見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第十回)
3月 文学PR論
「#ママ戦争止めてくるわ」と「高市鬱」。前者は、衆院選の投開票直前、SNSで拡散された。後者は、同選挙の自民党圧勝後、もともとSNSで飛びかっていたそうだが、斎藤美奈子の東京新聞コラムをきっかけに広まった。いずれもリベラル界隈が自民党・高市政権を批判し、自陣の共感を集めるレトリックであり、リベラル批判のシンボルにもなっている。蓮實重彥が「「高なんとかさん」の淫らなまでの卑猥さ」(「〈些事にこだわり 30〉コンテンツ産業の振興策とやらがあたりから消し去っている個の眩い輝きを、いかにして回復させることができるのか」、『ちくま』3月号)と書いた揶揄もSNSで炎上している。
興味深いのは、焦点になっているのが政策や道義的な問題ではなく、レトリック、批判の仕方である点だろう。「鬱」が鬱病差別だとか「淫らなまでの卑猥さ」がセクハラだとかいう細かい指摘もあるが、要点は、リベラルが喝采する反面、それでは広い支持を得られないのではないかというリベラル批判からの指南である。簡単にいえば、政治の言説がすっかり営業トークの議論(昔なら戦術論だが)になっているのだ。あなたのコピーは訴求力が弱いというダメ出しの連続。リベラル新党「中道」なるネーミングセンスへのダメ出しも同じだろう。
今回の時評は、文学はいまいたるところでPRになっているということがさしあたりの結論になるはずなのだが、もちろん我々『文学+』もそのような光景と無縁ではない。SNSで日々PRをしまくっている。町屋良平(「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――」)が端緒を切って以来、ここ十年くらいの文学の光景が変わったという議論をよく目にする。手法にこだわる作品が減ったとか、マイノリティを主題にした作品が増えたとか、いろいろな観点から論じられているが、けっきょくのところ文学はPR化したということではないか。
まず、去年の年末に出た二冊の著書をPRしておきたい。梶尾文武の『戦後文学の相続者たち』(青土社)と鴻巣友季子の『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』(ハヤカワ新書)である。一方は戦後文学をめぐる重厚な研究、もう一方はカジュアルな現代文学の紹介と、性質が全く異なるように見えるが、リンクがある。
梶尾本は六〇〇ページに及ぶ大著で数々の作家や批評家が取り上げられるが、その射程は戦後の一九五〇年代から一九六〇年代を中心とし、おおむね一九七〇年代を終点としている。戦後文学の重要なテーマである「政治と文学」をひとつの軸に置き、時代がくだるにしたがって作家や批評家がどのように応接したのかが、大量の資料とともに論じられていく。
二つポイントがある。ひとつは、詩人および詩の言説をふんだんに取り入れている点である。たいていの文学研究は、小説家を扱えば詩をカットするし、詩人を扱えば小説をカットするものだが、梶尾本は文学史の記述さながら両方を交互に対象としているのである。この記述により、戦後文学がある時代まで小説と詩が密接な関係にあったことを知ることができるだろう。
もうひとつは、これが鴻巣本とリンクしている側面なのだが、小説や詩などの創作を、当時の批評家および批評の言説と関連させながら論じている点である。そのような構成になったのはなぜか。梶尾によれば、現在の理論から小説や詩を分析することを避けるためである。その結果、当時の批評理論の更新を参照しながら同時代の作家の言説や行為が論じられることになる。なぜこのような方法が可能なのか。戦後文学はおそらくある時期まで批評が欠かせない存在だったからである。
ここにおいて鴻巣本へとリンクすることが可能となる。鴻巣本が、批評が不在となった時代の文学を紹介している点において。時代の射程はゼロ年代以降。ゼロ年代くらいまで英米圏の文学は他言語の翻訳をせず、英語中心主義だった。その胡坐をかいた結果が、水村美苗に『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(2008年)を書かせたわけである。
