狼王の嫁⑥
第五章 この手に剣は無くとも
地震が発生する、少し前。ホリーはいつものように洗濯物を干していて、お使いに出てくれたアーニャが戻って来たのを見て駆け寄った。
「アーニャ様、ありがとうございます。お届け物など、私がするべきですのに……」
クラウスがお弁当を忘れたことに気付いた時、直ぐに追いかけようと、ロルフへ許可を取りに行ったのだが、
「それは許可できないな」
と、ニコニコ笑うロルフが何故か頑なに許してくれなかった。
「届け物ならば、アーニャに任せなさい。アーニャ、頼めるかな?」
「クウン!」
「で、ですが、直ぐに追いつけると思いますし……」
ニコニコしたロルフは、首を横に振るだけだった。
「ホリー。訓練所とは、どういう所か、分かってるかね?」
「え? は、はい。猟犬使いや、鳥使いの、才能ある方々が訓練されている所、です」
「そうとも」
もしかして、何の能力も持たない一般人が近づくのは禁じられているのだろうか? でも、忘れ物を届けるくらい……入り口で受け付けてくれないものだろうか。などとホリーは考えていた。
「つまり、そこには年頃の男ばかりがいるということだ。そんな所に、ホリーのような可憐で気立ての良さがにじみ出る可愛い女の子が無防備に近づいたら、どうなると思っているんだい?」
「か、可憐……?」
「訓練生達は紳士であると信じているが、可愛い嫁入り前の娘を、そんな所へ行かせるのは、反対だ」
これは世に言う、親バカな父親の発言なのだが、ホリーはこんな風に父親から心配された経験が無い。
しかも、憧れのロルフから『可憐』だの『かわいい』だのを連発されて、顔を真っ赤にして頷くしかなかった。
「わ、分かりました。アーニャ様にお願い致します……」
「うん、そうしなさい」
と、ロルフに押しきられたのでお使いができなかった。
(でも……ちょっとだけ、授業を見てみたかったなぁ)
救助隊の本部と繋がる訓練所は、高い塀に囲まれている上に、普段は関係者以外立ち入り禁止区域になっているため、目にする機会は滅多に無い。
ホリーのような一般人が見かける機会が多い隊員は、例えば警備隊隊長のフェルナンド隊長率いる警備隊の面々だ。彼らは町の治安維持が主な任務であるため、町の中に待機所があり、町民との交流も盛んだ。
反して、迷宮探索を主とする探索部隊など町に関わりの薄い隊員達は、相棒を連れて歩いているので隊員なんだ、と分かってもどこに所属する方なのかは分からない。
更に、救助隊員全てを指揮する権限を持ち、訓練所の責任者を兼任しているというルーク教授と呼ばれる方は、遠くから姿を拝見したことしかない。
一般人からは謎が多い分、ちょっぴり秘密を覗けるかも知れないと思うとワクワクするし、何よりも学校に通った経験のないホリーは学校そのものに興味津々だ。
(ちょっとだけ、授業を覗いてみたり……怒られるのかしら)
残念に思いつつ、ホリーは手早く昼食の支度に取りかかっていた。
「ガウ!」
「え?」
何故か物凄い形相のアーニャが台所に飛び込んで来て、ホリーに飛びかかったものだから、ホリーは床に倒れてしまった。
「あ、アーニャ様?」
その時、ドンッと体が持ち上がるような衝撃が走ったかと思うと、床が激しく揺れ始めた。
「じ、地震……」
お皿やボウルが落ちて大きな音を立てる。ホリーは思わず、アーニャの温かい体にしがみついていた。
永遠に続くかと思うほど大きな地震に耐えて、揺れが収まると、アーニャが上から退いた。
「アーニャ様、お怪我はありませんか? わ、私などを庇って……」
アーニャの背中には皿の破片が飛び散っており、慌てて取り除きながら怪我をしていないか確認していたが、アーニャはサッとホリーの側から離れるとブルブルと身を震わせて何事も無かったかのように平然と鼻を鳴らした。
「そ、そうだわ、ロルフさま……」
主人の安全を確認しなければ。
幼い頃から何度も地震を経験しているが、怖いものは怖い。ガクガクに震える膝を支えながら必死で歩くホリーを置いて、アーニャが先にロルフの元へ駆けて行った。
「ホリー、大丈夫か?」
直ぐに、ロルフが駆けつけてくれる。ホリーの方が主人であるロルフを守らなければならないのに、ロルフの顔を見ただけで安心して涙が零れそうだった。
「だ、大丈夫です!」
「よし、この揺れだ避難勧告が出るだろう。直ぐに支度を」
「はい!」
地震が頻発するこの町では、軽い揺れならば自宅で待機するのだが、大きな揺れが発生すると大規模な雪崩が起こる場合がある。未だ、町を飲み込むほどの雪崩が発生したことは無いが、一番北にある猟師の集落が飲み込まれてしまったことはある。
万が一に備え、比較的安全な避難場所へ集まって凌ぐのが通例だ。寒さを凌げるようにロルフに厚めのマントを被って貰い、ホリーも身動きしやすいコートを羽織る。
家の外へ出ると、すでに避難を始めた人の波ができており、それに流されるようにロルフと共に避難所へ向かう。
「ホリー、足元に気をつけなさい。転ばないようにな」
「はい」
万が一に備えて避難の訓練を定期的にしているし、多少の心構えはあるが、やはり非常時には冷静ではいられない。
一人が転んでも後ろに押されて止まることができず、人の波に押されて下敷きになった小さな子供が亡くなってしまったこともある。
小柄なホリーの体は人に紛れて消えてしまいそうだったが、ロルフが全身で庇ってくれた。
「ろ、ロルフ様、無理はいけません……わ、私は、大丈夫です、から」
「大丈夫だ、ホリー。引退したとは言え、私は狼王なのだよ。必ず、君を守ってみせよう」
