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転職したサクラは働き直すことにした|第5話

Project MOON No.06-2

まだこの家の朝を知らなかった話

サクラは勢いよくデスクの上に図面を広げた。
紙が机の端まで滑り、
カタログが少しだけ押し出された。
間を置かず、
そのまま話し始める。

「洗面室のリフォームです。
まず、洗面化粧台の交換。
内装も全部やり替えます。
それから照明も交換……と」

机の上には、
現場写真を印刷した紙とメーカーのカタログ、
手書きの寸法メモが少し雑に重なっている。
昼前の事務所では、
電話の呼び出し音と
キーボードの打鍵音が重なり、
空気が少しだけ慌ただしかった。
サクラは
マウスを動かしながら見積画面を開く。

「見積もりはこれから作りますが、
概算金額はお客様には
すでにお伝えしています」

マウスを動かしながら、
見積画面を確認する。

「洗面台は三面鏡タイプです。
収納量も多いですし、
今より使いやすくなると思います」

そこまで説明してから、
サクラは少しだけ顔を上げた。

「どうですか。
だいたい漏れなく提案できてますよね」

そして、少し得意げに笑う。

「真野さん、私ちょっとだけ成長したでしょう?」
隣の席で資料を整理していた真野が、
手を止めた。

「ふうん」
それだけ言って、
椅子を少しだけサクラの方へ寄せ、
図面をのぞき込む。

事務所では、
電話の呼び出し音と、
誰かがキーボードを叩く音が重なっていた。
昼前の少し慌ただしい空気の中で、
真野の声だけが妙に落ち着いて聞こえた。

「このお客さんって、何人家族?」

サクラは少しだけ間を置いた。

「えっと……ご夫婦と、
お子さんがいらっしゃるとは聞いています」

「何人?」

「……そこまでは」
真野は黙ったまま、
もう一度図面を見た。
指先で洗面室の入口付近を軽く叩く。

「女の子?男の子?」

「そこも、まだ聞いてないです」

「朝って混む?」

「え?」

「洗面室。朝の洗面室は混み合うかって質問」

サクラは言葉を探した。

「……たぶん」

「たぶん?」

真野は
椅子の背にもたれながら腕を組んだ。

「洗面室の収納は、今どれくらい足りてるの?」
「ドライヤーって、どこで使ってるか聞いた?」
「洗面室でほかに使う家電は?
コンセントは足りてる?」
「鏡の高さは?ボウルの高さは測った?」

「ここ、マンションでしょ。
洗面化粧台の設置可能寸法は確認してる?」

質問は淡々としていた。
責めているような口調ではなかった。
でも、逃げ場はなかった。
サクラは
画面に表示された見積金額を見つめたまま、
小さく息を吸った。

「……確認してきます」

そのときだった。
少し離れた席で図面を見ていた新垣が、
顔も上げないまま言った。

「その洗面台、誰が使うの?」

答えられなかった。

その日のうちに、
サクラはお客様へ再訪問の連絡を入れた。

「すみません。
もしよろしければ、
もう一度ご自宅にお伺いして、
ご要望を改めてお聞きしてもよろしいでしょうか」

お客様の名前は、唐原様。

眼鏡をかけた、
ひょろっと細長く優しそうなご主人と、
視線は少し強いが
あたたかい雰囲気のある奥様。
そのご夫婦から、
洗面室リフォームの問い合わせがあったのは、
つい一週間前のことだった。

「洗面室をリフォームしたいのよね」

奥様はサクラに向かってそう言った。
築三十年のマンションに住む唐原夫妻は、
つい先日、
洗面化粧台の収納に置いてあったヘアアイロンを、
誤って洗面ボウルに落としてしまったらしい。

