武藤富男という旧大日本帝国時代の法務官僚・満洲国高官を経て,敗戦後はキリスト教徒として大きく転回していき,それなりに大物になった人物の「旧満洲国時代における翼賛ぶり」をしりたくも想い出したくもなかったウィキペディア「武藤富男」の紙面(その2)
【冒頭断わり】 「本稿(その1)」があるので,できればこちらからさきに,読んでもらえると好都合である。
1 ウィキペディアに解説された「『武藤富男』の〔執筆内容の〕変更履歴」に記録されていた感情むき出しの「記述を変更した理由」をめぐる文言
武藤富男という人物に関しては,いまから7年前の2019年12月10日に,参考にまでというつもりでウィキペディアの解説を読んでみたさいに,この画面を印刷しておいたものが,本ブログ筆者の蔵書,武藤富男『私と満洲国』文藝春秋,1988年のなかに挟みこんで保存してあった。
今回,武藤富男に関してあらためてこのブログで書くことになり,いまではすっかり忘れていた現物資料であったが,それではということで再度,武藤富男の項目をウィキペディアで検索したところ,その記述内容がだいぶ変更されていた事実に気づいた。
その変更は,2019年の場合,武藤富男に対するきびしい批判が記述されていたのに接したある人が,これにだいぶ「立腹した様子」を露わにした口調で非難しつつ,その「『武藤富男』の変更履歴」を書いていた。
その理由を聞くまえに(関連する記述は後段でおこなう),明治学院という学校法人の戦時体制史に関連した記録の,以下のような一端をしっておくのが,行論上便宜である。
補記)なお本日,2026年5月26日時点でウィキペディアの武藤富男に関する記述を,再度のぞいてみた。2025年中のそれと特段の変化はないように感じた。
この「武藤富男」的な「歴史政治学的な問題」がどのあたりに伏在していたかは,まさに本記述が連続モノの討究をしていくなかで徐々に解明し,鮮明にするところとなるので,あとはこの「全8回で完になる予定」の記述全体を通して,読者諸氏の受けとめによる判断を仰ぎたい。
〔記事・本文に戻る→〕 ここで,金城学院大学文学部教授落合建仁「富田 満をめぐる諸課題」 『キリスト教史学会第75回大会シンポジウム』2024年9月13日, https://shsc.jp/img-taikai/2024taikai/落合建仁.pdf を参照する。
富田 満(とみた・みつる,1883-1961年)は,どのような人物であったか。インターネットで検索にかけると,こう書いてある。
愛知県出身,神戸中央神学校卒。1918年アメリカのプリンストン神学校に留学し,帰国後,東京の芝教会牧師を41年間務め,1941年日本基督(キリスト)教団の初代統理となる。
敗戦後は,明治学院院長,東京神学大学,金城学院の各理事長などを歴任し,1961年1月15日死去,77歳であった。
富田 満は,金城学院理事長としてよりも国家権力によって合同させられた日本基督教団統理としてしられ,戦時下の神社参拝の容認,伊勢神宮参拝,大東亜戦争への協力など,教団責任者として彼がおこなってきたことが,戦後厳しい批判にさらされたとき,彼はいっさい弁明しなかった。
敗戦後において,たとえば市村與市(1881-1953年,金城学院の教頭,校長を経て1941年理事長兼任,1949年大学設置とともに学長就任)は,戦時下の過ちを,米国南長老教会派遣の使節団の前で告白した。だが,富田はいっさい弁明しなかったのである。
明治期から戦時・昭和期にかけて日本においてとくに,名古屋(東山学院など)や岐阜を中心に開拓伝道や教育活動に尽力してきた米国南長老教会の宣教師ジェームズ・マカルピンは,つねに日本のキリスト教界のために奔走したことでしられるが,
敗戦後になって岐阜の自宅に「富田 満,市村與市,番匠鐵雄,近藤武一」を招き,戦時下の神社参拝を批判したとき,4人は黙して一言も語らなかったという。
富田の死後,貴重な資料は東京神学大学図書館に寄贈されたが,戦時