優しく包み込んでくれる腕が温かくて、つい甘えてしまいそうになる。
それでも、ホリーは意識してしっかりと足を踏みしめ、前に進んだ。足元に時折すり寄ってくれるアーニャの温もりを感じ、とても心強い。
何とか避難所まで辿り着くと、住居地区ごとに割り当てられた場所へ救助隊員達がテキパキとテントを張って案内してくれた。
「お願いします」
「はい。こちら、で……」
ホリー達を案内しようと駆け寄った若い隊員が、マントのフードを被った男がロルフであると気付いたが、騒ぎ立てずに速やかに案内してくれた。テントの中でやっと息をついたロルフは、隊員に頭を下げていた。
「ありがとう」
「……光栄です」
少年のように目をキラキラ輝かせて、彼は職務に戻って行った。
「アーニャ、おいで。自慢の毛並みがクシャクシャじゃないか。整えてあげよう」
「キュウン」
アーニャも、ロルフの膝に身を乗り出して寛ぎ始める。
「ロルフ様、私は炊き出しの手伝いに行って参りますので」
「ああ、頼んだよ」
「はい!」
避難所には町の住人以外にも、迷宮の探索に来ていた冒険者達も一緒くたに集まる。ちょうど昼時だったので、お腹を空かせている人が大勢いるだろう。
ホリーは張り切って腕まくりをして、もうもうと湯気が立ち込める簡易の調理場へ向かった。
「私も手伝います!」
「あら、ホリーちゃん!」
「あ、ナナさん!」
美味しい野菜を売っている屋台のお姉さん、ナナが「こっちこっち」と手招きしてくれた。露天商の仲間達で炊き出しを率先して行っているらしい。
「地震で潰れちゃった野菜とかね~、もう大盤振る舞い」
「どうせ今日はもう商売にならんし!」
明るく笑っている女性陣の中で一緒に笑い合うと、ホリーもささくれた心が落ち着いて来るのを感じた。
「ナナちゃん、このかわい子ちゃんは誰よ~」
「フフフ……なんと、この可憐な女の子は、ロルフ様のメイドちゃんよ!」
「ええ!? この子なの!?」
「うそー! こんなに可愛い子が!?」
ワイワイと騒ぎつつも手は止まらず、みんな手際が良い。置いていかれないようにホリーも一生懸命大量の野菜を刻む手伝いをした。
「まあ~、手際が良いわ! さすがロルフ様のメイドちゃん!」
「ありがとうございます! はい、こっちは終わりました!」
「ホリーちゃん、お鍋見てて〜! あと、味付けも見て~!」
「はい!」
美味しそうな匂いに惹かれて子供達が集まってくると、ナナがポケットから飴玉を出して子供達に分けてあげていた。
「あたし、甘い物が無いと元気無くなっちゃうから、いつも持ち歩いてるの。はい、ホリーちゃんも、あーんして」
両手が塞がっていたホリーは、口の中に飴をポンと入れて貰った。
「美味しい!」
「でしょ? はちみつの飴ちゃんよー。頑張り屋のホリーちゃんには、たくさんあげちゃう!」
と、ホリーのポケットにいくつか飴を入れてくれた。
たっぷりと大鍋に作ったスープを配り、ロルフにも給仕していると、何度か余震があった。テントから覗き見ると、山が白いもやのようなものに包まれている。雪崩が発生しているようだが、町への影響は無いようだ。
夕飯の支度を始めようかという頃には、救助隊員から家へ戻っても大丈夫との知らせが入り、店や家を片付けたい者はすぐさま戻って行った。
避難所には、猟師の集落から避難してきた人々が残るようだ。
「私達も戻ろうか。人の波が落ち着いてからにしよう」
「はい、ロルフ様。お体に障りますから、毛布を被っていて下さいね」
「ありがとう」
ホリーは自分の分も、ロルフに渡して、しばらく人の流れの様子を見ていた。動き回って各所の手伝いをしていたので、あまり寒さを感じない。
「人の流れが落ち着いて参りましたので、私は一足先に家へ戻り、お部屋を暖めておきます」
「分かった。後から私もゆっくり戻るよ。アーニャがいるから、大丈夫だ」
「クゥン!」
訓練所にいるクラウスの身も案じられたが、訓練生達も避難誘導などの手伝いをしていると町の人が噂しているのを聞いた。クラウスも非常事態の対応でクタクタになってかえってくるだろう。
できるだけ暖かくして過ごして貰ったが、長時間外で過ごしたロルフも疲れているだろう。身も心も温まる、シチューを作ろう。
ホリーは人の波を上手く避けながら、家まで走って戻って行った。
家に戻ったホリーは、直ぐに台所を片付けてシチューの仕込みをしつつ、ロルフの部屋を確認した。
幸いにも、ロルフの寝室は本が数冊落ちていただけで、特に被害はない。
(あ……)
ベッドサイドの小さなテーブルにいつも置いてある、亡くなった奥様の小さな肖像画が倒れていたので、そっと起こしてケースに傷が無いか改めた。
(綺麗な方ね……)
愛おしそうに幼いクラウスを抱き上げて、頬をくっつけあって笑っている。
「可愛い」
幼かった頃のクラウスは甘えん坊だったのか、お母様にべったり抱きついて、太陽のような笑顔を浮かべてた。
この素敵な肖像画を、ホリーがまじまじと眺める機会はあまりなかった。いつもロルフが手ずからケースを綺麗に磨いているので、部屋の掃除をする時にチラリと眺める程度だ。
肖像画を、ベッドに横になってもよく見えるように角度を調整して、小さなテーブルに戻しておいた。
暖炉に火を入れ直し、じんわりと部屋が暖まって来た頃、アーニャと一緒にロルフが戻って来た。
「おかえりなさいませ!」
「ああ、ホリー。ありがとう、もうだいぶ暖かいな……」
ほんの少し離れている間に、ロルフの顔色が酷く悪くなっていて真っ青だった。アーニャも心配そうにロルフの足元に寄り添っている。
