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『信長の忍び』の完結。長期連載作品との幸福な関係

『信長の忍び』という漫画を知っているだろうか。
ヤングアニマルについこの前まで連載されていた戦国時代を題材とする4コマ漫画だ。

私はこの作品が大層好きで、人生の中でも指折りに入る程である。

今回はそんな『信長の忍び』が完結したということで、自分なりにその思い出と魅力を振り返ってみようと思う。
(すぐにnoteを出そうと思ったのだが、だいぶ時間がかかってしまった)

『信長の忍び』と私

自分がこの漫画に出会ったのは、8年〜9年前のことだ。
今は亡き「ニコニコでアニメを観る」習慣がまだ健在であった時分。原作の持つ4コマの魅力をテンポ感で表現するという独特な演出方法もあり、食い入るようにアニメを見ていたのを今でも覚えている。
(尺自体は短いアニメであったが、毎週配信を楽しみに待っていた。音楽も非常に良かった。完結記念で最期までアニメ化して欲しい)

アニメも終わり、当然ながら続きが気になるので、ヤングアニマルを毎週講読することとなる。

ちょうど大学2年生の頃にヤングアニマルという雑誌に出会ったわけだが、当時、この雑誌の歪なラインナップに驚いたのをよく覚えている。

とにかく肌色とピンク色が多い雑誌なのだ。
『信長の忍び』のあのデフォルメされた可愛らしい世界観とは正反対の世界。大学生のクソガキが初めて歌舞伎町に映画を見に行った、あの時の感覚に近しいものがあった。

勿体無いので、他の作品も読むようになる。
『ベルセルク』や『3月のライオン』など不定期に登場する超有名作品、『ペリリュー』のように胸が苦しくなるような不条理な世界、そしてとにかく女と胸、ケツ……。『ふたりエッチ』ですら健全に見えるような荒めのエロ系作品。

しばらく雑誌を講読する中で気づいたのは、ラインナップの中で『信長の忍び』が果たす役割が、実は縁の下の力持ちなのではないかということである。(食後の口直しであり、定番の味。必ず注文するデザートのような位置付けだ)

とにかくヤングアニマルの面々は尖りに尖っている。
攻めに攻めている作品が多い。

一方で、『信長の忍び』には安定感がある。歴史と4コマの王道を外さないし、休載も少ない。感情が大きく揺さぶられたり、極端なエロ描写もない。

連載が終わり、今、もう購読していないヤングアニマルをたまに漫画喫茶で読む時に、何か寂しいのは、『信長の忍び』がいないからであろう。

最初から読んでいって、ちょうど最後の方に『信長の忍び』を見つけて、「あぁ、今回のアニマルも面白かったな」となることで、満足感を感じていたに違いない。

重野先生をはじめとして、長期連載の4コマ漫画には、そのような雑誌全体の屋台骨のような役割があるのではないかと思う。

いずれにせよ、ヤングアニマルという雑誌にとっても、『信長の忍び』の完結は寂しい出来事であっただろう。

あの頃は、「なぜこんな雑誌に載っているんだ、『信長の忍び』…。」と思っていたが、今になって考えると、むしろヤングアニマルにこそ不可欠な作品であった。

『信長の忍び』の持つバランス感覚

以前、ガンダムジークアクスについてのnoteを投稿した際、キャラクターを人間として描くこと、そして記号化することの功罪について考えてみた(ぜひ合わせて読んでいただきたい)。

それを踏まえつつ、個人的に、この「人間と記号のバランス」を最も上手にとっているのは『信長の忍び』なのではないかと思っている。

ここまできて、やっと作品の中身について触れていこう。

主人公の千鳥は織田信長に拾われ、友人の助蔵と共に”信長の忍び”として、戦国時代を生き抜いていく。

特筆すべきは、主人公として架空のキャラクターの千鳥を置いたことだろう。

戦国4コマ作品を多数執筆する重野先生ではあるが、そのほとんどが実在した歴史上の人物を主人公に据えたものであり、この点において、『信長の忍び』の立ち位置は少しばかり異質であると言える。

思うに、重野先生は「歴史を描こう」としたのではなく、「歴史を生きよう」としたのではないだろうか。

信長の忍びを読んでいると、歴史の大まかな流れやエピソード、戦いの趨勢以上に、千鳥の行動や感情に没入することが多いように感じる。

これは歴史系作品として画期的なことである。

なぜなら、歴史系作品の最大の難しさは時代考証になるからだ。
史実との整合性、いわゆる実証主義との折り合いが上手くいかない作品ほど、”歴史好き””歴史オタク”の反感を買いやすい(歴史学者は案外、寛容なイメージがある)。

その点、『信長の忍び』は、実証主義との折り合いを上手に克服しているように思われる。すなわち、千鳥という架空のキャラクターの物語であるとして、一人称的に語ることで、ストーリー(つまりは歴史)を、彼女中心に都合よく回すことができるのだ。結果として、実証性を突き詰める必要性が薄まっている。
(最初に分かりやすく”嘘”をつくことで、リアリティラインを下げている。デフォルメが効いた独特な絵柄もこれを助けていると言えよう)

