狼王の嫁⑦
第六章 彼女は、淡い光
(クラウスは、ルチアーノ隊長によく似ている……)
作戦を決行する時、突入部隊にクラウスを配置するのは正直不安だった。彼は自分の仲間を守る為に自らを投げ出す事を厭わない。
それは狼の習性でもある。ロルフもそうだった。彼の後ろに付いていた頃はもうヒヤヒヤし通しで……。
(私が、しっかりと導いてやらなければ)
オールに寄り添われて眠るクラウスの寝顔は、とても激闘を繰り広げた戦士には見えない、未だ幼い少年のもの。
(きっと、この子は今に狼王をも超える存在になる)
あの時、隊長も同じように感じてくれていたのだろうか。
庇われて生きながらえた、自分は相応しい道を歩んでいるだろうか。
もう悪夢で飛び起きる事は無くなったが、フェルナンドの心は大きく傷を負ったままだ。一生、この傷を背負って生きていく。生徒達を導き、二度と同じ悲劇を繰り返さない。
それだけが、自分にできる贖罪の道だ。
一つ息を付いて顔を上げると、肩に乗っていたクロがこちらを心配そうに見つめていた。
あの事故で相棒を失ったフェルナンドは、巣から落ちて育児放棄されてしまったこの子を放っておけず、拾い、育てた。今では頼もしい右腕だ。
『父様、大丈夫?』
「ああ、平気だよ。さて、寝坊助共を起こそうか。クロ、頼んだよ」
『はい! 任せて下さい!』
クロの調子っ外れの鳴き声に全員が否応なく叩き起こされる。オナガは可愛らしい外見に反して鳴き声がけたたましい上に、クロは鳥族にあるまじき音痴なのだ。
「おはよう。さて、直ぐに準備を整えて行こうか」
自分が生かされた意味を、フェルナンドは常に問い続ける。答えは目の前の子供達にあると信じて。
おそらく正面ゲートを開けて、皆が待っていてくれるだろう。フェルナンドの言葉に従って、クラウス達は入り口を目指して歩き始めた。
友を背負いながらも懸命に進むアルフ達が頼もしい。
先頭にはフォルク、カティス、アルフ達を挟んで最後尾にクラウスとフェルナンド。周囲を警戒しながらなので自然と歩みは遅いが……。
『おかしいな』
「どうした? オール」
オールはしきりに辺りを警戒して耳を立て、鼻を利かせては低く唸りを上げた。
『静か過ぎる。この辺りならもっと襲いかかってくるケモノがいる筈だ』
オールに言われて、クラウスは辺りの気配を伺う。全く生き物の気配が無い訳ではなく、何かを警戒して隠れている感じがする。
狼の群れがいるのならともかく、いくらオールが強くても一頭しかいない上に、無防備な人間が三人もいるのだ。普通に手頃な獲物である筈なのに……。
「……先生」
隣を歩くフェルナンドを見上げると、小さく頷いた。
「地震でかなり変動が起きたらしいね。この辺りの獣にとって脅威となるものが上層に移動した可能性が高い」
松明の元で見るせいか、フェルナンドの顔色が悪い。未熟な自分達のサポートをする為に、昨夜もあまり眠れていないだろう。
「様子を見にいっ……」
「俺が、偵察に行きます」
フォルクがフェルナンドの言葉に被せるように言った。
「夜明けとは言っても、まだ暗い。俺の出番ですよね、先生?」
「……そうだね、お願いするよ。カティス、来てくれ」
「はい。みんな、ここでしばらく待機していてくれ」
不安そうにしているアルフ達に声をかけ、カティスもすぐ側まで駆けてきた。
「……おそらく、もう一戦……困難な家路になりそうだ」
「はい。それなら、先ずは二人共これを」
カティスは昨晩の内に用意していたであろう、恐ろしく濃い緑色のゲル状の何かを差し出してきた。
「味はともかく。傷の治りが早くなる薬湯です。一滴残さず飲み干して下さい。特にクラウス! お前の怪我の手当てなんて、もうしたくないからな!」
「わ、分かった……」
薄情な事に、鼻の鋭いオールは闇の中に溶けて消えてしまうほど遠くに行ってしまった。
『クラウス。俺はあの小僧を護衛してこよう』
とって付けたような言い訳だが、仕方無い。クラウスも辛いくらいだから、オールにとっては鼻を直接殴られるくらいのダメージだろう。
フェルナンドと共に情けない顔を見せつつ、一緒に鼻を摘んで飲み干す。匂いで想像する味を遥かに超えた代物だった。
もう亡くなっている筈の母が自分を呼んでいる幻聴すら起こるほどの、あの世の入り口が見える味わいだった。
迷宮前の救助隊員達に緊張が走る。扉を開けていた隊員達が、「何か不審な音がする」と扉を開くのを中断したのだ。中の様子を知るのは難しいが……。
「カイルを呼べ」
「はい!」
ルーク教授の指示で、この国一番の猟師が扉の前まで呼び出された。
救助隊は基本的に、一般人に協力要請をすることはほとんどない。だが、山の捜索や野生の獣に関する知識において、猟師に勝るものはない。
緊急時には、猟師達と連携を取ることもあり、協力態勢を取っている。
カイルは特に耳が優れており、その耳はこの国中全ての国民の足音を聞き分け、音を聞いただけで親しい者ならその名を、知らぬ者でも大人、子供、どんな状態であるかまで詳しく分かると言う。扉を隔てて様子を知るには最適だ。
カイルは駆けつけるや否や、
「熊が近づいている。扉を開けてはダメです」
と告げた。隊員達が聞いた不審な音は、熊のものだったのだ。ルーク教授から中に残された者について説明を受けたカイルは扉に耳を付けると、
「扉のすぐ前では、熊が様子を伺って歩き回っています。三メートルはある熊です。大きいが動きは鈍くない。他の獣の音がほとんどしないのは、こいつを怖がっているからでしょう」
ふと、カイルは強く耳を大地に押し当てた。