「お疲れでしょう、すぐに暖かい部屋で休んで下さい」
急いでロルフに付き添い、ベッドで横になって貰うとロルフは大きく一つ息をついた。
「ホリー。先程、隊員から知らせが入った。クラウスが……」
迷宮へ下級生を救助に向かい、そのまま閉じ込められてしまったらしい。
「え……」
「ああ、心配いらない。オールがついているし、フェルナンドと一緒のチームだと聞いた。まず、生き残ることは困難ではないだろう」
「で、でも……」
急なことで頭が追いつかず、得体の知れない恐怖で足が震えた。
「クラウス様は、まだ訓練生です……ど、どうして、どうして……」
「それだけ、実力を買われたのだろう。二、三年生の訓練生達が全員、正規隊員と共に救助へ向かったそうだ」
そう言いつつも、ロルフの心中も穏やかでは無いのだろう。己の感情を鎮めるように、深く息を吐いている。
自分が遭難した訳でも無いのに、ホリーの震えは止まらず、頭の中は「どうして」と何度も繰り返していた。
迷宮内で救助隊員が、救助や捜索に向かって亡くなったという話を聞いて、ホリーは怖い話だと思いながら、どこか遠い所の話のように実感が無かった。
(クラウス様……)
もしも、クラウスが帰って来なかったら。
そう思うと、急に足元が闇の底へ抜けていくようだった。
「ホリー?」
ロルフに名前を呼ばれても、返事すらできない。
喉が縮こまって、息をするのも忘れてしまいそうだ。何度か細かく呼吸して、必死で紡げたのは、
「お、お食事の、支度をしませんと……」
そんな、毎日の仕事のことだった。真っ直ぐに向き合っていたら、悪いことを考えてしまう。クラウスは、無事に帰って来る。クタクタになって、帰って来る。
「クラウス様のお好きなジャガイモを、たっぷり入れたシチューを作ります。きっと、お腹が空いてます。クタクタで、帰っていらっしゃいますから……」
「……ベッドを温めておいてやるのも、良いだろう。食べたら直ぐに休めるようにしてくれるかな?」
「はい! 湯たんぽを入れて、それから、それから……」
今朝は、朝からロルフの主治医であるジル先生が来ていて、ホリーは対応にかかりきりだった。欠かさずにしていたお見送りは、
「良いから、父上についていてくれ」
と、クラウスが気を利かせてくれて……お見送りができなかった。
どうして、こんなに不安になるのだろう。
クラウスの無事を祈るだけで、胸が苦しくて、今にも駆け出したい気持ちが抑えられない。
ロルフにピッタリと寄り添っていたアーニャが、ベッドを降りてスタスタとホリーの足元へやって来た。
ジッと見上げてくるアーニャの瞳は、クラウスと同じ爽やかで穏やかな青色。静かに見上げてくるだけなのに、何かが伝わってくるようだった。
「アーニャが共に行くのならば、私も安心だ。行っておいで、ホリー」
「え……」
「クラウスの様子を、確認したいのだろう? 行っておいで」
「ロルフ様……」
「私ならば、問題無い」
「はい!」
ホリーは勢いよくロルフに頭を下げて、
「お鍋に、シチューができております! お腹から温まってゆっくり休んで下さいませ!」
「ああ。気をつけて行っておいで」
エプロンを外して、家から飛び出した。アーニャと共に町を駆け抜ける。普段なら近寄ることすらない、迷宮の入り口を目指して。
町の北へ行けば行くほど、人はまばらになっていく。だが、救助隊本部の門は煌々と松明が燃え、荒々しい足音を立てて人々が行き交っていた。
門を抜けなければ、迷宮へ行くことはできない。それなのに、屈強な隊員が門を閉ざしていた。
そして、門の前には隊員ではない人々が必死で訴えている。
「お願いします、息子が帰ってこないと知らせが……」
「事実の確認が出来次第、お伝えします」
「そう言って、もう何時間も待ってます! 息子の側へ行かせて下さい!」
「できません。お知らせしたこと以外、お伝えできることもありませんし、一般人の通行は禁じられています」
屈強な隊員に必死で食ってかかった母親は、急にめまいでも起こしたかのように足元をふらつかせ、側にいた娘が彼女を支えた。
「ちょっと、おじさん! そんな言い方はあんまりじゃありません? おばさまは体が丈夫じゃないの! それでも、カティスが心配で、ここまで来てるのよ!? 少しでも分かったことを教えてくれたって良いじゃない! っていうか、アンタも探しに行きなさいよ!」
「無理をせず、休まれた方が良い。救護室に医師がいるので、そこへ連れて行きなさい」
「教えてくれたら帰るわよ! カティスは、無事なの?」
どうやら、門番が先には進ませてくれない上に、教えて貰えることは何も無いようだ。強気な娘が全力で噛みつく勢いでも、隊員は平然と受け流していた。
「もう良いわ! アンタなんかに頼まない!」
強気な娘はキッパリと言い放つと、真っ青な顔で今にも倒れそうな母親を優しく支えて門から離れて行った。
(どうしよう……私も門前払いだわ、きっと……)
躊躇っていると、スタスタとアーニャが先に歩き出し、途中で振り返ってホリーを見上げてきた。
(着いてきなさい、とおっしゃっているのかしら?)
慌ててホリーが後に続くと、幼くとも狼の貫禄ある姿に驚いた人々が道を開ける。門番をしている屈強な隊員すらも、僅かに姿勢を正した。
「君は、ロルフ様の?」
「あ、メイドの、ホリーと申します」
グイ、とアーニャがホリーのスカートを咥えて引っ張った。当然、アーニャが言いたいことなど分からない、はずなのだが。
(私がついているから、強気で押せ! と言われている気がします!)