しかしその頃から英米圏も翻訳文学を積極的に取り入れはじめていたという。どうやらその拍車をかけた背景に、女性作家への注目があったようである。主流から外されてきた女性作家を、メジャーではない小規模な出版社が発掘・紹介するトレンドが翻訳文学の活況をもたらしたというわけだ。二〇一〇年代の半ば以降、村田沙耶香らが英米圏を中心にこぞって翻訳されることになる。そのような光景を、村上春樹一強以降の現象として論じられている。
翻訳される上で重要な要素が二点ある。まず、日本での文学賞の受賞は重要視されない。権威はあてにされていない。次に、これは私の憶測が入るが、女性作家の進出と連動し、家族や抑圧された女性など普遍的なテーマが受け入れられやすいだろうということである。天皇とか戦争責任とかローカルでハイコンテクストなテーマは敬遠されるのではないか。ひきこもりの青年が天皇に見立てた朱鷺と格闘している光景は(私の好きな作品なのだが)、何やっとんねん、でしかないだろう。やはり熊と格闘すべきなのだ。
ここで確認できることは、作家・作品の価値付けは権威や批評が行うものではないということである。それは出版社の編集や翻訳家の、マーケットベースな目利きによってのみ行われるということだ。冗長な作品が嫌われ(だから最近の春樹は批判されがちらしい)、中篇化の傾向があるのは日本と同じだが、それもマーケットの要請だろう。批評と創作から市場と創作へ、といったところだろうか。
文芸誌の特集や対談企画というものの一定数は初出雑誌・版元による自社刊行物のPRのために企画されるものだが(致し方なし)、その割合が異様に多い文芸誌というのが目立っている印象は近年ある。まあそれが悪いということはなく(下手にテーマを掲げて特集するくらいなら著者をピックアップして現状の…
— 山本浩貴(いぬのせなか座) (@hiroki_yamamoto) February 11, 2026
もともと文学PR説を論じようと思ったきっかけは、山本浩貴(いぬのせなか座)のTwitter(現X)でのポスト(2月11日)だった。最近文芸誌の特集はPRの建付けになっていることが多いという発言である。確かにそうだなあと思うところがあった。たとえば『すばる』が以前『週刊少年ジャンプ』の『呪術廻戦』(同じ集英社)をPRした「呪」特集(22・1)が注目されるなど、PRっぽい企画が目立っていた。前回の時評で取り上げた『文學界』の「熊」特集は、その特集に参加している河崎秋子の熊小説(同じ文藝春秋)の刊行がからんでいて、時評で取り上げるのに少し躊躇したのだった。
そこで、近過去の文芸誌をPRを意識しつつざっと点検してみると、さすがに一線を超えているのではないかと思うに至った次第。とくに気になったのは、新刊が出たさいの、識者(インフルエンサー)による論評や対談である。報酬付きで依頼を受けて関わっているのだからPR表記がなければステマではないだろうか(責任はインフルエンサーではなく事業者)。
今月号だと『群像』(3月号)の「特集 豊永浩平」と「小特集 井戸川射子」が――井戸川のも「特集」でよい気がするのだが……――このタイプの典型である。両方とも新刊記念の特集。作家へのインタビューや作家との対談、論文や書評が識者によって寄せられている。ステマ規制法からみるとグレーゾーンだろう。
一昨年のことだが、PR広告業界ではステマ規制で激震が走っている。ステマ規制法は2023年10月からはじまったのだが、こういうルールにありがちな、具体的にどう運用されるのか不明な点があった。献本をSNS等で紹介するときはどうしたらよいのかといった話題も記憶に新しいのではないか。
激震が走ったというのは、広告内の識者(インフルエンサー)コメントに「PR」表記がないということで指導を受けた事例が複数出たことに対してである。たとえば、識者(インフルエンサー)がSNS等で商品・サービスを紹介した部分を切り取って自社広告に転用したさい、当該識者(インフルエンサー)と何らかの依頼関係があった場合、「PR」表記をしなければいけない。そこまでしなくてもよいと思っていた業界は驚いたわけだ。ステマ規制は、一般人の体験談や紹介よりも識者(インフルエンサー)の利用を重く見る。影響力があるからである。
