狼王の嫁③
第三章 メイドのお仕事
ホリーは、まどろみながら夢を見ていた。
家では無い屋外にいて、コートも着ていないのに暖かいのだから、夢に違いない。
ふわふわの真っ白なタンポポの綿毛に囲まれて、ホリーはお行儀悪くその上をゴロゴロしては「ふうふう」と綿毛を飛ばす。
ふんわりゆらりと台座から旅立つ綿毛は、深い藍色の空に吸い込まれて消えていく。
(きれい……)
その空の色を、どこかで見たことがあるような気がした。そうだ、ホリーが一番好きな空の色だった。
僅かな夏と秋を終えて、長い冬が始まる直前。空から凍えるように寒くなり、少しずつ空気が澄んでピンと張り詰めていく。
そんな時期に眺める夕日と、日が落ちた深い藍色の空が、ホリーは大好きだ。
見とれていると、ふわふわの綿毛が花をかすめる。
(ふふ、くすぐったい……)
うふふ、と寝とぼけて笑っていたら、直ぐにペチリと頬を叩かれた。
「痛い!」
「ガウ!」
堪らずに跳ね起きると、隣にはアーニャが座っていた。
「アーニャ様……え、今、何時……」
窓の外は、もう朝焼けに包まれて、白々と夜が明け始めている! ホリーは真っ青になっていた。
(いけない! 直ぐに水を汲んで朝食の支度を始めなきゃ、いえ、もうパンを仕込む時間も無いじゃないの!)
本来なら、夜も明けきらぬ内から働き始めるのに、大失態だ。
昨夜までの落ち込みなどきれいに消え失せ、ホリーは慌てて身支度を調えた。
「……ここ、どこ?」
少しだけ埃を被っている室内。でも、難しそうな本が床にも机にも山のように詰まれ、本棚の中は、ここで戦闘が起こったみたいにごった返している。
机の大半を占めているのは、大きな地図。少しずつ色付けされて、几帳面な文字でたくさんの書き込みが入っていた。
「これ……迷宮の、地図?」
町の北の外れにある、迷宮の地図……だと思う。冒険者が似たような地図を広げて確認しているのを見かけたことがある程度なので、自信はないが……。
つまり、この部屋は。
クラウスの部屋では無いだろうか。
その結論に至り、ホリーは息が止まるかと思った。下働きの分際で、主人のベッドを占領。その上、寝坊。
クラウスは昨夜、どこで休んだのだろうか。
「ど、どうしよう……ええと、な、何から……」
慌てていたが、ホリーは眠っていたベッドを綺麗に整えた。そうしている間にも、アーニャがドシドシと足にぶつかってくる。
クラウスのベッドを占領していたことを、怒っているに違いない。当たり前の反応だ、あり得ない。今すぐにでも家から追い出されるかも知れない。
「ご、ごめんなさい、すぐに、出て行きますから……」
せめて、お詫びに最後の仕事になるとしても、朝ごはんの支度をしなければ。
ホリーは急いで井戸のある家の裏手へ向かった。後ろに、アーニャが付いてきた。不届き者を見張るつもりなのだろう。申し訳無くて、胸が潰れてしまいそうだ。
「っきゃああああ!」
「ああ、ホリー。おはよう」
爽やかな朝日を浴びて井戸の横に立っていたクラウスは、井戸で水汲みをしていた様子だ。
「い、い、いけません! そんなことは私にお任せください! 申し訳ありません、申し訳ありません!」
「いや、水汲みは俺がしていたから……」
急いで水桶を受け取ろうとするも、ビクともしない。申し訳なくてクラウスの顔を見ることもできずにいると、井戸から台所を往復した足跡を見つけてしまった。
クラウスはきっと、寝坊した大馬鹿者の自分よりもずっと早く起きて、水汲みをしていたのだ。
昨日とは違う意味で、泣きたくなってきた。
「申し訳ありません……」
「気にしなくて良い。水は俺が運ぶから、朝飯を頼めるか?」
「は、はい……」
先を歩くクラウスの後ろをトボトボと歩いていると、ピタッとクラウスの足が止まった。
「……気分は、どうだ? いや、頭が、痛いなど、不調は無いか?」
「え、は、はい。大丈夫です」
「その……元気か?」
チラチラと、ホリーを振り返る素振りに、気づかう眼差し。
不器用な気づかいに、ホリーはストンと肩から力が抜けていた。
「あ、あの、元気です。寝坊でビックリしたら……悲しいのも、飛んでしまって」
「それなら、良いんだ」
また、クラウスが歩き出す。ホッとしたように、クラウスの肩から力が抜けているのが分かった。
純粋に、真っ直ぐに心配してくれていて、寝坊したホリーを咎めることも無い。叩き起こすのでもなく、黙々と水汲みをしてくれていた……。
「……ありがとうございます、クラウス様。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「いや、礼を言われることでは。俺は、どうしたら良いか分からなくて、父上を頼っただけだからな」