下の統理としての苦悩について記されていた日記だけは寄贈されなかった。彼の苦悩をしっているのは,神のみである。
補注)主に,落合建仁「富田 満をめぐる諸課題」1頁,1-2頁参照。
富田 満は戦時下の日本基督教団の責任者であったため--(ここでの主題「大東亜共栄圏とキリスト教-戦時期東アジア地域における教会合同運動-」との関連でいえば,たとえば「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」〔1944年3月26日〕は彼の名前によって送られている)--,
敗戦後,日本基督教団の戦時下のあり方が問われるさいに,富田の名が必然的に--多くの場合批判的文脈で--言及されるのであった。ここでその具体例をあげることはしないが,それは枚挙にいとまがないといえよう。
しかし,富田 満の名が批判的文脈で言及されることが多々あったとしても,その本格的な論考となると,これもまた意外なほどに数が少ない。
たとえば,金田隆一「富田 満と教団の戦争責任」(『福音と世界』1975年9月所収,29-38頁)や柴田智悦「富田 満の信仰と思想」(信州夏期宣教講座編『「日本的キリスト教」を超えて』いのちのことば社,2016年所収,79-114頁)程度ではないであろうか。
富田 満をめぐる一つの課題があるように思われる。つまり,日本基督教団統理者としての富田 満その人をめぐる諸問題--たとえば……眞山光彌も言及していた諸点等〔このところは逐次言及していく〕--はいくつもあるかもしれないが,
まずは,その思想や論理,行動について,広く史資料に基づいて精緻に検討・分析する手続きを経て評価する必要もまたあるのではないか。そもそも富田 満の生涯さえも,実は詳らかではないのである
注記)落合,前掲稿,2頁。なお,文中内に振られている「連番」の「注記」は,本記述中ではあえて割愛した。文意に支障はないが,関心のある人は,前段に明記されているリンク先住所を参照されたい。
以上のように,なんとか解説されていた富田 満は,戦時体制期における日本キリスト教史において,いわば「キリスト教会の戦争責任問題」のまさに〈要〉に位置する人物であった。
前段に引照した文献のなかに金田隆一が登場していたが,そこで言及されていた一文,金田隆一「富田 満と教団の戦争責任」(『福音と世界』1975年9月所収,29-38頁)は,単著『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争のもとで-』新教出版社,1996年の,第10章第2節に収録された『大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡』〔1943年4月〕と同旨(転載収録されていた論稿)と思われる。
ここでは詳細な紹介はできないので,その最後部において,家永三郎『戦争責任』岩波書店,1985年が引用されていた個所のみ,書き出しておく。
1944年復活節の日に日本基督教団統理富田 満の名で発行された小冊子『大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡』……は日本占領下諸民族への日本宗教者の責任の逃れがたい一証左といえよう。(この段落は家永三郎会からの引用)
私〔金田隆一〕たちは灰をかぶり,ただ神と隣人に対し悔改めをなし,その赦しを祈り願い,再びその過ちを繰り返さないことを願うのみである。
付記)「 …… 」の表記は,原文どおりの引用。
2 ウィキペディアに解説された「『武藤富男』の〔執筆内容の〕変更履歴」に記録されていた感情むき出しの「記述を変更した理由」をめぐる議論(2)
武藤富男は自著『私と満洲国』文藝春秋,1988年のなかでは,「カイライの満洲帝国」支配のもとにあって,中国人たち(など)が大日本帝国からどのようにあつかわれていたかに触れていた。なお,武藤は満洲に国家官僚として,それも高位の階層に属する人間として暮らしていた時期,すでにキリスト教徒でもある立場を守るべき信仰生活にあった。
