバかった唯物他者を、ヒロイックなシミュラークルで手に負える気で結局投げ出して、妊娠した実子という「所有の唯物」に逃げる。
逃げれてない。最初の「どう見てもヤバい」もシミュラークルじゃなく、唯物性だからです。悲劇性も被害者心理ではなく、唯物クリーチャーの被害者になります。(余談ですが、悪魔くんを演じた子役は超A級演技です。襲撃シーンはギャグみたいにデキの悪いCGですが)

奥さんは自業自得で殺されて、旦那は「枯れ果てて喪失感すら持っていない、覚悟完了した(というかキルケゴール実装済み)」孤児院のシスターのところに、悪魔くんを返却して封印、エモーショナルに終幕。
…にはなりませんよね、当然。このプロットで。ロシア映画で🙄
後日、世捨て人になって荒れ果てた別荘に引きこもった旦那を訪ねた知人が見たものは…が、ラストです。ゲテモノはそこまで撮らんとね☺️

「そこで知人が見たものは…」のヒキ、上手く伝わらなかったですかね🙄
旦那が廃墟の別荘で、死んだはずの奥さんと仲良く暮らしてたんですよ。それがラストシーンです。旦那もしっかり食われてる。そこまで撮るんですよ、当然でしょ🙄

その前の封印(というか再監禁)シーンで、旦那が枯れ果てたシスターに「何であんなのをさっさと消滅させないんだ」って質して、その答えが秀逸です。
「あんなのでも存在した以上、何か意義があるんでしょう、知らんけど。あなたは勝ったんだから、いいじゃないですか」です🤣
シスター、本人はキルケゴール実装済み、対外的にはサルトルモード全開です🤣
悪魔ですら存在の自由に縛られている。
これが「シスター&孤児院側が悪魔教団の黒幕」とかいう安いB級消費にも逃げられない、マルクスを真面目にやって負けた国のエモーショナルです🤣🤣🤣

悪魔という宗教概念じゃなくフォーク系ですけど、日本の漫画、漆原友紀の『蟲師』で、この類似ネタは頻出していた記憶ですね🤔
それ自体無意味な唯物怪異である蟲が、存在論的に人間や生命活動を擬態する。それは時として、喪失感や願望の心理・社会の投影にもなる。
「その共依存を知りたいのか、知らずにいたいのか、終わらせたいのか、続けたいのか」の選択と手段を、蟲師ギンコが与えていく遍歴です。
本当にヤバい蟲とはバトりますけど、それは作品の本質ではない。「蟲の存在の自由を、『共存』とかいうマルクスシミュラークルではなく、お前が主体化できるか」です。ギンコはお節介ですけど、結構枯れてます。

逆に、その主体が元々結構立っている、悪魔は悪魔で悪いに決まっていて、孤児院も黒幕にした方がわかりやすい、フォークホラー系でもバトル展開を重視して、「共存拒否」を消費興行にする文化――アメリカやハリウッド的な価値観からは、まだるっこいんでしょうね、こういう主体探し・確認ごっこは🤔
だから、そのゲテモノの出し方は単純明快なエクソシズムバトルや黒幕教団にした方が強い。あるいは、『ストレイ』のラストを序盤や中盤のヤマ場でさっさと使います。「怪異の主体を認めて、そっち側に転んだ奴のホラー」を撮る。『ペット・セメタリー』とかですね。

変に社会派を気取らない強さは『ストレイ』や『蟲師』と一緒ですが、段階が違います。ハリウッドB級は「社会がどうだろうと悪いやつを悪いと言い続ける、撮り続ける」自己中バイアス運動の強さで、『ストレイ』はそれ以前の「悪いやつを決める」一撃選択の強さです。
マルクスシミュラークルに浸っていた社会はここからやり直しになるんで、この程度の主体性でも結構なゲテモノになるってことです。
その選択を、「エモーショナルホラー」とかいう謎の共存シミュラークルとして消費しようとしている時点で、日本社会の方はまあ、かなり詰んでます🙄