「子供の足音が一つ。剣術使いでは無い……。おそらく、フォルクと言う子では無いでしょうか。熊に気付いたようです。奥に戻って行く……」
「すると、彼等は無事にここまで戻ってきているのだな」
「はい。少なくとも、フォルクらしき子は、怪我を負っていません。足音に不自然な様子はありませんでした」
「あれは仲間がやられて後ろに控えているような男では無い。フォルクが怪我をしていないというなら、おそらく全員無事だ」
ルーク教授はカイルに、
「済まないが、引き続き音を拾って欲しい。おそらく、フェルナンドが皆を率いて熊を倒そうとするだろう。我々はここから出来る限り援護する。そのタイミングを計りたいのだ。頼む」
「はい、分かりました」
ルーク教授は隊員を指揮して、扉を開くための人員を待機させる。警戒態勢の隊員の内、精鋭を選りすぐって突入部隊を編成。
万が一の時は危険を承知の上で扉を開け放ってフェルナンド達を救出する。又は、フェルナンド達の攻撃で戦意を失った熊の追撃を行う。
一度人里までの道を覚えてしまった凶暴な獣を返す訳にはいかないのだ。
そして、ルーク教授は扉に魔法を仕掛けた。自身は隊員達の先頭に立ち、いつでも援護できるよう、身構えた。
辺りは息づかいすら聞こえないほどに静まりかえり、パチ、パチ、と焚き火の中で薪がはぜる音だけが聞こえる。長い沈黙の末、
「来ました! フェルナンド隊長と、数名の子供達です」
「よし。ありがとう、カイル。直ぐに下がっていてくれ」
「はい!」
カイルは足元で大人しく待っていた猟犬に声をかけて、下がっていく。
コン、とルーク教授が扉を杖で軽く突く。扉を隔てた向こう側を最大限の力で援護する為に、彼は呪文を唱えた。
偵察に行ったフォルクを追いかけるように進んでいた一行だったが、途中で身を潜めていたフォルクが手信号で「静かに」と促して来たので従い、身近な岩に身を隠した。
慎重に合流したフォルクは闇の中を指差して、
「扉の前に、三メートルはある熊がいる。表でも気付いて扉を開けられなくなっているみたいだ」
「そんな……」
思わずアルフ達が絶望の声をあげるのも分かる。二メートル級の熊でも、倒す為には腕の良い猟師が二十人と、良く訓練し、統率の取れた猟犬八匹が必要だ。動けるもの総出でかかったとしても、圧倒的人手不足。
それでも。
「アレを扉の向こうに出す訳にはいかない」
フェルナンドのその言葉だけで、クラウスは覚悟を決めた。あの巨大な熊を、入り口を固めているとは言え、食い止められずに町に放出してしまったなら。
戦う術のない町の人々に、どれほどの被害が出る事か。
守るべき人々の為に、自分達は存在している。広く人々を守る存在でありながら、クラウスの心に真っ先に浮かんだのは、ホリーの笑顔だった。
こんな、命が危うい状況でホリーの笑顔だけが輝いて見えた。もう一度だけでも良いから、会いたいと願っていた。そして、理解した。
(俺は、ホリーが好きなんだ……)
それは、間違いの無い事実。彼女を守る為に戦おう。手勢は少なく、装備も不十分。それでも、中にいて大熊の背後を取っているクラウス達にしか、防ぐ手段は無い。
「ぼ、僕たちも、何か出来ますかっ!」
必死で言うアルフの両足は震えていた。それでも、懸命に全員武器を手に取っている。
「君たちは、友達を守っていてくれ。昨日の蝶の巣で学んだだろう?」
「……先生達が戦っている内に、獲物を狙うヤツが来る?」
「そうだ。あの熊を相手にするとなると、皆を守る余裕は無い。むしろ手が足りないくらいだ。……すまないね、こんな過酷な授業になってしまって」
するとアルフは頼もしい事に力一杯頷いた。
「僕たちは、皆をきっと守ってみせます!」
「頼んだよ」
フェルナンドに肩を優しく叩かれて、益々励みになったのか頬を真っ赤にしたアルフ達は、早速フェルナンド指示の元、身動き取れない友人達を安全な茂みに隠した。
周辺を相棒の猟犬達に警戒して貰い、各々身を潜めつついつでも戦えるように武器を構えた。
「背後の心配が無いのは心強いけれど、もって三十分程だろう。短期決戦だ」
「はい」
フェルナンドは手早く地面に布陣を描いた。
「一撃で仕留めるのが理想だが、あの大きさだ。おそらく普通の熊よりも脂肪が分厚い。大口径の銃でも攻撃が届かない。だから、できるだけ大熊の攻撃手段を奪って、隙を狙う」
熊の注意を引きつけつつ、弱点である鼻先や視界を奪うために目を狙って攻撃する。怯んで撤退するなら、追撃部隊を外から呼ぶが、撤退しない場合は四人だけでとどめを刺す。
最も有効なのは、フォルクが背負って来ていた大型の猟銃だ。
「好ましいのは熊が撤退してくれる事だが、多分無理だろう。人里は苦労しなくても直ぐに食べられる餌場みたいなものだ。一度味をしめたら、何度でも来る。私達四人で倒す心算でいてくれ」
「はい」
短い打ち合わせを終えると、クラウス達は各々配置に着く。懸念があるとすれば、視界が悪い事だ。
とどめを刺すフォルクは夜目が利くので問題無いが、暗がりだと視界の落ちるフェルナンドは不利。クラウスとカティスもある程度は問題無いが、やはり光源はもっと欲しい。
ジリジリと熊に気付かれないよう、音を立てないように注意しつつ接近していくと、熊がガリガリ掻いている神樹製の扉が淡く輝き始めた。
息を飲む四人の目の前で、扉がみるみる透明になっていく。扉の向こうに大勢の救助隊員が盾を並べて臨戦態勢だ。
「あれは……」
「ルーク教授の、透過魔法だ。ありがたい、表から可能な限り援護してくれる」
同時に足元から何か力が注がれているように感じられる。目に見えない温かい毛布にふんわり包まれたような心地よさ。
(これが、防護の魔法か……)