門番の迫力に押し負けまいと、ホリーは頑張って胸を反らせた。そして、勝手にロルフの名を振りかざすことを先に心の中で謝っておく。
「わ、私は、あのロルフ様から代理としてクラウス様の無事を確認するよう、仰せつかって参りました! クラウス様の無事を確認させて下さい!」
「例え、ロルフ様本人がいらしても、通すことも、伝えることも、今はできません」
「ど、どうしてですか!? 私も、それに、皆さまもただ、心配なのです、知りたいだけです!」
必死で食い下がるホリーに、隊員は一つ息を吐くと、冷たく言い放った。
「邪魔だからです」
「では! 役に立つ者ならば、ここを通して頂けるのですね!?」
「……そうなりますね。無駄なことですが」
ホリーは涼しい顔で言い切った隊員の顔を、全力で引っ叩いてやりたいのを必死で我慢した。今朝、カリカリベーコンを焼いたフライパンを持って来るべきだった。
しかし、あちらは鍛え上げた隊員だ。フライパン一撃程度で道を開けるならば、苦労はしない。ホリーは門の隙間から、内部を覗き込みながら仕事を探した。
忙しく駆け回る隊員達の姿があるだけだ。それでも、何かあるはずだと、必死で探し回る目に映ったのは、忙しく駆け回りながら細長いクッキー状の保存食に囓りついて、顔をしかめる隊員の姿だった。
(たぶん、携帯食の一種ね……保存をよくするために乾燥させるから、普段食べるクッキーみたいにサクサクホロホロとはいかないわよね……)
さぞや、ボソボソで喉が詰まる程にこなこなしていて、マズいのだろう。だが、とにかく栄養を取って動き回る力を付けなければならず、渋々食べているのが分かる。
(あれだって工夫すれば、きっと美味しくなるのに……)
思わず、いつもの癖で困っている人にばかり目が行ってしまう。
(待って待って、私ができることを探すのであって、いつもの仕事ではないのに)
慌てて首を振ったが、直ぐに気付いた。
自分の特技と言えば、多少自惚れて良いのなら、人より秀でた家事の手際だ。できることは、その範囲内になるが……どう見ても、今正に、その人手が足りないから、あんなマズそうな物を食べているのでは?
フン、と鼻息荒く、ホリーは再度隊員と向き合った。
「お尋ねしますが!」
「何ですか」
「炊事に手が回っていないのではありませんか?」
「問題ありません。携帯食で十分です」
「あんなマズそうな物で皆さまの士気が上がるもんですか! これから大事な職務がありますのに、不味い食事ではいけません! 私は、メイドです! お役に立ちます!!」
「不味ければ、自分で準備できます」
「忙しいのに、人手を割くのですか? それならば、私にお任せ下さい!」
ホリーが頑張って言い返していると、後ろで門番の迫力に負けていた人々もオズオズと加勢してくれた。
「煮炊きなら、私達の方が慣れてますし……」
「皆さんの邪魔にならないようにしますから……」
それでも渋い顔の門番に、今度こそ引っ叩いてやろうとホリーが腕まくりした、その瞬間。
「何の騒ぎだ」
静かな声が、割り込んできた。静かなのにズシリと重く、威厳のある声だった。思わずホリーは、アーニャと一緒に一歩下がってしまった。
すると、恐ろしく姿勢の良い男性が、片手で猫の子のように女の子を摘まみ上げて立っていた。
「壁を乗り越えてきたところを捕獲した。もっとしっかり追い払っておきなさい」
「申し訳ありません、ルーク教授」
「離してよ!」
捕まったのは、先程威勢良く門番に噛みついていた女の子だ。何と、単独で訓練所の壁を乗り越えてまで中に入ろうとしていたのだ。
ひょいと下ろされた女の子を、ホリーは慌てて支えた。
「大丈夫?」
あんなに強気で門番に張り合っていた女の子は、今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「平気。ありがとう」
門番から事情を聞いている、妙に迫力のある男性はルーク教授と呼ばれていた。
ルーク教授と言えば、訓練所所長にして、迷宮探索の責任者。自らも迷宮探索を行っており、救助隊の指揮も任されていると聞いたことがある。
「なるほど、理解した」
もしかしたら、話の通じない門番よりも、ルーク教授に話を通した方が……
「速やかに、帰りなさい」
有無を言わせぬ迫力で、ホリーはもう一歩下がりそうになる弱った気持ちをグッと堪えて踏みとどまった。
「どうしてですか! お身内の無事を確認したのは、誰だって同じ気持ちです!」
「では、尋ねよう。君は、クラウスの遺体が迷宮から回収されるのを、真っ先に確認したいのか」
「え……?」
ルーク教授の声は、静かだった。
背後では怒号に近い隊員達の声が飛び交っているのに、その声は確かな強さでホリー達に届く。
「迷宮から生還できる可能性は常に低い。特に、今回のような不測の事態の場合、隊員であっても生存を絶望視する場合がある。しかし、隊員達はそれを承知で任務についている。そして、彼らの家族も覚悟している」
静かに、ルーク教授は続けた。
「周りを見なさい。巻き込まれた隊員の家族はいるか?」
ホリーは、フェルナンド隊長の奥様の顔を見たことがあった。見回してみたが、ここには居ない。おそらく、ここにいるのは訓練生の家族なのだ。
「遺体を回収する可能性がある以上、覚悟のない者は邪魔だ。生きている者を優先するために、遺体を回収することすらできないこともある。今一度、問う。家族の遺体を真っ先に見る覚悟のある者は、いるか」
誰もが、俯いていた。見たくも無い現実と向き合う覚悟を、今決めなければならない。