その衝撃で、
ボウルにひびが入った。
最初はそのまま使えると思っていた。
けれど使い続けているうちに、
ボウルの下からぽとぽとと水がこぼれ出した。

漏水である。

これはまずい、
ということで、
われらが工務店に
リフォームの問い合わせが入ったのだった。

サクラは
今年の四月に入社したばかりの新入社員だ。
いわゆる転職組で、
前職はリフォームとは関係のない、
カフェを運営する会社の事務方で働いていた。
リフォーム業界は完全に未経験である。
はじめてのことに戸惑いながらも、
周りの職人や同僚に助けられ、
少しずつ成長してきた。

会社が抱える水道設備の職人・代田。

直属の上司である、お調子者の新垣。

そして隣の席に座る、
頼りになる営業部のエース・真野。

ときには叱られ、
ときには励まされながら、
今では小さいながらも
毎月のノルマを達成できるようになっていた。
ここ三か月は、
数字も安定して出せるようになってきた。
少しずつだが、
この仕事に対する自信も生まれてきたころだった。



真野は隣の席で、
サクラの電話の様子に耳を傾けていた。

「そうですよね……
いえ、とんでもないです。はい。はい……」

サクラは背筋を伸ばしたまま、
受話器代わりのスマートフォンを
耳に当てていた。

「わかりました。
それでは、ご連絡をお待ちしております。
はい。ありがとうございました」

通話を切った瞬間、
横から真野がぐいっと顔を出してきた。

「どうだった?アポ切れた?」

「いえ……あ、いや、切れてないんですけど、
唐原様、お仕事でお忙しいみたいで……。
仕事の調整をしてから
かけ直すとおっしゃってくださいました」

サクラは歯切れ悪く答えながら、
右手で頬を少しかいた。

「ふーん」
真野は椅子の上で少し体を傾けた。

「それで、お客様の職業は?」

「!?」

また質問。
だめだ。
何も答えられない。
サクラは泡を吹きそうになった。

「なんだ、サクラ。何も聞いてきてないじゃない」

真野は机に肘をつき、
サクラの顔をのぞき込む。

「あんた、お客様と何を話してきたの?」

サクラは動揺しながらも、
必死に応戦した。

「いやいや、たくさん情報は聞き出してきましたよ」

「化粧台のサイズとか、色とか、
一緒に内装をやり替えたいとか。
ちゃんと図面も書いてきましたし。
照明も変えたいっておっしゃってましたし」

真野はサクラの目をまっすぐ見た。
その視線は鋭いが、
不思議と冷たくはなかった。
そして、ぐさりと言った。

「サクラ。あんた、
それじゃ何も聞いてないのと一緒だよ」

「え……!」

そんなばかな。
いったい真野さんは何を言っているのか。
テスト?
それとも引っかけ問題?
もしかして、私を試しているのか。
サクラは真野の真意を測りかね、
動揺した顔でじっと見つめた。

真野は入社三年目の営業部のエースで、
サクラの隣の席に座っている。

直属の上司ではない。
けれど同じ女性営業として、
サクラのことを何かと気にかけてくれる。
ランチに誘ってくれたり、
相談に乗ってくれたりする、
頼れる姉貴分だった。

(真野さんが言うなら、
きっと私が何か聞き落としているんだ)

サクラは絶望と疑心の入り混じった声で、
恐る恐る問いかけた。

「真野さん……
つまり……どういうことでしょうか……?」

真野は口を少しすぼめて、
少しだけサクラにがっかりしたような顔で言った。

「サクラはお客様じゃなくて、
現場を見てるだけ。
それじゃあ
お客様の生活に寄り添った提案はできないよ」

サクラは思わずのけぞった。
まだ真野の言っている意味を
完全には理解できていない。

事務所では電話の呼び出し音が鳴り続け、
誰かがコピー機の前で
資料を揃えている音が聞こえていた。

真野はそんなサクラの様子に構わず、
言葉を続ける。

「リフォームっていうのはね、
お客様の生活に
どこまでも寄り添っていかなきゃいけないのよ」

椅子を少し引き寄せ、
机の上のサクラの図面を
指先で軽く押さえながら言った。

「採用のときに人事部長に言われなかった?」

(ああ……確かあの人事部長、名前は何と言ったか)