クラウスには魔法使いの才が無いので、知識だけになるが、魔法使いは一般的に自然界の様々な精霊から力を借りて魔力を生み出し、その力を用いて奇跡の技を成すものだ。
ルーク教授の精霊は大地の精霊。岩を迫り上げて大きな壁を作ったり、大地を媒介に見える範囲で魔法を『飛ばす』事が出来る。
通常、防護の魔法は対象者に接触しなければならない。だが、ルーク教授は大地を介せば、魔力の尽きぬ限り何人も同時に護る事が出来る。
透明な扉の向こう、杖を構えたルーク教授が戦の守り神のように頼もしい。
透明な扉に気を取られて、熊の注意は表に釘付けになっている。今がチャンスだ。
カティスと頷き合うと、剣を引き抜いて一気に距離を詰める。
二人が直ぐにも熊に斬りかかれる所まで接近すると同時にフェルナンドの弓が鋭く熊の膝裏に突き立った。
「グオオオオオ!」
鼓膜が破れそうな程の大音響で熊は身悶え、迫り来る敵としてクラウス達を振り返る。振り返る瞬間を狙って、カティスと同時に大地を蹴り、鼻先を狙い剣を突き立てる。
飛びかかるクラウス達をなぎ払おうとする両腕にはオールとカルロスが果敢に飛びかかって食い止めてくれる。
クラウスとカティスの剣が同時に熊の鼻先を突き刺すと、熊は更に大きく身悶えた。
振り回される腕にさすがに食いついていられなくなったオールとカルロスは空中で一回転して地面に降り立ち、無我夢中で振り回される腕をフェルナンドの援護を受けながら二人で打ちはらうが……。
「このままじゃ消耗戦だぞ!」
カティスの言う通り、明らかに体力で劣る自分たちが先に参ってしまう。
その時、一発の銃声が轟いたかと思うと、熊が大きく仰け反った。片目を手で抑え、呻いている。
あれだけ激しく動き回っていた熊の片目を、フォルクが正確に撃ち抜いたのだ。
「……やっぱり、あいつ凄いな」
「そうだな……」
その隙にクラウスとカティスは熊から少し距離を取る。見上げると、迷宮内の見張り台に立つフォルクが既に次弾を装填した後だった。すかさず、もう一撃。
今度も正確に、残った片目を撃ち抜く。視界を完全に奪われてしまった熊は、聴覚と嗅覚だけを頼りに、フォルクの立つ見張り台を睨んだ。
「まずい!」
直ぐにクラウスとカティスは、力一杯熊の足に剣を突き立てる。何とか弾を込める時間を稼がなければ、無防備なフォルクがやられてしまう。
「ウゴオオオオ!」
追い詰められて死に物狂いとなった熊の一撃を、二人はまともに食らって弾き飛ばされた。魔法のおかげで傷一つ無いが、壁に叩きつけられたせいで一瞬息が止まる。
『任せろ!』
直ぐには立ち上がれないクラウス達の代わりに、オールとカルロスが再度飛びかかって足に牙を立てた。
オールとカルロスをなぎ払おうとする腕には次々にフェルナンドの矢が突き刺さった。
「二人共! 立て! そこにいると押しつぶされる!」
カティスと二人で支え合うように立ち上がり、必死で熊から離れると同時に立ち上がった大熊の心臓をフォルクが貫いた。
「オ、ゴ……」
それでもなお、進もうとする大熊に、フォルクが撃ち抜いた所を正確にフェルナンドの矢が射抜いた。
強弓を受けて仰け反った熊は、そのまま、力を失って倒れる。
「やった、か……?」
心臓を貫かれても即絶命しなかった程の生命力だ。クラウスもカティスも、予備の剣を手に遠巻きに様子を見る。
もう、起き上がる事は無いようだ。
「あたたた……さすがに、肋骨にヒビが入ったみたいだ……」
カティスが脇腹辺りを抑えて顔をしかめる。外傷こそ免れたものの、クラウスも息を吸うだけで痛むので肋骨をやられたらしい。
「直ぐに救護班を呼ばなきゃね」
側まで駆け寄ってきたフェルナンドが、クラウスとカティスの頭を撫でてくれた。
「良くやってくれたよ。ありがとう」
「いえ、フォルクが……」
「俺は、あんたらの援護で得意なことをしただけさ。よくもまあ、その程度で済んだよな。頑丈だな~、猟犬使いは」
「……鳥使いは目の良さが取り柄らしいな。動く的にも対応出来るとは、知らなかった」
何処と無く馬鹿にされたような気がして、クラウスはフォルクに礼も言わずに皮肉を返してしまった。
「言うねぇ、優等生だけでもねぇか。ま、そっちの方が分かりやすくて良いや。アンタ、いつも正義感面してて気に食わねえけど、剣の腕だけは良いんじゃねぇの?」
「お褒めに預かり、光栄だ」
売り言葉に買い言葉の応酬をしている内に、入り口が開かれて、ほんの一日離れただけなのに久しぶりに地上に戻った気分になる。
透明な扉を隔てぬ、弱々しくとも温かい光。太陽の元に居られる事は、こんなにも和やかに温かい。
直ぐに救護班が飛んできてクラウスとカティス、それに、まだ仮死状態の毒にやられた少年達を連れて行く。担架に担ぎ上げられると、
「クラウス様!」
いる筈のない、ホリーの声が聞こえた。同時に、カティスの担架に少女が飛びつく。
「カティス! だいじょうぶ、怪我したの? どうしよう、死んじゃったら、うわーん!」
「ち、ちょっと、アンナ、落ち着いて……イタタ……飛びつくなって! 骨にヒビだけ! 死なないよ、これくらいじゃ」
「だって、だって、あんなに強くぶつかったら死んじゃうよぉ! うわーん、どうしよう、カティスぅー!」
「だいじょうぶだってば! ほら、鼻水まで垂らすなよみっともない……仕方ないなぁ、いつまでも子供なんだから」
どうやら、噂の幼馴染のアンナだ。何時も何時もカティスの後ろをちょこちょこ付いてきて、妹みたいで可愛いと言っていた。それにしても、そんな一般人のしかも少女が迷宮の側にいられる筈が無いのだが。
「クラウスさま!」
また、ホリーの声が聞こえた。