ゆえに、実証主義に過度に振り回されず、読む際にもノイズになるようなことがない。千鳥というキャラクターの発明こそが、この作品の大ヒットを象徴しているといっても過言ではない。

先ほど、重野先生が「歴史を生きようとした」のではないかと書いた。

信長に憧れる千鳥の姿を見ていると、重野先生の「歴史が好きだ、歴史って面白いんだ」という思いが重なっているように感じることが多い。

これが矛盾なく重なるのは素晴らしいことだと思う。

歴史って面白いんだ。だからもっと知りたい。
学校の社会の授業の時に感じた感覚。歴史系作品の読者が潜在的に抱えているあの感覚を、千鳥というキャラクターが掬い取る造形になっている。
(今はTwitterで「史実なら〜」と大河ドラマに文句を垂れているそこのあなたも、きっと最初はこの感覚から始まったはずだ)

冷静に考えてみれば、歴史historyとは結局、物語storyであって、誰かの解釈を通じて受容されてきたものに過ぎない。

最初に「この人物の目を通して、歴史を語りますよ」と宣言した重野史観は、ある意味で歴史に対して誠実そのものであったのかもしれない。


さて。改めて、人間と記号の問題に話を戻すと、
千鳥という人物は作者の分身ながら、一貫して、人間的に描かれており、読者の感情移入を誘うキャラクターとなっている。

これはジークアクスにおいて、ガンダムの歴史に投入されたマチュやニャアンといったキャラクターが達成できなかったものであって、彼女たちはあと一歩のところで千鳥になり損なってしまったとも表現できる。

私個人として、千鳥は歴史系作品の主人公の一つの完成系なのだろうと思うわけだ。(「記号」の物語の中に放り込む際の理想の「人間」像)

一方で、織田信長、明智光秀といった味方の面々、足利義昭や顕如といった敵の面々は史実のエピソードを軸として、分かりやすい特徴を備えた記号的キャラクターとして描かれている。
(分かりやすい特徴:信長→甘いもの好き、光秀→ツッコミ役などなど)

この点はジークアクスにおいて史実キャラが記号的に描かれたのと似ている。要するに歴史系作品の醍醐味の一つ、文脈を味わうという点であろう。重野先生のデフォルメの上手さは、キャラクターの記号化においても生かされている。

そこに、4コマ漫画という舞台設定が完璧なほどにかけ合わさる。
4コマ目に必ずオチが来るという都合上、キャラクターの記号性が活用しやすいためである。実際、信長の甘いもの系オチ、光秀のツッコミオチは絶品だ。(note執筆者が好きなのは、帰蝶のサイコ系オチである)

かといって、この記号化がストーリーのドラマ性、キャラクターへの感情移入を損なわせるかと言えば、必ずしもそうとはならないのがこの作品の肝である。

世界観の都合上、登場人物の死は(たとえ人気キャラクターであろうと)免れ得ない。その際、過度な記号化は読者の感情移入を阻害してしまい、ドラマとしての重厚感は失われてしまうように思える。

ここで、やはり千鳥というキャラクターの人間性がいきてくる。

信長の忍びにおいて、キャラクターたちは千鳥という人間にだけ、ほんの少し、人間の顔を見せてくれる。

例えば、松永久秀が亡くなったとき、自分は千鳥を通じてかなりの喪失感を覚えた。

単なるセクハラジジイだったくせに最後の最後に、自分の弱さについて吐露するのだ。「裏切り」の記号だったキャラクターが、退場の間際に、千鳥にだけ本音を述べてくれる。

それは作者と歴史の間の対話なのかもしれないし、千鳥が世を忍ぶ存在、「忍び」であるからこそ聞き出せる本音なのかもしれない。
いずれにせよ、千鳥という人間が、記号であったキャラクターたちと読者の我々とを繋ぐ回路のような形で機能していることは明白である。

歴史の持つ記号性の面白さを全面に展開する一方で、千鳥という人間のキャラクターからドラマを生み出す。

この「バランス感覚」こそが、『信長の忍び』の持つ唯一無二の魅力の一つであるだろう。

「大切な人のために生きる」重野史観

『信長の忍び』において、キャラクターたちの人間味に貢献するもう一つの要素が人間関係であるように思う。

自分がこの論考を書こうとした時、真っ先に考えたのが重野史観についてである。

重野史観と書くと、なんだか仰々しいのだが、あえて歴史を語る人物として重野先生を捉えた時、その根幹に来るテーマは「大切な人のために生きる」なのではないだろうか。

主人公千鳥は何よりも信長のために、そして助蔵のために。
助蔵、信長、秀吉、光秀、森可成、敵方の面々にも(千代女が代表であるが)「大切な人」がいる。

歴史を語る際のテーマ設定として、これは少々珍しいかもしれないなと感じる。スケール感としては、小さくなるからであろうか(天下布武を掲げる織田信長を題材に取っているからこそ尚更だ)。

