海人族の誇り-安曇族が全国に残した記憶*志賀島の記憶6
〜志賀島の記憶 第6回
前回は、安曇族に何が起きたのか。なぜ彼らは全国に散らばったのか。そして、私が育った「勝馬(かつま)」という場所には、どんな意味があったのか。それを、一緒に探っていきました。
【はじめに】
今回の記事でも、歴史的な資料に基づきつつ、一部、私個人の解釈や推測を含めて構成しています。
専門的な歴史書ではありませんが、島で生まれ、あの潮風を感じて育った一人として、「当時の安曇族の視点」から歴史を捉え直してみたいと考えたからです。
「島の記憶」という一つの物語として、楽しんでいただければ幸いです。
全国に広がった安曇族
安曇族は、どのようなルートで全国に広がったのでしょうか。
研究者の間では、3つのルートが有力視されています。
「安曇」という名前の由来
その前に、「安曇(あづみ)」という名前について。
この名前は、どこから来たのでしょうか。
有力な説は、「綿津見(わたつみ)」からの音韻変化です。
綿津見(わたつみ) →方言・音便 わづみ ↓ あづみ
または、「海津見(あまつみ)」から転じたという説もあります。
海津見(あまつみ) → あづみ
いずれにせよ、「安曇」という名前は、「海(わた/あま)」と「神(つみ)」を表す言葉から生まれました。
海人族としてのアイデンティティが、名前そのものに刻まれているのです。
そして、この名前が、全国各地に残されています。
安曇族ゆかりの地名 —— 全国に広がる「安曇」の痕跡
安曇族が移住した地域には、さまざまな「安曇系」の地名が残っています。
主な地名の種類:
阿曇(あづみ)
安曇(あづみ)
厚見(あつみ)
厚海(あつみ)
渥美(あつみ)
阿積(あつみ/おしき)
会見(おうみ)
青海(おうみ)
安土(あづち)
安堂(あど)
これらの地名は、九州から瀬戸内海、畿内、三河、信濃へと広く分布しています。
そして、興味深いことに、「志賀(しか/しが)」「鹿(しか)」という地名も、安曇族のキーワードではないかと考えられています。
では、具体的にどこに残っているのでしょうか。
九州(志賀島 - 発祥の地)
志賀島(福岡県)
安曇族の本拠地
志賀海神社(海神の総本社)
お汐井取り(清めの砂)の発祥地
「鹿の島」が由来
北陸(日本海ルート)
石川県:
安津見(あつみ):安曇→あつみの音韻変化
志賀町:日本海ルートの中継地
日本海から安曇野へ「えご(いご)」を運ぶルート
遣隋使に貢献した安曇磯良の子孫の活動拠点
北前船交易で海人族の海洋ネットワークを継承
鳥取県:
阿積(おしき):日本海側の安曇族拠点
近畿(琵琶湖水軍と国際交易)
滋賀県:
安曇川(あどがわ):安曇族が琵琶湖水軍の拠点を築いた
琵琶湖水運を支配(湖上航路に海人族の航海技術を応用)
綿津見神信仰の内陸継承
稲作伝播:海人族が農耕技術も移入
大阪府:
難波津:安曇氏が管理した国際交易港
阿曇寺:大阪市中央区安堂寺町、安曇氏の氏寺
安曇江荘:東大寺領、大阪市西成区堀江
東海(渥美半島から中部へ)
愛知県:
渥美半島(あつみ):安曇→あつみの代表例
海部氏:安曇族の支流、伊勢神宮造営に貢献
岐阜県:
厚見(あつみ):飛騨地方、安曇族が北上したルート
信濃(安曇野 - 内陸の海人文化)
長野県:
安曇野:安曇族が内陸に築いた拠点
穂高神社:安曇部が建立した延喜式名神大社
正倉院文書(746年):「安曇郡前科郷戸主安曇部真羊」の記録
海のない山国に残る、海人族の記憶:
1. 御船祭り(おふねまつり)
穂高神社で毎年9月27日に開催
12メートルの巨大な船山車(ふなやま)が激突する勇壮な祭り
白村江の戦い(663年)で戦死した安曇比羅夫(あづみのひらふ)を追悼
安曇比羅夫は、安曇族の有力者で、百済を助けるために出兵しましたが、白村江で唐・新羅連合軍に敗れ、戦死しました。
海のない安曇野で、なぜ「船」の祭りが行われるのか。
それは、安曇族が、遠く離れた地でも故郷の海を忘れなかったからです。
2. えご(いご)
日本海のエゴノリ(海藻)を煮固めた郷土食
1681年の史料に、日本海から安曇野へエゴノリが運ばれた記録
海のない山国で、なぜか海藻の料理が郷土食として伝わっている。
安曇族が、日本海と安曇野を結ぶルートを持っていた証拠
3. 穂高神社と阿曇磯良
穂高神社には、志賀島の神・阿曇磯良(あづみのいそら)を祀る伝承
阿曇磯良は、神功皇后の三韓征伐で水先案内人を務めた安曇族の象徴
なぜ、志賀島の海人族の神が、内陸の安曇野に?
