安曇族が残したもの —— 海を守り、祈り続けた勝馬*志賀島の記憶5
海を守り、祈り続けた勝馬 —— 安曇族が残したもの
〜志賀島の記憶 第5回〜
前回は、志賀島に1万年以上前から人が住み始め、やがて「安曇族」と呼ばれる海人族になったこと、そして神功皇后の時代(3〜4世紀)に全盛期を迎えたことをお話ししました。
今回は、その安曇族に何が起きたのか。なぜ彼らは全国に散らばったのか。そして、私が育った「勝馬(かつま)」という場所には、どんな意味があったのか。それを、一緒に探っていきたいと思います。
【はじめに】
今回の記事では、歴史的な資料に基づきつつ、一部、私個人の解釈や推測を含めて構成しています。
専門的な歴史書ではありませんが、島で生まれ、あの潮風を感じて育った一人として、「当時の安曇族の視点」から歴史を捉え直してみたいと考えたからです。
「島の記憶」という一つの物語として、楽しんでいただければ幸いです。
安曇族とヤマト王権 —— 信頼の時代
弥生時代から古墳時代前期(BC400〜AD400)、安曇族はヤマト王権の忠実な「海軍」として活躍しました。
西日本一帯の海人を統率し、朝鮮半島や瀬戸内海へと航海する。
彼らは海のプロフェッショナルとして、ヤマト王権から絶大な信頼を寄せられていました。
「海人の宰(あまのみやつこ)」——海人たちの総支配者。
この称号は、安曇族がヤマト王権にとって、いかに重要な存在だったかを物語っています。
変化の兆し —— 海の利権をめぐる緊張
古墳時代中期、ヤマト王権の海洋政策に変化が訪れます。
4世紀後半から、沖ノ島(おきのしま)で国家規模の盛大な祭祀が始まりました。
これは、ヤマト王権が、朝鮮半島への「外洋直航ルート」を重視し始めたことを示しています。
それまでの航海は、海岸線を目印に、島々を伝いながら進む「沿岸航行」が主流でした。
対馬・壱岐を経由し、志賀島を通るこの複雑なルートを熟知し、各地の港を繋ぐネットワークを持っていたのが、安曇族というエキスパート集団だったのです。
しかし、造船技術の向上により、ヤマト王権は、沖ノ島を中継地点とした「より速く、より効率的なルート」を開拓し始めます。
そして、この新しいルートでは、宗像氏が重要な役割を担うようになったと考えられています。

この状況を現代に例えるなら、こうです。
長年、一般道を使って確実に物を運んできた老舗の運送業者がいました。
でも、ある日、高速道路が開通し、新しい業者(宗像氏)がヤマト王権の信頼を得始めたのです。
安曇族の技術が劣っていたわけではありません。
ただ、時代が変わったのです。
安曇族は、ヤマト王権の中で「海人の宰(あまのみやつこ)」という重要な役職を持ち、依然として力を保っていました。
でも、かつてのように海の物流を「独占」することはできなくなっていきました。
自分たちが守ってきた海の支配権が、別の形に変わっていく——
それは、一族の存在意義そのものが問われる、大きな転換点だったのです。
磐井の乱(527年)—— 海を守る戦い
527年、九州北部の豪族・筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)が反旗を翻します。
磐井は、筑紫・肥前・豊前の豪族連合を率い、海路を封鎖してヤマト朝廷を困らせました。
(磐井の乱において、磐井が海路を封鎖してヤマト王権を困らせたという記録はありますが、その航路封鎖に安曇族が協力したという明確な記述は残されていません。ただ、海路を封鎖するには海のプロである安曇族のような海人集団の協力が不可欠であったこと、そして乱の後に九州における安曇族の影響力が低下したことから、安曇族が磐井側についた可能性が高いと考えられています)
時代の波の中で立場が変わりつつあった安曇族にとって、磐井の約束——「海路の利権を海人族に返す」——は、かつての地位を取り戻すための「最後の希望」だったのではないでしょうか。