クラウスは疲れが限界で耳がおかしくなったのかと思ったが、担架の端にホリーの手がかけられて、本当にホリーが目の前にいた。
「ホリー? どうしてこんな所に……」
居るのか、と聞きたかったが、彼女の大きな瞳にジワリと涙が浮かんで、何も聞けなくなる。
初めて泣き顔を見た時のような苦しそうな様子は無かったが、クラウスはホリーに泣かれるのは辛い。息が止まりそうになる。
「心配で……」
それだけ言って、ポロポロ泣き始めてしまった。本気でどうすれば良いか分からない。
「あ、いや、だいじょうぶだ。その、ヒビが入ったくらいで……」
「……」
これでは足りないのだ。泣いているホリーに、何をしたら笑ってくれるのだろう。
「クラウス、この子は中に入る為に教授を睨み倒したんだぞ?」
「え!」
見かねたように救護班の若い隊員が口を挟むと、ホリーは顔を真っ赤にして言い返していた。
「ち、ちがいます! そんな、恐れ多い! わ、私は、中に入りたいとお願いしただけです!」
「それから、俺達に美味い飯を用意してくれた。良い子だなぁ。何か言う事があるだろ」
「……」
クラウスは担架に置かれたホリーの手に、自分の手を重ねた。小さくて温かい、ホリーの手。帰って来たのだと、深く実感する。
「ありがとう、ホリー。手当が終わったら、一緒に帰ろう」
「はい! お待ちしております!」
やっと、笑ってくれた。
たったそれだけで、あの不運の連続としか言いようのない昨日からの一日全てが報われた気がした。
クラウスは、ホリーが好きだという気持ちを静かに胸に秘めた。職務に忠実、真面目で一生懸命なホリーに、今伝えても困らせるだけ。
時が経つのを待とう。幾らでも待てる。ホリーの笑顔を害する者は、例え自分自身であっても許せない。
治療に付いて来ようとするホリーを何とか思い留まらせ、クラウスは怪我の治療を終えた。
長い一日を終えてようやく戻ったクラウスと共にホリーは家に帰った。
「クラウス様、お怪我は本当に大丈夫ですか? もう、痛くありませんか?」
「大丈夫だ。大した怪我では無いから、直ぐに治る」
「無理なさらないで下さいね、お荷物は私が持ちますから!」
ホリーは心配で仕方無く、クラウスの荷物を一生懸命奪い取ろうとするのだが、彼はそれを許してくれない。
片手なのにヒョイとホリーの手を止めてしまう。
「こんな重たいもの、ホリーに持たせる訳にはいかない」
「重たい物を怪我人が持ってはいけません!」
家に戻る道すがら、ずっとこんな調子なのだ。
結局、一つも荷物を持つことは叶わずに家に着いてしまう。家の前でロルフが出迎えてくれるのを嬉しく思うと同時に、ホリーは主人であるロルフに何も伝えずに一晩家を空けてしまった事実に今更気付いて真っ青になる。
「ろ、ロルフさま……」
「ああ、ありがとうホリー。ルークの使いから話を聞いているよ。よくやってくれた」
「は、へ? は、はい!」
何と、ルーク教授はホリーの事も、おそらくアンナの事も責任持って伝令してくれていたのだ。
(私ったら、本当に……考えが足らないわ……)
そして、周りの人々の気配りで支えられてようやく立っているようなものだ。
「クラウス」
「帰りが遅くなり、申し訳ありませんでした」
「そんなことは良い」
ロルフは謝るクラウスをがっしりと包み込んだ。
「よく戻った。疲れただろう、ゆっくり休みなさい。ホリー、しっかりと世話を頼むよ。怪我が完治するまでは、クラウスが優先だ」
「そんな、父上……」
慌てて止めようとするクラウスの頭を、ロルフは軽く小突いた。
「馬鹿者。馬鹿者め」
そのまま、クシャクシャになるまでクラウスの頭を撫で回して、一人で家に戻って行ってしまった。
(ロルフ様……泣いておられた?)
まさかね、とホリーはロルフの目に浮かんだ僅かな光は、朝日の反射だと自分に言い聞かせた。
「クラウス様、早くお部屋で温まりましょう。お身体に障ります」
「あ、ああ」
クラウスに続いて家に戻る。ホリーはすっかり、ここが自分の家であると馴染んでいる事に気付いた。
家に入っただけでもホッとする。
「直ぐにお部屋を温めます。先に失礼いたしますね!」
パタパタとクラウスを追い越して台所まで行くと、アーニャが付いてきてくれた。
「アーニャ様、火を使いますから離れていて下さいね。アーニャ様もお疲れでしょう。ロルフ様の所でお休みになられては?」
「フン……」
アーニャは鼻を鳴らして、火の側からは離れたが、ホリーを見守っていてくれた。
ホリーはお湯を沸かすと、大きめの湯たんぽに注いで柔らかな布で包み、熱すぎないか自分の頬っぺたに当てて確認してみた。
(うん、大丈夫)
直ぐにクラウスの部屋に向かうと、ベッドで休む間際だったので、慌てて手を貸した。
「クラウス様、私に寄りかかって下さい」
「いや、大丈夫だ……」
「いけません! 肋骨が折れているとお医者さまから伺っております。少しの負担もいけません。大丈夫です、私は力持ちなんです!」
横になるクラウスの背中に手を回して、体の負担にならないようにそっと横たえる。
いつもロルフにしているクセで、クラウスの額に手を触れて熱を計るが、熱は上がっていないようだ。
「ゆっくりお休み下さい。湯たんぽをお持ちしました」
「ああ、ありがとう……」
やはり疲れていたのだろう。クラウスは湯たんぽで足元を温めてやると、早くもウトウトしている。
「お休みなさいませ」
ホリーはそっと部屋から出て、早速昼食作りに取りかかる。
今日はロルフもクラウスも療養が必要だ。消化に良くて体が温まり、じんわり元気になれるもの。
(ジャガイモリーキスープにしましょう!)
