狼王の嫁⑧
第七章 紅蓮の魔導師
短い春は駆け足で駆け抜けてしまう。
ホリーは春の間にやるべき事が山ほどあった。今も保存食としてオールが仕留めて来てくれた鹿肉を干しつつ、お昼の支度と夕飯の為にポトフを仕込んで煮込んでいる。
今日もホリーの側に居てくれるアーニャは、出会った頃より大人に近い見た目に成長している。狼は大人になるのが早いのだ。
そのまま成長を続ければ、アーニャはたちまちホリーを置いて黄泉の国に旅立ってしまうが、この国の動物達は不思議なことに人と同じ位寿命が長い。
その事をホリーは今まで不思議だな、と思うだけだったが、今はアーニャと共にずっと過ごして行けるのだと思うと嬉しくて堪らない。
素直では無いけれど、照れ屋で優しくて、頼もしい妹のように感じていた。主人の娘のような目上の狼には恐れ多い事だが。
大人に近付いていても、相変わらず大きな目が愛くるしい。
「いけませんよ、アーニャ様。おヒゲが焦げちゃいますよ」
「クゥン……」
良い香りがするのか、アーニャが大鍋に顔を近付けていたので、優しく嗜めると、耳をペタンコにして引き下がった。
「ほら、焦げちゃった……待ってて下さいね」
ちょっとだけクルクルになってしまったヒゲの先端を優しく払い落とす。その間、アーニャは大人しく座っていてくれた。
「はい、これで大丈夫です。もうお鍋に近付いちゃダメですよ?」
「フン……」
ツンと顔を背けて、アーニャはいつもの場所に座る。何時も石床の上に座っているので、ホリーは貰った布で大きめのクッションを作って置き、アーニャが寒く無いように計らった。
今ではすっかりお気に入りのようで、眠る時にも咥えて運び、ロルフの側に敷いて眠っているらしい。何時も夜遅くに持って行って、朝早くにさっさと元に戻してしまう為、ホリーは実際に見た事が無い。
笑いを堪えながらロルフが教えてくれたので、アーニャがいない時を見計らってクッションの穴を補修しつつ、大切に使って貰っている。
「これから、ロルフ様のお好きなカボチャでおやつを作りますよ」
ホリーは勿論、アーニャの言う事など分からないが、アーニャはこちらの言葉を理解している。料理をする時にも、これから何を作るか話しながら作るのがクセになっていた。
アーニャが賛成するように尻尾を振ってくれたので、ホリーも笑ってカボチャをまな板に乗せて、ナイフで割ろうと試みる。
「よいしょ……」
カボチャの収穫は夏頃。でも、夏にカボチャは出回らない。カボチャは少し保管しておいた方が甘くて美味しくなるからだ。
ホリーが格闘しているのは、越冬してギリギリまで保管した最高に美味しい状態のカボチャだ。だが、ただでさえ鎧のように硬い皮が置いておくと更に硬くなってしまう。
半分にするだけでも一苦労なのだ。カボチャがグラグラする度にアーニャが身を乗り出すのが分かる。怪我をしないか、心配してくれているようだ。
「ふう……美味しそうなカボチャだけど、かったいわねぇ……」
ナイフが刺さったままで手を休めると、ポンと後ろから肩を叩かれた。
「ろ、ロルフ様!」
「これこれ、怪我をしたらどうする。どれ、半分にしたら切りやすくなるか」
ひょい、と固く食い込んでいたナイフを簡単に取っただけでも驚いたのに、軽々とカボチャを真っ二つにしてしまった。
「え」
「もう半分に切っておくか。今日はどんなおやつを作ってくれるのかな?」
ニコニコしたままで、更に半分に切ってくれた。
「えええ? ど、どうやったのですか、今の……」
「ふふふ……」
「お、教えて下さいませ! 私にも出来ますか?」
綺麗に切り分けられたカボチャは切り口も真っ直ぐで美しい。こんな技は母だって教えてくれなかった。「カボチャを丸ごと煮てから切った方が早いかしらね」と言っていたくらいだ。
是非ともこの妙技を習得したくて、ホリーが期待を込めてロルフを見上げると、意地悪そうな笑みとぶつかった。
「うむ、どうしようか」
「お、教えてくださらなきゃ、カボチャ抜きですよ! 一週間!」
「む、それは困る」
我ながら子供っぽい上に効果が薄そうな脅しだと思ったのだが、ロルフには効果覿面だった。
「まあ、カボチャを良く見なさい」
「はい!」
「どうだ?」
「美味しそうです!」
思わず即答してしまう。ついでに唾もわいてしまう。ナナお姉さんお勧めの、最高の越冬カボチャ。緑色の皮の部分が所々中身と同じ黄金色に染まって、きっと実にホクホクで、甘くて、美味しいだろう。
ホリーの回答にロルフは「ぶう!」と盛大に吹き出して愉快そうに大笑いした。
「もう! ちゃんと教えて下さいな!」
「すまんすまん、こんなに素直で可愛い教え子は初めてでな。……ホラ、よーく見てごらん」
ロルフの指差す所を見ても、カボチャはカボチャだ。
「ここだよ、ホリー。ほら」
言われた所を一生懸命見ている内に……。
(んん?)
細かい皮の模様まで綺麗に見えるようになった。こうして見ると、とても複雑な模様を描いている。
じっくりカボチャの皮を見るのは初めてかも知れない。いつもは下ごしらえの段階で丁寧に剥き取ってしまうだけだ。
「どうだ?」
「あの、ここが……切れやすそう?」
模様を追っていくと、模様に隙間がある。何だか、そこにナイフを当てれば良い気がした。
「そうだ。ホリーは剣士の素質もあるのだな。さ、切ってみなさい」
ポンと渡されたのは、ホリーが使っていたのよりも小さな……一番小さな果物ナイフだった。華奢な作りで手に収まりやすく、小さな果実の皮剥きには適しているが、カボチャを割るには……。
不安そのものの顔でロルフを見上げるが、ニコニコ笑っているだけ。笑顔に励まされつつ、ホリーはおそるおそるここかな、と思う所にナイフを当ててみた。
「わあ!」
ビックリするくらい、スルリと刃が通る。そのまま、ストンと切り分ける事が出来てしまった。一番大きなナイフを丁寧に砥いでもやっと皮の半分に食い込むだけだったのに。
「す、すごいです!」
「見事。飲み込みの早い教え子だな」
大きな手で頭を撫でられると思わず顔が真っ赤になってしまう。
「おや、立派に実ったリンゴだな」
「か、からかわないで下さい!」
「ハハハ、すまん、すまん」
怒った素振りを見せつつも、ホリーは内心とても嬉しかった。この家に来て一ヶ月程になるが、家に来たばかりの頃は青白く生気の無い顔色だったロルフが、日を追う毎に元気になっている気がするからだ。
このところ、ベッドで過ごす時間は短くなり、日当たりの良い庭に面した部屋に椅子を置き、難しそうな本を読んでいたり、アーニャと遊んでやったりする事が増えていた。
それでも、油断は禁物とジル先生からも言われているので、ホリーは「もう休んでいて下さい」と、ロルフの背中を押して寝室へ追いやった。
「今日のカボチャは何になるのかな?」
「……内緒です!」
アーニャのようにツンと顔を反らして、ホリーはロルフがベッドに入るのを確認すると、台所に戻った。
(もう! ロルフ様は時々意地悪です!)
