徳川最後の将軍 慶喜の本心

著者
植松三十里
出版社
株式会社 集英社
発行
2021年7月20日 第1刷
感想
手にしたきっかけ
以前、著者の「維新の虎 島津久光」を読んだ。
その中で登場する徳川慶喜。期待して会ってみたものの、実際は期待外れ。常に上から目線で、「こんな人物が将軍であるべきではない。」とまで久光に言わせている。
ここまででは無いにせよ、慶喜ってよく描かれていることがないなあと思いながらこの本を読み終えたのだが、広告のページで本書が紹介されていることに気が付いた。
既に著者は既に慶喜を主人公に小説を書いていたのか…一体、どのように描いているのだろう。と思い本書を読んでみることにした。
御三家と御三卿
よく○○御三家とか言うが元になったのは紀州、尾張、水戸の徳川家康の子孫である三つの徳川分家である大名を指す。
将軍の血統が途絶えた時に御三家から将軍に即位する。実際、7代将軍家継が早世し直系の血統が途絶えたことで、紀州藩主であった徳川吉宗が養子に入り八代将軍になった。これは知っていた。
本書を読んで知ったのは「御三卿」という言葉。
恥ずかしながら本書を読むまで知らなかったし。当然意味も知らなかった。
自身が将軍になった経緯を気にしてか、長男が病弱だったためか、先行きに不安を覚えた吉宗が自分の子供たちに分家してできたのが一橋、田保、清水の三家であり、総称して御三卿と言うらしい。ただ、こちらは大名ではなく領地も持たない、但し将軍を輩出する可能性がある家と言うことになる。
ざっくりまとめると、下記の通り。

慶喜の立場
慶喜は当時の水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれている。長男では無いので水戸藩を継ぐ立場に無い。本人も一生部屋住いの方が気楽でいいと思っている。また本書に限らず色々な所で言われているが文武両道、眉目秀麗であったらしい。
父である斉昭はいずれ慶喜を将軍にしたいという思いがあったようで、慶喜を御三卿の一つ一橋家に養子に出している。しかし慶喜にその気は無く父親にその旨の手紙を送っている。優柔不断なイメージを持っていたが、意外に骨太な所もあるのだなと思った。
父親の斉昭は世が世なら相当な政治家になっていたと思う。早くから外国船の脅威を予測し、水戸藩内でそれに備えた訓練を行ったり、身分に関わらず優秀な者を取り立てるべく、藩校を作ったり(慶喜も通っていた。)藩政改革を行っている。
ただ、改革には抵抗がつきものであることはいつの世も同じで、急激な改革に反発する家臣との間に溝が生じてしまい、改革を嫌う保守・門閥派との間で派閥争いが生じてしまう。
結局、本作での慶喜の生涯は形は様々だが、常に板挟みになる中でその時々の自分の立場に応じて自身のとり得る最善の方法(正解かどうかはともかく)を模索し続ける男として描かれているように感じた。
久光登場
慶喜が最初に板挟みになるのは、十三代将軍家定の後継問題。
まだ幼君である紀州藩主を推す譜代大名たちによる紀州派と慶喜を推す一橋派の争いである。
史実ではないと思うが、慶喜は紀州派の筆頭、大老井伊直弼に直談判して「将軍を受ける気は無い」と言い切っているのに、結局一橋派の重鎮である斉昭、松平春嶽、徳川慶勝らと共に隠居謹慎の処分を食っている。
本書はこの三名は井伊に抗議するための不時登城と言う罪を犯しているのでやむを得ないものの慶喜については何の罪もないのにとばっちりを食ったという立場である。
桜田門外の変から数年後に謹慎が解除されると、今度は薩摩藩が行動を起こす。幕府の改革を求めて軍を率いて入京するという。これを主導するのが藩主の後見人である島津久光である。(それまでは兄の島津斉彬が藩主であったが、急逝し久光の実子が藩主になっている。)
私としてはここでようやく登場したかという気持であった。そしてこれから慶喜はどのように「将軍であるべきではない」ことをするのだろうか。とても興味があった。
久光の改革案は次の通り。
将軍家茂の上洛。
慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職に任命。
薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の各藩の当主または先代当主を五大老として設置すること。
将軍後見職は従来のお飾りでなく、実際に将軍に代わって政治を行う役職。政治総裁職は大老。五大老は老中のようなものであり、政治の拠点が江戸から京都に移る内容である。
これはかつて一橋派が狙ってた通り幕政に関われない大大名で帝を担いで新体制を作ろうというものである。
幕府の老中は江戸に置いてきぼりになり、当然反発が起きる。
しかし久光はこれを勅命として下せば幕府は従わざるを得ず、帝にそれを促すため、軍を率いて京に入ったという。
