【小説・無名の歌を、四人は違って歌う。】
高瀬梢が、その人を宵待酒場へ連れてきたのは、木曜日の夜だった。
「一人、連れてきてもいい?」
昼過ぎに届いたメッセージには、それだけ書いてあった。
夜坂朔は、
《どうぞ》
とだけ返した。
だから、扉が開いた時も特に驚かなかった。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
先に入ってきたのは梢だった。
その後ろに、黒いギターケースを背負った人物がいる。
服装は地味だった。
帽子もかぶっている。
目立つアクセサリーもない。
自分というものを、なるべく外側へ出さないような格好だった。
夜坂が梢を見る。
「仕事?」
「半分」
「残り半分は?」
「私の好奇心」
「そっちの方が面倒そうですね」
「失礼ね」
梢は笑った。
その人物は、カウンターの前で軽く頭を下げた。
夜坂が聞く。
「お名前は?」
少し間があった。
そして。
「今日は」
その人は言った。
「無名でお願いします」
夜坂が瞬きをする。
「むめい?」
「はい」
「活動名?」
「違います」
梢が横から補足する。
「本名も活動名もあるんだけど、今日は伏せたいんだって」
ちょうどカウンターにいた朝倉咲耶が振り返った。
「なんで?」
無名はギターケースを下ろした。
「名前を知ると、曲の聴こえ方が変わると思うので」
眼鏡をかけたマイル=ベルツが、読んでいた本から顔を上げる。
「作者情報による解釈バイアスを避けたい?」
無名がマイルを見る。
「……そうです」
咲耶が笑った。
「初対面でいきなり話通じてる」
マイル。
「一般的な問題です」
「一般的かなあ」
楮原繭は何も言わず、少しだけ笑っていた。
その隣には水城澪が座っている。
ミントグリーンのカーディガン。
短い黒髪。
澪はギターケースを一度見て、それから無名を見る。
何も言わなかった。
夜坂が訊いた。
「飲みます?」
「今日は、あまり」
「じゃあ炭酸水にします?」
「お願いします」
夜坂は山の水を炭酸にして、ミントを一枚だけ浮かべた。
ホップは入れなかった。
初対面の人間に、いきなり草を二種類浮かべるのもどうかと思ったからだ。
無名は一口飲んだ。
「……美味しいですね」
「水です」
「炭酸入ってますよね」
「そこは加工しました」
梢が笑う。
「今日はそのくらい普通の会話してて」
「これ以上普通にできません」
その夜は、そんなふうに始まった。
*
無名が持ってきた曲には、まだタイトルがなかった。
正確には、
「候補はあるけれど、今は言わない」
らしい。
ギター一本。
簡単なコード。
派手な展開はない。
歌詞も、一見するとそれほど複雑ではなかった。
帰る。
待つ。
もういい。
それでも。
そんな言葉が、何度か繰り返される。
途中に、
《振り返らなくていい》
という一節がある。
そのあとに、
《まだ灯りは消してない》
と続く。
咲耶が歌詞カードを読みながら首を傾げた。
「別れの歌?」
無名は答えない。
「答えないの?」
「今日は答えないです」
「めんどくさい人連れてきたね、梢」
梢。
「だからここに連れてきたの」
マイルは歌詞をじっと見ている。
「恋愛とは限りませんね」
咲耶。
「また分析始まった」
「帰還と離別の語彙があるだけで、対象が恋人とは特定できません」
繭が言った。
「亡くなった人にも聞こえます」
無名の指が、ほんの少し止まった。
澪も歌詞を見ていた。
けれど何も言わない。
夜坂はカウンターの中でグラスを拭いている。
梢が無名を見る。
「いつもの説明、してあげたら?」
無名は頷いた。
「この曲」
少しだけ息を吸う。
「自分で歌いすぎて、分からなくなったんです」
「何が?」
咲耶が聞く。
「何の歌なのか」
一瞬、誰も話さなかった。
無名は続ける。
「最初は分かってました」
