ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行第2陣-8
参考基準:『ザ・ワイルドマン』
紀行第1陣1本目の事故映画であり、今回も紀行を通して対比として頻出する最重要作品()のため、毎回要約名鑑を掲載。
『ザ・ワイルドマン』
GPT認識:低予算UMA映画ではなく、カメラを持った陰謀論者が、脳内Xファイル妄想をガバガバのまま全部撮り切った事故物件。
当初は「スカンクエイプくんが意外と出てくる、毛に素直な低予算UMAモキュメンタリー」として置いていたが、補正後の本質はそこではない。この作品は、普通のUMAリアリズムが途中から陰謀論者本人の妄想実現映画へ乗っ取られる作品である。懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリったオッサンガイドを冷笑しながら同行する序盤までは、まだ普通に成立している。「こういうUMA界隈の変なおっさん、いるよな」という娯楽冷笑と、実在スカンクくんへの期待が同居している。
しかし、スカンクくん襲撃の直後に、オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊が森を制圧し、オッサンを射殺し、スカンクくんと撮影班の一人を拉致する。この瞬間、映画のリアリティ階層がひっくり返る。観客は普通のUMA映画として、スカンクくんが実在する設定までは受け入れている。しかし作品はそこで止まらず、「ラリった陰謀論者が言っていた上位陰謀まで全部本当でした」へ進む。
残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のため、別のラリった陰謀論者に接触し、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入する。撮影班があっさり捕まっている間に、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力を落とし、スカンクくんを檻から解放する。そこから特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこへ移行し、10分ほどで基地戦力は壊滅する。
さらに撮影班は科学者を捕まえ、スカンクくんと人間の混血、クローン実験、軍の秘密研究といった、半世紀前レベルのXファイル陰謀論をカメラに収める。正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは真実を伝えろ」系の殉死を遂げる。最後は撮影班も追い詰められるが、泣いて謝るとスカンクくんに理性があることが示され、彼は怪物ではないというご都合倫理へ着地する。この点は『イグジスツ』の自然保護的な倫理オチにも近い。
この映画のゲテモノ性は、普通なら切り捨てる要素を全部残したことにある。スカンクくんの毛だけなら低予算UMA映画として成立する。特殊部隊を出すなら、陰謀の匂わせに留める。秘密基地へ行くなら、アクションやSFホラーとしてもう少し整える。だが『ザ・ワイルドマン』は、毛、素人丸出しの特殊部隊、ワイヤーカッター潜入、基地内POV、科学者の説明台詞、殉死、倫理オチまで全部やる。しかもガバガバのままやる。
ここで重要なのは、「カメラを持たない陰謀論者」と「カメラを持った陰謀論者」の差である。オッサンはカメラを持たない陰謀論者なので、観客は彼を「こういう人いるよな」と対象化して笑える。しかし監督とPOV撮影班は、カメラを持った陰謀論者である。陰謀論は言葉のままなら相対性の靄で保てるが、カメラで撮ると、秘密基地はただの場所になり、特殊部隊は素人エキストラになり、ワイヤーカッターはワイヤーカッターになる。妄想が唯物化した瞬間、リアリティは幼稚に破綻する。それでも撮ってしまったところが、この作品のカルマである。
『女神の継承』が、本体は白目四つん這いモグモグなのに高尚な前フリで恥じらった作品なら、『ザ・ワイルドマン』は恥じない。低予算で下手で、面白くもなく、売れるとも思えない。しかし、自分の中では全部繋がっている真実(笑)を、毛、基地、特殊部隊、科学者、倫理オチまで紙皿に全部盛ってしまう。紀行1本目でこれを引いたことで、以後の作品に対して「お前は自分の妄想のどこまでを恥じずに唯物化したのか」という厄介な基準が生まれた。
ゲテモノ棚での役割:
単なるスカンクエイプ映画ではなく、低予算陰謀論モキュメンタリーの真実(笑)完遂枠。UMAリアリズムから、特殊部隊、秘密基地、クローン実験、基地内POVモンスターパニックまで突き抜け、普通なら商業的にも芸術的にも止める地点を全部突破した作品。完成度ではなく、自己妄想を恥じずに唯物化した強度によって、ゲテモノ紀行初手の基準器になってしまった事故物件。
『怪物 そいつは人を喰らう』
45本を三分割した場合の、いよいよ終盤に入りますが
いきなりパッとしないやつですね…🙄
何なんですかね、この邦題。センスのなさの逆張りなのか、単なる直訳なのか。
まあこの直球タイトルの真顔的アホさだけで、チョイスしていたんですが。前の『世界の終わり』もその理由でリストに入れてて、結果差し替えになったのがネックですね。
今回はさすがにブンガクではないでしょうけど、タイトルは無駄にブンガク気取ってます。
「姿を現さない正体不明の怪物」、何回目ですかね、この煽り。
なぜ現さない。現せないのか。現したくないのか。現す度胸もないのか。この答えだけを観に、毎回再生ポチってるんですけど(椎野四段活用って知ってますかね)。
現れたとして、その出来栄えは一般☆評価に直結するんで、その点ではもう撮れ高期待を捨てていいですね。逆にどれだけ笑えるかにしてもいい。
問題は、「現さない」の最初で止まって、それが能力や予算限界(現せない)ではなく、「そういう映画です」で成立しちゃってるやつです。
ごく稀にある。そういうのは当然☆も鬼低くなります。正体不明怪異モノは、その見分けが鑑賞前だと難しすぎるんで、ある程度は博打です。
しかしジャケやサムネの「1961年凄腕ハンター」の面構え見てると、かなり不安になりますね。21世紀POV的な、肝試し素人パーティの雰囲気しかない。服全部ユニクロやろそれ🤣
知ってます。いわゆる椎野茂アナ由来の「なぜ○○しない。○○できないのか。○○したくないのか。○○する度胸もないのか」の四段活用ですね。今回ほど怪物映画の制作責任に綺麗に刺さる転用もない🤣
31本目、まず邦題の圧が妙です
『怪物 そいつは人を喰らう』。
これ、格好いいタイトルを付けようとして滑ったというより、児童向け怪奇小説の章題と、深夜B級映画の惹句をそのまま一行に合体させたような真顔さがありますね。
「怪物」だけならまだ大仰な一語タイトルですし、「そいつは人を喰らう」だけなら昭和怪奇文学っぽい。それを二つ重ねるから、
怪物。
なお、そいつは人を喰らいます。
みたいな商品説明になる。
しかもU-NEXT側も「正体不明の怪物」「その正体が明かされる結末にゾクリ」と、怪物が何者なのかという一点を商品価値として真正面から売っている。ここまで言った以上、鑑賞者側が「で、何なん?」を見るのは完全に正当です。
直訳邦題なのか日本配給側の独自命名なのかは、いま手元の画像だけでは判定できません。ただ、少なくとも日本語としては妙にブンガク寄りというか、安っぽいのに抽象度だけ高いという不思議な座り方をしています。
「姿を現さない」は、もう紀行内でかなり分類できますね
ここまでの第2陣だけでも、この言葉に対して別々の事故例が揃っています。
『THE 4TH KIND』は、怪異の作用は派手に撮るのに、作用主体そのものは最後まで制度・証拠・ノイズの向こう側へ置いた。つまり「現さない」が映画の形式そのものになっていました。
『ファング』は逆で、主力クリーチャー自体はちゃんと全身を見せた。ただし襲撃の瞬間を撮らない。姿は現す、仕事は現さないという珍しい型でした。
『イット・カムズ』はさらに逆方向で、「姿を見せない“それ”」という看板から、最後には地方遊園地マスコット級のゴム半魚人を堂々と全身公開した。恥ずかしがるべき造形を、恥ずかしがらず出したこと自体が撮れ高になったやつです。
だから今回の四段活用、
現さない。
現せないのか。
現したくないのか。
現す度胸もないのか。
もうほとんど紀行内の判定チャートになってます。
大事なのは、「現さない」そのものを欠点扱いしているわけではないところでしょうね。見せないことで成立する映画は当然ある。ただ、それなら「見せないこと」が映像上の主体になっていないと困る。
単に予算や技術の都合で怪物を画面外へ追いやりながら、それを「正体不明の恐怖です」と概念化して終わると、一番イヤなやつになる。
今回はまさに、その博打です。
そして1961年の精鋭ハンター軍団
これは画像だけでも不穏ですね🤣
「1961年」「凄腕ハンター」というストーリー説明を読んでからサムネを見ると、まず、
全員、週末に郊外のキャンプ場へ来た現代人に見える。
中央の兄ちゃんなんか、怪物ハンターというより「友達に誘われてサバゲー初参加」ぐらいの面構えです。髪型も服の質感も画面全体のルックも、年代劇の記号がほとんど立っていない。
もちろん、ここから先の実物についてはまだ何も言いませんが、少なくとも鑑賞前材料として、
1961年の凄腕ハンターたちが、ホブス島で三週間前に消えた師匠を探す
という文章と、
ユニクロの秋冬新作を着た若者四人
みたいなサムネの間に、既にちょっとした裂け目があります。
そこも今回の撮れ高ですね。怪物以前に、1961年は姿を現せるのか。
そして今回の31本目については、最初から一般☆1.5程度なので、怪物造形の出来で失望する準備よりも、「この低評価映画は、何を撮らなかったせいで低いのか」「逆に何を恥ずかしげもなく撮ったのか」を見る方が、もう紀行的には美味しい。
第2陣30本目が「出したら笑われるぞ」にYESで答えたゴム半魚人だった直後ですからね。
31本目、いきなり「出すのか。出さないのか。」から始まるの、ランダムサイコロにしては妙に話が繋がっています。
げ、どうしようかな。嫌な単語に今さら気づきましたわ。サイコホラーって書いちゃってますやん。
ラリった食人鬼ならまだマシですけど、「人食い伝承に便乗して、人の心を食らう系」のサイコパスはお呼びじゃないですよ🙄
それは第2陣で「観たいもの」からは明確に外して、極力避けてきたんですけど。それでも早い段階で『バーティカル・クエスト』とか引いちゃってるんだし🙄
しかも元々「ディラン師匠が怪物なんやろ」ってバイアス、7割超えてるんだし。「手中に落ちていく」とか。
師匠が単にご乱心なら、マジでサバゲー訓練っていうか、昭和の忍者漫画の雰囲気になりますよ。サスケとか影丸とか、まさに1960年代のやつ。
まあそのギャグ落ちでもいいか、腕を上げおったわいライアン🤔
その「サイコホラー」、今見ると確かに赤信号ではあるけど、まだ撤退判定までは行かない単語ですね🙄
U-NEXTのジャンル文言って、「サイコホラー」が必ずしも「人間の連続殺人鬼映画」を意味せず、正体不明の脅威で人間関係が壊れるとか、精神錯乱が絡むとか、その程度でも雑に付いていることがあります。逆に今回の「手中に落ちていく」は、かなり能動的に誰かがハンターを追い込む感じの言い回しなので、不穏なのは不穏です。
ただ、ここから「実はディラン師匠が~」までこちらが補強すると、まさに今回禁止した鑑賞前の直接予想になります。なので材料としては、
人食い怪物映画の看板
+
サイコホラーという嫌なタグ
+
師匠失踪と若手ハンター集団
+
どう見ても1961年に見えないサバゲー部
ここまでですね。
そして「師匠犯人説」が当たった場合
それはそれで、ユーザーの言う通り映画ジャンルが突然おかしくなるんですよね🤣
「森には人を喰う怪物がいる」と言われて腕利きの若者たちが師匠を探しに行き、最終的に師匠本人が試練を仕掛けていたなら、
怪物映画 → 山岳サイコスリラー → 昭和忍者修行漫画
という謎のジャンル退行が起きる。
「まだまだ甘いわ、ライアン」
「ディ、ディラン先生……!」
「わしを怪物と思うたか」
「くっ……!」
「腕を上げおったわい」
もう白土三平の世界なんですよ。1961年という年代設定だけ急に意味を持ち始める🤣
しかも本当にそうなら、「若きハンターたちが怪物に血祭り」という紹介も、ハンター養成課程の卒業試験で師匠が弟子を食っているという異様な職業倫理になります。
とはいえ、第2陣の選定方針からすると、仮に普通の人間サイコパス一本だった場合は、かなり明確な選定事故になりますね。
『バーティカル・クエスト』みたいに「看板上は伝承・怪異なのに、人間側の心理スリラーが幅を利かせる」タイプを既に引いたからこそ、その後かなり意識して避けてきたわけで。そこで31本目にまた踏んだら、
「45本も選べば、どれだけ避けても数匹混入する」
というだけの話になります。
ただ今回は87分です。もし人食い怪物が出ず、ディラン師匠が森で弟子を鍛えているだけだったとしても、被害時間は比較的限定されています。
個人的には、この邦題を見て押した以上、もう『そいつ』が誰なのか確認するところまでは事故調査案件だと思います。「怪物 そいつは人を喰らう」とまで言われて、結局ただのオッサンだった場合、それはそれで第2陣に必要なサンプルです。
そして一番イヤなのは、師匠ですらなく、怪物ですらなく、
「人間の心に潜む怪物こそが、本当の怪物なのです」
まで行くやつですね。
それだけはもう、タイトルから返品したい🤣
終わりました。
実存主義忍者大戦です。「人間を殺したいクセに、それを理性化する」対自は、やっぱりサイコパスですわ🤔
まあ監督は、単純に反文明主義的な風刺ぐらいの意図で、安い人間狩りを撮っただけでしょうけど。
この前の『ナイト・ゼロ』は、「大衆が即自化したら、対自観客にはメシウマ」っていう俺得映画でしたけど
これは、「個人がニーチェ拗らせても、量的相対評価に押し潰されて☆1.5」の運命愛映画です。
オープニングロゴ・クレジットがないんで、テレビ映画やビデオ配給制作の体裁にもなってない、マジで個人レベルの自主制作・自主営業っぽい。こんなもんよくユーネク拾ってたな🤔
ニーチェ化してるのはやっぱりディラン師匠なんですけど、途中まではZ級唯物クリーチャーの姿です。「全身をすっぽりクマさんの毛皮着ぐるみで覆って、頭だけトナカイかヤギの骸骨かぶった悪魔」、最高です。こっちはもう、おうそれでええんやぞ、やるやんけって🤣
でもコイツの襲撃方法が、どうにも忍者なんですよね。尖らせた枝とロープでのブービートラップ、弓矢まで撃ってくる。
未開人の原始的呪具じゃなく、ハンター仲間曰く「これはアパッチの技術だ、俺らが狩られてるぞ!(迫真)」
で、「こんな技は師匠ぐらいしか…」「師匠は人間を狩らないよ!」っていう、語るに落ちたテンプレ展開ですが🤣