書評がPR化していると揶揄されて久しいが、すでにそのレベルを超えているのではないか。PR特集を常時行っているわけではないし、当然悪意はないはずなので、これらを指導するということは現時点で考えにくいが、今後の成り行きを出版社は注意した方がよいだろう。識者にも迷惑をかけかねない。
ステマかどうかは問わなくても、自分たちは言論・出版に関わって文化的なことをやっているというエクスキューズを盾にして、実はPRであるという構図は道義的にどうかという批判もありうる。応援したい気持ちがあるのはわかる。しかし、出版以外の会社だって自分たちはよい商品を作っていてそれをインフルエンサーに伝えてほしいと依頼している。かりに広告となんとなくわかっていても、権威付けは訴求力があるので重宝されてきた。医薬品の広告に医師が登場し、その商品のコメントをしているケースをイメージしてほしい。ステマ規制の指導を受けた業界の広告と構図はほとんど変わらないのだ。
『ユリイカ』(2月)が久しぶりに作家の特集を組んでいる。大前粟生の特集。『プレイ・ダイアリー』(朝日新聞出版社)の刊行に合わせてだが、他社の出版物だし、特集の中身は関係論文が豊富でさすがにPRの趣はない。何より、鹿島隆生による書誌「大前粟生主要作品解題」があるのがよい。作家の特集をやるなら書誌を付けるくらいはしてほしい。簡単に全体像が把握できる書誌がないということは、新参読者を想定していないという驕りがあるからだ。手間はかかるが、若手の研究者や批評家にお願いすると、書く訓練にもなるだろう。私も過去、『ユリイカ』で村上春樹のゼロ年代の書誌を任せてもらったことがある(2011年1月臨時増刊号)。
書誌を参照してみると、大前は『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』での受賞や電子レーベル『惑星と口笛ブックス』による著書刊行などマイナーな出版環境からキャリアを地道に積み上げてきたことが確認できる。特集のインタビューで聞き手をつとめる山本浩貴(いぬのせなか座)も、新人賞などを経由せずに、みずから批評や創作の場所を作ってきたキャリアをもつ。
文芸誌から批評の新人賞がなくなって久しい(『すばる』のすばるクリティーク賞と『群像』の新人評論賞は2022年をもって廃止)。最近、文芸誌の小説新人賞の選考委員から批評家枠がなくなったという話が話題になったが(すぐに解消された)、そこに何か問題があるとは思えない。PRの邪魔をされない程度に批評や研究が利用されつづけることは、今後も変わりないだろう。
最近の文学はおそらく二極化の傾向がある。メジャー文芸誌の新人賞からキャリアを積んで芥川賞などの国内文学賞を獲得し、運がよければ国外に翻訳されるコースが一方にあるとすれば、同人誌や個人出版、ウェブメディアで作品を披露しつづけ、文学フリマなどで読者を獲得し、横の繋がりを広げていくコースがもう一方にある。
二極化だから、どちらでもない真ん中のボリュームがスカスカになる。空洞化。この傾向は今後より加速するだろう。このような事態は、批評による作家・作品の価値付けがなくなったことと相関関係にあるのではないか。メジャー文芸誌がPRと全く関係のない作家論の特集を大々的に行ったのは『すばる』の2018年4月号(「特集 挑戦する現代作家たち」)が最後だと思う。どこに需要があるのか定かではない作家論を好き好んで取り組む人などいない。依頼があればこその作家論であり、文学に無償で――PR抜きで!――貢献せんとする気概があってこその依頼だったはずである。誌面がPR化すればするほど批評の役割がなくなるということは、すでに確認した通りだ。
では、文学賞・翻訳文学の上昇コースではないもう一方――ZINE的繋がりコースとでも呼べばよいか――はPRから免れているのかというと、もちろんそんなことはない。むしろより過酷なPR地獄をサバイバルせざるをえない状況にあるといってよいだろう。SNSを活用した宣伝は必須、客にはフレンドリーに接すべし。とはいえ、いくら頑張っても、短歌や俳句のような結社制度がなければ、世代や属性(ジェンダーなど)を超えた繋がりが生じにくい。文芸誌にフックアップされることが望ましいが、批判ばかりしている(扱いづらそうだ)と声はかからない。どちらにしても、PR地獄から抜け出せないだろう。PR化による二極分化。
