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武藤富男という旧大日本帝国時代の法務官僚・満洲国高官を経て,敗戦後はキリスト教徒として大きく転回していき,それなりに大物になった人物の「旧満洲国時代における翼賛ぶり」をしりたくも想い出したくもなかったウィキペディア「武藤富男」の紙面(その4)

【冒頭断わり】 「本稿(その4)」は前編(その3)を受けている。


 1 ミッション系(キリスト教系)大学における未完の戦時問題

 
 さて,ミッション系に分類される日本の大学が,戦時体制期においてどのような宗教的側面から抑圧を受けていたかについては,以下に言及するごとき歴史の事実を念頭に置いてから議論をするのが,論理的にもしごく自然な問題提起となる。

 どういうことか? 1975年9月から10月にかけて訪米した昭和天皇夫婦は,事後もたれた記者会見の場でこう応えた。ちょうど敗戦から30年の時間が過ぎたころであった。

 裕仁は「戦争責任というような言葉のアヤについては,私は文学方面についてはきちんと研究していないので,答えかねます」と述べた。

 だが,それでいて戦争の時代は,旧大日本帝国を統べる大元帥(帝国陸海軍の)昭和天皇が,まるで神格化された人物となって,当時の大東亜戦争に対する指揮を振るっていた。この事実は,消したくとも絶対に消しようがない歴史の事実であった。

 本稿「全体・記述」の関連でいえば,この人のせいで戦争中の大日本帝国は,あれこれをファシズム(国家全体主義体制:大政翼賛会体制)を,より徹底していくほかない戦時体制を突きすすんでいた。そのなかで,国家神道としての皇室神道が一国全体を覆いつくす兵営体制が,当然のように徹底化されざるをえない「戦争国家」になっていた。

 天皇が最高神に実質位置づけられるほかなくなったこの国では,「キリストと裕仁とはどちらがエライのか?」といった疑問以前の,倒錯・錯乱そのものであった踏絵が,日本のキリスト教徒たちに迫られていた。

 キリスト教だけではなかったが,この記述が問題に取りあげ議論する,キリスト教の宗教教義・理念のもとに設立され運営されてきたミッション系の教育機関(とくに高等教育機関)は,とりわけ,「皇室神道の天皇(天照大神)」と「イエス・キリスト」とは,どちらがエライか答えろと脅迫的に,その返答を強いられていた。

 だが要は,おしなべてそれら教育機関は屈服した。キリストを裕仁と同じ次元・地平に並べてだが,その優劣を付ける立場を表明したのである。この点は,モーゼ「十戒の内容」の冒頭にかかげられているはずの,「唯一の神を信じ,ほかの神を崇拝してはならない」に,完全に反していた事実は,敗戦後になってから四の五のいいわけしようとしたところで,なんの弁解にもなりえなかった。

 しかも,その十戒はその2番目に「神の名をみだりに唱えてはならない」とも命じていたからには,あの敗戦までの帝国日本において,キリスト教の基本精神にもとづき創設され運営されていた大学(など)が,いってみれば絶対的に矛盾する「信仰上の立場」に追いこまれていたことになる。

 しかし,その窮地からの脱出は「キリスト教精神からの逸脱」をもって成就されたからには,当然,キリスト教の基本的な信仰の立場は明確に崩壊していた。この事実はたとえば,2025年度における明治学院大学の「某講義のシラバス(講義案内)」を読み,これに比較しても容易に理解できる。

 そのシラバスはこういう案内を書いていた。

     2025年度 講義(対面授業)「キリスト教の基礎B」

 授業概要 Course Description

 キリスト教は,社会を形成し変革していく社会的,実践的エートスを強くもった宗教だといれます。

 それは,キリスト教信仰の中核に主体的で良心的な「人格」を創り出そうとする姿勢と,この世に公正で水平的な「社会」を造りだしていこうとする姿勢の二つの要素が強く内在しているからです。この特色は,日本の宗教文化とどのようにクロスしているのか。していないのか。

 秋学期はこの問いを念頭におきつつ,信仰のあり方,世界を批判的にみる知のあり方をキリスト教の歴史の中に学んでいきます。

 キリスト教の過去の経験から,自分がこれから世界,他者,未来に向きあうさいに必要となる基本的な事柄について,ヒントをえることができれば,このクラスの当面の目的は達成されたということができます。