「いいえ……」
ホリーは、昨日のことを思い出す。目の前が真っ暗になりそうなほど、暗くて悲しい感情の波は、クラウスがそっと手を差し伸べてくれたことで消え去っていた。
帰ろう、と言ってくれた。
ここに、帰って来て良いのだと、認めてくれた。
育ってきた家は無くなってしまうが、ホリーにはまだ、大好きな母がいる。そして、帰る場所はここにある。
ここが、これからはホリーの家になる。
「クラウス様の、おかげです」
水瓶に水を満たし、振り返ったクラウスが照れくさそうに笑っていた。
「元気になったのなら、本当に良かった。……これで、水瓶は一杯になったから、水汲みは終わりだ。俺は、朝の鍛錬に入る」
「は、はい! 直ぐに朝食の支度を致します! ありがとうございました!」
クラウスが木刀を担いで去る背中を見送り、ホリーは台所に立ってパチンと頬を両手で叩いた。ここから、失態を取り戻さなければならない。
「フン……」
お手並み拝見ね、とでも言いたげに、アーニャが直ぐ側に座っていた。
「あの、アーニャ様? クラウス様と一緒におられなくて、宜しいのですか?」
ホリーはアーニャが何を思っているのか分からないが、ホリーからの言葉は通じるようなので言ってみた。アーニャは、鼻を鳴らしただけだったけれど……。
とにかく、昨夜から続く失態を取り戻すためにも、最高の朝食を作らなければならない。
(初めての朝食は、焼きたてフカフカのパンを用意したかったのに……)
パン生地は仕込みに時間がかかる。
それこそ、昨夜の内から仕込み、成形して既に石窯で焼き始めていなければ、間に合わない。
ホリーは戸棚という戸棚から、ストックしてある食材を引っ張り出した。
ちょっとしなびたほうれん草。先っぽが怪しい色をしている人参。葉っぱの部分がしなしなになったカブ。ちょこっと芽が出始めた玉ネギ。上物のベーコンに、わりと新鮮なジャガイモ。それに、リンゴがゴロゴロと無造作に置いてある。
家の前の道まで担ぎ売りに来てくれた卵屋と牛乳屋を呼び止めて新鮮な卵と牛乳を入手した。
「え!? ここの、メイドさん!? 本当に!?」
「はい! 昨日よりここで働かせて頂くことになりました、ホリーと申します。宜しくお願い致します! 明日も同じくらいの時間にいらっしゃいますか?」
「あ、ああ、オイラ達はいつも同じくらいの時間に来るよ……」
「それでは、また宜しくお願い致します!」
ホリーの預かり知らぬところだったが、実は狼王の家にメイドがやって来たことは町にとって一大ニュース。
大半のメイド候補が狼の姿を怖れて逃げ出し、オールに追い払われて泣きながら逃走する者ばかりで、狼王の家に居着くメイドは果たしてどんな強者かと噂になっていたし、少々素行の悪い者の間で賭けの対象にまでなっていた。
それが、こんな細腕の可憐な少女がニコニコ笑顔で働き始めるなど……誰が予想していただろうか。
卵屋と牛乳屋によって、その噂は恐ろしいスピードで瞬く間に拡散され、迷宮の町でトップニュースになったなど……とんでもない勢いで卵を泡立てているホリーには、預かり知らぬところだ。
ホリーは焼きたてフワフワのパンを諦め、新鮮な卵を全力で泡立てて作るパンケーキに変更した。
黄色い卵が白っぽくフワフワになるまで泡立てて、牛乳とオリーブオイルを混ぜ、小麦粉をふるいいれる。しなしなになっていたほうれん草は温かいお湯につけてあげて何とか復活させて、パンケーキの中へ細かく刻んで入れた。
玉ネギと人参は一緒に刻んで、カリカリに炒めたベーコンと一緒にスープに。リンゴは少しでも華やかになるように飾りきりにして並べた。
「よし、できた!」
療養中のロルフには適量だと思うが、これから訓練に励むクラウスには足りないかも知れない。
(ええと……確か、母さんから教わったわ。食べ盛りの男性の食事量について……)
母から教わったはずなのに、焦っているせいか考えていることが空回りして思い出せない。
背後から、アーニャの食い入るように見張っている視線を感じた。
だが、思いつかないものはどうしようもないと思い、運んで行って足りないようなら、追加で何か作ろうと、ホリーはスープの煮込み具合を確かめていた。
「ガウ」
「え?」
スッとアーニャが立ち上がり、作業台に乗せていたジャガイモを突いた。
「ジャガイモ……やはり、もう一品くらいないとクラウス様には足りないのですね? アーニャ様」
ジィッとホリーを見つめ、アーニャはコクンと頷いた。
ホリーの心臓が、ちょっとだけ跳ね上がる。通じた? そして、ホリーの困りごとを察して、手助けしてくれた?