ヤマトによる中央集権か、九州の独自勢力を守るか。
安曇族は、自分たちの生きる道を守るため、磐井を選びました。
磐井の乱は、単なる地方豪族の反乱ではありませんでした。
それは、安曇族にとって、自分たちの海を守る戦いでもあったのです。
敗北、そして選択
しかし、戦いに敗れた安曇族は、過酷な選択を迫られます。
528年、磐井は物部麁鹿火(もののべのあらかい)に討たれ、乱は鎮圧されました。
安曇族には、2つの道がありました。
1. 志賀島に残り、ヤマトに恭順する
志賀島に残った安曇族は、ヤマト王権の下で再興を目指しました。
糟屋の安曇族は、磐井の子・葛子(かつこ)を匿い、命を救いました。
葛子は、糟屋屯倉(くらや みやけ)をヤマト朝廷に献上して、許されました。
志賀島の安曇族も、ヤマトに恭順しました。
その象徴が、7世紀中頃に築かれた中津宮古墳です。
この古墳は、磐井の乱の後、志賀島の安曇族が再興したことを示しています。
2. 志賀島を離れ、全国に散らばる
一部の安曇族は、住み慣れた島を離れ、日本海や瀬戸内海を経て全国へと散っていきました。
彼らは、故郷を離れても、海を忘れませんでした。
海人族としての誇りを胸に、新天地で生きる道を選んだのです。

次回予告
次回(第6回)は、安曇族が全国に残したものについて書きます。
磐井の乱の後、志賀島を離れた安曇族は、どこへ行ったのか。
なぜ、海のない安曇野で「船の祭り」が行われるのか。
なぜ、「安曇」「志賀」という地名が、全国に残っているのか。
海を忘れなかった人々の物語を、一緒に辿っていきましょう。
参考文献
一次史料
・『日本書紀』(継体天皇紀・応神天皇紀・神功皇后紀)
・『古事記』(綿津見三神)
・『後漢書』東夷伝(奴国・金印)
・『続日本紀』(797年) - 安曇郡の記載
考古学・文化財
・中津宮古墳(福岡市指定文化財)
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/
・国宝「漢委奴国王」(志賀島金印、福岡市博物館)
・前田遺跡(細形銅剣鋳型、森貞次郎『志賀島の考古学』1958-59年調査)
研究・解説
・宗像・沖ノ島UNESCO公式サイト
・農林水産省「安曇族の開発」
https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/chushin/rekishi/01.html
・長野県「安曇野の由来」
https://www.pref.nagano.lg.jp/azumiken/jimusho/mamechishiki/yurai.html
・「安曇野の秘密2」(安曇族と磐井の乱)
https://www.blenoir.co.jp/Azuminonohimitu2.html
・Wikipedia「磐井の乱」
現地情報
・志賀海神社公式HP
http://shikaumi-jinja.jp/
お汐井取り(清めの砂) 志賀海神社に設置、博多山笠の神事の際の行事
鹿角堂(10,000本以上の鹿の角) 志賀海神社
穂高神社(長野県安曇野市)
御船祭り(9月27日、白村江追悼)
注意: この記事は史料を基に、私(著者)が志賀島の一出身者視点で再構成したものです。
専門家のご意見と異なる場合もありますが、「島の記憶」としてお楽しみください。
志賀島へのアクセス
🚗志賀島へは、福岡市内から車で約40分。
海の中道を通って、陸続きで行くことができます。
🚢また、博多港から船で約30分。
市営渡船時刻表⤵︎
🚃JR西戸崎からは電車が出ています。
🏝️勝馬へのアクセスは、志賀島国民休暇村行きのバスもしくは、勝馬行きのバスに乗れば行くことができます。
もしくは、「満帆荘」へご宿泊の方は、志賀島渡船場もしくは西戸崎渡船場、JR西戸崎駅までは送迎があります。

