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【小説・宵待酒場は、見えないものを証明しない。】


その男を連れてきたのは、朝倉咲耶だった。

「面白い人いるよ」

そう言って階段を上がってきた時点で、夜坂朔は少し警戒した。

咲耶の言う「面白い人」には、だいたい説明書がない。

男は四十歳くらいだった。

黒いシャツに、細いフレームの眼鏡。

派手でもない。

妙に神秘的な格好をしているわけでもない。

階段を上がりきると、きちんと頭を下げた。

「初めまして」

夜坂も頭を下げる。

「どうも」

その時点では、普通の人だった。

少なくとも。

普通の人に見えた。


男はカウンターの端へ座った。

咲耶の隣。

その少し離れたところにマイル=ベルツ。

丸テーブルには楮原繭と水城澪。

榊冬馬は仕事帰りらしく、ノートパソコンを閉じたところだった。

蛇口僧は奥で、炭酸水を飲んでいた。

夜坂が男へ聞く。

「何にします?」

「お酒、弱くて」

「じゃあ、ノンアルあります」

夜坂はミントの葉を一枚叩いた。

山から持ってきた水を濾過し、冷やして炭酸にしたもの。

そこへ少しだけホップの香りを乗せる。

男が一口飲んだ。

「美味しいですね」

「ありがとうございます」

「なんか、身体が緩む感じします」

夜坂は少し笑った。

「炭酸ですからね」

咲耶が笑う。

「そういう返しするよね、夜坂さん」


最初に男が妙なことを言ったのは、その十分後だった。

たまたま近くに座っていた女性客が、

最近仕事が忙しいという話をしていた。

男はしばらく聞いてから言った。

「最近、寝ても休んだ感じしないでしょう」

女性が止まった。

「……なんで分かるんですか」

男は肩をすくめた。

「なんとなくです」

咲耶が楽しそうに男を見る。

「ほら」

夜坂。

「何が、ほらなんです?」

「この人、こういうの分かるの」

男は少し困ったように笑う。

「分かるっていうほどじゃないです」

女性が聞く。

「顔に出てました?」

「いや」

男は少し考えた。

「なんとなく、重い感じがしただけです」

女性は驚いた顔をした。


しばらくして。

別の客が、旅行の話をしていた。

男は突然言った。

「ずっと帰りたい場所、ありません?」

客が黙った。

「……あります」

「やっぱり」

「なんで?」

男はまた、

「なんとなく」

と答えた。

今度は咲耶が少し得意そうな顔をした。

蛇口僧も遠くから男を見ていた。

澪も何も言わない。

ただ。

目だけは少し動いた。

マイルだけは、

グラスの氷を見ていた。


男は、たぶん。

人を見るのが上手かった。

少なくとも。

人の表情や声の変化に敏感だった。

それが単なる観察なのか。

経験なのか。

勘なのか。

それ以外の何かなのか。

宵待酒場の誰にも分からなかった。

ただ。

いくつかは確かに当たっていた。

だから。

少しずつ。

男の言葉が強くなった。


最初に引っかかったのは、

先ほどの女性客だった。

仕事が忙しいと言っていた女性。

男が言う。

「でも、本当は今の仕事、辞めたいですよね」

女性が首を振った。

「いや、それは別に」

「かなり無理してますよ」

「忙しいですけど、仕事は嫌いじゃないです」

男は少し身体を前へ出した。

「頭ではそう思ってるんですよ」

女性が黙る。

「もっと奥では違います」

マイルが顔を上げた。

女性は少し笑った。

困った時の笑い方だった。

「そうなのかな」

男。

「たぶん、家族とのことも関係してます」

女性の笑顔が消えた。

「家族?」

「昔から、期待に応えようとしてきたところありません?」

「……いや」

「自分では気づいてないだけかもしれません」

そこで。

マイルが言った。

「一つ確認していいですか」

男が振り向く。

「はい」

「最初にあなたが感じたのは、何ですか」

「え?」

「この方について」

男は女性を見る。

「仕事を辞めたがってる感じ、ですかね」

「“感じ”なんですね」

「まあ」

「では」

マイルは続ける。

「本人が自覚していない、という部分は?」

男が少し止まった。

「それも含めて、そう感じます」

「家族との問題は?」

「繋がってる感じがします」

マイルは頷いた。

「全部同じ“感じ”ですか」

男が眉を寄せる。

「何が言いたいんです?」

「あなたが最初に受け取ったものと」

マイルは指を一本立てた。

「そこから意味づけしたものと」

二本目。

「実際に本人が確認したものを」

三本目。

「今、同じものとして話しているように聞こえました」


「そんな機械みたいに分けられないですよ」

男は笑った。

少しだけ。

苛立ちが混ざっていた。

「人ってもっと複雑でしょう」

「同意します」

マイルは即答した。

男が少し面食らう。

マイル。

「分けきれないことと、分ける必要がないことは別です」

その時。

榊冬馬が紙ナプキンを取った。

夜坂がそれを見る。

「あ」

咲耶。

「始まった」

榊。

「いや、これ図にした方が早いんで」

榊はボールペンで三つの箱を書いた。


受け取ったもの

