【原曲小説①・僕が選ばなかった君】
十七歳の夏。
僕は、町を出た。
君は、町に残った。
その違いだけで、
二十六年後。
僕たちは、別々の人間になっていた。
雨の夜だった。
仕事を終えて、僕は地下鉄のホームに立っていた。
午後十一時四十三分。
最終電車まで、あと八分。
雨は地下まで届かない。
それなのに、階段を下りてきた人間が持ち込んだ湿気で、ホーム全体が薄く濡れているように感じた。
僕はスマートフォンを見た。
未読が七件。
明日の予定。
来週の予定。
まだ始めてもいない仕事のメモ。
途中まで書いた文章。
調べたいこと。
会いたい人。
行ってみたい場所。
僕の人生はいつも、
次
でいっぱいだった。
次の電車。
次の仕事。
次の町。
次の面白いこと。
一つ終わると、すぐ次を探す。
昔からそうだった。
止まっていると、
何かに追いつかれる気がした。
何に追いつかれるのかは、
今でも分からない。
*
ホームの照明が一度消えた。
すぐ点いた。
誰も気にしなかった。
もう一度。
消える。
点く。
駅員のアナウンス。
「ただいま、設備確認のため――」
そこで音声が途切れた。
電光掲示板から、
最終電車の時刻が消えた。
代わりに表示された。
境界接触を検知しました。
僕は眉をひそめた。
近くにいた数人も、掲示板を見上げている。
近年、ニュースで何度か見たことはあった。
《重なり》。
ごく稀に、
二つの近似した世界が一時的に接触する現象。
場所も時刻も予測できない。
数秒で終わることもあれば、
十数分続くこともある。
原因は分かっていない。
そもそも本当に「別世界」なのかさえ、
まだ議論が続いていた。
ただ一つ分かっていること。
《重なり》が起きると、
そこには、
こちらには存在しない景色が見える。
僕はこういう話が嫌いではなかった。
むしろ、
かなり好きだった。
「マジか」
思わず声が出た。
ホームの向こう側。
壁だった場所が、
ゆっくり透け始める。
そして。
もう一つのホームが現れた。
同じ駅。
同じ柱。
同じベンチ。
でも広告が違う。
路線図が違う。
照明の色も少し違う。
そこには、
誰もいなかった。
いや。
一人いた。
向こう側のベンチに、
男が座っていた。
僕と同じくらいの年齢。
少し疲れた顔。
濡れた傘を足元に置いている。
こちらを見ていた。
僕も男を見る。
変な感じがした。
似ている。
顔が、ではない。
顔は違う。
髪型も。
服装も。
姿勢も違う。
なのに。
知っている。
僕は、その男を知っている。
理由が分からない。
向こうの男も、
同じ顔をしていた。
*
電光掲示板に数字が出た。
16:59
一秒減る。
16:58
境界接触終了までの時間らしい。
向こうの男が立った。
こちらへ歩いてくる。
僕も歩いた。
線路を挟んでいるわけではない。
二つのホームが、
薄いガラスを一枚挟んで重なっている。
男が、
ガラスのような境界へ手を伸ばした。
僕も伸ばす。
触れない。
数センチ先にいるのに。
向こう側だった。
男が言った。
「……誰?」
声は聞こえる。
少し遅れて。
僕は笑った。
「それ、こっちの台詞だよ」
男も笑わなかった。
僕の顔をじっと見る。
そして突然、
言った。
「七月三日の川」
僕の背中が冷えた。
「何?」
「十七歳」
男は自分の右膝を指した。
「堤防から落ちた」
僕は無意識に、
自分の右膝を触った。
今も傷がある。
「誰にも言ってない」
男が言う。
「母さんには、自転車で転んだって言った」
僕も言った。
「本当は」
男。
「川へ飛び込もうとして滑った」
二人とも黙った。
それは、
僕しか知らない。
いや。
僕しか知らないはずだった。
男が、もう一つ言う。
「その夜」