最近ブームといわれるエッセイや日記は、文学フリマなどZINE的繋がりから広がったものだと思うが、いまや文芸誌も積極的に採用しはじめている。批評がなくなった埋め草としてもちょうどよい。
PRという観点からみた場合、このブームは、当事者小説をよりカジュアルにしたトレンドだろう。当事者小説とは社会的マイノリティやアディクションが手がけた(もしくはそのような人たちが描かれた)小説くらいに定義しておこう。矢野利裕は、ゼロ年代サブカル周辺に登場した私小説的エッセイを、二〇一〇年代以降存在感を示した当事者小説の起源として紹介している(「サブカル私小説系から当事者性へ――現代文学の大衆性をめぐって」『文学+』04号、24・9)。
マイノリティによる当事者小説とエッセイや日記の共通点は、共感を呼び水にしているところである。もっと複雑化すれば、恥をさらすとか恐いもの見たさとか情動に深く関わるものだが、いまは手短かに述べたい。エッセイや日記は、当事者小説より小規模な範囲(SNSでいえば相互フォローの範囲内)ではあるものの、共感という形でアテンションを得やすい。言い換えれば、文芸誌の文学賞などの権威や批評の価値付けを介さずに、読者の注意を直接引くことができる。しかも、何らかのマイノリティ当事者でなくてもよいから、誰もが取り組みやすい。
フィクションという観点から説明してみよう。当事者小説はまだしもフィクションを必要としたが、エッセイや日記はフィクションを(疑似的に)キャンセルできる。しかもそれがPRとしての即戦力となる。つまり、小説などのフィクションは評判を高めるために権威や批評などのコストを必要とする。なぜこのフィクションがよいのかが世間に理解されるまでには相当な手間がかかるのだが、エッセイや日記は関係そのものを売りにする(あなたへのメッセージ)ので、そのままPR(パブリック・リレーションズ)として機能するのである。全部とはいわないがそういう側面をもっているジャンルなのだ。私小説演技説が、神や自然への告白が信じられなくなり、市場(観客)を意識したときに説き起こされたことを思い出してもよい。
作家が自作を解題するのもエッセイの重要な役目であろう。私は、そのようなエッセイや日記のありようについて、『日記アンソロジー 年の瀬せいかつ』(あゆみ書房、26・2)で、小説などの創作を「詞」、エッセイや日記などを「辞」として時枝誠記の文法コンセプトから解説してみた。自己完結型の小説が融通が利かないジャンルだとすれば、エッセイや日記の、不完全で寄生的で可変的な側面は、必ずしも卑下されるものではないと思う。
いまさら文学には批評がもっと必要だなどと訴えることにどれほどの意味があるだろうか。おそらく誰もが、批判や批評のようなものがあった方がよいくらいのことは、わかってはいるのだろう。しかし、「批評が創作をダシにして偉そうにするな」は論外として、誰も傷付きたくはないし、何より多くの読者に読んでほしいと思うのは自然である。文学のPR化に抗うことは難しい。
『三田文學』(冬季号)では、「アイオワ大学IWPの軌跡」という小特集が組まれている。今月のベスト企画。もちろんPRではない。アメリカのアイオワ大学が主催する国際的なライター・イン・レジデンスへの助成金が、ドナルド・トランプにより打ち切られた。この一件をテーマに、作家の国際交流の在り方などが、作家や評論家によって論じられている。利害関係抜きで多様な作家が交流する場所を確保し、そこに日本の作家がじゃんじゃん参加することは望ましいと思う。国家を相場操作の駒としか思っていない彼らを翻意させる手立てなどないだろうけれど、いまやSNSもZoomもあることだし、やりようによっては何でもできるのではないか。
文学的な営みとは、後退戦にこそ光り輝くものがあるはずである。朱鷺と格闘する青年の後ろ姿が雄弁に語っている。そこではPRかどうかはさして重要ではない。

『文学+WEB版』では、長濵よし野さんによる作家論の連載がスタートしました。ぜひチェックをしてください。
▶中沢忠之。1972年生。凡庸の会。文学+WEB版編集人。感情レヴュー。
