見出し画像

17歳の悲劇④|高校卒業は、みんなで獲得した勲章

3回に分けてつづってきた通り、
高校2年生の「クラス」には本当に居場所がありませんでした。

中には、心配してくれた人、声をかけてくれた人もいましたが
文化祭で中学の友人がわたしを探してクラスの人に聞いてみた時に
「あんな人知らない」と言っていたような、そんな感じです。

実際、クラスの活動にはほとんど協力せず、話しかけられてもつれない。
向こうからしても、どう接したらいいのかわからない人だったと思う。

それでも「あんな人、知らない」は、知ってるだろと思うけど。

(余談ですがこのことがショックすぎて高校3年生の文化祭はわりと積極的に参加しました)


でも、「クラス」以外には、居場所がありました。
「クラス」「家庭」と高校生が主に所属している空間がつらすぎたわたしにとって、
「第三の居場所」が複数なかったら、どうなっていたかわかりません。

感謝を込めて、一つ一つつづっていきたいと思います。



部活動

実は、部活入っていました。

最初はバイトと部活の二刀流を狙っていたのでとある運動部に入りましたが
ギャルな雰囲気についていけず、1年生5月には辞めていました。
その後別の運動部に入りましたが、誘ってくれた人とぎくしゃくしたこともありここも早急に辞めています。

で、とある文化部に入ることになります。
部活名が特殊なので、さすがに伏せますがバリバリの社会派でした。

文化祭である社会的なテーマを研究し、発表する。
ここでの活動で、たぶんはじめてまともにパソコンを使った記憶があります。(一太郎?フロッピーディスク?そんな世界線)

さきがけのネットカフェで研究ネタを大量コピーしたり。
(PDFって概念がなかったような気がする)
地元の企業に取材したり。
ポスターたくさん書いたり。


実は、とても楽しくやっていました。笑

部活辞めて、ふざけて「バイト部だから」とか言ってたのを
友人がスカウトしてくれたのがきっかけでした。

なので、卒アルはここの部員としてしっかり映っています。

部長と友人と私と。
後から別の友人が入ってきて、同学年は計4人。

意外と、後輩が3人とか一気に入ってきたこともあり
「後輩たちにどう面白さを伝えたら部活を継続してもらえるか」とか
頭ひねっていたのが懐かしい。


高2の文化祭は、クラスに行きたくなかったので
ほとんど、部活エリアに後輩たちといました。

高3では、先輩風を4人でふかして笑
後輩たちの雄姿を見守りました。一応高校生っぽいことしてる!


今でもわりと、社会的な問題とかに興味があります。
たぶん、この部活出身だからだと胸を張って言えます。


つらいだけの学校生活ではなかったのは
部活があったことも絶対にある。感謝しています。

※またみんなで飲みに行きたいね!

バイト先

高校2年生の夏休みの短期バイトで悲しいことがあった後、
ミニストップで働き始めました。

中学の同級生で、当時たぶん一番遊んだ子と、
小学校からの同級生が働いていたのがきっかけです。

入ってみてわかったのですが、
遅番(17-22シフトメイン)の残りのメンバーは
同じ中高の先輩ふたりと、小学校同級生の兄貴。


関連ある人しかいない環境。
それはそれは働きやすかったです。


ソフトクリームの作り方から覚え。
ぐるぐる回る機械に牛乳みたいな液体をとにかくぶっこむと。

検収、陳列、レジ、掃除。
なんでもやりました。

今のコンビニよりはだいぶ楽だとは思いますが、
当時はてんてこ舞いだったことを覚えています。


仕事はわりとちゃんとする(早く終わらせて楽する)タイプだったので
シフトにたくさん入れてもらえました。

当時は「わたし入りすぎじゃね?過労にさせたいのか?」と感じたこともありましたが大人になった今ならわかります。感謝しかないです。


「おうち大変なら、ウチの社員になればいい」
と本社の方が何回も言ってくれたのも、力になりました。
(プリンパフェ、こうしたらもっといいのにーとかよく言っていたからだと思います。変わってないなぁ私)