「じゃあ、それが答えじゃない?」
「そう思ってたんですけど」
歌詞カードを見る。
「何回も歌って、録って、直して」
「うん」
「そのうち、自分の事情しか聞こえなくなった」
梢が言った。
「だから、別の人が歌ったらどうなるのか見てみたいんだって」
夜坂。
「それでここ?」
「ここなら、勝手に意味を増やしてくれそうだから」
「褒められてる気がしないですね」
咲耶が手を挙げた。
「じゃ、私歌う」
マイル。
「早いですね」
「こういうのは勢い」
無名が初めて少し笑った。
*
最初に歌ったのは、朝倉咲耶だった。
咲耶は歌詞カードをカウンターへ置き、ギターを借りた。
「弾けるんですか?」
無名が聞く。
「コードくらい」
夜坂。
「朝倉さん、そういうとこ雑にできるんですね」
「褒めてる?」
「評価してます」
「マイルみたいなこと言うな」
咲耶は最初のコードを鳴らした。
一度。
二度。
それから歌い始めた。
技術的に完璧というわけではない。
でも。
声が前へ出る。
《振り返らなくていい》
という言葉が、
「行け」
に聞こえた。
《まだ灯りは消してない》
は、
「帰りたくなったら帰ってこい」
に聞こえた。
悲しいはずの言葉が、咲耶の声を通ると、妙に明るい。
送り出す歌になっていた。
歌い終わる。
咲耶が満足そうに言う。
「いい曲じゃん」
無名は少し困った顔をしている。
「……こんな前向きな曲だったかな」
「前向きに歌ったからね」
「でも」
「何?」
「僕が歌うと、もっと重いんです」
咲耶は肩をすくめる。
「知らないよ」
マイルが言う。
「かなり解釈を追加しています」
「いいじゃん、歌なんだから」
「歌とは、解釈を追加する行為なんですか?」
「そういうとこ!」
「どういうところです?」
夜坂が呟く。
「今日は長くなりそうだな」
梢が笑った。
*
二人目はマイルだった。
当然。
最初は断った。
「私は歌いません」
咲耶。
「なんで?」
「必要性がありません」
「興味あるでしょ」
「あります」
「じゃあ歌えばいいじゃん」
「興味があることと参加することは別です」
咲耶は無言で歌詞カードをマイルの前へ置いた。
マイルはそれを見た。
三秒。
「一回だけです」
咲耶が笑う。
「ほら」
「あなたの説得が成功したわけではありません」
「はいはい」
ギターは無名が弾くことになった。
マイルは立たず、そのまま椅子に座って歌った。
声量は大きくない。
けれど音程が妙に正確だった。
リズムもほとんど揺れない。
語尾を必要以上に伸ばさない。
泣かない。
煽らない。
何も足さない。
同じ歌詞なのに、
それは、
別れを受け入れる歌
に聞こえた。
《振り返らなくていい》
そこには怒りがなかった。
《まだ灯りは消してない》
そこにも未練がない。
ただ、
「私はここにいる」
という事実だけが置かれている。
歌い終わった。
咲耶が真っ先に言った。
「冷静」
マイル。
「歌詞にない感情を付加しないようにしました」
「歌に査読入れる人初めて見た」
無名は笑わなかった。
歌詞を見ていた。
やがて言う。
「……これ、諦めじゃなかったんですね」
マイルが見る。
「何がです?」
「この辺」
《もういい》
という一節を指す。
「僕は、諦めた言葉だと思ってた」
マイル。
「そう歌うことも可能だと思います」
「でも今のは」
「私は、許可に近いと解釈しました」
「許可?」
「もう行っていい、と」
無名はしばらく黙っていた。
咲耶。
「ほら、めちゃくちゃ解釈してるじゃん」
マイル。
「歌う前に追加しないと言いました。歌った後の分析は別です」
「ずるいなあ」
繭が小さく笑った。
*
三人目は楮原繭だった。
「私は、本当に上手くないですよ」
繭は言った。
咲耶。
「誰も採点してないって」
マイル。
「私はしていません」
咲耶。
「その言い方が採点してそうなんだって」