安曇族が、遠く離れた地でも故郷の神を抱いて生きていた証
関東(東国のヤマト海軍拠点)
茨城県:
鹿島:鹿島神宮(東国のヤマト海軍拠点)
「鹿」という地名は、安曇族の鹿信仰と関連する可能性
これらの地域を地図で見ると、安曇族が九州から日本海、瀬戸内海、琵琶湖、そして信濃へと広がっていったルートが見えてきます。
[写真4:安曇族の移動ルート地図]
3つのルート —— 海を経て川を遡り
では、安曇族は、どのようなルートで移動したのでしょうか。
ルート1:瀬戸内ルート
志賀島 → 豊前・豊後 → 阿波・淡路・播磨・摂津・河内 → 近江(琵琶湖)
瀬戸内海沿岸には、「阿曇」「安曇」「厚見」などの地名が帯状に分布しています。
安曇族は、瀬戸内海を航海し、各地に定住しました。
ルート2:日本海〜内陸ルート
志賀島 → 山陰(鳥取・島根) → 越後(新潟) → 信濃川を遡上 → 安曇野(長野)
日本海ルートで北上し、信濃川などの川を遡って内陸へ入った安曇族もいました。
石川県の志賀町、安津見を経由し、長野県の安曇野へ。
そこで、塩や海産物(えごなど)を運び、交易を行いました。
ルート3:東海〜中部ルート
渥美半島(愛知) → 岐阜・三河 → 甲斐・信濃
東海地方にも、「渥美」「厚見」などの地名が残っています。
これらのルートを通じて、安曇族は海を経て川を遡り、そのまま根づいていったのです。
全国の安曇族が残したもの
遠く離れた地に移住した安曇族は、何を残したのでしょうか。
1. 地名
安曇、阿曇、渥美、厚見、志賀、鹿...
2. 神社
穂高神社、鹿島神宮、琵琶湖の安曇川神社...
3. 祭りや神事
御船祭り(安曇野)、お汐井取り(博多)...
4. 食文化
えご(安曇野)、寒天、海産物の流通...
5. 信仰
綿津見神、鹿信仰、清めの砂...
そして、最も重要なのは、
故郷への記憶です。
海のない安曇野で、船の祭りを行う。
内陸で、海藻の料理を食べる。
志賀島の英雄を祀る。
安曇族は、どこに行っても、海を忘れませんでした。
それは、彼らが「海人族」であることへの誇りだったのです。
表津宮の移転 —— 勝馬から志賀へ
志賀海神社は、3つの宮から成り立っています。
表津宮(うわつみや):志賀地区
中津宮(なかつみや):勝馬地区
奥津宮(おきつみや):勝馬地区(女人禁制)
この3つは、綿津見三神(上津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神)を祀る宮です。
でも、前回ご紹介した通り、表津宮は元々、勝馬にあったと言われています。
なぜ移転したのか
研究者の間では、表津宮が2〜4世紀頃に、勝馬から志賀へ移転したという説が有力です。
理由:
安曇族の役割が変化したから。
移転前(勝馬):
外洋(玄海灘)を見張る位置
大陸からの船を最初に迎える場所
「外洋の守り」
移転後(志賀):
博多湾(内湾)を見下ろす位置
博多湾の物流の中心
「内湾の支配」
つまり、安曇族の拠点が、「外洋の守り」から「内湾の支配」へと移っていったのです。
これは、ヤマト王権の勢力拡大に伴い、安曇族の役割が変化したことを示しています。
勝馬には漁師はいません。
それは、勝馬の海が神様の海だからと母は言います。
次回、その辺のお話を、神功皇后の伝承とともに辿っていきます。

数軒の農家さん
次回予告
次回は、神功皇后の伝説と勝馬について書きます。
神功皇后と阿曇磯良は、どのように海神に祈ったのか。
勝馬・志賀島にある、神功皇后ゆかりの地を訪ねます。
そして、私が育った勝馬という場所には、どんな意味があったのか。
神功皇后の伝説と、勝馬に込められた祈りを辿ります。
参考文献
一次史料
・『日本書紀』(継体天皇紀・応神天皇紀・神功皇后紀)
・『古事記』(綿津見三神)
・『後漢書』東夷伝(奴国・金印)
・『続日本紀』(797年) - 安曇郡の記載
考古学・文化財
・中津宮古墳(福岡市指定文化財)
国宝「漢委奴国王」(志賀島金印、福岡市博物館)
・前田遺跡(細形銅剣鋳型、森貞次郎『志賀島の考古学』1958-59年調査)
研究・解説
・宗像・沖ノ島UNESCO公式サイト
・農林水産省「安曇族の開発」
・長野県「安曇野の由来」
・「安曇野の秘密2」(安曇族と磐井の乱)
・Wikipedia「磐井の乱」
現地情報
・志賀海神社公式HP
http://shikaumi-jinja.jp/
お汐井取り(清めの砂)
志賀海神社に設置、博多山笠の神事の際の行事
・穂高神社(長野県安曇野市)御船祭り(9月27日、白村江追悼)
・安曇野の郷土食「えご(いご)」(1681年史料)
・正倉院文書(746年)「安曇郡前科郷戸主安曇部真羊」
注意: この記事は史料を基に、私(著者)が志賀島の一出身者視点で再構成したものです。
専門家のご意見と異なる場合もありますが、「島の記憶」としてお楽しみください。
志賀島へのアクセス
🚗志賀島へは、福岡市内から車で約40分。
海の中道を通って、陸続きで行くことができます。
🚢また、博多港から船で約30分。
市営渡船時刻表⤵︎
🚃JR西戸崎からは電車が出ています。
🏝️勝馬へのアクセスは、志賀島国民休暇村行きのバスもしくは、勝馬行きのバスに乗れば行くことができます。
もしくは、実家「満帆荘」へご宿泊の方は、志賀島渡船場もしくは西戸崎渡船場、JR西戸崎駅までは送迎があります。