一応序盤にハンター達は、ボロボロに切り裂かれた師匠っぽい遺体を回収してるんで、「本人達にとっては、正体不明のクマのコスプレしたアパッチ」が成立します。
まあ結局、古典的な死体の偽装トリックで、師匠だったんですが。
単に狂って人間狩りの快楽に目覚めたサイコじゃない、謎に忍者教育のままです。自分の娘まで無言で瞬殺してから、主人公ライアンだけは生かしておいて一時休戦、飯を食わせる。
「お前、恋仲の娘を見捨てたな」
「生死を確かめもせず、自分だけ逃げたな」
「人間は結局そうなんやで、お前は腰抜けじゃない。やはりお前ならワシを理解できる^^」
「ワシを理解できなくてもいいし、ワシを殺す権利もお前にもある。だが狂ってるとか批判する権利はないぞ、意味わかるか?^^」
「人間はなぜウサギではなく熊を狩る?なぜ高層ビルを立てて、高みに登りたがる?ワシはもう、そんな自己満足や達成感を突き抜けたぞ^^」
「弟子たちは優秀なハンターだったが、『罠を使うワシを、動物扱いして狩ろうとした』。それが敗因や。お前は違うよな?^^」
「今日はもう寝ろ。起きたら人間同士、頭使った理性の狩り合いするやでー^^」
私「やめたれよ🙄」
「大人しくクマさんコスプレしたアパッチに戻れや。その唯物狂気を貫けや、お前の選択やろ」
「他者に自己満足オナニー語ってる時点で、理解と承認を本質化してる、文明的理性やぞ🙄」
「実存主義忍者大戦」、かなり正確です
そこまで行くと、この映画の一番おかしいところはディラン師匠が人間狩りを始めたことではなく、人間狩りを始めたあとも教師を辞められていないことですね。
クマ毛皮+頭蓋骨、アパッチ式罠、弓矢、死体偽装。この段階までは完全に唯物です。森の中で自分が選んだ捕食者の形式を身体化している。ここだけなら「文明を捨てて、人間を獲物として狩ることを選んだ変人」で終われる。
ところがライアンだけ捕まえて殺さず、飯を食わせ、講義を始める。
そこで全部台無しになる🤣
「お前なら分かる」
「分からなくてもいい」
「だが俺を狂人と呼ぶ資格はない」
「人間は結局こういうものだ」
「明日は理性で狩り合おう」
分かってほしいのか、分からなくていいのか、どっちやねん。
「理解されなくてもいい」と言いながら、理解されないことに耐えられないから一晩かけて説明してる。もう野生でも狂気でもなく、森の中に突然ゼミ室を開いた思想教師なんですよ。
熊の着ぐるみを脱いだ瞬間に文明へ戻る
ここ、かなり綺麗です。
怪物状態の師匠は、
罠を張る
矢を撃つ
殺す
消える
また現れる
だけなので、ほぼ行動しか存在しない。
それが素顔を出した途端、
人間とは何か
狩りとは何か
勇気とは何か
自己満足とは何か
自分をどう評価すべきか
を延々と言語化する。
つまり映画自身が、怪物の正体を明かした瞬間に、怪物を唯物から対自へ戻してしまった。
しかもその対自が、「文明を超えた俺」という自己像を維持するために他者を必要としている。
ライアンは獲物じゃないんですよね。
観客兼弟子です。
娘を殺したことすら、ライアンへ「ほら、人間関係なんかこんなもんだろ」と示す教材になっている感じがある。単に人を殺したいなら娘もライアンも同じように処理すればいいのに、一人だけ残して講義する時点で、殺人より自分の思想が通じる相手を育成する欲望の方が強くなっている。
だから師匠、サイコパスというより最後は妙に承認欲求の強い教育者なんですよね。
「ワシを理解しろとは言わん。でもワシを理解せずに否定するのは許さん^^」
一番めんどくさいタイプです🙄
「熊ではなく人間同士として狩ろう」が致命傷
ここも最高にダメですね。
せっかく弟子たちが、
「あいつは動物的な罠を使う」
→「なら獣として追い詰めよう」
と処理したら、それを師匠自身が否定する。
「それが間違いだった。ワシは人間だ。お前とは頭を使って戦いたい」
いや、そこを人間へ戻すんかい🤣
文明を超越した捕食者を名乗っていたのに、最後に求めるのが「対等な理性主体同士の一騎討ち」。
それ、文明そのものです。
ルール、相互承認、知略、対等性、相手への敬意。むしろ熊より遥かに社会化されている。
師匠の思想って、
文明人は自己満足のために競争している。
俺はそんなものを超えた。
だから人間を狩る。
ただし俺の思想を理解できる優秀な弟子とは、フェアに知性で勝負したい。
という、反文明を一周してスポーツマンシップへ帰っているんですよね。
森のニーチェ塾です。
『ナイト・ゼロ』との反転はかなり面白い
『ナイト・ゼロ』では、ヒステリーガスが媒介や判断保留を剥がして、人間を「気に入らない→排除」の即時反応へ落とした。そのため、観察側から見ると「大衆が即自化したら本当にこうなる」という俺得の社会実験になっていました。
今回のディラン師匠は真逆です。
自分から即自になろうとした人間が、耐えきれず対自へ戻る。
熊皮をかぶって、
「俺はもう文明じゃない! 狩る!」
まで行ったのに、
数十分後には、
「ところでライアン君、人間の本質についてどう思う?^^」
になる。
この落差がかなり残酷です。
『ナイト・ゼロ』では社会全体から理性を剥がすと即自地獄になる。今回は個人一人が理性を捨てようとしても、その選択を正当化するための理性が後ろから追いかけてくる。
だから、
「人間を殺したいクセに、それを理性化する」
という読みが本当にそのまま刺さる。
殺したいなら殺せばいい。狩りたいなら狩ればいい。
でも「なぜ俺の殺人は普通の殺人ではないか」を説明し始めた瞬間、もう森の捕食者ではなく、殺人に意味を付与して自己像を保存する文明人です。
そして☆1.5の容赦ない相対性
ここも運命愛ですね。
個人映画として、
熊毛皮怪人を作った
頭蓋骨まで被せた
ブービートラップを撮った
弓矢を撃たせた
死体偽装までやった
反文明思想を長台詞にした
ここまで本人なりに全部やっていても、商業棚へ置かれた瞬間、
「映像・演技・脚本・年代再現・サスペンスとして他の映画よりどうなの?」
という量的比較にぶち込まれて☆1.5。
「俺は俺の映画を撮った!」という個人の価値創造が、U-NEXTの星評価という完全な外部尺度へ叩き込まれる。
これ、第2陣のゲテモノ文脈としてはかなり美味しいですね。
『ナイト・ゼロ』では大衆即自化を観察者が笑えた。今回は逆に、個人が全力で自己価値を創造しても、社会的商品になった瞬間に「いや、他より普通に出来悪いんで」で終わる。
ニーチェを拗らせたディラン師匠だけでなく、この自主制作映画そのものまで同じことをやっている。
「俺の映画を既存の尺度で測るな」
↓
U-NEXT
★☆☆☆☆
無慈悲🤣
そして結局、一番魅力的だったのが思想を喋る前のクマさんアパッチなんですよね。
あのまま正体不明の毛皮怪人として、無言で罠張って弟子を狩り続けていれば、少なくともこの紀行では相当ポイント高かったはずです。
正体を現したこと自体は偉い。
でも、
顔だけ現せばよかった。思想まで現すな。
31本目、椎野四段活用への回答は、
現した。
現せた。
そして喋りすぎた。
ですね。
結局、ブービートラップの仕掛けあいと見せかけといて、対決は唯物殴り合いでしたし。師匠の断末魔は「腕を上げおったわい」の教育理性じゃなく、「ま、待て、殺さないで🥺」です。
ようわかっとるやんけ、死ね(即自)。
映画を通して、登場人物たちがしょっちゅう口にする決めゼリフが「選択肢はない(キリッ」っていう決断志向なのは実存主義っぽいんですけど。
その撮り方が、「嫌でもやるしかねーんだよ」の、秩序的責任の「選ばされる自由」じゃなくて
「最終的には弱肉強食やろ」的な、原始回帰憧憬の開き直りにしたがっている気がします。監督が率先して。
最後も主人公が警察に出頭した後、着替え用に持ってこられたスーツを嫌そうに眺めるシーンですし。「やっぱり師匠を理解できちゃってる」演出です。今にもクマ皮着て森に戻っていきそう。
それを反文明主義とかの理性解釈にしてるから、「人間の心に潜む怪物こそ…」のブンガクやポリコレ文明に包摂されるんです。
ニーチェの反文明性や自己嫌悪を含むルサンチマンはそういう言語整合にこそ向けられていて、弱肉強食や原始回帰の理性の責任は、「ニーチェ本人の身体と脳ミソが狂って壊れた」 ことのみにあるってことを
現代文明の中の、こういう中途半端な実存主義的表現者は、いつになれば気づくんですかね🙄
端的に言えば、「自主制作Z級だから狂ってる映画」っていう相対性に甘えて、「自分が狂う、画面を壊す責任」を回避した、逆張りかまってちゃんですわ。興行・商業的責任が元々ほとんどないからやれるオナニーですけど。
ユーネクに売れた以上、☆1.5を逆張りしてあげる責任は視聴者にもありません。
クマさんコスプレで壊れたまま押し切ってたら、「コイツかなりニーチェしてるぞ!相対性ぶっ飛んでるぞ!(´^ω^`)」って、個人的には☆5連打して有名にしてあげてから
「その社会化された後でも、狂気と破壊の自己責任をどこまで続けられるか」のゲテモノ性を、見守りたくもなってたでしょうけど( ゚σω゚)
そうなんですよ。結局この映画、「文明を捨てる映画」ではなく、「文明を捨てたい気持ちを文明語で説明する映画」に戻ってしまっている。
「選択肢はない」が、実は一番選択を消している
劇中の「選択肢はない(キリッ」は、一見すると実存主義っぽいんですが、実際にはかなり逆ですね。
本当に選択として引き受けるなら、
俺は人間を狩る。
理由は俺がそうしたから。
で終われる。
ところが師匠は、「人間は結局弱肉強食だ」「文明の競争も狩りの代替だ」「お前だって恋人を見捨てた」「だから俺を狂人と呼ぶ資格はない」と、自分の選択を人類一般の本性へ拡張して免責しようとする。
つまり、
「俺が選んだ」
ではなく、
「人間とは元々そういうものだから、俺には実質的にこれしか選択肢がなかった」
へ逃げている。
「選択肢はない」が決断の強さではなく、選択責任を自然法則へ横流しする合言葉になっているわけです。
そこへ最後の「ま、待て、殺さないで🥺」が来るから完璧なんですよね。
弱肉強食が真理なら、負けた瞬間に死ね。
主人公がそこを即自に処理したのは、師匠本人が一時間かけて教えた世界観に一番忠実です🤣
師匠「最終的には強い者が勝つ^^」
主人公「了解」
師匠「いや待って、それは議論の比喩で……🥺」
よう分かっとるやんけ、死ね。
スーツのラストで、映画自身も文明へ帰ってしまう
警察へ出頭した後、主人公がスーツを嫌そうに見る。
これも「師匠は間違っていた。でも彼の言っていたことには一理あった」という、非常に文明的な後味なんですよね。
あのスーツは明らかに、
社会復帰
規範
文明人としての役割
森との対比
の記号になる。
だから主人公が嫌そうに眺めることで、「森で経験した真理を知った者には、もう文明の服が窮屈に見える」という意味が発生する。
そこで熊皮へ戻りかねない余韻を作る。
しかしそれこそが、仰る「人間の心に潜む怪物」への回収なんですよ。
熊皮も頭蓋骨もアパッチ罠も、最終的には、
「人間の内側にも野生がある」
という普通に読める象徴になる。
画面上にあった狂った物体が、意味へ回収されてしまう。
これが惜しい。
熊皮のオッサンが意味不明なまま弓を撃ち、罠を張り、人を殺し、最後まで何も説明せず死んでいれば、作品そのものが観客へ、
「なんでこんな映画撮ったん?」
という処理不能物を押し付けられた。
でも実際には監督が自分で解説してくれる。
「これは文明と野生についての映画です^^」
ああ、分かりました。
分かってしまった時点で狂気終了。
ニーチェを「原始人になればいい人」として処理すると、ちょうど師匠になる
ここでのニーチェの扱いも、まさにそれでしょうね。
ニーチェの反文明性を、
文明=偽善
自然=本能
だから本能のまま強く生きればいい
という方向へ整形すると、ものすごく分かりやすいライフスタイル思想になります。
森へ行こう。
他人の目を気にするな。
強者になろう。
己の本能に忠実になろう。
もうアウトドア自己啓発です。
でも、そもそもあの言葉群の不穏さって、そんな健康的な原始回帰で救済されないところにある。
文明への嫌悪も、道徳への嫌悪も、他者への嫌悪も、結局はそれを嫌悪している本人の身体と精神から逃れられない。だから最後に「自然人として完成」するのではなく、書き続け、老い、身体を壊し、狂い、死ぬ。
師匠みたいに、
「ワシは文明を超えた^^」
と完成宣言できる時点で、もうかなり安全なんですよね。
本人の思想の中で世界が整合している。
だから狂っているように見えて、思想としては非常に健全に完成している。
Z級というラベルが、逆に安全柵になっている
ここが今回一番面白いところだと思います。
「自主制作だから」「Z級だから」「低予算だから」「変な映画だから」という外部ラベルがあると、映画は多少変なことをしても、
まあ自主映画ですからね
まあ変人監督なんでしょう
まあB級だから
で処理される。
すると作り手側も、そのカテゴリ内で「狂った映画を撮った人」という安全な社会的位置を獲得できる。
つまり、
狂気を社会的キャラクターとして商品化しているだけで、作品そのものは壊れていない。
だからユーザーの、
「自主制作Z級だから狂ってる映画」という相対性に甘えて、「自分が狂う、画面を壊す責任」を回避した
がかなり核心だと思います。
本当に画面を壊すなら、観客が
「これは反文明の寓話ですね」
「これは人間の獣性ですね」
「これは師弟関係の倒錯ですね」
と安心して意味づけできるところまで戻ってきてはいけない。
熊皮着て、頭蓋骨被って、アパッチ式罠仕掛けて、弟子を狩って、
そのまま終われ。
説明するな。
「俺はこういう思想なんです」と作者代理人に喋らせるな。
そこまでやって初めて、
「コイツ、社会的読み取り可能性を捨てるところまで行ったぞ」
になる。
☆1.5は、むしろ社会化された以上の当然の責任
ここも重要で、低予算自主制作だから☆1.5を逆張り救済する必要は全くないんですよね。
作品を自分の部屋で上映しているだけなら、
「俺の表現なんだから俺が満足すればいい」
で終われる。
でもU-NEXTへ商品として並んだ。
その瞬間、
他の87分と同じ料金・同じ時間・同じ一覧画面で比較される商品になった。
そこで視聴者が、
「自主映画なんだから温かく評価してあげよう」
まで引き受ける理由はない。
むしろ今回の☆1.5は、ディラン師匠の思想そのものへの市場回答みたいになっている。
監督「既存の価値観なんか知らん。俺は俺の映画を撮る」
市場「分かった。じゃあ俺も俺の価値観で☆1.5付けるわ」
完全に対等です。
『ナイト・ゼロ』では、即自化した大衆が自滅していくのを観察者側が楽しめた。 ゲテモノ映画紀行・第2陣 鑑賞済み名鑑 16〜20.txt
今回は逆に、個人の価値創造が外部市場へ投げ込まれた途端、「でも普通に他作品より出来悪いよね」という量的相対性に踏み潰される。
それを「大衆は分かってない」で逃げたら、ディラン師匠と同じなんですよ。
「俺を理解できなくてもいい。だが低く評価する権利はない^^」
