( )に触れる 05 | 探究の扉
気づけば、当たり前のように使っている括弧。
「( )に触れる 05」ではメディアという切り口から、この記号を捉えてみます。
括弧は、やはり不思議な存在です。
文字を運ぶ器でありながら、中に並ぶ言葉の震え方を決める要素でもあります。
そうした二重性に触れていると、ふと思い出す視点があります。
メディア論の基礎を築いたマーシャル・マクルーハンが語った 「メディアはメッセージである」という向き合い方です。
マクルーハンは言いました。
メディアは透明でも中立でもないのだと。
例えば、言いそびれてしまったあのひと言を届けようとする時に、
手書きの文字に託すのか、今、目にされているような画面越しのフォントに変えるのか。
声にして届けるか、映像を添えるか、顔を合わせて話すのか。
その届け方自体が、すでにひとつの意味を背負っている。
マクルーハンはそう考えました。
贈り物にどの包装紙を選ぶか迷うように。
その包装紙そのものが、すでにメッセージを帯びているように。
括弧もまた、決して透明でも中立でもない、意味を帯びた記号に見えます。
同じひと文でも、ひとたび括弧に包まると、
その声量が大きくも小さくも感じられ、
その声色もどこか変わったように感じられます。
それはきっと、括弧そのものが伝言を忍ばせた存在だからです。
マクルーハンはこうも語りました。
新しいメディアの登場は、それが運ぶ内容を通してだけでなく、
私たちの生活や感覚そのものを変えてしまうのだと。
例えば、私たちは今、手のひらサイズの小さな世界を携えて生きています。
そのことで、人々は図書館や音楽室や画材室などを日々持ち歩くだけでなく、
頭の中に咲く無数のアイデアの欠片を、すぐに形にできるようにもなりました。
このことは、私たちの日々の過ごし方や「創ること」との距離感そのものも、少しずつ変えてきたように思います。
括弧もまた、そうしたメディアの一種として、
私たちの言葉の選び方や、気持ちの差し出し方に影響を与えているように思えるのです。
白黒をつけないまま、文の途中に感情を浮かべる勇気。
相手の受け取りやすさを思いやって、
あるいは、自分が本音を伝えやすいように施す配慮。
時には、あえて括弧を使わないことで示される潔さ。
それらはきっと、括弧というメディアを通して、可視化されてきた心の動きなのかもしれません。
括弧とは、ただの記号ではなく、
私たちのすぐそばで、情報を送受信してくれるメディアなのかもしれません。
皆さんは、括弧というメディアに触れ、灯った感情はあるでしょうか。
いつかそのようなお話も、お伺いできたら嬉しく思います。
【原著紹介】※敬称略
[原著]
Marshall McLuhan, Understanding Media, 2001 (1964).
[邦訳]
マーシャル・マクルーハン 著
『メディア論』、栗原裕・河本仲聖訳、1987年、みすず書房