ちょっとだけ腹を立てつつも、調理の手は手際良く動く、
ホリーはカボチャの種とワタを丁寧に取り除いて皮を剥いた。実からくり抜いた種はワタを綺麗に洗い流して、日当たりの良い所に干しておく。
固い殻をむいて中身を軽く炒ると香ばしくて美味しいおやつになるのだ。
「あ、お帰りなさい!」
種を干していると、クラウスがオールと共に帰って来るのが見えて、ホリーは力一杯手を振った。気付いたクラウスが応えて手を振ってくれる。
身軽に家まで駆け上ってくる。怪我はもうすっかり良くなったようで、ホリーは胸を撫で下ろす。
「今日は早かったですね。おやつに間に合いました」
「ああ。春だからな。相棒達の出産続きで……」
春は恋のシーズン、春の終わりは出産のシーズンだ。相棒の嫁、または相棒が出産するなどで、救助隊の教官達は出払ってしまう事がある。
今日は、その出産が重なり過ぎて教官が不足してしまい、授業が全て明日に繰り越されてしまったのだとか。
「まあ、大変……」
春の終わりは、町中でやんちゃな子犬やヒナ鳥を連れて歩く者が増える。この町の住人の密かな楽しみでもあるのだ。
子犬やヒナ鳥では相棒としての働きにはもちろん足りないが、素質のあるものは早い内から人の中で暮らす事に慣れさせ、隊員や親から教えを受ける。
大切な教育の一環だが、それはさておき子犬やヒナ鳥の可愛さは誰もが知る所だ。
「じゃあ、もう直ぐ子犬ちゃん達に会えますね!」
「ああ。ホリーは犬も好きか?」
「はい! とっても可愛いですもの!」
すると、クラウスの足元からジッと見つめるオールの視線を感じたので慌てて、
「もちろん、一番好きなのは狼ですよ、オール様!」
と、両拳を固めた。
「今日も父上の好きなカボチャで何か作っているのか?」
「はい! 今日はカボチャのプティングです!」
「プティング……カボチャでも作れるのか」
療養していた時に食べたカスタードプティングが大好物になってしまったクラウスは、時々ホリーにお願いしていくようになった。
ロルフに知られるのは恥ずかしいのか、コッソリと「明日のおやつをプティングにしてくれ」と告げて、そそくさと出かける。
もちろん、オールから筒抜けだろうが、要望に応えて出すプティングの器は、クラウスの分だけ少しだけ大きくしている。それに気付いて、クラウスは笑ってくれる。
「カスタードプティングに近い、甘いおやつにしてみようと思います。でも、まだこれから作る所なので……先にハーブティーをお持ちしますね」
「ああ、ホリーの作るものはなんでも美味い。楽しみだ」
クラウスは自覚なくホリーを喜ばせる褒め言葉を使うので、何時も不意打ちで驚いてしまう。また、顔がリンゴみたいになっているに違いなく、ホリーは慌てて顔を伏せた。
「これは、何をしているんだ?」
「あ、ええと、カボチャの種を干して……」
説明していると、オールがスタスタと裏口に向かって行き、戻って来るとなんと一匹の狼を連れていた。
「まあ……なんて綺麗な狼さん……」
思わずホリーが歓声を上げてしまう程、美しい狼だった。柔らかな灰色の毛並みはツヤツヤと輝いて、透き通る様な青い瞳が宝石のように美しい。何処かで見たような、大きな瞳が印象的だ。
ホリーの足元に居たアーニャも駆け寄って、お互いに何か語り合っているように見えた。
「も、もしかして、オール様の……」
「ああ、オールの嫁だ。アーニャの母上だよ」
とても良く似ている。アーニャが美狼なのも、母親譲りだ。
「まあ、は、初めまして……」
綺麗な母狼は、顔を上げてそっとホリーに頭を下げてくれた。その動きも優雅で美しくて、人で表すのなら、とても高貴な貴婦人のようだった。ホリーは思わず見惚れてしまう。
(さすが、オール様の奥様! なんて綺麗で素敵な狼……)
クラウスも手馴れた様子で彼女の側に座り、首筋を撫でて挨拶している。
オールが第二の父であるなら、彼女はクラウスにとって母親代わりのような存在なのだろう。愛おしそうにクラウスの顔を舐めて、何か伝えているようだ。
「大丈夫だ、ちゃんと食べてる……怪我も治った、心配ない、もうそんなに子供じゃない……」
どうやら、日々の食事の心配、体の心配だ。やはりクラウスを自分の子供のように大切に思ってくれているのだろう。
「ん? お腹に赤子がいるのか?」
「え? アーニャ様のご兄弟が生まれるのですか?」
「ああ、赤子を産むなら、家の方が安全だからな。アーニャの時もここで産んだんだ。ホリー、寝床を用意してやってくれないか」
「は、はい!」
慌てて家に戻ったホリーは、手頃な木箱に柔らかな布を詰めて簡易のベッドを作った。すると、アーニャが自分のクッションを咥えて運んできて、ホリーが支度している木箱に詰めてしまった。
「アーニャ様のお気に入りなのに……」
戸惑っていると、母狼を案内してきたクラウスが、
「自分の匂いが付いているから、母が安心して出産出来ると言っている。また新しいのを作ってやってくれ」
アーニャの思いを伝えてくれて、ホリーは安心して頷いた。
「分かりました! アーニャ様は優しくて素敵なお姉様になりますね!」
「フン!」
照れくさそうに、アーニャはお得意のポーズだ。オールにも寄り添われて家に入って来た母狼は、ホリーの作った簡易ベッドの匂いをしばらく嗅いで、安心したように中に入ってくれた。
「良かった……私、精一杯お世話させて頂きますね!」
「クゥン……」
宜しく、と言われた気がして、ホリーは張り切って腕まくりした。
「何かあったら、直ぐに言いつけて下さいね!」
「……ホリーは狼の言葉は分からないだろう」
「ぐ……そ、それはほら、勘と! アーニャ様のフォローで何とかなります!」
「大事な出産だから、俺がフォローする」
「え!」
思わず固まってしまうと、クラウスは僅かに顔をしかめた。
「何か、困るか?」
「い、いえ、そんな、ことは……」
もごもごと言葉を濁していると、クラウスは呆れたように小さくため息をついてロルフの部屋に向かって行ってしまった。
「いたっ」
アーニャがホリーの足を踏んづけている。クラウスに失礼な態度を取った事を怒っているのだろう。
「す、すみませんアーニャ様……。でも、私……」
クラウスといると落ち着かないのだ。
クラウスから、おやつや夕飯に食べたいものを言って貰ったり褒められると、胸がギュウッとなる程嬉しいのに、落ち着かない。
ロルフと一緒にいる時とは違う。ロルフといると安心できて、つい主従の関係も忘れて父親のように甘えたくなる。
でも、クラウスといると……。
普段は大丈夫なのに、二人きりになったり、それを意識すると急に落ち着かなくて……。
(胸が苦しくて、何だかとっても緊張してしまって……)
時には普通に話す事すら難しい事がある。俯くホリーは、自分の中に芽生えつつある気持ちの正体に気付いていなかった。
オールの嫁が子供を産みに来た事を伝えると、父は手放しで喜んだ。
「なんだ、先に教えてくれよオール。クラウス、ホリーをよく手助けして元気な子が生まれるように頼むぞ」
「はい……」
「どうした?」
「え」
何でもないと首を振る前に、父は何とも言えない生温い笑顔を浮かべた。最近、父はよくクラウスにこの顔を向けてくる気がする。
「いや待て、当てようか。ホリーと何かあったか」
クラウスは顔が爆発するのでは無いかと思う程一気に熱くなるのを感じた。
「当たりだ。オール、見てたんだろ? 教えてくれよ」
止める事も出来ず、オールはスラスラと先程の一部始終を父に話してしまった。
「なるほど、まだまだだなぁ、お前も」
「な、何がですか」
「女心がさっぱり分かってない。そんな事ではホリーを捕まえられないぞ。しっかりしなさい」
「あ、え? いえ、どうしてそうなるので……」
必死で誤魔化そうにも無駄なようだ。父はいよいよ楽しそうに笑いながらどっしりと腕を組んだ。
「馬鹿者。何年お前の父親をやっていると思ってる。お前が惚れそうな女など、直ぐにわかる」
『うむ。ホリーと会った時から発情していただろう。全くモタモタと……。ヒトは面倒だな、ロルフ。俺は嫁に惚れたその場で求婚したぞ』
「は、はつっ……」
二人の父から良いように突かれて、返す言葉も無い。最も、返した所でロルフのあの何とも言えない生温い笑いを増長するだけだ。
この際だと腹を括ったクラウスは、本音で話す事にした。
「……ホリーは、父上の前では素直にとても、その、可愛らしい顔で笑っていますが……」
クラウスの前で、あんなに可愛い顔で笑ってくれたことは無い。それに、先程のように急に緊張してさり気なく距離を取ってくる。
何か気に触る事をしてしまった覚えも無いし、ともかく父ほど好かれてはいないのだろうと思うと落ち込んでしまう。
「自分の前では笑ってくれなくて寂しいか」
「はい……」
「はぁぁぁ。馬鹿だなぁ、お前は。オール、お前からも言ってやれ」
父から、こんなに叱責を受けた事など無い。大概は、「良くやった」「素晴らしいぞ、クラウス」と褒めて貰う事の方が多い。
まさか色恋絡みで、こんなに呆れられるとは。
『男は強さが全てだ。お前は十分強い。女は勝手に付いてくるだろう』
「……お前ね。それは人だとかなり最低な発言だから、気を付けなさい」
『何故だ? 男とは強く、狩りが上手ければ良いのだ』
「ウン、お前は強く賢いからな。あ、嫁の側にいてやりなさい。そろそろ腹を空かせているのではないかな?」
『うむ、あいつの好きな鹿を仕留めて来よう』
有能だが、残念ながら空気の読めないオールを体良く部屋から追い払った父は、改めてクラウスと向き合った。
「人とは難しいな、クラウス。私も母さん……アイシャを口説くのには苦労した」
