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( )に触れる 08 | 探究の扉

気づけば、当たり前のように使っている括弧。
「( )に触れる 08」では、アウラという概念を頼りに括弧に改めて近づいてみます。

括弧は、いつまでも不思議な存在です。
括弧に包まれたその言葉は、その場でしかお目にかかれない出で立ちを帯び、引き寄せながらもどこか近づききれない空気をまとっています。

「いま」「ここ」で受け取ってほしい言葉を差し出す括弧。
括弧のその切実さに触れていると、思想家ウォルター・ベンヤミンが提唱した「アウラ(aura)」という概念が思い出されます。

ベンヤミンは、芸術作品についてこう語ります。
絵画など複製が難しい作品には、アウラが宿っていると。
アウラとは「いま」「ここ」でしか立ち上がらない「一回性」、そのたった一度が生み出す唯一性をまとった存在感や、対象に近づくほどにどこか遠ざかるあの感覚に見え隠れしているものかもしれません。

このアウラについて、ベンヤミンはこう続けます。
写真や映像など複製技術を活かした作品が台頭し、「アウラの消失」は避けられないと。
ここでお伝えしたいのは、ベンヤミンは何もアウラの有無と物事の良し悪しを結びつけることはしなかった点です。
ただ、複製技術時代の芸術作品はそれまでの物と異なることに注目したかっただけでした。
実際、アウラが消失した表現と向き合うと、惹きつけられて止まないといった引力は弱まったかもしれませんが、その分、羽が生えたような身軽さによる推進力が持ち味となっています。

括弧が文章に現れる時、書き手はその予期せぬ事態に少なからず驚いているのではないでしょうか。
また、その内容を書き留めておきたい衝動は、複製という感覚に陥ることなく、また湧き上がってくるものなのでしょうか。
そう考えると、括弧が置かれる時、その中に供えられる文言は一回性を帯びた「いま」「ここ」に残したい断片だと言えるでしょう。

つまり括弧は、結果的に言葉に唯一性を誘い込むように感じられてしまう、いわばタンポポの綿毛なのかもしれません。
ですが、綿毛は実を結ばないこともあり、結んだとしてもそれは何かを暗示しているわけでもなく、また、誇らしく咲くその花を目に出来たからといって、それが何かを保証してくれるわけでもありません。
ベンヤミンでしたら、このような但し書きを添えていたよう感じます。

皆さんにとって、括弧はアウラをまとった言葉を引き出す存在でしょうか。
いつかそのようなお話も、お伺いできたら嬉しく思います。

【原著紹介】※敬称略
[原著]
Walter Benjamin, Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzier-barkeit, 2024 (1935), Penguin.

[邦訳]
ヴァルター・ベンヤミン 著
『複製技術時代の芸術』、佐々木基一 編集・解説、1999年、晶文社

[参考文献]
多木浩二 著、『「複製技術時代の芸術作品」精読』、2000年、岩波書店


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