「はい。この仕事は、
お客様の家族の命を
預かる仕事だって言われました」

真野は目を丸くした。

「家族の命?」

「はい」

真野は少しだけ考えて、

「まあ……あながち間違ってないか」
と小さく笑った。

「まあいいや。それでね」
そこから真野の話し方が少し変わった。
声に熱が乗り始める。

「そもそも、
お客様の人となりや実質予算を知るためには、
相手の職業を知らないといけない」

「お客様に寄り添うためには、
どんな家族構成で、
どんな生活を送っているのかを知る必要がある」

真野はサクラの図面を軽く指でたたいた。

「お客様が今何に困っていて、
将来どういう生活をする予定なのか」

「もしその将来をお客様自身が
まだ具体的に想像できていないなら」
そこで少し間を置いた。
視線がまっすぐサクラに向く。

「私たちが提案するの」

「お客様にとって、
本当にお金をかける価値のあるリフォームを」

静かに言った。
「それが“生活に寄り添う営業”ってこと」

(なるほど……さすが真野さん)
そう言われてみると、
お客様の顔より、
洗面室ばかり見ていた気がする。

サクラは、
仕上がりの形や寸法、
写真や段差など、
技術的な部分ばかりに注意を向けていた。

この仕事の本質を、
見落としていたのかもしれない。

真野はさらに続けた。
「サクラの手書き図面や写真を見る限り、
お子さんがもし二人以上いるなら
収納が足りてない可能性がある」

図面の収納位置を指でなぞる。
「もし足りないなら、
洗面鏡の上に
昇降付き収納をつけるのもありだけど……」

真野は写真を拡大して画面を見せた。
「写真の奥に見えるインテリア、これLDKでしょ」

サクラはうなずく。

「これを見る限り、
今見積もりに入れてる既製品の洗面台より、
造作洗面化粧台で仕上げたほうが
空間に合うと思う」

「そのほうが、お客様は喜ばれるかもしれない」

そして、少しだけ声が低くなった。

「そしてサクラ、もうひとつね」
それまで早口だった真野の目つきが、
急に鋭くなった。

「お客様の職業や
生活サイクルを事前に聞いておけば
都合に合わせて電話ができる」

「その場でアポが取れれば、
何度も電話のやり取りをさせるロスも防げる」

指先で机を軽く叩いた。
「お客様の生活に配慮した営業活動の基本だよ」

ぐぬぬ……。
サクラはぐうの音も出なかった。

翌日、
唐原様から日程調整の電話が入り、
サクラは再度ご自宅を訪問することになった。

マンションのエントランスは、
築年数のわりにきれいに手入れされていた。

植え込みには季節の花が並び、
オートロックの横には
管理会社からのお知らせが
きちんと掲示されている。
エレベーターの中には、
ほのかに柔軟剤のような匂いが残っていた。

玄関のドアが開くと、
奥様が少し眠たそうな目で迎えてくれた。

今回の訪問で分かったことは多かった。

唐原様のご主人は市役所勤務。
奥様は看護師で、
主に深夜勤務。
今回のリフォーム相談は奥様主導だった。

そして、
先日サクラが電話をかけた時間は、
ちょうど夜勤明けの直後だったらしい。
どうやら、
サクラの電話で
奥様を起こしてしまったようだった。

初回訪問のとき、
視線が少し強く感じられた理由も、
眠気のせいだったのかもしれない。

お子様は娘様が三人。
二十歳、十六歳、十四歳。
年頃の三姉妹だ。

洗面室へ案内されると、
サクラは前回よりも少しだけゆっくり中を見た。

正面の鏡の前には、
ヘアブラシが二本と、
細いヘアゴムがいくつも置かれている。

洗濯機の横には、
少しだけ口の開いた収納ケース。
その中からタオルの端と、
色の違うポーチがいくつか見えていた。
足元には、
使いかけのヘアアイロンの箱が
壁際に寄せられている。