ただ…ごめんなさい。
廃棄のおにぎりやお弁当を大量に、大量に食べておりました。
よって10キロ太ったことはもう時効なのでここでひそかにばらしてみます。


図書室と保健室

ここですよ。
ここがなかったら、100%、高校卒業できなかった。絶対。


座学は基本座っていればいいので授業に出ているも、
クラスの人と接しなきゃいけない実習系の授業は
これでもかと計算して、ぎりぎりまでさぼっていました。


体育も例外ではなかったのですが
水泳・陸上競技は個人プレーいけるので皆勤で参加し、
バスケ・サッカーはさぼりまくり。みたいな。


そんな時、どこにいたか?
屋上で寝てたこともあります。
誰もいない踊り場(花男みたいな)で泣いてたこともあります。
勝手に早退して、ゲーセンでたむろしていたこともあります。

こんな感じ!すごくちかい 引用

でも、だいたい
保健室か図書室にいました。

図書室で、授業始まっても普通に本を読み続けている私に
司書さんが声をかけてくれたような記憶があります。


「授業出たくないんですよねぇ・・・」


最初はただほっといてくれる感じで。
それだけでもうありがたかったのですが
後から担任経由か何かで話が通ったのでしょう。

近況を聞いてくるようになりました。


もとからそんなに隠す方ではなかったので
洗いざらし全部しゃべったと思います。

「学生として、大人とひさしぶりにしゃべったなぁ・・・」
なんて。

バイト先だったり、付き添いで行った病院だったり。
「学生」であることをよく忘れていたのです。


保健室は確か、本当に生理痛が強すぎて
保健室のベットでときたま寝てたことをきっかけに
調子悪いと保健室へすぐ行くようになりました。


でも、誰かいると、すぐ帰る。笑


誰もいない時を見計らって、先生とおしゃべりをしていました。


授業に出ずに。笑


ふたりとも「たまには授業出てみれば」と一回も言わなかった。


「人より苦労して、自分でなんとかしようとしてて偉い」
と言ってくれた。


高3になって、けろっと図書室にも保健室にもいかなくなったけれど
もちろん、卒業式の時はお礼を言いに行きました。

「それがいちばんよ」と顔をくしゃくしゃにしてたけれど

ただお礼を言う、以外にどうしたら感謝が伝わるだろう、と
18のわたしは一生懸命考えたけれど結局何も思いつかなくて
今に至るところがあります。


ちゃんと高校卒業できた、それでよかったのかなぁ。


今、いえることがあるとするならば

クラスになじめなくて、家庭環境もつらくて不登校直前、退学直前だったわたしが
進級まで粘れたのは間違いなく「居場所が0ではなかった」ことともうひとつ、「否定されなかった」ことだと思っています。


高校時代のおはなし、ということで締めくくるはずが。約20年後。
こうくるか!と思わされる人たちと出会うことになります。

当時は知る由もない、存在すら知らない。そんな人たちと。

これを次回つづってラストとします!


さぼったり、記憶を飛ばしたりとしましたがのらりくらりと最低ラインの出席率でなんとか進級できました。

これは担任はじめ諸先生方、支えてくれた友人たちのおかげです。ほんとうにありがとうございました。

3年時は友人と同じクラスになり、ほぼ単位制に切り替わったため最低限しか単位を取らずバイトしまくり、夏休み中にAO入試で受験も早急に終わらせました。ファミレスでしゃべってばかりの、高3→短大はびびるほど遊びほうけることができました。


担任よ、
「あのとき退学届け破ってくれてありがとう」


なので、わたしにとって「高卒資格」はちょっと、いやかなり
大事な大事な、みんなで獲得した、勲章なのです。


あのとき、わたしのために動いてくれた友人たちとは、今もつながっている。

25年後。
話題は、老眼と白髪になりました。


いいなと思ったら応援しよう!