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私は、改札の前でいつも「さみしい」を飲み込んでいた|凪

改札を出たところで、その人はいつも同じことを言う。

「じゃ、気をつけて」

私も、いつも同じことを返す。

「うん、またね」

それで別れて、私は反対側のホームへ上がる。

乗ってしまえば、家まで二十三分。

その二十三分のあいだに、さっき言えなかったひとことを、頭の中で四回くらい言い直す。

言いたかったのは、四文字だけだった。

「さみしい」

それだけ。

その四文字が、改札の音といっしょに喉の奥へ落ちていく。

* * *

言えなかった言葉を、そのまま家まで持って帰ってしまうこと。

私はいつからか、それを持ち帰りと呼んでいる。

持ち帰った言葉は、玄関で消えたりしない。

靴を脱いでもついてくる。

お湯をわかしてもついてくる。

布団に入ってからが、いちばん大きくなる。

長いあいだ、私は自分のことを、遠慮ができる人間だと思っていました。

相手の予定を先に考える。

重くならないように言葉を削る。

そうやって関係が保たれているのだと信じていた。

でも去年の冬、同じ改札で同じ「じゃ、気をつけて」を聞いたとき、急に分かってしまった。

これは、遠慮ではなかった。

断られないように、自分をひとことぶん小さくしていただけだった。

言わなければ、断られることもない。私はずっと、その安全な場所から手を振っていた。

* * *


名前が変わっても、距離は変わらなかった

いちばんこたえたのは、関係の名前が変わったあとのことです。

会う回数は前と同じ。

連絡の間隔も前と同じ。

別れる場所も、前と同じ改札。

変わったのは、私の中身だけだった。

前より会いたくなって、

前より返事が気になって、

前より、別れぎわが長く感じる。

増えたのは、こちらの気持ちだけ。

距離のほうは、昔のままそこにある。

「もっと会いたい」と言えば、たぶん一回くらいは会える。

でも、言った瞬間に、私は「もっと会いたい人」になる。

相手の中にいる私が、そういう名前に変わってしまう気がした。

だから言わない。

言わないから、伝わらない。

伝わらないから、距離は変わらない。

この輪の中を、私は何周もしていました。

* * *

たくさん言って、失敗した夜がある

言えなくなった理由は、たぶん一つではありません。

それでも、はっきり覚えている夜がある。

前の関係のとき、返事が三日来なかったことがあった。

私は待って、待って、それから長い文を送った。

思っていることを全部書いた。

順番に、ていねいに、誤解のないように。

送るまでに、一時間かかった。

返ってきたのは、二行だった。

「ごめん、いろいろ考えてくれてありがとう」

「ちょっと今、余裕がなくて」

責められたわけではない。

怒られたわけでもない。

それなのに私は、自分の長い文をもう一度読み返して、恥ずかしくなった。

たくさん言ったから、伝わらなかったのではないと思う。

たぶん、順番が逆だった。

相手の余裕を先に聞かずに、自分の量を先に出した。

そこから私は、言葉を減らす練習ばかりするようになりました。

減らして、減らして、四文字も言えなくなった。

減らしすぎた言葉は、優しさではなく、ただの無言でした。

* * *

温度は、測るほど分からなくなる

一時期、私は相手の返事の長さを数えていました。

今日は十七文字。

昨日は五文字。

おとといは、スタンプだけ。

数えると、その日の温度が分かる気がした。

でも、分かった気がするだけでした。

五文字の日に会ったら、いつもより機嫌がよかったこともある。

長い返事の日に、目を見て話せなかったこともある。

文字の数は、その人の忙しさで動く。

気持ちは、そこまで正直についてこない。

温度を測ろうとするほど、私は相手を見なくなっていきました。

見ていたのは画面で、目の前の人ではなかった。

「今日、なんか静かだね」

一度だけ、そう言われたことがある。

静かだったのは、頭の中で数えていたからです。

* * *

母は、たぶん昔から知っていた

久しぶりに実家へ電話をしたとき、母は用件を聞く前に、ごはんの話をした。

「ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「ならええわ」

それで切ろうとして、最後にひとことだけ足された。

「あんた、昔から人に頼まんな」

小学生のころ、傘を忘れた日に、私は誰にも借りずに濡れて帰ったらしい。

