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武藤富男という旧大日本帝国時代の法務官僚・満洲国高官を経て,敗戦後はキリスト教徒として大きく転回していき,それなりに大物になった人物の「旧満洲国時代における翼賛ぶり」をしりたくも想い出したくもなかったウィキペディア「武藤富男」の紙面(その3)

 1 戦時と戦後-国家全体主義の時代から天皇制民主主義の時代へ- 


 「本稿(その3)」は,以下の「(その1)と(その2)」を踏まえての記述となっているので,できれば,こちら2稿をさきに読んでもらえると好都合である。


 戦前・戦中,元「満洲国(満洲帝国)」政府の高官となっていた武藤富男は,自分個人における「官僚と政治と宗教」の立場,換言すれば,あのデッチあげられ建国されたその国の「行政管理」と,この国家体制のなかで自分自身の「宗教の立場」であった「キリスト教徒」の信仰生活とを,どのように調整・妥協をさせつつ,満洲という異境の地で生きてきたのか。

 もっとも,武藤富男は昭和18年中には日本に戻されていたゆえ,1945年8月8日の出来事(事件),ソ連参戦が起きた修羅場には遭遇せずに済んだ。「満洲国」における歴史の展開は,武藤によってどのように認識されていたかについては,ともかく,満洲国で旧大日本帝国が努力して残した遺産は,それなりに評価できるとする立場から発言していた。

 補記)武藤富男が満洲帝国での任務を終えて帰国した正確な日時に関しては,残された公的記録や研究において「昭和18年」と記されている。その具体的な月日までは特定されていない。

 関係する重要な経緯が分からなくはなく,こういう記録があった。

  1934(昭和9)年から武藤富男は,満洲国国務院弘報処長などを歴任したなかで,同国の法整備や文化政策にたずさわったのち,1943(昭和18)年に内地(日本本土)に移動,帰国する。

 より詳しく詮索してみると武藤富男は,1943年5月時点で,情報局情報官としての叙位(叙正五位)に関する公文記録--同年5月10日裁可,同月15日に官報等で位階を叙せられている記録--があるので,

 この時期(まで)からは,日本に移動(帰国)したのち,内閣情報局に就任し,情報局情報官・第一部長などを務めていく経歴を積んでいた事実が分かる。

補記)1943年5月以降 武藤富男の経歴

 前段・本文で触れた武藤富男の自分史をめぐる立場の変遷は,武藤が書いてきた著作になかのあちこちに書きこまれた「意志」の変質のなかに表現されていた。

 基本,彼が「旧日帝は自分も含めてだが,満洲・満洲国ではよいこともした」という「式」の発想を,間違いなく《太い尻尾》して抱えていた事実は,彼自身が文字として残してきた著作のなかに,いまとなっては隠しようもない《その姿》として明確に説明されている。

【参考記事】-1941年6月26日 満洲帝国皇帝「溥 儀」日本訪問-

溥儀の日本訪問を東京駅プラットフォームで出迎えた天皇裕仁

 武藤富男が満洲国官僚に赴任するさい,提示された年俸は6500円であったが,この金額は,当時の大審院長のそれと同額であったというから,まだ30歳になる1934年時点でのその待遇は,いってみれば「戦地手当の満洲国版」とでも解釈できそうな,法外(!)もいいところの,まさに超破格の年俸であった。

 補記)この年俸の話は,武藤富男『私と満洲国』文藝春秋,1988年,17頁に記述されている。

 前段・本文に記述された,当時の満洲国で武藤富男が支給された年俸6500円は,現時点に換算していうと,4000万円ほどに相当すると推定される。

 これは,いまの内閣総理大臣と同水準の給与水準であり,三権の長として1人しかいない最高裁長官の地位にある裁判官が支給される推定年収,約3,100万円のそれよりも,高い金額であったことになる。

