清めの砂と鹿の角 —— 志賀海神社が繋ぐ命の循環*志賀島の記憶10回
一万本の鹿の角 —— 海の民が守る鎮魂の山
〜志賀島の記憶 第10回〜
前回は、『古事記』に記された豊玉姫の物語——「神代の龍宮物語」について書きました。
海神の娘・豊玉姫と山幸彦の恋、そして閉じられた海と陸の門。
その門を繋ぎ止める「架け橋」となったのが、安曇磯良でした。
志賀島が「龍の都」と呼ばれる理由——
それは、ここが龍宮の入口であり、安曇族が守り続けてきた聖なる場所だったからです。
今回は、その志賀海神社の境内に残る、不思議な光景を訪ねます。
志賀海神社への道
志賀海神社の石段を登る時、まず目にするのはお清めのお汐井という清め砂があります。

島に住む私たちにとって、あるいは博多に住む人々にとっては、当たり前の習わしです。
お汐井取り —— 清め砂
志賀海神社の入り口で、誰もが最初に行うのが「お汐井」での清め。
志賀島の清らかな真砂(まさご)を使い、「左・右・左」と身体に振りかける。
このシンプルで力強い禊(みそぎ)の文化は、実は安曇族の足跡とともに全国へと広がっています。

博多の街は活気に溢れます
地元博多で7月に行われる、博多祇園山笠。
このお祭りでも「お汐井取り」という行事があります。
山笠参加者が祭りに際し心身を清めるために、石堂橋(博多区中呉服町)から筥崎宮の箱崎浜(東区)まで、お清めのお汐井(真砂)を取りに行くという習わし。
お汐井取りは山笠期間中になんと2回もあります。
この男の祭りは、とても活気があり、毎年見にいくか、テレビでの山笠中継をみて楽しませていただいています。(東京に来ても観てます笑)
山笠が始まると、博多の街は一気に山笠一色に!
夏の訪れを感じる行事です。
オイサ!という威勢のいい掛け声と共に始まる、この博多祇園山笠のクライマックス「追い山笠」は早朝の午前4時59分、一番山笠の櫛田入り奉納を皮切りに、合計8つの山笠が次々に櫛田入りを行い、まだ薄暗い博多の街へと駆け出します。
あ、この熱量ちょっと高いのわかりますか⁈
(博多弁では、博多のぼせもん、「山のぼせ」と言います。)

さて、話を戻しましょう。
鹿角堂 —— 一万本の鹿の角
志賀海神社は、海人族・安曇(あずみ)族の聖地。
それなのにお堂(鹿角堂)の中にびっしりと納められているのは、一万本を超える「鹿の角」です。
海の神社に、なぜ「山の獣」なのか?

神功皇后と鹿狩り
これは約1800年前、神功皇后が対馬での鹿狩りの角を奉納したことに始まるとされています。
龍の角は鹿の角に似ているという「龍神信仰」に基づき、人々は祈願成就を願って角を捧げ続けてきました。

龍神信仰とは、
龍は中国を発祥とする伝説上の生き物ですが、古来よりその姿は「角は鹿に似る(九似説)」と定義されてきました。
私が現在学んでいる漢方や東洋医学の哲学の根底にある「五行」においても、龍(青龍)は「水」や「東」を司り、生命の循環を象徴する存在です。
そもそも、かつて大陸と地続きだった時代から、日本にはアジアのあらゆる地域から人々が移り住んできました。
中国や朝鮮半島から渡ってきた文化やスピリッツが、日本古来の「自然崇拝(八百万の神)」と混ざり合い、志賀島という海の入り口で、新しい信仰の形へと昇華されていったのでしょう。
海の主である「龍神」。
その象徴としての「鹿の角」。
志賀島の安曇族は、大陸からもたらされた高度な思想と技術をいち早く取り入れ、それを「海と山を繋ぐ祈り」としてこの地に定着させたのかもしれません。一万本の角が並ぶ鹿角堂は、まさにその智慧が結晶化した姿なのだと考えられます。
神功皇后が生きたのは、神話と歴史が交差する狭間の時代です。
詳細な記録が乏しい時代に編纂された『古事記』や『日本書紀』。
そこに記された物語の裏側には、当時流入した大陸文化との鮮やかな融合が、今の日本の風習となって溶け込んでいるのです。
現代において、日中間にはさまざまな難しい課題もあります。
けれど、こうした歴史の断片に触れるたび、お互いが刺激し合い、高め合ってきたかつての交流に思いを馳せずにはいられません。
文化を分かち合い、共に成長し合える関係になれる日がいつか来ることを、私は願っています。
命をいただくこと
一万本の角に込められているのは、「命をいただくこと」への感謝だと思います。
安曇族は、海の幸を得るだけでなく、山の幸にも感謝を捧げてきました。
亀石 —— 神功皇后が乗った黄金のカメ
境内には、もう一つ不思議な石があります。
亀石——神功皇后が安曇の神が遣わした『黄金のカメ』の背に乗り、光り輝く海を渡って帰ってきたという伝説の石です。
第8回で書いたように、皇后は三韓征伐から無事に帰還しました。
その時、皇后を背負ってきたカメが石になったと言い伝えられているのが、この亀石です。