「そうなのですか?」
何事もソツなくこなし、あらゆる世代の人から絶大な信頼を一瞬で勝ち取る父が、未熟な自分と同じように躓くなど信じられない。
「私たちは、狼の心ならば手に取るように分かるが、人の心は全く読めない。まあ、そこが人と人との面白みだが……」
今のお前はホリーの考えている事を知りたいだろう、と父の問いかけは優しかった。クラウスも虚勢を張らず、素直に頷く事が出来た。
「まあ確かめてみなさい。ホリーと話して、心の内を聞いてみるしかあるまい」
それは最も難しい。自分の事をどう思っているかなどと聞いたら、自分の気持ちは筒抜けではないか。
「クラウス。グズグズしていたら、ホリーは私が貰うぞ」
「え?」
父はまるで戦地に立つような威圧感を纏った。気圧されて、思わず一歩下がってしまう。
「あんなに素直で可愛らしい子は私も初めてだ。狼が好きで、狼に好かれるのも良い。どんな形でも良い、私はホリーと家族になりたいのだ。お前が捕まえてくれないのなら、私が本気で捕まえるしかあるまい」
男として到底敵うはずの無い父に、クラウスは必死で一歩踏み込んだ。ホリーへの気持ちは簡単に折れる程軽いものでは無い。
例え、狼王が相手でも。
「それは駄目です!」
「ほう? ホリーは私を好いているようだと勘ぐって自信を無くしているではないか。相手の気持ちを確かめる勇気も無い腰抜けの分際で、生意気だな」
「例え父上でも、ホリーだけは絶対に譲れません!」
「フン、どうせ可愛い下働きの子に軽くちょっかいをかけたいだけだろう? 何をムキになっている」
父らしからぬ、からかう声色に、クラウスは思わずムキになって言い返した。
「俺はホリーが好きなんです!」
思わず本音をぶちまけてしまうと、背後で陶器の触れ合う音がした。振り返るとハーブティーを支度してきたらしいホリーが、リンゴのように顔を真っ赤にしてプルプル震えていた。
「あ、あの、お、お、おちゃを、おも、おももおもちしま……」
「ホリー……」
「きゃあああ! すみません、すみません、何も聞いてません、失礼します!」
信じられない程俊敏に、お盆を廊下に置いて、ホリーはバタバタ走って行ってしまった。
「父上……」
「あー。すまん。全然気付かないものだから、うん。そんなことではいかんぞ、クラウス。いやいや、すまな……ぶっ……」
ホリーとは違う意味でブルブル震えていた父は堪えきれずに大笑い。煮ても焼いても食えない父に、二人揃って遊ばれてしまったのだ。
「息子で遊ぶのは大概になさって下さい! アーニャ、来い!」
走って行ってしまったホリーを追いかけようか、ソワソワ迷っていたアーニャを呼ぶと、躊躇わず付いて来てくれた。
脇目も振らずに町へ飛び出して行くホリーを追いかける。昼間であっても、安全とは限らないのだ。
広大な地下迷宮側のこの町は、迷宮を中心に栄えている。謎の迷宮には他国では取れない貴重な植物、鉱物があり、それらは時に目が飛び出るほどの高値で取引される。
その上、未知の領域を開拓して地図を描いた者には国が報奨金を出すとあって、日々流れ者、冒険者で賑わっている。
彼らの食い扶持、常宿だけでも相当の数に上り、それを生業とする者と合わせて、公主が治める首都よりも栄えていると言って過言ではない。
反面、治安はすこぶる悪い。迷宮探索にやって来る冒険者は、中には国の密命を受けてやって来る折り目正しい者もいるが、大半は一攫千金狙いの……有体に言えば札付きだ。
品位など持ち合わせていないし、特に女性に対する振る舞いは最悪。被害にあった女性が亡くなった事例もあり、この町を守る警備班は見回りを細かく隅々まで目を光らせている。
この町で女性の一人歩きが例え昼間でも危険であると、救助隊員を志すクラウスが一番良く知っている。
遅れを取ったとは言え、鍛錬を積んでいるクラウスをグングン引き離すほど、ホリーの足は強く早い。
あまりの早さに見失ってしまい、クラウスは焦りを隠せなかった。
「アーニャ、頼む! ホリーを追ってくれ!」
『任せなさい!』
アーニャが鋭い鼻を利かせて、ホリーの跡を辿り始めた。その後ろにクラウスも続く。
(何事も無ければ良いが……)
残念ながら、クラウスの予感は悪い方に的中してしまうのだった。
(どうしよう……)
ホリーは脇目も振らずに走り、最悪な事に性質の悪そうな冒険者とぶつかってしまった。
「あー、いたたぁ、腕が折れたぁ~」
「大丈夫か、相棒! このアマァ、何しやがる!」
「も、申し訳ありません……」
普段買い物に出る時は必ずアーニャが一緒だったし、一人で出歩く時にも必ず警備班の巡回時間に合わせて用心していたのに、今は最悪のタイミングだ。
しかも腕に覚えが存分にありそうな大男二人に取り囲まれたホリーの姿は、周りの目に映らない方へ……路地の奥に誘導されそうになっている。
周囲の人はとばっちりを恐れて目も合わせてくれない。何とかして自力で逃げ出すか、助けを呼びたいけれど、謝っただけで怖くて震えが止まらない。
「あ~、ちょっとちょっと。俺たちそんなに怖くないよ~?」
「そうそう、腕のお詫びにアンタがちょっと俺たちと一緒に来てくれるだけで良いからさぁ」
肩を掴まれただけで得体の知れない虫が取り付いたようにゾッとする。
「い、や……」
「お~、怯えてるのも、これはこれで可愛いか」
「さー、行こう行こう」
必死で振り払いたくてもビクともしない。怯えて縮こまっていると、急に掴まれていた肩が軽くなって男達が視界から消えた。
「え?」
「ホリーちゃん、こっちこっち!」
「あ、ナナさん!」
ホッとして涙が滲んでしまう。手招きしてくれるナナの元へ必死で駆けて行くと、頼もしく包み込んで背中で庇ってくれた。
そして、視界から消えた男達は……空中に浮かんでいた。
「さぁて、どうしようかしら。このまま、月まで旅行する?」
「ひぃいいいい!」
ホリーに向かって歩み寄りながら、背の高い女性が人差し指を軽く上に動かしただけで、強面の大男二人は風に乗る綿毛のように軽々と天高く舞い上がっていった。
「それとも、このまま落としてぺしゃんこが良いかしら?」
「ギャアアアア!」
聞いた事は無いけれど、カラスの断末魔のような声を上げて男達は急降下。周囲から悲鳴が上がり、ホリーの両目はナナの手で塞がれた。
手で塞がれてもなお、固く目を閉じていると、
「やめとけよ、魔導師サマ。アンタが手を下す相手じゃねぇだろ」
周囲の悲鳴を物ともしない冷静な声が止めに入った。
そろ、とホリーは目を開いてナナの手にすがりつつ見てみると、地面スレスレでピタッと止まった男達は地面の上で放心している。
「なによ。こんなゴミ、少し片付けた方が世の中の為だわ」
「よせっての。死体は片付けるのが大変だろうが。頼むから大人しくしててくれよなぁ」
背の高い女性の側に歩み寄ったのは、肩に梟を乗せている男の人だ。
「あ、フォルクちゃん! こっちこっち! ありがとねぇ!」
ナナが、ちゃん付けで男の人を呼ぶものだから、緊張の糸が一気に解けた人々が笑い転げた。
「ちょ、やめろっての! それは止めろって言ってんだろぉが!」
梟を連れたフォルクと呼ばれた男の人は、クラウスやホリーと同じくらいだろう。顔を真っ赤にして周囲から冷やかしを受けている。
「なにさ。何時もウチの野菜を安く分けてあげてるでしょ!」
「あ~、ハイハイ、すみませんでした!」
「それにしてもアンタ、いつの間にラアナ様とお知り合いになったの、凄いわねぇ! あー、あたし初めてこんなに近くで見ちゃったわ、凄い美人ねぇ! それにさっきのが魔法ってヤツなの? あらやだ、こっちに来るわよ、ホリーちゃん!」
今日も絶好調のナナは、誰にも口を挟む隙を与えずにペラペラと喋りまくる。その合間を縫うように、
「だーから、今日はあの魔導師サマの護衛を押し付けられて、俺は暇じゃないって言ってんのに、何も聞かないでアンタ飛んで戻って行っちまうから仕方なく追いかけて……って、少しは俺の話を聞けよ……」
どうやらナナは、いつもの調子で自分の言いたい事だけ言ってフォルクの返事も聞かずに戻って来たのだろう。察するに、ナナはホリーの危機を救う為に助けを求め、走り回ってくれたのだ。
ホリーは嬉しくて、優しく肩を包んでくれるナナの手をそっと包み込んだ。
そんなフォルクとナナの騒ぎも聞こえていないのか、ラアナと呼ばれた魔導師は真っ直ぐにホリーに向かって歩いてきた。
まるでそれが当然のように、人々は圧倒されてラアナの前に道を作る。
(ラアナ様って……)
隣国・火の国出身の世界で五人しか認定されていない、魔導師。紅蓮の魔導師の二つ名を聞いた者は、どんな強者でも震え上がるという。
未だ小部族の争いが続く火の国で、彼女は戦を勝利に導く為に一瞬で辺り一面を火の海にして見せたとか。
戦が終結すると、単身国を流れて今はこの、土の国で公主に請われて迷宮の研究をしている、と聞いた事がある。
その姿は詩人が言葉を失う程に美しいとも。
土の国では見慣れない艶やかな褐色の肌、豊かな黒髪に月の雫のように煌めく瞳、柔らかく結ばれた唇からは天上の調べのように美しい声が響いた。
「大丈夫?」
「……」
美しい人は、声まで綺麗なのだな、とホリーは返事も忘れて聞き惚れてしまう。
「具合が悪いの?」
「……い、いえ! あ、ありがとうございます!」
「良いのよ」
微笑むと更に美しさが際立つ。ホリーはもう何も言えず、ラアナの纏う花のように優しく甘い香りにうっとりしてしまう。
こんなに美しい人が、自分と同じ種族だなんて信じられない。そうだ、きっと彼女は神様が丹念に育てた可憐な花の化身で、だから花の香りがするのだと思った。
