では藤原宮はどこにあったのか——諸説の検討と残された課題
では藤原宮はどこにあったのか——諸説の検討と残された課題
——比定論争の現在地と、積極的証拠の検証——
論証の方針 確実な事実/有力な推測/推測の三段階を常に区別する。 前編「『藤原宮』と『新益京』はなぜ別々に記録されているのか」の続編。 前編で示した二つの問いを引き継ぎ、諸説の根拠と限界を検討する。
キーワード:藤原京 場所/藤原宮 阿波/藤原宮 比定/ 持統天皇 吉野/藤原京 瓦 産地/万葉集 藤原宮 御井/ 藤原宮式瓦 讃岐 阿波
序章 前編の整理と後編の問い
前編では二つの問いを提示した。
問いA——「藤原宮」と「新益京」は同一の場所か、別の場所か。
日本書紀の692年の記録は、同年に別名称・別地鎮祭として両者を並行記録している(確実)。天武天皇の「複数宮の詔」(683年)が制度的背景として存在し(確実)、704年の「始めて藤原宮の地を定む」が意味不明として未解決のまま残っている(確実)。
問いB——橿原市の発掘地は「藤原宮」跡か、「新益京」跡か。
造営活動があったことは確実だが、出土木簡が「藤原宮」と「新益京」のどちらの造営記録かは判別できない(確実)。「藤原」という地名が奈良に存在せず(確実)、官衙・内裏での建築痕跡が乏しく(確実)、焼亡記録と発掘成果の矛盾が未解決のまま残っている(確実)。
後編ではこの二つの問いを引き継ぎ、現在提示されている諸説の根拠と限界を検討する。
第一章 通説の強みと限界——「藤原宮=新益京=橿原市」
まず通説の論理を公平に整理する。
通説は「藤原宮」と「新益京」を同一の場所の別称と解釈し、現在の橿原市の遺跡をその跡地とする。この解釈の根拠は前編で検討した三点(万葉集の情景・白鳳期の瓦・年紀銘木簡)に加え、飛鳥資料館図録(1984年)が半世紀にわたって積み重ねた大極殿・朝堂院・南門などの遺構発掘だ(確実)。
通説の強み:遺構の平面規模・方位・造営技術が飛鳥時代の宮殿として整合的であることは、専門家の間で広く認められている(確実)。発掘の継続的実績はこの比定の最も確かな根拠だ。
通説の限界:前編が示した未解決問題——並行記録・704年の意味不明な記述・焼亡記録との矛盾・木簡が藤原宮か新益京かを判別できないこと——は、通説の枠組みの中で十分に説明されていない(確実)。
第二章 日本書紀の別読み——「藤原宮≠新益京」説
前編の問いAに対する一つの答えとして、「藤原宮と新益京は別の場所だった」という解釈がある。
「新益京」の記述が史料から消える
日本書紀を読み続けると、694年の「藤原宮」遷居以降、「新益京」という名称は史料から姿を消す。続日本紀では710年の平城京遷都以降、奈良の宮は「平城京」と呼ばれる。
「新益京」がいつ・どのように「平城京」へ移行したかについて、日本書紀・続日本紀は明示的な記述を残していない(確実)。694年に持統天皇が「藤原宮」に遷居した後、「新益京」はどこへ行ったのか——この問いに通説は答えていない。
704年記述の別解釈
前編で「意味不明」として提示した続日本紀704年「始めて藤原宮の地を定む」は、この解釈では次のように読める(推測)。
694年に持統天皇が遷居した「藤原宮」は橿原市とは別の場所にあった。704年の記述は、「新益京」として造営されてきた橿原市の地を改めて「藤原宮」と位置づけ直した——すなわち名称の統合を記録したものだ、と。
これは推測であり、史料のみからは確定できない。しかし704年の記述が「意味不明」でなくなるという点で、通説より説明力がある(有力)。
第三章 積極的証拠——藤原宮式瓦の産地
「藤原宮はどこにあったか」という問いに対して、発掘・分析に基づく積極的な証拠がある。
奈文研の瓦産地分析(2026年)
