それぞれの魂の見方──『世界哲学史1(3〜5章)』読書感想文
『世界哲学史』を読むこと、始めました。
今回取り上げる1巻の3〜5章は、主体ではなく人間存在そのもの=「魂」を、古代イスラエル・古代中国・古代インドの三つの世界観から捉えた内容になっています。
第3章 旧約聖書とユダヤ教における世界と魂(高井啓介氏)
「哲学」をフィロソフィアとするならば、それは古代ギリシアに生まれた概念であり営みであるから、古代イスラエルには存在しなかったと言えるのだろう。しかし「哲学」が始原(アルケー)にたいする問いを含んでいるとするならば、古代イスラエルの人々も、自らの存在とそれをとりまく様々な事物や事象について、その始原に想いを馳せ探求を行っていたことには疑いがない。
古代イスラエル人およびユダ人との宗教との連続性を持ちつつ、バビロニアおよびパレスティナ地域に住む人々を中心に捕囚と捕囚からの解放という新しい現実に直面した人々が形成したユダヤ教。
その教典であり、キリスト教やイスラム教にも影響を及ぼした旧約聖書の世界理解とはどのようなものか。
神が創造者であり、世界は創造されたもの、すなわち被創造物である。この関係は旧約聖書において基本かつ絶対的なものである。
創造者である神は、言葉によって世界を生み出し、混沌を秩序へと変えていく。秩序は神がもたらし、神から離れないもの。そういう神観念がユダヤ教にはある。
一方、その秩序の世界で生きる人間はどうか。
創世記において、神は土の塵で人の形をつくりその鼻に息を吹き込んだ。息を吹き込まれたものが生きる者(ネフェシュ)になった。
この魂のように見えるネフェシュとはなにか。旧約聖書においては、ネフェシュは身体と必ず結びついて存在し、死によってその存続を終える。つまり、ネフェシュに不死性や死後の存続の観念を見ることはできないという。
ネフェシュを持つという意味においては人間は動物と共通性を持つが、一方で創世記においては人間だけが「神のかたち(imago dei)」を持つという特別な位置を与えている。
タイトルのとおり「旧約聖書における世界と魂」の見方が淡々と解説される章。旧約聖書の成立に影響を与えたもの──特にヘレニズム文化から受け取ったものと旧約聖書での観念の差異。そして、旧約聖書が他に与えた影響を知ることができる。
第4章 中国の諸氏百家における世界と魂(中島隆博氏)
カール・ヤスパースの「枢軸の時代」の一角を占める諸子百家の時代。
この時代に、中国では人間を取り巻く地平に対する反省や、人間の生のあり方に対する考察が生じ、後の中国哲学の枠組みを作っていったという。
この諸氏百家時代を扱う章で話題にあがる世界や魂は、あらかじめこのように定義される。
ここで世界や魂という概念で考えようとするのは、次のようなことだ。まず魂についてだが、それを、その人やそのものをそのように成り立たせているはたらきとして考えたい。それは、実体化された何かとして捉えるのではなく、よりダイナミックな原理として考えてみたいからである。それに応じて、世界もまた何か大きな入れ物や場所のようなものとして捉えるのではなく、魂というはたらきとともに立ち現れてくる地平として考えてみたい。なぜなら、超越的な神のような視点に立って、世界という入れ物の中に、実体としての人やものを配置してその関係を考えるという構え自体が、古代中国、とりわけ前八世紀から前二世紀にかけての春秋戦国時代の諸氏百家において批判されているからである。
まずピックアップされるのは、『荘子』である。
寝ているときは魂が交わり、目覚めると形(からだ)がはたらく。
ここでの魂という単語は、“精神”と後世に注釈される。この“精神”は、所謂西洋的のspirit的な意味ではなく、神秘的なはたらきを意味する。神もGodではなく、よりダイナミックな神秘のことを指す。
前一世紀頃のテキスト『説苑』にはこの“精神”という言葉に触れた箇所があり、そこでは“精なる神や鬼は天という人間を超えた次元に属している”という感覚が見てとれるという。
さて、荘子にかえって「胡蝶の夢」の物化という概念の説明になる。
(物化とは)人間が人間以外の他のものに変化したり、別の姿に化したり、別人になったりする事態を指し示している。
多くの論者はこれを万物斉同の概念だと考えているが、荘周と胡蝶は別のものだと他ならぬ原文で断られているという。物化とは、荘周と胡蝶はそれぞれの区分された世界において独立しており、他に干渉しない。にもかかわらず、生のあり方、形質、世界が変化するということ。
夢と目覚め、生と死、そういう区分のもとに構想されている。
この世の一つの視点を持つものとして生まれてきた存在である以上は、超越的な視点を持つことが叶わないという思想は、スコラ哲学や修験道の哲学にも同様の思想が見受けられるという。
この「胡蝶の夢」の中では魂の同一性が一切言及されていないにも関わらず、中国の六朝時代の仏教徒は、“形と神は分離するものである(=死んだ後も何らかの魂が存在する)”という輪廻転生の根拠にしたという。
確かに言説の引用次第ではなんとなく論が通る気もしないでもない。こういった言説の使われ方は、端々にその時代の人間の思惑が感じられて面白いなあといつも思う。
