【(原曲)小説⑤・無名の歌 完結編】
数週間ぶりに、宵待酒場の扉が開いた。
黒いギターケースが先に見えた。
その後ろから入ってきた男を見て、朝倉咲耶が真っ先に声を上げる。
「無名!」
男は少し困ったように笑った。
「まだ、それでお願いします」
「まだ無名なんだ」
「はい」
今日は高瀬梢はいなかった。
前回は梢に連れられて、この店へ来た。
本名も活動名も伏せて。
自分が誰なのかを知った状態で曲を聴いてほしくない。
作者について知ることで、曲の聴こえ方に余計な方向がつくのが嫌だ。
だから、その夜だけは「無名」と呼んでほしい。
そう言って、一曲の未完成曲を持ち込んだ。
その曲を、
朝倉咲耶。
マイル=ベルツ。
楮原繭。
水城澪。
四人が歌った。
同じ歌詞。
同じメロディ。
なのに。
四人が歌えば、四つの違う歌になった。
そして帰り際。
無名は夜坂朔に言った。
「次に来る時、タイトル付けてきてもいいですか」
夜坂は聞いた。
「曲に?」
無名は少し考えて、
「自分に」
と答えた。
だから今回。
カウンターの中にいた夜坂が最初に聞いたのは、それだった。
「タイトル、決まりました?」
無名はギターケースを床へ置いた。
「曲は」
「はい」
「決まりました」
夜坂が少しだけ笑う。
「自分は?」
「まだ無名でいいです」
「曲に先越されましたね」
「そうみたいです」
その夜。
不思議なくらい、前回と同じ顔ぶれが揃っていた。
咲耶。
マイル。
繭。
澪。
梢だけがいない。
咲耶が言う。
「今日もみんなで歌う?」
無名は首を振った。
「今日は」
ギターケースを開ける。
「僕が歌います」
「やっと本人版?」
「……たぶん」
マイルがすぐ反応した。
「“たぶん”?」
無名はギターを取り出した。
「前とは、もう違うので」
マイルは何か聞きかけたが、やめた。
代わりに眼鏡を少し上げる。
夜坂が無名の前へグラスを置いた。
山の水を炭酸にしたものだった。
「飲んでからでいいですよ」
「ありがとうございます」
無名は一口飲んだ。
「これ、前も飲みましたけど」
「はい」
「やっぱり美味しいですね」
「水です」
「前もそれ言いましたよね」
「水なんで」
咲耶が笑った。
「変わらないねえ」
夜坂。
「店主が毎回来るたび人格変わってたら怖いでしょう」
その軽いやり取りが終わってから。
無名はギターを膝へ置いた。
あの夜から。
曲は何度も書き直されていた。
でも。
四人の歌い方を真似したわけではない。
咲耶の声をコピーしたわけでもない。
マイルの歌い方を再現したわけでもない。
繭の間をそのまま使ったわけでもない。
澪の解釈を正解にしたわけでもない。
ただ。
一度、他人の中へ入ってしまった。
それだけだった。
自分一人で歌っていた時には見えなかったものが、四人の声を通したことで浮かんだ。
咲耶が歌えば、
その歌は送り出す歌になった。
振り返らなくていい。
行ってこい。
正しい方向じゃなくてもいい。
明後日の方向でもいい。
マイルが歌えば、
その歌は受け入れる歌になった。
忘れなくてもいい。
許さなくてもいい。
答えが出なくてもいい。
分からないものを、無理に分かることにしなくてもいい。
繭が歌えば、
その歌は待つ歌になった。
でも、
待つことは止まることではなかった。
灯りを残したまま、
自分も少しずつ歩いていく。
そして澪が歌った時。
無名がずっと「君」に向けて書いたつもりだった歌が、
突然、
昔の自分へ向けた歌にも聞こえた。
君だったのか。
僕だったのか。
あの日だったのか。
それが分からなくなった。
けれど。
不思議なことに。
分からなくなってからの方が、
曲は自分に近くなった。
無名自身の生活からも、
言葉が入ってきた。
雨が上がった道。
そのあとに残る匂い。
夜の冷たい空気。
窓の向こう。
消さずに置いてある灯り。
夜が終わる少し前の空。
間違った方向。
明後日の方向。
東。
