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私は、平気な日が続いたことを、治ったと思っていた|凪

三月の終わりの朝、荷物が全部運び出されたあとの部屋に、一人で立っていた。

四年住んだ部屋だった。

六畳。

端から端まで、歩いて八歩。

家具がなくなると、部屋は思っていたより広くて、思っていたより古かった。壁に、テレビ台の跡が長方形で残っていた。

玄関から、業者の人が声をかけてきた。

「作業、終わりました」

「ありがとうございます」

「鍵の返却、今日でしたよね」

「はい、このあと行きます」

ドアが閉まって、音がなくなった。

九時十五分だった。

そこまで、私はふつうだった。

段ボールの数を数えて、ごみ袋を出して、朝ごはんも食べた。

三か月、その人のことを思い出さない日が続いていた。

何もない部屋を見た瞬間に、それが終わった。

これは、三か月ぶりの不意打ちだった。

平気な日が続いたのは、治ったからではなくて、何も見ていなかっただけだった。

* * *


物がなくなった部屋のほうが、よく覚えていた

家具があったときは、なんとも思わなかった場所だった。

台所の床に、丸いシールの跡がある。

窓のそばの壁が、そこだけ少し白い。

玄関のたたきに、細いへこみが一つ。

物をどけたあとに、跡だけが残っていた。

丸いシールの跡は、湯をわかす道具を置いていたところで、四年前にその人が「ここ、置き場所ここでいいん」と言った場所だった。

「そこでいい」

「なんで」

「近いから」

「なにが」

「立ってる場所から」

それだけの会話だった。

覚えているつもりもなかった。

跡のほうが先に思い出して、私はあとから追いついた。

四年のあいだ、私はその跡の上に物を置いて暮らしていた。

置いてあるうちは、跡は見えない。

見えないものは、無いことになっていた。

* * *

三か月、私はちゃんとやっていたと思っていた

平気だったあいだ、私はいろいろやっていた。

通知を切った。

写真を別のところへ移した。

話に出そうな人と、少し距離を置いた。

やることはやったと思っていた。

二月に、友達に会ったときも、そう言っている。

「あの件、もう平気なん」

「うん、平気」

「ほんまに」

「三か月なんも思ってない」

「そら、すごいわ」

自分でも、そう思っていた。

何も起きない日が続くのを、私は前へ進んでいることだと数えていた。

いま思うと、私がやっていたのは、思い出す入口を一つずつ塞ぐ作業だった。塞いだ入口の数だけ、自分は強くなったと思っていた。

塞いだのは、私が知っている入口だけだった。

何もない部屋という入口は、思いつきようがない。

三か月というのは、ちょうどいい長さだった。人に言えるくらいには長くて、本当かどうかを自分で確かめるには短い。私はその三か月を、通信簿みたいに持ち歩いていた。

* * *

母は電話で、部屋の話しかしなかった

引っ越した週に、実家へ電話をした。

住所が変わったことを伝えるだけの電話だった。

母は用件を一分で終わらせて、そのあとずっと部屋の話をした。

「新しいとこ、駅から何分」

「歩いて十分くらい」

「ほな、前より遠いやん」

「まあ」

「あんた、前の部屋、好きやったなあ」

うん、と言って、そこで少し止まった。

好きだったかどうか、考えたことがなかった。

古くて、夏に暑くて、隣の音がよく聞こえる部屋だった。

「なんで好きやと思ったん」

「よう写真送ってきよったやん、そこから」

そう言われて、送った写真のことを思い出した。窓から見えた月と、床に伸びた影と、洗い物のあとの流し台。どれも、部屋の写真だった。

私は部屋の写真を送っていたつもりで、たぶん、その部屋にいる自分の機嫌を送っていた。

母は最後に、こう言って切った。

「まあ、荷物が減ってよかったやん」

* * *

同じことが、会社の引き出しでも起きた

これは、恋の話だけではないと思う。

四月に、席替えがあった。

引き出しを空にする日だった。

奥から、封を切っていないペンが一本出てきた。

去年やめた先輩が、配ったペンだった。

配ったときのことは、はっきり覚えている。

「これ、余ったやつなんで」

「いいんですか」

「ええよ。使わんかったら捨てて」

私はそのペンを、一年、使わずに置いていた。

やめた日のことは、そのとき何も思わなかった。送別の集まりにも出たし、次の週からふつうに仕事をしていた。忙しかったし、忙しいのは都合がよかった。

引き出しの底で見つけた瞬間に、一年ぶんが戻ってきた。

その日、私は定時で上がって、帰りの電車で一駅乗り過ごした。乗り過ごしたのは久しぶりだった。恋の話ではないのに、体の反応のほうは同じだった。

そこで分かったことがある。

私は、人がいなくなったことを悲しんでいるのではなくて、その人がいた場所を片づける日に悲しんでいる。