 秋学期も,外からはみえない人間の内面的,主観的な事柄にまで迫っていくアプローチを大事にしたいと考えています。

キリスト教の基礎B:授業概要


  ◆ 明治学院の戦争の時代と昭和天皇死去の問題 ◆

 まず,岩波書店編集部・編集『ドキュメント明治学院大学 1989-学問の自由と天皇制-』岩波書店,1989年4月。この本は,発行元の岩波書店がこう宣伝していた。

 a)「出版社内容情報」 昭和天皇の容態急変以後,日本を包んだ異様な雰囲気の中,明治学院大学での動きは異例なものだった。天皇絶対化に反対する学長声明,天皇問題を考える60余の特別講義など,学問の自由を考えるための貴重な事例報告。

 b)「内容説明」 自粛ムードに弔意の強制。1988年秋の天皇の容体急変以降,……,明治学院大学での動きは……,天皇絶対化に反対する学長声明。天皇問題を考える特別講義群。そして人々からの激励,正体不明の脅迫。ルポ・対談・座談会を加え,学問の自由をめぐる貴重な事実を再現する。

 c)「目 次」

  1 1988年秋から89年へ-明治学院大学の内と外で

  2 精神の自由を守るために-学長声明の思いと意味
    (〈対談〉森井真・隅谷三喜男)

  3 「天皇問題を考える1週間」
   (「天皇問題を考える会」教員有志座談会=「1週間」の経験;再録・特別講義;「くろすとーくMEIGAKU」―白金キャンパス / 横浜キャンパス;学生たちはどうみたか;宗教部のとりくみ)

  4 報道と反響(明治学院大学を取材して;脅迫と激励と)

目 次

 つぎに,明治学院敗戦五十周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく 敗戦五十年・明治学院の自己検証-』ヨルダン社,1995年を挙げる。この本の内容(目次)を紹介する。

 1 「告白」をめぐって 明治学院の戦争責任・戦後責任の告白 / 説教・「細い道」を / 「告白」を聞いた・森井 眞ほか / 対談・歴史認識と日本社会の問題点・弓削 達・中山正弘

 2 共に生きる世界をめざして 講演・李仁夏 / 蔡玉柱 / 李順然
 
 3 座談・「敗戦50年を考える1週間」に取り組んで
 
 4 アンケートから
 5 資 料
 
 注記)https://askyomu.meijigakuin.ac.jp/unias/UnSSOLoginControlFree?REQ_ACTION_DO=/AGA030PVI01Action.do?LSN_CD=2110034102&LSN_OPC_FCY=2025&TCH_NO=ZZ1074AC

目次


 2 青山学院と戦争の時代と昭和天皇死去の問題

 
 青山学院大学図書館で,つぎの書物の書名,作者の氏名などで検索してみたが,なにも出てこなかった。もっとも,この7冊は私家版としての公表であり,編者の雨宮 剛自身が制作・販売していた事情があるゆえ,そうした結果になっていたのかもしれない。

第7巻の表紙絵柄:下の全7集のしんがりの巻
 
全7巻・案内

 雨宮 剛編著『青山学院大学プロジェクト95編「青山学院大学史」シリーズ(全7冊)』1995・1998・2000・2001・2003・2004・2005年という,このシリーズは,上に紹介した画像資料2点で示されているとおり,

 このうちの,青山学院大学プロジェクト95 顧問 雨宮 剛編著の,第7集『敗戦60年 戦争はまだ終わっていない-謝罪と赦しと和解と-』(発行者雨宮 剛,2005年8月15日)の後部見返しには,その全冊の案内がかかげられている。

 したがって,雨宮が所属していた大学図書館に納本されていないという事情は,前段に触れたごとき私家版の出版ゆえに,市販されていなかった書物ゆえ,そうなっていたのではないかと推測しておく。

 しかし,雨宮 剛がもしかすると,自分の職場・大学の図書館に納本(寄贈)していなかったから,以上に触れたような状態になっているのだすれば,また別の一定の疑念が残るともいえそうである。

 青山学院大学は,1989年に昭和天皇死去の問題が生じたさい,大学じたいとしては明治学院大学に行動に匹敵する内実があった,と評価しうるようには「ことを起こさなかった」。

 そこで,雨宮 剛が個人で,全7冊にもなる,それも相当の叙述量の「戦争はまだ終わってない」,したがって自学には「謝罪と赦しと和解」が,あらためて必要だという歴史的な観点を表現していた。

 明治学院大学の戦責問題に対する基本的な態度,それも全学態勢をもってした取りくみに比較して,青山学院大学の基本的な態度は,規模というか次元を異にしており,つまり雨宮 剛という個人次元における努力がめだっていた。