「満洲帝国」時代における武藤富男の年俸

 満洲国とのかかわりでは,そのような体験を実際に経てきた武藤富男が,「昭和12〔1937〕年7月7日に起きた支那事変〔日中戦争〕」は,満洲国に賭けていたらしい大きな期待,すなわち「王道楽土の夢を実現しうる可能性」,「この夢を打ち砕いてしまった」と感想を披瀝していた。

 そうした事実は,確かに武藤自身のなかに終生もちつづけていた「キリスト教徒なりの帝国主義者的な観念」を,みずから明解に告白していた事実を指示する。そもそも「戦争と満洲・満洲国」との内的に関連した歴史の模様が,完全に度外視されたがごとき「武藤の戦前:東アジア史観」には,非常にあやうい「歴史認識の甘さ」が潜在していた。

 注記)武藤富男『人間性修復』時事新書,昭和45〔1960〕年,133頁。この本のなかにも,年俸6500円の話題が記述されていた。「当時満洲国官吏としての私の年俸は六千五百円で,日本の大審院長と同額だとひそかに得意になっていた……」(140頁)。

 このあたりの武藤富男の発言にも,「満洲国はよかった」という正直な気持ちは,よく表出されていた。 武藤富男は敗戦前であったが,別著『満洲讃歌』(旧満洲国・奉天,吐風書房, 康徳8〔1941〕年6月)という本を公刊していた。この満洲(国)を称賛した本は,つぎのように断言(宣言!)していた。

 これからは未来永劫建国後の歴史一つで進んでゆかねばならぬ。では我が満洲国と云ふものは,満洲の古い歴史に関係が深いか,或は日本の二千六百年の歴史に関係が深いか,とう云ふと日本の歴史との関係の方が深い。

 満洲建国八年の歴史は二千六百年の歴史につながってゐる。しかし満洲建国前の古い歴史にも縁がある。どちらによけいくっついてゐるかと云ふと,日本の歴史の方に強くくっつてゐる。つまり糊が厚いわけである。

 そして今度は日本の方へぴったりくっつくことになった。之は今度の建国神廟の御創見によって成る程とはっきり判って来た。今に尚だんだんと判って来る。

 満洲建国八年の歴史はいよいよ日本の紀元二千六百年に連なるのである。之を宗教では生れ変るといふ。今まで酒を飲んで賭博を打って堕落して道を失って居たものが宗教に救はれたのに似てゐる。

 今まで悪人であったものが救はれ生れ変る事になったのだ。満洲は生れ変ったのである。今まで碌でもない男だったが生れ変って立派な人物になる。満洲建国はこれと同じであります。

 古い満洲には三千年の歴史があるがその儘ではいけなかった。どうしても生れ変って来なくちゃならぬ様に出来て居た。これは宿命であります。

武藤富男『満洲讃歌』145-146頁

 武藤富男の同書における発言はもっとつづく。以下にその頁も引用してみたい。「王道楽土」をめざし,「五族協和」の理念をかかげた満洲国の国家体制に関してとなると,武藤はこうまで主張していた。引用する文言は,その「五族(の協和)」論が「古代史的(?!)ヤマト民族化」を謳いあげていた事実を,真正直に自白するものであった。

 しかも日本人たることに就て固い深淵をもち,戦争に行けば,天皇陛下万歳を叫んで死ぬことが出来るのである。斯く考へる時民族協和が完成して一つの民族を創り上げた国と云へませう。二千六百年の歴史は諸民族協和,一民族創造の歴史である。

 満洲建国はこの輝かしい歴史を大陸の一角に於て大いなるスケールを以て展開したものであります。第二の天孫降臨,神武御東征である。吾々日本人はそのお供をして大陸に渡ったのである。

 吾々の高天原は日本である。吾々が遣はされた地は満洲である。さうして見ると満洲建国は神業である。満洲に新しき国をお建てになりこれを育て給ふは天照大神であらせられる。満洲建国の天神は天照大神であらせらるる.建国の為めに殉じた英霊は国神である。