「理解できたなら、速やかに帰りなさい」
俯いた人々が、一人、また一人と戻って行く。
それでも、ホリーは必死でルーク教授に向かって頭を下げた。
「中に入れて下さい。邪魔は致しません。必ずお役に立ちます」
「何故、そこまでするのか。君はメイドとして職務を十分に全うしている。家に戻り、ロルフと共に知らせを待つが良い」
「嫌です。中に入れて下さい」
「強情な娘だ。理解に苦しむ」
「私は……」
自分が、こんな事を思うのは、身の程知らずかも知れない。
それでも、ホリーにとってクラウスは恩人であり、家に受け入れてくれた人でもあり、独りぼっちになったホリーに、優しく手を差し伸べてくれた、大切な人だ。
「私にも、分かりません。私はただ」
クラウスに会いたい。
そう、会いたいだけなのだ。たった、それだけだ。
自分でも、何故そう思うのか分からない。自分で理解出来ない気持ちを、説明することなどできなかった。だから、ホリーは黙ってルーク教授を見上げるだけになってしまう。
冷静な面にそぐわぬ、優しい琥珀色の瞳に、松明の炎が映ってゆらゆら揺れている。ホリーのことを決めかねて、迷っているように見えた。
「……ついてきなさい」
「え?」
「何度も言わせるな。ついてきなさい、と言っている」
「は、はい!」
「隣の小娘も、また壁を乗り越えて貰っては困る。一緒に来なさい」
「はい!」
ホリーは名前も知らない女の子と、支え合うようにして、開かれた門を潜った。
「あたし、アンナよ」
「私はホリーです」
ルーク教授の背中を追いかけながら、ホリーはようやく女の子の名前を知ることができた。
クラウスの級友であるカティスとは、幼馴染のお隣さんで、頭が良くて優しいカティスのことをお兄さんのように慕っているのだとか。
「おば様が一人でカティスの無事を確認しに行くって言うもんだから、ついてきたの。あたしも、心配だったから……」
「そうだったんですね……」
きっと大丈夫だと励ましてあげたいけれど、ルーク教授の言葉を聞いた後では、無責任なことは言えない。
先頭を歩くルーク教授は、あれから一度も振り返らないが、歩くのがとても早いので、アンナと二人でついていくのがやっとだった。
「入りなさい」
ルーク教授に促されて入ったテントの中は、真っ白な蒸気に満たされていた。
ホリーもすっぽり収まってしまいそうな大鍋一杯に、グツグツと大量のスープが煮込まれており、その周りを忙しそうに一人の男性が調理に駆け回っていた。
「グイド。手伝いを連れて来た」
「は、あ、これは、ルーク教授……」
グイドと呼ばれた男性は、慌てて額に巻いていたタオルを取ろうとするが、ルーク教授は軽く手で制した。
「この娘達を、ここで働かせてやって欲しい」
「は、はあ……こちらのお嬢さん達を、ですか」
「要件はそれだけだ。済まないが、宜しく頼む」
「はい、わかりました」
グイドが丁寧に頭を下げている横で、ホリーも慌ててアンナと一緒に頭を下げた。
「あ、あの、ありがとうございます!」
「ここで力を尽くして待ちなさい。それ以外のことには一切手出ししないこと。余計な真似をしたら叩き出す。そのつもりでいなさい」
「は、はい! 分かりました!」
ビシッと背筋が伸びる厳しい声。ホリーはふと、この感じをどこかで体感したような気がした。
(そうだわ、ロルフ様。クラウス様に厳しいことを仰っておられた、あの時のロルフ様にそっくり)
ロルフのような優しさは垣間見えない気がするが、毅然とした厳しさ、その裏側にある何か芯の通った強さを感じさせる迫力。さすがは、救助隊を率いる方だな、とホリーは思い、テントからルーク教授が出ていくまで深く頭を下げていた。
「あの、お嬢さん。貴方は、ホリーさんですか?」
「え? え、ええ、そうです……」
グイドにいきなり名前を言い当てられてビックリする。グイドの名前は知らなかったが、彼のことは一方的に知っている。あの、野菜の屋台のお姉さん、ナナの思い人だからだ。
仲良くなってから、ナナの脇腹を肘で突きながら聞き出した彼の話は、全部のろけだったのでだいぶお腹いっぱいになったのだが……。
だが、あんなにグイドが大好きなのに、ナナは挨拶くらいしか彼と言葉を交わしていない。当然、そこからホリーの素性が知られるはずがないのだが……。
「あ、急にすみません。クラウスさんから、名前を伺っていて」
今度は違う意味で心配になった。クラウスは、ホリーのことをどのように伝えているのだろうか。
「あの、ほうれん草のパンケーキを作った方ですよね?」
「は、はい!」
何と、初日に大寝坊して大慌てで作ったパンケーキの話題だ。恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。
だが、グイドはそんなことは一切気にせずにテキパキとボウルを並べて大量の卵を差しだしてきた。
「助かります。アレを大量に作って頂けませんか? ほうれん草以外の野菜でもできますか?」
「え、ええ! ニンジンとかジャガイモとか、他にも色々」
「では、ここにある野菜でなんとかなりますか? パンを焼くヒマが無くて」
「はい!」
「わ、私も一緒に頑張ります!」
アンナもグイドの指示で大量の玉ネギの皮むきや、調理器具の洗い物などテキパキとこなしている。
忙しくホリー達が働き始めると、アーニャはテントの入り口付近で護衛のように凜と澄まして座り、見守っていてくれた。
ホリーは大忙しで大量の卵を力の限り泡立てて粉を振るい、小さめのフライパンにバターを落として温め始める。大きなフライパンで焼くと時間がかかるし、これなら焼けたものからどんどん食べて貰えるだろう。