そう思ったら、ホリーは嬉しくて、顔に熱が集まるのを感じた。
(まさかね? 偶然よね?)
でも、そう言っているような気がするので、ホリーは手早くジャガイモにナイフをあて、完全に切り分けないように細かく切り目を入れた。
切り目に薄く切ったチーズを挟んで、オリーブオイルを塗り、まだ火を残しておいた石窯に入れて焼く。
ジュウジュウと音を立てているジャガイモを石窯から引き出すと、こんがり香ばしく、良い香りが立ち上った。
「うん、成功!」
仕上げに刻んだパセリをぱらりと振りかける。ジャガイモはとても腹持ちが良い野菜なので、これから訓練に向かうクラウスにとって最適のおかずになるだろう。
「今度こそ、できたわ! ありがとうございます、アーニャ様」
「フン……」
ツン、と鼻を高く上げて、アーニャはスタスタと台所から出て行ってしまった。
ホリーもアーニャに続き、簡素なワゴンに食事を乗せて運んだ。ちょっと車輪の調子が良くない。後で手入れが必要そうだ。
「お、おはようございます、ロルフ様。き、昨日は申し訳……」
「ああ、おはよう、ホリー。今日は良い顔をしているじゃないか。良かった」
「あ、ありがとうございます」
お詫びの気持ちと、感謝の気持ちをありったけこめた朝食を手際よくテーブルに並べると、ロルフは無邪気な子供のように目を輝かせて身を乗り出していた。
「おお! こんなに華やかな朝食は久しぶりだ。なあ、クラウス」
「はい、父上」
精一杯の気持ちを込めたとは言え、基本的な普通の朝食よりも簡素で手もこんでいない。気を使っているのか、二人が盛大に褒めてくれるのが、逆に申し訳なかった。
でも、働き手が見つかるまでは、二人で支度をしていたのだろう。ストックしてあった野菜のくたびれ具合からも、買ってきた惣菜や、簡単に焼いた卵を添える程度の食事だったのかも知れない。
二人の苦労を思うと、今日という日をもっと豪華な朝食で彩りたかった……とホリーは肩身が狭い。
「さあ、頂こう」
「はい」
食事を前に両手を合わせた二人は、祈りの言葉も無く心の中で一日の糧に感謝を捧げる。
それは、土の国では見慣れた風景だったが、他国の民から見ると異質のものに映るらしい。
迷宮の町には、たくさんの冒険者が訪れ、国籍も様々だ。それぞれ食事の作法も異なる。だが、どこの国の民も、必ずと言っていいほど、祈るための言葉を口にしていた。
だが、土の国の民は、祈るための言葉を口にしない。
神に感謝を伝える声は、心の声こそが届くと信じられているからだ。
祈りを終えると、ロルフはアーニャに向かって優しく笑いかけた。
「さあ、おいで、アーニャ。今日はたくさん食べなさい」
「キューン!」
先程までのツンツンした態度とは一変して、可愛らしい声で応えたアーニャは、ロルフの側に座ると肉を貰って美味しそうに齧りついている。
「ホリー、頂きます」
「はい、どうぞお召し上がり下さい。食後には、紅茶とコーヒー、どちらになさいますか?」
「父上も俺もコーヒーだ」
「ハイ! 足りない物がございましたら、何なりとお申し付け下さい!」
食後のコーヒーを支度しつつ、ホリーはクラウスのお弁当の支度にかかる。昨日は本当に何もせずに眠ってしまったので、間に合わせのメニューになるが……。
コーヒーの良い香りにホッとすると、やっと母からの教えが蘇る。
『野菜よりも肉を多めに。外で動き回るなら、塩気をきかせること。心持ち、お腹がはち切れそうな量が、適量よ』
小さなバスケットに詰めようとしていたが、台所にあった一番大きいバスケットに変更した。
朝食のパンケーキに濃い目に味付けしたオムレツを挟んでサンドイッチにして、バターとマスタードをたっぷり。やっぱり足りないかも、と焼いたベーコンもサンドイッチの中身に追加した。
食後のコーヒーと共にお弁当を持っていくと、クラウスは嬉しそうに受け取ってくれて、バスケットに鼻を近づけて微笑んでいた。傍らに座っていたオールも、同じ仕草で匂いを確かめていて、何だか……。