武藤富男『満洲讃歌』165-166頁

 まあともかく,ふつうにキリスト者として信仰を守る人たちであっても,1945年8月以前だとこのように,天皇中心主義になる「日本神州論」の感性が,100 %以上に,それも八紘一宇・一視同仁などの観念そのものの発揚として主張されていた。しかも,まるで神がかった “宣” のように,前段に引用した文言は紡がれていた。

 もっとも,敗戦後になってからの武藤富男はとくに『再軍備を憤る-追放者の告白-』文林堂,昭和26〔1951〕年10月という本も公刊していたが,こちらの本のなかでもなお,1945年8月までの自分の立場を,それもキリスト教徒の信仰的な立場からする反省も省察を,まっとうには実践しえていなかった。

 

 2 武藤富男の「国家と倫理」観-その総括的批判論-

 
 以下にさらにつづけて論じる本稿は,旧「満州(帝)国」で国務院総務庁弘報処長などを勤めた,武藤富男のキリスト教精神問題を批判的に究明する。関連する問題の所在および構成は,つぎのように措定しておく。

 a) 日本帝国から満州国に派遣された高級官僚武藤富男は,クリスチャンであった。植民地満州国経営の最高責任者の1人となったこの武藤が残した行跡は,はたして,キリスト教を信仰していた人間にふさわしいものであったか。国家の政治と宗教の精神とのはざまに生じたせめぎ合いのなかで,武藤富男という日本人キリスト者は,いかに存在してきたか。

 ともかく,武藤富男は日本政府の要請で昭和18年5月に帰国し,敗戦直後,ソ連・中国での抑留を体験しないで済むという〈幸運〉な道を歩んだ。武藤は,東京裁判にかかわっては「溥儀氏の証言破砕のため」,証人として召喚されるだけで済んだ人物である 注記 1)。そのせいか武藤は,自分にも重くかかわっていた戦争責任の問題を,そうとう鈍い感性で回顧するに留まっていた。

 注記1)満州国史編簒刊行会編『満州国史 総論』第一法規出版,昭和45年,847-848頁参照。

 敗戦となってみれば,大東亜戦争は失敗であり,誤りであったがゆえに,武藤が企て実践したことはことごとく失敗であり,誤りであった。否,もっと深くいえば,日本国民にとっての罪悪であったといえよう。

 戦争は,人類最大の悪であることは否定しえないが,この悪なる戦争という枠内には,それでも倫理がある。それは戦時国際公法を唱えたフゴー・グロチウスが私たちに教えるところである。

 それはまた国民の国家への忠誠という徳をも含む。少なくとも,国家に対する忠誠の念においては,満州国官吏として他の方々に変らずに,忠誠を励んだという信念を今なお私はもっている。

 では,弘報処長として満州国に忠誠を尽くすため,なさねばならぬ第1のことは何か…… 注記 2)

 注記2)武藤富男『私と満州国』文藝春秋,1988年,327頁。

満洲国に忠誠を尽くしたという武藤富男の歴史認識

 武藤富男の回顧録である『私と満州国』は,「自分がクリスチャンであること」にたびたび触れ,この宗教的な背景が「自己の行動に一定の影響を与えた」と述べていた。

 だがこの人にして,旧満州国にかかわってきた公的な自分の〔国務院司法部刑事科長,同総務庁法制処参事官・弘報処長などを歴任した〕生きざまを,「〈満州国⇔日本〉対〈在満日本人⇔在日日本人〉」というせまい脈絡・構図のなかでしか捕捉できておらず,その限定された視座でしか「当時における自分の履歴:生き様」を回想しない。

 満州国は,中国の大衆・人民からみて,日本帝国のつくった〈罪悪業の地〉であった〔⇒そこは広い意味において中国の土地であり,多くの中国諸民族がいた〕。

 さらに満州国は歴史的にみて,日本(人)の失敗・誤りを象徴する〈偽国そのもの〉であった〔⇒日本の帝国主義的野望は完全に破綻した〕。日本帝国は,中国に対して,戦争という人類最大の災厄をしかけたのである。