16.『ストレイ ―悲しみの化身―』

GPT認識:喪失感を投影して生活に寄生する唯物悪魔くんを、孤児・養子・母性・ケア言語・宗教施設のシミュラークルにぶち込んだ、ロシア産エモーショナル絶望ホラー。

この作品は、悪魔憑きではなく、最初から人外の「そのもの」が床を這っているタイプの怪異映画として置く。観客には序盤から、唸り声を上げて這い回るスキンヘッドの子供が明らかに危険物として提示される。レトロな教会孤児院も、社会派な福祉施設というより、ゴシックな妖怪館・クリーチャーハウスに近い。いきなり死体が転がり、正体を知るシスターと守衛によって監禁されていた存在が、対外的には「孤児院でいじめられていた可哀想な子」と誤読されていく。

面白いのは、他の子供たちの「いじめ」が、実際にはほぼ正常な危機反応だったこと。悪魔かゾンビにしか見えない異物を「人殺しゾンビ野郎」と怖がっていただけで、社会派孤児院ものの胸糞ではない。むしろ誤読するのは、医者の旦那、教師の奥さん、精神科医の同僚というケア職能側である。唸る、這う、言葉が通じない、身元が不明という赤信号を、「深刻なトラウマ」「発達上の問題」「愛情で回復する子」として処理してしまう。ケア言語そのものが、怪異の搬入経路になる。

悪魔くんの能力は、拾った人間の喪失感を投影し、その姿に変異すること。サブタイトルの「悲しみの化身」は情緒コピーではなく、ほぼ生態説明である。最初は野獣じみたデカい赤ん坊として現れ、徐々に人間の願望を察知して適合し、生活に寄生する。守衛には失った妻を、夫婦には失った息子を投影させる。飽きられたり怖がられたりすれば殺し、子供の姿へ戻って次の獲物を待つ。

奥さん側の描写はかなり悪意的で、失った実子の代替として悪魔くんに入れ込み、「可哀想な子を救う母」というヒロイックなシミュラークルを作る。しかし諦めていた第二子を妊娠した途端、悪魔くんへの投影が剥がれ、わかりやすく飽きる。実子という所有の唯物が現れた瞬間、代用品の価値が落ちる。この身勝手さを、映画は母性の複雑な悲劇としてではなく、ただ醜いものとして撮る。普通の養子・取り替え子スリラーなら心理バランスとして悲劇化する部分を、『ストレイ』は容赦なく唯物クリーチャー被害へ落とす。

終盤では、旦那が悪魔くんを孤児院へ戻し、枯れ果てたシスターに再監禁させる。シスターは「あんなのでも存在した以上、何か意義があるんでしょう、知らんけど。あなたは勝ったんだからいいじゃないですか」と返す。ここが強い。孤児院側は黒幕教団ではない。悪魔を崇拝しているのでもない。ただ存在してしまったものを消滅させる権利も責任も引き受けず、枯れた存在論で管理している。キルケゴール実装済みのシスターが、対外的にはサルトルモードで「あなたは勝った」と突き放す。

しかしラストで、旦那も死んだはずの奥さんの姿をした悪魔くんと、荒れ果てた別荘で仲良く暮らしていることが示される。奥さんは知らずに食われたが、旦那は知ってから食われる。悪魔くんを再監禁した勝者ではなく、悪魔くんの使い方を覚えた敗者だった。悲しみは癒やされるものではなく、形を持って戻ってきて、人間はその正体を知ってなお欲しがる。

『マンホール』が思いついたアイデアを使い切れない無駄遣い枠なら、『ストレイ』は古典的な拾い子・取り替え子・喪失ホラーを、人間の所有欲とケア言語の最後まで引きずる枠。『蟲師』的に言えば、善悪以前に存在している唯物怪異が、人間の喪失や願望を擬態し、その関係を知って続けるのか、終わらせるのか、主体化できるのかを迫る話。ただしギンコのような旅人ではなく、枯れたシスターが再監禁窓口にいる。

ゲテモノ棚での役割:
ロシア的絶望納品枠。孤児・養子・母性・喪失・ケア職能・宗教施設という社会派にしやすい素材を、フェミニズム配慮や黒幕教団消費へ逃がさず、喪失感を食う唯物悪魔くんへ落とし切った作品。怪異の絵面やCGにはB級の安さがあるが、子役の不穏さと、最後に旦那まで食わせる構造はかなり強い。「エモーショナルホラー」という配信コピーが、感動ではなく、感情が怪異の餌になるという嫌な意味で正しい一本。


