民意|つながる寓話「笑いの調べ」第36話
魔王が倒れ、世界に平穏が戻った時、人々はその立役者たちを称えた。
なかでも貧民街の出身でありながら、傷ついた仲間をその慈愛で癒やし続けた聖女リブラの美しさは、物語の終章を飾るにふさわしいものだった。
やがてリブラは、その清廉さを愛したこの国の王子と結ばれる。身分違いの婚礼に国民は湧き立ち、誰もが新たな時代の光を信じた。
しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。
王子が国王となって間もなく、原因不明の重病に倒れたのだ。子をなす間も無く床に伏した夫に代わり、国王の冠はリブラの頭上に戴かれた。
「私は賢くありません。けれど、王としてこの国の人々を愛し、救いたいのです」
戴冠の儀でリブラは涙を浮かべ、そう誓った。その心根に嘘はなかった。ただ、彼女には国家を動かすための知識も、人の裏を読む狡猾さも欠けていた。
国の実権を握ったのは、先代から仕える老獪な大臣だった。
大臣はリブラの優しさを巧みに利用した。
「王女様、民の幸せのためには、規律と統制が必要です。愚かな民は、放置すれば悪事に走り、自らを滅ぼします。彼らに正しい道を示してあげることこそが、真の慈愛でございます」
大臣の言葉を真に受けたリブラは、次々と発布される書類に頷き、王印を押し続けた。
法律は日ごとに厳しくなった。
職業の選択は生まれによって制限され、住む場所の移動も禁じられた。日々の祈りの時間から、歌うことのできる歌の歌詞、街で着てよい服の色に至るまで、あらゆる生き方が国家によって緻密に決められていった。
大臣の手腕により、治安は劇的に改善した。街から盗賊は消え、税の徴収は滞りなく行われ、飢えで倒れる者は減った。数字の上では、国はこれまでにない安寧と秩序を手に入れていた。
しかし、人々の表情から彩りが消えていった。
どれほど安全であっても、己の意思で明日を選ぶ権利を奪われた暮らしは、壁のない牢獄と同じだった。
「なぜ、民は笑っていないのでしょう?」
城の窓から街を見下ろし、リブラが不安そうに呟く。
「滅相もございません。皆、王女様の深い愛によって保護され、平和を噛みしめているのです」
大臣は微笑み、リブラの不安を優しく打ち消した。リブラは胸をなでおろし、自分は正しいことをしているのだと信じ続けた。
民の怒りが爆発したのは、それからすぐのことだった。
一人の若者が、定められた職業を拒み、自らの意志で旅に出ようとして捕らえられた。それをきっかけに、抑圧されてきた民の不満は激しい怒りの炎となって国中を駆け巡った。
彼らが掲げたのは、パンの増給でも、減税でもなかった。
ただ一言、自由であった。
民衆は城へとなだれ込んだ。兵士たちもまた民と同じ想いを抱いており、城門はあっけなく開かれた。
大臣は真っ先に逃亡し、残されたのは玉座で震えるリブラだけだった。
民衆の代表として玉座の間に踏み込んできたのは、かつてリブラが貧民街で一緒にパンを分け合った幼馴染の男だった。
「リブラ……いや、王女様。俺たちはあんたを恨んじゃいない。あんたが俺たちを救おうとしてくれていたことも知っている。だが、この国はもう限界だ」
男は静かに、しかし拒絶の意を込めて言った。
「俺たちは、守られるだけの子供じゃない。間違えても、傷ついてもいい。自分たちの足で歩き、自分たちの意思で生き方を選びたいんだ」
リブラには、彼が何を怒っているのか完全には理解できなかった。治安を守り、飢えさせず、平和を与えたはずだった。それなのに、なぜ彼らはそれを投げ打ってまで、危険で不安定な荒野へ飛び出そうとするのか。
国を追放されることが決まった日、リブラは着の身着のままで城を後にした。民衆は彼女に石を投げることはしなかったが、誰もその背中に声をかける者はなかった。
それから数年。
リブラは国のはずれにある深い森の奥で、小さな小屋を建てて暮らしていた。
朝は小鳥のさえずりで起き、腹が減れば木の実を拾い、気が向けば花を育てる。城にいた頃のような贅沢な食事も、暖かなベッドもない。病になれば誰も助けてはくれず、嵐が来れば小屋ごと吹き飛ばされるかもしれない危険と隣り合わせの毎日だった。
それでも、森を抜ける風を肌に受けながら、リブラはふと自分の中に芽生えた確かな感情に気づく。
明日の予定も、食べるものも、着るものも、すべて自分が決める。失敗するかもしれない恐怖と引き換えに手に入れたのは、息が止まるほどに鮮やかな生きている実感だった。
リブラは遠く、かつて自分が治めた王国の方向を眺めた。
あの国で暮らしていた人々も、いま、この風と同じものを感じているのだろうか。
そして、自分が与えようとした正しい平和と、彼らが血を流してまで手に入れた不完全な明日の、どちらが人を幸せにするのだろうか。
答えてくれる者は、もう誰もいなかった。
小さな問い
・規律による安定と自由による不安定はどちらを優先するべきか?
・そもそもこの2つは、バランスをとるものなのか?それとも両立できるのか?
・社会は何を目指すべきか?