 満州国は日本帝国主義:軍部という悪役が黒幕として狂気乱舞し,満州国政府という名ではあっても,日本人次官たちばかりが存分に活躍する舞台であった。

 だが,当時の関係者にいわしめると,如上の出来事はたとえばつぎのように麗しく形容され,称揚されることとなる。

 〈当時の発言〉 この時局情勢にも拘らず,満州が微動だもしないのは,一は偉大な皇軍の威力と,一つはこの日系官吏の純真な熱血溢れる真剣な力が集まって,満州国の基礎が出来てゐるからである 注記 3)

 注記3)宮内 勇編『満州建国側面史』新経済社,昭和17年,〔駒井徳三「独立前史と建国創成期の思ひ出」〕28-29頁。

 〈戦後の発言〉 満州建国を日本の大陸侵略の手段だという批判はわれわれの心情からは肯定できない。われわれが参加していた当時の心境には毛頭それはなかった。

 われわれの理想は,まず西欧式の考え方を改め,物資本位の機械文明や資本主義の行き過ぎを修正して受け入れることにし,階級闘争的な共産主義の破壊思想を排し東洋の精神文化を基調にして物心両全の新文化建設を国造りの基本理念にし,独裁的覇道を排し民本的王道が標榜され,そこでは居住民族同士が抗争対立のない協和共存を求めたものである。

 もし,この基本にそれたやり方や理想を無視した場合には,われわれは関東軍にも中央の指導者にも是正を求めた。単なる軍の手先であったという批評は当らない 注記 4)

 注記4)社団法人国際善隣協会編『満州建国の夢と現実』同会,昭和50年,〔橋本一天〕262頁。

戦前徒戦後の発言比較

 武藤富男は主観的な次元では,自国=国家に対する自身の忠誠心〔これは倫理:徳だというもの〕の発揚を,信念をこめて,貴重な想い出であったと回想している。しかしながら,武藤も客観的な次元では,宣教という宗教的使命のもと,欧米キリスト教が帝国主義的侵略行動に対する「水先案内人」の役割をはたしてきた立場に酷似した発想を,堅く抱いていた。

 明治以来,日本キリスト者は日本帝国の軍事的侵略にどのように対面してきたか。その限界をしる者にとって,敗戦後における武藤の言説はそれほど驚くものではない。それにしても,彼の言説からは「在満中国諸民族」という存在が,もののみごとに抜けおちていた。

 キリスト教倫理精神もこの態度ならば,すなわち異国の地に居住していながら,ともにその地に暮らしている諸異民族の存在・生活全般を,実質,視野のそとにおき平然としてられるならば,その人の抱いていた宗教の基本的精神は,もとからだいぶあやしいものであったと判断されてよい。

 戦時中,武藤富男のようにキリスト者として日本帝国の世の中を生きてきた人士は,経営学者にもいる。たとえば,古川栄一がそうである。また,昭和17年3月に設立された,日本能率協会の初代理事長森川覚三もクリスチャンだったという 注記 5)

 注記5) 日本能率協会編『森川覚三の世界-経営能率に賭けた その生涯-』日本能率協会,昭和61年,245頁。

 森川覚三という人物は,「合理化・能率化こそ企業活性化の根源であり,すなわち国民経済発展の正道であるとの初心は固く,益々情熱を燃やされて,常に国家的見地からわれわれを激励,教導された」人物だと評定されている 注記 6)

 注記6)同書,198頁。

 しかしこの場合でも,その「国家的見地」というものをさらに価値づけ方向づけていた,時代精神・制度的信条の特性の相違〔簡単にいえば全体主義か民主主義かなど〕を無視することはできなかった。

 森川は,そのふたつの主義の時代を生ききぬいてきた。彼がクリスチャンだというならば,異質のその時代ごとに,いかなる精神的姿勢をもって直面しつつ生きてきたか,問題となる。