武藤富男は,満洲国においてはこの国家体制を脅かす存在の疑いある者たちは「臨陣格殺」によって処分(その場で当人を処刑する方法)された現場に,実際に出会ったことがある。しかし,前段に挙げた武藤の同書は,いちおうはつぎのように,その出来事について回想していた。
けれども,その言及はきわめてぬるい意識をもって語られていた。以下に引用する文言は
超裁判的措置,臨陣格殺を行ないつつ国を建てることには大きな障害が立ちはだかる。この困難を克服しようとする警察の努力は,司法の革新に比しどんなに大きなものであろう,と感じたのであった。
また武藤富男は,「日本は満洲国に投資をしただけで,搾取は殆どしていない。国家社会主義を近代産業に適用したこの国,日本の大資本は,特殊会社とし政府の監督下に置き,配当は法律で5パーセント以下と定めていた」などと説明していたが(17頁),こうした解釈に対しては,現代の中国側に答えさせたら,それはもう強烈な批判が跳ね返ってくるだけである。
大連駅や新京市(当時の市名で現在の長春市)などに,満洲国時代に建造された堅牢な建物群が,いまもなお活用されているからといって,この事実を「旧日帝は植民地やカイライ国で善いこともした」などといったら,顰蹙を買うどころか,両国の友好話など,初めから吹っ飛ぶ。
ここで,前段のその話題に似た韓国の場合,つまり「朝鮮総督府の建物が歩んだ歴史」に,ちょっぴり触れてみよう。
韓国のソウル市にあった旧朝鮮総督府のあの立派なビルディングは,現在は解体されて存在しない。この事実は,中国における旧満洲国が残したビル群とはかなり事情が異なっていた。
もっとも,韓国で話題になるのは,その朝鮮総督府の建物だけであったが,旧満洲国の場合は,都市計画的に多くの庁舎が建設されていたから,これをすべて取り壊すよりも再利用したほうが,第2次大戦後の中国にとってみれば,実質的にはそれじたいの対処としては,ともかく当面の得策であり,かつまた経費(設備投資)面でも賢明な利用法であった。

しかしなんのためにこのような建造物を造ったのか?
上にかかげた写真に添えられていた解説の文章の残りがまだだいぶ残っていたので
つぎにつなげるかたちで引用しておく
光復後は「米軍政庁」(1945~48年)として
大韓民国成立後は「中央庁」(1948~80年)として使われ
大韓民国憲法公布や政府樹立や毎年の光復記念日には国民祝賀式の舞台となった
その後は「国立中央博物館」(1986~92年)として使用されてきたが
金泳三政権は「日帝の植民残滓を清算し民族の精気を回復する」として
光復50周年の1995年8月15日尖塔の切断式をおこない解体撤去した
その残骸は歴史教育の資料に活用するとして 京畿道天安市の独立紀念館の敷地に展示されている
注記)「朝鮮総督府の建物が歩んだ歴史」『KBS WORLD JAPANESE』2021年5月29日 https://world.kbs.co.kr/service/program_segments_view.htm?lang=j&procode=one&bbs=nphistory&no=38280
かといって(そうだとも確かにいえないことはないのだが),「日本はかつて,貴国においてはいいこともした,立派な物的遺産を残した」といったごとき反論をするのは,軽率どころか,相手の神経を逆なでするような無神経。
第2次大戦後の日韓のあいだにおいては,その種の妄言がしばしば間欠温泉が噴き出るかのように繰り返されてきた。むろん,日本側からいつも提供されるそれであった。
相手国側にいわせれば,旧日帝という侵略国自身のために,その支配・統治のための必要・都合があって,いわば勝手に造っておき,敗戦後に残った遺物を,現地の人びと(政府)が再利用したからといって,この事実をとらえて「善いこともした」というのは,暴言そのものになる。