繭は歌詞カードを持った。
無名がギターを弾く。
歌い始める。
声は細かった。
大きくない。
少し息が混じる。
でも。
言葉と言葉の間に、時間があった。
《振り返らなくていい》
そのあと。
少し長い沈黙。
《まだ灯りは消してない》
また沈黙。
待っている。
歌そのものが。
誰かを待っている。
帰ってくるか分からない人。
もう戻らないかもしれない人。
それでも、灯りだけは消さない。
繭の歌は、
待つ人の歌
になった。
終わってから。
誰もすぐに喋らなかった。
マイルが最初に口を開く。
「……間で意味が変わりますね」
繭。
「歌詞は同じですけどね」
マイル。
「だから興味深いんです」
咲耶。
「また実験になってる」
無名は黙っていた。
梢が横顔を見る。
「どう?」
「怖いですね」
「何が?」
「自分の歌なのに」
無名は笑った。
「知らない歌になっていく」
梢は何も言わなかった。
でも。
少し嬉しそうだった。
*
「次、水城さん」
咲耶が言った。
澪がすぐ首を振った。
「私?」
「四人目」
「なんで私まで」
「ここまで来たら全員」
マイル。
「論理的必然性はありません」
咲耶。
「でも聴きたいでしょ?」
マイルは少し黙った。
「……はい」
「ほら」
澪は歌詞カードを見た。
短い黒髪が頬へ落ちる。
「私」
言いかけて止まる。
夜坂が炭酸水を置いた。
「無理なら別にいいですよ」
澪。
「歌が嫌なわけじゃないんです」
「じゃあ?」
澪は無名を見る。
「この人のこと、少し入ってくるんです」
空気が変わった。
無名は澪を見る。
咲耶も黙った。
水城澪は、ときどき。
本人が話している言葉とは別のものを受け取る。
言葉。
映像。
感情。
澪が、
「奥の声」
と呼んでいるもの。
無名が歌っている間にも、
いくつか来ていた。
場所。
誰かの背中。
少し古い部屋。
終わったのか、始まる前なのか分からない感情。
でも。
澪は言った。
「今日は、言いません」
無名。
「どうして?」
澪は少し考える。
「私が感じたことと」
マイルをちらりと見る。
「あなたが書いたことは、同じとは限らないので」
マイルは何も言わない。
ただ、澪を見た。
澪は続ける。
「だから」
歌詞カードを手に取る。
「今日は、読まないで歌います」
咲耶。
「できる?」
澪。
「分かりません」
「じゃあやってみよ」
澪は少し笑った。
「咲耶さん、そういうとこですよね」
「何が?」
「先に進むところ」
「褒めた?」
「評価しました」
マイルが少しだけ笑った。
*
澪が歌った。
二十三歳の声だった。
咲耶より軽く。
マイルより揺れて。
繭よりまっすぐだった。
特別な技巧はない。
でも。
澪が歌うと、
その曲は初めて、
誰かに向けた歌ではなくなった。
昔の自分。
もう戻れない自分。
そこに置いてきた何か。
それへ向かって、
《振り返らなくていい》
と言っている。
そして、
《まだ灯りは消してない》
は、
「忘れたわけではない」
という意味に聞こえた。
捨てる歌ではない。
戻る歌でもない。
過去の自分を、そこに置いたまま歩いていく歌。
無名が途中から目を伏せた。
梢が、それに気づく。
歌が終わる。
澪は歌詞カードを置いた。
「……こんな感じです」
誰もすぐに話さない。
無名が言った。
「それ」
澪を見る。
「僕が書いた時の感覚に、一番近いです」
一瞬。
澪の表情が止まった。
以前なら。
たぶん。
「やっぱり聞こえていた」
と思った。
自分には分かる。
奥の声が届いた。
そう思ったかもしれない。
でも。
澪はゆっくり首を振った。
「それは分かりません」
無名。
「でも、今」
「私は」
澪は言った。
「そう歌っただけです。」
無名は何も言わなかった。
マイルが、小さく頷いた。
それだけだった。
*
しばらくして。
無名が言った。
「じゃあ」
全員を見る。