 この論点は,宗教心が単に気分的な飾りもの (ファッション) でないかぎり,当然,日常的な生活信条の問題として議論されてよいものである。

 財団法人日本能率協会創立30周年宣言は,こういっていた。

 日本能率協会は昭和17年,日本産業界の要請にもとづき,

   日本的性格の能率運動
   理論より実行
   重点主義

の3項目を綱領とし,産業能率の増進を目的として設立され,全会員の指導のもとに産業の近代化につくしてまいりました。注記 7)

 注記7)同書,189頁参照。

日本能率協会創立30周年宣言

 そうであったとしたら,あの戦争の時期においても,日本能率協会は「産業の近代化につくしてきた」ことになる。だが,これは「無理のこじつけ」である。戦争においては,敵方も味方もたがいに産業や生活を破壊しあっていた。

 能率の発揮といっても,戦争中はこの作戦上の効率〔=破壊能率!〕のためのものになっていた。クリスチャン森川覚三が,このような〈能率思想〉的課題に関して,キリスト教的精神を背景にしながらなにか発言をした,という確証はない。

 宗教上,人間の精神的なありかたの問題は,人間の胸中における内面的な問題ではあるけれども,その人間の日常行動に強く反映され,絶えず顕現しているはずのものである。

 とくに,戦争というような深刻な事態に時代がおかれていたとき,その宗教人のしめす反応・行為は,ときにその抱く信心の真価を問い,核心に迫るものとなるはずである。

 たとえば,古海忠之〔旧満州国高官で敗戦後はソ連と中国に長期間抑留された人物〕と武藤富男とでは,自身の体験に関する認識に関して,大きな差異があった。

 武藤は幸運にも流刑の身にならなかったから,古海の告白にあったような感性にまで到達できないのだとしたら,これは精神一般的かつ宗教倫理的に,たいへん貧しく悲しいことである。

 武藤も古海も東京帝大出の秀才であり,日本最高水準の選良であった。このことはいったいなにを意味していたかについては,格別によくよく再考しておくべき価値があったのではないか?

 もっとも武藤は,「個人としていかに平和を愛するとも,国家の一員としては国家的利益が優先するという背理に陥らざるを得ない。この矛盾を解き明かし,人類の進むべき道の確固たる拠り所を探究しなければならぬ,という思い」注記 8)に触れ,こういっていた。

 注記8)武藤『私と満州国』467-468頁。

 「この国の建設にたずさわった私には,幾多の奢りがあった。それは神の前に罪として告白せねばならぬところである」,と。このように正直に回想する彼だが,同時にこういっていた。「満州国の歴史的意義について,これを論ずべき資格は私にはない」と 注記 9)

 注記9)同書,469頁。

 武藤によるこの述懐は,満州国の国務院司法部刑事科長や総務庁弘報処長を歴任した人間の発言としてみるとき,まちがいなく責任回避の重大な発言ある。

 個人=クリスチャンで〈あること〉,そして満州国というカイライ国家の高級官僚で〈あったこと〉,この2つの〈あること:現在形〉と〈あったこと:過去の出来事〉が自身の内部に同居していたと,みずから認めることから生じる「背理」や「矛盾」,

 さらには,国家〔「満州国」〕を行動上優先せざるをえなかった公人として,自分が抱くようになったとする人間的な「個人としての奢り」などは,敗戦後,いったいどのように吟味し,反省されたのか。

 こうした肝心な問題は,告白の対象外である。要するに彼は,都合の悪い問題〈自身のうしろめたさ〉には,つまるところ,なるべく触れずじまいなのであった。

 武藤は,満州国の歴史的意義を論じる資格が自分にはないというが,これは真意をはかりかねる。問題からの逃避である。彼ほど高官の職位にあった人物のその口から,あの国家の歴史的意義を自分は論じられないのですといわれて,「ハイそうですか」と二つ返事で納得できる人が,いったいどこにいるであろうか。