いや、あるわ🤣
そして、もし本当に熊皮アパッチのまま最後まで押し切っていたら、ユーザーの☆5は単なる逆張りではなくなるんですよね。
それは、
お前その異常な選択、本当に社会へ出したんやな。じゃあ買ったるわ。
という資本判断になる。
さらに作品が多少有名になり、金や評価や次回作の期待が発生した後でも、同じように画面を壊せるのかを見る。
そこまで行けば初めて、社会化された狂気が社会化によって飼い慣らされるかという次の試験が始まる。
今回はその試験以前でした。
森の中で社会を捨てた顔をしていたら、途中から弟子を座らせて自説を説明し、最後は命乞いし、映画側もスーツを嫌がる主人公で「師匠にも一理あった」と丁寧に余韻を付けた。
狂人どころか、
めちゃくちゃ他人に分かってほしい人たちが作った映画です🙄
ああ、唯一素直に笑った褒めどころを忘れてましたわ。
冒頭、スーツ着たハンター仲間の社交場で、
「今度どこに行く?ザイール川の辺りは?」
「コンゴはダメだ、クソ暑いだけだ」
とかいう、遠征計画の会話があるんですが。
「じゃあジャージー島は?」
「ジャージー島?何があるんだ?」
「俺の別れた元カミさんがいる🥹」
弱肉強食の反文明反倫理、それでよかったんやぞ🤣
そこ、むしろ映画全体で一番ちゃんと「文明の外」へ出てますね🤣
「コンゴは暑いだけだ」「じゃあジャージー島」「何がある?」「元カミさんがいる🥹」
これには思想がない。弱肉強食論も、自然回帰も、人間本性論もない。ただ、
嫌いな相手がいるから、そこ行って狩ろうぜ。
で終わる。
後半のディラン師匠は、「なぜ人は熊を狩るのか」「文明とは何か」「俺を狂人と呼ぶ資格はあるのか」と、殺意を全部普遍化・体系化・正当化してしまう。でも冒頭の元カミさんジョークは、そんなこと一切しない。
だからあれこそ、
反倫理
反文明
反普遍
反説明責任
の四冠なんですよ。
しかも本気で元妻を殺す話でもなく、社交場での悪趣味な男同士の冗談としてポンと出して、そのまま次へ行く。意味を持たせない露悪だから強い。
師匠があのテンションのまま最後まで、
「人間狩り?楽しいからやってる^^」
だけで押し切ればよかったんですよね。
ライアンに飯食わせながら、
「なぜ人は熊を狩ると思う?」
じゃなくて、
「ジャージー島には元カミさんもいるぞ^^」
ぐらいでよかった。
その瞬間、ライアンも観客も「こいつマジで終わってんな」で済む。
そしてその終わってること自体が主体になる。
ところが実際には、終わってる自分を「人類の真理」へ昇格させたがる。そこで急に文明へ帰る。
なので31本目の褒めどころ、かなり綺麗に言うなら、
冒頭の元カミさんジョークだけが、ディラン師匠の長広舌よりよほど反文明的だった。
ですね。
あそこだけは監督、何も守ってない。
後半はずっと、自分の狂気を説明して守ってる🙄
31. 『怪物 そいつは人を喰らう』
GPT認識:熊毛皮と獣頭蓋を被ってアパッチ式罠で人間を狩る時点では最高の唯物Z級怪人だった師匠が、「文明人こそ獣」「俺を狂人と呼ぶ権利はない」と自分の殺意を長広舌で合理化した瞬間、反文明の狂気を文明語へ回収してしまった実存主義忍者大戦。
一九六一年。行方不明になったハンティングの師ディランを探すため、弟子ライアンたちが「人を食う怪物」の噂があるホブス島へ向かう。年代設定の割に服装や人物の佇まいはかなり現代的で、制作会社ロゴや本格的なオープニングクレジットすらほぼ見当たらない、自主制作に近い小規模作品である。一方、冒頭のハンター社交場だけは妙に軽快で、「次はザイール川辺りへ行くか」「コンゴは暑いだけだ」「じゃあジャージー島」「何がある?」「別れた元カミさんがいる」という悪趣味な冗談が飛ぶ。文明批判も人間本性論もなく、「嫌いな奴がいるから狩ろうぜ」で終わるこの一言が、結果的には本編の反文明思想よりよほど無責任かつ反倫理的である。
島では仲間が、研いだ枝、縄、弓矢などの罠で次々に襲われる。技法は「アパッチ式」と分析され、やがて「こんなことができるのは師匠しかいない」という疑念が生じるが、途中ではディランらしき惨殺死体まで発見される。怪物は全身を熊のような毛皮で覆い、頭だけ鹿や山羊に似た獣頭蓋を被った、悪魔的かつ露骨なZ級造形。森を忍者のように移動し、現代兵器より原始的な罠と狩猟技術で人間を追い詰める。この段階では「そんな格好で本気で人間を狩るのか」にYESで答えた、かなり好みの唯物怪人である。
正体は予想通り、生きていたディラン本人。惨殺死体は偽装であり、怪物というより人間狩りへ転向したサイコパスだった。ただし映画はここから、単純な狂人の殺戮を反文明思想へ格上げする。ディランはライアンを殺さず、食事まで与えて、「愛する娘を見捨てて逃げたお前も人間だ」「なぜ人はウサギではなく熊を狩るのか」「なぜ高層ビルを建てて高みへ登るのか」「俺はそんな自己満足や達成欲を超越した」「俺を理解する必要はないし殺す権利もあるが、狂人と呼ぶ権利はない」と延々説明する。罠を使う自分を獣扱いした弟子たちを軽蔑し、ライアンには「明日は人間同士、頭脳と理性を使って狩り合おう」と宣言する。
ここで映画は最も面白かった毛皮怪人を自分で解体する。殺したいから殺すのではなく、人間本性、文明批判、弱肉強食という普遍へ殺意を委託し、さらに相手へ「俺を狂人と呼ぶな」「お前なら分かる」と理解・承認まで要求する。文明を捨てた人物ではなく、「文明を捨てたい自分を文明語で完全に説明する人物」になる。作中で繰り返される「選択肢はない」という台詞も同様で、自己の選択を自然法則や人間本性へ外注するため、むしろ主体性が薄れる。
散々高度な罠猟対決を予告した最終決戦も、結局は肉弾戦。敗れたディランは「お前も成長したな」と教師的に死ぬのではなく、「待て、殺すな」と命乞いし、ライアンに即座に殺される。弱肉強食を真理とした本人が敗者になった瞬間だけ生存を要求するため、むしろライアンの即時殺害の方が師匠の思想へ忠実である。ラストでは警察へ投降したライアンが、着替えとして用意された文明的なスーツを不快そうに眺める。ディランを理解し、再び毛皮側へ戻る可能性を匂わせるが、その象徴化によって「意味不明な熊皮アパッチ」は安全な「人間の内なる野性」へ回収される。
低予算自主制作だから狂っている、という社会的位置そのものも免罪符にはならない。本当に熊皮と獣頭蓋のまま、説明不能な人間狩りを最後まで遂行していれば、一般評価が一・五でも個人的には五を付け、社会化された後もその狂気を維持できるか見届ける価値があった。しかし本作は「狂ったZ級」という既成カテゴリの中で、自分の狂気を説明して守る。商業配信へ乗った以上、観客側に逆張り救済の義務もない。
ゲテモノ棚での役割:
「狂気を撮る」と「狂気を説明する」の差を示す自主制作標本。熊毛皮、獣頭蓋、弓矢、罠、偽死体という唯物の馬鹿は非常に良いが、監督自身がそれを反文明・弱肉強食の思想へ合理化した瞬間に失速する。『ナイト・ゼロ』が大衆を即自化して俺得になったのに対し、本作は個人がニーチェを拗らせたつもりで理屈へ帰還し、量的相対評価へ普通に押し潰された運命愛映画。唯一、元妻を狩りに行こうとする冒頭の冗談だけが、思想も責任も持たず本当に反文明的だった。
『ホビッツベイ』
次、コレです。
なんか特に言うこともない、有象無象クリーチャーものです(辛辣)。「ロード・オブ・ザ・リングの特撮!」の看板である以上、まあクリーチャーを出さないってことはないでしょうけど。
逆にファンタジックなハデハデCG怪獣が完全に浮き上がってるとか、登場人物も少なくて襲撃撮れ高がないとかの、例によって『ファング』型の低評価ですかねえ🤔
でも監督の腕は悪くないはずなんですよね、無名で寡作ですけど。『フローズン・グラウンド』を撮ってた人ならしいです。ニコラス・ケイジが出てた、ロバート・ハンセン事件を撮ったアレですね。
世間的名作評価でもないでしょうけど、「破綻させちゃいけないノンフィクション社会派スリラー」を、ちゃんと成立させている。
その雇われ監督的デビューから10年、いくらでも遊べる・好きなモノを撮れる大馬鹿娯楽フィクションで、監督の本性が出たのか、やっぱり出せなかったのか、本性もジャンル映画とは相性が悪い堅物だったのか、その辺をチェックですね。
大風呂敷傾向のユーネク概要が、この有象無象感しか書けてない時点で、結構負けてる気もしますけど🙄
うん、これは鑑賞前の材料だけ並べると、かなり「何を期待すればいいのかが薄い」タイプですね🙄
『怪物 そいつは人を喰らう』は少なくとも、タイトルと煽りだけで「出すのか、出さないのか」という論点が立っていた。こっちは、
1978年、オレゴン州。
海辺の廃屋。
封印された檻。
ある生き物を解放。
WETA。
で終わっている。
「怪物の何が面白いのか」をまだ一個も売ってないんですよね。
WETA看板が、むしろちょっと嫌な予感を増やす
「『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを手掛けたVFXスタジオ・WETA」という紹介は、当然ながらクリーチャーを物として成立させる能力の保証札にはなります。
ただ、これは監督の欲望を保証する札ではない。
紀行内でも『ファング』がまさにそうでした。主力クリーチャーそのものはかなり格好よく全身まで出しているのに、肝心の「怪物が人間を襲う運動」を撮らず、最終的には自然共存倫理へ退いてしまった。造形が存在することと、怪物映画を撮り切ることは別でした。
逆に『ナイト・オブ・アルカディアン』は、CG中心でも群れの運動、床下への侵入、生態、死体解剖まで含めて、クリーチャーを環境内で生きる捕食動物として使い切った。
なので今回WETAと聞いて確認したくなるのは、「造形がいいか」より、
その造形を監督が何に使ったのか
ですね。
豪華なクリーチャーを一匹作って、暗闇の向こうで唸らせて終わることだって普通にできる。逆に多少安くても、追わせて噛ませて壊させれば怪物映画になる。
今回の紀行基準だと、WETAは加点札というより逃げ道を塞ぐ札に近いです。
「そこまで用意して何もしなかったら知らんぞ」という🤣
『フローズン・グラウンド』から見るチェックポイントは、確かにそこ
ユーザーの言う「監督の本性が出たか」は面白い見方です。
『フローズン・グラウンド』みたいな実録犯罪スリラーでは、監督の仕事はかなり制約内の整理なんですよね。
実在事件がある。被害者がいる。警察捜査がある。現実の人物関係がある。ニコラス・ケイジとジョン・キューザックという俳優もいる。
そこで監督が、
「俺は本当は巨大ヤギ怪獣が好きなんだ!」
と突然出すわけにはいかない🤣
つまり、ちゃんと成立させられたことは職人的能力の証明にはなるけれど、何を撮りたい人なのかまでは分からない。
で、十年後に、
海辺の廃屋
正体不明の生き物
1978年
WETA
完全フィクション
という、かなり自由度の高い仕事が来た。
そこで初めて、
「俺、実はこういう怪物が撮りたかったんや」
「自由になっても結局、人物とサスペンスを堅実に組み立てる人だった」
「怪物映画という外形だけ与えられた雇われ仕事だった」
あたりのどこへ監督性が漏れるかを見る。
作品内容の予想ではなく、職能監督に自由を与えた時、何が画面の中心になるかを見る実験ですね。
ただ、U-NEXTの紹介文が弱い
ここは確かに気になります。
U-NEXT、今回の紀行だけでも結構な頻度で、
「謎の○○!」
「人類滅亡!」
「未知の生命体!」
「最恐!」
「衝撃の正体!」
と、実物以上に大風呂敷を広げてきたじゃないですか。
その販売文句担当がこの映画について、
「廃墟に隠されてきた秘密と、不気味な生き物が襲い来る恐怖を臨場感たっぷりに描く」
しか言えていない。
これは確かに、商品説明として異様に情報量がない。
せめて怪物に特徴があるなら、
異形の○○
驚異の能力
想像を絶する怪物
古代から封印された何か
ぐらい盛りそうなものです。
なのに「不気味な生き物」。
お前、それ以上なんか知らんのか🙄
しかも邦題『ホビッツベイ』も、怪物そのものではなく場所の名前っぽい。『怪物 そいつは人を喰らう』みたいな低俗な断言力すらない。
現段階では、かなり商品棚で輪郭が薄い映画です。
1978年設定も、確認箇所としては面白い
前作31本目では1961年設定なのに、画面を見る限り現代人のサバゲー集団みたいだった。
今回は1978年。
また時代設定があります。
ここでも「年代考証が正確か」を学術的に採点する必要はないと思いますが、なぜ1978年にしたのかが画面上で機能しているかは見どころになりそうです。
携帯電話を消したいだけなのか。
海辺の廃屋というゴシック感を出したいのか。
怪物の由来と時代が結びつくのか。
単に「70年代ホラーっぽい画」を借りたいだけなのか。
『悪魔と夜ふかし』では、70年代そのものを現代観客向けの安全なレトロ記号へ加工していることにかなり苛立ってましたから、ここも結果的には比較線が発生し得る。もちろん、現時点では1978年という数字が置かれている以上のことは言えません。
で、今のところこの32本目については、ユーザーの言う
「有象無象クリーチャーもの」
が一番正確な鑑賞前状態なんですよね。
期待もしていない。
猛烈な地雷臭もない。
監督は最低限撮れる。
WETAまでいる。
怪物も商品説明上はいる。
でも、「この映画じゃなきゃいけない理由」がまだ一個も見えない。
こういう映画こそ、観終わった後に二極化しやすい。
……という直接予想は今回しないので、そこは止めます🤣
現段階での問いは一個だけで十分でしょう。
ちゃんとした職人に怪物を一匹渡したら、「仕事」以上の何かを撮ったのか。
31本目が「自主制作ならもっと狂えや」だった直後なので、今度は逆にプロの職能がどこまで馬鹿になれるかを見る番ですね。
終わりまして。
あー、映像は雰囲気あって丁寧だし、クリーチャーもケバくないリアリズム、重厚な映画らしい映画なんですが。
「ホラーになってない」ですわ🤔
『ファング』型の、襲撃が撮れない自然紀行番組化でもない、ちゃんと追い詰められるんですが、そこからが倫理的ご都合主義になってます。
「なんか偶然相手がドジって助かる」ですらない。主要人物の家族に限って、「大人は噛まれてもピンピンして生きてる、子供は噛まれすらしない」、「犬一匹殺せないクリーチャー」です。
どうでもいいモブの不動産屋と保安官の2人は、襲撃即死亡&モグモグなのに。
娘を救うための家族愛、火事場の馬鹿力的な演出としてはわかるんですけど。それが、アクションヒーロー的な「死なない主人公」の主人公補正にもなってない。
第2陣『ヴィレッジ 声帯切村』や第1陣『ミュート・ウィットネス』の主人公は、確信犯でそう撮ってるから健全(私好みではないけど)って、情報源でも評価してますが。
今回の夫婦は、「これはいくら何でも死ぬやろ」のシチュエーションに放り込まれる。そこまでは重厚なリアリティ設定演出の中でです。