夢心地の中で、ぐうぅ、と誰かの腹の虫が鳴いた。
ホリーは思わず自分のお腹を押さえてしまったが、違う。
お腹を押さえて小首を傾げたラアナの腹の虫だったのだ。お腹が空くのなら、少なくとも花の化身では無い。何だか急に親近感が沸いてきた。
「あら。やだ、お腹空いたわ、護衛さん」
「アンタなぁ! さっきまでいた店でアレコレ注文した挙句、一口も食わないで出てきただろうが! 何だったらお気に召すんだよ!」
「そ、それでしたら、私にお礼をさせてください!」
ラアナの人間離れした美しさに圧倒されてしまったホリーだったが、お腹を空かせている恩人を放っておけない。
「まあ。気にしなくて良いのよ?」
「いいえ、このままラアナ様に何のお礼も出来なければ、ロルフ様からも叱られてしまいます! ですから……」
「……じゃあ、ご馳走になろうかしら」
「やめとけ。コイツすげぇ偏食で手に負えないぞ」
フォルクの忠告が気に入らなかったのか、ラアナはゾッとする程美しく笑って……笑っているのに怒っている事は明らかに雰囲気で分かる……ホリーの隣に立った。
「私はこの子の所でお世話になるわ。貴方は、帰ったら?」
「護衛なんで、一応付いて行きますよ。ゴミ片付けてくるんで、待ってて貰えますかね」
「何なら、私が消し炭にしましょうか。とても軽くなるわよ」
棚の埃を落とすついでに本の整理をしようか、くらいの調子で言っているが、ラアナの提案は大変な事だ。
ラアナの掌に、紅蓮の炎が揺れる。
「よせ! 生きたままで良いです!」
「あら、そう。運んだ先で元に戻せるのに。じゃあ、きちんと片付けて頂戴ね、護衛さん」
「へいへい」
フォルクは放心している男達を蹴り上げて立たせると、手際よく縛り上げている。側にいたおじさんに頼んで警備班を呼んで貰っているようだ。
「今後、二度とあの子に手出しするなよ。ま、今直ぐ後悔すると思うけどな」
「は……?」
ほんの少し生気を取り戻したゴロツキ二人が顔を上げ、フォルクが指差す先を見ると臨戦態勢のアーニャとクラウスが全速力で走ってきた。
「クラウス様……アーニャ様……」
「ホリー、大丈夫か!」
「は、はい、助けて頂いたので……」
クラウスの大きな手が、ホリーの肩を優しく包んでくれる。
「良かった……」
「クラウスさま……」
ナナに助けて貰った時もホッとして涙が滲んでしまったけれど、クラウスに肩を包まれてアーニャが足元に擦り寄ってくれて、安心しきってポロポロ泣いてしまった。
励ますように肩をさすってくれるクラウスの手は、とても優しい。もっと、触れていて欲しかった。
「……さて。貴方達が私の家族を害したのですか?」
優しいクラウスの声が豹変した。急に冷たく、鋭くなって……驚いている内に、クラウスの背中に庇われている。
とても大きくて広い背中にホリーは思わずしがみ付きたくなってしまったが、辛うじて服の裾を掴むだけに留まる。
クラウスの足元ではアーニャが今にも飛びかからんばかりに背中の毛を逆立てて威嚇の唸りを上げている。
「アーニャ、覚えたな?」
「ガウ!」
「私の相棒は、何処までも獲物を追い詰めて喰らいつく事に長けている。今後の行動には責任を持って頂きたい。生きて帰りたい場所があるのなら」
まだ正規の隊員でも無い、成人前でまだ十四歳のクラウスに、男達は心底震え上がって細かく何度も頷いていた。
「フォルク、知らせてくれて助かった」
「礼ぐらい素直に言えよ。ま、優等生サマは俺みたいなのに頭下げるのは気にくわないだろうが」
「そんな、ことは……」
どうやら、クラウスはフォルクが苦手なようだ。ホリーは急いで二人の間に割って入った。
「あ、あの、クラウス様! 先程、ラアナ様とフォルク様に助けて頂いたお礼をしたいのです。そ、それで、お二人を家にご招待したいのですが、駄目、でしょうか……」
「いや。駄目な訳がない。父上もそうしろと仰るだろう」
「良かった! ラアナ様、それにナナさんもいらっしゃいませんか?」
急に指名を受けて驚いたのか、ナナはちょっとだけ飛び上がった。どうやらクラウスの迫力に飲まれて縮こまっていたようだ。
「あ、あたし? あたしはいいわよ、ホリーちゃん。また、ホリーちゃんが元気にお買い物に来てくれれば、それで十分!」
「ナナさん……」
ありがとうございます、と改めてお礼を言うと、ナナは優しくホリーを抱きしめてくれた。
「良かったわよー、ホントに! ホリーちゃんみたいな良い子が大変な事にならなくて!」
「ありがとうございます……」
「ああ、ホラ泣かないの! ホリーちゃんは笑ってる時が一番可愛いんだから!」
「はい!」
ナナに涙を拭って貰っていると、直ぐに警備班の隊員達が駆け付けてくれた。その後ろから、包丁を持ったままの、ナナの想い人であるグイドも血相を変えて走ってきた。
どうやら、危険な目に合っているのがナナだと勘違いして飛んできたらしい。
いつも通り、グイドの前では大人しくしおらしくなったナナは嬉しそうに頬を染めていた。ホリーは幸せな事の顛末を後で聞かせて貰おうと、そっとナナから離れた。
ずっとホリーを励ますように擦り寄ってくれるアーニャと視線を合わせて座りこむと、大きな瞳が「大丈夫?」と問いかけてくるようだった。
アーニャはいつだって、優しくて頼もしい。
「ありがとうございます、アーニャ様。とっても格好良かったです。それに、いつも守って頂いて、ありがとうございます」
「クゥン……」
いつもなら照れ隠しに強がるのに、アーニャは座っているホリーの頬をペロリと舐めた。
「アーニャ様?」
「頭を撫でて欲しいそうだ。そうしてやってくれ」
「え? い、良いのですか?」
アーニャの頭を撫でられるのは、ロルフだけだ。クラウスにだって強がって撫でさせないのに。
戸惑うホリーの目とアーニャの見上げてくる目が合うと、あまりの可愛らしさに胸が締め付けられてしまい、ホリーは誘惑に勝てず、そっとアーニャの頬っぺた辺りから撫でてみた。
(ふ、ふかふか……気持ち良いし、な、なんてかわいい……)
気持ち良さそうに、アーニャは大人しく目を閉じている。ホリーはずっとこうしていたいという誘惑に抗えなかった。
「それと、もう様は付けるなと言っている」
「え、で、でも……」
アーニャはロルフが娘のように可愛がっている大切な子だ。主人の娘なのだから、当然目上の狼なのだ。とても呼び捨てになど出来ない。
「ホリーは私の友達。だから、様なんていらない、と」
「アーニャさ……あ、アーニャ!」
「クゥン……」
言葉は分からなくとも、アーニャの優しい気持ちが伝わってくる。ふかふかの首筋に抱きつくと、スリスリとすり寄ってくれた。こんなに可愛い友達は初めてだ。
怖かった事も全部吹っ飛んでしまう。
「あ、あの、クラウス様……ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……」
きちんと目を見てお礼を言いたいのに、ホリーはどうしてもクラウスを見上げることが出来ず、汚れた靴の爪先にお礼を言ってしまっている。
(こんなになるまで、一生懸命探して下さったのだわ……)
家に帰ったら、丁寧に手入れをして差し上げたい。
「いや、無事だったのなら、それで良い」
クラウスは優しく声をかけてくれるのに、ホリーは深々と頭を下げる事しか出来なかった。家族と呼んで貰えて嬉しかったけれど、ホリーが思わず家を飛び出したのは……。
クラウスが、ホリーの事を好きだと言っていたから。ここまでハッキリ言われて、何も分からない程ホリーは鈍くない。
(でも、それはいけないわ。だってクラウス様は……。お仕えしている家の主人なのだもの。それに……)
俯くホリーに、アーニャが優しく寄り添ってくれる。温かさにまた、涙が滲みそうだ。
「帰ろう、ホリー」
「はい……」
先に立って歩き出すクラウスの背中を、ホリーは慌てて追いかけた。ホリーは、あの家が大好きだ。いつまでもお仕えしていたい。
その為には、色恋は厳禁。例えお仕えする家の男達が甘く誘惑してきても、それは一時的な気の迷いだから相手にしてはいけない。そう、母も言っていた。
そんな事で舞い上がって大切な勤め先をしくじれば、その先の一生を棒に振る事になると。その話を聞いた時、ホリーは恋など経験も無い、まだまだほんの小娘だった。
だから、その時は簡単だと思った。
母から習う事が楽しくて、毎日覚える事もやる事も沢山あって、恋などしている暇も、心の隙間も無かった。
(でも、母さん……私が、お仕えするご主人様のことを好きになってしまった時は……どうすれば良いの?)
気の迷いだと捨てる事も、目を背ける事も出来ないほど。先に歩いて行くクラウスの背中に、今にも抱きついてしまいたいほど。
(どうしよう……私、クラウス様のこと、好きになってしまったわ……)
恩人のラアナと会話を弾ませながら、目はずっとクラウスの背中を追ってしまう。
振り向かない背中に、振り向いて欲しいけれど、本当に振り向いてしまったらどうすれば良いか分からない。
憂いを帯びた溜息は、薄闇に包まれ始めた夕焼けの中に消えていった。
クラウスへの想いに悩みながら、ホリーはふと、大変な事に気付いてしまった。
ホリーの隣でニコニコと人懐こい笑顔を浮かべている恩人のラアナは魔導師なのだ。世界でも五人しか認定されていない最上級の魔法使いで、どこに行っても国賓として扱われる。
当然、国の主に招かれる事など常識で、もちろん、最高級の食材を更に厳選して選び抜かれた至高の食材を使った宮廷料理でもてなされるのが普通だ。
(どうしよう、私、ポトフしか作ってない!)