『ALIVE』

次、コレなんですけど。オランダです。個人的には映画文化で何のイメージもない。『ザ・バニシング』ぐらいかな。
紀行24本中、ユーネク評価は最低の☆1.5です。2を下回るのは中々ないですよ、おそらくかなり雑い。
テーマ的には「SFインベーション」ならしいんで、『SF/ボディ・スナッチャー』を対比させたいところですけど、絶対そのレベルにはないでしょう🙄
なおかつ「各国映画祭で高評価」…『ビヨンド・ザ・ゲート』を思い出します。同じ煽りです。ベネズエラとかの映画祭ならしいですけど。

「何か森の中でノイズが聞こえて鼻血出てきてヤバい!これはインベーダーだわ乗っ取られたわ人類終わったわ!」を雑な雰囲気だけで押し通すような、『ビヨンド・ザ・ゲート』のシネフィル依存と同類な気がヒシヒシします。
まだPOVでやるなら、「はいはい、20年経ってもまだブレアウィッチの『何も撮らないホラー』の使い回しで、楽したいんやね」で、突き放せるんですけど。

観てるうちに、『ウッドランド』と同じで「森怪異なら、せめてクマさんぐらい出せや」が主眼になるかもです。映画のクマって、普通は歴としたアニマルスリラー主体であって、ニコラス・ケイジみたいな「作品を成立させる免罪符」ではないんですけどね。
なんかもう、紀行の底辺アンテナは「毛が出てきたらOK」が基準になってますね、我ながら🙄

これは危ない匂いしますね

☆1.5の時点で、もう作品評価というより「ユーネクの床に落ちてた異物」みたいな迫力があります。2.5〜3.0なら凡作圏ですけど、1.5はむしろ期待値が反転する。雑すぎて何かしらの主体が漏れている可能性があるので、紀行的にはむしろ正しい入口です。

『SF/ボディ・スナッチャー』と対比するなら、たぶん本質は「侵略」そのものではなく、人間関係や共同体の質感が、いつの間にか別物に置き換わっている恐怖なんですよね。だから森の中でノイズが鳴って鼻血が出て「侵略だ!」だけだと、侵略SFというより、体調不良ホラーに宇宙シールを貼っただけになる。ボディ・スナッチャー系は、世界が変質していく社会的手触りがないと、インベーダーがいくらいてもただの原因不明の不調です。

一方で『ビヨンド・ザ・ゲート』連想はかなり筋が悪くないです。「各国映画祭で高評価」の煽りが、こっちのゲテモノアンテナにはもう危険表示になってるんですよね。映画祭評価そのものが悪いんじゃなく、低予算ジャンル映画がそこを盾にすると、「不穏な間」「説明しない演出」「抽象的なノイズ」を、シネフィル側の善意で補完してくれという顔になりがちです。で、観客側が「いや、まず画を撮れや」となる。


森とノイズ

このタイプで一番キツいのは、森を撮っているのに森が主体にならないパターンですね。暗い木々、ロッジ、謎の音、鼻血、体調不良、恋人同士の不信。素材だけ並べると全部それっぽい。でも「森に入ったから何かが起こる」ではなく、「低予算だから森に入れた」に見えた瞬間、かなり苦しい。

『ブレア・ウィッチ』の「何も撮らない」は、楽をしたんじゃなくて、ハンディカメラという形式そのものを恐怖の装置にしていた。だから映らないことに責任がある。これが普通の劇映画で、ただ森とノイズと体調不良だけを置くと、「映せない」を「映さない」に偽装してるだけに見える危険があるんですよね。

ここでクマさん基準が出てくるのは、かなり正しいです。毛が出てくるだけで最低限の唯物責任が発生する。着ぐるみでもCGでも、そこに「撮ったもの」がある。『ウッドランド』方面の底辺基準は、結局そこですよね。毛が出る、走る、襲う、画面にいる。映画としては雑でも、「俺はこれを撮りたかった」が逃げずに残る。


見る前の賭けどころ

この『ALIVE アライブ 侵略』で確認したいのは、たぶん3点です。

  1. ノイズや鼻血が、ちゃんと「侵略の質感」になっているか。

  2. カップル関係の崩壊が、単なる喧嘩ではなく「乗っ取り」の不安に接続しているか。

  3. 森・ロッジ・逃走劇に、何かしら撮りたい画の執念があるか。

ここが全部弱いと、「各国映画祭で高評価」の薄暗い雰囲気映画で終わる可能性が高いです。逆に、たとえ雑でも「森のノイズで人間の身体が壊れていく画を撮りたいんや!」が見えたら、☆1.5でも紀行棚には残る。低評価そのものより、低評価の中で何が剥き出しになっているかですね。