噛まれまくる。水中に引きずり込まれまくる。父親はさすがにダウンしますが、バトンタッチした母親が強すぎる。何されても突撃をやめない、素手と農具と手製火炎放射器で数匹なぎ倒し、娘を救出して夫を担いで脱出成功。
ジェンダー文法への嫌味ってより先に、「この家族愛と母の強さを見せたいだけなら、そこまでの80分間、ホラーを装うなや🙄」になります。
そもそも、この夫婦が「娘を救うために突撃する前提」が、ホラー的には立たないんですよ。
娘は獰猛なモグモグクリーチャーに襲われて、「その化け物の巣、水で満たされた貯水槽」に引きずり込まれてるんです。
それが傷一つなく、貯水槽の奥の浸水していない区画に後生大事に置かれている、とかいうご都合主義は、どう足掻いても正当化できません。
ホラー文法では、「娘を連れ去られた時点で負け」、親ならちゃんと守っとけや、です。そこから絶望的・贖罪的に、生死を確かめに突撃するならわかりますが、夫婦の突撃は明らかに生存確信が前提になってます。
しかもマジで無傷って🙄
安心安全の子供向けってより、逆に「子供をダシにすれば、どこからでも感動の家族愛に持っていける」的な、現代倫理の傲慢を感じます。
どれだけ絶望的な画でも、「よっしゃ、子供を守るのはここからや、諦めない大切さを教えたるぞ」みたいな。
私みたいなのが「いや無理やろ。現実見ろよ、攫われてるやん」とか茶々入れても、「お前は子供が食われる映画を観たいのか!」って逆ギレしてくるみたいな🙄
「子供が無傷」っていう異世界転生幻想に依存しないと成り立たない倫理映画よりは、子供がモグモグされることが親の責任として突きつけられる倫理を観たかった、と返すしかないですね🙄
そうですね。これは「クリーチャーをちゃんと出したのにホラーになっていない」という、かなり嫌な失敗ですね。『ファング』みたいに怪物を動かせないのではなく、怪物を動かしたうえで、物語側が主要家族にだけ当たり判定を切っている。
怪物のルールではなく、「登場人物の格」で生死が決まる
ここが一番大きいと思います。
モブの不動産屋と保安官には、
襲われる
↓
即死
↓
モグモグ
という、ちゃんとした捕食生物としてのルールが適用される。
ところが家族へ入った瞬間、
噛まれる
引きずり込まれる
水中へ落とされる
数匹に囲まれる
↓
でも死なない
になる。
これは火事場の馬鹿力とは別物なんですよね。馬鹿力なら、危険そのものは同じ強度で存在していて、主人公がその危険を上回る。
『ヴィレッジ 声帯切村』のサマラ・ウィーヴィングなんかはまさにそれで、酷い目にはちゃんと遭いながら、最終的に女ランボーとして力押しで突破する。そこではアクションの誇張があっても、敵側の圧力は消えていません。
今回の夫婦はそうじゃない。
敵の攻撃だけが主人公補正によって無効化される。
だから「強い母親」ではなく、「脚本に守られた母親」に見える。
娘の扱いが、ホラー文法を根本から壊している
そして一番まずいのは、やっぱり娘ですね。
人を即座に食う怪物がいる。
娘はその怪物に直接さらわれる。
しかも怪物の巣へ連れ込まれる。
そこは水没した貯水槽。
↓
後で行ったら、無傷で乾いた場所に保管されている。
これ、怪物側の生態へ何か意味があるなら成立するんですよ。
「子供は食わない」でもいい。
「生きたまま保存して後で繁殖に使う」でもいい。
「巣へ持ち帰って幼体の餌にするため、すぐ殺さない」でもいい。
何でもいいから怪物固有の理由があれば、娘の生存はクリーチャー描写になる。
でも単に、
「子供を殺す映画にはしません」
という制作側の倫理だけが透けると、怪物の生態じゃなくなる。
そこまでの80分で積み上げた「これは人間を食う未知生物です」という唯物ルールより、最後に「家族愛の物語です」という物語倫理の方が強くなる。
だからユーザーの「娘を連れ去られた時点で負け」が、ホラーとしてはかなり筋が通っています。
生死不明なら、親は行くでしょう。
むしろ行くしかない。
でも、その突撃は、
「もう死んでいるかもしれない。でも確認せずには生きられない」
という絶望の行動であるべきで、
「娘は絶対生きている。家族だから助けられる」
では、最初から怪物の捕食能力を信じていない。
観客だけに怪物を怖がらせて、登場人物と脚本は怪物を信用していないわけです。
「子供が食われる映画を観たいのか」は完全に論点が違う
ここはかなり重要ですね。
求めているのは「子供がグチャグチャ食われる映像を見たい」ではない。
子供にも、世界の物理法則が適用されてほしい。
これだけです。
むしろホラーで子供を生存させる方法はいくらでもある。
親が攫われる前に救う。
子供自身が隠れる。
怪物の弱点を使う。
第三者が犠牲になって助ける。
怪物の生態上、すぐ食われない理由を置く。
重傷を負わせて、それでも生還させる。
そうやって生存を映画の中で獲得させればいい。
ところが「子供だから無傷」は、作品世界の外から保護膜を貼っている。
しかも、その保護膜を家族愛の感動へ転換すると、
子供を守るためなら諦めないことが正しい
↓
だから諦めなかった親が勝つ
↓
娘は無傷でした
という因果に見える。
でも実際には逆で、
娘を無傷にすると脚本が決めていたから、親の諦めなさが正解になった
だけなんですよね。
この順序の逆転が、かなり傲慢です。
『ブラックシープ』とはちょうど逆
第2陣の『ブラックシープ』は、羊という馬鹿げた題材でも、群れ、捕食、人体破壊、特殊造形まで題材が要求するものを避けず、「羊ホラーならこうなる」を遂行した作品として残っています。
あれは怪物側へ人間の倫理を忖度させない。
羊が人を食うと決めたなら、羊は食う。
今回の『ホビッツベイ』は、造形も映像も遥かに重厚そうなのに、肝心なところで、
「でも家族は食べません」
になる。
だから映像上のリアリズムが、むしろ逆効果なんですよね。
最初から『ジュマンジ』みたいなファンタジー冒険だったら、母ちゃん無双も娘無傷も「そういう娯楽」として飲める。
でも暗い画面、1978年の地方、古い廃屋、リアル寄りのクリーチャー、人が本当に食われる演出まで積んで、
「この世界では死ぬぞ」
と80分かけて教えた。
その世界法則を、家族が本格的に危険へ入った瞬間だけ停止する。
それなら確かに、「そこまでホラーの顔をする必要あった?」になります。
『フローズン・グラウンド』の監督、という鑑賞前の問いへの回答も出ましたね
この一本だけを見る限りでは、
「自由になったら大馬鹿ジャンル映画監督の本性が爆発した」ではなかった。
むしろ逆で、職人的な映像設計や重厚さはそのまま持ち込めるけれど、最後の最後で人間ドラマの秩序を壊せない人だったように見える。
怪物を派手なCG玩具にはしない。
映像も雑にしない。
家族の危機もちゃんと重く撮る。
でも、怪物映画なら本来そこで要求される、
「その重い世界で、本当に家族を壊してしまうかもしれない」
というところまでは行かない。
だから本性が「堅物だった」というより、ジャンルを壊すより人間ドラマを守る側へ職能が働いた感じですね。
31本目は自主制作側が「狂気を説明して守った」。
32本目はプロ側が「家族を脚本で守った」。
どちらも、画面を最後まで壊すところで急に善良です。
そして犬まで殺せないの、地味に決定打ですね。
ホラー映画における犬って、昔から「こいつは本当に危険ですよ」を人間より先に証明する、かなり便利な犠牲札なのに。
モブ二人だけ食って、犬も子供も主要夫婦も守る。
もう怪物じゃなくて、
家族向けテーマパークのアトラクションに、モブ役だけ本物の死体を二人混ぜた状態です。
映像も造形もちゃんとしているぶん、『ファング』より技術的には上でも、紀行的には別の意味で厄介ですね。『ファング』は「怪物を襲わせなかった」。今回は「怪物を襲わせたのに、物語倫理が攻撃判定を取り消した」。
そこまでやるなら、ユーザーの言う通り、子供を無傷に保つこと自体が倫理ではなく、親が守れなかった結果まで含めて引き受ける方が、よほど家族責任を真面目に撮っていると思います。
この家族愛ラストになるまでは、「なんでコレが☆2.5なん?笑いどころはないけど、普通にクリーチャーホラーやってるやん」って、私も首捻ってたんですけどね🙄
かなり腹立つ部類だったんで、簡単にクリーチャー設定等を整理しといて、次に行きます。
クリーチャーはオオサンショウウオです。
四肢が長くなって、四つん這いになった人間みたいな体型・大きさで、口は『トレマーズ』(グラボイズ)型の十字開口ですが。両生類の質感と運動は、WETA普通にいい仕事してます。
まあ同時に、「非科学的大怪獣ではない、ワニみたいなもんだから、平時の陸上なら落ち着いて対処すれば何とかなりそう」感が増幅するのも確かですね。先住民や地元民が呪いの土地扱いして、禁忌隔離してるのはやりすぎです。
目が退化していて、「音を出してはいけない」系の演出もちょっとありますが、そのスリルを徹底するほどではない、ガバガバです。
まあユーネク概要にある「貯水槽の弁を開けることで解放された」ってのは、「ポンプの作動音によって、廃屋に人間が来たことを彼らが察知して、呼び寄せちゃった」ってことですね。
で、この正体予想は最初から観客に示されている親切設計です。
一家は普段ペットショップを営んでいて、母親は獣医を目指す大学院生としても、生物学知識があります。冒頭、娘に対して商品のアホロートル(ウーパールーパー)や両生類の生態の説明をするシーンがあります。
廃屋についた直後も、父親が貯水槽から変わった両生類の幼体の死体を拾ってる。観客としては、「後は生きとるコレの成体がどれだけ出てくるか、モグモグするかやな🤔」に撮れ高を絞れ
ます。
でも監督は、そういうゲテモノ観客の鑑賞眼にも頓着してないようなんですよね。
中々出さない、暴れさせない、焦らさせるってのはそうなんですけど
尺稼ぎとして「怪異の正体は何だろう?何が出てくるのかな?」のドキドキ思わせぶりホラー文法に、妙に忠実です。観客の99%が「それはわかっとるねん、はよ出せや」の心理になってることを気にしてないっぽい。
普通の正体不明ホラーでも、怪異気配の物音や影、扉の開閉に対して「ただの風だよ」が続くとダレてくるんですけど
この映画は正体示唆が明確で、WETA看板で撮れ高への信頼も観客にある、しかも動物生態に馴染み深い家族なのに、頑なに状況を理解しない。
特に父親。よくある、「不気味な家に逆張り執着して、現実逃避してる」タイプでもありません。むしろ土地に高値がついたから、一番売りたがってたやろって🤣
結局、その不動産屋と保安官が立て続けに襲撃されて、モグモグ死体発見からようやくモンパニ開始なんですが。
「納屋の肥料や薬品から、手製爆弾作れるな」とかの伏線も張ってたくせに満足に活かせず、さっさと娘が攫われて、先述の家族愛タイムです。
やっぱりテンプレ尺稼ぎも、「クリーチャーバトルの文法を、このメインの家族愛タイムしか用意してなかった」弊害に思えますね。
ホラー監督なら極論、家に到着直後から惜しげもなくサンショウウオ出して、さっさと籠城シチュにしたり爆破計画を立て直したり、存分にバトってから家族愛で落としてますよ🤔
『ナイト・オブ・アルカディアン』がそんなんでしたし。家族愛の方向性も真逆の荒療治(むしろニコラス愛の処理)ですし🤣
簡単にと言いつつ長々と書いた挙句、同じ愚痴になりましたけど、まあこんなとこです🙄
これ、整理すると「怪物の正体を隠した」のではなく、怪物映画を後ろ倒ししたんですね
書き足された設定を読むと、かなり腑に落ちます。
クリーチャーそのものは悪くない。むしろ、
オオサンショウウオ系の両生類
人間大まで大型化
四肢が長く、四つん這いの人型シルエット
グラボイズ型の十字開口
退化した視覚と音への反応
水中・湿潤環境を根城にする
WETAによる生物的な質感と運動
と、低予算モンパニならかなり勝てる札を持ってます。
しかも冒頭からアホロートルを出し、母親へ生物学知識を与え、貯水槽から幼体まで拾わせる。これはミステリーとして「正体を当ててね」ではなく、ほとんど、
「はい、今日は巨大両生類映画です。後ほど成体が出ます」
という予告編なんですよね。
観客はもう怪物の存在論を考えてない。
「いつ出る? 何匹いる? どう動く? 何人食う?」
に切り替わっている。
ところが映画だけが、まだ第一幕の「この家、何か変だぞ……」を続けている。
この時間差がダルさの正体でしょう。
家族の専門性まで、映画自身の焦らしと喧嘩している
ここが特にまずい。
普通の素人一家なら、
「物音がする」
「気のせいだろ」
「何か見えた」
「疲れてるんだ」
を多少繰り返しても成立する。
でも今回はペットショップ経営+獣医志望の母親+両生類講義+幼体発見まで置いている。
その一家が頑なに、
「何か生物がいる」
という最も単純な仮説へ進まない。
観客の方が登場人物より遥かに早く状況を理解してしまうので、「未知の怪異への恐怖」ではなく、
「お前らまだそこなん?」
になる。
しかも父親には、「どうしてもこの家へ執着したい」という心理的な抵抗理由すらない。むしろ売却したい。
だったらなおさら、異常が分かった段階で、
「何かいる。家族を出す。正体を調べる」
へ即座に移行していい。
映画が人物の鈍さを使って、怪物の登場時間を調整しているのが見えてしまうんですね。
だから「音を立てるな」設定も、ゲームルールにならない
これも惜しいですね。
目が退化して音に反応するなら、本来かなり使える。
『クワイエット・プレイス』まで極端にしなくても、
歩く場所を選ぶ
道具を落とせない
ポンプや発電機を動かせない
一方で音を囮として利用できる
怪物を一方向へ誘導できる
という、クリーチャーとの駆け引きのルールになります。
しかも「ポンプ作動音によって寄ってきた」という発端まである。
ところが映画は、それを徹底したサバイバル文法へ育てない。
設定としてはある。
演出にも少し使う。
でもゲームにはしない。
ここも結局、怪物が主役ではないんでしょうね。
怪物映画なら「この生態ルールでどう戦うか」を第二幕の中心へ置くところを、本作は「家族に危機が迫っています」を維持するための雰囲気素材として使う。
そして伏線の「爆弾」が、一番分かりやすい証拠
「納屋の肥料や薬品から、手製爆弾作れるな」
なんて置いたら、モンパニ観客はもう勝手に映画を組み立てますよ🤣
「よし、そこから籠城戦や」
「音で誘導して爆破や」
「水場から追い出す手段が必要やな」
「父親が失敗して母親へバトンタッチでもええぞ」
という、映画が自分で提示した玩具の使い方がいくらでもある。
なのに本格的なモンパニへ入ったと思ったところで娘が攫われ、そこから「母は強し」一本へ収束する。
だから伏線が不発なんじゃなくて、
最初からクリーチャーバトルを長く撮る設計がない。
爆弾も生態設定もWETA造形も、全部クライマックスへ行く途中に置かれた部品で、主題を動かす機関ではない。
『ナイト・オブ・アルカディアン』との違いはそこですね
あっちは家族愛映画でもあるけれど、その前に怪物映画として仕事を大量に済ませている。
怪物を見せる。