 実際のところでは,武藤はけっこう饒舌にあれこれを語っていながら,そのように謙遜以前に,自分がたどってきた人生行路に関しては,故意に韜晦したがる口吻も披露したことになる。

 結局,〈クリスチャンである人間〉と〈満州国高官であった人間〉が同一であったかぎり,そのような疑念は,問われるべき問題としてなおさら強まるほかなかった。

 「満州国」という国家中枢の地位を占めていた人間「武藤富男」は,そこに顕在あるいは伏在していた背理や矛盾を,確実に感じとることができていたはずである。

 そして武藤は,満州国の高官であった自分が奢りの感情を浸っていた事実をよく認識していながら,その後においては,それを「神の前に罪として告白せねばならぬ」といいながら,その罪とはなんであったか,少しもその神に向かい告白していない。

 とりわけ,われわれに対する態度となれば,その無告白性はより鮮明であった。これでは明らかに,宗教的:キリスト教的な意味での献身的な告白(ざんげ)たりえなかった。

 武藤富男の回想録には,明白にみてとれることがらがあった。それは,若干の韜晦をともなった謙虚さのなかにひそむ〈自己隠蔽〉へ逃避する姿勢であった。

 一見したところそれは,たしかに誠実さや正直さの表白であるかのように映るかもしれなかったが,反面で,問題の核心にはけっして触れようとはしない,つまり,徹底した逃げの姿勢がみえかくれしていたのである。

 その逃げの姿勢は時空を超えて,つまり,ふたつの側面から指摘できる。そのひとつは,時間面でかいまみせていたもので,前後矛盾する発言が「その矛盾などないかように語られる話法であり,そのふたつは,空間面で露呈させていた「我と他者との不自然な乖離ぶり」であった。

 武藤富男は八紘一宇や一視同仁の帝国日本的な世界観や国家観を,なんら疑問を添えることなく,戦時期にはそれもとうとうと語っていた。だが,敗戦を挟んでからの当該発言は,キリスト教徒としての戦時的な回顧とかつ戦後的な内省とのその両方を,不徹底に寸止め状態にしておくだけに終わっていた。

 キリスト教の倫理精神は,国民国家の枠をこえ,多種多様な民族のちがいをも包容し,神の国の実現を図るべく努力するよう説いているはずである。武藤の場合,国家の理念のまえにあっては,宗教の精神的な倫理はさほどの効用を有しておらず,換言すれば,基本ではおぼつかなかった事実が記録されていた。

 岡部牧夫『満州国』は,こういっていた。

 満州国の支配という全体状況〔植民地「国家の理念」〕の本質からいって,良心的な個人〔武藤富男の信心する「宗教の倫理」〕が存在することの意義にはおおきな限界があった。

 彼らが軍や政府と対立しても,それはあくまで植民地支配の方針上の差にすぎなかった。帝国主義の植民地支配の機構のなかでは,どんなに善意の個人も,客観的にみれば他民族への侵略や抑圧の歴史的責任を,いやおうなく分担しなければならない 注記 10)

 注記10)岡部牧夫『満州国』三省堂,1978年,200頁。〔 〕内補足は筆者。

岡部牧夫『満州国』の指摘・批判

 

 3 国家と宗教-信仰の告白-

 
 敗戦後,武藤はキリスト新聞を創刊し,ミッション系大学の学院長〔明治学院大学〕や理事長〔恵泉女学院・東京神学大学〕を務めている。そこで,日本キリスト教会史の戦争責任を論じた著作などに,しばらく聞いてみたい。

 以下に紹介する日本基督教会史批判は,武藤の信じていたキリスト教《精神》に対する峻厳な栽断となる。金田隆一『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争のもとで-』(新教出版社,1996年)に尋ねることにするが,本書は,まずこういっていた。

 戦争中形骸化した教会を擁護することを第1義とし,教会の首でいますイエス・キリストに対する告白的信従,すなわち,福音の真理への絶対的服従を詭弁をもって否定するとき,それはまさに神に対する叛逆ともいえよう。