宮廷料理なども到底無理だ。ラアナ程の偉人をもてなす準備は欠片も出来ていない。お腹を空かせていたので、つい勢いで招待してしまった。
ホリーの頭の中は爆発寸前まで回転し始めた。
家に着いたら、即座にご馳走の準備の為に駆け回らなくては。むしろ今直ぐ戻って、準備を進めるべきだろうか、と必死で自分の得意な料理を頭の中で並べて出来るだけ高級感のあるもので献立を組み立てる。
あまりにも急だったので、頭の中では小さなホリーがたくさん駆け回っている。
一人は料理のレシピを広げて「どうしよう、どうしよう」とウロウロ、「直ぐに掃除もしなくちゃ!」と何故か頭の中をハタキがけしている者、「戻って買い物を!」と買い物カゴを持って走り回っている者、と頭の中も大混乱。
小さな自分に目を回しそうになっていると、ヒョイとラアナが視界に入ってきた。
「ねぇ、ホリー。貴女はどんな料理が得意なの?」
「は、はひ! 煮込み料理が得意で……き、今日もポトフを仕込んであるのですが、ラアナ様に相応しいお料理を直ぐに揃えますので!」
半分目を回しているような状態で一生懸命答えると、ラアナは軽く首を傾げて、のんびりと質問してきた。
「ポトフ? ってどういうの? 確か、風の国の家庭料理だったと思うけど」
「え、ええ、はい、風の国の家庭料理で、あの、お肉を茹でて、その味を染み込ませるように野菜を入れて……」
「ふうん。体に良さそうね。私、それが良いわ。ホリーの得意な料理、食べさせて頂戴」
「ええ? だ、だって、こんな、た、ただの家庭料理です……」
味には自信があるけれど、ラアナに振る舞う物では無い。すると、ラアナは可愛らしく小首を傾げた。
「だめ?」
「だ、だめな訳ないでっしゅ! よよよよ、喜んで!」
緊張のあまり思わず盛大に噛んでしまう。あんな顔をされたら、ホリーが男だったらラアナにその場で求婚してしまいそうだ。
人間離れした神様級の美人が、殺人的な可愛さまで発揮しないで欲しい。気を付けなければ、死人がでる。
「フフ、可愛いわ」
「ほぇい?」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。私、ホリーのお料理とっても楽しみだわ!」
「は、はい! 頑張ります!」
更に緊張のあまり変な受け答えをしつつも、家に辿り着くとロルフとオールが玄関で待っていてくれた。
「ホリー、クラウス、お帰り」
「ただいま戻りました、あの、ロルフさま……」
ホリーが説明するより早く、ロルフはラアナに向かって深く頭を下げた。
「ラアナ様。私の大切な娘を助けて頂き、ありがとうございます」
「ロルフ、久しぶりね。元気そうで嬉しいわ。オールも、久しぶりね」
「ガウ」
どうやらロルフはよく、ラアナの護衛を仰せつかって一緒に迷宮に潜った事が度々あるらしい。
「君は?」
ロルフがフォルクに目を向けると、フォルクはきちんと頭を下げて挨拶をした。
「初めまして、ロルフ様。梟使いのフォルクです」
「ああ君が、噂のフォルクか。なるほど……」
フォルクはロルフへの挨拶が済むと、直ぐにラアナの斜め後ろに控えた。
「ふふ……ルークは、君を任命したか」
「……」
その時、クラウスが悔しそうに唇を引き締めるのを、ホリーは見逃さなかった。
(フォルク様はクラウス様のライバルなのかしら……そんなに、優秀な方なのかしら……)
失礼ながら、ホリーには隊員の質など分からない。その代わり、毎日一緒にいるクラウスの事なら分かる。
クラウスは優しくて、頼りになって、訓練でクタクタでも欠かさず鍛錬にも勉学にも手を抜かない。
いつでもあのロルフから褒められ、一番の成績を取っており、期待の新人として色んな部署がクラウスを欲しがっており、この国の主である公主様も直々の部下として欲しているのだとか。
そんなクラウスに敵う相手などあろう筈が無いと勝手に誇らしく思ってしまう。
「俺は、夜目が利くもので。それが、今回の魔導師サマの探索に最適な人材だっただけです。本来ならクラウスの役目だ。俺は、こんな面倒な仕事、断った筈なんですが……」
魔導師の護衛を賜るとは、名誉な役割の筈だ。それなのに、フォルクは面倒くさそうに頭をかいている。
そんな彼の肩で平和にうつらうつらしていた梟が突然カッと目を見開くと、鋭い突きをこめかみに繰り出した。
「いてぇ! 何しやがる、クソジジイ!」
「ホー!」
「今日という今日は湯むきにしてやんぞ、このクソジジイが!」
「ホッホー……」
ギャアギャアと元気に喧嘩を始めてしまい、どうしたものかとホリーがオロオロしていると、ロルフはそんな一人と一羽を盛大に笑い飛ばした。
「なるほど、息子が君を気にする訳だ。そちらの森の賢者殿は、ナハト殿だろう? 前に貴公を利用しようとしたクソ澄ましたハゲを突き倒してくれて、胸がスカッとしたから覚えているぞ。ナハト殿が人ならば共に祝杯を上げたかった」
すると、ナハトと呼ばれた梟はピタリと嘴を止め、胸を張って大人しくなった。
「相棒はまだ若い。鍛えてやりたい気持ちは分かるが、程々にしてやってはくれまいか」
「ホホー……」
急に妙にカッコいい声で鳴くナハトは、とても素直な性格らしい。きっと、森の賢者と呼ばれたのがお気に召したのだ。
「フォルク。君のような若者がいるのならば安心だ。まあ、相棒との喧嘩は程々にな」
気さくにロルフがフォルクの頭を撫でると、フォルクはぎこちなく頭を下げて、
「ありがとうございます……」
と小さく呟いた。
「さあ、狭いがどうぞ中へ。ホリー、ラアナ様に体が温まるお茶を頼むよ」
「は、はい、直ぐに支度致します!」
ホリーは全速力で台所に駆けて行き、ハーブを保管している棚からカモミールを選んだ。体を温め、リラックスする効果がある。
食前に良いハーブティーは他にあるけれど、寒さに弱いラアナには、こちらが最適だろう。
何しろこの国の出身で寒さに強いホリー達の中で、マントの前をしっかり止めて、寒そうにしているのはラアナだけだった。
むしろ、春なので温かいくらいなのに。
(火の国は、とても暑いと聞くものね……)
ホリーは人数分のお茶を支度して、急いで戻った。
何時もより大勢で賑やかな食卓に胸を弾ませながらホリーが支度を整えて給仕をする為に一歩下がると、
「あら。どうして一緒に食べないの?」
ニコニコ笑っているラアナの無言の圧力で、使用人なのに主人とお客様と食卓を共にするという不思議な状態になってしまった。
「美味しいわ、ホリー。この、赤い野菜は?」
「それはニンジンです、ラアナ様」
「まあ。ニンジンって、こんなに美味しいの? 甘くて……柔らかくて……」
「はい、それにニンジンはとても栄養があるんですよ。目の疲労回復や、体が温まる効果もあるんです」
以前、ロルフの主治医であるジルから貰った本に書いてあったのだ。彩りを見て何気なく料理していた野菜がそれぞれ色々な効果を持っているのが楽しくて、ホリーは最近野菜の組み合わせにこだわっていた。
組み合わせると相乗効果のあるもの、逆に相殺しあってしまうもの、と本当に薬のよう。
そしてその知識がなくとも、当たり前の組み合わせが最高の組み合わせだったと知る時、先人の知恵と工夫に感謝したものだった。
「私にぴったりね! お代わり!」
「はい! クラウス様もいかがですか?」
「では、頼む」
「はい!」
結局、自分の食事もそこそこに、ホリーは張り切って二人の皿を持ち、ラアナにはニンジン多め、クラウスにはジャガイモ多めによそって戻る。
クラウスは自分の皿の中に好物が多い事に気付いたようで、少しだけ笑った。
「ありがとう」
「い、いえ……ラアナ様もどうぞ。ロルフ様、フォルク様はいかがですか?」
ゆっくりと食べ進めているロルフの皿にはまだ十分残っていたが、フォルクの皿はほとんど空っぽ。なかなか言い出しにくいだろうとこちらから伺うと、ロルフも助け舟を出してくれた。
「私は十分だ。若者に存分に食べさせてやりなさい」
「……じゃあ、遠慮無く頂きます。俺にもお代わり」
「はい!」
再度、パタパタ駆けて行くホリーが居ない部屋で、楽しげな歓談は続いていた。
「ホリーはとても可愛いわ。私が男だったらお嫁さんに欲しいわ」
「ハハハ、ラアナ様ならば文句はありません。私の大切な娘を任せられます」
「あら。娘と言う事は、クラウスと婚約中なの?」
「ぶっ……」
思わずむせるクラウスを他所に、ラアナとロルフはのんびり語り合う。
「いやいや、こんな堅物で大丈夫かと気をもんでいるところでして。まあ息子の甲斐性が無ければ、私の嫁でも良いかと考え中ですよ、ラアナ様」
「あら、素敵。私も、ロルフなら文句は無いわ。お祝いを贈るわね」
和気藹々と笑い合うロルフとラアナに挟まれて、変な汗をかいているクラウスに、流石にちょっと可哀想になってきたフォルクが同情の視線を送る珍しい一幕があったが、勿論ホリーが見る事は叶わなかった。
「お待たせしました! フォルク様、どうぞ!」
「ありがとうな。あー、その、なんだ。様ってのはくすぐったいな。俺はこちらの魔導師サマみたいに偉い人間じゃねぇし、適当で構わないぜ?」
「で、でも、クラウス様のご学友でいらっしゃるので……」
「気にしなくて良いって。それよりな、このポトフはえらく味が染み込んでて美味いな。どうやってるだ?」
「はい、そんなに難しくは無いのですけど……」
ホリーが野菜に味を染み込ませるコツを話すと、フォルクは得心いったように頷いた。