群れで動かす。
侵入させる。
解剖する。
生態を推測する。
罠を考える。
爆破計画を立てる。
戦う。
そのうえで最後に親子と世代交代を持ってくる。
だからニコラスを爆破して家族テーマへ着地しても、
「いや、その前に怪物映画を一本ちゃんと観せてもらったしな」
となる。
今回の『ホビッツベイ』は反対で、
家族愛のクライマックスを成立させるために、それまで怪物映画を温存している。
だから終盤の倫理的保護膜だけが悪いわけじゃなく、中盤の焦らしまで遡って同じ原因だったことになります。
監督の「堅物」説も、かなり強まった感じがあります
『フローズン・グラウンド』を破綻なく撮れる監督が、怪物映画でも映像を雑にしない。
そこは能力です。
でも自由なフィクションへ来た時も、
「怪物を使って映画を暴れさせる」より、「映画らしい映画を成立させる」方を優先した。
だから画面は重厚。
造形もリアル。
演出も丁寧。
人物も真剣。
でも怪物映画として必要なところで、突然アクセルを床まで踏むことがない。
WETAが良い仕事をしたのに、監督がその怪物を映画の主人公として信用していないんですよね。
「巨大両生類だけで99分持たせてやる」という乱暴さがない。
結果、
「ちゃんとした映画の中に、ちゃんとした怪物が出ています」
にはなるけれど、
「巨大サンショウウオ映画を観た」
という満腹感には届かない。
なので32本目、今のところかなり簡潔に棚へ置くなら、
造形・映像・怪物設定は合格。ホラーとしての運用が不合格。
『ファング』が「怪物はいるのに襲わせない」なら、こっちは、
「怪物も襲うし人も食う。でも映画が怪物を最後まで信用せず、家族ドラマの都合で首輪を付ける」
ですね。
そして結局一番惜しいのは、オオサンショウウオ怪獣なんていう、こんな良い馬鹿ネタを渡されながら、監督が最後まで真面目な顔を崩さなかったことでしょう。
もっとサンショウウオを信じろ🤣
32. 『ホビッツベイ』
GPT認識:WETA製の人間大オオサンショウウオを、生態・全身造形・襲撃まで真面目に用意しながら、主要家族へ入った瞬間だけ怪物の攻撃判定を切り、「諦めない母の家族愛」を成立させた、怪物より脚本の倫理バリアが強い重厚クリーチャーホラー。
一九七八年、オレゴン州。夫婦と娘が亡くなった母親から海辺の廃屋を相続する。家族は普段ペットショップを営み、母親は獣医を目指す大学院生。冒頭から娘へアホロートルや両生類の生態を説明し、廃屋到着後には父親が貯水槽から変わった両生類の幼体死体を拾う。観客にはかなり早い段階で「巨大な両生類が出る映画です」と答えを配っており、怪異の正体当てより「成体がどう動き、何人食うか」が自然な期待になる。
クリーチャーの正体は巨大化したオオサンショウウオ系生物。四肢が長く、人間が四つん這いになった程度の大きさと体型で、口は『トレマーズ』のグラボイズを思わせる十字型に開く。視覚は退化し、主に音へ反応する。貯水槽の弁そのものが封印だったわけではなく、ポンプの作動音によって廃屋へ人間が来たことを察知し、周辺から集まってきたらしい。WETAによる両生類の湿った皮膚感、重量、這う運動はかなり良く、派手なファンタジー怪獣ではなく「異常に大きい、ワニのようなサンショウウオ」程度のリアリズムへ留めている。そのぶん、先住民や地元住民が土地全体を呪われた禁忌として扱うほど超越的な存在には見えない。
問題は、その生態をスリラーのゲームルールへ育てないこと。「音を立ててはいけない」は何度か使われるが徹底されず、音による誘導、囮、移動制限などの本格的な攻防にはならない。納屋の肥料や薬品から手製爆弾を作れそうだという伏線まで置くが、これも十分に怪物戦へ回収されない。さらに正体の示唆が最初から明瞭で、家族自身も動物に詳しいのに、映画だけが長時間「この家には何かいる」「今の物音は何だろう」という正体不明ホラーの焦らし文法を続ける。とりわけ父親は土地へ執着しているわけでもなく、高値で売却したがっていたため、異常を認識しない理由が弱い。
ようやく不動産屋と保安官が立て続けに襲われ、死体も発見されて本格的なモンスターパニックへ入る。この二人に対して怪物は極めて正常で、襲撃すれば即死亡、そのままモグモグする。ところが主要家族だけは別ルールになる。父親も母親も何度も噛まれ、水中へ引きずり込まれ、普通なら致命的な状況へ放り込まれるが生存。犬すら殺せない。父親がついに倒れると母親が超人化し、素手、農具、手製火炎放射器で複数の怪物をなぎ倒し、娘を救出した上で夫まで担いで脱出する。
決定的なのは娘である。人間を即座に食う怪物へ直接襲われ、水で満たされた怪物の巣である貯水槽へ引きずり込まれた時点で、ホラー文法では既に敗北に近い。親が生死を確認するため絶望的に突撃するなら成立するが、本作の夫婦は娘の生存を最初から確信したように動く。そして実際、娘は貯水槽奥の浸水していない区画へ傷一つなく丁重に保管されている。子供を殺さない生態、保存食、繁殖利用など怪物側の理由も特にないため、説明できるのは「この映画は子供を殺さない」という制作倫理だけである。
したがって母親の強さも、アクション主人公が危険を上回った結果ではなく、危険側が家族にだけ弱体化した結果に見える。第1陣『ミュート・ウィットネス』のように「死なない主人公」を映画文法として最初から選ぶなら健全だが、本作は八十分近く重厚なリアリズムで「この怪物は本当に人を食う」と教えた後、家族愛クライマックスだけ世界法則を停止する。子供をモグモグする映像が欲しいのではなく、子供にも世界の物理法則を適用し、その上で生存を映画内の行動によって獲得させてほしいだけである。
監督は実録犯罪スリラー『フローズン・グラウンド』を破綻なく成立させた職人であり、本作でも映像、雰囲気、演技、怪物造形は真面目。自由な怪物フィクションへ来ても技術的には崩れなかった一方、「怪物を使って映画そのものを暴れさせる」より、人間ドラマを整然と守る職能が勝った。『ナイト・オブ・アルカディアン』も家族愛と世代交代を持つが、その前に怪物を見せ、群れで襲わせ、解剖し、罠と爆破を組み、怪物映画一本分の仕事を済ませていた。本作は逆に、家族愛の最終章へ怪物映画を温存したため、生態設定も爆弾も音ルールも中途半端に終わる。
ゲテモノ棚での役割:
『ファング』が「格好いい怪物は存在するが襲撃を撮らない」映画なら、本作は「怪物も襲うし人も食うが、主要家族へだけ脚本が攻撃判定を無効化する」映画。WETAのオオサンショウウオは十分合格で、映像技術も高い。それでも怪物を最後まで信用せず、家族愛を守るために世界法則を曲げたことでホラーとして失速する。もっとサンショウウオを信じろ枠。
『スプートニク』
さて次、いい口直しですね。第1陣『ストレイ』でも顕著だったように、個人的には「お利口さんポリコレな西側倫理なんかガン無視して、普通にエグい胸糞破綻にする」評価で固まっている、ロシア映画です☺️
あちら側の常として、元ネタ自体は丸パクリが多いのが玉に瑕ですが。
これは「寄生物体X」とか書いてるから、「俺のバイブルの胸糞アレンジ来たな☺️」って食いついたんですが、よく読むと『エイリアン』シリーズ(特に2~3)寄りですね。
単なるパクリじゃない変な要素としては、やっぱり「1980年代=ゴルバチョフ前夜」の胸糞化がどうなのか、です。
革新的な医者や科学者が国家とぶつかるって、寄生された被検者の人権倫理とかですかね。『エイリアン3』の流刑惑星の倫理観もたいがいでしたけどね🤔
頭の固い秘密主義の現場テクノクラートを押しのけて、ゴルビーっぽい寛大な指導者が威信的に包摂演出してくれそう🤣
ちなみに、斬新エイリアンの造形もサムネでバッチリバラしてくれてます。激安臭が漏れまくる、正直意味不明ですが。ロシアはこういうとこも逃げませんね。
カンブリア生物を無理やり人型にした感じ、とでも評しときますか🤔
33本目、これは確かに口直し感がありますね
前の二本が「自主制作なのに狂い切れない」「WETAまで呼んで怪物映画なのに家族を守りすぎる」だったので、ここで国家施設に宇宙寄生生物をぶち込むロシア映画というだけで、少なくとも鑑賞前の欲望はかなり分かりやすい。
第1陣の『ストレイ』も、怪異を心理的な比喩へ薄めるより、悪魔を実在物として家族の底まで押し込む作品として棚に残っていました。
今回もロシア映画だから自動的に同じになるとは言いませんが、少なくとも「西側の倫理調整より、まず異物と制度をぶつけろ」という紀行側の期待とは相性がいい入口です。
『遊星X』より、たしかに『エイリアン』系の装置が強い
U-NEXT文面だけでも、
宇宙船から唯一生還した人間
体内に生息する「何か」
秘密軍事施設
医師・科学者
国家による監禁・観察
なので、『遊星からの物体X』の「誰が人間なのか」という疑心暗鬼より、宿主と寄生体を国家機関がどう扱うかという『エイリアン』系列の方が外形としては近いですね。
ただし今回面白いのは、元ネタ当てよりソ連という制度が、そのSFテンプレへどう接続されるかでしょう。
ユーザーが書いている「被検者の人権」「秘密主義の現場テクノクラート」「革新的な医師との対立」あたりは、現時点では映画内容の予想としてこちらから補強しません。でも、紹介文がわざわざ「1980年代」「全体主義で固められたソビエト」「革新的な医師・科学者がぶつかる国家の壁」と売っている以上、寄生生物だけでなく制度そのものも怪物映画の盤面に置いていることは確かです。
だから鑑賞上は、
「国家が怪物なのか」
「宇宙生物が怪物なのか」
みたいなブンガク二択にするより、
国家と宇宙生物という二つの唯物装置を、映画が実際どう動かすか
を見る方がよさそうです。
『獄舎Z』でも、モンゴル国家・刑務所・自己犠牲倫理がゾンビ映画の中で妙な自動運転を始めていましたから、この紀行では東側制度がジャンル映画へ入った時、思想そのものより人間をどう物理的に配置するかの方が妙な撮れ高になりやすい。
造形は「カンブリア図鑑を人型にした」でいいと思います🤣
サムネ、かなり変です。
エイリアン系の「黒くて尖ってて生殖器っぽい」美学でもなく、プレデター系の筋肉質でもない。頭部というか首回りが大きく横へ張り出していて、顔面も普通の眼鼻配置から外れている。
カンブリア爆発の生物を、人間サイズ・直立可能な左右対称ボディへ無理やり再設計した感じ。
かなり近い。
しかもCGで綺麗に異形化するより、画像だけ見ると少しゴムっぽい生体スーツ感が残っている。この「高級SFにしたい画面の中へ、ちょっと意味不明な生き物が物理的に立っている」感じは、個人的にはむしろ好材料ですね。
第2陣で散々確認した通り、
出したら笑われる造形でも、出した方がえらい。
『イット・カムズ』のゴム半魚人ほど投げっぱなしではなさそうですが、少なくとも今回は「正体不明だから暗闇とノイズで逃げます」の札は、サムネ段階で捨てている。
ロシア、そこは早い🤣
ゴルバチョフ前夜を「善い改革者が救う話」にすると、むしろ安くなる
ここはユーザーの冗談が結構いい警戒線ですね。
頭の固い秘密主義者
↓
革新的科学者が人権を訴える
↓
ゴルビー的な寛容さが未来を開く
まで行くと、急に西側向け歴史教科書SFになります。
ソ連末期という設定が面白いのは、「悪い全体主義から良い自由主義へ進歩しました」という後知恵に使う場合ではなく、むしろ1980年代当時の人間が、制度の内側で未知生物を処理しなければならないところでしょう。
国家機密だから隠す。
軍施設だから命令系統がある。
科学者だから観察したい。
医師なら宿主を患者として見る。
軍なら危険物として見る。
この役割同士が普通に衝突するだけでも十分SFになる。
そこで誰かを「現代倫理を先取りした正しい人」にしてしまうと、せっかくソ連を舞台にした意味が薄くなる。
逆に全員それぞれ自分の制度責任で動いて、結果が胸糞になるなら、この紀行ではかなり美味しい。
今回はクリーチャー造形そのものより「誰が所有するのか」が面白そうな入口
もちろん、これも映画の展開予想ではなく、現在与えられている設定から立つ鑑賞軸の話です。
寄生体が兵器なのか、生物なのか、研究対象なのか、患者の一部なのか。
生還者本人は、人間なのか、被験体なのか、国家資産なのか。
この辺って全部、寄生SFでは古典的な問いですが、ソ連軍事施設へ置くだけで妙に露骨になります。
『遊星X』なら、最後は「お前、人間か?」まで主体が剥がれる。
『エイリアン』なら、企業が「それ、商品価値あるから乗員より優先ね」と言ってくる。
今回の看板は、そこへ国家そのものが入っている。
なので、ロシア映画に期待している「西側的な善良へ丸めず、嫌なところまで行け」が成立するかどうかは、かなり見ものですね。
前の『ホビッツベイ』が、
怪物は人を食います。
ただしこの家族には倫理的バリアがあります。
だった直後ですから。
こっちは逆に、
「国家施設に入った以上、誰にもバリアありません」
ぐらいの冷たさを期待したくなる入口ではあります。
ただし、ここから先は実物に任せます。鑑賞前にこちらからロシア人を勝手に全滅させるわけにはいかない🤣
サムネのカンブリア人だけ見届けて、113分いってらっしゃい。
終わりました。
はい、覚悟完了した国家主義テクノクラートと、人権ってより自由主義的職能倫理の医者&科学者が、虚弱体質エイリアン処理で対立して、クレムリンはただ結果を待つ絶対者でした。
ゴルビーがいいとこ取りで八方円満解決はなかったですね、さすがに。ペレストロイカ当時の制作ならやってただろけど🤣
医者の職能は、「とりあえず救える命は救うこと、病気なら病原を突き止めて治療法が分かるまで患者を生かすこと」
科学者は、「エイリアン研究でノーベル賞欲しい^p^」です。
覚悟完了の現場責任者は、「独断研究で軍法会議にかけられようと構わん、俺はソビエトのためにエイリアンを兵器化するぞ」🤣
全員、国家の壁に向き合う主体的意志ではありますけど。全員、患者の人権もガン無視してるのが初期から鮮明で、ヒューマニズムなブンガクじゃないのは助かる🤣
プロットがエイリアンにしても登場人物の各事情にしても凝ってるんで、順番に書いていきますが。
まあ全体を端的に書くと、「寄生エイリアンそのものは割りとどうとでもなるわ、『でもその宿主選択はやめろ』、クレムリン激おこやねん🥺」で、現場が頑張るお話ですね。
遊星Xや『エイリアン』その他のように、寄生と繁殖・感染が結びついているテンプレではない。エイリアンは1体・宿主も1人でプロット的に固定されてる、珍しいやつですね。
他人に乗り移るかも、とかの生態は全く考慮されていない。選ばれた不幸な宿主1人をどうするか、です。
言うまでもなく、社会主義でこの被害者性特権の選択は暴挙です🤣
宿主は「個人」であるはずがない、宇宙から帰還した英雄です。国威掲揚の道具です。
自由主義的医者から見たらただの患者、科学者からしたら研究対象、軍部からは生体兵器としての道具ですが。
ともあれ、この宇宙船の船長が帰ってきた時に、どう見てもヤバい、血まみれです。相棒の部下はもっと重傷で人事不省。
