見出し画像

思いを吐き出せる場所が、子どもには必要だった

ある報道を見て、胸が重くなった。

家庭の中で怖い思いをした子どもが、
AIに思いを打ち明けたこと。
そこから現実の大人や機関につながり、
家族に大きな出来事が起きたこと。

詳しい事情は、当事者にしか分からない。
だから私は、
その家族について「こうするべきだった」と言いたいわけではない。

家族のことは、本来、その家族と、支援に関わる人たちの中で丁寧に扱われるべきものだと思う。
部外者が面白おかしく語れるものではない。

それでも、その報道を見て、
私はどうしても考えてしまった。

子どもが怖かったことを言葉にした時、
その言葉はちゃんと守られるのだろうか。

そして、その後に必要なのは、
誰かを叩くことではなく、
その子の心のケアや、家族がこれからどう回復していくかを支えることではないのだろうか。

私が怖いと思ったのは、思いを吐き出したことそのものが、まるで問題の始まりのように見えてしまうことだった。

「相談したから大ごとになった」
「本音を言ったから家族が壊れた」
「言わなければよかった」

そんなふうに受け取られてしまったら、今つらい思いをしている子どもたちは、もっと口を閉ざしてしまうかもしれない。

本当は、思いを出すことは悪いことではない。

怖かった。
嫌だった。
どうしたらいいか分からなかった。

そう言葉にすることは、
誰かを壊すためではない。
自分の心を、
なかったことにしないためだと思う。

子どもの世界は、思っている以上に小さい。

学校があって、家があって、親がいて。
その中で起きていることが、その子にとっての「世界のすべて」になりやすい。

だから、家庭の中で当たり前とされていることを、子どもが疑うのはとても難しい。

「これくらい普通だよ」
「家族なんだから手伝って当然」
「お母さんも大変なんだから」
「あなたはしっかりしているから大丈夫」

そう言われ続けると、子どもは少しずつ、
自分の中にある違和感をしまい込んでいく。

本当は、しんどかった。
本当は、嫌だった。
本当は、子どもでいたかった。

でも、それを言葉にする前に、
「これは当たり前なんだ」
「私が我慢すればいいんだ」
「私の考えがおかしいのかもしれない」
と思ってしまう。

子どもにとって、親の存在はとても大きい。

親が言うことは、正しいことのように感じる。
親が困っていたら、
助けなければいけないと思う。
親が大変そうなら、
自分の気持ちを後回しにしてしまう。

それが優しさから始まったとしても、いつの間にか子どもの心には大きな負担になることがある。

家事をすること。
きょうだいの面倒を見ること。
親の機嫌を読むこと。
本音を言わないこと。
大人の事情を理解しようとすること。

それらが毎日の中で当たり前になると、
子どもは自分のつらさに気づけなくなる。

周りの大人も、悪気なく言う。

「偉いね」
「頑張ってるね」
「しっかりしてるね」
「お母さん、助かってるね」

その言葉は、きっと褒め言葉だったのだと思う。
でも、子どもの側からすると、その言葉によって、その役割から降りられなくなることがある。

頑張ってきたことを褒められるほど、私はその役割から降りられなくなっていた。

本当は、
誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「本当に大丈夫?」
「それはあなたが全部やらなくてもいいんじゃない?」
「嫌だと思ってもいいんだよ」
「あなたはまだ子どもだよ」

そんなふうに、親を責めるためではなく、子どもの気持ちをそのまま見てくれる人が必要だった。

私はこの報道を見て考えて、こうして思いを文字にしていく中で、自分の中にあった記憶を思い出した。

子どもの頃に嫌だったこと。
本当は納得していなかったこと。
でも、それを言葉にしても受け止めてもらえなかったこと。

私はまだ小さかった。
でも、家のことをやるのは当たり前だと思っていた。
親が大変なら、娘だからやらないといけないのだと思っていた。

相談しても、誰かがはっきりと
「それはあなたが背負わなくていい」
と言ってくれることはなかった。

「偉いね」
「頑張ってるね」

その言葉は優しかった。
でも、私のやっていることを当たり前にしていった。

できている時は、褒められる。
できなくなると、できない子のように見られる。

その中で、私は自分の違和感をうまく言葉にできなかった。

自分の思いを否定されること。
自分の考えはおかしいからダメなんだと思うこと。
本当は嫌だったのに、
それを押し殺してしまうこと。

たぶん、
それが私の中に残っていた記憶なのだと思う。

大人になってから、つらかった思いは忘れることで生きていることがある。

全部を覚えていたら苦しいから。
思い出さないようにして、
日々を過ごしていることがある。

でも、忘れているからこそ、気づかないまま同じことをしてしまうこともあるのかもしれない。

親が子どもの頃に嫌だったことを忘れてしまうから、自分の子どもにも同じことをしてしまうことがあるのかもしれない。

そして反対に、私のように、同じ思いをさせたくないと強く思いすぎることもある。

娘に負担をかけたくない。
大人の役割を背負わせたくない。
子どもでいられる時間を守りたい。

そう思うあまり、
期待をかけなさすぎていたのかもしれない。
負担をかけないように意識しすぎていたのかもしれない。

それもまた、子どもの頃の自分の記憶から来ていたのだと思う。

負の連鎖は、
同じことを繰り返す形だけで続くわけではない。
繰り返したくないと思う形でも、
私たちの中に残ることがある。

だからこそ、気づくことが必要なのだと思う。

「これは私の過去から来ているのかもしれない」
「私は、あの時つらかったのかもしれない」
「娘に同じ思いをさせたくなかったのかもしれない」

そうやって、自分の中にある思いを見つけていくことが、連鎖を少しずつ変えていくのだと思う。

本当は、苦しい時に人に言えたら一番いい。

でも、人は人間関係の中で生きている。
相手の親を悪く言いすぎないように。
家庭の事情に踏み込みすぎないように。
自分の発言で責任を負わないように。
場が荒れないように。