「なるほど、いったん冷ますのか」
「はい! お野菜に味が染み込むのは冷めていく時なんです。シチューも、次の日の方が美味しいですよ」
最も、これは残り物を朝食として片付ける使用人の特権だが。その味を知るはずの無いフォルクがまたも頷いた。
「確かになぁ。なぁ、後でコイツのレシピを教えてくれ。下味にもコツがあるんだろ?」
「え?」
自然な流れでつい頷きそうになってしまったが……。ホリーは首を傾げてしまった。
第一線で戦うであろう救助隊員が、料理などするのだろうか……。少なくとも、ロルフやクラウスが料理をしている所は見たことも無い。
救助隊員のほとんどは貴族とまではいかずとも、そこそこ裕福な家庭ばかり。使用人を雇うゆとりくらいは持っているものだ。
「俺は一人で暮らしてるからさ。自炊しないとなんだが、料理はわりと好きなんだ」
「そうなのですね! そう言うことでしたら、他にも色々ありますから、宜しければ何でも聞いて下さい!」
ちょっぴりお姉さん気分で胸を張ると、フォルクは実に素直に笑った。
「助かる。ありがとな」
思わぬ所で話の合う人がいて嬉しくて、ついホリーの声は弾んでしまった。そのまま、ホリーはフォルクと話がどんどん弾み、その流れで片付けを手伝ってくれると言う。
「そんな、お客様にそんな事は……」
「いいから。ホラ、皿は俺が持つよ」
「あ、ええと……」
ヒョイヒョイと荷物は全部奪われてしまい、ホリーは慌ててフォルクを台所に案内する事になってしまう。
そして、何故かクラウスが黙ってついて来た。
「何だよ。優等生サマは、皿洗いなんて出来ないだろ?」
「……俺も手伝わせてくれ」
「え? い、いいい、いけません!」
「やーい、怒られた」
フォルクのからかう声に意地になっているのかクラウスは本気で腕まくりをし始めてしまった。ホリーは慌てて二人の間に割って入り、懸命に両手を振って止める。
「ち、ちがいます、ちがいます! 怒っている訳ではありません! でも、クラウス様がお皿洗いだなんてとんでもない! いけません!」
「ダメだとよ。ほら、邪魔だからさっさと出て行けよ」
クラウスをからかいながら、フォルクは手際良く洗い物を仕分けてくれる。油汚れがついたもの、軽く洗い流せるもの、少しだけ水につけておく必要があるもの、と実に上手に仕分けてくれた。
「ここは俺の家だ。何処にいようと俺の勝手だ」
「あ、そう。でもなぁ、ホリー? 邪魔だよなぁ?」
本音を言うと、フォルクの言う通り。台所は然程広く無く、フォルクが居て、クラウスまでいるとなると正直手狭過ぎて邪魔なのだ。
「あの、クラウス様……その、ええと……」
「ほら、ホリーが困ってるぜ、クラウス様? 邪魔だなんて思ってても言えないよな、ご主人様に。ここは察してあげるべきなんじゃねぇの?」
おろおろ二人を見上げていたホリーだったが、しっかりと腹を括って両手を腰に当て、せいぜい怖い顔を作った。
「フォルクさん! クラウス様をからかわないで下さい!」
「へいへい」
「クラウス様も、この程度いちいち取り合わないで下さいませ!」
「は、はい」
真面目なクラウスはともかく、フォルクはホリーが怒っているように見せている事などお見通しのようだった。
「ホリーは怒っても可愛いな」
「お黙り下さいませ! お二人共、邪魔でございます! 私に、きちんと仕事をさせて下さいませ!」
もう頭の中はいっぱいいっぱいだったが、ホリーは必死で自分よりも背の高い二人をグイグイ押しやった。
無論、力で負けている事など分かっているが、二人はホリーの気持ちを察してくれたようで、揃って台所から退散した。
入れ替わりに、お腹いっぱいお肉を食べて満足気に口周りを舐めているアーニャがホリーの足元に座る。
「水仕事をしますから、離れていて下さい。毛皮が濡れちゃいますよ」
分かったわ、と言いたげに頷いて、アーニャは少しだけ離れてホリーを見守ってくれた。
「貴方も随分いじわるね?」
「何の事ですかな、ラアナ様」
「フフ、分かってるくせに。初心な息子さんを焚きつけて……狙いは何かしら」
スイ、とラアナはロルフから僅かにそれた背後を指差した。
「貴方の背後に忍び寄る、黒い影と関係が?」
「……」
ロルフは静かに目を閉じた。
「……実は、ジルから余命を宣告されました。さすがに未熟な息子を遺して死ねませんから……」
安心して任せられる嫁を探していた、とロルフは言った。
「ところがどうでしょう。私はジルが宣告した余命より長く生きているのです。あの子のおかげで……」
ホリーが顔を真っ赤にして家を訪れた時から、ロルフは心に温かい春の息吹を感じた。
「年甲斐もなく、あんな幼い子に恋でもしたのかと焦りましたが……違いました。何でしょう、あの子といると、身も心も軽くなっていくように感じられるのです」
「そうね。あの子は人を惹きつける何かがあるわ。私も好きよ」
「そうでしょう? 皆があの子を好きになるのです。息子も初っ端からやられてましたし……どうも、フォルクもやられたかな」
「やられたわね。あの子には何時もボディーガードが必要よ。悪い虫がつかないように」
「フフ、そこは心配ありません。狼が付いておりますから」
「まあ、すごい」
クスクスと笑うラアナに、ロルフは深く頭を下げた。
「どうか、余命の事は内密に」
「言わないわ。そんな事聞いたら、ホリーが泣いてしまうもの。絶対に言わない」
ラアナはロルフの背後に向けて、目に見えない炎を放った。
「たまに、死神を追っ払いに来てあげる。寿命には勝てないけど、孫の顔くらい見て逝きなさい」
「ありがとうございます。頼もしいですな」
「特別よ。貴方も、大切なお友達だもの」
二人の会話は、静かな夜の中に消えていった。
夕飯の片付けを終えても、ホリーはハーブティーを支度したりお腹にたまり過ぎない控えめなおやつを準備するのに忙しくて失念していたが、もうラアナを宿へ送り出さなければならない。
いくら護衛にフォルクが付いているとは言え、真夜中に若い男女が二人きりで歩くのは良くない気がした。
(フォルクさん……悪い人では無いけれど……)
女性に慣れた、父と同じちょっと女たらしの気配を感じるのだ。勿論、ラアナは自分の身ぐらい自分で余りあるほど守れるだろうが。
それでも早めに宿で休んで頂いた方が良いだろうとホリーがそっと進言すると、
「あら。泊めて貰う気でいたわ。ホリーの朝ごはんも食べたいもの。ふかふかのパンケーキが良いわ」
「え? す、すみません、気が利かず……す、すぐにお部屋の支度を……」
客間に出来そうな広い部屋を、最近軽く掃除はしたのだがとてもお客様をお迎え出来るような状態ではない。
慌ててホリーが駆けていく寸前で、優しく引き止められた。
「まあ。ホリーのお部屋で良いわよ?」
「ええええええ? い、いけません、なにを仰るんですか、だ、ダメですよ?」
「良いじゃない。私、昔は弟妹達と雑魚寝で過ごしてたのよ。懐かしいわ」
一度言い出したら絶対に引かない事はもう分かっている。仕方無く、ホリーは頷いた。
「でも、私……今日は寝るの遅くなりますよ? アーニャの新しいクッションを作るので」
すると、アーニャが嬉しそうに尻尾を振った。
出産を控えた母親の為に、気に入っていたクッションを寝床に提供してしまったので、早く新しい物を作ってあげたいと思っていたところだ。嬉しそうなアーニャの視線に応えて、ホリーも一つ頷く。
「フフ、私も読みたい本があるから丁度良いわよ。決まりね!」
押し切られる形で話が付いてしまった。
ホリーが自分の部屋として使わせて貰っているのは小さな部屋だ。家具は机と椅子、ベッドしか無かったけれど、使用人の部屋なのに暖炉も備えてある。
狭くても十分贅沢な部屋だ。
「どうぞ、狭いですけれど……」
すると、ラアナは扉の前でピタリと止まった。やはり狭過ぎて驚いたのかと思ったが違うようだ。
彼女は、今にも消えてしまいそうなほど儚げな笑みを浮かべた。
「ねえ、ホリー」
「はい、何でしょうか」
「貴女は、怖くないの?」
「え?」
先導していたホリーが持つランプは、ラアナの元に僅かに届かない。闇の中に飲み込まれたラアナの、美しく艶やかな唇が紡ぐのは、寂しい言葉だった。
(こんな悲しそうな声、ラアナ様には似合わないわ……)
ちょっと無茶をやって平気でいて、周りがオタオタしているくらいでちょうど良い。こんな、悲しい声は聞きたくなかった。
「私は、戦に勝つ必要があったから、目に映る範囲全てを焼き尽くした女よ。何を焼き尽くしたか、貴女は知っている?」
目に映る範囲全て。もしも、その力がホリーに宿っていたとして、今、その力を振るったなら。
この家諸共、ロルフも、クラウスも、フォルクも……勿論、目の前のラアナも。自分自身さえも、焼き尽くしてしまうだろう。
炎とは、人の力で抑えられるものではない。それは神の英知であるから。
炎の向こう、幼い少女が泣いている幻が見える気がした。
その噂が聞こえてきたのは、もう十数年前の事だと母から聞いた。
齢十二にして世界最年少の魔導師に認定された天才少女。望まれて火の国の中枢である部族に雇われ初戦で実力を発揮。
「でも、その戦で……人が死ぬ事はほとんど無かったと」
「ええ。その必要が無かったからよ」
それは、必要があったら虐殺も厭わぬとも聞こえる。
「……貴女は聡い子ね」
ラアナは、静かに目を閉じた。
「人も獣も全て移動させたの。貴女も見たでしょ? 人を、空に浮かべる魔法よ」
「あ!」
ホリーを助けてくれた時に使っていた魔法だ。宙に浮いた人々は足元で焼き尽くされる大地を見ていたのだ。
「……あの地は今も草木も生えぬ不毛地帯。豊かなオアシスだったのに砂漠に飲み込まれて跡形も無いわ」
大地が死んでしまった。火の国は実りの少ない地であるのに、それはじわじわと人を殺してしまう行為だった。
「……怖い?」
そっと尋ねてくるラアナの方が、何かを怖がっている。一瞬で眼に映る範囲全てを火の海に出来る、紅蓮の魔導師。
今はただ、親と逸れて怯えた子猫のように悲しい目でホリーを見ている。
「……怖いです」
「そう……」
「だって、私は魔法の事は分かりませんから。だから、怖いです」
ラアナの手に自分の手を重ねると、本当に子猫のように怯えて震えている。
「ラアナ様のお体に、負担がかかるのではありませんか?」
「え……?」
「大きな術を使って亡くなった魔導師さまがいると、お話を聞いた事があります。きっとラアナ様も偉大な魔導師さまのように強い力をお持ちでしょう」
強い力は、皆から必要とされて頼りにされるだろう。弱い人々は、ラアナに寄りかかれば安心だ。その絶大な力で、守って貰える。
「でも、ラアナ様は? ラアナ様の事は、貴方様のお身体も、心も、誰が守ってくれるのでしょう」
ホリーが誰よりも強い戦士だったら。ラアナを守れる程強い戦士であったら、迷わず側で支えになるのに。
「……私は、強いから。守って貰わなくたって平気よ」
たった一人で戦地に立ち、炎の中で。幼かったラアナは、何を思っていただろうか……。
「でも、ありがとうホリー。私の騎士様。貴方が私の、一番の騎士ね」
「でも、私は戦えません……」
「ううん。貴方は、私を守ってくれたわ」
にっこり微笑むラアナの手は温かく、もう怯えて震えてはいない。
「ああ、残念。私が男なら、迷わず貴女を拐って行くのに」
「ラアナさま?」
「……ううん? 男じゃなくたって……。ウフフ……」
「ら、ラアナさま?」
狼に追い詰められた野兎の様な気分になったホリーは慌ててラアナの手を離してアーニャにしがみ付いた。
「フフフ、冗談よ! もう、可愛いわね、ホリーったら……」
「も、もう! ラアナ様の冗談は、全部本気に聞こえます!」
「あら、本気だったりして?」
「もうー! からかわないで下さい!」
軽やかに笑う声は、もう沈んではいない。ホッと一つ息を吐いたホリーは、暖炉に火を灯して部屋を温めた。
ホリーがこまごまと支度をする中で、ラアナは部屋の中を興味深そうに色々と覗き込んだ。
「ホリー、もっと可愛い服を着たら良いのに。そうね、若草色なんて似合うんじゃないかしら」
ホリーの大切な仕事着の前で、ラアナが怪しげに動くのを必死で止める。調子が戻った途端に、油断も隙もない。
「ダメです! これは大切な仕事着です!」
「もう、良いじゃない。ロルフだって喜ぶわよ、きっと」
「あ、ちょっと裾が変色してるじゃないですか! 直して下さい!」
「仕方無い子ね……」
自分が勝手にやっておいて、ラアナはまるでホリーが困ったワガママな子のようにため息をついてから、きちんと仕事着を黒に戻してくれた。
どういう原理か全く分からないけれど、魔法とは恐ろしいものだ。
「あの、気になる事があるのですが……」
「まあ、なぁに?」
「ラアナ様、普段のお食事などはどうなさっているのかと……」
ホリーが作ったものは何でも美味しそうに食べてくれたが、頂き物のお菓子には一切手を付けなかった。フォルクの愚痴を聞く限りでも、どうやら他所で作られたものは食べなかったらしい。
「うーん、もともと空腹の耐性が強いのよね。お腹が空いたと思ったら倒れてた事もあって」
「えええ? お、大事じゃないですか!」
「研究してると他の事が考えられなくて……ホリーみたいな可愛いお嫁さんがいたら、安心ね!」
「それどころじゃありません! ダメですよ、ちゃんとお食事はなさって下さい!」
思わず立場も忘れて意見してしまうと、ラアナはとても嬉しそうに笑った。
「その言葉が私の友人としての警告なら、従うわ」
「え……」
「私のお友達になってくれる? ホリー。私、ホリーの大切な友人になりたいの」
一番の親友は貴女に譲るわ、とラアナはアーニャに微笑みかけた。ラアナの美しさは狼にも分かるのか、照れ臭そうに毛づくろいをしている。
でも自分はただの下働きで、取り柄と言えば家事が得意な事くらいで大した自慢にもならない。
それに比べて、ラアナは世界でも指折りの偉大な力を持つ魔導師で、誰もが……ひょっとしたら国を率いる偉いお方ですら目を奪われる程に美しく、賢く、誰もが憧れる人だ。
返事をためらっていると、ラアナは見る間に萎れて寂しそうに笑った。
「そうね、ごめんなさい。急にこんな事を言って……。でも私、友達と呼べる人がいなかったから……どんなものかしらって憧れてて……もし、そうなってくれる人がいるなら、ホリーみたいな温かい人が良いと思って……」
わがままだったわね、とラアナは小さく肩を落とした。
「あ、あの、わ、私などで宜しければ……と、友達に……」
友達になれるのなら光栄です、と答えようとすると、既にラアナの腕の中に優しく抱きしめられていた。
「嬉しいわ、私の可愛いお友達!」
それはそれははしゃいだ声を上げるラアナこそ可愛くて、ホリーはそっとラアナに抱きついた。
お友達騒動が落ち着くと、ラアナは先にベッドに入って本を読み始めた。ホリーもラアナと語らいながらアーニャのクッションを縫う。
暖炉の側で寛ぐアーニャは、体が温まるとホリーに寄り添って、温もりを分けてくれた。
「ラアナ様はご兄弟が多いのですか?」
「ええ。私が一番上で下に十人も弟妹がいるのよ」
「そ、そんなに!」
ラアナは少しだけ、自分の事を話してくれた。実りどころか水にすら事欠く砂漠地帯に生まれた事。古い家系で名門であっても落ちぶれて貧しく、しかし両親は志まで貧しくすることは無かった。
貧しく慎ましくとも、ラアナは母から読み書きを習い、父から魔法を学んだ。幼い頃から才能のあったラアナは、五歳になると火の国が運営するアカデミーに通うようになったそうだ。
「習った事をまた、弟妹達に教えたりしてね。皆賢くて優秀だったけれど……」
一番下の弟だけは、勉強が苦手だったそうだ。その代わり元気一杯に子犬のように駆け回るので一番手がかかったが、ラアナは一番下の弟をとても可愛がっていたらしい。
「アルドって言うの。私が名前を付けたのよ」
「まあ……」
「魔法の才能が無くても、あの子はとても足が強くてね。剣士の才能があるようで、父の知り合いに鍛えて貰っているんですって。手紙をくれたの」
丁寧に折りたたまれた手紙を、ラアナは更に丁寧に綺麗な布に包んで持ち歩いていた。きっと故郷の弟さんも同じようにラアナからの手紙を大事に取っておいてあるのだろう。
「すっかり立派になったけれど……私が旅に出る時アルドったらまだ五才で、わんわん泣いて大変だったのよ? 泣きすぎてお漏らししちゃって、急遽旅立つ前にアルドをお風呂に入れたわ」
「まあ可愛い!」
「でしょう? ホリーは? 一人っ子なの?」
「はい……」
まだ、家族の事を笑って話せるほど思い出にはなっていなかった。どうしよう、と躊躇う内に平和な寝息が聞こえてきた。
「ラアナ様……?」
ラアナはすっかり安心して眠りこんでしまていった。手に持ったままの本をそっと机に置いて、寒くないように肩まできちんと布団をかけてあげる。
「お休みなさいませ。アーニャ、ラアナ様が寒く無いようにくっついてあげてくれる?」
コクン、とアーニャは頷いてラアナを温めるように、ぴったり寄り添った。
(良いなぁ、妹や弟がいたら、きっと楽しかっただろうな……)
一緒になって遊んで、ちょっぴり喧嘩もして、それでも最後には仲直り。それはホリーにとって憧れの光景だった。
でも、今はアーニャが頼りになる妹のようで、ロルフとオールは恐れ多くも憧れの父で、クラウスは……。
ふと、ホリーは荷物を取りに行った時に残されていた母の手紙を取り出す。ずっと、読んだら母が恋しくて飛んで会いに行ってしまいそうだったから我慢していたのだ。
でも、今は……母の温かい言葉に触れたかった。
『ホリーへ。貴方はきっと、何処に居ても上手くやっていけるでしょう。心配なのは、予想出来ない事だけ。
貴方の事だから手紙を読むのは我慢して、それでも見ずにいられなくなったという事は何か困っているのね。
誰かを、好きになってしまったかしら?』
まるでホリーの側で見守っていたかのような母の手紙に驚きを隠せない。今正に、クラウスを好きになってしまって、心から困っているところだ。
『それも、主人筋の方かしら。
仕方無いわ。心は誰にも支配できないから。自分自身さえも抑えきれない事もある。だから、好きになったら仕方無い、腹をくくりなさい。
確かに母さんは貴方に不幸になって欲しく無いから主人筋の方に好かれているようでも気の迷いだから切り捨てろと言ったわ。
でも、どうしようもない事もある。母さんもそうだったもの。結果は知っての通りだけど、私には貴方という宝物があるから平気なの。
だからホリー。身分違いの相手と怯まず、一度は盛大に転ぶつもりで体当たりしてみても良いかも知れないわ。
失敗してもまだ幾らでも立ち上がれるし、いよいよ駄目になったら、母さんの所に逃げてきなさい。
大丈夫よ、男にしくじったくらいで死ぬ事も無いわ。母さんを見てたら、分かるでしょ?