一方で、私たちにとって馴染み深いテーマであることは間違いない。

それが家族であろうが、恋人であろうが、主君であろうが、友人であろうが、私たちの人生に「大切な人」がいないことなどないからだ。

人間が「大切な人のために生きた」証が歴史となる。
信長に仕える忍びを主人公に据えた時から、この作品のテーマ、この作品で語られる歴史観は方向づけられていたのかもしれない。

だからこそ、他の歴史系作品とは一風変わった読み味を覚える。
デフォルメされた記号的なキャラクターたちに、妙な人間味を感じる。

戦国時代は歴史の花形だと語られることが多い。

人間が殺し合って社会が変化する。
一つの巨大な権力が形成されていく。
技術が革新される。
同時に、格差が生まれる。それがひっくり返る。
常人を外れた行動が時代を切り開いていく。
英雄が生まれる。

私たちはそこに、なんだか「大きな物語」を追ってしまうのかもしれない。
一方で、重野史観が提示するのは、「小さな物語」とも言える。

『信長の忍び』とは、4コマに収まるように、戦国時代を最も小さく語った作品ということになるかもしれない。

けれど不思議なもので。
そんな「小さな物語」が、妙に心に響くのも事実である。
「小さな物語」には、読者に寄り添う力が備わっているように思うのだ。

ヤングアニマルという雑誌を読む中で、『信長の忍び』に感じていた安定感の根源はそこにあるのだろう。

そして、あえて戦国時代を、歴史を、小さく・身近なものとして語ってみせた重野史観もまた、この作品の持つ唯一無二の魅力の一つであると考える。

※少々余談。
『信長の忍び』以降、現在も様々な媒体で連載される作品群にも、この重野史観が通底しているように思われる。

一方で、この重野史観の論理から逸脱しているキャラクターも存在する。
それは徳川家康だ。

徳川家康に関しては、徹頭徹尾、記号的。
歴史上の人物として描かれる印象が強い。

作者はあまり家康に思い入れはないのか、と思わなくもないのだが、「大切の人のために」という思いだけでは天下を取ることはできないという、重野史観へのアンチテーゼの役割を担っているキャラクターなのかもしれない。
(確かに、『家康の忍び』ではここまでのヒット作にはなっていないように思える)

忍びと偲び

この論考を書こうと思ったのは、『信長の忍び』の最終回と最終巻にあまりにも心を打たれたからである。

上の部分で、キャラクターの記号性の話を出した。
記号性は確かに、「手っ取り早くそのキャラクターを掴むため」に有効な手段だ。一方で、キャラクターの深みを損なってしまい、人間性を失ってしまう危険も孕んでいる。その典型がジークアクスだと思っている。

ただし、『信長の忍び』ほどの長期連載となった時、あるいは雑誌で月に数度顔を合わせ続けてみると、その記号性というのは、人間性そのものに変化するのだと強烈に感じることとなった。

本当に最後の場面。
豊臣秀吉が大坂城に忍び込んだ曲者に呼びかける。

あと少し…東国を制したら…信長様の夢だった天下統一が叶うでござる!!
その時は信長様を偲んで一緒に甘い物を食べよう!!
また会おうでござる!!千鳥殿ー!!

重野なおき『信長の忍び』23巻より

自分にはこの場面がクリティカルヒットしてしまい、嗚咽を止めることができなかった。

この4コマのタイトルは「信長の忍び」で、作品そのものの題名を題名を回収している。

「忍ぶ」と「偲ぶ」。
おしゃれな掛け言葉であると共に、私たちがなぜ歴史が好きなのかを改めて考えさせられる。

「偲ぶ」とは、「過去や遠くの人、場所を恋い慕うこと」。
まさに歴史に想いを馳せることではないか。

そして、故人を偲ぶ際、私たちはその人が生前「好きだったもの」に想いを馳せることができる。懐かしさを感じて心が締め付けられ、寂しさを感じて涙を流す。

重野作品には、「歴史が好きなんだ」「歴史って面白いんだ」という思いが溢れている。
それは、あの頃、社会の授業でワクワクしていた自分たちの姿と重なるものだ。

だから皆、『信長の忍び』が好きなのだ。

最終話を読んで、秀吉の言葉と重なるように、あの甘い物が大好きだったキュートな織田信長を思い出す。
長い長い作品の歩みの中で、記号性は人間性へと変わっていたのだ。

そして、作者の分身たる千鳥がなぜ、「忍び」であったのか。
それはこの物語が歴史を、織田信長の人生を「偲ぶ」ものであったからかもしれない。

最終回、秀吉の「また会おうでござる!!千鳥殿ー!!」という言葉は、歴史の側からの作者への呼びかけなのかもしれない。

そのように考えると、重野なおきとはなんと幸福な創作者であろうか。
まだまだ語ることは多いんだよ、偲ぶことは多いんだよ、と歴史の側から言われているのだから。

『信長の忍び』が終わった。
長期連載の終わりは、読者の側においても、とてつもない喪失感をもたらす出来事だ。そして、幸福な出来事だ。

千鳥と助蔵に再び出会える日を切に願う。
そして今日ばかりは、コーヒーのお供に甘い物でも食べることにしよう。
『信長の忍び』を偲んで。

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