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昨日まで隣にいた人が急に遠くなった|それでも手を伸ばした人の話

MOON side episode|観測の余白

Project MOON No.08-2
『マシロさんは距離をとらなかった
|制度の前に立っていた人の話』より

Scene 1

この物語は、Project MOON本編で描かれなかった時間を観測した短編です。

本編はこちらからどうぞ。🌙

人との距離を取らなければならない日に、
どうしても近づきたくなることがある。

午後の健康支援課は、
朝と同じ場所なのに、
まるで違う部屋になっていた。

窓から差し込む白い光。
規則正しく並んだ事務机。
壁に貼られた予防接種の案内。

蛍光灯の下では、
コピー機が低い音を立て、
誰かがキーボードを叩いている。
電話も鳴っていた。

いつもと同じ、
市役所の午後だった。

ただ、
人と人との間にだけ、
昨日までなかった空間ができていた。

課内で初めて、
新型コロナウイルスの
濃厚接触者が出た。

保健所から応援に来ていた、
若い男性職員だった。

いつもなら誰かの机へ近づいて軽口をたたき、
笑い声の中心にいるような男が、
今日は一人で荷物をまとめている。

机の引き出しを開ける。
書類を取り出す。
鞄へ入れる。

その小さな動きを、
何人もの職員が離れた場所から見ていた。

「大丈夫?」
誰かが声をかける。

「自宅待機になるの?」
心配する声はある。

けれど、
誰も近づかなかった。

マシロも自席に座ったまま、
その様子を見ていた。

つい昨日まで、
くだらない話で笑っていた相手だった。

仕事の合間に目が合えば、
どうでもいい冗談を飛ばす。

飲みに行けば、
市役所内にいる共通の知人の話で盛り上がる。

後輩であり、
飲み仲間でもあった。

それなのに今は、
たった数メートルが妙に遠かった。

マシロは机の上に置かれた
紙コップのコーヒーへ手を伸ばした。

一口飲む。

もう、ほとんど冷めていた。

顔を上げる。

若い職員は、
誰とも目を合わせないまま
書類を鞄へ入れていた。

口元には、
いつもの笑い癖さえ残っていない。

怖いのは、ウイルスだけではなかった。
昨日までの関係が、
たった一つの言葉で
変わってしまうことだった。

マシロは紙コップを机へ戻した。

何か言わなければと思った。

「大丈夫か。」

違う気がした。

「気にするな。」

それも違う。

大丈夫かどうかなど、
誰にも分からない。

気にするなと言われて、
気にせずにいられる状況でもない。

マシロは椅子の背もたれから体を離した。

そして、立ち上がる。

若い職員のところへは向かわなかった。

代わりに、
課の隅にある備品棚へ歩いていく。

棚の前でしゃがみ、
扉を開けた。

消毒液。
ゴム手袋。
ティッシュ。
書類ケース。

職員たちが日常的に使うものが、
無造作に詰め込まれている。

マシロは奥へ手を伸ばした。

そして、
一本のマジックハンドを見つけた。

一度、動きが止まる。

手に取る。
レバーを握る。

カチャ。

先端が閉じる。

もう一度。

カチャ。

開く。

静かな課内に、
その間の抜けた音が小さく響いた。

マシロはマジックハンドを見つめる。

そして、
目元だけが少し緩んだ。

これなら、
近づかなくても握手ができる。

たぶん。

何の解決にもならない。

感染症対策として
意味があるのかも分からない。

でも、
正しい距離を守ることと、
人を一人にすることは、
同じではない。

マシロは立ち上がった。

片手にマジックハンドを持ち、
ゆっくりと自席へ戻っていく。

窓の外では、
午後の光が少しずつ傾き始めていた。

コピー機が動く。
電話が鳴る。
誰かが小さな声で応対している。

市役所の仕事は、
何事もなかったように続いていた。

出口では、
若い職員が鞄を肩へ掛けている。

帰るところだった。

マシロは少し離れたところで立ち止まる。

その背中を、
数秒だけ見つめた。

それから、
いつもふざけるときと
同じ歩幅で近づいていく。

もちろん、
距離はあけたままだった。

気配に気づき、
若い職員が振り返る。

二人の目が合う。

マシロは神妙な顔のまま、
持っていたマジックハンドを
ゆっくり前へ伸ばした。

カチャ。

先端が開く。

もう一度。

カチャ、カチャ。

握手を求めるように、
空中で小さく動いた。

若い職員が、
一瞬だけ目を丸くする。

マシロの目元が、
にやっと笑った。

その日、
二人のあいだには確かに距離があった。

それでも、
その距離の向こう側へ、
手を伸ばす方法は残っていた。



🌙観測note

この作品に登場したもの

人との距離が求められた時代に、
物理的な距離を守りながら友情だけは縮めた逸品。
本来の用途ではありません。
たぶんメーカーも想定していません。🌙

※この記事にはアフィリエイトリンクを含みます。


▶︎この記事は、宵空さん企画の「実体験した怖い話」に参加しています🌙

🌙初めてMOONへ来られた方へ

▶︎「MOON|違和感の記録」の観測ガイドです。

どこから読むか迷ったら、
まずはこちらからどうぞ。

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