安曇族が繋いだ「潮と砂の祓い文化」
こうして見ると、安曇族は単なる海の民ではありませんでした。
海には「鳥居」を立てて龍宮との門とし、陸には「鹿の角」と「お汐井」を置くことで、境界線を守り、浄め続けてきたのです。
志賀海神社では、参道に置かれたお潮井(お汐井)の真砂を「左・右・左」と振って身を清めてから参拝する習わしがあります。
この真砂は筥崎宮の山笠のお汐井にも用いられ、博多のまちの祓いの文化を支えてきました。
一方、鹿島神宮や香取神宮では「御祓砂」「お砂」として清めの砂が授与され、場を清めるために撒くという信仰が今も続いています。
名称こそ違いますが、海や潮、砂を通じて境界を浄めるという発想は共通しており、志賀海神社を中心とした安曇族の海人文化が、各地の神社祭祀と響き合っているように感じられます。
志賀海神社(福岡・志賀島)
- お汐井(真砂で左→右→左の禊)
- 龍宮入口、鹿角堂
- 海神の総本社
筥崎宮(福岡・博多)
- 志賀海神社の真砂を用いたお汐井取り
- 博多祇園山笠の伝統
- 志賀海神社と直結した祓いの文化
鹿島神宮(茨城)
- 御祓砂(清めの砂、左前・右前・左前と撒く)
- 鹿使者+海砂祓い
- 安曇海人と大和軍事同盟
香取神宮(千葉)
- 御神砂(本殿脇の砂山)
- 鹿信仰+海人祓い
- 安曇水軍と東国平定拠点
息栖神社(茨城・神栖市)
- 忍潮井(おしおいの井)(霊水、鳥居の下に湧く井戸)
- 「潮」の浄化信仰
- 安曇磯良東限・水門
住吉大社(大阪)
- 海神を祀る総本社
- 古くから海水・砂・潮による禊
- 安曇氏水軍本拠地
厳島神社(広島・宮島)
- 海水・潮による禊、島の砂を結界に用いる
- 世界遺産、海と山の境界
- 砂・潮を使う禊文化

志賀海神社の「お汐井」に代表される、潮や砂で境界を清める祓いの文化は、安曇族ゆかりの神社や各地の社で、形を変えながら今も受け継がれているように見えます。

志賀海神社の祭り —— 1,500年の祈り
志賀海神社には、1,500年以上続く神事があります。
山褒め祭(4月)—— 種蒔漁猟祭
第8回で詳しく書いた、あの「君が代」のルーツとなった神事です。
「あゝら よいやま しげったやま」
山を誉め称え、鹿を狩り、鯛を釣る様子を勇ましく表現します。
そして、「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」と唱えます。
歩射祭(1月)
毎年1月15日に近い日曜日に行われます(2026年は1月18日)。
8人の射手が、土蜘蛛を退治する神事です。
的を破ったお守りは、縁起物として人気があります。
これは、安曇百足伝説の神事とされています。
七夕大祭(8月)
毎年8月6-7日に行われます。
竹灯籠が幻想的に参道を照らす、志賀島夏の風物詩です。

御神幸祭(10月・奇数年)—— 国土祭・男山祭
2年に一度、奇数年に行われる総鎮祭です。
神輿が海を下り、龍の舞、流鏑馬が奉納されます。
壮大な祭りは、安曇族の海への祈りを今に伝えています。


命の循環を鎮める
一万本の角に込められた「命をいただくこと」への感謝。
お汐井に込められた「命を浄める」という祈り。
志賀海神社に漂う独特の空気は、私たちが忘れかけている、海・山・里がひとつに繋がっているという「生命の大きな循環」そのものなのです。
海と陸の境界線に立ち、龍宮の祝福を届け続けてきた安曇族。
その祈りは、1,500年以上経った今も、志賀海神社で生き続けています。


太宰府天満宮と志賀海神社でのイベントの様子
次回予告
次回(第11回)は、志賀島最大の謎 —— 金印について書きます。
西暦57年、奴国の使者が後漢に朝貢し、金印を授かりました。
時は流れて、1784年この金印が志賀島で発見されました。
なぜ、志賀島で?なぜその時代に?
奴国とは何だったのか。
安曇族は、金印とどう関わっていたのか。
志賀島の歴史の中で、最も有名な出来事——金印の謎を、一緒に探っていきましょう。
#志賀島 #志賀海神社 #鹿角堂 #お汐井取り #安曇族 #山褒め祭 #亀石
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参考文献
・[志賀海神社 公式サイト]
(鹿角堂と龍神信仰、お汐井取り、祭事)
・[筥崎宮・山笠事典(お汐井取りの伝統)]
・[息栖神社(茨城・神栖市)]
・[鹿島神宮]
・[香取神宮]
・[住吉大社]
・[厳島神社]
・『古代安曇氏の足跡』(鹿島神宮と安曇磯良)
・国史大辞典「安曇氏と鹿信仰ネットワーク」
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この記事は史実と伝承を基に、私(著者)が志賀島の一出身者視点で再構成したものです。「島の記憶」の物語としてお楽しみください。