第一陣のパンケーキを焼き上げて更に積み上げておくと、グイドが受け取ってテントから出ていき給仕も務める。パンケーキの山を見た隊員から、歓声が上がるのが聞こえた。
「どんどんお願いします! 好評ですよ! アンナさん、スープの配膳を手伝って貰って良いですか」
「はい!」
次々に更に盛っていくものの、一瞬で消えてしまうので、ホリーは今直ぐに腕が四本になってくれないかと切望していた。
「ホリーさん、あたしが生地を作るよ! それ、どんどん焼いていって!」
「お、お願いします!」
ホリーが生地を焼くことに専念する傍らで、アンナも懸命に卵を泡立て始めた。
「ま、まだ?」
「まだまだ! 白っぽくなるまで頑張って下さい!」
「は、はい!」
夜のとばりが降り始めて、辺りはヒンヤリと静まりかえっていったが、全力でパンケーキを焼くホリーとアンナは汗びっしょりだった。10キロの小麦粉が一袋空になるまで焼き続けた二人。
終わった時には、二人で互いの背中を支え合うようにして座り込んでいた。
「おわ、おわったぁ~……もう、腕パンパン……」
「わ、私も……くたくた……」
「ありがとうございます。片付けはやっておきますから、お二人はどうぞ休んで下さい」
「いえ、お手伝いします! 最後まで!」
「あ、あたしも、まだできるよ!」
一生懸命立ち上がろうとしたアンナだったが、もう手も足もガクガクで立ち上がることもままならなかった。
「アンナさん、先に休んでいて下さい」
「でも、あたしも……」
ジッと見守っていたアーニャが、スッと立ち上がって動いたかと思うと、頑張って立とうとするアンナの襟首を咥えて、ズルズルとテントの片隅に連れて行ってくれた。
簡単な仕切りを立てて、軽く休めるスペースが作られている。
「ありがとうございました、本当に助かりました」
休んでいるアンナを気づかって、グイドは穏やかな小さな声でホリーにお礼を伝えてくれた。
「いいえ、私達のわがままを通して頂いたので……。ところで、いつもお一人で食堂を切り盛りなさっているのですか?」
「はい。一年前までは、両親と一緒にやってたんですが……」
グイドの父親が体調を崩してしまい、母親も看病で側にいるため、グイドが一人で切り盛りしているそうだ。
「いつもの食堂の運営だったら、一人でも頑張れば何とかなるんですが、今日は非常事態ということで……手が回らず」
「大変ですね……」
ふと、ホリーはナナから貰った飴がポケットに入れっぱなしだったことを思い出した。
「あ、これ。ナナさんの手作りの飴なんですけど」
「え!」
ジワリとグイドの耳が赤くなるのを、ホリーは見逃さなかった。
「どうぞ、これから朝の仕込みもありますし、もうひと頑張り!」
「はい。ありがたく、頂きます」
まるで貴重な宝物のように、恭しく両手で受け取ってくれた。
グイドと二人で手分けして片付けと共に朝食の準備を終わらせ、ホリーはそっとアンナが休んでいる仕切りの中を覗いてみた。
毛布を被り、アーニャに包まれて、スヤスヤ眠っている。
「アーニャ様、ありがとうございます」
「フン……」
「ええ、ロルフ様の頼み事のついでですものね。さすがはアーニャ様です」
照れくさそうに、アーニャはしきりに毛づくろいをしていた。ホリーもやっと腰を下ろしてフカフカで温かいアーニャに身を寄せる。目を閉じてみたものの……。
(駄目だわ、眠れない)
クラウスは今頃、迷宮のどの辺りにいるのだろう。そこは、安全な場所だろうか。ちゃんと眠れているだろうか、携帯できるようにとサンドイッチをお昼のお弁当にしたけれど、食べる余裕はあっただろうか。
ずっと心配事が頭の中をグルグル回っていて、頭がいっぱいになって眠れない。
しばらく頑張ってみたが、一時間ほどで諦め、ホリーはそっと起き上がった。
「クゥン?」
「アーニャ様、アンナさんをお願いします」
アーニャが力強く頷いてくれたので、ホリーはそっとテントから顔を出してみた。不用意にウロウロしたら、摘まみ出されてしまう。
ホリーが門の中に入った時ほど多くないが、それでも多くの隊員達が深夜になっても忙しく走り回っている。
(あら? ずいぶん小柄な隊員さんもいるのね……)
小柄な隊員と思しき人は、白いローブを纏っていた。よく見たら、女性だ。悠然と隊員達の間を歩みながら、たまに座り込んで猟犬の頭を撫でているように見えた。
救助隊員は男性だけの組織なので、この中にいる女性は、ホリーとアンナだけだと思っていたのだが……。その女性は真っ直ぐに、こちらのテントを目指して歩いて来た。
「こんばんは、ホリーさん」
とても、美しい声の人だった。響きが柔らかくて、温かくて、話す言葉は歌うように軽やか。フワッと微笑む優しい笑顔は、ホッとして何でも話してしまいそうだ。
「私の夫が、ずいぶん無茶を申しつけたようで……大変失礼致しました」
「え? 夫……」
「夫は、ルーク、と申します」
「え!」
あんなに怖くて厳しい人の奥様が、まさかこんなに可愛らしくて優しそうで、ましてやこんなに若い方だとは意外過ぎて、ホリーは心のままに驚いていた。
「眠れないようでしたら、ハーブティーでもいかが?」
「は、はい……ありがとうございます」
「さ、参りましょう」
クルリと背中を向けておいて、直ぐに慌てて振り返った。
「まあ、大変。私、名乗ってもおりませんわ」
グレイスです、と恥ずかしそうに笑う姿がもう、胸がキュンとするほどに愛らしくて、柔らかくて優しい甘さのお菓子みたいな人だ。
