その境界に、本当に意味はありますか?——『Tシャツが乾くまで』
人は、どうしてこんなにも「線を引きたがる」のだろう。
ドラマ『Tシャツが乾くまで』を観ながら、そんなことを考えていました。
不倫だったのか。
不倫ではなかったのか。
そこには大きな違いがあるように思えます。
「不倫ではなかった」
そうわかった瞬間、どこか安心する。
反対に、
「これは不倫だ」
と判断した瞬間、同じ出来事がまったく違って見えてくる。
人間関係そのものが変わったわけではありません。
起きた出来事も変わっていない。
それなのに、そこに名前がついた瞬間、わたしたちの感情は大きく動き始めます。
「これは結婚だ」
恋愛にも、たくさんの境界があります。
付き合っている。
付き合っていない。
恋人である。
友人である。
そして、その先には「結婚」という、とても大きな線があります。
「これは結婚だ」
そう確認できることで、幸福感を得ることがある。
二人の関係が社会的にも認められ、これから先も続いていくような感覚を持つ。
一方で、
「こんなの恋愛じゃない」
と思った瞬間、その関係に怒ったり、悲しんだりする。
昨日まで存在していた二人の時間そのものが消えてしまったわけではないのに。
関係につけられた名前によって、その時間の意味まで変わってしまうのです。
わたしたちは境界の間で生きている
考えてみれば、人生はこうした境界だらけです。
恋愛か、恋愛ではないのか。
結婚か、結婚ではないのか。
家族か、家族ではないのか。
友人か、友人ではないのか。
不倫か、不倫ではないのか。
わたしたちは、そのどちら側にいるのかを確かめながら生きています。
そして、その線のこちら側にいることで幸福になり、向こう側に出てしまったことで不幸になる。
もちろん、境界には意味があります。
とくに結婚には法的な意味があり、不倫という言葉にも社会的・倫理的な意味があります。
だから、「そんな線引きなんて全部どうでもいい」と言いたいわけではありません。
でも。
それでも、考えてしまうのです。
本当に、その境界に意味ってありますか?
わたしたちが幸福だと思っているものは、本当に幸福なのだろうか。
わたしたちが「これは不幸だ」と決めているものは、本当に不幸なのだろうか。
「恋愛」と名づけなければ、大切ではないのでしょうか。
「結婚」という枠の中に入らなければ、二人で過ごした時間には意味がないのでしょうか。
反対に、「不倫」という名前がついた瞬間、それまでそこにあった感情や時間のすべてが偽物になるのでしょうか。
人間は、世界を理解するためにカテゴリーをつくります。
名前をつけ、分類し、境界を引く。
そうしなければ、複雑すぎる世界を理解することができないからです。
けれども、ときどきその順序が逆転します。
人間がつくったはずの境界によって、人間の幸福や不幸が決められてしまう。
『Tシャツが乾くまで』は、そこをど正面から突いてくる作品だったように思います。
Tシャツが乾くまで
人の人生は、決して長くありません。
その短い時間のなかで、誰かと出会う。
誰かを好きになる。
一緒にいたいと思う。
離れたくないと思う。
それでも離れることがある。
そして、その一つひとつに、わたしたちは名前をつけていきます。
恋愛。
友情。
結婚。
家族。
不倫。
別れ。
それらの言葉は、わたしたちが生きるために必要なものなのでしょう。
でも、言葉よりも先に、人と人との時間がある。
名前をつけるよりも先に、そこで過ごした時間がある。
幸も不幸ももたらす、いくつもの線引き。
その境界の間で揺れながら、わたしたちは決して長くない人生の歩みを進めています。
だからこそ、ときどき立ち止まって考えてみてもいい。
本当に、その境界に意味ってありますか?
『Tシャツが乾くまで』。
そのタイトルのように、ほんの少しの時間だけでも。
わたしたちが当たり前だと思っている境界について考えてみる。
そんな余白を残してくれるドラマでした。
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