 雨宮 剛については訃報がネット上に出ていた。以下に紹介する文章のなかには,雨宮がなぜ,前段にまで触れたごとき,「青山学院大学プロジェクト95」を,第7集の『敗戦60年 戦争はまだ終わっていない-謝罪と赦しと和解と-』までを制作してきたか,その理由が理解できる。

 雨宮 剛は2023年8月1月に死去していた。つぎに「追悼・雨宮剛教授」『Kuniomi Asai Official Website』2023年7月9日,https://asaikuniomi.com/info/5242328 の全文を引用しておく。

 先の大戦で日本は一気に米軍のいるフィリピンを占領したものの,その後態勢を立てなおして攻勢に転じた米軍の前に惨敗。日に日に支配地域を失っていきました。

 米軍との間で激戦を繰り返すうちに,日本は補給路を絶たれ,窮地に陥った日本兵はありとあらゆる残虐行為をおこないました。そして,各地に地獄絵をもたらしたのです。

 当然のことながら,戦後のフィリピンの人たちの反日感情は凄まじいものでした。

 しかしながら,日本が戦後の奇跡の回復を遂げて経済大国の道を歩むようになると,両国関係に大きな変化が生じます。当時の独裁政権が「反日」から「親日」に舵を切ったのです。つまり,進出してくる日本企業や大金をもちこんでくる日本人観光客に両手を広げて歓迎するよう国民に命じました。

 人々は「生きるため」に複雑な感情を抑えて “ジャパンマネー” に群がるようになり,

 調子に乗った日本のバカな男たちは大挙して札束を腹巻きに入れて, “カネはあんぞ買春ツアー” に出かけていたものです。これはけっして大袈裟ではなく,当時の新聞を見ていただければ分かりますが,社会現象にまでなりました。

 当然のことながら,それを良しとしない人たちもたくさんいて,中には日本人観光客や進出企業をターゲットに実力行動に出るグループも出てきました。

 半世紀も前の話ですが,ミンダナオ島のサンボアンガでモロ民族解放戦線によって日本人の新婚旅行中の夫婦が拉致されました(当時AP通信記者だった僕は現地取材しています)。約10年後の1986年には三井物産の社員が誘拐されています。

 補記)上の記述内容は,1986年11月,フィリピンにおいて三井物産マニラ支店長の若王子信行が武装グループに誘拐された事件(三井物産マニラ支店長誘拐事件)を指す。

〔記事に戻る→〕 一方で,そのような歪んだ両国関係を是正しようと動く人たちもいました。そのなかの1人が雨宮教授でした。

 学生たちを現地に送りこみ,地元民との交流を図らせたのです。前述の三井物産社員の拉致事件の2年後にスタディツアーを始めたと聞き,雨宮教授に生前,

 「学生たちが反政府勢力に拉致される危険性は当然お考えになられましたよね? 対策はどんなことを講じられ,万が一のさいはどうされるおつもりだったのですか?」

 と尋ねたことがあります。

 雨宮さんは,「現地の教会関係などの有力者を通していろいろな手は打っていましたよ。でも,なにが起きるか分かりません。ですから,学生たちが拉致されたら,彼らの身代わりになる用意をしていました。また,いつでも大学に出せるように辞表を持ち歩いていましたね」

 とお答えになられました。

 そんな覚悟があったからこそ学生たちに強い影響を与えることができたのだ,とその時僕は納得したことが,いまも思い起こされます。雨宮さんの蒔いた種は教え子たちによってさまざまな形で開花され,日比関係の懸け橋構築に寄与していることは間違いありません。

雨宮剛・引用

 青山学院大学が学校法人じたいとしてあの戦争の時代,皇国体制のもとに組み敷かれていた「日本キリスト教徒側の立場」に追いやられていた事実を,いったいどのように回顧・内省してきたのか,この大学の法人史をうかがうかぎり不知の領域が残されたままである。


 3 老川慶喜・前田一男編著『ミッション・スクールと戦争-立教学院のディレンマ-』東信堂,2008年

 
 本書は,ごく簡素に説明すると,「天皇制と建学理念の葛藤など,先鋭な問題を含んだ戦時下の立教学院の実相を,膨大な資料調査の下に検証・総括した」著作であった。編者の2名は発行当時,いずれも立教大学出身の経済学部教授であった。