(まるで、狼の親子みたい)
見た目は別種族なのに、何だか仕草が似通っていて本当に親子のように見える。
「朝食のパンケーキと同じ、ほうれん草の匂いがする」
「あ、当たりです!」
「それに、オムレツとベーコンの匂いもするな。今から、楽しみだ」
「あり合わせになってしまって、申し訳ありません……明日からは、パンを支度致しますので」
代替えのパンケーキはフワフワで口当たりは良いが、腹持ちが悪そうだ。
クラウスはきっと、フワフワのパンケーキよりも、ぎゅうぎゅうにボリュームのあるパン……最近作り方を覚えた、ベーグルパンを好むのではないかと思う。
「塩気のあるパンケーキは、初めてだ。美味かった」
縮こまっているホリーに、クラウスはサラリと朝食を褒めてくれた。コーヒーを飲み干すと直ぐに立ち上がる。
「では、行って参ります、父上。ホリー、父上のこと宜しく頼む」
「はい! お任せください! 行ってらっしゃいませ!」
今日は、オールがクラウスについて行くようだ。
一緒に立っているだけで、すでに正規の隊員のように頼もしく感じられた。
ホリーは玄関までついていって見送る。すると、オールが何かを言いたげに振り返った。
「オール様も、行ってらっしゃいませ!」
「……ガウ」
オールからも、ロルフのことを頼まれた気がして、ホリーはグッと力こぶを作って見せ、何度も大きく頷いた。
心なしか、オールはホッとしたような顔をして、クラウスと共に颯爽と歩いていった。
クラウスとオールを見送って戻ると、ロルフはベッドに戻らず、ソファで寛いでいた。膝の上にはアーニャがべったりと乗り上がって、甘えている。
きっと、娘のように盛大に甘やかしているんだろうなと、容易に想像できた。
「ああ、ホリー。色々と片付けが終わったら、買い物が必要だろう?」
ロルフは、可愛らしい巾着に入れたお金を、ポンと渡してきたので両手で受け取り……想定外の重みで、袋を落としそうになった。
「一月、このくらいで賄えるだろうか?」
「えぇえええ……」
多い。ずっしりと重いお金は、ザッと目算してもホリーが母と過ごしていた家計、三ヶ月分はある。庶民にとっては大変な大金だ。
「じ、十分どころか、多すぎます! そ、それに、いけません! 不用心です、ロルフ様」
「はて……」
本気でキョトンとしているロルフに、ホリーは危機感を覚えた。
私が、しっかりしなくては、と。
昨日今日会ったばかりの使用人に、一ヶ月分には多すぎる大金を、ポンと預けてしまうなんて。
大切なお金を、持ち逃げされてしまったら、どうするのだろう。
そんな不届き者は、使用人の風上にも置けないが、実際使用人が主人を裏切った場合の刑罰が重いのは、そういう裏切り行為が存在しているからだ。
「ああ、その点は問題無いだろう。ホリーは信頼に足る者だと確信があるし……」
そもそも、この家で盗みを働く者がいたら、狼が地の果てまで執拗に追いかけ回し、死ぬよりも恐ろしい目にあう羽目になるのだ、とロルフはサラリと言った。
「昔、アイシャ……妻が存命だった頃な。一度だけ、盗みの被害にあったことがあってな」
泣いているクラウスに気を取られた瞬間、財布をすり取られてしまったらしい。そこに居合わせた、護衛に付いてきていた狼が一瞬で怒り狂い、遠吠えで集まった狼達が群れを成してスリを追いかけ回したそうだ。
聞いているだけで、ゾッとする。生きた心地がしない。
散々追いかけ回されたスリは、そのまま町を警備する警備隊の元へ捕まりに駆け込んだらしい。
「助けてくれ、狼に食われる、と。そりゃもう怯えた様子だったらしい。いやはや、可哀想なことをしてしまったが、泥棒は良くない」
「そ、そうですね……」
「狼は、仲間を脅かす者に容赦しないからね。ホリーはそんな心配はないだろうが、覚えておきなさい。逆に、ホリーが危機に陥ると、これもまた、少々マズいことになる」
