見出し画像

( )に触れる 06 | 探究の扉

気づけば、当たり前のように使っている括弧。
「( )に触れる 06」では、「公的領域・私的領域」といった補助線が浮かび上がります。

括弧は、改めて不思議な存在です。
そこに入れられた言葉は誰の目にも触れられるのに、なぜか誰にも触れられないような佇まいでそこにいます。

誰もが遊べる公園でありながら、秘密の花園にも見える括弧。
むすんでひらいてを繰り返すその記号に触れていると、ふと思い出す視点があります。
思想家ハンナ・アーレントが語った「公的領域(public realm)」と「私的領域(private realm)」という考え方です。

アーレントは、公的領域をこう語ります。
そこに姿を見せるものは、万人の目に晒され、万人の耳に届き、できる限り遠くまで広まっていく。
そしてその空間は、万人の存在を感じながら、自らの優れた面を示し合う場であると。
括弧の中に置かれた言葉たちもまた、読み手から公開されているものとして扱われ、公共の空間にあるかのように読まれていきます。

一方で、私的領域とはその万人による視線や聴く姿勢が奪われている空間だと説明します。
アーレントは、この視線と聴く姿勢こそが「現実味(reality)」を与えると考えるため、括弧をまとった言葉たちは、幾分、現実味を失っているとも言えるかもしれません。
それはつまり、こうして人々と接触しない真空状態で声を響かせるからこそ、公的領域では明るみにならない表情を見せてくれることを意味します。

括弧もまた、この二つの領域を持ち、ファッションショーのランウェイのような舞台と日記帳のような秘密基地を兼ねた記号に見えます。

括弧の中に現れるものは、公園で喜びをあらわにする子供たちのように、そこを横切る者たちの注目を集め、見られ、聞かれていきます。
また、括弧に入っている分、地の文よりも公示されていると言えるでしょう。

それと同時に、括弧の中に入れられたものは、どこか地に足がついていないような、脈絡なく現れたような趣きがあります。
その様子は確かに、現実味が奪われていると表現できそうです。

括弧は単なる記号ではありません。
現実に溶け込むことと溶け込まないこと、そのどちらにも身を投じずにいられることをそっと受け入れてくれる場所。
言い換えるならば、舞台裏に用意された楽屋なのかもしれません。

皆さんは、括弧という待合室で、公私の狭間を思ったことがあるでしょうか。
いつかそのようなお話も、お伺いできたら嬉しく思います。


【原著紹介】※敬称略
[原著]
Hannah Ardent, The Human Condition: Second Edition, 2018 (1958), The University of Chicago Press.

[邦訳]
ハンナ・アーレント 著
『人間の条件』、志水速雄 訳、1994年、筑摩書房


いいなと思ったら応援しよう!