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#003 悪いニュースの共有 〜添えられた意味深なその一言〜

風の匂いが少しだけ変わる瞬間がある
季節の変わり目というほど大げさなものではなく、ただ、オフィスの空気がふと冷たく淀むような、そんな瞬間だ。

外資系企業の組織図というものは、経営学の教科書で教わるようなきれいな「ライン&スタッフ」の形をしていることの方がむしろ少ない。とりわけコングロマリットの色合いが濃く、数多くのリージョンをまたにかけているような組織では、僕らの頭上に複数のボスがちらついている。いわゆるマトリックス状のレポートラインが複雑に絡み合っている。僕にとって、辻本は直属の上司でもなければ、間接的なライン上の上司ですらなかった。それでも僕は、自ら進んで彼にお願いし、定期的な1on1の時間を設けてもらうようにしていた。

どんな組織にも、いわば「ご意見番」のような存在が付き物だ。辻本の反応は、僕らの現在地を測るための格好の試金石となる。辻本は本社だけでなく、社内のあらゆるチャネルに太いパイプを持っていた。法的な役職としての取締役というわけではないが、その実態は事実上の総責任者に他ならない。隠そうともしない事実として、そもそも僕をこの会社に引き入れたのも他ならぬ彼だった

一滴の静かな水滴がもたらす小さな波紋を恐れるあまりに二の足を踏んでいると、それがいつの間にか手のつけられない大きなうねりとなって押し寄せてくることがある。
悪いニュースというものは、いつの時代も、できるだけ早いうちに共有しておくべきなのだ。組織全体の秩序のためということもあるけれど、何より自分自身の心の中のざわめきを整理するために、それはどうしても必要なプロセスだった。達也からは、人事への一報を入れることの了解をあらかじめ取り付けていた。が、僕はまず、辻本に向けて短いメッセージを打ち込んだ。

”お忙しいところ、恐縮です。五分だけ時間をいただけないでしょうか?”
”15時頃にコールします。”

お互いに忙しい身だ。隙間時間を縫ってのやり取りなんてものは、日常茶飯事の、いわば「お互い様」の領域だった。Outlookのスケジュール表を覗けば、彼の予定はびっしりと埋まっているように見えた。が、どうせあの男のことだ、15時迄の打ち合わせなんてものは適当なところで切り上げる算段がついているのだろう。

案の定、15時になる10分前にコールがあった。僕は慌てて席を立ち、スマートフォンで通話ボタンを押しながら、誰もいない空き会議室へと早足で移動した。

「お忙しいところ、すみません。手短にお伝えします。実は、達也さんの件で……」
「うん、うん、……うん」
「明日か明後日には、もう一度時間を取って背景含めて再確認します。ただ、二月のこともあるし、退職の意思はかなり堅そうです」

状況をかいつまんで説明し、後ほど改めて詳細なメールを入れると告げると、彼はいつもの調子で言った。

「今川さん、早速の共有、ありがとうございます。それは実に残念な話ですね……」

毎度のことだ。そのいつでも変わらない紳士的な口調には、周囲の波風を完璧に押し殺すような独特の落ち着きがある反面、夜のニュース報道番組でキャスターが当たり障りのないコメントを読み上げているかのように、あまりにも型にはまった優等生的なセリフに聞こえてしまう瞬間でもあった。

「で、本社にも伝えるのかい? 人事には?」
「いえ、近々調整している会食で彼の意志をもう一度きちんと確認してからにするつもりです。まずは、辻本さんだけに」
「そうですか……」

約束の5分という時間は、すでにわずかに過ぎていた。電話を切ろうとしたその瞬間、辻本は僕に向かって妙なことを告げた。

「今川さん、私がこの話を聞いたのは『木曜日』ってことにしてもらえないかな?
「ん?、わかりました」

今日は月曜日だ。

その言葉が彼の思考のどこを通過して出てきたものなのか、僕にはどうしても測りかねた。そこにはただ、正確に処理された手続きのような、奇妙な空虚さだけが残されていた。そもそも、十年以上もの長い付き合いの中で、彼の口からそんな奇妙な依頼を聞いたのはこれが初めてだった。

その言葉の裏に隠された地殻変動の予兆を察知するだけの余裕が、当時の僕にはなかった。けれど、その足元で巨大なプレートが音もなく、しかし確実にあらぬ方向へずれ動いていたのだということに気づくまで、それほど長い時間は必要としなかった

今思えば、風の匂いは確実に変わっていた。


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