自分が意味づけしたもの

相手へ伝えた言葉


男が見る。

「だから、それがそんな単純じゃないって」

榊は頷いた。

「単純じゃないと思います」

「じゃあ」

「でも、段階があること自体は消えないですよね」

男が黙る。

榊は紙を指した。

「何かが来たとして」

「はい」

「それを言葉にする時点で、もうあなたを通ります」

「……」

「あなたの経験とか、語彙とか、価値観とか」

少し考えて、

「相手に対する印象も」

マイル。

「期待も」

繭が小さく付け足す。

「怖れも」

榊は書き加えようとして。

咲耶に止められた。

「増やしたら先生モード入るよ」

「もう入ってます」

夜坂が言った。

榊。

「先生じゃないですから」

蛇口僧が笑った。


男は蛇口僧を見る。

「蛇口さんは分かりません?」

「何がです?」

「理屈じゃなくて、来る感じ」

蛇口僧は普通に頷いた。

「ありますよ」

男の顔が少し緩んだ。

「ですよね」

「俺も、人と話してたら身体に来る時あります」

「ほら」

「でも」

蛇口僧は自分の肩を軽く触った。

「この人、肩めちゃくちゃコッてるなって思っても」

男を見る。

「勝手に揉まないです」

男が一瞬止まった。

「それは当然でしょう」

「ですよね」

蛇口僧は笑う。

「触っていいですか、って聞きます」

「……」

「内側も一緒じゃないですかね」

男が何も言わない。

蛇口僧は続けた。

「俺、自分では相手から来たと思うことありますよ」

「だったら」

「でも」

蛇口僧は少し首を傾けた。

「本当にその人から来たのか」

胸を指す。

「俺の中で勝手に出たのか」

周囲を見る。

「場の空気を拾ったのか」

少し笑う。

「そこまでは、分からん時あります」

男。

「でも、分かる時もあるでしょう」

「あります」

「じゃあ」

「それでも」

蛇口僧は女性客を見る。

「本人が違うって言ったら、そこで止めます」


男の視線が、澪へ移った。

「水城さんも、分かる人ですよね」

澪が瞬きをする。

「何がです?」

「人の奥から来るもの」

澪はしばらく男を見た。

「受け取ったように感じることはあります」

「でしょう」

「はい」

男は少し安心したようだった。

「説明できないけど、分かる時あるでしょう」

「あります」

「なら」

澪は遮らなかった。

男が言い終わるまで待った。

「そこまで疑ってたら、何も言えなくなると思うんですよ」

澪は少し考えた。

「最近、一つだけ分けるようにしています」

「何を?」

「聞こえたことと」

少し間。

「発信元が分かったことです」

男が眉を寄せる。

澪。

「誰かを見て、言葉が浮かんだとして」

「はい」

「それが、その人から来たのか」

「はい」

「私の中から出たのか」

「……」

「その人の表情とか声とかを、私が勝手につないだのか」

澪は静かに言った。

「そこまでは分からないことがあります」

男。

「じゃあ、どう伝えるんです?」

「最近は」

澪は答えた。

「“あなたはこうです”じゃなくて、“私はこう感じました”って言います」

男が黙った。


しばらく。

誰も話さなかった。

繭がグラスの中の水を見る。

小さな炭酸の泡が上へ上がっていく。

男が言った。

「みんな、そんなに疑いながらやってるんですか」

繭が顔を上げた。

「疑うというより」

「はい」

「濾してるんじゃないですか」

「濾す?」

繭は少し考える。

「感じた直後って」

指先でグラスを少し回した。

「濁ってるから」

男が見る。

「何が?」

「自分の気持ちとか」

「……」

「相手の顔とか」

「……」

「昔似た人に会った記憶とか」

「……」

「こうであってほしい、も」

繭は水を見る。

「全部混ざると思うんです」

男。

「でも、本当に相手から来たものもあるかもしれない」

繭。

「あるかもしれません」

「なら」

「だからです」

男が止まる。

繭は静かに言った。

「どれがどれか分からないまま、人に飲ませるのが怖いんです」

それだけ言って。

またグラスへ視線を戻した。


問題が起きたのは、その少し後だった。

女性客が席を立とうとした時。

男がもう一度言った。

「さっきの話なんですけど」

女性が振り返る。

「はい」

「やっぱり、一度ちゃんと家族とのこと見た方がいいと思います」

女性の顔が固くなる。

「もういいです」

「でも、たぶん今聞いた方が」

「いや」

女性はもう一度言った。

「大丈夫です」

男はまだ続けた。

「大丈夫って言ってる人ほど――」

「そこまでです」

夜坂の声だった。

大きくはなかった。

でも。

店の音が止まった。

男が夜坂を見る。

「いや、でもこの人」

「本人がもういいって言ったので」

「でも、本当は」

夜坂は男を見る。

「その“本当は”を、本人より上に置かないでください」

男が黙った。


少しして。

男は言った。

「夜坂さんは」

「はい」

「僕が何か感じてると思います?」

夜坂は考えた。

「分かりません」

男が少し笑う。

「信用してない?」

「それも分かりません」

「じゃあ」

男の声が少し強くなる。