僕が続きを言った。
「町を出ようって決めた」
男の目が変わった。
*
そこから先は、
恐ろしいほど簡単だった。
十七歳までの記憶が、
ほとんど同じだった。
学校。
友達。
母親。
狭い家。
海沿いの町。
自転車。
初めて酒を飲んだ場所。
好きだった子。
嫌いだった教師。
夏祭り。
父親が出ていった夜。
母親が台所で泣いていたこと。
そして、
十七歳の夏。
僕たちは、
同じ駅にいた。
この町を出る列車。
僕は乗った。
君は、
乗らなかった。
そこだけが違った。
電光掲示板。
13:42
二十六年前。
たった一つの選択から、
二つの人生が始まっていた。
*
「じゃあ」
君が言った。
「お前、出たんだ」
「出たよ」
「どこ行った?」
「いろいろ」
僕は笑った。
本当にいろいろだった。
町。
仕事。
会社。
人間関係。
失敗。
商売。
旅。
また仕事。
新しい人。
新しいこと。
「楽しかった?」
君が訊いた。
僕は少し考えた。
「まあ」
「成功した?」
「何を成功って言うかによる」
君が笑った。
「変わってないな」
「何が」
「そういう逃げ方」
少し腹が立った。
でも、
反論するほどでもなかった。
僕も訊いた。
「君は?」
「何が」
「残って何してた?」
君は傘を見た。
「普通」
「普通って?」
「働いて」
「うん」
「母さんいたから」
その一言で、
僕は少し黙った。
僕の世界の母は、
僕が三十二歳の時に死んだ。
最後の数年、
僕はほとんど町へ戻らなかった。
君の世界では、
母はもっと長く生きたらしい。
「病院連れてって」
君は淡々と話した。
「家直して」
「うん」
「そのうち仕事でも、人のトラブル片づける役になって」
「向いてそう」
「なんで分かる」
「俺だから」
君が初めて笑った。
*
11:08
僕は君を見ていた。
羨ましいと思った。
それを認めるまでに、
少し時間がかかった。
君には、
帰る家があった。
君を必要とする人がいた。
同じ町に、
二十六年分の記憶が積み重なっている。
僕にはない。
僕は、
どこへでも行けた。
だから、
どこにも根を張らなかった。
「いいな」
僕が言った。
君が眉を上げる。
「何が?」
「君の人生」
君は本気で嫌そうな顔をした。
「何言ってんの」
「いや」
「俺は、お前の方がいいと思ってた」
「は?」
君は向こうのホームのベンチへ腰を下ろした。
「俺さ」
天井を見る。
「たまに考えるんだよ」
「何を」
「十七歳の時、あの列車乗ってたらって」
僕は何も言わなかった。
「どこ行ってたかなとか」
「うん」
「何してたかなとか」
「うん」
「もっと面白いことできたかなとか」
君は笑った。
「でもまあ」
「何」
「今さらだろ」
その言い方が、
僕には少し嫌だった。
「今さらって何だよ」
「今さらは今さらだよ」
「行けばいいじゃん」
君が僕を見る。
「どこに?」
「どこでも」
「それができるのはお前だからだよ」
「同じ人間だろ」
君の顔から笑いが消えた。
「違うよ」
「十七歳までは同じだろ」
「だから何」
「だったら――」
君が遮った。
「二十六年違う人生生きたんだぞ。」
静かだった。
「もう、お前と俺は別人だよ」
*
08:51
なぜか、
腹が立ってきた。
「じゃあ何で俺の人生羨ましがるんだよ」
君も少し声を強くした。
「羨ましいからだよ」
「出ればよかったじゃん」
「母さんいたんだよ」
「それは選んだんだろ」
「お前は選ばなかっただけだろ」
「何を」
「残ること」
「俺は出る方を選んだ」
君が笑った。
少し嫌な笑いだった。
「逃げただけかもしれないじゃん」
僕は黙った。
「何から?」
「知らないよ」
「知らないのに言うなよ」
「お前だって俺に出ればよかったって言っただろ」