その発想では,かつてにおけるこの国に侵略路線を,そのままそっくり肯定した理屈だと,相手側には受けとられること必至である。

設計者が上野駅( ↓ )と同一人である点は素人目にもすぐ分かるが
大連駅のほうが規模が大きい事実は窓の大きさとこの数からもよく伝わってくる

武藤富男の話に戻る。武藤はキリスト教徒として日曜日には教会に礼拝にいく人間であった。もちろん,満洲国に移動する以前から,若い時期からの信仰生活を守っていた。それゆえ話題は,この「生涯,キリスト教徒であった」人物論の遍路「歴」に基本から関連するはずの論点につながる。
3 ウィキペディアに記述された「武藤富男」に関する内容の変化
1)「武藤富男」の変更履歴 つぎの画像資料をみたい。この2024年1月18日は,「『満洲国』をめぐっては様々な立場の見解があるのに,在日韓国人による悪意ある誹謗中傷同然の記述のみで編集するのは,明らかにウィキペディアの中立性を損ねている。コメントアウト」(取り消し)とある点が興味深い。

掲載されていた文章に対するコメント
この「在日韓国人による悪意ある誹謗中傷同然の記述のみで編集する」のは不可だという見解は,門前払いの気配だけでなく,「それまで記載されていた事実(時間の経過)に対する異様なまでのいらだち」も感じさせる。
武藤富男を批判をしたら悪意なのか,日本人ではなく在日「韓国」人がそうしたら,もともとモットいけなかったみたいな情感的な反応を突沸させていた。さまざまな見解があるとはいうものの,ウィキペディアの記述のその「表面」には直接出ないところ(編集の裏舞台)で,そのいらだちをゲロしたとしたら,これは大人げない。
ともかく,「様々な立場の見解があるのに,在日韓国人による悪意ある誹謗中傷同然の記述」と書かれていた文言は,「在日韓国人による悪意ある」「誹謗中傷同然の記述」だから,さらにくわえては,これ以外に「様々な立場の見解がある」ゆえ,削除・抹消すべきだということらしい。というしだいで現在は,その記述部分はなくなっている。
その悪意とは,どこにどういうふうに書いてあるから悪意になるのか,そのようなやりとりなどとは無縁の場所で,好き勝手風に引きつけた発言をしていたようだが,「ともかく」「おかしいと思い,批判の余地があると感じるのであれば,正々堂々とより公衆の面前に出せる」かたちで議論すればよい。
2)関連する事情について,少し説明しておこう。
本ブログ筆者は武藤富男については以前から,関心があった人物だったので,2019年12月20日の時点で実は,ウィキペディアから武藤富男の解説を印刷してその複写を取り,保存してあった。
そして,たまたまこの記述を書くに当たって,そういえば武藤富男に関したウィキペディアの記述がどうなっているかと思い,2025年4月27日になってだったが,あらためてのぞいてみたところ,前段のように説明した理由(異論・反対)があっての事情をすでに経ていたせいか,その内容がかなり変わっていた。
ということで,あとは読者の受ける印象や自分なりに考えてみる判断に任せるほかないが,前段のような「2019年」と「2025年」のそれぞれ,ウィキペディアにおける武藤富男の解説を,印刷してあった現物をかかげるかたちで紹介しておくことにした。


なおこの解説中に出ている sakura.ne.jp はすでに閉鎖されており参照不可だが
実質的には
本ブログの記述がその改訂版になっている



なお最後行の「親族」という項目の本文が次頁にかけて記述されているが
こちらは紹介しない
富男の息子羊一に関する記述がわずかなされている
この羊一という名前がどこに由来するかは
キリスト教に関して入門的知識があれば即答できる
3)富田 満と武藤富男
要は,前段で言及したごとき「富田 満的な話題」,それもかなりきわどい論点が,敗戦後になってからの,それもすっかりキリスト教徒の立場にのみ立脚しうる職業生活に,完全に移行しえてからの武藤富男の生き様そのもが,
