狼王の嫁②
第二章 狼王の息子
父の部屋からはまだ、ホリーのすすり泣く声が聞こえた。体中が空っぽになってしまうのでは無いかと危ぶまれる程、泣いている。
『だいじょうぶかなぁ』
「ああ、大丈夫だ。父上が側に付いているのだから」
アーニャは扉の前で鼻を鳴らし、心配そうに落ち着かなくウロウロしている。父以外には懐いたりしないのに珍しい事だ。
クラウスに対してさえ、『しっかりしなさいよ、ロルフの息子のくせに!』と、何時も厳しい扱いだ。
そもそも、戻ってこないホリーを心配して直ぐにでも家に入ろうと言ってきたのもアーニャだった。
『あの子、なんだかトロそうだったから、中でころんでるんじゃないかしら』
「心配だな……失礼かも知れないが、様子を見に行くか」
『べ、べつにしんぱいなんてしてないわよ! ロルフにたのまれたから、ちゃんと送らないとだから、それだけだからね!』
などといきなりクラウスに凄んで見せつつ、心配で堪らない様子でアーニャが先頭きってホリーの家に入って行った。
暗がりに包まれた家の片隅で、ホリーは小さな子供のように蹲って泣いていた。
『だいじょうぶ? ちょっと、泣かないでよ……』
アーニャは強がりも放り投げて、ホリーに寄り添い、頑張って涙を拭ってあげたいようだが、ペチペチ叩くだけになっている。
「アーニャ様……」
『なによ、しっかりしなさいよ! ホラ、立ちなさい! かえるわよ!』
泣きながら見上げてくる瞳は、この場にそぐわないがとても美しかった。ホリーの名が示す通り、深い緑色の瞳は涙を含んで柔らかく輝く。
泣いている女の子に何を言ったら良いか、クラウスには分からなかった。分からないが、いつまでもここにいたらホリーはずっと泣いたままだろう。
「帰ろう」
コクン、とやはり小さな子供のようにホリーは頷いた。連れて帰るにも立ち上がる気力すらないようでクラウスはおそるおそるホリーの手を引いた。
驚くほど小さく細い手。立ち上がり、足がもつれて寄りかかってくるホリーを支えるのも片手で十分だった。とても軽い。
(女の子は男と体の作りが違うんだろうか……)
普段から鍛え上げた男だらけの訓練所で力一杯手合わせばかりしているクラウスには、経験のない事だった。思えば年頃の近い女の子と、こんなに間近で接する機会も無かったのだ。
黙って家に帰る道々、ホリーは泣いたまま。とにかく父に頼るしか思いつかなくて、クラウスはホリーを気遣いつつも急いで家に戻った。
父の部屋まで連れて行くと、父はホリーが泣いていることに少しも驚かなかった。
そして、クラウスが見たことも無い優しい顔で笑って、黙ってホリーを抱きしめて頭を撫でてやっていた。オールも父親のようにホリーに寄り添う。クラウスはアーニャと共に部屋から出た。
父の部屋を背に、クラウスは優しい光を降ろす月を見上げていた。窓の外は春を告げる風が吹いていたが、まだ冷たい。
クラウスが白い息を吐くと、アーニャは黙って寄り添ってくれた。
そうして、一時間程過ぎただろうか。
(大丈夫だろうか、あんなに泣いていて……)
何があったのかと、野暮な事は聞かない。ホリーはもう十四歳で来年には大人として認められる年とは言え、今日働く家で面談をしてそのまま働き始めた事や、空っぽの家を見ればあらかた予想が付く。
『あの子のいえ、空っぽだったね』
アーニャも同じようにホリーの身の上を案じているのだろう。切なげに鼻を鳴らしたので思わず頭を撫でようとすると、
『きやすくさわらないでよ!』
素直に牙を剥かれたので、クラウスは直ぐに手を引っ込めた。アーニャの頭を撫でられるのも、父だけなのだ。
『……何をしている。クラウス、風邪を引くぞ。ヒトは我等と違い、寒さに弱いのだから』
顔を出したオールが、中に入るよう促してくれる。
「失礼します、父上……」
『ホリー、だいじょうぶ?』
クラウスよりも先にアーニャが駆け込むと、父は少しだけ目を見張った。
「ああ、ホリーなら大丈夫だ。泣き疲れて眠ってしまった。部屋を温かくして、風邪を引かないようにしてあげなさい。クラウス、頼むぞ」
「はい」