クラウスの大好きなジャガイモを野菜出汁のスープで煮て潰して、牛乳で伸ばす。噛む必要がなく、スルスルと喉ごしも滑らかだから、療養中にはピッタリのスープだ。
メニューを考えながら、ホリーが床下の扉を開こうとすると、アーニャが器用に前足でグイと開けてくれた。
「まあ、アーニャ様。ありがとうございます」
「フン」
どうも、いつも家事をしているところを見て覚えて、手伝ってくれるようだ。「フン」と顔を反らしていても、ホリーにはアーニャの優しさが伝わってくる。
「スープを作って、それから……」
カスタードプティングを作ろう。ホリーの失敗から生まれた、特製ソースを使って。
ホリーは大鍋でジャガイモを茹でながら、小さな片手鍋に砂糖とほんの少しの水を入れる。
「た、たっぷり、入れるわよ……」
砂糖は滋養やエネルギー補給に良いので、多めにストックしているのだが、庶民の感覚だと貴重でお高い調味料をドバッと加える、この瞬間に罪悪感を覚える。
遠目に火を当てて絶えず回していると、茶色く焦げ始める。
「クゥン……」
心配そうにアーニャが鼻を鳴らした。
「ふふ、大丈夫ですよ。これは、焦がして作る物なのです」
「キュン?」
アーニャの鋭い鼻には、もう焦げ焦げの匂いらしい。火事になっては大変だと、ソワソワホリーの後ろを行ったり来たりしている。
「アーニャ様、もうちょっと離れていて下さい。はね飛んだら熱いですよ」
そろそろとアーニャが離れる気配を感じつつ、ホリーは焦げ茶色になった所でお湯を少し足した。途端にバチバチ大きな音がしたので、アーニャがちょっと飛び跳ねたようだ。
「よーし、出来た!」
焦げ茶色のソースを器の底に移して、ホリーは鍋に牛乳を注いで置いて……アーニャを振り返った。
「あの、アーニャ様。私、美味しいおこぼれを頂戴いたしますが、内緒ですよ?」
「クゥン?」
ソースを作った鍋で牛乳を温める。鍋にこびりついたソースが綺麗に溶け出し、ほろ苦い風味を得た『美味しいおこぼれ』を、ホリーはカップに注いだ。
それを後の楽しみに、そっと片隅に置いておく。続いて、ホリーはカスタードプディング作りに取りかかった。プディングを蒸し始める頃には、茹でたジャガイモがちょうど良い柔らかさになっているだろう。
手際良く調理を進め、ホリーはいつもの日常が戻った喜びを噛みしめていた。
(この匂い……)
いつもの、匂い。母が朝から張り切ってパンを焼こうとすると、必ずこの匂いがする。
「ははうえ、こげてます!」
「え? あら? やだ、また?」
慌てて立ち上がった母・アイシャからは、いつも森の中にいるような爽やかな香りがする。
「あ~あ……。今日こそは、と思ったのに」
石窯から取り出されるのは、焦げ焦げのパン。黒パンでは無い。本当なら、こんがり狐色の美味しそうな仕上がりになるはずのものだった。
「なんだ? いつもの黒パンか、アイシャ」
「もう! 意地悪ね、ロルフ! どうせ黒パンよ、食べるところもないわよ!」
素直に八つ当たりするアイシャを、ロルフは笑って宥めて、
「そんなに拗ねるな。俺の女神は、竃の女神が嫉妬する程美しいのだから、仕方無い」
「もう……」
息子が見ていてもお構い無しで、ロルフがアイシャにキスをすると、怒っていたアイシャも大人しくなる。
両親を他所に、クラウスは懸命にパンの表面をガリガリ削った。きれいに削れたので、母に見せてあげた。
「だいじょうぶです、ははうえ。こげたところを取れば食べられます。見て下さい、きれいにとれました!」
上手に削って黒いところを落とせば、中身は美味しそうなパンだ。
「それにぼく、ははうえのパン好きです。おいしいです」
にこにこクラウスが良い子に笑うと、突然アイシャの指が柔らかな頬っぺたをつまみ上げた。
「ひゃひゃふえ? いひゃいれふ」
「おかしいわねぇ。あたしとロルフの子よね、クラウス?」
「ふぁい? もひろんれす」
「どうしてこんなに良い子になったのかしら? 変ねぇ……」
「クラウスは、私の兄に似たのだろう。全く堅物で真面目な兄上だったからな」
「良かったわぁ、素敵なお兄様がいて」
「……どういう意味だ、アイシャ」
首を捻りつつ、アイシャはクラウスの頬っぺたを離すと、優しくさすってキスしてくれた。
「ごめんなさいね、何だか夢みたいで……大好きよ、クラウス。私の愛しい子」
毎日楽しくて、幸せで、クラウスが可愛くて仕方無い、と。母の腕に抱かれると、森に包まれているように気持ちが良くて……。
『クラウス様』
遠くで、誰かの声がする。
ゆっくり目を開くと間近にホリーの顔があって、クラウスは一気に目が覚めた。
「あ、申し訳ありません。お休みのところ、起こしてしまいまして……」
「いや、いい。俺はどの位……」
「ああ、いけません、そのままで……」
少し起き上がろうとすると、ホリーは冷たいタオルで顔の汗を拭ってくれた。とても気持ちが良い。
「お食事をお持ち致しました。お腹の具合はいかがでしょう。食べられそうですか?」
「ああ……」
クラウスの言葉を待たず、腹が音を立てて返事をしてしまう。
「まあ、良かった。クラウス様のお好きなジャガイモで作ったスープですよ」
ホリーがベッドの側に椅子を引き寄せて座ると、フンワリ良い香りがした。母の香りに似ている。爽やかな森の香り。
半身を起こして、背中にクッションを挟んで貰い、さあ食べようと思ったがホリーは器もスプーンも渡してくれなかった。
その代わり、ひと匙すくったスープをフウフウと可愛らしく口を窄めて冷まして……。
「さあ、召し上がって下さい」
「い、いや、自分で食べられる、から……」
「いけません。お忘れですか? 腕を怪我されて、あまり動かしてはいけないと注意されてます」
「そんな、に厳重だっただろうか?」
このくらいのケガなら、ちゃんと正しく処置されているので大丈夫。まあ、あまり無理しないように、と言われただけなのだが。
「さあ、召し上がって下さい」
「う、あ、ああ……」
責任感の強いホリーの、この使命に燃える真っ直ぐな目に勝てる訳が無い。