(ルーク教授はきっと、奥様のこと……とても大事にしていらっしゃるだろうな……)
そう思うと、二人が夫婦なのはしっくりくる。二人並んでいるところを想像したら、胸の奥がふんわりと温かくなった。
グレイスに案内されて辿り着いたテント内は、薬草の匂いで満ちていた。小さな止まり木がいくうもあって、そこに包帯を巻かれた鳥が集まって身を休めている。
「私、獣医なんですの」
「じゅうい……」
「動物のお医者さんですわ。救助隊専属ですが、町の方から頼って頂くこともありますよ。あ、そうだ。ロルフさんの所のアーニャちゃん? 今度、健康診断に連れてきて下さいね」
「あ、はい!」
グレイスは、鳥の言葉が全て分かるそうだ。まるで、救助隊員のような素晴らしい能力に、ホリーはますます尊敬の念を深める。
土の国で、こんなに独立した女性を、母以外に見たことがない。
「ゆっくり座っていらしてね。直ぐに美味しいハーブティーを淹れますわ」
「はい、ありがとうございます」
テントの中に吊された薬草や、たくさん引き出しのある棚、確か薬研という、薬草をすり潰す道具など、物珍しくてついキョロキョロしてしまう。
「さあ、召し上がれ」
「頂きます」
グレイスが用意してくれたのは、カモミールティーだった。心を落ち着かせ、安眠の効果がある。そこに、蜂蜜と温めたミルクを注いで、手渡してくれた。
「美味しいです」
「良かった。安心しました」
「あ、ええと、ご心配をおかけして……」
知らぬ間に何か心配になるような行動をしていたのかも知れない。思わず頭を下げるホリーに、グレイスはウフフ、といたずらっ子のように笑った。
「どうやら、ライバル候補では無さそうですものね」
「ぶふ?」
危うく、美味しいハーブティーを吹き出すところだった。
「ど、どうしてそうなるんですか!? ら、ライバルとは」
「だってねぇ、あの人が長いこと見つめ合った末に根負けして可愛い女の子を通したって聞いたんですもの。妻としては、気になりますでしょ?」
「き、気になるも、何も……」
確か、ルーク教授は御年四十八歳。ホリーと親子ほどに年が離れているし、そもそも門の前ではほとんど野生の獣がナワバリを争うような睨みあいだったはずだ。何をどう伝えたら、この誤解が生まれるのだろう。
アワアワしているホリーに、グレイスは楽しそうに笑っていた。
「ウフフ、冗談ですよ! ちゃんと、あの人を問い詰めておきましたから、知ってますよ。あの時のホリーさんが、初めて会った時の私に似ていて……」
ポッと頬を染める姿がなんとも言えず、愛らしい。
きっと、素敵な出会いだったのだろうと、ほんわか心を温めていると……
「目的のためなら手段を問わず、放っておいたら勝手に迷宮内に潜り込んで即死してもやむなし! といったど根性精神を感じたので、仕方無く通したと言っておりましたわ」
どこの世界線で、そんな根性の出会いが夫婦の馴れ初めになるのだろうか。どんな出会いだったのか、まるで想像ができなくなった。
グレイスは楽しそうに続けた。
「眠れないようでしたら、少し私のお喋りに付き合って頂けませんか? 夜中に考え事をすると、悪いことしか浮かばなくて、眠りの質が悪くなります。医師としてもお勧めできませんから、いかがかしら?」
「はい、喜んで」
「まあ、嬉しい。こんな可愛いお友達とお喋りできるなんて、楽しみだわ」
グレイスの声はいつまでも聞いていたいほどに柔らかく温かい。心地良い声に耳を傾けている間に、色んな話を聞かせてくれた。
ルーク教授と出会ったのは、国立アカデミーだったこと。ルーク教授は当時、アカデミーでも屈指の教職者だったこと。
女性の入学が暗黙の了解で認められないアカデミーで、懸命に学んで医者になりたいグレイスはとんでもない手段で試験資格を得て、入試に臨んだこと。
医者になりたくて学んでいたのに、先輩の男性達に意地悪されて、実戦経験が積めなかったこと。
「獣でも見ていろと言われた時は、本当に腹が立って……。私の方があんな人より優秀なのに、と思ったりしましてね。お恥ずかしい、私はずいぶん思い上がった馬鹿者だったのですけど」
「まあ! 意地悪な先輩がいけないのです!」
「ウフフ、ありがとう。ああ、あの時、私の側に貴方のような素敵なお友達がいてくれたら、どんなに心安らいだことか」
その時、グレイスの傲慢な鼻っ柱を叩き割って目を覚まさせたのが、ルーク教授だったそうだ。
「君は患者を殺す医者だ、最も大切なことを失ってしまった、私が死にかけても、命を預けることはできないって言われてしまって」
売り言葉に買い言葉で、グレイスも「私だって先生を助けるつもりなんかありません!」と言ってしまった。
一晩、眠ることもできずに後悔して、謝ろうとルーク教授の元へ行ったものの、遅かった。
彼はアカデミーを辞め、迷宮探索に乗り出していた。
「ど、どうなるんですか?」
「追いかけたわ。私、我慢できなかったの。ホリーさんと、おんなじね」
「おなじ……」
ホリーが、ルーク教授の問いかけに答えられなかったこと。その、理由は……。
頭が沸騰するような答えが浮かんでしまい、ホリーは慌てて首を振った。
「わ、私は、違います……た、ただ、その、あの……」
顔が熱いので、真っ赤になっているかも知れない。ほのかに気付いてしまった気持ちも、グレイスの柔らかい視線の前で見抜かれていると思った。
「気持ちに、答えを急ぎすぎてはいけないわ。大切に、ゆっくり自分の答えを待ってあげてね」
「は、はい……」