「結局、この曲って何の歌なんですかね」
咲耶が口を開く。
「だから旅立――」
止まった。
マイルも何か言おうとしていた。
でも言わない。
繭は最初から黙っている。
澪も、もう何も読まない。
夜坂だけがカウンターの中にいる。
無名がそちらを見る。
「夜坂さんは?」
「何がです?」
「何の歌に聞こえました?」
夜坂は少し考えた。
そして言う。
「四人、歌ったんですよね」
「はい」
「じゃあ」
グラスを拭きながら。
「今日は、四曲あったんじゃないですか。」
無名が眉を寄せる。
「でも、書いたのは一曲です」
「店も同じですよ」
「店?」
夜坂は店内を見る。
六つのカウンター席。
二つの丸テーブル。
酒瓶。
ランプ。
いつもの宵待酒場。
「作ったのは俺ですけど」
少し間。
「ここで何が起きるかまでは、俺のものじゃないんで。」
無名が夜坂を見る。
「……似てますね」
「何が?」
「歌と店」
「そうですかね」
「作った後、他人に渡す」
夜坂は少し考えた。
「まあ」
「嫌じゃないですか?」
「何が?」
「自分が作ったものが、自分の思ってたものじゃなくなるの」
夜坂は答えなかった。
代わりに。
梢が言った。
「嫌なら」
全員が梢を見る。
「人に渡さないことね」
無名が苦笑する。
「編集者っぽい」
「職業病だから」
「でも」
梢は続ける。
「渡したいんでしょう?」
無名は歌詞カードを見る。
そこには同じ言葉しか書かれていない。
何も増えていない。
何も書き換えられていない。
それなのに。
もう最初と同じ歌には見えなかった。
「……はい」
無名は言った。
「渡したいです」
梢は頷いた。
「じゃあ、諦めなさい」
「何を?」
「自分だけのものにしておくことを」
無名は少し笑った。
「怖いこと言いますね」
「作品って、そういうものでしょ」
*
閉店が近づいた。
無名はギターをケースへ戻す。
咲耶が言った。
「で」
「はい」
「本当の名前は?」
無名は笑った。
「今日はまだ、無名で」
マイル。
「“今日は”ということは、次回は開示する可能性が?」
咲耶。
「マイル、そういう時だけ食いつくね」
「条件の変化を確認しただけです」
梢は笑っていた。
無名はケースを背負う。
扉の前まで行って。
一度振り返った。
「次に来る時」
「はい」
夜坂が答える。
「タイトル、付けてきてもいいですか」
夜坂。
「曲に?」
無名は少し考えた。
「自分に」
夜坂は笑った。
「どっちでもどうぞ」
無名も笑う。
「じゃあ、また」
扉が閉じた。
*
カウンターの上に、歌詞カードが一枚残っていた。
梢が気づく。
「忘れてる」
夜坂が紙を取る。
同じ歌詞。
同じメロディ。
でも。
咲耶が歌った時。
それは、送り出す歌だった。
マイルが歌った時。
それは、受け入れる歌だった。
繭が歌った時。
それは、待つ歌だった。
澪が歌った時。
それは、昔の自分を置いて歩いていく歌だった。
夜坂は紙を畳んだ。
「預かっときます」
梢。
「次来ると思う?」
「来るんじゃないですか」
「なんで?」
夜坂はカウンターの端へ歌詞カードを置いた。
「タイトル付けるって言ってたんで」
梢は少し笑った。
「曲に?」
夜坂。
「さあ」
店の灯りを一つ消す。
作品というものは。
作った人間が意味を入れて、
それで終わるものではないのかもしれない。
誰かが歌い。
誰かが聴き。
誰かが自分の記憶を重ねる。
そのたびに。
少しずつ違うものになる。
それは作者にとって、
たぶん。
少し怖い。
けれど。
誰にも触れられないまま残るよりは。
少しだけ。
嬉しい。
その夜。
無名が持ってきた歌は、
まだ名前を持っていなかった。
けれど。
宵待酒場では確かに、
四つの歌になっていた。

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