なぜ人は失踪しないのか?—『Tシャツが乾くまで』から考える
「どうして失踪したのだろう?」
人が突然いなくなれば、残された人はそう考えます。
仕事が嫌だったのか。
家族との関係に悩んでいたのか。
何か大きな問題を抱えていたのか。
そして私たちは、「失踪するほどの理由」を探そうとします。
でも、『Tシャツが乾くまで』を観ながら、私は少し違うことを考えていました。
本当に不思議なのは、
「なぜ人は失踪するのか?」ではなく、「なぜ人は失踪しないのか?」なのではないか。
失踪しないことを、私たちは当たり前だと思っている
朝になれば起きる。
仕事に行く。
学校に行く。
約束した場所へ行く。
連絡が来れば返信する。
そして、家に帰る。
このように、次の日も同じように生活する。
私たちは、それを「普通」と呼びます。
けれど考えてみれば、毎日同じ場所に現れ続けることだって、かなり大変なことです。
仕事がつらい日もある。
人間関係に疲れる日もある。
誰にも会いたくない日もある。
何もかも投げ出したくなる日だってある。
それでも、多くの人は翌朝になると起きて、いつもの場所へ向かいます。
失踪しない。
そのことのほうが、実は不思議なのかもしれません。
「逃げないこと」が美徳になっている
私たちの社会では、逃げないことがしばしば肯定的に語られます。
責任を果たす。
最後までやり遂げる。
困難から逃げない。
我慢する。
どれも大切な価値観です。
社会は、人がある程度「逃げない」ことを前提として成り立っています。
会社員が突然会社からいなくならない。
親が突然家庭からいなくならない。
友人が突然連絡を絶たない。
誰もが明日も同じ場所にいるだろう。
私たちは、そんな期待をお互いに抱きながら生活しています。
だから、失踪は「異常な出来事」に見える。
「なぜ、そんなことをしたの?」
と理由を知りたくなる。
でも、問いを反対にしてみると景色が変わります。
なぜ私たちは、そこまでして逃げないのでしょうか。
逃げることを「禁じ手」にしない
毎日が楽しい。
仕事も人間関係も順調。
そんな人生なら、失踪について考える必要などないでしょう。
けれど、現実はそれほど単純ではありません。
苦しい。つらい。もう行きたくない。全部やめたい。
退職代行を利用しな買ったとしても「モームリ」と思うこと、しばしば。
そんな気持ちを抱えながら生活している人もいます。
そのとき、
「逃げてはいけない」
という選択肢しか持っていなかったらどうでしょう。
逃げることを絶対的な禁じ手にしてしまえば、ますます自分で自分を追い詰めることにもなりかねません。
もちろん、現実の失踪は残された人を傷つけます。
家族や友人を不安にさせ、生活上のさまざまな問題を生じさせることもあります。
だから、失踪そのものを肯定したいわけではありません。
大切なのは、
「逃げてもいい」という選択肢まで、自分から奪わないこと。
なのだと思うのです。
失踪と「逃げる」は違う
ここで、少し言葉を分けて考える必要があります。
失踪することと、逃げることは同じではありません。
会社を辞めてもいい。
学校を休んでもいい。
人間関係から距離を置いてもいい。
住む場所を変えてもいい。
スマートフォンの通知を切ってもいい。
一日くらい誰にも会わなくてもいい。
つまり私たちは、本当に姿を消さなくても、人生の途中で「小さく失踪する」ことができます。
それは無責任というより、自分を守るための退避なのかもしれません。
完全に壊れてしまう前に、その場所から離れる。
逃げ道を残しておく。
人生には、そんな技術も必要なのではないでしょうか。
なぜ人は失踪しないのか?
失踪した人を見て、
「どうして逃げたのだろう」
と私たちは考えます。
でも、本当は反対なのかもしれません。
苦しくても仕事へ行く。
つらくても人に会う。
嫌になっても家に帰る。
そして翌朝、また同じ生活を始める。
なぜ人は、これほどまでに失踪しないのでしょう。
責任があるから。
大切な人がいるから。
社会とのつながりがあるから。
そして、おそらく私たちは、
「明日は今日とは少し違うかもしれない」
という小さな期待を、どこかに持っているからなのだと思います。
だから人は、今日も失踪しない。
けれど同時に、
「どうしても苦しくなったら、逃げてもいい」
という扉くらいは、自分の人生のどこかに残しておきたい。
逃げない人生よりも、
逃げることもできるのに、今日はここにいる。
そう思える人生のほうが、少しだけ自由なのではないでしょうか。
『Tシャツが乾くまで』を観ていると、「失踪」という特殊に見える出来事が、いつの間にか自分自身の問題として迫ってきます。
なぜ、人は失踪するのか。
いや。
なぜ、私たちは失踪しないのか。
その問いのほうが、ずっと深いところで私たちの日常につながっているように思うのです。
関連書籍メモ
この脚本を読んでみたいです!
関連記事