慶喜は自身が絡んでいることもあるのか今更、一橋派の復活など望まないながらも、久光の計画自体は歓迎である。
しかし武力で朝廷や幕府を動かそうとすることには抵抗を感じるなど、この辺りは非常に複雑な心境だったことが窺える。
すれ違い
当時は日本が開国して欧米列強が世界のあちこちを征服していることである。当然、日本もこれらの国々に虎視眈々と狙われていた。
しかし、まだ外国に対抗するだけの力(軍事力)も無い。そのような状況下で日本人同士で争っていては外国勢力に付け込まれるだけである。従って内乱は避けなくてはならない。
朝廷は外国嫌いで既に事実上開港している横浜港を鎖港しろと言う。しかし、現実的にそんなことをすれば外国と戦争になってしまう。それは避けなければならない。
この点では慶喜も久光も同じ考えなのだ。所が本書では慶喜は久光のことを、朝議を牛耳って幕府にとって代わろうという野望が見え隠れするとか、横柄な男と断じている。
一方の久光も「維新の虎 島津久光」の中でこのシーンについて慶喜に謀られたと思っている。帝に横浜港鎖港を望む帝に翻意させるため、慶喜はあえて傍若無人な態度を取るがこれを久光は「自分たちは帝に反対している開港派と思わせて、自分達を失脚させようとしている。」と考えてしまっている。
兵庫開港問題もそう。慶喜は外国への回答期限が迫っているため、兵庫開港の決定を急ごうとするが、久光は禁門の変で朝敵となった長州への寛大な措置を優先させようとする。
慶喜も長州を攻めるべきではないと思いながら、優先順位が異なるという思いである。ここでも二人は結局、ゴールは同じなのにすれ違ってしまっているように感じる。
慶喜は「久光は長州と組んで話し合いの主導権を握ることを目的としている。既に薩長は手を組んでいる。」と感じているし、一方の久光は「維新の虎 島津久光」の中で「慶喜が兵庫開港を優先させようとするのは、兵庫にフランスの軍艦を配備して長州を攻めるため。」とか「慶喜は面目にこだわっており、既に幕府の権威は地に落ちているにも関わらず、それを取り戻したがっている。」と思っている。
実に勿体ない話である。双方に相手を理解する力があれば、このようなすれ違いは生じなかっただろうと思う。
「歴史にたられば」は無いと言うが、この国を動かす力のある実力者の二人が折り合って協力すれば、また違った歴史があったのではないか?そんな気がする。
著者はそんな二人の情景をそれぞれを主人公にした著作でうまく表現していると思う。手前味噌ながら案外、著者も私と同じ思いを持っているのではないかと思ってしまうのは私の勘違いか。
慶喜の逃亡事件の解釈
鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜が大坂城から逃亡した事件のことも触れられている。
本書では慶喜は既に旧幕臣たちの暴発を抑える力を失っているにも関わらず、薩長が次々に罠を仕掛け、もはや戦いは避けられない状況で、内戦を避けるため会津の松平容保、桑名の松平定敬を連れて江戸に戻る。あえて自ら敵前逃亡の汚名も着ている。
これについても久光の立場から見れば、戦意喪失した慶喜が敵前逃亡をしたといことで片付けられている。(実際の所はどうだったのかは慶喜が多くを語らなかったため不明だが。)
本書を読み終えて
一時は朝敵にまでなった慶喜だが、最終的には赦され名誉を回復して、晩年は写真など多趣味に暮らしている。更に明治天皇に拝謁までしている。常に帝を崇拝していた慶喜にしてみればこれで心残りは無くなったのではないかと思う。
一方の久光。こちらは慶喜と違い、穏やかな晩年とは行かなかったようだ。西南戦争で西郷隆盛を失い、翌年には大久保利通を失っている。
残念ながら本書では西南戦争についても大久保利通の暗殺についても、慶喜の気持が描かれていないのが残念だが、恐らく何の感慨も無かったのではないかと想像する。
久光の方は「維新の虎 島津久光」の中で自分は敵役として歴史に名を残すことになろうが、それで構わないと言っている。本心かどうかはともかく薩摩藩が明治維新の中心となったのは事実であり、それを統率したのが久光であり、歴史に名を残したと言える。
それにしても晩年、慶喜は久光のことをどう思っていたのだろうか。また久光は慶喜のことをどう思っていたのだろうか。
本書を読み終えてそんな感想を持った。お互い、亡くなるまで憎しみ合っていたのだろうか。それとも実は二人とも同じ目標を持っているが、それぞれの立場があり、政治的に対立する態度を取らざるを得ないことをお互いに分かっていたのか。
頭のいい二人のことだから後者であることを望むし、お互い憎しみは無かったと信じたい。
是非、本書を「維新の虎 島津久光」と読み比べてみることをお勧めする。