 戦後,日本の教会は,ドイツの教会闘争をただ観念的に紹介するのみで,みずからの教会の主体性を賭けた生きた告白的闘いはなしえず,戦後,朝鮮キリスト教会からの触発ときびしい批判なくして,われわれが犯した神と隣人に対する過ちに,みずから気づくことはなかったのである。

 信仰を侵略戦争遂行に従属させ,その戦争責任をキリスト者として主体的,告白的にになうことはせず,その責任をみごとに回避したのである。韓国をはじめとするアジア諸国に対する加害者意識をもちえなかった点において,最大の罪と過ちを犯したのである。

 それは第1に,神の絶対的主権とその支配を告白するキリスト者として,偶像である天皇に礼拝することを強制させられたことに対峙する信仰告白としての闘いをなしえず,ゆえにその第2の命題たるその天皇の命令する侵略戦争に対しても,結果的には積極的に支持協力したのである 注記 1)

 注記1)金田隆一『昭和日本基督教会史-天皇制と十五年戦争のもとで-』新教出版社,1996年,465頁,462頁。

 武藤は,平和を愛する個人であっても,国家の一員としては,国家的利益を優先せざるをえなかった〈自分自身の背理や矛盾〉も触れ,これを〈神の前に罪として告白せねばならぬ〉と述べていた。

 だがこの発言は,「天皇制に屈服し,侵略戦争を支持協力した事実に対する反省と懺悔」を,実は凍結してのものであった。だから,武藤自身における核心の「問題は信仰告白の内実にあ」り,「その福音の本質的真理の貫徹への意志を欠いた〈教会擁護〉を名目とする」点にあった 注記 2)

 注記2)金田,前掲書,437頁,428頁。

 武藤は,「満州国の歴史的意義について,これを論ずべき資格は私にはない」とまでも,謙遜していた。だがこの発言は,精神的内奥に属する信仰問題を歴史的政治問題にすりかえていた。また,旧治安維持法の本質が,宗教的教義の内容にまで介入する希代の悪法であった事実に目をふさいでいたものでもあった 注記 3)

 注記3)同書,422頁。

 彼は自身の抱いていた,いわば,かつての自分の負い目である〈歴史的な感情のひだ〉を,本当は,他者にみせたくなかったのである。

 金田隆一『昭和日本基督教会史』は,日本キリスト者のこうした自己欺瞞的な姿勢に対して,きわめてきびしい論断をくわえる。

 キリスト者は,国家権力との最終的対決において,その信仰の自由を守るためには殉教しかない。だから問題は,国家権力による巧妙な手段により信仰の自由が侵されていることに気のつかないキリスト者,そしてその基盤である教会じたいにあった。

 「絶対的神」の主権に服従すべき「相対的国家」に対しての信仰的理念はみられなかった。逆に,全体的・絶対的国家に従属したキリスト教が,いかにしてその存続を許されるのかという,教会固有の使命と申すべき福音的真理に対する,本質的パラドックスが生じていた 注記 4)

 注記4)同書,382頁,351頁。

 武藤は,満州「国の建設にたずさわった私には,幾多の奢りがあった。「それは神の前に罪として告白せねばならぬところである」と述べながらも,実際は「神人の不可逆的関係をイエス・キリストにおいて明白に告白する信仰ではなかった(鈴木正三)」。

 それは,宗教信条を教会礼拝のみの告白とし,現実の社会や生活のなかにダイナミックに告白して生きるものではなかった。それはまた,「日本民族としての固有の精神構造が社会構造の基底的思想として存在しており,現に戦争責任・戦後責任を被害者意識により曖昧に糊塗してきた私たちキリスト者の信仰とその精神的内実」であった 注記 5)

 注記5)同書,184頁,185頁,176頁。

 そもそも戦前〔戦時〕期において,日本キリスト教信者の享受できていた思想・信仰の自由とは,「天皇制を頂点とした国家神道の枠内においてのみ許容された制約下における」それであった。