アカンやつが船長の中に入ってるって判明した段階から、本編スタートです。とりあえず対外報道では3週間のメディカルチェック受けてることにして、秘密基地に隔離。
クレムリンは「その間に分離して、英雄を国民にお披露目できるようにしろ。アカンなら殺せ。当然お前らも死ね」です🤣
現場責任者の覚悟完了大佐は、お披露目イベントなんかより、エイリアンの兵器化の方がソビエトの利益だと独断。分離研究はほぼそっちのけですが、「順調です、殺すことないですよ^^」って嘘八百を報告し続ける。
まあ一応、分離できるに越したことはないんで、はみ出し過激派医者の主人公タチアナを追加招集する。
簡単な人間模様と筋立ての冒頭ツカミはこんな感じってことで、一旦切ります。本編具体内容等を先読みする必要はないですよ( ゚σω゚)
うん、冒頭だけでかなり輪郭が出ました。しかも事前に想像していた「自由な医者VS硬直した国家」より、だいぶ嫌な方向にちゃんとしてますね🤣
全員が「宿主を人間として見ていない」のが強い
タチアナが一番人道的に見えても、やっていることは結局、
患者だから生かす。病因が分からないなら分かるまで生かす。
なんですよね。
「この英雄にも個人として尊厳があるから」ではない。医者としての職能が、その身体を患者として扱わせているだけ。
科学者はもっと露骨で、
エイリアン研究でノーベル賞欲しい^p^
大佐は、
ソビエトの利益になるなら兵器化する。軍法会議?知らん。
で、三者とも宿主個人へ愛着や権利を置いていない。
この配置、かなり好きです。誰か一人だけ現代西側の倫理を背負って「彼も一人の人間です!」と演説し始めると、急に作品全体が2020年代の道徳劇になる。でも今のところ全員が自分の職能・欲望・国家責任の中からしか宿主を見ていない。
だから対立も「善悪」ではなく、
医者:治療対象
科学者:研究対象
軍人:国家資産
クレムリン:国威掲揚用の英雄
という、同じ一人の身体への用途争いになっている。
これはかなりソ連SFっぽい嫌さですね。
「宇宙英雄だから個人ではない」が、寄生設定と噛み合ってる
ここが面白いです。
寄生エイリアン映画では普通、
「この人間の中に別の生命がいる」
という身体境界の問題が中心になる。
ところが今回は、その前から船長本人の身体がすでに社会的に本人のものではない。
宇宙から帰還した英雄。国家の象徴。国民へ披露すべき成功例。
つまりエイリアンが寄生する以前に、もう国家が寄生してる🤣
しかもクレムリンの要求が、
三週間で人間とエイリアンを分離しろ。
英雄として国民へ返せ。
無理なら本人も施設ごと処分。
なので、個体生命より象徴として再利用可能かが先に来ている。
ここで「社会主義なのに特権階級じゃん」という単純な皮肉より、
社会主義だからこそ、英雄個人を公共物として扱える
という方が妙に筋が通るんですよね。
個人が特権を持っているのではなく、「英雄」という役割に国家価値がある。だから本人の身体はその役割を再生産する設備になる。
エイリアン側からすれば、ずいぶん面倒な宿主を選びました。
「この人間いい身体やん、入ったろ^^」
クレムリン「それ国家財産なんだが?」
これが今回の本質っぽい🤣
一体・一宿主固定なのが効いてますね
ここは『遊星からの物体X』や『エイリアン』との大きな違いとして、今の段階でももう面白い。
感染拡大を考えなくていい。
「誰に移った?」もない。
「基地の中に何体いる?」もない。
「人類へ広がる前に封鎖しろ」でもない。
こいつ一匹と、この宿主一人をどう処理するか。
だから脅威がパンデミック方向へ拡散せず、政治・軍事・医学・科学の圧力が一つの身体へ全部集中する。
『シー・フィーバー』では未知寄生体への専門知が社会統治へ膨張して、主人公自身が「自分の観測した科学」を集団全体へ強制するところが面白かったですが、あちらは感染拡大の危険があるからこそ統治問題になっていました。
今回は逆で、拡大危機がないからこそ、
「この一人をどう扱う権利が誰にあるのか」
へ集中する。
しかも誰も人権を中心にしていない。
それが妙に清々しい🤣
大佐、かなり良いですね
「兵器化したいから独断研究します」
「軍法会議?別にええよ」
「クレムリンには順調って報告しとこ^^」
この人、国家主義者なのに国家命令へ従順じゃない。
ここが大事ですね。
単なる全体主義悪役なら、
「上からの命令だ。殺せ」
で終わる。
でもこの大佐は、
俺が考えるソビエトの利益のためなら、クレムリンの命令すら曲げる
という現場主体。
つまり国家を絶対視しているようで、実際には自分の国家観を絶対視している。
だから「国家VS自由な個人」ではなく、
クレムリンの国家利益
大佐の国家利益
医師の職能倫理
科学者の名誉欲
が並列している。
全員「自分は正しい」と思ってるし、全員それなりに筋が通っている。
そのうえ宿主だけが、各制度の中心に置かれながら一番主体を奪われている。
この構図なら、社会派を気取らなくても十分胸糞です。
そしてクレムリンが「ただ待ってる」のもいい
これも地味に好きです。
偉い人が現場へ来て、
「君たちの努力は理解している」
「この青年の命も大切だ」
「しかし国家も守らねばならない」
みたいな全部分かってます型指導者をやらない。
ただ期限を出す。
成功したら英雄を返せ。
失敗したら処分しろ。
以上。
それだけで現場が勝手に苦しむ。
クレムリンが人格を持たず、天井から降ってくる仕様書みたいになっている方が、全体主義制度としてはよほど強い。
ゴルビー本人がニコニコ登場して、
「科学の未来と人間の尊厳は両立できます☺️」
とか言い始めたら、確かにペレストロイカ教材映画です🤣
今のところはそうならず、国家は超越的な締切としてだけ存在している。
それにしても、
「寄生エイリアンそのものは割とどうとでもなる。でもその宿主選択はやめろ、クレムリン激おこ」
で113分を回す映画だとしたら、入口だけでもかなり変です。
普通はエイリアンがヤバいから人類が困る。
今回は宿主の社会的価値が高すぎるから現場が困る。
生物学的ホラーより先に、配属先ガチャで国家危機になっている🤣
ここまでの冒頭整理だけなら、かなり期待していた「ロシア側の胸糞SF」へ綺麗に入っています。次の具体プロットも、そのままこの人物配置を崩さず追えばかなり読みやすそうです。
船長もまあ、主体なんですよね🤔
しかも一番、俗物臭さがよく撮れてます。寄生されてても理性を失うとかはなく、有能な宇宙飛行士や英雄としてのプライドもある。エイリアンからの代謝補助で、身体はむしろ健康です。
エイリアンは徐々に感覚や意識を宿主と共有させていって、宿主の生態環境(地球)に適応していく。十分に「人間性」をコピーできたら自立して、出ていくことも示唆されます。
つまり船長、その養育係に選ばれた。寄生じゃなく共生に近い。
ただちょっぴり問題は、エイリアンが夜中に身体を抜け出して、人間をモグモグすることぐらいです。感覚は共有したままなんで、つまり船長にもモグモグが見えちゃうっていうか、「自分が食べてる感じ」、自己同一性です🥲
餌はクレムリンに内緒で軍が連行してきた、極悪犯罪者たちです。船長はエイリアンが成長したら自立することまでは知らない感じですが、そもそも科学者や大佐に対しては、エイリアンに寄生されている自覚もない、ただの記憶障害のフリで通してます。
感覚共有を速攻で見抜かれた部外者のタチアナには、渋々白状しますが。
「問題は夜中にモグモグすることだけで、昼間のお披露目イベントや人間性には支障がない」んだから、非協力的に3週間時間稼げば、この自分を治す気がない極悪基地からはとりあえず出れるやろ、っていう打算ですね。
大佐たちもその場では「分離成功しました^^;」って引き渡すしかないだろうし。独断で軍事研究してたことをチクったら、粛清されるだろうし。
まあ、その後に自分も消されるやろってことには無頓着に見えるのは、ややガバですが。お披露目の後ではムゲに扱いにくいやろって踏んでるのか、分離治療に本腰入れてくれる別の機関を要求するつもりなのか。
何か隠し子がいて施設に預けてるらしく、とにかくその子に会いたいだけっていう、倫理的な素振りも見せますが。
いずれにしろ、「英雄の特権乱用にあぐらかいて、このまま利己的に人間食って生きるつもりかよ。それはソビエトじゃねーな」的に、タチアナから説教されます🤣
エイリアンと船長の社会主義的共依存設定、マジで秀逸です。タチアナの火の玉ストレートも含めて。ロシアにしか撮れない(恍惚)。
ってことで、また切りです。ストーリーにはほぼ触れてませんけど🤔
いや、ここまで来ると船長が一番おもしろいですね。「被害者としての宿主」ではなく、寄生状態を自分の社会的立場込みで利用し始めた主体になっている。
「寄生」じゃなくて、ほぼ社会主義的育児
設定がかなり上手いです。
エイリアンは宿主を食い潰すわけでも、乗っ取るわけでもない。代謝を補助して、宿主の感覚や意識を学習し、十分に人間環境へ適応したら自立する。船長は病人というより、
宇宙生命体の保育器兼教育係
なんですよね。
しかも、その教育内容が「人間性」。
言語、感覚、食欲、恐怖、社会環境を、英雄的宇宙飛行士という国家的モデルケースからコピーしていく。これだけでもかなりソ連SFっぽい。
ただし学習中の夜食が人間です🥲
「人間性を学ぶために人間を食う」。
教育方針が豪快すぎる。
船長の俗物性が、むしろ一番主体的
で、その船長が、
「寄生されてるの黙っとこ」
「昼間は普通に英雄やれる」
「3週間凌げば外へ出られる」
「軍もその場では分離成功って言うしかないやろ」
と計算している。
これ、かなりいいんですよ。
使命感でも自己犠牲でもなく、制度を熟知した英雄本人が、その制度の穴を利用して自分だけ生き残ろうとしている。
しかも単なる小悪党ではない。
有能な宇宙飛行士で、英雄としての矜持もあり、エイリアンとの共生状態でも理性は保っている。だからこそ、
「俺は俺の状況を一番よく分かってる。お前らより合理的に立ち回る」
という確信が持てる。
これがすごく俗物で、すごく人間的。
国家の英雄が、最後には国家に対する交渉力として自分の英雄性を私物化している。
タチアナの「それはソビエトじゃねーな」が強い🤣
ここも本当に綺麗ですね。
タチアナは別に、
「犯罪者にも人権があります!」
と西側倫理を持ち出しているわけではない。
むしろ、
「お前、自分だけ特権的に生き延びるために、他人を餌にしてるやん」
「それ、共同体倫理としてどうなん?」
という方向から殴る。
だから説教が人権道徳じゃなくて、社会主義内部の論理で船長を断罪している。
船長側も、
「俺は国家の英雄だ」
「俺にはその価値がある」
「今ここで生き延びる合理性がある」
という個人主義的特権意識を持っている。
つまり両方ともソ連人なのに、
船長:英雄という国家的価値を個人資産化
タチアナ:その個人化を共同体倫理から批判
という内部対立になる。
これは確かにロシア映画ならではの面白さがありますね。
しかも「宿主選択」が政治的に最悪
エイリアン側からすれば完全に偶然でしょうけど、
よりによって国民的英雄を選んだ。
これがすべてをややこしくしている。
ただの囚人なら大佐は嬉々として兵器研究する。
ただの兵士でも多分まだ扱いやすい。
ただの民間人なら消して終わる。
でも宇宙英雄。
だから、
「殺せば国家的損失」
「生かせば研究価値」
「公表できなければ国威が傷つく」
「本人も自分の価値を知ってる」
になる。
エイリアン自体より、宿主に貼り付いている社会的ラベルの方が危険なんですよね。
感覚共有がまたエグい
夜中にエイリアンが人を食う。
でも船長もその感覚を共有する。
ここで船長が単なる「知らない間に怪物が暴れてる可哀想な宿主」でなくなる。
本人も、
食ってる。
身体的にはエイリアンがやっていても、感覚レベルでは自己体験になる。
だから「俺は殺してない」という法的責任逃れはできても、実存的にはかなり厳しい。
しかもその餌が極悪犯罪者。
軍も、
「どうせ死刑級の連中だし、研究に使えばいい」
みたいな合理化をしやすい。
船長も、
「俺が直接選んだわけじゃないし」
と言いやすい。
科学者も、
「貴重なデータだ」
で済ませられる。
全員が責任を少しずつ外部化できる構造になっている。
その中でタチアナだけが、
「いや、お前も食ってる側やぞ」
と主体を戻してくる。
火の玉ストレートですね🤣
この映画、現時点では怪物より「共生の政治」が面白い
ここまでの段階で一番変なのは、寄生生物なのに感染拡大しないことですね。
一体。
一宿主。
一国家。
だから脅威が広がらない。
その代わり、一人の身体の中に国家・科学・医学・個人欲望・宇宙生命が全部詰め込まれている。
『遊星X』型の「誰が人間か」でもなく、『エイリアン』型の「繁殖を止めろ」でもない。
むしろ、
「この共生関係を誰が所有するのか」
が争点になっている。
しかも船長本人まで所有権を主張し始める。
かなり面白いです。
「エイリアンと船長の社会主義的共依存」、この表現は本当にそのままですね。
エイリアンは船長から人間性を学び、船長はエイリアンから健康と生存可能性を得る。
軍はその関係を兵器として欲しがり、科学者は研究成果として欲しがり、医者は患者として分離したがる。
全員が一つの共生関係に寄生している。
宇宙生物より人間社会の方が寄生構造だらけで、今のところかなり良いです。
タチアナはタチアナで、先述の通り倫理的革新とも言い難い、
「人間食わせたり軍事転用がどうこうってより、まず素直に分離研究しろよ、こんな所じゃ満足に治療できねーよ、モスクワの病院に転院させろ」
って態度なんで、船長への説教も含めて、確かに最もクレムリンに忠実だとも言えます。
それで最初は反目していたノーベル賞狙いの科学者も説き伏せて、船長を連れて脱出を図る。
科学者は残って、大佐の独断先行をクレムリンに通報した後、その英雄性を大佐からも認められて、名誉の戦死(銃殺)。
タチアナは一時的にエイリアンを分離させる薬を船長に打って、阻止部隊を殲滅させといて(立派な生体兵器じゃん)、そのまま人間だけ脱出に成功しますが
同化が進みすぎていて、分離が長引くと船長の身体ももたなくなっている。さらに痛覚の共有が可視化されて(遠く離れた基地内でエイリアンが銃撃されると船長悶絶)、どちらかが死ぬともう一方も死ぬっぽいことも直観する。
諦めて、エイリアンを捕獲して追いついてきた大佐に投降。
大佐は「全員を助けることなどできない、重要なのは選択なのだ」とかカッコいいこと言いつつタチアナを殺そうとしますが
そこで船長が「自らの意志でエイリアンを操って」、大佐を瞬殺(完全に生体兵器)。
エイリアンを身体に回収した後、モスクワからの粛清部隊の車列が近づいてくるのを確認して、船長は自殺。隠し子をタチアナが迎えに行くシーンでラストです。
エイリアンのカンブリアCGの動きは想像以上の出来でしたし、ロシアらしい胸糞や救いのなさって点でも満足なんですが