かつてにおける「富田の戦時的な立場」に共通していた事実,いいかえれば,その基盤とまったく同一の場所にか,あるいはそれ以上にも「歴史的な舞台・足場=旧傀儡国家:満洲帝国」に立っていた事実を忘れてはいけななかった。
この種の戦前期における「過去の記憶」は,武藤富男の経歴に照らしてみれば,ガッテン承知の意識界に明快に属させえていた問題ではなかったか。「本稿(その2)」の続編がまだ何編もあるので,その付近の指摘はそちらで指摘することだけ,ここでは断わっておく。
要するに,その論点を突いて批判的に議論した在日「韓国」人の,ウィキペディアにおけるその「武藤富男に向けられた悪意ある誹謗中傷同然の記」とは,いったいどのような読み方をして決めつけ,説きえたつもりになれたのか。
「様々な立場の見解があるの」だからと断わったうえで,その付近に随伴・誘発される可能性のある批判は,ひとまず予防的に度外視できるかのように措置しておき,しかも反感の意識だけをむき出しにしたうえで,当該のその記述を「削除・抹消・隠蔽させた」というのであるから,大人げない。
本記述では冒頭でこういった言及があった。もう一度,ここに蒸し返しておくために再掲する。
明治期から戦時・昭和期にかけて日本においてとくに,名古屋(東山学院など)や岐阜を中心に開拓伝道や教育活動に尽力してきた米国南長老教会の宣教師ジェームズ・マカルピンは,つねに日本のキリスト教界のために奔走したことでしられるが,
敗戦後になって岐阜の自宅に「富田 満,市村與市,番匠鐵雄,近藤武一」を招き,戦時下の神社参拝を批判したとき,4人は黙して一言も語らなかったという。
富田の死後,貴重な資料は東京神学大学図書館に寄贈されたが,戦時
下の統理としての苦悩について記されていた日記だけは寄贈されなかった。彼の苦悩をしっているのは,神のみである。
なにも応答・反論できなくなっていた事実はとても興味深い
しかも,ウィキペディアの記事の正面にすぐには出ていない場所での “暗躍ぶり的な言動措置” は,まさか「反韓感情」ないしは「嫌韓意識」のなせる業か(?)などとも邪推したくもなる。もっと,大人になったつもりでのやりとりにしたいもの……。
以上のごとき反論(反批判)が提示できる,それも歴史的に実証(反証)可能な議論を事項の4で記述していきたい。
4 明治学院敗戦50周年事業委員会編『未来への記憶 こくはく 敗戦50年・明治学院の自己検証』ヨルダン社,1995年8月15日からは完全に抜け落ちていた「武藤富男の戦争責任論」は,富田 満の問題に通有する基本性格があった
ここでは, 島田由紀「官製宗教と向き合うキリスト教主義大学-『信条としての宗教』と『儀礼慣行としての宗教』のはざまで」『国際交流学部紀要』第9巻,2007年3月から引用し,前項の3まで記述してきた内容との連関で指摘できる論点を示唆してみたい。
富田 満は,戦前・戦中におけるキリスト者としての自分の行為をなにも弁解しなかった記述されていた。
一方の武藤富男は敗戦直後の,GHQ由来になるパージを受けてから,それまで戦前・戦中における大日本帝国ならびの満洲帝国における日本人国家官僚としての,くわえて,キリスト者としての関与・介在を,のちには自著のなかで語ってはいたものの,実質においては「富田=武藤」として両者の戦時体制期像は重なるほかなかった。
武藤富男は,敗戦後(被占領期)からすでに何冊かの著作を公刊していたり,あるいはのちにも,大部の著作『社説三十年-わが戦後史』(第一部・第二部)キリスト新聞社,1975年・1976年の公表など機会を通して,自身の立場に関連する見解(人生観・世界観・宗教観)を開陳してきた。
補記)「本稿(その1)」で冒頭にかかげてみた画像資料は,つぎのものであったが,ウィキペディアで武藤富男関係の記述を「自分たち好み」に変更(編集)していた者たちは,このような指摘にどのように応えることができるのか? はたして,真っ向から批判を返してうえで,説き伏せることができるのか?