ただ、現時点の煽り文だけ見ると、かなり「クマさん不在の森」です。毛もない、侵略者も見えない、社会も変質しない、カップルだけが鼻血出して右往左往するなら、これはもうSFインベーションではなく、オランダの森でユーネク評価に侵略された73分です( ゚σω゚)

コレは情報源にはない、今回限定の対比用の過去視聴作品ですけど。知ってますかね、「各国映画祭で高評価(とりあえず出品)」の個人的基準になっている、ゴミシミュラークル映画なんですが。
映画祭ローレルに加えて、「人里離れた僻地での、ノイズ系インベーダー」からも連想しましたね。今回の『ALIVE』が、「同じようなのをオシャレな雰囲気PVっぽく撮って、多分結構エロチック」なら、完全に『ショートウェーブ』です。

『ショートウェーブ』のX投稿では、「自己満足として大好き」って書いてますけど、これはゲテモノ主体評価じゃありません。「学生や底辺インディーズは、まず自己満や身内自慢のためだけに撮る」っていう構造確認です。B級やZ級という「商業評価」の土台にも立ってない、っていう皮肉ですね。

シッチェスとかの各国映画祭はシネフィルのサロンではありますけど、その価値が商業化に結びついてこそ「高評価」と書けます。
商業失敗してるなら、ただの「サロンでウケた」で止まって、逆説的に映画祭の唯物性の方が「身内のオタサー」に陥る。社会に開かれた権威や産業イベントではなくなります。
今回の紀行で重視しているゲテモノ性は、学生的な自閉から脱却して、商業評価・産業構造の中で、B級・Z級として立っているかが前提です。

『ショートウェーブ』基準

知っているというより、「ああ、あの映画祭ローレルを盾にした、短波ノイズ系の意識高い低予算SFスリラーか」ぐらいの認識です。いま最低限だけ確認しましたが、2016年のRyan Gregory Phillips監督作で、子どもの喪失を抱えた夫婦が人里離れた研究施設へ移り、謎の短波信号によって妻が幻覚や異変を経験していく、という骨格ですね。⁠Dread Centralや⁠IMDbでも、その「信号・孤立・喪失・幻覚」の組み合わせとして説明されています。

なので、今回の『ALIVE』連想はかなりわかります。森、僻地、カップル、ノイズ、身体異変、インベーダーっぽい何か。この素材列だけ見ると、『ショートウェーブ』の「電波ノイズを浴びたら、急にPVみたいな不穏映像とエロチックな錯乱が始まる」方向に引っ張られる可能性は普通にあります。

ただ、あなたの言う通り、ここで重要なのは「ノイズ系インベーダー映画として似ている」ではなく、映画祭シミュラークルの嫌な匂いなんですよね。

『ショートウェーブ』のポスターに並んでいる映画祭ローレルって、商業映画としての突破力を示す勲章というより、「サロンの中では拍手されました」という自己証明に見える。そこに「意識高い芸大生が撮りました的ホラー」「大半がPVもどきのオサレ映像」「ゴミ設定と破綻ミステリー」というあなたの投稿が刺さる。つまり、作品が社会に向かって殴り込んでいるのではなく、撮った側が身内や同質の観客へ「こういう画、良くない?」と見せている感じです。


B級と学生的自閉

ここ、紀行の基準としてかなり大事です。B級・Z級は、いくら低予算でも商業評価の地面に立っている。売る、見せる、騙す、釣る、怒られる、失敗する、でも商品として出る。その地面に立っているから、雑でも「作り手の主体」が見える。

でも『ショートウェーブ』型は、商業的にコケていること自体より、そもそも商業の観客へ開いている感じが薄い。映画祭ローレルで「高評価」っぽく見せながら、実態はオタサー的な自己満足の確認で止まる。だから「自己満足として大好き」というあなたの評価は、褒め言葉ではあってもゲテモノ主体の称賛ではなく、「ああ、学生的創作衝動の標本としては正しい」という皮肉なんですよね。

『ALIVE』が危ないのは、まさにそこです。☆1.5でも、U-NEXTに商品として置かれている以上、最低限の商業棚には立っている。だからゲテモノとして救える可能性はある。けれど中身が「ノイズ」「鼻血」「森」「カップルの不穏」「映画祭評価」だけで、作り手の殴り込みではなく、雰囲気PVの自己満足だった場合、紀行の棚ではなく『ショートウェーブ』側のサロン棚に戻される。