「は、はい……」
震える手で慎重にお金を持ち直し、しっかりと袋の口を閉じておいた。
絶対に盗られないように、用心しなくては。
盗人の方が死にたくなるくらい、可哀想な目にあってしまう。ホリーは己の行動を律することを、固く心に誓った。
狼王の下で働くことの大変さを実感しつつ、ホリーは一つ息を付いてから、仕事の段取りを確認するべく、ロルフに問いかけた。
「それでは、洗い物をしてお洗濯が終わりましたら、買い物に出かけて参ります。ロルフ様のご予定を伺っても宜しいですか?」
「今日は特に無い。ただ、明日はジル先生が来る日なので……」
簡単に今後の予定を聞いたホリーは、一週間分の仕事を頭の中でキチンと組み立てた。これも、母の教えだ。
仕事は整理を常に行う。優先順位を付けて、一つずつ確実に。並行して行えるものがあれば、その手順を考えて、工夫して時間にゆとりを持つこと。
ペコリとロルフに頭を下げて、ホリーは張り切って台所へと向かった。まずは朝食後の後片付けをしつつ、昼食の仕込みをしておく。それから、洗濯に取りかかる。
衣類を干し終わったら、オールが案内してくれた家の中を再度確認しながら掃除を進める。ちょこちょこ、不具合が起きているところがあるので、自分で直せそうなところはメモをしておいた。
やはり、この家を訪れて最初に気になった、玄関扉の蝶番を詳しく見るとだいぶ古びて錆が浮いていた。力一杯錆を落として油を差してあげると、滑らかに動き始める。
「なかなか、いいじゃないの?」
こういう小さい達成感は、ちょっと誰かに自慢したくなる。ホリーは何度か玄関扉を開け閉めして、一人でご満悦だった。視線を感じたのでチラッと見ると、アーニャがこちらを覗き込んでいた。
「あ……あの、玄関の扉が、キイキイ言っておりましたので、あ、油を差しておいたのです!」
「……フン」
直ぐにアーニャが顔を引っ込めてしまう。ホリーはちょっと恥ずかしくなって、やたら廊下をゴシゴシ磨いて、慌てて自分にあてがわれた部屋へと向かう。
台所に近い部屋は小さくこじんまりとしていて、ホリーが来るまでは物置同然だったらしく、少し埃っぽい。小さな窓を開けると外の冷たい空気が一気に入り込む。埃っぽく止まっていた部屋の時間が動き出すようで、心地良かった。
簡素なベッドと小さな机に、ちょっと傾いた椅子。たったそれだけの部屋だったけれど、なんと使用人部屋なのに暖炉がついている。これは、贅沢な部屋だ。今日明日凌げる程度にササッと整えておいて、ホリーは台所へ戻った。
洗濯を始める前に仕込んでいたスープ用の野菜だしが良い感じになっている頃合いだ。
「うん、良い感じね。今日はロルフ様にもっと美味しい物を食べて頂きたいわ!」
野菜は皮の部分に一番栄養があるので、ホリーの家では煮込み料理を作る時も、野菜を綺麗に洗って皮をむかずにそのまま刻んでいた。
だが、主人に出す手前、見栄えの問題で皮を剥かないといけない。そんな教えを受けたとき、ホリーは正直に「もったいないなぁ」と顔に出たらしい。
『ホリー。優秀な使用人とは、主人を影で支えるものなのよ』
母はそう言って、野菜の皮をこっそりと水に浸しておき、そのだしを使ってスープを作る術を教えてくれた。じっくりと水に浸しておいた野菜の皮は健気に働き、美味しいだしになる。
具材の野菜は見栄え良く綺麗に切り、だしを取った後の皮は自分達が頂く、という寸法だ。これで主人の対面と健康、両方を守ることができる。
もちろん、基本のスープは肉を骨ごと煮込んで作るストックも美味しいのだが、体が弱っているロルフには、こちらの優しい味わいが良いだろう。昨日も即興で作った野菜のスープをあんなに喜んで食べてくれたのだ。
約束通り、今日は更に美味しい物を出して、日々を楽しんで貰いたい。
(ロルフ様、今日は体調が良さそうだったからお昼のスープにも少しお肉を入れましょう)
