神功皇后と勝馬 —— 地上に刻まれた「海原」の足跡*志賀島の記憶7
前回は、安曇族に何が起きたのか。なぜ彼らは全国に散らばったのか。
そして、私が育った「勝馬(かつま)」という場所には、どんな意味があったのか。それを、一緒に探っていきました。
前回は、安曇族が全国に散らばった歴史と、彼らの拠点であった「勝馬(かつま)」の特別な意味についてお話ししました。
勝馬に漂う「神代」の気配
そんな勝馬を歩くと、ふとした瞬間に、歴史の教科書を飛び越えて「神代(かみよ)」の気配に触れることがあります。
香椎宮での託宣と「母」としての決断
今から約1800年前。福岡市東区にある「香椎宮」です。
仲哀天皇と共に滞在していた神功皇后に、神々が乗り移り「西の国を平らげよ」と告げます。
しかし天皇は急逝。
残された皇后は、身重の体で自ら軍を率いるという凄まじい覚悟を決めました。
彼女がどうしてもその力を借りなければならなかった存在…
それが、海の底に住まう伝説の神
安曇磯良(あずみのいそら)でした。
海のシルクロードと海人三族
当時の九州は、安曇・住吉・宗像といった強大な海人族たちが割拠していました。彼らは単なる漁師ではなく、遠く『海のシルクロード』を渡ってくる最新の文化や技術を日本へ繋ぐ、外交と航海の最前線を担うエリート集団でもあったのです。
聖域への入り口:御手洗水での禊
皇后はまず、安曇族の本拠地・志賀島の北端へと向かいます。
最初に訪れたのは、「御手洗水(みたらいず)」。
ここで身を清め、神事へと臨む儀式を行いました。
(志賀海神社歩射祭 の際にもここで禊が行われています)

祈りと足跡:叶ヶ浜から下馬ヶ浜へ
彼女が歩いた砂浜には、
今もその時の情熱が「地名」として残っています。
願いが聞き届けられた「叶ヶ浜(かのうがはま)」を通り、いよいよ聖域を前に馬を下りた場所が「下馬ヶ浜(げばがはま)」です。
一歩一歩、神の領域へと近づいていく緊張感が伝わります。

舞能ヶ浜での神楽
そして、「舞能ヶ浜(まいのがはま)」に辿り着きます。
(私の実家・満帆荘が建つすぐ下の砂浜がまさにその舞台!)
皇后はここで、安曇磯良を呼び出すために7日7晩の神楽を奏でました。
「舞能」とは、まさにこの地で神々へ「能(舞)」を捧げたことに由来します。
月明かりの下、命を懸けて舞い続けた皇后。
かつて母が言った「ここは神様の海だから」という言葉の重みが、今、私の心に響きます。

この、舞能ヶ浜での舞とともに捧げられた祈りの言葉こそが、今も志賀島で受け継がれる『山褒め祭』の起源となるのです。
神楽が最高潮に達したその時、海の中から現れたのは、誰もが予想だにしない姿をした神様でした。
勝利の丘「勝馬」
無事に凱旋した皇后の馬が、喜びのあまり大きくいなないた丘。
それが私の愛する「勝馬」です。
ここは単なる美しい景色ではなく、一人の女性が「国家の運命」と「新しい命」を賭けて神と対話した、祈りの最前線でした。
志賀海神社 「歩射祭」
志賀海神社で毎年開催されている「歩射祭」
安曇族の弓射神事が起源とされる、正月2日から15日まで行われる年頭の行事。
馬に乗らずに弓を射るのでこの名があります。
阿曇百足(あづみのももたり)の土蜘蛛退治伝承にちなむもので、8人の射手が破魔の目的と年占の意味を兼ねて弓を射る、1800年前から続く勇壮な神事です。


次回予告:真説・龍宮物語へ
神楽の音が止んだ舞能ヶ浜。ついに波が割れ、海底から「あの神」が姿を現します。
次回、第8回。
志賀の波が絶えるまで語り継がれる誓いと、宇美での新しい命の誕生へと物語は加速します。
参考文献・資料
* 志賀海神社 公式HP・縁起
* 『日本書紀』神功皇后紀
* 福岡市文化財「志賀海神社」
* 満帆荘 公式サイト「舞能ヶ浜の歴史」

志賀島へのアクセス
🚗志賀島へは、福岡市内から車で約40分。
海の中道を通って、陸続きで行くことができます。
🚢また、博多港から船で約30分。
市営渡船時刻表⤵︎
福岡市 福岡市営渡船 時刻表・運賃表
www.city.fukuoka.lg.jp
🚃JR西戸崎からは電車が出ています。
🏝️勝馬へのアクセスは、志賀島国民休暇村行きのバスもしくは、勝馬行きのバスに乗れば行くことができます。
もしくは、実家「満帆荘」へご宿泊の方は、志賀島渡船場もしくは西戸崎渡船場、JR西戸崎駅までは送迎があります。