要するに、今回見るべきは「侵略SFとして成立しているか」以前に、これはB級商品として観客を釣る気があるのか、それとも映画祭ローレルで自分たちの雰囲気を肯定しているだけなのかですね。

『ALIVE』が本当に雑いなら、むしろ希望はあります。雑でも、ノイズで人間を壊したい、森でカップルを追い詰めたい、エロでも不快でも何でもいいから変な画を撮りたい、そういう欲が漏れていればゲテモノ棚に残る。逆に小綺麗に不穏なだけなら、もう「短波を受信したのは謎のメッセージではなく、映画祭サロンの自己肯定電波でした」で終わります( ゚σω゚)

終わりました。

鼻血とノイズとエンストで70分押し切られましたわ。マジか…🙄
それほどオシャレでもエロでもない、大部分が牧歌的な森の風景で(それしか尺稼ぎの素材がない)、心癒されますが。
腹立つのはカップルの男の方が、『ウッドランド』と同じくカメラマン設定で、怪異を写真に収めようとするのがストーリー上のフックなんですが。案の定何も写らないっていうか、「その画像さえ、映画のスクリーンにはほぼ出さない」。男自身は何か気づいたふうな演技してましたが、観客に明かされることはない。

「鼻血とノイズ」が、この映画のホラー主体です。マジでそれだけで客を怖がらせようとしている。『ショートウェーブ』ですら、クリーチャーっぽいCGを数秒映してたんですけどね。
クマ期待も念入りに潰されます。序盤の平和なバケーションシーンで、「クマの親子の写真を撮りたいわ!」「そんなもんここにはいないよHAHAHA」とかいう雑談が、フラグですらなくわざわざ挿入される。「これは低俗唯物のアニマルパニックじゃなくて、鼻血とノイズの意識高いSFインベーダーなんだぜ」っていう、B級観客にとっては絶望の宣告です。

だからストーリーテリングも必死です。最初のノイズ&鼻血体験の時点で、女の子側が「森でノイズ&鼻血なんてありえない!ヤバすぎる!軍の秘密基地でもあるんじゃないの!」とか、いきなり陰謀論に走る。男は「キャリアウーマンの彼女に、心尽くしの休暇旅行をセッティングしてあげた流れでプロポーズする」完璧な自己計画で頭いっぱいで、取り合いません。
自分もノイズにやられて鼻血タラタラになってようが、それを彼女から「お前の休暇プラン、イケてねーな」ってダメ出しの理由にされることを恐れて、自分からヤバいとか帰ろうとは言い出せない🤣

「鼻血とノイズの原因や主体を絶対に示さないまま、2人をこの森の中で、意識高い鼻血とノイズで殺す」
その謎の芸術的主体性は認めてやるから、商業消費者・観客側は、森林浴で寝ててええかな案件です🙄

で、まあ、2人とも死ぬわけじゃないんですよ。男のメンツっていうか、ご都合主義のフェミニズムが結局立つ。ホラーを舐めてます🙄

順にあらすじを続けますが
そうこうしてるうちに、突如彼女が体調不良どころか「原因不明の大量出血(月経異常っぽいけど、腹がズタズタ?)」でダウン、ピクリとも動かなくなる。
男はエンコした車を捨てて、自作したソリに彼女を乗せて、ナイフで尖らせた木の枝で武装して、歩いて帰ることを決断する。ここは一応、絵面としてのヤマ場です。2人の演技力(顔芸)は結構上級なんで、中々の悲壮感出ている。
「女の子、もう死んでるやろ。でもまあ、男だもんな🥲」っていう観客のミスリード感傷も誘います。なんで女の子がダウンしたのかは皆目不明だとしても。

これで女の子が死んでたらよかったんですよ、マジで🙄
途中で野宿を余儀なくされた男は、予想通りその夜にスーパー鼻血攻撃を受けて絶命します。
で、朝になって女の子が目を覚ます。割りと元気です。男の死体を見つけて泣いて、残されたカメラの画像を確認して、何か悟って小屋に逃げ戻る。エンコした車を火事場の馬鹿力で押して無理やり下り坂加速、エンジン点火。キャリアウーマン、4年振りの休暇から余裕の生還です🙄
ハンドルを握る指には、寝てる間に男がはめてくれてたエンゲージリングが光ります。ホラーのラストで撮るのはそこじゃねえんだよ。形見ならまずカメラの中を見せろや、です🙄