カブとベーコンを煮込み、簡単に塩と少しだけセージを入れて味を調え、カブがトロトロになるまで煮込みながら、台所の常備品を改めて確認してみた。
お昼のスープを仕込んでいる片手鍋、大きめのフライパン、よく手入れされた大中小三つのナイフ……なんと調理器具が以上で終了だ。ある程度これで使い回せないこともないが、ホリーには不満が一つあった。
「もっと大きい鍋が欲しいなぁ……」
ホリーは母がそうであったように、大鍋でたくさん作る煮込み料理が得意だ。風の国の家庭料理レシピだと聞いて覚えたシチューやポトフなどは、何故かたくさん作れば作るほど美味しくなる。
ロルフとクラウス、二人だけの家庭とは言え、毎日厳しい訓練に励む食べ盛りのクラウスがいるのだ。
(信じられないくらい食べる年頃だと、母さんも言っていたし……)
やはり、大鍋はあって損にはならないだろう。ホリーは欲しい物のリストに大鍋を書き加えて、良い感じに煮込まれたスープに牛乳を注いだ。グラッと沸騰する寸前で火を止め、熱々のスープを器に注ぐ。
(そうだ、いずれ保存食を作らないと……)
いくら迷宮のおかげで季節問わず、新鮮な野菜を入手できるにしても、やはり冬になると価格が高騰する。
今正に冬真っ只中なので春が来てからになるが、今の内に好みを知っておきたい。
保存食の大半は、乾燥させて水分を飛ばしたものか酢漬けが主流だ。
特に酢漬けは好みが分かれるので、ロルフやクラウスが苦手だとピクルスの仕込みができないかも知れないと思い、好みを探る一皿を用意した。
簡単なサラダを作り、そこにオリーブオイルに酢を混ぜた簡単なドレッシングを作って和えて出してみた。
「お待たせしました、お昼ご飯ですよ」
「おお、ずっと美味しそうな匂いがしていて楽しみにしていたんだ。ありがとう、ホリー」
ロルフは甘えん坊のアーニャを膝に乗せたまま読書をしていたようで、しおりを挟んで顔を上げた。
「うん、サラダも美味いし、スープは昨日よりも味が深いな!」
「はい。昨日お約束した通り、これからも毎日美味しいご飯を作ります」
「嬉しいなぁ、ありがとう、ホリー。君のような気立ての良い子が仕えてくれるなど、私達はなんて果報者なのだろう」
「ろ、ロルフ様、それは褒めすぎです……」
シャクシャクと新鮮なレタスを噛みしめながら、ロルフは朗らかに笑った。
「何を言っているんだ、ホリーは凄い子だよ。私の自慢だ」
「そ、そんな、そんな、ええ、いや、あの、えへ……」
嬉しくて顔が綻びそうで、しかし主人の手前手放しで喜ぶ訳にもいかなくて、ホリーの顔面は忙しいことになっていた。
「そうだ、今日の朝、クラウスの皿にだけあったジャガイモの料理だが」
「あ、クラウス様は食べ盛りですから、一品増やした方が良いかと……」
「なんだ。それだけか? つまらんなぁ」
「え?」
ロルフはお行儀悪くフォークを咥えたまま、何だか少し意地悪く笑っていた。
「ホリーが昨日の一件で堅物の息子に惚れてくれたのかと、期待したのに」
「ほ、ほれっ!? な、なにをおっしゃるんですか、とんでもないおそれおおい!」
ホリーが全力で首を横に振ると、ロルフは「ふうん?」と言って、それ以上は追求しなかった。
「ああ、ジャガイモはクラウスの好物なんだよ。まめに作ってやってくれないか。黙って食べていたが、ホレ、ちまちまと少しずつ食べていただろう?」
「そ、そうですね……熱すぎて食べにくかったかと心配しておりました」
「ハハハ! アレはな、美味いものが無くなるのが嫌で、美味しいものほどちまちま食べるクセがあるんだよ」
「まあ! そうだったのですか」
そんなに気に入って貰えたのなら、これからはお弁当にも積極的に入れていくようにしよう、とホリーは思い……ハラハラ見守っていたあのチマチマ食べが、美味しくてもったいなくてちょっとずつ食べていたかと思うと……。
(え、なんだか、かわい……いえ、何を思ってるの私ったらクラウス様に失礼じゃないの!)