「だって出たかったんだろ?」
君は境界の向こうから、
まっすぐ僕を見た。
「お前は、出たかったの?」
答えようとした。
当然だ。
僕は出たかった。
だから出た。
ずっとそう思ってきた。
でも。
言葉が出なかった。
君が続ける。
「自由だった?」
「……まあ」
「好きなことした?」
「したよ」
「じゃあ」
君は言った。
「いつになったら着くの?」
胸の奥に、
妙なものが刺さった。
「何が」
「お前」
君は笑わなかった。
「ずっと出発してるじゃん」
「……」
「次の仕事」
「……」
「次の場所」
「……」
「次の面白いこと」
僕は何も言えなかった。
君が言う。
「到着したことある?」
*
電光掲示板。
06:32
境界が一度、大きく揺れた。
君の姿が乱れる。
画面のノイズのように、
身体の半分が消えた。
「おい!」
「聞こえてる」
「大丈夫か」
「たぶん」
床まで揺れる。
アナウンス。
《境界安定率低下》
君が何か言う。
聞こえない。
「何?」
「だから!」
音が途切れる。
僕は境界へ近づいた。
君も近づく。
近い。
触れられない。
「一個」
君の声。
「一個だけ訊いていい?」
「何」
「十七歳に戻れたら」
ノイズ。
「また出る?」
僕は黙った。
十七歳。
あの駅。
母親。
町。
列車。
僕は、
もう一度乗るだろうか。
分からなかった。
こんなに長く、
あの選択を正しかったと思って生きてきたのに。
「君は?」
僕は訊いた。
「何」
「戻れたら」
君を見る。
「また残る?」
君も答えなかった。
二人で笑った。
変な笑いだった。
*
04:11
僕が言った。
「俺さ」
「うん」
「君になりたかったのかもしれない」
君は少し驚いた。
「なんで」
「帰るところあるから」
「そんなもん」
「俺にはないんだよ」
君は黙った。
「どこへ行っても」
僕は言った。
「次がある」
「いいじゃん」
「うん」
「それが嫌なの?」
「分からない」
初めて、
そう言えた気がした。
君が少し笑った。
「俺は」
「うん」
「お前になりたかった」
「なんで」
「どこへでも行けそうだから」
僕も笑った。
「そんなもんだよ」
君。
「じゃあ」
少し間。
「どっちが正しかったんだろうな」
僕は考えた。
そして。
笑った。
「知らんよ」
君も笑った。
その瞬間だけ。
僕たちは、
十七歳に戻ったような気がした。
*
01:28
境界が崩れ始めた。
向こうのホームが、
少しずつ透けていく。
「もう終わるな」
君が言った。
「みたいだな」
「次」
「何?」
君は少し恥ずかしそうに笑った。
「次の星でも会えるかな」
僕は吹き出した。
「何だよそれ」
「たまに思うんだよ」
「何を」
「人間終わったら、次どこ行くんかなって」
「知らん」
「夢ないな」
「次の星まで待つの?」
君が僕を見る。
「じゃあどうする」
僕は言った。
「この世界でもう一回会おう」
「どうやって」
「探す」
「世界違うぞ」
「じゃあ方法考える」
「無理かもしれないぞ」
「それはやってから考える」
君が大きく笑った。
「そういう奴だったな」
「どんな奴だよ」
「とりあえず始める奴」
僕も笑った。
「君は?」
「何」
「次何する?」
君が答える。
「分からん」
一秒。
二秒。
「でも」
君は言った。
「海は見に行きたいかな」
「今日?」
「今日」
「いいじゃん」
「そっちは?」
僕は少し考えた。
いつもなら、
次の予定を言ったと思う。
でも。
「俺も海行こうかな」
そう答えた。
*
00:14
向こうの世界が消えていく。
君の声も遠くなる。
「おい!」
君が叫ぶ。
「何!」
「最後!」
「何だよ!」
残り十秒。
君が叫んだ。
「お前の人生!」
ノイズ。
