小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 最終話 記憶とフウシュウ(下)
目の前の景色が遠のいて、爆ぜた何かが色彩となって迫ってきた。最初に現れたのは、口紅を厚く塗ったような朱色だった。むせかえるほどに、甘くて雅な香り。次に現れたのは、村長宅で食べたジェリービーンズのような美しい橙色だ。……甘い。そして、後からピリリと辛い香り。
ニコラの花。ヨウコの母親――ルナの花。
世界は二つの色に分かれている。それは、ナミが見てきた人柱の花の色だった。
「我はヌシ神に全てを捧げん 無償の愛と慈悲を捧げん 祈りを捧げ人生を終えんとす」
「……全てを捧げん、……祈りを捧げ人生を終えんとす」
マーシャの声と重なり合うように、唇から音が紡がれる。『異国』の操り人形のように、ナミの鼓動はマーシャの脈拍と重なっていた。
ナミの視界に、別の景色が浮かび上がった。
『……マーシャ』
どこかで見たことのある若い男が現れ、声をかけられる。
『愛しているよ』
男が愛おしくて堪らないといった表情で笑っている。そして、彼は、ナミのものではない白く華奢なマーシャの手を両手で包み込んだ。
『私も、愛しているわ。……若よ』
ナミはマーシャで……彼女は若返っていた。若様。その呼び方で、愛を囁く男がオウルであることに気づいた。
『愛しているから、わかってちょうだい』
マーシャの言葉に、男はそっと俯く。
『ずっと、お傍にいるために。……私を、ヌシサマに奪わせないで』
巫女候補だったマーシャは、もう一人の有力な候補の存在に悩んでいた。
その女は、優しくて若くて、美しくて、村人に慕われ、全てを手にしているように思えた。
対するマーシャは、周囲の注目がほとんどその女に向く中、五つ年下のオウルと密かに交際していた。
この手にあるのは、彼の愛のみ。
でも、そんなものじゃ全然足りない。
もし、あの子が巫女に選ばれたら……そんなの、不公平だ。
『私が次代の巫女に選ばれるよう……協力してくれる? お願い』
お願い、という言葉にオウルは弱かった。
彼は、捨てられた犬のように肩を落し、最後に「わかった」とこたえた。
その後の展開は、早かった。
マーシャは、次代の巫女に選ばれた。
有力候補だったエマは、オウルの求婚を受け入れ、候補を辞退していた。村人は、エマを妻に迎えたオウルの見る目を褒め称えた。マーシャは、彼らの背中側で嗤っていた。盲目な村の連中を、彼女は憎んだ。
巫女職に就いても、心の晴れやかになる日は少なかった。村人は、マーシャに大した期待を寄せていなかった。
最も苛立った朝を、くっきりと覚えている。ララの生まれた日だ。『森』の隅々にまで光が満ち、澄みきった青空が広がる朝のことだった。オウルとエマが嬉しそうに我が子に触れる姿を、マーシャは陰で嘲笑った。自分が手放した男と嫌いな女の血を継いだ娘。自分のためにエマに求婚した彼の愛情を疑ってなどいないが、あれは既に五年前の出来事なのだ。
時折、一人ぼっちのマーシャは願った。
この村に、自分と同じ気質の女がいたらいいのに。本当にいるなら、その女に巫女になってもらおう。きっと、その女ならわかってくれる。己の醜さも、狡さも、孤独も、分ちあってくれるだろう。
――そうやって、妾は見つけた。
かつてのオウルが自分を愛した時のように。ノギという少年が、幼馴染の少女に懸想していた。そして、エマの娘であるララが、ノギに恋をしていた。
「我は誓う」
「我は誓う」
ナミは、マーシャの文言をなぞっていく。
「村人へ恒久の愛を誓う 獣の気配と風の音を聴き 『森』を傷つける異端を絶やさん」
「……恒久の愛を誓う、…………異端を絶やさん」
最後まで言い切ると、朱と橙の世界は霧散した。
世界が切り替わる一瞬、ナミはソレを見た。
気がついた時には、視界は祭壇の前に戻っていた。ふらっと軽い眩暈を起こす。
ドクドクと脈打つ指の傷を見る。傷から滴った血液が、祭壇と樹木の上に星のように散らばっていた。マーシャの傷口から滴ったものも、混ざっていた。
「新しい巫女の誕生じゃ!」
マーシャが声高らかに宣言した。
わあっと皆が叫んだ。
ナミには、それが歓声と怒声、どちらとも受け取れた。ぺちぺちと乾いた音が鳴る。ララとノギの拍手だった。
意識を切り離すように、目を閉じる。最後に見たソレを眼裏で探った。
浮かび上がったのは、『森』一面に広がる黄味色の海。ソレは、蒲公英の群生だった。木々の間を泳ぐように咲いた黄色の細かな花弁には、綿毛も寄り添っていた。落ちた綿毛は、黄味色の群れを覆って、守っている。この景色が、マーシャの記憶の中のものではないと直感的に思った。黄色い蒲公英は実母で、綿毛が実父……そんな想像が、頭を駆け巡る。
そこにいたのね。
「ママ……パパ」
かつて、ナミは彼らをそう呼んでいた。
「なんじゃ、ナミ?」
マーシャに聞き返される。
村人の叫び声で聞こえなかったらしい。
どうこたえよう。少しの間考えてから、ナミは目を開いて返事をした。
「マーシャ様は、ヌシサマをその目で見たことはあるの?」
元巫女は、目を縮こまらせてゆるりと笑う。
その眼差しは、珍しく素直だった。
「ヌシ神に姿形はないのじゃ。そんでも、あの御方の知らぬことはこの世にない。我々の善行と悪行をただ見ている。本来、罰しもしない。興味がないからの。……人柱は、妾の独断じゃ」
その囁き声は、ナミの耳にしか届かなかった。村人の大声が、老女の独白をかき消していた。
この告白は、嘘か、本当か。
そんなのどうでもいいと思っている自分がいた。ノギを利用して巫女の座を射止めた、醜い方の自分が、そう思っていた。――あたしは、生きる方を選んだのだから、どうでもいい。
ナミは、ちょっぴり混乱した。「利己的な自分を受け入れる方が、楽だ」という事実に驚いていた。
ふとセミョルのことを思い出す。
彼女の語ったニコラとイオレの亡骸は、目の前の樹木のうちの一つだろうか。それとも、『森』のどこかに花々と化して咲いているのだろうか。
日々老いていくあの人の目脂だらけの眼には、ナミのことがきちんと見えているのだろうか。
巫女となった自分が、セミョルのことを罪悪感なく忘れていく気がする。
『森』と山に挟まれた小さな世界が、「あたし」の世界。
これから幾つの朝と夜を迎えるだろう。幾つ曇り一つない空と満点の星空を見るだろう。記憶の中のララが生まれた朝のように、曇りない空を見るのだろうか。ただ、その長い年月の間、ナミの隣にずっといてくれる誰かはいないのだ。
これから、どんどん孤独になる。
だが、今のナミは若く――、遠い先のことなど想像できなかった。
(完)
前の話のリンクを貼っています。