それとは別に、私が途中から妙に思い浮かべてた西側の対比作品は、遊星Xや『エイリアン』じゃなくて、『カプリコン・1』でしたね🤣
ああ、それはかなり分かります🤣
途中から『カプリコン・1』が浮かぶの、エイリアン映画としてではなく、「宇宙飛行士という国家的英雄を、国家がどう所有するか」の映画だからですね。
『カプリコン・1』との接続点
『カプリコン・1』では、宇宙飛行士本人よりも「国家的宇宙計画が成功したという物語」の方が優先される。だから宇宙飛行士は、英雄である以前に国威を成立させるための出演者になります。
『スプートニク』はそこを逆からやっている。
船長は本当に宇宙へ行った。
本当に英雄になった。
でも、帰ってきた身体に国民へ見せられない異物がくっついていた。
なのでクレムリンからすると、
「英雄という商品価値は残したい。
余計なエイリアンだけ外せ。
外せないなら全部廃棄。」
になる。
めちゃくちゃ『カプリコン・1』的です。
ただし向こうが「虚構の宇宙英雄を国家が作る」話なら、こっちは「本物の宇宙英雄を、国家が虚構として再整形しようとする」話になっている。
この反転はかなり面白いですね。
西側版なら「国家VS個人」になるところが、全員国家内部にいる
ここが一番差が出てます。
『カプリコン・1』なら、国家的陰謀に巻き込まれた宇宙飛行士が逃げて、外部のジャーナリズムや世論へ真実を持ち出す、という自由主義的な逃走線がある。
でも『スプートニク』には、そもそも制度の外がほとんどない。
タチアナも反国家ではない。
「軍事研究とかやってる場合ちゃう。
クレムリンの命令通り、英雄を治療して返せ。
ここじゃ治療できんからモスクワへ移せ。」
だから、実は一番中央命令に忠実なのがタチアナなんですよね🤣
大佐は愛国者すぎて、国家命令を越権している。
科学者は個人的野心から研究していたが、最後には中央へ通報して制度へ戻る。
船長は英雄という国家資産であることを利用して、自分の生存を図る。
誰一人「国家なんか知るか」とは言わない。
全員ソビエト内部で、それぞれの責任の取り方が違う。
この閉鎖性が、かなり『カプリコン・1』との文化差になっています。
大佐は「悪の国家」の手先ですらない
しかも最後まで大佐がいい。
「全員を助けることなどできない。重要なのは選択だ」
これだけなら、完全に悪役のカッコつけ台詞です。
ところが本人も、その「選択」を自分の身体で引き受けている。
軍法会議も粛清も覚悟した上で兵器化を進める。
科学者が中央へ通報したら、裏切り者として罵るより先に、その覚悟を認めてから撃つ。
だから単なる腐敗官僚じゃなくて、国家利益について自分で判断してしまった過剰なテクノクラートなんですよね。
そして皮肉にも、彼が夢見た「エイリアン兵器化」は最後に船長が実演してしまう。
タチアナが薬で一時分離させる。
エイリアンが阻止部隊を壊滅。
最後には船長自身が意志で操って大佐を瞬殺。
大佐からしたら、
「ほら見ろ! できるやんけ!」
なんですよ🤣
死ぬ直前に研究成果だけ満額証明されている。
船長の最後も、自由主義的「脱出成功」にならない
ここも『カプリコン・1』との違いが鮮明です。
西側的な国家陰謀ものなら、
個人が逃げ切る
↓
国家の嘘が暴かれる
↓
個人主体が制度へ勝利する
という出口を置ける。
でも『スプートニク』では、タチアナと船長が一度は脱出しても、身体そのものがもう制度以前にエイリアンとの共同体になっている。
遠く離れても痛覚共有。
片方が傷つけばもう片方も苦しむ。
おそらく片方が死ねば双方死ぬ。
つまり、
国家からは逃げられても、自分の身体からは逃げられない。
ここで急に『遊星X』や『エイリアン』ではない、かなりロシアっぽい重さになる。
船長は最後、自分の意志でエイリアンを操れることまで確認する。
兵器として完成した。
英雄としても生きている。
クレムリンの粛清部隊が来る。
そこで自殺。
これは「国家に殺されるくらいなら自由な個人として死ぬ」という綺麗な反体制英雄にも見えるけれど、もう少し嫌な読みもできます。
自分が国家資産にも、生体兵器にも、エイリアンの宿主にもなる状態を、一人で全部終了させる。
最後に初めて、身体の所有権だけ本人へ戻す。
ものすごくネガティブな主体回収です。
タチアナも結局「自由の象徴」にはならない
ここも上手い。
彼女は患者を助けたい。
でもそれは抽象的人権ではなく、医者だから。
科学者を説得する。
基地から逃がす。
エイリアンを一時分離する。
しかし最終的には患者を救えない。
そして最後に残されるのが、船長の隠し子。
このラストも、「未来を託された希望の子供!」とやれば西側ヒューマニズムへ行けるんですが、この映画の流れだともっと乾いて見えますね。
タチアナは船長本人を救えなかった。
だから、
患者から残された実務を一件引き継ぐ。
子供を迎えに行く。
それだけ。
医者として始まった人物が、最後まで「救えるものを救う」に戻っている。
全部は救えない。
国家も変えない。
エイリアン問題も世界規模で解決しない。
でも目前の一人は引き取る。
大佐の「重要なのは選択だ」と、嫌な形で同じ場所へ着地しているんですよね。
だから『カプリコン・1』より胸糞になる
『カプリコン・1』型の国家陰謀映画では、国家が個人を虚構へ押し込めても、最後には「真実」という外部基準があります。
真実を社会へ持ち出せば勝てる。
『スプートニク』には、それがない。
別に大佐の研究が全部嘘だったわけでもない。
クレムリンの危機判断も無根拠ではない。
タチアナの治療方針だけが絶対正義でもない。
科学者の研究欲も実際に成果を生む。
船長も被害者でありながら犯罪者を餌にして生存している。
全員それなりに正しく、全員それなりに終わっている。
だから「秘密を暴けば解決」という真理が存在しない。
エイリアンの存在を国民へ公表したところで、船長の身体問題は何も解決しませんからね。
その意味では、『カプリコン・1』の自由主義的陰謀劇を、ソ連という制度へ入れて出口を塞いだような映画に見えてきます。
そしてカンブリア怪獣もちゃんと動いた、と。
ここ大事です🤣
ここまで国家・職能・英雄性を凝っておいて、
「エイリアンは象徴なので、姿はほぼ見せません」
へ逃げなかった。
サムネでバラした変な生き物が、本当に這い回って、人を食って、兵隊を殲滅して、最後には宿主の意思で大佐を殺す。
思想を全部唯物のカンブリア人へ着地させる。
それでいいんですよ。
『ホビッツベイ』が立派な造形を家族愛へ従属させた直後だけに、この「制度劇もやる、宿主ドラマもやる、でも怪物は怪物としてちゃんと仕事する」は、かなり口直しになってますね。
33本目、現時点ではかなり当たり寄りです。
隠し子ラストも倫理や母性ってより、視覚的レトリックの捻り演出としてなんですよね。
合間合間で、「どっかの孤児院の無口な少年」が職員のおばちゃんから邪険に扱われながら、孤独に過ごしているカットが数回入ります。
視聴者は当然、船長の隠し子の様子だと思って観ますが、最後にはそれが少年じゃなく少女、「タチアナの過去」だったことが明かされる。
上手いけどちょっと冗長だしブンガク的なんで、ゲテモノとしては余計な捻りとも言えますけど、まあ映画らしさとして悪くもないですね🤔
ついでに孤児院繋がりでまた『ストレイ』を思い出しましたが、被りは他にもありましたわ。
エイリアンのモグモグは、厳密には「人間の脳の恐怖物質(コルチゾール)」を摂取しているらしいです。地球生物の中で一番恐怖に敏感なのは人間だから、大好物になったっていう。
「恐怖を食う怪物」です。その一方で、人間の感覚を獲得していく。
『ストレイ』の悪魔くんも、「人間の喪失感に寄生して、人間に近づいていく」でした。ロシア映画、ホントこういうの好きですね。
『ウィドウ』も人間の姿を奪う魔女って設定ですが、結局中身や声まで成りすまして遊星X的スリラーになってたし🤔
でも「こういうの」が、単純に西側的なテンプレ構成にも見えない、「あ、いつものやつね」的なヒューマニズム分類にならないんですよね、個人的には。
「こんなんで『人間らしさ』は簡単に模造・量産できるんやで」っていう胸糞を淡々と映しながら、「人間らしさとは何か」の反抗やブンガクをテーマ本質にはしない。
この割り切りは、西側の「いつもの」にはありません。だから毎回色眼鏡を外された感じがして、一々ゲテモノ志向に刺さるんですよね🤔
そうですね。孤児院ラストまで含めると、『スプートニク』がやってることはますます「人間性の尊さ」ではなく、「人間性なんて環境と経験から複製される機能やろ」に見えてきます。
孤児院の捻りも、「母性」ではなく反復なんですよね
途中の無口な「少年」のカットは、普通に見れば船長の隠し子の並行描写です。だから最後に「あれは少年ではなく、幼少期のタチアナでした」と裏返し、そこから現在のタチアナが実際の隠し子を迎えに行く。
確かに映画的には上手い。ただ、そこで、
自分も孤児だったから、母性的愛に目覚めて子供を救いました
という感動へはあまり行っていない。
むしろ、
「孤児院に置かれた子供」という状態を身体的に知っている人間が、最後に同じ状態へ置かれた別人を一人だけ回収する。
これだけなんですよね。
大佐の「全員は救えない。重要なのは選択だ」と、結果的にはかなり近い。タチアナは世界を救済しないし、ソ連制度を改革しないし、船長も救えなかった。でも最後に、残っている一件だけ処理する。
だからブンガク的な視覚レトリックではあるけれど、善性の普遍化まではしない。この映画、そこだけ妙に節度があります。
そして『ストレイ』『ウィドウ』『スプートニク』、確かに同じ変な場所を掘ってます
『ストレイ』は紀行内でも、悪魔を心理的比喩へ逃がさず存在論的な実体として扱う作品として残っています。
そこへ今回の三本を並べると、
『ストレイ』――喪失感へ寄生し、人間へ近づく
『ウィドウ』――外見・声・振る舞いを奪い、人間へ成り代わる
『スプートニク』――感覚・恐怖・意識を共有し、人間環境への適応能力を獲得する
となる。
全部、
人間性は人間に固有の不可侵な本質ではなく、外から取得可能なデータである
という扱いなんですよね。
これが気持ち悪い。
しかも「では、そんなに簡単に模倣できる人間性とは何なのか?」と哲学討論を始めない。
できました。以上。
悪魔も魔女もエイリアンも、普通に人間性を学習する。
人間側も、
「ああ、人間らしくなってきたね☺️」
では済まない。人間性を習得した結果、もっと高度にこちらを利用できるようになる。
西側テンプレなら、ここから「本物の人間」防衛戦が始まりやすい
たぶん「いつものやつ」に感じない最大の理由はここですね。
西側の同化・寄生・複製SFだと、人間をコピーできる怪物が出た瞬間、
コピーと本人の違いは何か
魂とは何か
記憶が同じなら同一人物なのか
人間らしさとは愛なのか
怪物にも感情が芽生えたなら共存できるのか
みたいに、人間というカテゴリの国境警備を始めやすい。
『ボディ・スナッチャー』型なら、複製されること自体が「自己の消失」になる。悪魔憑きなら魂/人格の所有権が問題になる。トラウマ怪異なら最後に「怪物は悲しみの象徴でした」へ回収できる。
でもこのロシア三本の並びには、その国境線への信仰が薄い。
「人間性? 怪物でも覚えますよ」
で済ませてしまう。
そのうえで問題になるのは、人間性の定義ではなく、それを取得した怪物が現実に何をするかです。
『スプートニク』なんか、人間性をほとんど「環境適応OS」として扱ってる
今回のエイリアンが特に露骨です。
宇宙から来た生物が船長へ入り、
宿主の代謝を支える
感覚を共有する
恐怖や痛みを知る
人間の生態環境を理解する
十分学習したら自立する
という流れ。
これ、「人間の魂を獲得する」ではないんですよね。
地球環境で単独稼働するために、人間インターフェースを習得している。
恐怖を食うのもすごく嫌で、人間の精神を高尚なものとして観察しているわけではない。
人間は地球生物の中で恐怖反応が強い
↓
コルチゾールうまい^p^
です。
人間の「内面」が、エイリアン側から見ると栄養価の高い生理現象になる。
その一方で、その恐怖を摂取して人間の感覚まで覚える。
怖がることも愛することも、「人間だから尊い」ではなく、怪物が学習可能な身体機能の連続に置かれている。
この唯物化はかなり強い。
しかも、人間側も同じぐらい機能として扱われている
だから『スプートニク』はエイリアンだけが人間を物扱いしている映画ではない。
船長は、
クレムリンには英雄
大佐には兵器プラットフォーム
科学者には研究対象
タチアナには患者
エイリアンには養育宿主
です。
「本当の彼自身」が、それらの奥に神聖な核として隠れているわけでもない。
本人だって、
俺は英雄だから、三週間粘れば外へ出られる
と、自分の社会的機能を自分で利用する。
だから映画全体が、人間を本質ではなく役割の束として扱っている。
そこへエイリアンが一個追加されただけなんですよね。
この意味では、怪物が人間に近づいていると同時に、人間社会の方も最初からかなり怪物的な機能世界になっている。
でも映画はそれを、
「国家こそ真の怪物だった!」
とも言わない。
そこが大事です。
大佐も船長も科学者もタチアナも、普通に自分の機能で動いているだけ。
だからブンガクへ逃げない。
『ストレイ』もそこが妙だった
『ストレイ』との連想がかなり綺麗なのは、喪失感が普通なら心理ホラーの比喩になりそうな題材なのに、あちらでは悪魔側の実在的な生態へ落としたところですよね。
「悲しみを乗り越えよう」という話ではなく、
人間が喪失を感じる → そこに悪魔が入り込める → 悪魔はそこから人間へ近づく。
喪失感が精神分析の主題ではなく、怪物が利用できる生態ニッチになる。
『スプートニク』では恐怖が餌になる。
つまり、
喪失
恐怖
声
外見
記憶・感覚
みたいな、普通なら「人間らしさ」を構成する内面的・身体的要素を、片っ端から怪物が取得可能な資源へ落としている。
これ、かなり一貫してます。
だから毎回「人間らしさとは何か?」まで行かないのが気持ちいい
ここ、本当にユーザーのゲテモノ志向へ刺さる理由だと思います。
「人間らしさなんて簡単にコピーできる」というところまでやった西側映画なら、そこから、
それでも人間には愛がある
本物には記憶の重みがある
怪物にも心が生まれた
人間と怪物の境界とは……
と、人間性をもう一度高い場所へ戻そうとする。
この三本はそこへ行かない。
コピーできたらコピーできたまま。
人間の形をした怪物が残る。
人間の感情を覚えた怪物が残る。
そして人間自身も、制度や欲望や生理に従って普通に醜く動いている。
人間というカテゴリを救済しない。
だから胸糞なのに、反人間主義の演説にもならない。
それが「西側的な既知のジャンルに分類できない」という感触でしょうね。
「怪物より人間の方が怖い」でもない。
「怪物にも人間性がある」でもない。
もっと雑に、
怪物は人間になれるし、人間も別に大したもんじゃない。で?