2026年3月、奈良文化財研究所(清野孝之)の報告書「蛍光X線分析と鉱物組成分析による大和の古代寺院・宮都出土瓦の生産・供給体制の研究」が公表された(確実)。
この報告書における藤原宮所用瓦の生産地一覧に、次の記載がある。
グループK「讃岐宗吉瓦窯」——軒丸瓦・軒平瓦の複数型式を供給(確実)
グループF「推定讃岐東部または阿波産」——軒丸瓦・軒平瓦の複数型式を供給(確実)
日本最初の本格的都城とされる藤原宮の所用瓦が、讃岐・阿波から供給されていたことを奈良文化財研究所が公式に認定した(確実)。グループFの「讃岐東部か阿波か」は現時点で確定していない(留保)。
宗吉瓦窯の先行性
讃岐の宗吉瓦窯(香川県三豊市)は650年頃に自律的に操業を開始し、694年の藤原宮建設に際して国内最大規模・最遠距離から瓦を供給している(確実)。中央が地方に技術を与えて瓦を作らせたのではなく、地方がすでに持っていた技術を中央が必要とした——この方向性は注目に値する(有力)。
この証拠が示すこと・示さないこと
瓦の産地が讃岐・阿波であることは確実だが、これは「藤原宮が阿讃にあった」ことを直接証明しない。奈良の宮に阿讃から瓦を供給した、という解釈も成立する(確実)。
ただし問いは残る——なぜ最遠距離の阿讃からわざわざ最大規模の瓦を供給したのか。この問いは後章の阿波鴨島比定説と接続する。
第四章 阿波鴨島比定説——根拠と限界
複数の研究者が、藤原宮の比定地として徳島県旧麻植郡鴨島町周辺を提唱している(岩利大閑『道は阿波より始まる』1985年ほか)。この説の根拠と限界を検討する。
比定の根拠——確実な事実から積み上げる
藤原宮式瓦の出土(確実)
鴨島町の河辺寺跡から藤原宮式瓦(6646形式)が出土している(確実)。第三章で示した奈文研グループFが「阿波産」の可能性を含む点と合わせると、阿波産の藤原宮式瓦が阿波の遺跡から出土するという構造になる(有力)。
蕨手刀の出土と正倉院所蔵品との接続(確実)
鴨島町(徳島県麻植郡)敷地・西宮古墳近くから蕨手刀が出土しており、現在東京国立博物館に所蔵されている(石井昌国『蕨手刀』雄山閣1966年・整理番号181・確実)。この出土品には鉄板(墓誌板か?)が添えられていた。墓誌板を伴う出土ならば、被葬者が相当の地位を持つ人物だったことを示す。
石井昌国の型式分類において、この鴨島町出土品はⅢ型に分類される(確実)。正倉院所蔵の蕨手刀(整理番号179・伝世)もまたⅢ型である(確実)。高橋信雄の研究によれば「Ⅲ型のように、柄長に較べ刃長が短いものが古い」——すなわちⅢ型は蕨手刀の中で最も古い形式だ(確実)。西日本での蕨手刀の出土は極めて少ない(確実)。その希少な西日本出土例の一つが鴨島町であり、正倉院伝世品と同型式・同時代のⅢ型だ(確実)。
正倉院に伝世するⅢ型蕨手刀と同型式・同時代のものが、藤原宮と比定する鴨島町から鉄板(墓誌板?)とともに出土している——この地が正倉院と直接関わりを持つ高位の人物の拠点だった可能性を示す(有力)。732年に忌部為麻呂が正倉院南倉に調黄絁を納めた事実(正倉院紀要・確実)とも合わせると、鴨島町周辺が正倉院への供進と深く結びついた拠点だった構造が重層的に浮かぶ(有力)。
詳細は既出note(https://note.com/cute_hebe442/n/n086f201f7e9e)を参照されたい。
「藤井が原」という歌の地名(有力)
万葉集 巻1-52「藤原宮御井の歌」は冒頭で「麁妙乃 藤井我原尓(あらたへの ふじいがはらに)」と詠む。「藤井が原」——その「藤井」が鴨島町の藤井寺周辺地を指すとすれば、歌は最初から鴨島の地を詠んでいたことになる(有力)。奈良に「藤原」という地名がないことに加え、歌の地名「藤井が原」そのものが阿波鴨島に現存する。