 武藤が「神の前に罪として告白せねばならぬ」としたものは,「天皇の命ずる侵略戦争への支持,協力遂行へと,神と隣人に対する取り返しのつかぬ罪責の道を歩むという過ちを犯す要因となった」注記 6)ものであり,当人も深くかかわってきた〈歴史的事実〉であったはずである。

 注記6)同書,85頁,82頁。

 ところが武藤は,その肝心な核点をぼかすような〈もののいいかた〉しかしていない。それは「神の主権とその支配に基づく信仰告白を放棄し,内なる信仰と世俗的,政治的行為を見事に二分化した二元論的信仰であり,……明確に信仰の本質を喪失した日本的キリスト教」者の典型であった。せめてもの救いは,「神と隣人に対する戦争責任は最も大なるものがある」ことに注記 7),おそらく彼は気づいてはいたと,推測されることである。

 注記7)同書,19頁,はじめに iv頁。

 それでも彼は,この点に関する信仰告白をしない。したがって,キリスト者としての武藤は,根源的なる疑問を依然かかえたまま,この地上の世からはひとまず,去っていった。

 個人の罪の追及意識はユダヤ教的・キリスト教的バイアスであるという見解が,日本のインテリの間では人気がある。責任を曖昧にするところが長所だといわんばかりである。

 これがまた日本を孤立させる要因になっている。罪と人格を結びつけない。だから罪を告白することもしない。告白することが恐ろしいのだ。それは責任者自身の回復をもさせなくする 注記 8)

 注記8)アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編著『戦争責任-過去から未来へ-』緑風出版,1988年,138頁。

 武藤富男は,星野直樹〔旧「満洲国」国務院財政部総務司長・財政部次長・国務院総務長官を歴任〕とともに,宗教的には敬虔なクリスチャンであった。けれどもまた,もちろん,表面ではそれを隠していたも同然であって,満州国の行政の場面で,そのことの影響のみえる施策があったとは,いえない。

 武藤にしても,本人が書いていることではただ一件,建国神廟に天照大神を祭祀するときめたときに,満人の側のために孔子も祭廟をつくって祭祀すべきだという意見が出たのに対して,「キリスト教唯一神観」の影響を受けていたので,それに反対したということが回想されているだけである。

 神の前ではみな平等であり,唯一の神を信じ,崇め奉れというキリスト教の精神と,皇帝陛下を戴いた満州傀儡国家の建国とその維持ということは矛盾するが,彼ら,満州国の高級官僚のキリスト者たちは,信仰は信仰,役職は役職と簡単に切りはなして行動していた 注記 9)

 注記9)川村 湊『満州崩壊』文藝春愁,1997年,87-88頁。

 補記)この川村が指摘した「『キリスト教唯一神観』の影響を受けていたので,それに反対した」という武藤側のいいぶんは,キリスト教思想の腸捻転的な悪・転用に相当する。当時においてすでに,イエス・キリストの姿は武藤富男の視界から完全に消えていた。

〔記事・本文に戻る→〕 要するに,信仰が社会的現実と妥協したところでは,信仰のゆえにかえって社会的現実の矛盾がみのがされ,福音と罪の現実との衝突が回避され,信仰のゆえに戦うべきときに,信仰のゆえをもって現実に降伏しているのである。

 現実と妥協し,現実に降伏したところには戦いはなく,「平穏無事」が支配する。そしてこの「平穏無事」をキリスト者はしばしば信仰にある平和ととりちがえているのである 注記 10)

 注記10)隅谷三喜男『日本社会とキリスト教』東京大学出版会,1954年,150頁。

 武藤富男は自著の1書に『満洲国の断面』(近代社,昭和31〔1956〕年)をもっていたが,まさしく主観的には,そのカイライ国家の一側面しかみなことにしていたし,また別に客観的には,その断面しかみていなかったという断定もなしうるのであった。

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 【付記】「本稿(その3)」の続き(その4)は以下である。

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【参考文献】

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