【小説・夜坂朔と高瀬梢は、朝まで帰らない。】

高瀬梢が宵待酒場に来たのは、いつもより少し遅い時間だった。
扉を開けた時点で、夜坂朔は気づいていた。
疲れているわけではない。
機嫌が悪いわけでもない。
何かを決めかねている人間の顔だった。
「珍しいですね」
カウンターの中から朔が言った。
「何が?」
「入ってきてから、まだ店の中を一周も見てない」
「私、そんなに見てます?」
「見てますよ。新しいものがあると絶対見つける」
梢は店内を見回した。
「……ほんとだ。今日は見てなかった」
窓際の席では、楮原繭が湯気の立つカップを両手で包んでいた。
カウンターの端では、マイル=ベルツがタロットカードを一枚ずつ揃えている。
梢は二人を見た。
「ちょうどいいかも」
「何がですか」
マイルが眼鏡越しに見る。
「二人に、相談してもいい?」
繭が顔を上げた。
マイルの手が止まった。
「高瀬さんが相談?」
「そんなに珍しい?」
「少なくとも私は、ほとんど記憶にありません」
「私もです」
繭まで言った。
「なんか嫌になってきた」
梢は笑って、二人の近くへ座った。
朔は何も聞かず、いつもの飲み物を置いた。
それからカウンターの中へ戻る。
聞いていないようで、たぶん聞いている。
そういう距離だった。
*
「数か月、こっちを離れる仕事の話が来てて」
梢は話し始めた。
地方の文化施設を中心にした企画だった。
展示を組む。
現地の作家や職人を取材する。
文章をまとめる。
広報まで含めて、一つの場所の魅力を外へ伝える。
梢の仕事としては、珍しい話ではない。
ただ、今回は期間が長かった。
「面白そうですね」
繭が言った。
「うん。面白そうなの」
「条件に問題がありますか」
マイルが聞く。
「調整すれば大丈夫」
「では、受けたくない?」
「それも違う」
「受けたい?」
梢が止まった。
「……たぶん」
マイルが眼鏡を少し押し上げる。
「“たぶん”なんですね」
「そこ拾う?」
「相談なので」
梢はグラスを触った。
「ほとんど行くつもりではいるの。でも、返事をしようとすると、何か一つ忘れてる気がして」
「手続き?」
繭が聞く。
「そういうんじゃなくて」
「では、人?」
マイルが言った。
「まだ何も言ってないでしょ」
「質問しただけです」
梢はマイルを睨んだ。
「カード、使う?」
「必要なら」
「占ってみて」
「何をですか」
「だから、それを知りたいの」
「相談内容が分からない状態で占いを依頼するんですか」
「そういう人、いっぱい来るんじゃない?」
「来ます」
マイルは平然と答えた。
「だから、まず整理します」
カードを切る。
黒髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥で梢を見る。
「最初に言っておきます」
「はいはい」
「未来は占いません」
「知ってます」
「この仕事を受けるべきかも決めません」
「知ってます」
「夜坂さんとの未来についても――」
「なんで夜坂さん出てくるの?」
マイルが止まった。
「可能性の一つとして」
「今、完全に誘導したよね」
繭が口元を隠して笑った。
カウンターの向こうで、グラスを拭いていた朔が小さく咳払いした。
「聞こえてるからね」
梢が言う。
「聞いてません」
「嘘」
「店が狭いだけです」
マイルはカードを三枚置いた。
梢は覗き込んだ。
「意味は?」
「まだ言いません」
「占いなのに?」
「あなたが先です。何に見えます?」
「面倒な占い師だなあ」
「未来を人質に取らないので」
梢はカードを見る。
しばらくして言った。
「仕事そのものは、嫌じゃない」
「はい」
「むしろ、行ってみたい」
「では、何が引っ掛かっていますか」
「それが分からない」
マイルは少し考えた。
「高瀬さん」
「何?」
「この仕事、“できますか”」
「できると思う」
「では、“やりたいですか”」
梢は、また止まった。
「……似たような質問じゃない?」
「違います」
繭が静かに言った。
「できるから、受けようとしてる?」
梢は答えなかった。
頼まれた。
自分ならできる。
経験もある。
期待されている。
面白そうでもある。
だから、引き受ける。
今までも、それで困ったことはあまりなかった。