朝。
それらは、
歌の意味を説明するための言葉ではなかった。
ただ。
そこにあった。
無名はやがて気づいた。
意味を増やすほど歌が深くなるわけではない。
むしろ。
意味を決めないまま、
景色だけ置いておく。
すると歌を聴いた人が、
自分の何かをそこへ置いていく。
その方が、
歌は長く生きるのかもしれなかった。
「じゃあ」
咲耶が言った。
「完成版、聴かせて」
無名は頷いた。
カウンターの中で、夜坂がグラスを拭く手を止めた。
マイルは本を閉じた。
繭は両手をカップから離した。
澪は何も言わず、
無名を見た。
無名は最初のコードを鳴らした。
また遠くまで来たね
もはや同じ景色には
戻れないことくらい
ことさら知っていた
咲耶が少しだけ目を細める。
知っている。
でも。
知らない。
前に聞いた歌と同じものが、確かに中にある。
なのに、
別の歌になっている。
通り雨の雨上がりに
ときどき足を止めるのは
帰りたい?空?待っている?
自分の名前を呼んでるの?
澪が、わずかに顔を上げた。
だが何も言わない。
以前なら。
この人の奥にあるものを、
自分が感じ取ったものを、
確かめたくなったかもしれない。
今はただ聴いている。
歌は、
誰かの奥を説明するためにあるわけではない。
分からないこのおもい
分からないままがいい
振り返らなくていいさ
なくなるわけじゃない
マイルの指が少しだけ動いた。
「分からないままでいい」
ではない。
「分からないままがいい」
無名は、分からないことを許容したのではなく。
分からない状態を選んでいる。
マイルはそれを分析しようとして。
途中でやめた。
今は歌の途中だった。
忘れなくていいつめたさ
許さなくてもいいにおい
答えを出さなくてもいい
もういいよそのままで
マイルが目を伏せる。
前回、自分が歌った時。
「もういいよ」は、
諦めではなく、
許可のように聞こえた。
無名が、それをどう受け取ったのかは分からない。
ただ。
今の「もういいよ」は、
誰かを見捨てる言葉ではなかった。
言葉をのみこんだ
誰に言ったのかな
分からないぼくも
君だったのかもね
僕だったのかもね
あの日だったのか
澪がまた顔を上げた。
君。
僕。
あの日。
対象がひとつずつずれていく。
「誰かに向けた歌」という形そのものが、
この辺りから少しずつ崩れていく。
澪には、
それが心地よかった。
灯りは消してない夜。
帰ってきてほしいから?
こなくてもいいからさ?
決めなくていい今宵
繭が静かに聞いている。
待っている。
でも。
帰ってきてほしいとは決めない。
帰ってこなくてもいいとも決めない。
ただ灯りは消さない。
繭は少しだけ笑った。
その考え方を、
自分は知っている気がした。
窓の向こうが暗く
ここに灯りがある
覚えていればいい
歌の向こうに、
宵待酒場の窓があった。
外は夜だった。
本当に暗い。
そして。
この店には灯りがある。
無名がこの店を想定して書いたのかどうか、
誰も聞かなかった。
待つことでさえも
止まること自体
同じじゃないから
僕も少しずつ歩く
君も歩けばいいよ
明後日の方向へさ
咲耶が吹き出しそうになる。
明後日の方向。
前に自分が歌った時より、
さらに好きになった。
正しい方向。
幸せになる方向。
成長する方向。
そんなものを、
誰かが勝手に決める必要はない。
見当違いでもいい。
遠回りでもいい。
本人が歩くなら。
それでいい。
咲耶は黙って聞いた。
いつかまた会えたなら
何を祈るだろう空に
変わったねその笑顔
変わらないねまなざし
無名の声が少しだけ柔らかくなる。
誰に会うのか。
誰も知らない。
生きている人かもしれない。
もう会えない人かもしれない。
離れた場所かもしれない。
昔の自分かもしれない。
それでも、
歌の中では会える。
何も言わずに跳ねる
ここまで来たんだね
それだけでいいから
夜坂が少しだけ顔を上げた。
「跳ねる」