父の腕の中で眠ってしまったホリーを抱き上げるとやはり驚くほど軽い。
(女性というのは、こんなにも、か弱いのだな……)
泣き腫らして目元が真っ赤だ。冷やしてあげた方が良いだろう。放っておいたら明日、目を開ける事も出来なくなりそうだ。
父の部屋を出たものの、まだホリーの部屋を準備していなかった。いつもオールの面接で全員落とされていたので今回受かるとは思っていなかったのだ。
(仕方ない、俺の部屋で良いか)
自分は何処でも寝られる。訓練の中には、迷宮内で野営するカリキュラムもあるくらいだ。
ホリーをベッドに寝かしつけ、濡れたタオルで目元を覆い、クラウスがそっと部屋を出ようとするとアーニャが足元をすり抜けてホリーの枕元に座った。
「アーニャ?」
『あした、たたきおこしてやるわ! したばたらきのクセになまいきよ!』
心配だから側に居ると言えば良いのに。クラウスも素直ではないアーニャに合わせてやった。
「頼むぞ」
『まかせなさい!』
アーニャに任せて部屋を出たクラウスが、さて何処で寝ようかと思案していると、廊下の奥からオールが姿を見せた。
『ロルフの予想通りだな。付いて来い、クラウス』
オールの迎えを受けたので、クラウスは父の部屋に戻った。
「フフ、アーニャが付いているか。あの子は本当に猟犬使いどころか狼使いの才能があるかもしれないな。女子であるのが惜しい」
父からの柔らかな期待を受けるホリーが少しだけ羨ましく感じてしまったが、そんな子供っぽい事を考えてはいけないと無理矢理頭から押し出した。
「父上、お体か良くなりましたら……また、稽古をつけて頂けませんか?」
「訓練所に優れた指導者がいるだろう? それに、今は首都から公主様の護衛隊長が特別に招かれているそうではないか。私から学ぶ事など、もう無い筈だ」
「いいえ! 父上より強い方などおりません!」
押し黙って顎に手を当て思案顔になる父に、クラウスはあまりに強く出過ぎてしまったか、と俯いた。
(これは俺の甘えだ。わがままを言うものでは無い)
謝ろうとする寸前で、父は大きく頷いてくれた。
「わかった。ジル先生に相談してみよう。暫し待たせるが、良いか?」
「は、はい! ありがとうございます!」
確かに父より優れた剣術の使い手もいる。まして、今はこの国で一番の剣術使いである護衛隊長が特別講師として訓練生を鍛えてくれているのだ。
クラウスの発言は失礼極まりないが、幼い頃からずっと追いかけてきたのは、広く頼もしい父の背中だった。
プライドの高い狼達ですら別種族である父を王のように敬い、戦地に立てば威風堂々たる立ち姿だけで恐れを成して逃げる者すらいる。
その強さを持ちながら、父は幼い子供達が自然と集まってくるほど優しい。
父が、子供っぽい甘えた願いを受け入れてくれた。それだけで、クラウスは内心飛び上がる程嬉しかった。
「部屋はホリーに譲ってしまったのだったな。今夜はここで寝なさい。他の部屋では温まるのに時間がかかる」
「はい!」
父のベッドに簡易ベッドをくっつけて同じ部屋で眠るなど、実に十数年ぶりだ。
ランプを消すと、カーテンの隙間から月の光が緩く差し込む。心地良い静けさの中、天井を見上げながら久しぶりに父とゆっくり会話を楽しんだ。
「明日はオールを連れて行きなさい。もう面接の必要は無いから、しっかりオールから学ぶように」
「はい、父上」
「今は試合形式の訓練だろう? 調子はどうだ」
「はい……鳥部隊に厄介な男がいて、なかなか勝てません……」
救助隊の訓練所は大まかに猟犬部隊と鳥部隊に分かれて訓練を積む。
地上のみの部隊と、空をも翔ける部隊では当然訓練内容が大幅に異なるので、最初の一年は互いの接点は少ない。
だが、二年生になると合同の試合形式訓練が始まり、交流が増える。
通常、諜報や通信手段としての訓練の多い鳥部隊より、猟犬部隊の方が試合となると有利である。それが、普通だ。
しかし今、クラウスの率いる猟犬使いチームは、鳥使いチームに僅差で遅れを取っている。
「厄介な男とは?」
「梟使いのフォルクと言うのですが……」
「ほう? 梟使いか! なんと珍しい。ここ数年、見た事が無い」