悲しむ日は、出来事の日ではなく、片づけの日のほうに来る。

* * *

手帳に「戻り時刻」を書き始めた

私は手帳に、起きたことだけを書いている。

気持ちは書かない。

時刻と、回数だけ。

四月から、そこへ一行足した。

平気だった時間が、急に終わった時刻。

「四月三日 九時十五分 部屋」

これを、戻り時刻と呼んでいる。

何を思ったかは書かない。

相手も書かない。

時刻と、そのとき自分がいた場所だけ。

書くのは十秒で終わる。

書いたあとは、その日はもう考えないことにしている。

最初の一週間は、書き忘れた日が三日あった。忘れた日は、来なかった日ではなくて、来たのに書かなかった日だった。数えるのは、思っているより難しい。

理由を書こうとすると、そこで手が止まる。理由は書いているうちに整った形になって、次の週に読み返しても自分に納得させられて終わってしまう。時刻と場所だけなら、あとから作りようがない。

* * *

一週間ためて数えたら、時間ではなく場所に偏っていた

四月の一か月分をためて、数えた。

十一回あった。

そのうち九回が、家の中だった。

残りの二回は、会社の引き出しと、コンビニのレジの前。

時刻も並べてみた。

朝が四回。

夕方が一回。

夜が六回。

夜が多いのは、思っていたとおりだった。

思っていなかったのは、朝が四回もあったことだった。

朝の四回は、全部、部屋の片づけをしていた時間だった。

これで分かったのは、私の不意打ちは夜に来るのではなくて、手が空いて、目の前に物がある時間に来るということだった。

夜に多いのは、夜だからではない。

夜は、手が空いているからだった。

弱いから思い出すのだと、長いあいだ思っていた。

数えてみると、私が思い出すのは、たいてい何かを片づけている最中だった。

* * *

コンビニで来た一回だけ、種類が違った

家の外で来た二回のうち、一回はコンビニだった。

夜の十一時。

レジに、温かいお茶を一本置いた。

「袋、ご利用ですか」

「いえ」

「温めますか」

「あ、いえ、それは」

言い間違えた。

店員の人は笑わずに、そのまま渡してくれた。

外に出て、蓋を開けるところで来た。

温かい飲み物を二本買っていた時期があった、と急に思った。

一本は自分の分で、もう一本は渡す用だった。

前の九回とは、感じが違った。

家で来るときは、しばらく動けなくなる。

外で来たときは、歩きながら終わった。

信号が変わるまでのあいだに、私はもう別のことを考えていた。

同じ不意打ちでも、座っているか歩いているかで長さが変わるらしい。

これも、数えるまで気づかなかった。

* * *

それでも、不意打ちの日はまだある

これで直ったわけではない。

先週も来た。

新しい部屋の、まだ何も掛けていない壁を見ていたときだった。

何も置いていない場所というのは、どうやら私の入口らしい。

手帳には、こう書いた。

「九月一日 二十二時四十分 新しい部屋」

書いてから、少し笑った。

引っ越しても入口は減っていなかった。

場所を変えても、私は同じところで止まる。

いま変わったのは、来る回数が減ったことではなくて、来たあとに残るものが変わったことだと思う。

前は、名前のない重さだけが残った。

いまは、時刻と場所の書かれた一行が残る。

行になっていれば、次の週に読み返せる。

読み返して、月末に数えられる。

数えられるものは、だんだん怖くなくなる。

* * *

今夜のひとつ

もし今夜、さっきまでふつうだったのに急に頭がいっぱいになったなら、中身は書かなくていいと思う。

時刻と、いた場所だけ書いてみてください。

「今日 二十三時十分 台所」

それだけでいい。

相手の名前も、理由も、いらない。

一週間ためて読み返すと、たぶん、夜だからでも、弱いからでもないことが見えてきます。

そこが分かると、身構える場所が変わる。

私の場合は、片づけの前に、部屋の写真を先に一枚だけ撮るようになった。撮っておくと、跡だけを見ずに済む。効くかどうかは、まだ二回しか試していません。

私はまだ、前の部屋の鍵の感触を、手が覚えている。

返してきたのに、たまに探してしまう。

私は今も、跡の残った壁を見ないで通り過ぎる練習の途中だ。

前に書いた、改札の前で「さみしい」を飲み込んでいた話も、同じ場所から書いています。

https://note.com/brave_borage544/n/n8219cd50327a

次は、片づけを終わらせたくなくて、わざと物を残す夜のことを書きます。

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凪が書いた話は、この棚にまとめてあります。

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