一方、時を下って荀子はこの荘子の「一つの世界の中に深く立ち、他の世界を容易に見ないようにした上で、世界の変容を構想した」思想を批判し、「複数の世界を認めた上で、それらを超えた超越的な視点に立つのではなく、歴史的な視点に立って、その複数の世界の間の関係を考察している」のだという。
この荀子が訴えたのは、人間世界の制度やその制度による生のあり方の変化の具体的な様相は可変的であるという論なのだというが、この考えは実に現代的だと言える(ただしこの可変性を受容することは“法”や“礼”の基準が定まらないということを認めることでもあり、その点で後世の儒家にとっては受け入れ難いことでもあった)。
そもそものところに立ち返って、このような諸子百家の思想のスタート、ベースにあるものは孔子の“仁”の考え方にあるという。あらかじめ規定されたわたしや世界などはなく、それらは「他者によくすること」を通じてのみ作り出されていく。古代中国の思想において世界や魂について問うことが可能になるためには、他者というエレメントが必須であった。
個人から出発するのではなく、他者から出発する思想の原初。ここに、中国哲学の特徴があり、もしかすると現代哲学の一つの視点変容を促すものになるのかもしれない。
そう著者は結ぶ。
※本文には孟子への言及も主軸にあるのだが、孔子→荘子→荀子の流れでおおよその趣旨が読み取れると感じたので、複雑性を排するために本記事では割愛している。
第5章 古代インドにおける世界と魂(赤松明彦氏)
インド哲学研究において先駆的な仕事を残したドイッセンの著作『一般哲学史』第一巻の中のインド哲学では、下記のようにインド哲学を区分する。
ヴェーダ成立末期(第十巻)には、哲学的な思考が見られる。これがインド哲学第一期。
その後、「梵我一如」という最高原理をめぐる哲学として語られたウパニシャッドが生まれた前700〜500年がインド哲学第二期。
そして貨幣経済の発展、王権の伸長、富裕層の力が大きくなり、相対的にバラモンの力が弱まってヴェーダ以外の思想や宗教が生まれ、仏教やジャイナ教、ヒンドゥー教が誕生した前500年〜がインド哲学第三期。
上記区分けの第二〜第三期にあたるウパニシャッドにおける中心思想は「梵我一如」であり、これは「梵(ブラフマン)=宇宙の最高原理」と「アートマン(我)=個人の原理」とは本質的に同一であるという思想である。
日本では「アートマン」を「魂」と訳すことはないが、欧米では「soul」と訳すことがあるという。では、そのアートマンとは何か。
個人存在の原理として認識に関わる主体であり、この世で身体を拠り所としながらも不死生を持つ実体
ウパニシャッドではこのように考えられていた。
それに対しブッダが「無我」を唱えたことで、正統派の哲学者たちは神話ではなく論理的にアートマンの存在を証明する必要性に迫られた。
そこで「アートマンの存在論証」を試みたのがニヤーヤ学派である。
彼らの根本教典である『ニヤーヤ・スートラ』の注釈において、アートマンは下記のように説明される。
すべてのものを認識する主体、あらゆる事柄を経験する主体、[すなわち]
すべてを知るもの、あらゆるものの経験者である。
欲求・嫌悪・意志的努力・快感・不快感・知識はアートマンの[存在を示す]徴表である。
アートマンの存在は目に見えないが、欲求があるからアートマンは存在するのだという。欲求が生じるには過去の体験・学習が必要である。人間が一個の同じ人間として生きていくためには時間が経過しても変化することがない自己同一性が必要であり、それがまさにアートマンである、と。
これらのことからアートマンは、ウパニシャッドにおいては永久不滅の魂としての側面、ニヤーヤ学派の言説においては自己同一性を保持する主体としての「自己」という二つの側面があることがわかると著者はいう。
本章の最後の段は、その二つの解釈の間の時間──千年の間を埋める思想の変遷を「叙事詩」に見ていく。
生成論的なアートマンの解釈、自己同一性の論証の萌芽、認識論的な解釈、自己意識の拡大と理性の過失。
著者は叙事詩の『マハーバーラタ』の中のアートマンに関する記述の中に、後世の宗教(仏教)への影響、哲学的思考の萌芽を見ている。
ここからは完全に私見で主観的な感想。
結局、叙事詩の解釈においてもニヤーヤ学派の言説においても、その都度、解釈する人物がその背景にある世相に合わせ、成し遂げたい目的に合わせて「アートマン」の解釈を変化させているように感じる。
そもそも叙事詩には、筋の通った論理を示そうという意識はまったく働いていない。それがいいとか悪いとかではなく、人間に生活の規範を示すことを目的とした叙事詩という語りの文学において、全編を通して論理に整合性がとれている必然性など全くないから。
世の中には徹底した論理を求められるテキストより、叙事詩のような性格のテキストの方が圧倒的に多い。
しかしそのような世の中を反映した数多の口頭伝承またはテキストが、何らかのきっかけで(おそらく意図的に)体系化され、厳密な論理で固められ、ひとつの思想となっていく。
その経緯に、人間というものの不完全さ──“人間っぽさ”を感じるなあと。そう思った章だった。