「はい。極めて稀な能力の持ち主だと言うのに、ふざけた男で……」
梟使いが滅多に出現しないのは、狼使いのように血筋で成り立つものでは無いからだ。気まぐれに、その稀な能力を持つ者が出現する。
梟使いの特徴は顕著だ。全ての鳥類の言葉を理解出来るが、絶対に梟以外とは上手くいかない。
貴重な能力の持ち主であるフォルクは、全然真面目にやる気が無いのか相棒の梟と喧嘩ばかりしているのだ。
それも、「いいかげん湯剥きにしてやんぞ、コラァ!」だの、「全身の羽を引きむしるぞ、クソジジイ!」だのと、本当に相棒に愛着があるのかすら怪しい。
それなのに、いざ試合となると先程までの喧嘩が嘘のように絶妙なコンビネーションを見せる。
鳥部隊は全体的に銃や弓など長距離攻撃を得意とする者が多い。猟犬や狼と異なり、天空高く舞う鳥達をサポートする為に自然とその形に落ち着く。
フォルクは銃の扱いにかけて右に出る者がいない程の精密な射撃を行い、無防備になった背中を相棒の梟が守る。
クソジジイなどと呼ばれる程、見た目はみすぼらしい年寄りの梟なのに、鋭く振り上げられた翼に猟犬達すらたじろいでしまう。
アーニャも果敢に挑んだが背中の毛を少し毟られて泣く泣く退散してきた。
必死で毛繕いして隠しているが、女の子なのに背中に小さなハゲが出来てしまったのだ。
「アーニャに? 全然そんな素振りは見せなかったが……。ハハハ、気付かぬフリをしておいてやろう」
『情けない。狼族の恥だ』
「そう厳しい事を言うな。アーニャはまだ子供なんだぞ?」
『俺がアーニャくらいの年頃には、もうお前と一緒に戦っていた。アイツは俺の娘だ。当然、出来る筈だ』
それは、クラウスが人からも狼からも寄せられる期待に似ていた。
「しかし、それはお前の苦手そうな男だな」
「はい。毎回遅れを取っております、不甲斐ない……」
「だが、明日はオールがいる。負けは無いだろう」
「はい……」
確かに、オールと一緒ならば負けないだろう。だが、それはクラウスの実力ではない。父が鍛えたオールの実力に頼るだけだ。
『ロルフ、もう休まなければ体に悪い』
「ああ、そうだな。クラウス、明日の試合結果を楽しみにしているぞ」
「はい!」
『俺がいるのだから、そんな小僧には負けん』
毅然とクラウスに頷いて見せるオールに、父も頷いた。
「頼んだぞ、オール。我が友よ」
『ああ、安心して休んでいろ。クラウスの事は俺に任せろ』
相棒との間に生まれる、強い絆。生まれついての親友、家族のように心を分かち合い、何も言わずとも信頼と親愛の絆で結ばれる。
クラウスは父とオールのやり取りを憧れを持って見守った。
実はクラウスにはまだ、真の相棒が定まっていない。
狼達と仲良く会話も出来るし、幼い頃には一緒に泥んこまみれになって遊んでいたものだが、いざ相棒となると……。
『ロルフの息子に相応しい相手でなければ』
と、ああでも無い、こうでも無いと狼達は尻込みしてしまうのだ。
結局、物怖じしないアーニャと仮の相棒として過ごし、父が引退してからはオールがクラウスに付いてくれるようになった。
(俺にもオールと父上のような強い絆で結ばれた相棒が出来るだろうか……)
どれだけ、「さすがはロルフの息子、優れた狼使いの血統」と周囲から絶賛されようとも、クラウスは常に足元がフワフワしているような落ち着かない状態だった。
その不安は、誰にも話す事が出来ない。
「焦る事は無い。ひょっとするとお前の友はまだ生まれていないかも知れないでは無いか。必ず、その時がくれば分かる」
「は、はい……」
驚いて父の顔を見ると、もう目を閉じていた。父に情けない姿を見せたく無いと願う自分の為に、敢えて目を見ずに語ってくれているのかも知れない。
こんな事でイジイジと悩んでいる自分を恥ずかしく思い、クラウスは慌てて布団を頭から被った。
『しっかり休むのだぞ、クラウス。休養も大切だ』
「わかった、ちゃんと寝る……」
幼い頃から側にいて、面倒を見てくれていたオールはもう一人の父のようなもの。背中が冷えないようにくっ付いていてくれるオールが温かくて、クラウスは心地良い眠りに落ちていった。