「できないと思われるのは平気でしょうね」
マイルが言った。
「でも、“できるのにやらない人”になるのは、少し苦手なんじゃないですか」
「そんなに仕事で自分の価値を決めてないけど」
「そうは言っていません」
「じゃあ何?」
「能力があることと、その能力を使う義務があることを、少し混同していないかという話です」
梢はグラスを持ち上げた。
飲まずに戻した。
「嫌なところ突くね」
「相談なので」
「便利な言葉だな、それ」
繭が言った。
「もう一個ある気がします」
「何?」
「梢さんって、人から相談されることには慣れてますよね」
「まあ、仕事でも多いかな」
「でも」
繭は少しだけ首を傾けた。
「自分が相談するの、苦手じゃないですか」
梢は反射的に笑った。
「別に――」
カタ。
三人の視線が止まった。
グラスが鳴った。
カタ、カタ。
吊られた照明が、わずかに揺れる。
マイルが顔を上げた。
「地震」
次の瞬間だった。
床が横へずれた。
ガラスが一斉に鳴った。
椅子が動く。
棚の酒瓶がぶつかり合う。
「棚から離れて!」
朔の声が飛んだ。
揺れが強くなる。
梢はカウンターを掴んだ。
繭が身体を低くする。
何かが床へ落ちた。
ガシャン、と割れる音。
そして。
店の灯りが全部消えた。
*
真っ暗になった。
誰かが息を呑む声だけが聞こえる。
「動かないで」
朔だった。
「ガラス割れてる。足元見えないから、そのまま」
スマートフォンの灯りが点く。
一つ。
二つ。
薄い光の中で、店内の輪郭が戻ってくる。
揺れはまだ続いていた。
朔は厨房へ入った。
「火、止まってます。大丈夫」
次に出口。
扉が開くか確認する。
客の人数を数える。
「怪我した人?」
誰も答えない。
「繭さん」
「大丈夫です」
「マイル」
「問題ありません」
「高瀬さん」
「大丈夫」
朔は次へ行く。
梢は、その姿を見ていた。
速い。
迷わない。
店。
火。
出口。
客。
ガラス。
外。
一つずつ確認していく。
そして梢は気づいた。
夜坂朔だけが、確認されていない。
揺れが収まり始めた。
朔が非常用のランタンを取り出す。
白っぽい灯りがカウンターを照らした。
「外、見てきます」
朔が扉へ向かった。
梢はその腕を掴んだ。
「待って」
「近所だけ見てきます」
「まだ余震あるかもしれない」
「でも――」
「夜坂さん」
梢は腕を離さなかった。
「あなたも人数に入ってるから」
朔が止まった。
「……」
「客、何人。繭さん大丈夫。マイルさん大丈夫。私大丈夫」
梢は言った。
「自分だけ数えてないでしょ」
ランタンの光の中で、朔は少し困った顔をした。
「店主なので」
「そういうところ」
梢は腕を離した。
「五分待って。それから一緒に考えよう」
朔は、ようやく頷いた。
「分かりました」
*
床にはタロットカードが散らばっていた。
マイルが一枚ずつ拾う。
その中に、表を向いたカードがあった。
繭がしゃがむ。
「塔ですね」
「はい」
マイルが拾った。
「すごいタイミング」
梢が言った。
「地震でカードが落ちただけです」
「分かってるって」
「地震の後で塔を見たことで、意味を感じることはできます。ただし、カードが地震を予告していた証拠にはなりません」
繭が頷いた。
「はい」
「二人とも、今それやるんだ」
梢が笑った。
その時。
カードを束ねるマイルの指が、ほんの少し震えているのが見えた。
「マイルさん」
「はい」
「怖かった?」
「はい」
即答だった。
「かなり」
繭も言った。
「私もです」
梢は二人を見る。
何となく、その言葉が残った。
怖い。
それでいい。
一人で立てる人間だって、怖い時は怖い。
助けを求めなくても生きられる人間だって、誰かに話したいことはある。
その二つは矛盾しない。
スマートフォンに少しずつ情報が入ってくる。
この辺りは震度五強。
津波の心配はない。
鉄道の一部は止まっている。
停電地域あり。
余震に注意。
店の客たちは、無理に移動せずしばらく留まった。
朔は水を出した。
繭は床に散ったものを集めた。
マイルは情報を確認した。
梢も椅子を戻した。
停電した宵待酒場には、ランタンが一つだけ灯っていた。
しばらくして電気が戻った。
誰かが拍手した。
その拍手が、少し可笑しくて。
