【Tech最前線】 #078 - 「一時的な品不足」から「構造的崩壊」へ――2026年ヘリウム危機が前回と決定的に異なる3つの理由
あなたが病院でMRI検査を受けるとき、その機械の内部では極めて低い温度を保つために液体ヘリウムが大量に使われている。ヘリウムは過去にも不足した時代があり、業界はそのたびに乗り越えてきた。しかし2026年3月17日、米国ガス大手Airgasが不可抗力条項(フォースマジュール)を宣言し、顧客への供給量を最大50%に制限した。前回との違いは何か。2012年・2019年との「構造的な差」を3つの視点で追う。
2012年・2019年に業界が乗り越えられた理由
ヘリウムの不足は今回が初めてではない。2012年から2013年にかけて、米国連邦政府が管理していたヘリウム備蓄施設の払い下げ制度が終了した。政府がヘリウムを大量に貯めて市場に供給し続けてきた仕組みが止まり、供給量が急減した。だがこの問題は「制度の変わり目に伴う一時的な供給調整」という性質のものだった。原因は特定できていたし、時間をかけながら民間の生産体制が補完していった。
2019年から2020年には別の問題が起きた。複数の主要生産施設が定期メンテナンスの時期に重なり、供給が一時的に不足した。加えてカタールの外交的孤立が一部の供給ルートに影響した。それでも各社には数ヶ月分の在庫バッファが存在し、代替ルートもまだ機能していた。「原因が見えていて、待てば回復する」という状況だった。
2026年の危機との決定的な違いは、「待てば戻る」という前提が崩れている点だ。
理由1 — 世界供給の35%が「一晩で」消えた
2026年の危機は、単一の出来事で始まった。イランによる攻撃がカタール北部のラスラファン工業都市を直撃し、世界最大規模のヘリウム生産施設が壊滅的な被害を受けた。同時にホルムズ海峡が封鎖された。これにより、世界のヘリウム供給量の約35%が一度に市場から消えた。
2012年の不足は、複数の施設が順番に問題を抱えていった経緯があった。今回は35%が一夜にしてゼロになった。この差は数字の大きさの問題だけではない。複数の施設が段階的に停止するケースと、35%が同時にゼロになるケースでは、対処の時間も代替の手段も根本から異なる。
さらに代替ルートも同時に閉じられた。ロシアはウクライナによるドローン攻撃でヘリウム生産施設が被害を受けており、EUによる禁輸措置も重なって事実上の供給停止状態にある。アルジェリアは欧州への天然ガス直接輸出を優先し、ヘリウムの分離・精製工程を減らしている。西側のカタール封鎖と東側のロシア停止が同時に起きた二重の供給断絶だ。
Airgasの宣言内容は詳細に及んだ。顧客への供給量を最大50%に制限し、100立方フィートあたり13.50ドルの追加料金を課した上で、医療機関を優先配分することを通知した。サプライヤー自身が「約束を守れない」と宣言した事実は、業界全体に供給不安を広げた。
理由2 — AIが医療機関を「買い負け」させている
2012年・2019年の不足時、ヘリウムを必要とする用途は限られていた。MRI装置、金属製造時の不活性ガス、光ファイバー製造など、需要の種類と規模は比較的安定していた。2026年には需要の構造が根本から変わっている。
半導体製造工程はヘリウムを大量に使う。TSMCは中東産ヘリウムへの依存度が69%に達している。Samsung・SK Hynixも65%前後だ。AI向けの高速メモリや大規模なデータセンターに搭載されるチップの製造が急増し、半導体工場のヘリウム消費が急拡大している。量子コンピュータの冷却装置に使うヘリウム3(通常のヘリウムとは異なる希少な同位体)の価格は現在1リットルあたり15,000ドルから20,000ドルに高騰している。
ここで起きているのは「需要の優先順位付け」だ。資金力の大きな巨大テック企業や半導体メーカーは、価格が2倍になっても調達を続ける。一方で病院のMRI装置、大学の研究設備、中堅メーカーは同じ価格で買い続けることができない。Airgasが医療機関を「優先配分」と宣言した事実は、裏を返せば「それ以外の顧客は削られる」ことを意味する。
2012年と2019年には、この種の優先順位付けは存在しなかった。今回は「資金力の差がヘリウムの届く場所を決める」という新しい不平等が生まれている。半導体チップメーカー各社が現在保有している在庫は約6ヶ月分とされているが、AI向けの高速メモリを優先配分することで、スマートフォン向けの低コストチップメーカーの調達量はすでに削られている。
理由3 — ヘリウムは「届かない」のではなく「蒸発している」
物流の問題は在庫不足や輸送遅延という形でよく語られる。しかしヘリウムの場合、輸送の遅れは「商品が存在しないことと同じ」という特殊な問題がある。ヘリウムを液体の状態で輸送するには、絶対零度(マイナス273度)に近い温度を保ち続ける特殊なコンテナが必要だ。そしてこの液体ヘリウムは約45日で蒸発してしまう。
世界に存在するこの種の特殊コンテナは約6,000個だ。そのうち約200個がホルムズ海峡付近で足止めになっている。封鎖が続く限り、コンテナの中のヘリウムは日々蒸発し続ける。到着するのは空のコンテナだ。