左側は賀川豊彦
〔記事に戻る→〕 しかしながら,実際にそれらの書物を読んでみた者たちからみなおす,武藤富男の「戦前・戦中から戦後への思想像」,それも「キリスト者としての立ち位置」に関した記述は,なお不透明・不徹底が顕著であり,換言すると身びいきないしは贔屓の引き倒しになっていた。
その点は,つぎの学術論文も指摘するように,明治学院じたいまつわり生じていた固有の問題性に関係していた。
その要旨は,学術論文に記述された論点把握から,その付近の問題性を示唆する程度に留めておくけれども,武藤富男自身にまつわる「かつての国家官僚像」から「それ以後のキリスト教徒」への連絡ぶりには,理解しがたい相互間の不可解で不徹底な架橋ぶりが,皮肉にもその後になってもなお色濃く残っていた。
以上の指摘をより具体的に説明してみれば,つぎのような関連事情に対する観察事情の分析となるはずであり,こうした詮議に照らしても確実に妥当するものであった。
さて以下は,島田由紀「官製宗教と向き合うキリスト教主義大学-『信条としての宗教』と『儀礼慣行としての宗教』のはざまで」2007年3月の,第3章「『宗教』教育における今日のキリスト教主義大学の役割と課題」からの引用となる。
戦時中の教会の国家への協力--戦時体制への経済的・物質的協力と教会組織を通じた信徒・非信徒の思想誘導への協力--の問題は,戦後の日本基督教団の内部でも大きな議論の一つとなってきた。
しかしながら,単にキリスト教界内の内紛といった枠を越えて広くインパクトをもたらしえたような動きは,教団・教会内部よりもむしろキリスト教主義大学を舞台に起こってきた。
1995年6月の1週間,明治学院大学では全学を挙げて戦後50年を記憶する授業の取り組みがおこなわれた。一連の取り組みのなかで,当時の中山弘正学院長は「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」を発表した。中山の「告白」する「罪」には3つのポイントがある。
第1に,明治学院が侵略戦争に加担したこと。
第2に,明治学院で責任ある立場にあった者が,学内・学外で諸々の国家的儀礼を推進し,思想的に国家に迎合したこと。
第3に,戦後長い間これらの戦時中の罪を告白してこなかったこと。
この3つの罪を中山は,神とアジア諸国の被害者との前に告白したのである。
第2次世界大戦中には「国民の儀礼とキリスト者の内的信仰は互いに矛盾しない」と当時唯一存在したプロテスタント・キリスト教団であった日本基督教団が公式に見解を発表していたのであるが,それに対して,
50年の年月を要したとはいえ,キリスト信仰に基づいて個人・団体が「そのような見解は誤っていた」と公に認めてその告白を外に向けて発信した点で,明治学院と中山の取り組みと「告白」は大きな意義をもつものといえよう。
しかし,キリスト者が内的信仰と外的行為の間の葛藤に直面したのは,けっして過去の出来事ばかりではない。現代のキリスト者が内的信仰と外的行為の齟齬のはざまにおちいった一つの代表的 な「事件」は,昭和天皇病状悪化から死去・葬礼に至る一連の儀礼・慣行であろう。
1988年秋から1989年初頭に至る期間,一部のキリスト教主義大学はこの「事件」に直面して大きく揺れた。1988年秋,昭和天皇死去のいわゆる「Xデイ」を睨んで多くの大学が学園祭を「自粛」(中止または縮小)するなかで,
森井 眞・明治学院大学学長(当時)が,行事の自粛をおこなわない旨,学長声明を出したところ,学長個人・大学関係者に対して,命の危険を感じさせるほどの暴力的な言葉によるハラスメントが殺到した。
また,昭和天皇死去後,フェリス女学院大学・明治学院大学を含む4つのキリスト教主義大学の学長(当時)が連名で,大嘗祭・即位の礼という天皇交代の神道儀式に莫大な国費を支出することは,憲法の保障する信教の自由と政教分離に抵触する恐れがある,との疑念を発表したのに対して,