変な考えが浮かんで、慌てて打ち消していた。すると、ロルフの足元で大人しくしていたアーニャが急に姿勢良く立ち上がった。
ツンと鼻を上げ、チラチラとホリーを見ている。そうだ、ジャガイモをメニューに加えたのは、アーニャの助言があったからだ。
「なんだ、得意そうにして。作ったのはホリーなんだろう?」
「ガウガウ!」
「分かった分かった。意地悪言ってすまなかったな。お手伝いして偉いぞ、よしよし」
「キューン……」
ロルフに優しく頭を撫でられて、アーニャは幸せそうに目を閉じていた。その姿が、最高に可愛くて、チマチマ食べるクラウスの残像が吹っ飛んでしまう。
「どうも私はこの子を甘やかしてしまってな……娘のようで可愛らしくて、ついつい……こういうのはオールの役目なんだろうが、アイツは格好つけだからな、素直に娘を可愛がらないのだよ」
ロルフは楽しそうに、オールの家族のこと、山に住む狼達のことを話してくれた。
オールは本来なら、狼達のボスになれるほどの実力を持ちながら、ロルフを支えてくれること。
山のボスは、オールの弟が務めており、時には狼達がロルフを慕って遊びにくること。
「だから、狼が平気でないと、ウチでは働けないのだよ。ホリーが来てくれて、本当に助かる。ホリーは、狼が好きだろう?」
「はい!」
「珍しい女の子だ」
ホリーが興味津々で続きを促したので、ロルフも楽しそうに狼達のことを教えてくれた。聞いている内に、羨ましいなと思うようになった。
(アーニャ様には、二人もお父さんがいるのね)
実の父であるオールと、優しく甘やかしてくれるロルフ。
(良いなぁ。私も、ロルフ様の娘だったらなぁ……)
どんなに誇らしいだろう。
強くて優しくて、自慢の父がいるなんて、素敵なことだ。ふいに、あのド腐れ外道夜逃げ不倫男が頭をよぎったが、お盆でパタパタして追いだした。
「ん? どうした、虫でもいたのか? やっつけてやるぞ」
「あ、いえ。虫如き、私がロルフ様に一歩たりとも近づけさせません!」
「おお、頼もしいな。では……アーニャが、羨ましくなってしまったかな?」
「あ……」
ホリーは、真っ赤になる顔をお盆で隠して頷いた。
「そう悲嘆するものでもない。まだ、父親ができるチャンスがあるだろう?」
「え?」
母が再婚する、とかだろうか。でも、結婚生活にウンザリしている様子だった母が、新しい相手を見つける気力は無いだろう。そんな余力があったら、全部仕事に回しそうだ。
「素敵な婿殿に、頼りがいある義父がいる家庭に嫁ぐという手があるぞ」
「え」
そちらには、考えが及ばなかった。ホリーはまだ恋すらしたことが無かったのに、一人で生きる覚悟を決めていたからだ。
その為に、母から習った生きる術で、いずれは母のように自立した女性になるのが目標だった。
「例えば、ウチの愚息がお勧めだぞ。堅物で女を知らないが、その分ホリーを一途に大事にするだろうし、何かやらかしたら私が全力で思い知らせてやるから、安心しなさい」
冗談とも、本気とも取れるロルフの言葉。ホリーは、静かに首を横に振った。
「それは、無理です、ロルフ様。私はただの下働きですもの。私のような者では、クラウス様が笑われてしまいます」
「……まあ、将来のことをそんなに小さくまとめるものでもないだろう」
ホリーを認めてくれた上での、最上級の気づかいと褒め言葉として受け取ることにした。黙って頭を下げた後、直ぐに話題を切り替える。
「あ、ロルフ様、一つ相談があるのですが」
ホリーは仕事の話に切り替えて、一瞬だけ抱いてしまった淡い夢をごまかした。
お昼の片付けを終えたホリーは、ロルフの許可を得たので、希望の大鍋を一緒に買ってくることにした。この時間帯はちょうど、警備隊の見回りがある時間帯なので、ホリーが買い出しに出ても危険は少ない。
身支度を終えて商店街へ向かおうと家から出ると、スッと黒い影が寄り添った。
「アーニャ様? ロルフ様のお側におられなくて、宜しいのですか?」
「フン……」
ツンと澄まし顔のまま、アーニャが並んで歩いてくれた。これが実は、とても心強い。
「オヤァ? お嬢さん新顔だね、ここは初めてかい……ヒッ!」
「ウチの店、見て……ギャッ!」
「お姉さん可愛いね、いくら……ギョエ!」
甘い物にたかるアリのようにゾロゾロと怪しげな商人や素行の悪そうな冒険者が寄ってくるのを、アーニャが一睨みで追い返してくれるからだ。
この町に住んでいる以上、ああいった輩をスルーする精神力くらいは持ち合わせているが、やはり心細いものだ。こんなに安心して町を歩けた試しがない。
(もしかして……アーニャ様は、私を守るために?)