店の空気がようやく緩んだ。
*
深夜。
客が全員帰った。
マイルと繭も店を出ることになった。
扉の前で、繭が梢にだけ聞いた。
「相談したかったこと、分かりました?」
梢は少し考えた。
「たぶん」
「ならよかった」
「答えは?」
「それは梢さんのです」
繭はそれだけ言った。
マイルが外から呼ぶ。
「電車が止まっているので歩きすぎないでください」
「はいはい」
二人が帰る。
扉が閉まった。
宵待酒場には、梢と朔だけが残った。
静かだった。
割れたグラスを二人で拾った。
椅子を戻す。
床を拭く。
落ちた瓶を並べ直す。
妙に普通の作業だった。
少し前まで店全体が揺れていたのに。
「夜坂さん」
「はい」
「例の仕事」
「うん」
「行こうと思う」
朔は手を止めなかった。
「そうですか」
「数か月になる」
「うん」
「たぶん、こっちにはほとんど戻れない」
「うん」
「……それだけ?」
朔が顔を上げた。
「何か言った方がいい?」
「別に」
「なら」
「そういうとこ腹立つなあ」
朔が笑った。
梢も少し笑った。
でも。
今夜は、それで終わらせたくなかった。
「夜坂さん」
「はい」
「もう一個」
「何ですか」
梢は言葉を探した。
さっきまでなら、たぶん言わなかった。
いつか。
そのうち。
別に言葉にしなくても。
そう思っていた。
でも。
揺れている店の中で、突然灯りが消えた瞬間。
いつか、という時間は。
本当はどこにも保証されていないのだと思った。
「私」
梢は朔を見る。
「夜坂さんのこと、好きです」
朔が動かなくなった。
数秒。
かなり長い数秒だった。
「……はい」
「はい、じゃないでしょ」
「驚いてます」
「見えない」
「かなり」
梢は笑った。
そして続ける。
「だから仕事を断る、っていう話じゃないからね」
朔の口元が緩んだ。
「でしょうね」
「なんで笑うの」
「高瀬さんだから」
「どういう意味?」
「そのままです」
梢は少し黙った。
「今日、思ったの」
「何を?」
「言わなくても分かることと、言ってあることって」
一度、息を吐いた。
「違うんだなって」
朔は梢を見た。
今度は逃げなかった。
「俺も好きです」
梢は瞬きをした。
「……そう」
「はい」
「もっとなんかない?」
「高瀬さんだって、さっきそれだけだったじゃないですか」
「私はちゃんと言った」
「俺もちゃんと言いました」
「腹立つなあ」
二人で笑った。
抱き合わなかった。
キスもしなかった。
ただ。
前からそこにあったものを、初めて二人の間へ置いた。
「寂しい?」
梢が聞いた。
朔は少し考えた。
「寂しいと思います」
梢は、その答えが嬉しかった。
即座に「大丈夫」と言わなかったから。
「でも」
朔が続ける。
「行ってほしい」
「どうして?」
「高瀬さん、行きたいんでしょ」
梢は今度こそ、自分に聞いた。
できるかではなく。
期待されているかでもなく。
やりたいか。
「うん」
「行ってみたい」
「だったら、行ってきてください」
「そっか」
「はい」
また静かになった。
時計を見る。
深夜だった。
鉄道はまだ完全には戻っていない。
地震の情報も更新され続けている。
朔が言った。
「そろそろ帰ります?」
梢は時計を見た。
そして。
「夜坂さん」
「はい」
「もう一軒、行かない?」
「今日?」
「今日だから」
朔は少し驚いていた。
「こんな日に?」
「こんな日だから」
朔は店内を見回した。
危険なものは片付けた。
火元も確認した。
戸締まりもできる。
「……行きますか」
「うん」
二人は宵待酒場の灯りを消した。
*
街は、少しだけ普段と違っていた。
コンビニでは水の棚が空いていた。
店先の商品を片付けている人がいた。
何台かの緊急車両が走っていった。
信号は戻っていた。
スマートフォンには余震への注意が表示されている。
駅前まで歩いた。
何軒か閉まっていた。
その中で、建物の安全確認を終えて営業を再開している深夜の喫茶店が一軒あった。
「二軒目、ここ?」
朔が言った。
「文句ある?」
「酒ないですよ」
「コーヒーでいい」
入った。
二人で向かい合って座る。
コーヒーが来た。
最初の十分ほどは地震の話をした。
それから、いつの間にか別の話になった。
梢が昔好きだった本の話。