 本書の内容構成は,こうなっている。

 序 章1 研究の課題と視覚(前田一男)
 序 章2 戦時下の高等教育政策(寺崎昌男)

 第1部 聖公会と立教学院首脳の動向
  第1章 戦時下外国ミッション教育の危機
       -立教首脳の動揺と米国聖公会の決断-
  第2章 日本聖公会の教会合同問題
       -合同派の聖公会離反と立教首脳-
  第3章 学院首脳陣と構成員のアジア·太平洋戦争に対する認識と対応
  補 論 元田作之進と天皇制国家

 第2部 戦時への対応と教学政策
  第4章 「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」へ
       -寄附行為にみる学院の目的の変更-
  第5章 医学部設置構想と挫折
  第6章 教育における戦時非常措置と立教学院
       -理科専門学校の設置と文学部閉鎖問題を中心に-
  第7章 アメリカ研究所と戦争-活動の軌跡と関係者たちの群像-

 第3部 戦時下の学園生活
  第8章 戦時動員体制と立教中学校
  第9章 戦時動員と立教大学における教育の変容
  第10章 戦時下の学生生活
  第11章 朝鮮人留学生たちの民族的苦悩と受難
  第12章 立教学院関係者の出征と戦没
       -戦時下の学内変動に関する一考察-

 終 章 戦時下の立教学院
 あとがき

目 次

 本書については,宣伝用に一部公開されている諸頁もあるので,興味ある人は以下のリンク先住所からのぞいてみてほしい。

 ここではとりえず,本書の表紙カバーに記載されていた,宣伝用に謳われていた本書の「売り文句」を紹介しておく。

下部の文言がそれ

この絵図に記載されている下部の宣伝文句だけでは もちろん不十分なので
つぎに本文から1個所だけだが引用する

 1943年度から立教学院「寄附行為」が基本から変更されていた。どういうことかといえば,立教学院における「基督教主義ニヨル教育」が「皇国ノ道ニヨル教育」にあらためられたのである。

 いうまでもないが,この「皇国ノ道」は,立教学院のチャペル閉鎖の決定を強い,またキリスト教的な特徴をことごとく払拭させられるとともに,立教中学校と立教大学は「皇国ノ道ニヨル教育」をおこなう組織へ変質させられたのである。

 注記)老川慶喜・前田一男編著『ミッション・スクールと戦争-立教学院のディレンマ-』東信堂,2008年,168-169頁。

 戦時期における立教学院が「皇国である神国の最高責任者」から卸されてきた命令は,ところで敗戦を挟んでだが,つぎのような現象を,単なる反動とはいいきれないものとして,出来させていた。

この記事に関連する記述が 老川・前田編著『ミッション・スクールと戦争-立教学院のディレンマ-』 のなかにないわけではない

 本ブログ筆者の学生時代の話。当時通っていた大学に,立教大学から非常勤講師が出講してきて,ある科目を担当したその教員(前期と後期の半期ずつ担当した)2人は,両名ともにマルキストであった。

 ここで,本ブログ筆者に関連する話題に触れてみたい。

 それから,数十年あとになっての出来事となったが,この2人のうちの1人の教授「S・T」には,考える立場の違い(思想・主義・信条などの点)によって,尋常ならざる「イジメ(いまふうにいえばパワハラ)」に相当する行為を一方的に被り,ともて不愉快な目に遭わされた。しかも彼は,その場にいた “同士諸君の先頭に立ち,故意に煽る役目” まで,率先果たしていた。

 ところが,1989年から1991年に発生した社会主義国家体制が,とくにソ連邦や東欧諸国で破綻しはじめてからの,彼(だけでなくご同類の人びと)は,本ブログ筆者に対する態度を豹変させた。

 ゆえに,こちらの受けとめ方としては「2度びっくり(!させてもらい「楽しめた」?)」というか,人間っていうものは,その程度の理由・事情があれば,自身の豹変を容易になんどでも再現できるのか,という「他山の石」実例に接しえた気分になれた。


 4 キリスト教学校歴史研究会編著『主を畏れる-資料に見る戦時下の金城学院と基督教-』キリスト新聞社,2004年

 
 金城学院という学校法人は,大学に関した解説だと,つぎのように記述されている。

 学校法人金城学院・金城学院大学は,愛知県名古屋市守山区大森2丁目1723番地に本部を置く日本の私立女子大学。2014年5月1日での在籍者数は5426名である。その源流は名古屋にやって来たアメリカ人のキリスト教宣教師アニー・プリスキラ・エドガー・ランドルフが1889年に自宅で開いた私塾である。

 この金城学院がA5版で本文128頁の本,『主を畏れる-資料に見る戦時下の金城学院と基督教-』(キリスト新聞社,2004年)を公刊していた。本書の要点というか要旨については,金城学院の戦時的問題に関する認識が語られている個所を選んで,画像使用にして紹介する。

 学校法人金城学園もまた,この教育機関なりに戦争の時代は苦しい立場・状況に押しこめられていた。ただし,明治学院のとらえ方に関しては,まだ詰めの甘さを残すゆえ,ここではその指摘をあえて留保したうえで,この2頁を読むことにしたい。

「主を畏れる」という文句は
天皇を相手にするまでもなく
最上位に置かれているキリスト教の真理


 5 ミッション系の大学ではないが,慶應義塾大学ではとくに学徒出陣者の犠牲という問題を主軸にあの戦争の時代を省察

 
 ここでは,慶應義塾大学経済学部の白井 厚が熱心に取り組んできた「自学学生たちの戦争体験をめぐって調査し,考察した成果が,つぎのように公刊されていた事実に触れておきたい。

 白井 厚編『大学とアジア太平洋戦争-戦争史研究と体験の歴史化-』日本経済評論社,1996年。

 白井 厚監修, 慶応義塾大学経済学部白井ゼミナール『太平洋戦争と慶應義塾-共同研究』慶應義塾大学出版会,1999年。

 白井 厚・浅羽久美子・翠川紀子編,慶大経済学部白井ゼミナール調査『証言太平洋戦争下の慶應義塾』慶應義塾大学出版会,2003年。

白井 厚・監修,慶應義塾大学経済学部白井ゼミナール『共同研究 太平洋戦争と慶應義塾-』慶應義塾大学出版会,2009年。

 白井 厚『大学における戦没者追悼を考える』慶應義塾大学出版会,2012年。

 最後の2012年に公刊されたこの本は,つぎのように解説されている。

 慶應義塾関係戦没者名簿をほぼ独力でまとめた著者〔白井 厚〕が,そのさいの共同研究にともなって研究・発言を続けてきた,戦時下における大学,および大学と戦没者追悼の問題に関する論考集〔である〕。

 戦後の社会状況のなかで調査・研究が進んでこなかったこれらの問題について,従来の歴史研究に新たな一石を投じ,これからの世代の指針にしたいという著者の強い思いがこめられた1冊〔である〕。

 この解説の中身は,ミッション系の大学における宗教的次元に焦点を合わせざるをえなかった問題次元とはまた別であっても,これまた非常に重たい「戦争と平和の問題」「学問と非常時の問題」,そして「若者の生と死の問題」を討議している。

 ほかの大学,それも戦前から存在していた大学においても,大なり小なり慶應義塾大学とまったく同じに,それも,戦争の問題に深く関係した「歴史問題(その記憶の史実・記録化)」という課題を,各種各様に抱えているはずである。

 小泉信三(日本の経済学者で第7代慶應義塾長)の息子信吉も,慶應義塾大学経済学部卒業生であったが,大東亜(太平洋)戦争が始まってから1年も経っていなかった1942年10月22日,海軍主計中尉として南太平洋方面で戦死した。

 小泉家はキリスト教徒ではなかったものの,息子の戦死という事実を介しての「なにか」が,当時のミッション系高等教育機関が国家の圧迫を受けていた状況にも通じるかたちで,深い底での関連があったはずである。

 信吉の母親は,息子の戦死を知らされた直後,天空に向かってであったかのように,「シンキチ,シンキチ,……」と声を出して叫んでいたと,夫の信三は,自著『海軍主計大尉小泉信吉』文藝春秋,昭和41年のなかに書いていた。

 いまの天皇徳仁の父,明仁が「平民から嫁を取る」に当たり尽力したのが小泉信吉の父,信三であった。この事実は,よくしられる事情である。また,その明仁の父が昭和天皇:裕仁であり,この旧日帝君主のために,南太平洋における海戦で戦死したのが信吉であったことも,また事実であった。

 以上のごとき大東亜(太平洋)戦争の戦史過程にも絡む特定の経緯からは,当然のこと,国家神道という宗教理念と,より普遍的な宗教であるキリスト教とが交叉した歴史的な問題が,その小さなカケラに過ぎなかったにせよ,また別途に示唆されてもいた。

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 【付 記】「本稿(4)」の続編(5)は以下である。

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【参考文献】


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