そんな風に思ったものの、アーニャはツンと澄ましているだけだ。更に大通りに入ると立ち並ぶ露天の客引きにあうのが常だが、全員スルー。
ホリーの前に歩きやすい道ができて、目指す屋台へ一直線に行くことができた。
ロルフに教えて貰った、この辺で一番美味しい野菜を良心価格で販売している屋台だ。
「すみません、野菜を見せて頂きたいのですが」
「はーい! いらっしゃ、おおぅうう!?」
元気に挨拶をしてくれた屋台のお姉さんは、アーニャを見て変な声を上げ、ハッと顔を上げてまじまじとホリーを見つめて来た。
「あなた、ロルフ様の所で働き始めた、メイドさん!?」
「え、ええ、はい。宜しくお願いしま」
「あらやだすっごぉい! こんなに可愛いお嬢さんだったなんて! やだぁ、びっくりねぇあなた凄いわねぇ! あ、名前はホリーちゃんっていうの? 宜しくね、アタシはナナ! この屋台の美人で気が利く情報通の看板娘で通ってるの!」
ホリーが何か言う間に三倍くらい喋る、元気なお姉さん・ナナは、情報通というだけあって、この町の噂にたいそう精通していた。
ペラペラと楽しそうにお喋りしながら、ホリーが注文した野菜を手際良く袋へ詰めていってくれた。
「それでねぇ、もう息子さんのクラウス様目当てとしか思えない貴族のお嬢様まで面接に行ったらしいのよ! こんな! こんなに、髪を高く盛り上げたお嬢さまがね!?」
「ブフッ!」
ナナの身振り手振りが面白くて、ホリーも思わず吹き出した。結局、その気合いの入ったお嬢さまはオールから紳士的撃退を受けて門前払い、髪をボサボサにして泣きながら逃げ帰ったらしい。
「そのお嬢様ってのがサァ、いちいち注文がうるさくて面倒な家のお嬢さまだったからさぁ、私もスカッとしちゃって! そうだわ、これもこれもこれもおまけしちゃうから、また来てちょうだいねぇ! どうぞご贔屓に!」
「ありがとうございます、また伺います!」
「もう、そんなにかしこまらないで頂戴よぉ! 気軽にしてちょうだい!」
「はい!」
ケラケラと軽快に笑っていたナナだったが、ホリーの後ろにいたお客さんを見た途端、慌てて髪のみだれを直して大人しそうに肩を縮めていた。
ホリーの後ろにいた男性は救助隊の印が刻まれた箱を抱えている。たぶん、訓練所の食堂を運営している方だろう。
「いつものを」
「はい」
寡黙な男性で、必要以上の言葉は無い。ナナもナナで、お得意様だろうに、世間話の一つもせず、静々とお会計を済ませている。男性は軽々と箱を担ぐと、丁寧に頭を下げていた。
「いつもありがとう」
「いえ……」
なんと、初対面のホリーが窒息しそうなほど喋っていたナナが、たった二言喋っただけだった。遠ざかりながら見守っていたホリーは、もう戻ってナナを問い詰めたい衝動をグッと堪える。
(これって、あれよね? 絶対、あれよね?)
チラッとアーニャを見ると、アーニャもホリーを見て何だかソワソワしている。ああ、今こそアーニャとお喋りできたなら。絶対に盛り上がるはずなのに。
ナナはきっと、あの人に片思いしているのだ。
いくら枯れた目標を掲げるホリーとは言え、年頃の乙女。人様の恋模様に興味が無いなんて、言っていない! そちらは、おおいに知りたい。
もっと仲良くなったら、ぜひ素敵な恋の始まりを聞き出そうと心に決め、ホリーは野菜を背負って鍋を買いに金物屋へ向かった。
実は、鍋を買えば本日の買い出しは終了になる。
肉類は、狼達が貢いでくれるので自給自足で事足りるので、食材費が大幅に助けられている。
朝起きていきなり玄関に鹿が進呈されている、なんてことが多いらしく、ビックリして気絶しないように、朝一番に玄関を開けるのはクラウスかオールに任命すると、ロルフからも言われている。
「……ガウ?」
ホリーが帳面に買った物や値段を細かく記入しているのを見て、首を傾げたアーニャが問いかけるように鳴いた。
「アーニャ様、買った物を記録してるのです。こうして、何にいくら使ったのか、分かるように記すのも私の仕事なのですよ」
「フン……」
興味深そうに帳面を覗き込んだが、さすがに人間の書く文字を読むことはできない様子だ。アーニャは直ぐに興味を失って、スタスタと歩き出した。
ロルフからは、何も言われていないが、毎週毎月、使用したお金について報告をするつもりだ。不明な使用金があってはいけない。
今ある信頼を崩さないためにも、お金の管理は行き過ぎなくらい厳しいのが正解。これも、母の教えだ。
(母さん、私も頑張るから……)
いつかまた、家族で暮らせるようになりたい。
そんな小さな夢を抱え、ホリーは買い出しの帰り道に、道端に咲いていたスノードロップを摘んで帰った。
スノードロップは、春を待つ花。長い冬の終わりを告げる花だ。
もう直ぐ、土の国には短い春が訪れようとしていた。