何が跳ねるのか。
夜坂にも分からない。
でも。
分からないまま、
その言葉は妙に残った。
帰る場所を決めないさ
僕らは東から朝になる
続きを生きる人歩く
終わらせる人振り向く
東から朝になる。
変な日本語だ。
でも。
誰も直そうとは思わなかった。
朝が来るのではない。
自分たちが、
朝になっていく。
続ける人も。
終わらせる人も。
歩く人も。
一度振り向く人も。
そして。
歌は最後へ向かう。
振り返らなくていい
灯りは消してないさ
無名のギターが少し弱くなる。
帰ってきてもいい
帰ってこなくても
待っていてもいい
先に行ってもいい
一つずつ。
言葉を置く。
いいんだ。
ここにいるからさ。
最後のコード。
音が消える。
誰も動かなかった。
数秒。
無名がマイクもない宵待酒場の中で、
ほとんど独り言のように、
小さく言った。
「おかえり。」
拍手は、
すぐには起きなかった。
前回もそうだった。
四人が同じ歌を歌い終えた時。
誰もすぐには話さなかった。
でも。
あの時とは少し違う。
今回は、
歌の意味を考えているから黙っているのではなかった。
それぞれが、
自分の中へ行っていた。
そして。
それぞれ違う場所から、
戻ってきていた。
店の端に、
一人だけ常連ではない客がいた。
四十代くらいの女性だった。
一人で酒を飲みながら、
ずっと黙って歌を聴いていた。
その女性が、
突然言った。
「……母親を思い出しました」
無名がそちらを見る。
女性は自分でも意外だったらしく、
少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません」
「何がです?」
「全然そういう歌じゃなかったら」
無名は少し考えた。
前なら、
言ったかもしれない。
違います。
これはそういう歌ではありません。
本当はこういう意味です。
そう説明したかもしれない。
でも。
今は違う。
「いえ」
無名は言った。
「もう」
少し笑う。
「それでいいです」
女性は小さく頷いた。
咲耶が待ちきれずに聞いた。
「で?」
無名。
「はい」
「結局、何の歌だったの?」
前回と同じ質問だった。
無名は笑った。
「最初に書いた時は、ちゃんと答えがありました」
マイルが聞く。
「今は?」
「あります」
マイルの眉が少し動く。
「あるんですか?」
「はい」
咲耶。
「じゃあ何?」
無名はギターを見る。
「でも」
全員を見る。
「僕の答えは、もうこの曲の答えじゃないです。」
マイルが黙る。
咲耶も何も言わない。
繭が微かに笑った。
澪は、
その言葉を聞いて、
少しだけ安心したような顔をした。
前回。
梢は無名に言った。
「渡したいなら、自分だけのものにしておくことを諦めなさい」
その意味が、
ようやく少し分かった。
作品を渡すということは、
作者の意図を消すことではない。
作者が何を思って作ったのか。
それは確かに存在する。
無名にも、
この曲を書いた理由はある。
今でもある。
でも。
一度誰かへ渡した作品には、
その人が受け取った意味も存在する。
作者の意味を守るために、
それらを全部間違いにする必要はない。
母親を思い出したなら。
その人にとって、
その夜は母親の歌だった。
それでいい。
夜坂が聞く。
「で」
無名。
「はい」
「タイトル」
無名は少し笑った。
「決まりました」
「何です?」
無名はすぐには答えなかった。
さっきまで鳴っていた曲の最後を、
もう一度自分の中で聞く。
そして言った。
「『おかえり。』です」
咲耶が笑う。
「やっぱり最後のやつじゃん」
「はい」
マイルは少し考えてから言った。
「帰還を要求していない歌なのに?」
無名。
「だからです」
「どういう意味ですか」
無名は答える。
「帰ってきて、とは言ってない」
「はい」
「帰ってこなくてもいい」
「はい」
「先に行ってもいい」
「はい」
「でも」
少しだけ間を置く。