むしろ、好きだと自覚したばかりの女の子から、こうして貰えるのはとんでもない幸運では無いだろうか。
(いや、何という不純なことを! 俺はこんなヤツだったのか、俺からホリーを守る為にはどうしたら……)
いつも通り、ホリーの食事は美味しい。美味しい筈だ。味など、もうさっぱり分からない。
だが、ホリーがいつも作ってくれるスープと異なり、具が入っていないと思ったら、スープがジャガイモそのものだ。いつもはもっと、ゴロゴロと大きめの具が入っていて食べ応えがあるのだが。
(そうか、ホリーは俺の体を案じてくれているのだ)
具合が悪い時、いくら食欲があっても固い物や大きな物を噛むのは骨が折れる。
それに、体が具合の悪い所を庇おう、守ろうとするので胃腸の働きが弱まる、と父を診てくれているジル先生から聞いたことがある。
「ホリー」
「はい?」
「……ありがとう」
一瞬、キョトンと目を瞬かせたホリーだったが、直ぐにふんわり頬を染めて笑った。
「とんでもございません。私は、メイドでございますもの」
真冬に咲いた小さな花のように眩しく可愛らしい様子に胸を温めながら、クラウスはそっと聞いてみた。
「……父上にもいつも、このように給仕をするのだろうか」
「いいえ。始めはそうしようと致しましたが……」
父は片腕を失い、体が芯から弱っていた。最近は随分調子が良いようだが、急に片腕を失ったなら、不便な事ばかりだろう。
「怠けていると、コイツが言うことを聞かなくなる、と仰せでした」
と、ホリーは父の口調を真似て左腕を逞しそうに構えて見せた。父が同じ事を成せばさぞや様になったであろう。
「そうか」
「あの、何か……」
「いや。いつも父の世話を任せきりで済まないな」
「いえ、とんでもありません!」
適当にごまかしてしまった。そう、これはただの……ヤキモチだ。
スープとパンを食べ終わると、ホリーは「もう少しお腹にゆとりはございますか?」と聞いてきた。
少々物足りないくらいだったので素直に頷くと、
「では、おやつも召し上がって下さい。カスタードプティングです」
ホリーが恭しくお皿に掲げたのは、ふるふる震える黄色いプティング。その上から、見たことのない茶色いソースがかかっていた。
貴族が食すると聞く、チョコレートと言う高級菓子と色が似ていたが、ホリーがそんな高い買い物をする筈が無く……。
それに、そのソースからは香ばしい香りがした。
「さあ、召し上がって下さい。卵と牛乳を使ったプティングですから、滋養にも良いのです」
「ああ……」
不思議に思いつつ、ホリーが差し出すひと匙を口に含むと、香ばしいほろ苦い甘さが広がる。プティングは柔らかくほどけて、ほろ苦いソースと絡まると一層甘さが際立って美味しい。
「うまい」
「良かったです! お気に召しましたら、また作りますね!」
「うん」
思わず、幼い返事をしてあっという間に食べ尽くしてしまう。もう終わってしまった。もっと食べたいが、ホリーは器を片付けてしまっている。
体調が良くなったら、もっと大きな器で作って貰おう。
ホリーは食事の世話の後、薬を飲む所まで甲斐甲斐しく世話をやいてくれ、再度横になる前に大きな桶にお湯を入れて運んできた。
「お体を拭きますね」
「いや、だ、だいじょうぶ、だから……」
「いけません。何度も申し上げましたが、安静第一でございます」
クラウスの芽生えたばかりの恋心を鷲掴みにして引きずり回す勢いで、ホリーに迫られては、クラウスは力無く頷くしか無かった。
柔らかな布をきちんと絞って熱すぎないか確かめて、
「失礼致します」
丁寧に声をかけてから、ホリーの小さな手がクラウスの肩に添えられた。手の届きにくい背中から優しく布で撫でられるとくすぐったくてかなわない。
クラウスは、熱による体の火照りとは異なる体の熱さをやり過ごす為に努めて頭が冷える事を考えていた。
進級間近の今、期末試験が控えている。筆記実技どちらも基準を超えなければ振るい落とされてしまう。
(今年は、より厳しくなるだろうな……)
それに、今回の授業中の遭難によって、下級生から退所者が増えるかも知れない。本人が望まなくとも、大切な息子を預けている親の方が反対する場合もある。
実際に、カティスは両親から何度かアカデミーへの転向を勧められたらしい。彼の頭脳ならば、アカデミーでもトップクラスで卒業し、首都の官僚も限りなく現実に近い。
だが、カティスは何度も両親を説き伏せた。彼には彼の、望む道があるのだ。それでも、アカデミーで学ぶ事には興味があるらしく、時折ルーク教授と二人で話している事がある。
「そう言えば、お昼に持って行って頂いたサンドイッチはお役に立ちましたでしょうか」
「あ、ああ……」
必死で意識を反らしていたのに、簡単に連れ戻されてしまった。何時もより、ホリーの香りが直ぐ側にあって、落ち着かないどころか走って逃げ出したいくらいだ。
柔らかで温かい手で触れられ、とても心地良い。それこそアーニャが進んで父に撫でられ、喜ぶ気持ちが分かる。
大好きな人の手は、とても心地良いのだ。心地良いのに、居心地は悪い。
「あのサンドイッチは……」
実は、クラウスは一つしか食べられなかった。
食べている最中に地震が起こり、手荷物をまとめて、携帯食代わりに大切に荷物に入れて持って行ったのだが……。
「野営している時に、アルフ達にあげてしまった。腹を空かせていたものだから」
「まあ、お役に立てて幸いでございます。それでしたら、明日のお昼はサンドイッチに致しましょうか? 食べやすいですし」
「ああ」
気を紛らわせる為にも、クラウスはことさら、ホリーのサンドイッチをアルフ達が喜んで食べていた事を話した。
身動きも取れない危険な場所に落ちてしまって、緊張と恐怖でカチコチだったアルフ達だったが、クラウス達に保護されて安全な場所まで落ち着くと途端に切ない空腹の大合唱。
フォルクが携帯食で温かいスープを作っていたが、待ちきれない様子を放っておけず、ホリーのサンドイッチを差し出した所、一瞬で空っぽになってしまったのだ。
「喜んで頂けて、良かったです」