「何を見てるんです?」

夜坂は答えた。

「見えるところです」

男が眉を寄せる。

「見えるところ?」

「あなたが何を感じたかは、俺には測れないです」

「……」

「でも」

夜坂はカウンターに手を置いた。

「嫌だって言われた時に止まれるかは見える」

男が黙る。

「違うって言われた時に、自分の方を疑えるかも見える」

「……」

「頼まれてないことを、勝手に相手の答えにしないかも見える」

男は何も言わなかった。

夜坂。

「見えないものは、俺には測れません」

少し間。

「でも、それをどう扱う人かは見えます」


男はゆっくり息を吐いた。

「じゃあ」

夜坂を見る。

「僕が本当に何かを感じてたとしても?」

夜坂。

「それでもです」

「本物でも?」

「本物でも」

「……」

「むしろ」

夜坂は少し考えた。

「本当に人の内側に触れるものなら」

女性客を見る。

「普通より丁寧に扱った方がいいんじゃないですか」

男は、しばらく何も言わなかった。


咲耶も黙っていた。

最初は。

男を面白いと思っていた。

今も。

何もない人だとは思っていない。

当てたこともあった。

本人しか知らないようなことに触れた瞬間もあった。

でも。

咲耶はふと思った。

当たることと、

任せられることは、

同じじゃない。

未来が見えたように感じたとしても。

相手をそこへ押していいとは限らない。

咲耶自身が。

最近ようやく覚え始めたことだった。


男は女性客を見る。

「すみませんでした」

女性が頷く。

「はい」

「さっきのことは、忘れてください」

マイルが言った。

「それも」

男が見る。

「相手が決めます」

「あ」

男が止まった。

マイル。

「忘れるかどうかも」

男は少し苦笑した。

「そうですね」

女性へ向き直る。

「じゃあ」

少し考える。

「僕が言ったことを、答えにしなくて大丈夫です」

女性が少し笑った。

「それなら」

「はい」

「そうします」


男はその夜。

出禁にはならなかった。

夜坂も、

帰れとは言わなかった。

ただ。

店の中では、

頼まれていないことを勝手に読まない。

相手が嫌だと言ったら止める。

それだけ確認した。

男は帰り際。

榊の紙ナプキンを見た。

「これ、写真撮っていいですか」

榊。

「どうぞ」

男はスマートフォンで撮った。

そして。

少し恥ずかしそうに言った。

「僕、こういうの苦手なんですよね」

榊。

「何がです?」

「分けて考えるの」

榊は少し笑った。

「慣れますよ」

咲耶。

「先生」

榊。

「違います」

蛇口僧。

「先生、俺も写真撮っていいですか」

榊。

「もう好きにしてください」


男が帰ったあと。

咲耶が紙ナプキンを拾った。

そこには、

榊が書いた三つの箱がある。

受け取ったもの

自分が意味づけしたもの

相手へ伝えた言葉

咲耶。

「分かりやすいな、これ」

榊。

「だから最初からそう言ってるでしょう」

マイルが手を伸ばした。

「一つ足りません」

「何です?」

ペンを借りて。

一番下に、

もう一つ箱を書く。

相手が受け取ったもの

榊が見る。

「ああ」

マイル。

「発信者が何を意図したかと、相手が何を受け取ったかも同じではないので」

榊。

「確かに」

咲耶。

「先生が二人になった」

「なってません」

二人同時に言った。

蛇口僧が笑った。


澪は、

紙ナプキンをしばらく見ていた。

そして夜坂に聞いた。

「夜坂さん」

「はい」

「あの人」

少し考える。

「本当に何か受け取ってたと思います?」

夜坂。

「さあ」

蛇口僧が言う。

「俺は、なんかある人やと思いますけどね」

マイル。

「否定する材料も、確認する材料も不足しています」

繭。

「分からないままですね」

咲耶。

「でも気になるよねえ」

夜坂は、店の窓を見る。

外は暗かった。

窓ガラスには、

店の中の灯りだけが映っている。

夜坂は言った。

「見えないものを、見えないまま置いておける人の方が」

一度、

カウンターのグラスを片づける。

「案外、信用できるのかもしれませんね」


榊が紙ナプキンを折った。

蛇口僧がそれを止める。

「先生、それ俺にください」

「だから先生じゃないって」

「でも、分かりやすかったんで」

「会社員です」

咲耶が笑った。

マイルは、

「職業は論点ではありません」

と言った。

榊は諦めた顔で紙ナプキンを蛇口僧に渡した。

そこには四つの箱が並んでいる。

受け取ったもの。

自分が意味づけしたもの。

相手へ伝えた言葉。

相手が受け取ったもの。

どの箱にも、

本当かどうかは書いていない。

たぶん。

それでよかった。

宵待酒場は、

見えないものを証明しない。

見えないものを、

笑いもしない。

ただ。

それを人へ渡す時に、

どんな手で渡すのかを見る。

その手だけは。

ちゃんと、

見えるから。




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神原月見|言語化審神者(げんごかさにわ) 再び空を飛ぶ為の訓練費用に使わせていただきますm(_ _)m