「俺が選ばなかった方だからって!」
残り七秒。
「間違いじゃないからな!」
僕は、
何か考えるより先に叫んだ。
「君もだ!」
残り三秒。
君が笑っている。
二秒。
一秒。
暗転。
*
照明が戻った。
いつものホーム。
向こう側には、
壁しかない。
電光掲示板には、
最終電車の到着時刻。
十一時五十八分。
何人かが興奮してスマートフォンを見ている。
駅員が何か説明している。
僕は、
その場から動けなかった。
君はいない。
僕しかいない。
それなのに。
不思議と、
前より一人ではなかった。
*
最終電車が来た。
扉が開く。
僕は乗らなかった。
電車はそのまま行った。
階段を上がる。
外へ出る。
雨は上がっていた。
空には、
星なんか見えなかった。
街が明るすぎた。
僕はスマートフォンを見る。
未読。
予定。
仕事。
次。
次。
次。
画面を消した。
タクシーを拾えば、
家へ帰れる。
でも。
僕は駅とは反対方向へ歩いた。
海まで、
一時間くらい。
別に急ぐ必要はない。
途中でコンビニに寄った。
コーヒーを買った。
少し歩く。
空が、
ほんの少し明るくなり始める。
*
君も今、
海へ向かっているだろうか。
分からない。
君の世界では、
雨が続いているかもしれない。
気が変わって、
家で寝ているかもしれない。
それでいい。
君は君の人生を生きる。
僕は僕の人生を生きる。
僕は、
君にはなれなかった。
君も、
僕にはならなかった。
けれど。
僕たちは、
同じ十七歳から始まった。
一つの人生の、
正解と不正解ではない。
二つの本物だった。
*
海に着いた。
朝だった。
波が、
何事もなかったように寄せている。
僕は砂浜に立った。
何かが始まる気配はなかった。
使命も。
啓示も。
運命も。
ただ、
海があった。
僕はそれを、
しばらく見た。
次に何をするかは、
そのあと考えることにした。
君も、
どこかで同じように、
海を見ていたらいいと思った。
もしまた会えたら。
今度は、
どちらの人生が正しかったかなんて、
訊かない。
代わりに。
君があの日から何を見たのか。
僕があの日から何を見たのか。
それだけを、
朝まで話そうと思う。
そして。
次の星へ行く話は、
そのあとでいい。
SONG SEED|歌詞原型
【僕】
十七歳 振り返らず
あの日の列車に飛び乗った
いくつ扉を開けてもまだ
次の景色を探している
自由だったはずの僕は
どこへ行っても旅の途中
「いつになったら着くんだ」と
君の声だけ胸に残った
【君】
十七歳 雨のホーム
僕はあの町に残った
呼ばれるたび誰かを支え
気づけば同じ空を見ていた
遠い星なら綺麗なのに
近くの明日は少し怖くて
行かなかった道の向こうに
君がいるなら見てみたかった
【掛け合い】
僕
なぜ残った?
君
なぜ出ていった?
僕
君ならもっと遠くへ行けた
君
君ならここで守れたものがある
僕
僕は自由だった
君
僕は必要とされた
僕
それでも君が羨ましかった
君
僕も君になりたかった
僕
十七歳に戻れたら?
君
もう一度出る?
僕
君はもう一度残る?
君
……分からないな
僕
僕もだよ
【二人/ラスサビ原型】
僕が選ばなかった君が
僕の知らない僕を生きていた
君が選ばなかった僕も
君の知らない君を生きていた
正しい方なんてなくていい
戻れないことを悔やまなくていい
違う明日を歩いた僕らは
どちらも同じ十七歳だった
次の星まで待たなくていい
また会う方法はまだ知らない
だから今日は海を見に行こう
君は君の空の下で
僕は僕の朝の中で
選ばなかった人生まで抱いて
僕らは今日を、生きていく。

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