地名の集中(有力)
鴨島町周辺には「藤原」に関わる地名・社寺が集中する——藤氏神社・藤井寺(四国八十八ヶ所第11番札所)・敷島神社(旧式内社を合祀)。万葉集「藤原宮御井の歌」に詠まれた「清水の湧き出す井戸」に対応する小川も藤井寺周辺に存在する(確実)。
吉野行幸との距離——水運が解く31回の謎(有力)
持統天皇は生涯で31回、吉野に行幸した。日帰りの記録もある。
通説の比定地・宮滝遺跡(奈良県)から吉野行幸先まで、山を越えて往復する距離を地図で確認してほしい。日帰りが可能な距離ではない。それでも31回——この非対称性を、通説は説明しない。さらに宮滝遺跡では、31回行幸したはずの第Ⅰ期(天武・持統朝)の遺構が掘立柱建物2棟のみだ(確実)。行幸の頻度と遺構の薄さ、どちらも説明がつかない。
鴨島町を藤原宮と比定すると、答えは自然に出てくる。吉野川は川面の傾斜がなだらかで、海から舟でそのまま遡上できる大河だ(確実)。鴨島町から三好市の加茂野宮(吉野離宮比定地)まで吉野川を約30km遡行する——それが行幸ルートだ(有力)。途中には郡里廃寺跡・段の塚穴古墳群・粟島(善入寺島)が連なり、加茂野宮の北には金剛の滝・龍頭の滝が落ちる(確実)。
柿本人麻呂が詠んだ吉野の歌がある。
舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも (万葉集 巻1-36・確実)
朝に舟を並べて川を渡り、夕に舟で競って渡る。水が激しく落ちる滝のほとりの宮処——奈良の宮滝周辺に、この歌が描く情景は存在しない(確実)。加茂野宮の北に連なる金剛の滝・龍頭の滝と、舟が行き交う吉野川の流れ——万葉集の情景は阿波に重なる(有力)。
詳細な地理比定は既出note(https://note.com/cute_hebe442/n/n6a5442e61a29)を参照されたい。
推測の層——証拠が重なり合う先に見えるもの
「倭三山」の別解釈として、万葉集「藤原宮御井の歌」の大和三山(香山・耳成山・畝傍山)を阿波の日峰山・津乃峰山・中津峯山と対応させる解釈がある(推測)。地形的対応の評価は読者の判断に委ねる。
天武天皇と壬申の乱を戦い抜いた若い日、吉野は二人の聖域だった。鴨島町から吉野川を遡れば、そこに夫との記憶が待っていた。だから持統天皇は、31回、吉野へ向かったのかもしれない(推測)。
そして持統天皇の称号には「廣野」の二文字が刻まれている。鴨島町から前山を一つ越えた南側に、神山町広野という地名が今も残っている(確実)。晩年に鴨島町へ移った持統天皇——その終の棲家の南に残る「廣野」という地名が、称号に刻まれたのかもしれない(推測)。
ただし明示する。「晩年に鴨島町へ移った」を直接示す史料は現時点で確認されていない(不明)。追号「廣野」の命名根拠を記した史料も未確認だ(不明)。地名・地理・称号・万葉集が重なり合う状況証拠の読みであり、発掘と史料批判による検証を待つ仮説だ。
比定の限界——正直に示す
考古学的な宮殿遺構が確認されていない(確実)
これが最大かつ決定的な問題だ。河辺寺跡周辺では7世紀の瓦・蕨手刀が出土しているが、宮殿建築に相当する遺構——礎石・大型掘立柱・溝など——の本格的な発掘調査が行われていない(確実)。地名・瓦・地形という状況証拠は整合しているが、宮殿遺構の発掘確認という直接証拠がない。
文献記録との照合が不完全(確実)
日本書紀に記録された藤原宮関連の具体的な地物(御井・門の方位・規模)と阿波鴨島の地形との詳細な照合は、まだ十分に行われていない。
評価:阿波鴨島比定は、地名・瓦・地形という複数の状況証拠が整合しており、検討に値する仮説だ(有力)。しかし宮殿遺構の未発掘という決定的な限界があり、現時点では仮説にとどまる(確実)。