朝は、
化粧室も兼ねた
洗面室の争奪戦になるらしい。

さらに、
タオルや化粧品、
下着類など、
本来なら洗面室に置いておきたいものが
収納できずに困っていた。

なんと真野さんは魔法使いか。
それとも、
私の目は節穴か。

いったい私は何を見て、
どの口で
「ちょっとは成長したでしょ」
などと言っていたのか。

恥ずかしくて、
顔から火が出そうになるのを
必死にこらえながら、
サクラはご夫婦に深く頭を下げた。

「この度はお忙しいところ、
お時間をいただきありがとうございました」

そして続けた。

「奥様が深夜勤務明けなのに配慮もできず……
申し訳ありませんでした」

すると奥様は、
からっとした明るい笑顔で言った。

「あら、いいのよ」
奥様はそう言ってから、
ご主人のほうにちらりと目を向けた。
ご主人も小さくうなずく。

「今回初めてのリフォームだったから、
何社か相見積もりを取ろうと思って
声をかけたんだけど……」

そして少し笑って続けた。

「さっきサクラさんが
もう一度洗面室を見に行ってくれたでしょう?」

「その間に主人と話してね」
奥様はご主人のほうを見て、
少しだけ笑った。

「お願いするなら、
この人にしようって決めたのよ」

そして、はっきりと言った。
「工事、あなたにお願いすることにしたわ」

「え?」
サクラは思わずたじろいだ。

「どうしてですか?」

奥様は優しく、そして温かい表情で答えた。

「ほかの会社には、
たかだか洗面室のリフォームで
二回も要望を聞きに来てくれる
営業さんはいなかったから」

そして続けた。
「それに何より」

少し声のトーンが変わった。
「あなたは、
私たちの生活に寄り添ってくれている」

「さっき言ってくれたじゃない?」

「唐原様のご家族と
ご自宅の未来を一緒に考えましょうって」

奥様はそう言ってから、
ご主人のほうを見た。

「それにね」
「うちの娘たち、
朝はヘアアイロンの取り合いになるって
話をしたときに」
「最近の子は前髪だけ整えることが多いから、
コンセントの位置も大事ですよって
教えてくれて」

ご主人が小さくうなずいた。
「そこまで生活のことを考えてくれるなら、
この人にお願いしようって話になったんです」

奥様がやさしく笑った。
「家族のこれからの暮らしまで
一緒に考えようとしてくれたところが、
いいなと思ったのよ」

サクラは思わず笑顔になった。
そして、
ゆっくりと気を引き締めるように、
その言葉を噛みしめるように言った。

「ありがとうございます。
でも、まだ金額が出てないですけど
大丈夫ですか?」

奥様は少し笑った。
「もちろん安くしてくれるんでしょ?」

ご夫婦は含み笑いをして、
サクラにウインクした。

サクラは思わず背筋を伸ばした。

「ありがとうございます。
しっかり
ご期待に応えられるように頑張ります!」

丁寧に頭を下げて、
サクラはマンションを出た。

エントランスを抜けると、
外の空気が少しだけあたたかかった。
車まで歩きながら、
サクラは
カバンの中の図面をぎゅっと持ち直した。

帰ったら、
もう一度プランを書き直そう。

ヘアアイロンや
小物や化粧品を入れる
ニッチの埋め込み収納をつくろう。
タオルや下着類が整理できる
収納を造作しよう。
洗濯洗剤や洗濯物が仮置きできる
可動棚を設置しよう。
洗面化粧台を替える提案ではなく、
この家の朝が少し楽になる提案をしよう。

社用車のドアを開ける。
乗り込む前に、
サクラはもう一度マンションを見上げた。
さっきまで図面だった洗面室が、
今は唐原家の朝の風景の中に重なる。

「よし」

小さく声に出した。
そして勢いよく車に乗り込む。

帰ったら真野さんになんて伝えようか。

そう思っただけで、
胸の奥が静かに高鳴っていた。
サクラはお客様の期待を、
今度こそしっかりと受け止めた。



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