「帰ってきたものには、“おかえり”って言いたいんです。」
繭がゆっくり頷いた。
咲耶は何も言わず笑っている。
澪は、
自分の手元を見た。
自分の奥の声が聞こえなかった夜。
帰りたいという声を、
他人のものだと思った夜。
そして、
ただ自分の家へ帰った夜。
澪は小さく息を吐いた。
「いいタイトルだと思います」
無名。
「ありがとうございます」
マイル。
「私は異論ありません」
咲耶。
「それ、マイルにしては最大級の褒め言葉だよ」
「普通に評価しただけです」
帰り際。
無名はギターケースを背負った。
夜坂が入口の近くで言う。
「そういえば」
「はい」
「自分のタイトルは?」
無名が振り返る。
少し考える。
「まだです」
「曲の方が先につきましたね」
「ですね」
「困ります?」
無名は首を振った。
「いや」
そして。
少し笑った。
「名前のある歌を持った無名っていうのも、悪くないので。」
夜坂。
「ややこしいですね」
「自分でもそう思います」
咲耶が奥から声を飛ばす。
「次来る時は名前教えてよ!」
無名は扉を開けながら言う。
「考えときます」
マイル。
「開示するとは言っていませんね」
咲耶。
「そこ拾わなくていい!」
店に笑い声が残った。
無名も笑う。
「じゃあ、また」
「はい」
夜坂が答える。
扉が閉じた。
前回とは違って。
カウンターに歌詞カードは残されていなかった。
無名は自分で持って帰った。
曲にはもう、
名前がある。
でも。
その歌が何について歌っているのかは、
最後まで決まらなかった。
恋人を思う人がいる。
亡くした誰かを思う人がいる。
離れた故郷を思う人がいる。
昔の自分を思う人がいる。
そして。
そのどれでもない人もいる。
無名が一人で書いた歌は、
四人の声へ渡った。
四人から、
また無名へ戻ってきた。
そして今度は、
宵待酒場で聴いた人たちの中へ出ていった。
帰ってきた。
でも。
最初と同じものではなかった。
たぶん、
それでいい。
人も。
歌も。
帰ってくるということは、
元通りになることではないのだから。
夜坂は店の灯りを一つ消した。
窓の向こうは、
まだ夜だった。
でも。
東のどこかでは、
もう次の朝が始まっている。
帰ってきてもいい。
帰ってこなくてもいい。
待っていてもいい。
先に行ってもいい。
それでも。
もし。
何かがもう一度ここへ戻ってきたなら。
その時は。
ただ。
こう言えばいい。
おかえり。
【無名の歌(おかえり。)】
また遠くまで来たね
もはや同じ景色には
戻れないことくらい
ことさら知っていた
通り雨の雨上がりに
ときどき足を止めるのは
帰りたい?空?待っている?
自分の名前を呼んでるの?
分からないこのおもい
分からないままがいい
振り返らなくていいさ
なくなるわけじゃない
忘れなくていいつめたさ
許さなくてもいいにおい
答えを出さなくてもいい
もういいよそのままで
言葉をのみこんだ
誰に言ったのかな
分からないぼくも
君だったのかもね
僕だったのかもね
あの日だったのか
灯りは消してない夜。
帰ってきてほしいから?
こなくてもいいからさ?
決めなくていい今宵
窓の向こうが暗く
ここに灯りがある
覚えていればいい
待つことでさえも
止まること自体
同じじゃないから
僕も少しずつ歩く
君も歩けばいいよ
明後日の方向へさ
いつかまた会えたなら
何を祈るだろう空に
変わったねその笑顔
変わらないねまなざし
何も言わずに跳ねる
ここまで来たんだね
それだけでいいから
帰る場所を決めないさ
僕らは東から朝になる
続きを生きる人歩く
終わらせる人振り向く
振り返らなくていい
灯りは消してないさ
帰ってきてもいい
帰ってこなくても
待っていてもいい
先に行ってもいい
いいんだ。
ここにいるからさ。
おかえり。

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