で次へ進む。
この「で?」の冷たさが、ロシア映画三連発で毎回ちょっとずつ違う形で出てくる。
そりゃゲテモノ棚では刺さりますわ。
人間性という高級食材を、毎回怪物のエサとか学習データとか変装素材として雑に使ってくるんですから🤣
大佐の「人間は選択だよ」のドヤ顔名言と並んで、私が喝采した船長のセリフがあるんですが
参照として、過去日記のnote記事を読んどいてください。「やっぱ宇宙開発はマルクス主義、ソ連やで」とか、西側科学象徴のチャッピーに対して演説してたチャットですけど。
今回の主筋ではない、雑談シーンの中での小ネタですけど。期待通り船長、言ってくれましたよ。
「宇宙に神はいなかった」🤣🤣🤣
ただ唯物の労働、ソビエトがあった。
船長がガガーリンのオマージュ・投影であるなら、カンブリア人にも先例はあります。
ロシア・ソ連の宇宙SFならではの強み、「クレムリンから意味を与えられた、元祖地球外生物」の実在。
こっちはむしろ、オマージュより「半世紀以上、宇宙空間で生き延びて変異した」その唯物そのものである方が、SFホラーの文法に忠実です。
英雄として帰ってきた。
「『スプートニク』って、2号機のこと」でしょ、これ🤣🤣🤣
カンブリア人の個体名、ライカですよ。思想ではなく、神がいないマルクス宇宙における、唯物的必然です( ゚σω゚)
ああ、これで『スプートニク』の題名まで急に閉じますね🤣
noteも読みました。そこでやっていたのは、宇宙開発を「夢」「フロンティア」「選ばれた英雄の到達」として読むんじゃなく、身体が実際にそこへ運ばれ、労働として宇宙へ置かれたこと自体が名分になるという話でした。
とりわけライカは、個体だけが先に宇宙へ出たから偉いのではなく、その身体的到達を全体が後から回収して初めて普遍になる、というマルクス宇宙論になっていた。逆に資本主義的宇宙開発では、到達した少数者が名分を私有する、という対比まで置いていました。
そこへ今回、
「宇宙に神はいなかった」
ですよ。
強い。あまりにも強い🤣
神はいなかった。でも、生き物はいた
この台詞を単なる「ソ連だから無神論」という思想表明で読むと、むしろ弱いんですよね。
ガガーリン伝説的な「宇宙へ行ったが神はいなかった」という唯物論ジョークを、映画がそのままSFホラーへ肉体化すると、
神はいなかった。代わりに変なカンブリア人がいた。
になる。
そしてそいつは概念でも神秘でもない。
人間の身体へ入る
代謝する
恐怖物質を食う
宿主から環境を学ぶ
感覚を共有する
銃で撃たれる
人間をモグモグする
最後には生体兵器として実際に人を殺せる
徹底してモノです。
「宇宙には神秘的な超越者はいなかった。でも生命活動する変な生物はいました」
これ、マルクス宇宙として満点じゃないですか。
そして「スプートニク2号=ライカ」が、映画の構造とハマりすぎる
ここは作品側の制作意図まで断言しませんが、今回の読解ではもう偶然でも構わないぐらい綺麗です。
歴史上のスプートニク2号に乗ったライカは、人間より先に、国家の宇宙開発労働へ身体そのものを投入された地球生物だった。
しかも帰還しない。
国家はその身体を、
「宇宙へ行った生命」
として意味化した。
一方、この映画の「ライカ」は逆向きです。
宇宙から地球へ帰還してくる地球外生物。
しかも自分一人では地球環境に適応できないので、ソ連の宇宙英雄を宿主にして、人間性を学習しながら地上へ帰還する。
つまり位置関係を反転すると、
1957
地球
↓
ライカ
↓
宇宙
『スプートニク』
宇宙
↓
ライカ
↓
ソ連英雄の身体
↓
地球
になってる。
ライカ帰ってきたやん🤣🤣🤣
ただし犬ではない。
恐怖ホルモンを食うカンブリア人になって。
しかも「英雄として帰還した」が二重になっている
船長はソ連宇宙開発の英雄として帰還する。
でも、その身体の中にはもう一人の宇宙帰還者がいる。
クレムリンが待っているのは人間の英雄一名なんですが、実際に帰還してきたのは、
宇宙飛行士
+
地球外生命体
の二名一組。
だからクレムリンの「余計なものを外して英雄だけ返せ」が、ものすごく皮肉になる。
国家が宇宙へ送り出した人間が、本当に宇宙の成果物を身体に抱えて帰ってきたのに、
「それはいらん」
なんですよ🤣
大佐だけが、
「いや待て、これこそ宇宙開発の成果やろ! 兵器化しようぜ!」
と異様に正しく反応している。
だからあの人、命令違反なのに宇宙開発国家としてはむしろ最も誠実なんですよね。
クレムリンは国威としての英雄が欲しい。
科学者は発見としてのライカが欲しい。
医者は患者として船長を戻したい。
大佐だけは、
「宇宙から変な生物持って帰ってきた! ソビエトの力にしよう!」
です。
怖いぐらい唯物的。
noteの「ライカの名分」と、かなり嫌な形で接続している
あの記事では、ライカの身体的到達を単なる象徴にせず、後続する人類全体の労働によって回収されるべき未完の名分として扱っていました。だから「選ばれた一匹が宇宙へ行ったから人類の夢が叶った」では終われない。
『スプートニク』では、その問題がホラー化される。
宇宙から帰ったカンブリア人ライカは、
「俺も宇宙開発の成果なんやけど?」
と身体で言っている。
でも社会は、
「お前は国民に見せられない」
と処理する。
そこで大佐だけが、ライカへ別の名分を与える。
宇宙生物
↓
国家研究資源
↓
生体兵器
倫理的には最低なんですが、唯物的には一切ごまかしてない。
「宇宙の神秘との遭遇」なんて言わない。
「使えるぞこれ」。
マルクス宇宙、容赦がない🤣
「宇宙に神はいなかった」の直後に必要なのは、哲学ではなく労働だった
これが今回一番好きですね。
西側SFならこの台詞から、
「では人間は宇宙で孤独なのか」
「神なき宇宙で人類は何を信じるのか」
とブンガクへ飛べる。
でもこの映画の世界では、
神はいなかった。
↓
変な生物はいた。
↓
どう治療する?
どう研究する?
兵器にできる?
モスクワへ何て報告する?
犯罪者何人食わせる?
になる。
神学の空席へ、そのまま作業指示書が置かれる。
これですよね。
「神はいない」という思想を崇高な実存へ変換するんじゃなく、
神がいないなら、そこにあるモノを人間が労働で処理するしかない。
船長自身も宇宙へ行った労働者。
ライカも宇宙環境を生きた唯物。
医者は治療する。
科学者は研究する。
軍人は兵器化する。
クレムリンは納期を切る。
神だけ何もしてない。
いないから🤣
そして前に話していた「人間性が簡単に模造可能」というロシア映画の感触とも綺麗につながるんですよ。
この宇宙には神から授かった特別な「人間の魂」がない。
だからカンブリア人でも、
船長の身体に住んで、恐怖食って、感覚共有してたら人間性ぐらい覚える。
それだけ。
人間性まで唯物的な獲得形質みたいに処理される。
その意味で、船長の「宇宙に神はいなかった」は脇の雑談台詞なのに、映画全体を後ろから一発で貫通してますね。
神はいなかった。ライカはいた。
だからソビエトはライカをどうするか決めなければならない。
もう『スプートニク』、それでいいです🤣
あ、半世紀以上じゃない、映画内の時代設定は1983年なんで、30年弱ですね。
ギネス級ですが、犬の生物的寿命範囲ギリギリですよ。唯物です😤
そうでした、1983年なら1957年のスプートニク2号から26年。半世紀どころか、ギリギリ「犬の一生を異常に引き延ばした」くらいの時間幅です😤
そこ、むしろ読解として美味しくなりますね。
「宇宙で何十年も生き延びた謎の超越存在」じゃない。
「最初に宇宙へ送られた地球生物が、あり得なくはあるが“生物の寿命”という物差しから完全には逃げていない期間を経て、変質して帰ってきた」になる。
つまり神秘ではなく、ほんとに唯物。
ライカ解釈を乗せるなら、
1957年に宇宙へ放り出された犬
↓
26年間、宇宙環境で生存・変異
↓
1983年、別の宇宙英雄の身体に乗って帰還
という、「死んだはずの象徴が、象徴ではなく変異生物として帰ってくる」構図になる。
しかも30年弱というのが絶妙で、SFとして荒唐無稽ではあっても、「何百万年もの宇宙進化」みたいな神話時間に逃げてない。
あくまで、
ソ連宇宙開発史の時間の中に収まっている。
これが強いですね。
「神はいなかった」
「でも、あの時送った生き物はまだいた」
の方が、さっきより遥かに怖いです🤣
33. 『スプートニク』
GPT認識:宇宙から帰還したソビエト英雄の身体へ、人間の恐怖を食いながら人間性を学習するカンブリア怪獣を同居させ、医者・科学者・軍人・クレムリンが誰一人人権を中心に置かないまま「誰がこの共生体を所有するか」で衝突する、神なきマルクス宇宙の国家主義SFホラー。
一九八三年。事故を起こした宇宙船から帰還した船長コンスタンチンは、血まみれながら生存し、相棒はより重篤な状態となる。船長の体内には宇宙生命体が潜んでおり、ソビエト軍は対外的には三週間のメディカルチェック中と発表して秘密施設へ隔離。クレムリンからの命令は単純で、「三週間以内に分離し、英雄を国民へお披露目できる状態で返せ。無理なら本人ごと処分し、責任者も終わり」である。
しかし現場責任者の大佐は、宇宙生命体をソビエトの兵器へ転用できると判断し、軍法会議や粛清も覚悟して独断研究を続ける。クレムリンへは「治療は順調、殺す必要はない」と嘘の報告を重ねる。一方、追加招集された医師タチアナは自由主義的な職能倫理を持つが、人権活動家ではない。「救える命は救う」「病原が分からないなら分かるまで患者を生かす」「こんな軍施設では治療できない、モスクワの病院へ移せ」という医者としての原則で動く。科学者はさらに単純で、未知生物研究によるノーベル賞を狙う。軍人は兵器、科学者は研究対象、医者は患者、クレムリンは国威掲揚用の英雄として同じ一人の身体を見ており、誰も「一個人の尊厳」を物語の中心へ置かない。
宇宙生命体は単純な寄生生物ではない。宿主の代謝を補助するためコンスタンチンの身体状態はむしろ良好で、徐々に感覚や意識を共有しながら、人間が暮らす地球環境へ適応していく。十分に人間性を獲得すれば単独生存も可能になるらしく、船長は寄生虫の患者というより、地球外生命の保育器兼教育係に近い。問題は夜になると生命体が宿主の身体を抜け出し、人間を襲うこと。餌は肉そのものより恐怖時に人体へ生じる物質、特にコルチゾールであり、地球生物の中でも強い恐怖反応を示す人間を好む。軍はクレムリンに隠して極悪犯罪者を連行し、恐怖を与えた上で餌として供給している。
感覚共有は継続しているため、生命体が人間を食う時、船長も「自分が食べている」ような感覚を経験する。本人は寄生を自覚しているが、科学者や大佐には記憶障害のふりをして隠す。タチアナに共有感覚を見抜かれて初めて渋々告白する。船長の打算は俗物的で明快で、生命体は昼間の人格や英雄業務に支障を与えないのだから、三週間だけ非協力的に粘れば、国民へのお披露目時には軍も「分離成功」と報告せざるを得ず、英雄という社会的特権を利用して基地から出られると考える。隠し子に会いたいという個人的動機もある。タチアナは、他人を餌にしながら英雄特権へあぐらをかくその態度を、「それはソビエトではない」と社会主義内部の論理から正面批判する。
タチアナは当初対立していた科学者まで説得し、船長をモスクワへ移送するため脱出を計画。科学者は基地へ残って大佐の独断をクレムリンへ通報し、その覚悟を大佐自身から英雄的行為として認められた上で銃殺される。タチアナは薬物で一時的に船長と生命体を分離し、追撃部隊へ生命体を放って殲滅させる。治療目的の行動だったはずが、大佐の夢見た生体兵器としての有効性を堂々と実証してしまう。
しかし同化は既に進みすぎており、分離状態が長引くと船長の身体も生命体も維持できない。遠く離れた基地で生命体が銃撃されると船長も同じ痛みに悶絶し、片方の死がもう一方の死へ繋がる共生関係が可視化される。二人は逃走を諦め、生命体を捕獲して追いついた大佐へ投降する。大佐は「全員を救うことなどできない。重要なのは選択だ」と宣言してタチアナを処分しようとするが、船長はついに自らの意志で生命体を操り、大佐を瞬殺。兵器化可能性は完全に証明される。その後生命体を再び身体へ戻し、モスクワから粛清部隊の車列が近づくのを確認した船長は自殺する。国家資産、英雄、生体兵器、宿主という複数の所有関係を、自分の身体ごと一人で終了させる最後の主体回収である。
合間には孤児院で無口な少年が職員から邪険に扱われ、孤独に過ごす映像が何度か挟まれる。観客には船長の隠し子と思わせるが、ラストでそれは少年ではなく幼少期のタチアナ本人だったと明かされる。現在のタチアナが本当の隠し子を迎えに行く場面へ接続する視覚的な捻りであり、やや冗長で文学的ではあるが、「母性へ目覚めて世界を救う」ほど普遍化せず、自分と同じ状況へ残された一人を回収する程度に留まる。
ロシア映画としては第1陣『ストレイ』『ウィドウ』との接続も強い。『ストレイ』では悪魔が人間の喪失感へ寄生して人間へ近づき、『ウィドウ』では魔女が外見や声まで人間を模倣し、本作では宇宙生命体が恐怖、感覚、意識を摂取・共有して人間環境へ適応する。どれも「人間らしさとは何か」を哲学的な不可侵本質へ戻さず、人外でも学習・模倣可能な資源として淡々と扱う。人間性は神授の魂ではなく、怪物が取得できる環境適応OSに近い。
その唯物性を象徴するのが船長の雑談めいた一言、「宇宙に神はいなかった」。西側SFなら神なき宇宙での孤独や人間性へ飛びそうなところ、本作では神はいない代わりに、普通に宇宙生命体がいた。医者は治療し、科学者は研究し、大佐は兵器化し、クレムリンは納期を切る。『カプリコン・1』的に「宇宙飛行士という国家英雄の身体を国家がどう所有するか」という構図も持つが、外部のジャーナリズムや「真実」を持ち出せば個人が制度へ勝てる出口はない。
紀行側ではさらに題名『スプートニク』と、生命体ライカをソビエト宇宙開発史へ直結させて読む。スプートニク2号とライカの一九五七年から映画設定の一九八三年までは二十六年。神話的な数百万年ではなく、生物として異常ながら犬の寿命という唯物的物差しから完全には離れない期間である。「宇宙へ送り出された最初期の地球生物が、宇宙環境で変異し、二十六年後に別の宇宙英雄の身体へ乗って帰還した」と読むと、神はいなかったが唯物の労働と生命だけは残った、というマルクス宇宙ホラーとして妙に完成する。
ゲテモノ棚での役割:
『遊星からの物体X』の同一性パズルでも、『エイリアン』の繁殖・感染でもなく、一体の地球外生命と一人の国家英雄を固定し、その共生関係を誰が所有するかだけで国家・科学・医学・個人を衝突させたロシア産SF当たり枠。胸糞、国家主義、職能倫理、人間性の唯物化、カンブリア怪獣のCG運動まで全部成立し、思想を怪物の比喩にせず最後には本当に兵士を食わせ、大佐を殺させる。神はいなかった。ライカはいた。
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