2012年・2019年の不足時、在庫は少なくなったが「在庫がある場所から運べば届いた」。今回は「運べないうちに中身が消える」という違いがある。チップメーカー各社が現在保有している約6ヶ月分の在庫も、追加調達が不可能なまま消費が続けば実質3〜4ヶ月で底をつく計算になる。在庫の数字が減っているのではなく、本来ならば積み上がるはずだったバッファが日々消え続けているのだ。
3つの理由が「同時に」起きる意味
地政学、需要の構造変化、物流崩壊、この3つは別々に起きた場合、それぞれ対処の余地がある。代替ルートを探す、価格を上げて需要を調整する、在庫バッファで時間を稼ぐ。だが3つが同時に起きると、それぞれの対処法が相互に無効化される。
カタールの施設が完全に復旧するまでには3年から5年かかるとされている。ヘリウムの価格は危機前の1単位あたり約330ドルから現在600〜900ドルに上昇しており、最大2,000ドルを突破するシナリオも現実的だ。
消費を減らす技術は存在する。Philipsが開発した密閉型MRI(BlueSeal:7リットルのヘリウムを補充不要で使用できる)や、ETH Zurichが導入したヘリウム回収システム(蒸発量の約85%を回収・再液化できる)がその例だ。だが既存の世界中のMRI装置や製造設備をすべて新型に置き換えるには年単位の時間がかかる。
技術的な出口は見えている。しかし「今の不足」と「技術が間に合う時点」の間に3〜5年のギャップがある。その間、病院・大学・中小メーカーがどう乗り越えるかは、現時点で答えが出ていない。
まとめ
ヘリウム危機の歴史は、現代インフラがいかに単一物質に依存しているかを映し出す。MRIから量子コンピュータ、AI半導体まで、医療・科学・テクノロジーの根幹を支える設備のほぼすべてがヘリウムという一種類の物質を必要としている。2012年も2019年も業界が乗り越えられたのは、原因が特定でき、代替ルートがあり、在庫バッファが機能していたからだ。2026年は、その3つの条件がすべて消えている。
あなたの組織が半導体製造・医療機器・研究機器のいずれかに関わるなら、今すぐ調達ルートとヘリウム在庫の現状を確認することが最初の一手になる。不可抗力宣言が出てからでは、手遅れの可能性がある。
ヘリウム危機のような地政学・需要・物流が絡み合うサプライチェーンリスクの動向をこれからも追い続けたい方は、フォローと高評価をいただけると嬉しいです。
参考文献
2026 Helium Shortage: Why Recovery Will Take Years, Not Weeks - WestAir
CORPORATE PRESENTATION | MAY 2026 AIM: PLSR OTCQB: PSRHF TSXV
Corporate Presentation | October 2025 - AMERICA'S NEWEST HELIUM PRODUCER
D3 Energy Limited
Helium Shortage and Global Supply Chain Risks for Chips and Healthcare
Helium Supply and the Strait of Hormuz Crisis - Centre for Materials & Resilience
Helium-3 and Quantum Computing: Necessity, Supply and Scaling - Magna Petra
Improving Healthcare Sustainability - The Drive Towards Helium-Free MRI Operations - Philips
Iran conflict disrupts helium supply, raising healthcare concerns - Becker's Hospital Review
Multi-attribute risk assessment on helium investment environment in host countries
Phasing out the US Federal Helium Reserve - City Research Online
Quantum Cooling Race Heats Up as Helium-3 Shortage Sparks 'Cold Rush'
Ranked: Global Helium Production by Country - Visual Capitalist
Russia Introduces Helium Export Controls Amid Global Shortage - The Moscow Times
War In Iran Threatens Helium Supplies For The World's MRI Machines - Health Policy Watch
いいなと思ったら応援しよう!
記事がお役に立てば、応援いただけると嬉しいです!いただいたチップは、より良いコンテンツ作りのための活動費に使わせていただきます。