本当は、女がとても強いって事。
それはそうよね、新しい命をお腹で守って育てるんだもの。男には絶対に真似できない事よ。
ホリー、何とかなるわ。本当に、本当に、どうにもならなくなったら、思い詰める前にまた、母さんを思い出しなさい。
私の愛する娘、ホリーへ。
いつだって、私は貴方の味方よ』
涙が溢れそうになって、ホリーは慌ててアーニャに背中を向けた。心配させてはいけないし、悲しくて泣いた訳では無かった。
ホッとして、今まで全身で張り詰めていたものが涙になって溢れそうだった。
(私、クラウス様のこと、好きでも良いんだ……)
母の手紙を大事に抱きしめて涙を拭うホリーの背後で、心配して側に行こうとするアーニャをラアナが優しく止めていた。
「大丈夫、そっとしてあげましょう……そう、良い子ね」
やがて、アーニャのクッションが仕上がったホリーも、そっとベッドに入って眠りにつく。誰かとくっついて眠るなど、久し振りだ。
ラアナの花のように優しい香りと、アーニャの日向の香りに包まれて目を閉じると、吸い込まれるように眠りに落ちていく。
そして、夢を見た。
何処までも続く綺麗な花畑をクラウスと共に歩く。二人きりで、ずっと黙って……でも、繋いだ手が温かい。
ただ黙って歩くだけなのに、それはとても幸せな夢だった。
ふざけた言動とは真逆に、根は真面目なフォルクは案の定忠実にラアナの眠る部屋の前で護衛に立っていた。
「さみぃな……おい、羽毛貸せ、羽毛」
「ホー……」
「わかってるよ、無理だってんだろ? あー、今だけ猟犬使いになりたい。フカフカしたい……」
一応、防寒対策に毛布をぐるぐる巻いているが、夜間の冷え込みは半端な寒さでは無い。
さすがに気位の高いオールを気軽に貸し出す事も出来ず……クラウスは昔、母が作ってくれた蜂蜜入りのジンジャーミルクティーを持って黙ってフォルクに突き出した。
「お、なんだよ。貰って良いのかよ」
「ああ。我が家で凍死体など見たく無いからな」
「あー、そうかよ。……ふおー、あったまる……」
ふわふわ湯気を飛ばしながら、フォルクは美味しそうにジンジャーミルクティーを飲み干した。
「ありがとな」
「礼などいらん」
「……なあ。お前、ホリーのこと好きだろ」
不意打ち過ぎてクラウスは正直に顔を真っ赤にしてしまったが、暗くて見えないだろうと誤魔化そうとして……。
(こいつは夜目が利くんだった)
無駄だと気付き、沈黙のまま頷いた。
「お前なら選り取り見取りだろうが。何も物好きに下働きに手出ししなくてもさ」
「……下働きなどと思った事は無い。ホリーは大切な家族だ」
「それならちゃんと守ってやれよ。アイツ自分はしっかりしてると思ってるから、男関係かなり無防備だぞ。まあ、狼が護衛に付いてりゃ手出しされないだろうが……」
出し抜いてどうこう考える輩が幾らでも存在するから、とフォルクは本当に心配そうに呟いた。
「さっさと婚約者にしちまえよ」
「……フォルクは、ホリーの事を……」
とても気に入っているように見えたのだが。まるでクラウスを応援しているように聞こえる。
「ん? 俺は可愛い女の子なら誰でも好きだぜ。ちょっと尻軽なくらいが良いな。扱いやすくて」
「扱いやすいとは何だ。女性に対して失礼だろう」
温まった白い息を吐きながら、フォルクは小さく笑った。
「お前ホントに真面目だなー。まあ、なんつーか苦手なんだよ。真面目な付き合いになったら婚約云々になるだろ? 俺、結婚とか考えられねぇし」
「だが、貴重な梟使いの血筋を残さなければ」
「なんか、梟使いって突然変異みたいなヤツらしいから、子供が同じになるとは限らないみたいだからさ」
「それでも、お前ほど優秀な男が……」
すると、フォルクは意外そうにクラウスの顔をまじまじと眺めてきた。
「俺が優秀だなんて言うの、お前だけだぜ。変なヤツ」
「どこが変だ。お前にどれだけ負けたと思っているんだ。……腹が立つ」
「ハハ、初めて本音を言ったな。結構怒りん坊だな、お前」
「うるさい。父上は訓練所でも負け知らずだった。俺もそうならなければ」
クラウスが当たり前だと思っていた事を、フォルクは不思議そうに聞き返してきた。
「親父と全く同じにならないといけねぇのか?」
「え?」
「だって、お前はロルフ様じゃないんだぜ。何で同じでないといけないんだ?」
「……」
それは、周囲がそう期待するから。ロルフの息子だから、これくらい出来て当たり前。ロルフの息子だから、父親と同じように出来る。
周囲からの期待を、クラウスは当たり前だと思うほど繰り返し聞いてきた。生まれた時から、人はおろか狼からさえも。
「まあ、ロルフ様カッコいいよな。俺も……ああいう親父が良かったな……」
フォルクの家庭について、噂を聞いた事がある。
優秀な鳥使いを何人も輩出してきた名家で、特別に城下町に住む許可を頂いた上に貴族と血縁を結んでその名を連ねた。
フォルクはその家で、最初の内は期待を一身に背負っていた。何しろ、鳥族全てと会話出来る特殊な能力者だ。兄を差し置いて持て囃されていたらしい。
だが何度も相棒に逃げられて、上手くいかず、梟の使い手であると分かるまで劣等生扱い。
最初は調子良く持て囃していた両親の心はとっくに離れ、年長者を差し置いて期待されていた弟に兄も冷淡であり、今や実質縁を切られている状態だとか。
(父上ならば、絶対にそんな事はなさらない。例え俺に狼使いの才能が無かったとしても、息子として愛して下さるだろう)
ロルフの懐の深さ、愛情深さを最も知っているのは息子である自分だ。フォルクは残念ながら、家族の縁が薄かったのだろう。
「……フォルク」
「なんだよ? 改まって気持ち悪ぃな」
「お前はいちいち一言余計だな。……その、お前が良ければ、いつでも来てくれて構わないぞ」
「おいおい、良いのかよ。毎日ホリーを口説きに来るぜ?」
「いや、お前はそんな事はしない。いちいち自分を引き下げるのは止めるんだな。もう俺には通じないぞ」
変なヤツ、とフォルクは笑った。だが、喜んでくれているのは分かった。彼の肩に止まった梟のナハトが、慈しむような目でフォルクを見ていたからだ。
その目は、オールがクラウスに向ける眼差しに似ていた。近しくも厳しい、父の眼差し。ナハトの場合祖父なのかも知れないが。
「じゃ、たまにお邪魔するか。ホリーの飯は美味いし」
「ああ、父上も喜ぶ」
「それと」
グイ、とフォルクは空っぽになったカップを押し付けてきた。
「もう一杯コイツを作ってくれたら、俺はお前を親友と呼ぶだろうな」
ジンジャーミルクティーが大層気に入ったらしい。クラウスは笑ってカップを受け取り、もう一杯ジンジャーミルクティーを作ってやった。
二杯のジンジャーミルクティーで結ばれた友情は、これから長く……家族のように長く続くだろう。