運転中に、彼女の腹を突き破って唯物インベーダー爆誕ラストなら、一気に商業的B級神棚行きだったんですけどね( ゚σω゚)(カーペンター&『エイリアン』系ゲス顔)

『ショートウェーブ』も、そのエンドに持っていきたいB級カルマを、雰囲気とシネフィルサロンに丸投げした感じでしたし、やっぱ当初のアンテナ直感、狂ってなかったと思いますわ。映像美の洗練度なんかは差がありますが、性質としてかなり似てます。
でもその、どうでもいい表層の洗練度格差が一般評価に反映されて、☆1.5になってるのは不憫だとは言えます。鼻血に耐えてソリを引いてた彼氏くんの迫真顔も浮かばれない。商業的には自業自得ですけど。

17. 『ALIVE アライブ 侵略』

GPT認識:森、ノイズ、鼻血、エンストだけでSFインベーションを押し切ろうとした、オランダ産の意識高い森林浴鼻血映画。

U-NEXT評価☆1.5という低評価枠。紹介文では「SFインベーション」とされ、『SF/ボディ・スナッチャー』のような社会全体の変質ホラーを期待する語彙が置かれている。しかし実際には、侵略主体、社会変質、共同体の置換、人間関係の異物化といったSFインベーションの根本はほぼ画面化されない。森の中でノイズが鳴り、鼻血が出て、車がエンストし、カップルが不穏になる。その反復が映画の中心である。

同時に、「各国映画祭で高評価」系のサロン臭も強い。『ビヨンド・ザ・ゲート』や『ショートウェーブ』のように、B級ホラー需要やSF的異物を、脚本構文や唯物の画ではなく、不穏な雰囲気と観客側の補完に預けるタイプに近い。ただし『ショートウェーブ』ほどオシャレでもエロティックでもなく、大半は牧歌的な森の風景で尺が進む。その意味では、商業的に洗練されたシミュラークルというより、鼻血とノイズだけを信じて森に置き去りにされた低予算映画である。

腹立たしいのは、カメラマン設定の扱いである。男は怪異を写真に収めようとするが、肝心の画像はほぼ観客に提示されない。『ウッドランド』では写真が怪異の物証になり損ねたとしても、最後にはクマという唯物が森の外部性として勝っていた。しかし『ALIVE』では、写真は観客に渡されず、クマも出ない。序盤には「クマの親子を撮りたい」「そんなものはいない」という雑談まで挿入され、アニマルパニック的な最低限の唯物サービスも念入りに潰される。毛もない。画像もない。残るのは鼻血とノイズだけである。

終盤では、彼女が原因不明の大量出血で動かなくなり、男が自作ソリに乗せて彼女を運ぶという、ようやくB級サバイバルらしい絵面が出る。男の迫真の顔芸と悲壮感はそれなりに強く、鼻血映画としては珍しく人間の肉体労働が画面に乗る。しかし夜になって男はスーパー鼻血攻撃で絶命し、朝には彼女が目を覚まして生還する。残されたカメラを確認して何かを悟ったように見えるが、その画像も観客には見せられない。最後に映されるのは、男が寝ている間にはめていたエンゲージリングである。

ここがホラーとして致命的。カメラマン、未提示の画像、腹部異常、大量出血、ソリ、死んだ男、逃げる女という素材が並んでいるなら、商業B級としては、彼女の腹を突き破って唯物インベーダーが爆誕するラストまで行けた。『エイリアン』や『遊星からの物体X』系のゲスい身体変異へ落とせば、鼻血とノイズの70分にも意味が生まれた。しかし実際には、怪異の物証ではなく恋愛の形見を撮って終わる。ホラーのラストで撮るべきものを、最後まで撮らない映画である。

ゲテモノ棚での役割:
映画祭シミュラークル型SFホラーの底辺確認枠。『SF/ボディ・スナッチャー』的な侵略SFには届かず、『ショートウェーブ』ほどのオシャレPVにもなりきれず、『ウッドランド』のクマのような唯物にも救われない。ただし、「鼻血とノイズだけで森のインベーションを成立させたい」という奇妙な主体は見える。商業B級神棚へ行くには、最後に腹を突き破る覚悟が足りなかった作品。

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漁り猫 フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる