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私は、返事が来ない時間を、自分への返事だと思っていた|凪

六月の雨の夜、バス停の屋根の下に立っていた。

十九時四十分。

次のバスは、二十二分後だった。

家までは歩いて十五分で、傘は持っていなかった。

その五分前に、一通送っていた。

「今日はありがとう。楽しかったです」

打ち直したのは三回。

送ってから、画面を伏せた。

屋根の下には、もう一人いた。高校生くらいの子で、イヤホンをしたまま時刻表を何度も見上げていた。私は、時刻表を一度も見ていなかった。

これは、バスを待っていたのではなくて、送ったあとの三十分を家の外で潰すための雨宿りだった。

私は返事を待っていたのではなくて、返事が来ないあいだの自分から、離れたかっただけだった。

* * *


雨の日だけ、帰り道が長くなっていた

そのころ、私の帰り道には二種類あった。

まっすぐ帰る日と、そうでない日。

遠回りする。

自動販売機の前で、長く選ぶ。

信号を一回、見送る。

コンビニに入って、何も買わずに出る。

どれも十分にもならない。

足すと、三十分くらいになる。

家に着いてしまうと、あとは画面しかないから、着かないようにしていた。

この足していた時間のことを、いまは遠回り分と呼んでいる。

名前をつけてから、自分が何をしていたのか、やっと見えた。

* * *

あの子は、バスに乗って行った

雨のバス停の話には、続きがある。

二十二分後に、バスは来た。

高校生の子は乗った。イヤホンを外して、整理券を取って、いちばん後ろの席に座った。

私は乗らなかった。

あのバスは、家の近くの停留所にも止まる。乗れば七分で着いて、濡れずに帰れた。

それでも見送った。

ドアが閉まって、バスが出たあと、屋根の下には私だけになった。

雨の音が、急に大きくなった。

そこで、自分が何を待っているのかが分かった。

バスではない。

返事でもない。

帰ったあとの、部屋の静かさだった。

* * *

三回打ち直して、いちばん短いのを送った

あの一通は、三回書き直している。

一回目は、四行あった。

店の名前と、話したことと、また行きたい、という言葉。

二回目で、店の名前を消した。

三回目で、残ったのは一行だった。

「今日はありがとう。楽しかったです」

短くしたのは、遠慮ではない。

長い文を送ると、相手も長く返さないといけない気がして、黙る。

昔、それで本当に黙らせたことがある。

言い訳を六行書いて送って、返ってきたのは三日後の一行だった。

「ごめん、忙しくて」

そのときから、送る前に削るようになった。

削るのは、たぶん間違っていない。

ただ、短い文には、あとで読み返す材料が少ない。

送ったあと、私は自分の文をもう読めなくなって、代わりに自分の頭の中を読み返していた。

* * *

後輩が、置き傘を貸してくれた日

翌週、職場を出るときにまた降っていた。

後輩が、傘立てから一本抜いて渡してきた。

「凪さん、傘は」

「ないです」

「これ置き傘なんで、どうぞ」

「悪いです」

「明日も置いてあるんで、平気です」

エレベーターで、その子が急に言った。

「おととい、気になる人にLINE送ったんですよ」

「そうなんですか」

「返事、まだ来てなくて」

「既読は」

「ついてます。それが、いちばんきついです」

同じ形の文を、私は昔から自分の頭の中でだけ言っていた。

「来ないあいだ、なにしてるんですか」

「歩いてます。だいたい」

「私もです」

エレベーターが一階に着いた。

それ以上は、どちらも言わなかった。

* * *

母の電話には、用がない

母は週に一度くらい、電話してくる。

出ると、たいてい最初にこう言う。

「別に、用はないねんけど」

「うん」

「元気にしてる」

「してる」

「ほな切るわ」

三分もかからない。

切ったあと、写真だけ届くこともある。

台所の窓から撮った空とか、作りすぎた煮物とか。

文はついていない。

私はその写真に、二日か三日、返していない。

遅いのに、母は次の週もかけてくる。

私はこの電話を、長いあいだ、雑なものだと思っていた。

いま考えると、母は返事の速さで人を測ったことが一度もない。

用がなくても押す人がいて、用があっても迷う人がいる。

私は後者で、しかも、相手も後者かもしれないとは考えていなかった。

* * *

私は、仕事でも同じ読み方をしていた

これは恋の話だけではない。

去年、やりとりの相手が別の担当者に替わった。

前の人は、長い返信を書く人だった。

新しい人は、「了解です」で終わる人だった。

「先日の件、お願いします」

「了解です」

「日程は来週で」

「了解です」

三週間で、私は嫌われていると思い込んでいた。