自分では覚えていない。

でも、たぶん本当だと思う。

借りたら、返さないといけない。

返せなかったら、悪く思われる。

そう考える子どもだった。

大人になっても、やっていることは同じでした。

借りるものが、傘から言葉に変わっただけ。

* * *

「言えばいいのに」が、いちばん遠い

友達に一度だけ、この話をしたことがある。

「言えばいいのに」

そう言われて、私は「そうだよね」と笑った。

その日の帰り道で、また持ち帰りをした。

言えばいいのに、が言えないから困っている。

でも、それを説明すると長くなる。

長くなると、重い人になる。

だから、笑って終わらせる。

職場でも、同じことをしていました。

同僚に「手伝おうか」と言われて、

「大丈夫です」と答えて、

その日の残りを一人で片づけた。

その同僚は、帰りぎわにこう言った。

「大丈夫って、いつも早いよね」

たぶん、見られていた。

言わないでいることは、思っているほど隠れていない。

* * *

電車の窓に、言い直しの私がいる

帰りの電車は、たいてい座れます。

座ると、向かいの窓が黒くて、自分の顔が映る。

その顔に向かって、私は言い直しをしている。

「さみしい」

「今日は帰りたくなかった」

「もう少しだけ、話したかった」

口は動いていない。

声も出ていない。

それでも、窓の中の私は、たしかに言っている。

三つ先の駅で、隣に座った人が電話を始めた。

「うん、いま出た」

「二十分くらいかな」

「うん、待ってて」

待ってて、と言えるのがすごいと思った。

待たせる側にまわるのが、私はずっと怖かった。

窓に映る私は、まだ何も言っていない。

それなのに、言い直しの回数だけは、正確に増えていく。

* * *

手帳の右端に、飲み込んだ言葉を書くことにした

私は前から、手帳に起きたことだけを書いています。

そこへ去年の冬から、もう一つだけ足しました。

その日、言おうとしてやめた言葉。

感想は書かない。

理由も書かない。

やめた言葉を、そのまま。

「さみしい」

「もう少しいたい」

「今日の返事、ちょっと冷たかった」

一週間ためて眺めたら、同じ四文字が三回並んでいた。

並んだ三つを見て分かったのは、私が言いたいことは、思っていたより少ないということでした。

百個あるなら、選ぶのは難しい。

三つなら、選べる。

飲み込んだ言葉は増えていくのではなく、同じものが積み上がっているだけでした。

* * *

一度だけ、言えた夜のこと

先月、いつもの改札で、いつもの「じゃ、気をつけて」を聞いた。

その前にコンビニへ寄っていて、温かい飲み物を買ったところだった。

レジで、店員さんに聞かれた。

「袋、おつけしますか」

私は考えるより先に答えていた。

「いえ、大丈夫です」

大丈夫です。

その日、二回目だった。

一回目は、職場で。

あの同僚に、また同じ返事をした。

手のひらが温かいまま、私は改札の手前で立ち止まって、言った。

「あの、まだ帰りたくない」

さみしい、は結局言えなかった。

言えたのは、その一歩手前の言葉。

相手は少し驚いた顔をして、それからこう言った。

「じゃ、もう一本あとにする」

それだけだった。

何も壊れなかった。

駅の音は、いつもと同じだった。

帰りの電車で、私は珍しく何も言い直さなかった。

その日は、持ち帰る言葉がなかった。

* * *

今夜のひとつ

そのあとも、飲み込む夜はあります。

先週も一回ありました。

もし今夜、あなたも改札の前でひとこと飲み込んだのなら、無理に言い直さなくていいと思う。

かわりに、その言葉だけを書いてみてください。

紙でも、スマホのメモでもいい。

理由はいらない。

やめた言葉を、そのまま。

一週間ためて、同じ言葉が三回並んだら、それがたぶん、あなたが本当に言いたいことです。

私はまだ、あの四文字を言えていない。

言える日が来るのかも分からない。

それでも、持ち帰った言葉の数だけは、数えられるようになりました。

前に書いた「恋愛相談を、友達にしなくなった」も、同じ場所から書いています。

https://note.com/brave_borage544/n/n05fbb91d9579

次は、返事が来ない日に、部屋の片づけを始めてしまう話を書きます。

同じ棚に、続きがあります

凪が書いた話は、この棚にまとめてあります。

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