「ああ、とても喜んでいた」
クラウスが迷宮の中で立ち往生している間、夜を徹して救出作業を進めてくれていた救助隊員の為に、ホリーは美味しい食事を作ってくれていたのだ。
その事を、クラウスは手当をしてくれた隊員から聞いた。
「あの」ルーク教授と睨み合って一歩も引かず、ついには根負けした教授が折れ、ホリーを中に入れてくれた事。
それは全て、クラウスの無事を確認する為だった事。
作ってくれた野菜がたくさん入ったパンケーキはとても美味しくて、携帯食にウンザリしていた隊員達の士気をたちまち高めてくれた事。
そして、ホリーの可憐な佇まいと、反する度胸の良さまで持ち合わせた『理想の花嫁又は息子の嫁』に、隊員達は色めきだった事。
その気だったら急がないと危ないぞ、とも忠告してくれた。
『俺だって独身だったら狙うぞ』とも。
ホリーが褒められて嬉しいが、反面彼女の一番良いところが如何なく発揮されていまうとライバルが無尽蔵に増えることも判明してしまった。
今のところは、自分の家の下働きである為、父が高い障壁となって彼らの前に立ちはだかってくれるが、何時までもそれが通用するとは思えない。
「クラウス様、失礼致します」
背中を丹念に拭いてくれたホリーが、クルリと前に回って来て、体の正面も拭いてくれようとするものだから堪らない。
「ほ、ホリー、そっちは良いから……」
「ですが……」
「そう、あれだ、動かせるところは動かしていないと体が鈍るから……」
「そうですか? 痛くて無理なようでしたら、直ぐに仰って下さいね?」
「ああ、だいじょうぶだもんだいないしんぱいない」
必死で早口で答えると、ホリーも渋々納得してくれたようでホッとする。
真正面に好きな子が無防備な状態でいて、何もせずにいられるほど、クラウスは子供では無いし、自制出来る程大人でも無いのだ。
クラウスの葛藤など気付かずに、ホリーは手早くお皿などをまとめて持つと、
「それでは、頃合いに盥を片付けに参りますね。くれぐれも無理は……」
「大丈夫だ。分かってるよ」
ニッコリ笑って、ホリーは部屋から出て行った。
途端に、安堵と少しの寂しさでため息が出る。
(なんだこれは、迷宮探索の方がマシだぞ)
比べるものでは無いが、目的と次にどうすべきか分かる方がよっぽど良い。頭の中がホリーで一杯になり、側にいて欲しいのに居たら居たでソワソワと落ち着かない。
自分がどうしたいのかも分からず、何とも言えず、もどかしい。
クラウスはゴシゴシと体を拭いて布を盥に戻し、片手で髪をかき乱してから、布団の中に潜り込んで、さっさと寝る事にした。
そう、体はクタクタだ。目を閉じると、静かに眠りの中に落ちていった。
直ぐに治ると言った通り、一週間程休んで怪我を癒したクラウスが早朝から剣を振っているのを見かけたホリーは慌てて止めに入った。
「いくら治っていても、急に体に負担をかけては……」
「ジッとし過ぎて体が鈍ってしまう。これくらい、鍛錬のうちにも入らないから大丈夫だ」
などと押し切られてしまい、クラウスは日課の素振りを楽々とこなしてしまった。
駄目と言うなら、お医者様から言って貰った方が良いだろう。そう思って、朝からロルフの診察に来ていたジル先生の所にお茶の支度を整えて運びつつ相談すると、
「ああ、それなら問題ありませんよ。むしろ、クラウスさんの言う通り、積極的に動いた方が良いでしょう」
「そういうものなのですか?」
「ええ。療養後は無理のない範囲で動いた方が良いのです。体が、動く事を忘れて、歩くのもやっとになってしまったりしますから。まあ、クラウスさんの「少し」とホリーさんの「少し」が釣り合っていないだけです」
つまり、ホリーが心配し過ぎと言う事だろう。クラウスの限界とホリーの限界は体力的にも段違い過ぎて基準が分からないのだ。
「ホリーさん、宜しければホリーさんの得意な事でクラウスさんの体が早く治る応援をしませんか?」
「え、で、でも、私は先生のように、お薬を調合したりは出来ませんが……」
ニコニコとジル先生はいつも通り穏やかな顔で笑った。
「隣の火の国には、『医食同源』という言葉があります」
「いしょく……」
「食べる事は医術と同じという事です。毎日食べるもので体が作られるのですからね。ほら、ホリーさんも料理にハーブを使ったりするでしょう?」
「はい」
ハーブには薬草になるものも含まれている。野菜も、肉も、調味料も、全て薬になるものもあるのだ。
「もちろん、薬と同じで、食べ方次第で毒にも変わってしまいます。ともかく、クラウスさんの場合これから必要な栄養をきちんととる事で、怪我の治り方が変わりますよ。宜しければ、こちらを……」
ジル先生は分厚い本をホリーに手渡して、
「クラウスさんの体に良さそうな所に栞を挟んでおきました。参考になさって下さい」
「まあ、こんな貴重なもの……お借りして宜しいのですか?」
「もちろん。ホリーさんに差し上げます」
「ええ? で、でも、貴重な本を……」
それも、医術の専門書ともなれば相当、高価な代物だ。大切な本を気軽に頂くわけにはいかない。ホリーが慌てていると、ジル先生は穏やかに微笑んだ。
「ああ、大丈夫です。私は本の内容を全て覚えてますし、それは写本なんですよ。私の拙い字で申し訳無いのですが」
「そんな、とっても綺麗な字です! 読み易いです!」
「ああ良かった。それなら、気軽に貰って下さい。きっと役に立ちますよ」
写本と言うからには、ジル先生が手ずから全て書き写したのだろう。ホリーの手の半分くらいの厚みがある。大変な分量だ。
「こ、これ、全部覚えているんですか?」
「ええ。頭に入って無いと、直ぐに活用出来ませんから」
「全部……」
こんなとんでもない量、とても覚えきれない。やはり薬師というのは命を預かる仕事なのだから、これだけでなく沢山の知識が必要とされるのだろう。
「ホリーさんだって、レシピも見ずに沢山の料理が作れるでしょう? きっとホリーさんの覚えていることも、本にすれば同じくらい分厚いですよ」
「そうでしょうか……私はほとんど習って覚えただけで……」
「ええ、仕事とはそういうものですね。覚えた事を頭に書き溜めて、本を作っていくようなものです。習った事を思い出して自分一人で出来るようにするために」
でも、同じ仕事を覚えても、本の厚みには差が出る。
「ホリーさんは、分厚い本をお持ちですね。私はそういう若者を、応援したくなるのです。ですので、これは私からの応援の気持ちです」
「でも……」
本当に受け取って良いものかとホリーが遠慮していると、間に入ったミーナが優しく言ってくれた。
「受け取って下さい、ホリーさん。先生ったら、『ホリーさんに差し上げたいから』と、家中の本をひっくり返して選んでいたんですよ」
「ミーナさん、それは内緒ですよ」
「まあ、口が滑りました」
わざと口を滑らせた、ジル先生の助手であるミーナは、やはりニコニコとホリーが返そうとする本を押し返した。
「いつも美味しいお茶をいれて頂いて、先生はとても感謝しきれないと。受け取って下さい」
本当は、とても読んでみたい。それでも、メイドの分際で生意気では無いか、分をわきまえない振る舞いでは無いかとためらう気持ちでロルフを見ると、一つ頷いてくれた。
「ありがたく頂きなさい、ホリー」
「は、はい、ロルフ様。ありがとうございます、先生。大切に致します」
ぎゅっと宝物のように本を胸に抱くと、ジル先生は嬉しそうに頷いてくれた。
「実は私は猫舌でして、ホリーさんが気を利かせてくれるので、本当に助かっていますよ」
「え、でも、それは……」
ホリーはチラリとミーナを盗み見た。ホリーは何時も熱々の紅茶を出していたが、ミーナがコッソリと教えてくれたのだ。
ジル先生は猫舌で、少しぬるくなった紅茶をゆっくり飲むのが好きだと。ミーナは、ジル先生に頼まれたのでは無いらしい。
正直に答えようとするホリーの視線に応えて、ミーナは唇に人差し指を当てて「しぃ」と声に出さずに伝えてきた。
「あ、あの、よ、良かったです、喜んで頂いて……」
「はい。何時も美味しい紅茶をありがとうございます」
改めてお礼を言われてホリーは照れ笑いを浮かべるしか無かった。
「町の様子はどうだ、ジル」
「幸いにも怪我人はほとんどおりませんでしたよ。まあ、ウチの隣の腕白坊主が転んで膝小僧を擦りむいたくらいですかね。地震の被害も軽いようです」
「それは良かった。お前ほどの名医をウチに引き止めるのは申し訳無いからな」
「心配しなくとも、私は優先順位を守りますよ」
「ハハハ、違いない」
ロルフと語らいながら、薬を調合してくれたジル先生は、やはりいつものようにホリーに薬を飲む順番を説明しようとしてくれた。
「父上、先生、診察中に失礼致します」
「クラウス様?」
なんと、クラウスはいつも通りの身支度を整えて訓練所に向かうのが当たり前の様な顔で立っていた。隣にオールも控えている。
「やはり人手が足りないようで、出来る範囲で手伝って欲しいと鳥便が届きました。直ぐに行って参ります」
「まあ、クラウス様……まだ休まれていた方が……」
「いや、ホリー。これ以上休んでいたら根が生えてしまう。大丈夫、無理はしないから」
「でも……」
オロオロとホリーが止めようとするのを、ロルフは笑って諌めた。
「大丈夫だ、ホリー。クラウスは今までずっと我慢して休んでいたのだから、察してやりなさい。本当にダメなら、ジルが怒って止めるとも」
「何ですか、人聞きの悪い。良いですか、クラウスさん。あちらではグレイス先生が止めに入ったら、即作業中止です。宜しいですね?」
「はい、先生。では父上、行って参ります」
クラウスは視線で、「父を優先してくれて良い」と伝えてくる。それは、あの日と同じ。
見送り出来ず、地震によって一時的に離れ離れになって……。
ホリーはジル先生の説明に全く身が入らず、直ぐに頭を下げた。
「ジル先生、申し訳ありません。私、クラウス様のお見送りをして参りますので……」
「ええ、大丈夫です。私のことでしたら、お構いなく」
「すみません、直ぐに戻りますから!」
パタパタとホリーは駆けていき、遠慮するクラウスを追いかけて、毎朝恒例のお見送りをした。
「行ってらっしゃいませ!」
「……行ってくる。今日は、早く戻れると思う」
「はい! お帰りをお待ちしております。今日は新しいジャガイモのメニューを支度致します!」
「ああ。楽しみにしている」
「はい!」
一生懸命手を振るホリーの背中を見守っていたジルは、ミーナにいれてもらったお茶を飲みながら呟いた。
「いいですねぇ」
答えるミーナも、思わず笑顔が溢れる。
「はい、先生。いいですねぇ」
「ミーナさん、お茶のお代わりを下さい」
「はい」
和やかに、二人は微笑みあった。
『おい、クラウス』
「ん? オール、何かあったか?」
道行く人々と挨拶を交わしながら、クラウスはオールに視線を落とした。
何故か、ひんやりと冷静な眼差しを送ってくる。
『気付いたか?』
「なにを?」
『……ホリーの様子が変わった』
「そうか?」
言われてクラウスも考えこんだが、相変わらず可愛らしい事以外何も思いつかなかった。
(さっきは、嬉しかったな……)
ジル先生をお待たせしてしまうのは申し訳なかったが、クラウスを追いかけて来てくれて、クラウスの姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
顔がにやけてしまいそうで、必死で整える。朝からホリーの姿を反芻しただけで一人で笑うなど、はたから見たらただの怪しい人だ。
すると、オールは大きなため息をついてゆっくり首を振った。
「何だ?」
『何でもない。お前が大人になるのはまだ先だと思っただけだ、小僧』
「もう、大人だよ。来年、成人の儀式がある」
『年を重ねれば、誰とて成人の時を迎える。だが、お前はまだまだ子供だ。まだ、子守が必要だな』
「子守って……」
スタスタ先に行ってしまうオールを慌てて追いかける。
白銀の雪に包まれる土の国の、穏やかで短い春はまだ始まったばかり。国家の象徴とも呼べる誇り高く、若き狼使いは未だ幼い少年であった。