終章 現時点での最も誠実な評価
前編・後編の議論を通じて明確になった点を三層に整理する。
確実な事実
「藤原宮」と「新益京」は日本書紀で別々に記録されており、同一視する積極的根拠が史料上に存在しない
「藤原京」という名称は近代の命名であり、「藤原」という地名が奈良に存在しない
藤原宮所用瓦が讃岐・阿波から供給されていたことを奈文研が認定した(2026年)
橿原市の発掘地で造営活動があったことは確実だが、「藤原宮」か「新益京」かは木簡では判別できない
焼亡記録と発掘成果の矛盾・704年記述の意味不明は未解決のまま
有力な推測
「藤原宮」と「新益京」が別の場所を指していた可能性は史料上の根拠を持つ
阿波鴨島の地名・瓦・地形は複数の状況証拠として整合している
宮滝遺跡の遺構の薄さは、通説の吉野宮比定に内在する未解決問題だ
鴨島町を藤原宮と比定すると、31回・日帰りを含む吉野行幸が水運で自然に説明できる
推測
持統天皇の称号「廣野」は、鴨島町に隣接する神山町広野に由来する可能性がある
若年期を三好市(加茂野宮)で過ごし、晩年に鴨島町へ移ったという生涯の動線は、吉野川という一本の川で一貫して説明できる
現時点で言えないこと
「藤原宮」が具体的にどこにあったかは、いずれの比定地についても考古学的に確定していない
橿原市の遺跡が「藤原宮」ではないとも、あるとも、現時点では断言できない
残された課題——優先順位つきで示す
最優先:阿波鴨島(河辺寺跡周辺)の本格的な発掘調査。宮殿遺構の有無が確認されれば、仮説の検証が一気に進む。
次優先:奈文研グループF「推定讃岐東部または阿波産」の産地確定。胎土分析の精度向上により近い将来解決可能な問いだ。
並行して必要:704年「始めて藤原宮の地を定む」の史料批判的検討と、宮滝遺跡(奈良)の持統朝期遺構の再評価。
歴史の問いは、証拠が積み重なるにつれて答えに近づく。現時点では「確実な事実」「有力な推測」「未解決の問い」を誠実に区別することが、研究の誠実な出発点だ。
留保 本稿は特定の比定地を結論として主張するものではない。 阿波鴨島比定説を含む諸説を、根拠と限界の両面から 検討することを目的としている。 いずれの説についても、考古学的な発掘確認が 現時点での最優先課題である。
参照文献
奈良国立文化財研究所飛鳥資料館 編『藤原宮——半世紀にわたる調査と研究』飛鳥資料館図録第13冊、1984年
清野孝之「蛍光X線分析と鉱物組成分析による大和の古代寺院・宮都出土瓦の生産・供給体制の研究」奈良文化財研究所、2026年3月
喜田貞吉『藤原京』鵤故郷舎出版部、1942年 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900928)
石井昌国『蕨手刀』雄山閣、1966年 (整理番号179:正倉院所蔵・伝世・Ⅲ型、整理番号181:徳島県麻植郡鴨島町敷地西宮古墳近出土・東京国立博物館所蔵・Ⅲ型)
高橋信雄「東北の鉄文化 蕨手刀」(Ⅲ型が最古形式の根拠)
「正倉院に残る蕨手刀と、阿波鴨島出土の蕨手刀は同時代のⅢ型鋒両刃造りである」https://note.com/cute_hebe442/n/n086f201f7e9e
岩利大閑『道は阿波より始まる』京屋社会福祉事業団、1985年
日本書紀(持統紀・天武紀)
続日本紀(大宝元年・慶雲元年・和銅元年・和銅3年記事)
万葉集 巻1-36(柿本人麻呂「舟並めて」)
万葉集 巻1-52(藤原宮御井の歌)
坂東一男『狐の帰る國』京屋
「持統天皇の吉野離宮、壬申の乱、飛鳥万葉集の舞台」https://note.com/cute_hebe442/n/n6a5442e61a29
← 前編「『藤原宮』と『新益京』はなぜ別々に記録されているのか」