ルーク教授を追いかけてこの地へやってきたグレイスは、吹っ切れた。獣でも診ていろと言われたのだから、獣は診ても良いのだ、と。
やってきたこの地には、獣医の需要がおおいにあった。
人体の勉強ばかりしていたグレイスだったが、必死で犬や鳥の体のこと、それぞれにかかりやすい病気など、毎日毎日寝る間も惜しんで頭に詰め込み、倒れるまで励んだ。
「さすがに、倒れたら怒られましたねぇ。怖かったわぁ」
上品にニコニコしているが、怒ったのはルーク教授だ。通常状態で既に一般人の激怒くらい威圧感があるのに、更に怒りが加わったらどうなってしまうのだろう。
「でもね、怒りながら丁寧に看病してくれたの。嬉しくて嬉しくて、熱もあって我慢できなくなって、その場で告白しちゃったのよね」
「それで、結婚されたんですね!」
「いいえー? その時は、キッパリとフラれました!」
「ええー?」
では、どうやって結婚したのだろう。あの堅物そうなルーク教授からプロポーズするのは、想像できないのだが……。
ホリーが首を傾げると、グレイスは唇に人差し指を当てて「続きは、秘密にしておきます」と話を終えてしまった。
「き、気になります……」
「そうですねぇ、続きは、ホリーさんに好きなお相手ができてからに致しましょう」
「好きな人……」
ホリーには、訪れるはずのない未来。始める前から諦めた道。
それなのに、ホリーの心の中に、たった一人思い浮かぶ人がいる……。
「夜明けと共に、迷宮の扉を開けます。今は、夜を徹して、扉を埋めてしまった雪を退けているところよ」
「夜明け……」
「ホリーさんのパンケーキ、とても美味しかったわ。それを食べて元気を取り戻しながら、隊員の皆さんが必死で頑張ってくれているの」
本当は、救助作戦の内容を教えてはいけないのだろう。それでも、グレイスはあえて教えてくれた。
「隊員さん達は、剣の達人であったり、百発百中の弓使いだったり、みんな戦う力があるわ。でも、私達には、そんな力は無い」
優しくホリーの肩を叩く手は、とても温かい。
「でも、ホリーさんは戦ったわ。その手に剣は無くとも、貴方らしく自分のできることを精一杯やった。それで良いの。後は、隊員の皆さんに任せましょう」
次は、元気な顔で迎えてあげるのが、貴方の役目ですよ、とグレイスはホリーの頭を撫でてくれた。
間近で見て、初めて気付く。グレイスの手は、傷だらけで火傷の跡もあった。ゴツゴツと骨張っていて、掌は硬い。指も豆だらけ。
グレイスは、この手で病や怪我と戦っている。
ホリーにはホリーの、戦い方がある。それを精一杯やった。
「はい、グレイス先生。ちゃんと休んで、元気な顔で迎えます」
「ええ。それが一番良いですよ。おやすみなさい、ホリーさん」
「おやすみなさい」
ホリーはグレイスのテントを出て、元のテントへ足を向けた。戻る途中、迷宮前に灯る松明に向かって頭を下げる。きっとあそこで、今も懸命に救助活動が続いている。
そっとテントに戻り、眠っているアンナを起こさないように横になると、アーニャが体をくっ付けて温めてくれた。
目を閉じると、あんなにグルグルしていた不安は和らいで、スゥッと自然に眠りへ落ちていった。
夜明けと共に、救助作戦が開始された。側には行けないので、グイドのテントからアンナと二人で外を覗き見る。
「すごい……戦が始まるみたい」
「そうですね……」
張り詰めた空気の中、隊員達は扉を囲むように大きな多盾を張り巡らせ、彼らの足元で猟犬達も臨戦態勢だ。
「ホリーさん、アンナさん、危ないですから、俺の後ろにいて下さい」
グイドは良く研いだ包丁を片手に、ホリー達の前に立ちはだかる。その隣にアーニャが立つと、急ごしらえだが正規の隊員のように見えた。
「クラウスさんとカティスさんの大事なお嬢さん達に怪我をさせては、面目が立ちません」
「あ、ありがとうございます」
こんな時に不謹慎かも知れないが、ナナがグイドを好きな理由が分かった気がした。口数も少なく、派手に格好良い訳でもない。
でも、ここぞという時に頼りになるのだ。アンナも同じように感じたのだろう。ちょっぴり頬が赤くなっている。
それにしても、扉を開いても直ぐには脅威とならないはずなのに、とホリーはこの臨戦態勢を不思議に思っていた。扉を開いて直ぐのエリアは、農地として利用している、かなり安全なエリアだからだ。
「厳重で、不思議ですか?」
「え、ええ。扉の向こうはまだ、農地ですよね?」
「……お二人はまだ、小さかったでしょうから、覚えていないかも知れませんが」
十二年前の大地震。その時、一人の隊長が迷宮の入り口で新米隊員を庇って亡くなった。
「今回のような大地震で、入り口付近の地面が崩れ、本来ならもっと下層にいるはずの巨大な獣が這い出て、襲いかかったからです」
亡くなった隊長の名は、ルチアーノ。救助隊には珍しく、魔法も駆使するカケス使いで、精力的に迷宮の探索を行っていた。
「ルチアーノ隊長は、ルーク教授の弟さんだと、聞きました」
ホリーは思わず、アンナと手を取り合った。だから、ルーク教授は厳しく門を守らせていたのだろう。
もう誰も、不慮の事故で失わないために。
その悲劇を繰り返さないために。
「……ちゃんと、謝らなくちゃ。あたし、ひどいこと言っちゃった……」
アンナは、ジワリと浮かんだ涙を必死で拭い、呟いていた。昨日出会ったばかりなのに、ホリーはすっかりアンナのお姉さんになったような気分で、そっと頭を撫でていた。
「一緒に行きましょうね。全部、終わったら」
「うん」
十人がかりで開く重い神樹製の扉が、ゆっくりと口を開こうとしていた。