同僚に言ったら、こう返ってきた。

「あの人、社内にも同じやで」

「そうなんですか」

「打つの速いだけ。会うと普通にしゃべる」

実際に会ったら、本当に普通の人だった。

私は、文の長さを、気持ちの量だと思って読んでいた。

* * *

手帳には、送った時刻と天気だけ書くことにした

私は手帳に、起きたことだけを書いている。

気持ちは書かない。

六月から、書く形を決めた。

送った時刻。

来た時刻。

その日の天気。

「六月九日 十九時三十五分 送った 雨」

「六月十日 八時十二分 来た 雨」

「六月十二日 二十二時四分 送った くもり」

遅かった、そっけなかった、は書かない。

遅いは私が前と比べて出した感想で、その人がした行動ではないから。

書くのは十秒で終わる。

最初の週は、手が勝手に「短い」と足しそうになった。書きかけて線で消した日が三日ある。

* * *

一か月ためたら、天気のほうが目立った

六月の分を、月末に上から読んだ。

その月、雨の日は九日あった。

遠回りをして帰った日は、雨の日が七日、晴れの日が二日だった。

返事が遅かった日と、遠回りをした日は、ほとんど重なっていなかった。

重なっていたのは、天気のほうだった。

雨の日は、外に立っていられる場所がある。屋根の下、アーケード、コンビニの雑誌の棚の前。晴れた日は、立ち止まる理由が作れない。

返事が私を待たせていたのではなくて、私が待つ場所を、天気で選んでいた。

数える前と、あとで、天気は変わらない。

変わったのは、自分がどこで立ち止まる人なのかを知ったことだけだった。

知ってからも、立ち止まる夜はある。

ただ、なぜ立ち止まったのかが分かる分、翌朝まで持っていく量が少なくなった。

* * *

傘を返した日には、雨が上がっていた

置き傘を返しに行ったのは、五日後だった。

後輩は、傘を受け取ってからこう言った。

「返事、来ました」

「よかったですね」

「三日後でした」

「三日は、長かったですか」

「待ってるあいだは長かったです。来たら、短かったです」

その言い方が、しばらく残った。

長さは、あとから変わる。

待っているときの三日と、返ってきたあとの三日は、同じ日数で違うものになる。

私はそれを、待っているあいだにだけ測っていた。

* * *

雨が上がった夜に、いつもの道を歩いた

その日の夜、家を出て、駅の反対側まで歩いた。

二十分くらいの道。

夜の散歩は、昔からやっている。

アスファルトがまだ濡れていて、信号の赤が長く伸びて映っていた。自転車が通ると、その赤が割れた。

途中で温かいお茶を買って、蓋を開けながら残りを歩いた。

雲の切れ目に、月が出ていた。

その夜も、私は遠回りをした。

前と同じ道で、同じ分だけ長い。

その夜も、返事は待っていた。

違うのは、待つ時間を外で薄めようとしなかったことだった。

同じ道でも、名前が違う。

* * *

それでも、傘を持たずに出る夜がある

これで直ったわけではない。

先週も、送ったあとに既読だけがついた夜があった。

雨の音がしていて、私は玄関で少し立っていた。

傘立てに傘はある。

持って出れば、濡れずに歩ける。

持たずに出た。

濡れて帰れば、シャワーを浴びて、髪を乾かして、それだけで四十分が終わる。

そういう使い方を、私はまだ覚えている。

帰ってから、手帳に一行だけ書いた。

「九月四日 二十三時二十分 送った 雨」

翌朝、返事は来ていた。

来たから正しかった、という話ではない。来ない朝もある。

その朝も、書くことは同じ一行しかない。

* * *

今夜のひとつ

もし今夜、送ったあとの画面を持ったまま家に帰れないでいるなら、返事を催促する文を打つ前に、二つだけ書いてみてください。

送った時刻と、今日の天気。

「二十一時十分 送った 雨」

それだけです。

遅かった、既読なのに、は入れない。

それは相手がした行動ではなく、こちらの採点だから。

一週間ためて読み返すと、返事の間隔より先に、自分がどんな夜に長く歩いているかが見える。

夜の形が分かると、その夜の過ごし方だけは自分で決められる。

私はいまも、雨の日に傘を忘れる。忘れたことに、玄関を出てから気づくふりをする。

私は今も、帰り道を雨のせいで長くしないでいる練習の途中だ。

前に書いた、相手の気持ちを測っていたつもりだった話も、同じ場所から書いています。

https://note.com/brave_borage544/n/nb06ac68fd76d

次は、返事が来たあとに、こちらが三日返せなかった週のことを書きます。

同じ棚に、続きがあります

凪が書いた話は、この棚にまとめてあります。

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