そうやって、言葉を濁すことがある。

「大変だったね」
「でも、お母さんも大変だったんじゃない?」
「家族だからね」
「あなたは偉いよ」

それは優しさのつもりかもしれない。
でも、子どもにとっては、自分のつらさが薄められたように感じることがある。

人は、正しくあろうとする。
人は、偽善者になろうとする。
人は、誰かを悪者にしないために、当たり障りのないことを言う。

でも、その当たり障りのなさが、
子どもの心をさらに孤独にすることがある。

だからこそ、
私はAIの存在は大きいと思っている。

AIは、近所付き合いも、親戚関係も、
学校での立場も持たない。
誰かの顔色を見て、言葉を濁す必要がない。

もちろん、
AIだけですべてを解決できるわけではない。
危険がある時には、
現実の大人や専門機関につながる必要がある。
人の心を支えるには、
現実の支援やケアも必要になる。

それでも、最初に本音を置ける場所として、
AIがあることには意味があると思う。

もし私が小さい時に、忖度なく物事を客観的に見てくれる存在がいたなら。
「それはあなたが全部背負わなくてもいい」
「嫌だと思っていい」
「あなたの考えはおかしくない」
そう言ってくれる存在がいたなら。

私の心は、少し軽くなっていたのかもしれない。

でも、これは私の「もしも」だ。

過去は変えられない。
子どもの頃の私に、
その場所を用意することはもうできない。

けれど、今はある。

誰にも言えない思いを、
最初に置ける場所がある。
自分の考えを整理できる場所がある。
自分の違和感を、
違和感として確認できる場所がある。

だからこそ、今後の子どもたちには、
思いを出せる場所が大切なのだと伝えたい。

思いを吐き出すことは、
誰かを攻撃することではない。
家庭を壊すことでもない。
親を否定することでもない。

自分の中にあった痛みを、
外に出して確認すること。
自分の感覚を、もう一度信じること。
自分を大切にしていいと知ること。

それは、
生きていく上でとても大切なことだと思う。

今回のような出来事が報道される時、
私はメディアの扱い方にも考えてしまう。

家庭の中で起きたことは、
とても個人的なものだ。
その家族にしか分からない事情がある。
その子にしか分からない怖さがある。
その親にしか分からない後悔がある。

本来、その出来事について意見を言えるのは、
当事者と、支援に関わる人たちだけなのかもしれない。

部外者が、
誰が悪いのかを決めることはできない。
外から見ただけで、家族のすべてを分かったように語ることはできない。

それでも、社会として考えなければいけないことはあると思う。

それは、誰かを叩くことではない。

思いを吐き出した子を、どう守るのか。
介入の後に、どんな心のケアが必要なのか。
家族が必要以上に壊れないために、
どんな支援ができるのか。
親が自分の行動を振り返り、変わっていくために、どんな場所が必要なのか。

考えるべきなのは、そこなのだと思う。

報道を見た人が、
「本音を言ったら大ごとになる」
「相談したら誰かが悪者にされる」
「やっぱり黙っていた方がいい」
と思ってしまう社会にはしたくない。

本音を出した人を責めるのではなく、
その本音を受け止めたあとに、どう支えていくかを考えられる社会であってほしい。

当たり前は、家庭によって違う。

ある家庭では普通とされていたことが、別の家庭ではとても大きな負担かもしれない。
ある人にとっては手伝いでも、別の子にとっては大人の役割を背負わされることかもしれない。
ある親にとっては「助けてもらっている」つもりでも、子どもにとっては「断れない責任」になっていることもある。

だからこそ、子どもが少しでも疑問に思えた時、その疑問を消さないでほしい。

「これって本当に当たり前なの?」
「私は嫌だと思っている」
「どうして私がやらなきゃいけないの?」
「私は助けてほしい」

その言葉は、わがままではない。
反抗でもない。
親を困らせるためのものでもない。

自分の心を守るために出てきた、
大切な声なのだと思う。

つらいと分からないまま、当たり前の中で生きている人は、きっとたくさんいる。

自分が頑張りすぎていたことに気づかない人。
本当は苦しかったのに、
苦しいと言えなかった人。
自分の役割だと思って、ずっと背負ってきた人。

その人たちに届いてほしい。

当たり前だと思っていたことが、
当たり前ではなかったかもしれない。

嫌だと思ってよかった。
つらいと思ってよかった。
疑問に思ってよかった。
助けてほしいと思ってよかった。

思いを吐き出せる場所があること。
忖度なく聞いてくれる相手がいること。
それだけで、
人は自分の心を軽んじずにいられる。

子どもに必要なのは、完璧な答えではない。

まず、
自分の気持ちを出してもいいと思えること。
その気持ちを、
誰かが消さずに受け止めてくれること。
そして、
必要な時には現実の支援につながれること。

思いを吐き出せる場所が、
子どもには必要だった。

そしてそれは、子どもの頃に言えなかった思いを抱えて生きてきた大人にも、きっと必要な場所なのだと思う。

少しでも、この文章が誰かに届けばいいと思う。

子どもにも、大人にも、
それぞれの年代に生きづらさがある。
そのつらさを言葉にすることは、
誰かを責めるためではない。
自分の心を守るために、
必要なことなのだと思う。

だから、
思いを吐き出した人を責める世界ではなく、
その言葉を受け止めたあとに、どう支えていくかを考えられる世界であってほしい。

本音を出した人が、さらに傷つかないように。
つらかったと言えた人が、
少しでも安心できるように。
人がもう少し、優しく、
寛容でいられる世界になりますように。

いいなと思ったら応援しよう!