朔が若い頃に聴いていた音楽。
仕事で行った変な町。
忘れられない料理。
ものすごくまずかった料理。
梢が一人旅を好きになった理由。
朔が一人で店を始めた理由。
離婚した後のこと。
結婚について。
孤独について。
誰かと暮らすということについて。
どちらからともなく、そんな話をした。
「梢さんは、一人でいるの平気ですよね」
「うん」
「寂しくない?」
「寂しい時はあるよ」
「あるんだ」
「人間なので」
梢は笑った。
「一人でいられることと、寂しくないことは別じゃない?」
「今日そればっかりですね」
「何が?」
「別々にする話」
「マイルさんが感染ったかな」
二人で笑った。
話は続いた。
恋愛について話しているはずなのに、恋愛ばかりを話さなかった。
むしろ。
初めて相手の人生そのものを聞いた。
営業時間が終わり、店を出る。
それでも始発までは少し時間があった。
二人は歩いた。
自動販売機で缶コーヒーを買った。
「またコーヒー?」
「二軒目の続き」
「これは三軒目じゃない?」
「自販機ですけど」
「営業中です」
梢が笑った。
二人でベンチに座った。
空の黒が少しずつ薄くなる。
新聞配達のバイクが走っていく。
街が、また一日を始めようとしていた。
「私たち」
梢が言った。
「何してるんだろ」
「帰ってないですね」
「タイトルみたいに言わないで」
「何の?」
「知らない」
朔が笑った。
梢も笑った。
そして二人は。
朝まで帰らなかった。
何をしたのか。
どこまで話したのか。
手を繋いだのか。
触れたのか。
それは、二人だけが知っていればよかった。
ただ。
夜坂朔と高瀬梢にとって、
その夜は初めて、
帰る場所を失った夜ではなく。
帰らなくてもいいと思った夜だった。
*
数日後。
梢は大きな荷物を持って駅にいた。
仕事を受けた。
ただし、最初に提示された条件を全部引き受けたわけではない。
現地にいる必要のない仕事は外した。
自分でなくてもいい部分も手放した。
できること全部ではなく。
自分が本当にやりたい仕事を選んだ。
朔が駅まで来ていた。
「じゃあ」
梢が言う。
「行ってきます」
「はい」
「何その返事」
「帰ってくるんでしょ?」
「帰ってくるよ」
「なら」
朔は言った。
「行ってらっしゃい」
梢は頷いた。
改札へ向かう。
数歩進んだ。
止まる。
振り返った。
「夜坂さん」
「はい」
「この前言ったこと」
「うん」
「地震で気が動転してたからじゃないからね」
朔が笑った。
「俺もです」
「ならいい」
梢は今度こそ改札を抜けた。
朔は追わなかった。
梢も、もう振り返らなかった。
一人で行ける。
だから行く。
自分で決められる。
だから決める。
そのことは、誰かを好きになったからといって変わらない。
*
数週間後。
梢は仕事先の町で、小さな古い建物を見つけた。
観光案内にも大きく載っていない。
古い木の階段。
擦れた手すり。
窓から差す午後の光。
梢はしばらく眺めていた。
それからスマートフォンを取り出す。
一枚撮る。
送る。
《これ、夜坂さん好きそう。》
少しして返事が来た。
《好きですね。》
それだけ。
梢は笑った。
スマートフォンをしまおうとした時、もう一通届いた。
《帰ってきたら聞かせて。》
梢は画面をしばらく見ていた。
そして。
《うん。》
とだけ返した。
知らない町を、一人で歩き始める。
一人であることと。
誰かを好きであることは。
もう彼女の中で、矛盾していなかった。
一方。
宵待酒場では、夜坂朔がいつもの時間に店を開けていた。
高瀬梢専用の席など、どこにもない。
誰かが座る。
誰かが話す。
誰かが帰る。
店はいつも通り続いていく。
ただ、ときどき朔は。
何か面白いものを見つけると、
スマートフォンを取り出すようになった。
宵待酒場には。
誰のためにも予約されていない席がある。
だからこそ。
帰ってきた人が座れる席も、
いつか、どこかに空く。
夜坂朔と高瀬梢は、
離れる日に、離れなかった。
あの夜。
二人は朝まで帰らなかった。
そしてそれから。
それぞれの場所へ、
ちゃんと帰っていった。


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