弓削 達フェリス女学院大学学長(当時)宅に暴力団組員によって銃弾が撃ちこまれた。いずれもキリスト者を含む多くの人々に衝撃を与えた事件であり,個人や団体が,内面の信条·確信の内容にかかわらず,外面的には社会において主流なる行動·儀礼に参画することが強制され,それに対して異議を唱える自由が封じられた事件であった。
2007年3月,136-137頁
この嶋田由紀「論稿の筋書き」に即しては,以下のように解釈する。
武藤富男は戦後になってから「明治学院においては,どのような立場,どれほどの重職に就いていたか」(?)という問題を問われながら,と同時にまた,戦時体制期における「満洲帝国」ならびに「大日本帝国」における「高級官僚」としての職分遂行に関しても相互関連的に問われるべき,
それも単に,ある意味などでなどというまでもなく,武藤自身がもっとも強く,深く,前段のような具体的な問題契機に,その後においても対峙してきた「当時者であった経緯」からも観てこそ,彼自身にまつわる「歴史の事実」として問われるべき論点があった。
にもかかわらず,武藤富男は敗戦後から長い期間,そのような人生における対峙する方途は,とりわけみずからは採るところとはしなかった。
--本日の記述はすでに十分長めになってきたので,以上までの論旨を受けたさらなる問題点の提示とこの議論の展開は,次稿に譲ることになる。
要は,明治学院は「未来への記録」を留めるためにダテや酔狂で,「敗戦50年・明治学院の自己検証」を,明治学院の戦時体制期史に実録された記録を見直すための『こくはく』として,ただおこなったのではあるまい
ところが,明治学院の関係者として非常に重要であり,偉大な人物であった武藤富男の,「往時における」「戦時体制期のキリスト者としての存在様式」に関して,そしてさらに,敗戦後になってから「公職追放」を適用された彼の身分になってからだと,戦後史においては日本を代表するキリスト教徒指導者となって大活躍してきた経歴に関しては,
戦時体制期における武藤富男の生き様は,ひとまず棚挙げというかお蔵入りさせたごとき,「人物論(人間譚)」に終始した「キリスト者としての評論」は,接する者をして非常な物足りなさを感じさせる。
満洲帝国時代には,あの傀儡国で高級官僚の地位に就き,それなりに恵まれた人生を過ごしてきた武藤富男は,自著『私と満洲国』文藝春秋,1988年のなかで,「臨陣格殺」の実際場面に遭遇した場面を描いてはいたが,モーゼの十戒にある何句に反していたか,一度でも考えてみる余地は間違いなくあったはずである。
『モーゼの十戒』はと旧約聖書の「出エジプト記」などに記述されている10項目の基本的な戒めである。
1 唯一の神を信じること
2 偶像を造り,拝んではならない
3 神の名をみだりに唱えてはならない
4 安息日を守ること
5 父母を敬うこと
6 殺してはならない
7 姦淫をしてはならない
8 盗んではならない
9 偽証(嘘の証言)をしてはならない
10 他人のものを欲しがらない
これらは神と人々が結んだ契約の基本であり,人道的な道徳のルーツにもなっているとも説明されている
さて,武藤富男は満洲帝国時代において当地に生活の居を構え,しかも高級官僚としての地位にあった時期,以上の『十戒』のうち確かにいくつかについては「犯していた」としか観察できなかった。
その指摘=観察については,本記述が回を重ねるなかでさらに分明にしていく内容となるが,ここでは満洲という地に生活の場を移していたときに武藤富男が「犯していたと推定できる〈十戒〉の項目」を指摘し,この「本稿(その2」の記述を終えることにする。
それは前段ですでに太字にしてあった項目,すなわち,直接:個人史的には「1,2,3」があり,そして間接:国家官吏的には「6,8」があった。
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【付 記】「本稿(2)」の続編(3)は以下である。
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