抜擢の代償 ―23歳、私は管理職になった第4話「守るものが、何もなくなった日」
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逃げの言葉
あの夜、結局一睡もできなかった。それでも朝が来て、体だけが決められた時間に店へ向かった。
出勤しても、劇的に何かが変わるわけではなかった。発注の勘所が急に分かるようになるはずもなく、心は、まだ折れたままだった。
その週末、実家に電話をかけた。
「もう、辞めたい」
自分でも驚くほど、あっさりとその言葉が出た。
「本当は、教員になりたかったんだ」
学生時代に一瞬だけ抱いた夢を、その時、急に持ち出した。教育実習も受けていない。免許もない。今からなれるはずもない。ただの逃げの言葉だった。話しながら、自分でもその薄っぺらさに気づいていた。
電話の向こうで、母は少し黙った。おそらく、言葉の中にある逃げの匂いを、敏感に感じ取っていたのだと思う。
「頑張れ」
責めることも、諭すこともなく、ただそれだけを言った。
毎晩、十一時の電話
その頃から、同期の男に電話をかける習慣がついた。
近くの店舗で、自分と同じように早くして店長になった男だった。会うのは月に一度あるかないか。休みが噛み合う日を探して、駅前の安い居酒屋で落ち合うのがせいぜいだった。だが電話は、ほぼ毎晩だった。
閉店作業を終え、家に帰り、風呂に入った後の十一時前後。決まった時間ではなかったが、気づけばどちらかが電話をかけていた。
「今日さ、また発注のことで詰められてさ」
「うちは今日、シフトの穴埋めで一日終わったよ。誰も代わりいないから、俺が現場に立ちっぱなし」
「え、それキツいな。うちは佐藤さんがいるから、そこは助かってるんだけど」
「いいなそれ。俺のとこ、そんな人いないもん。全部自分で決めなきゃいけない」
そんな他愛もない愚痴の応酬だった。特に励まし合うわけでもない、ただの傷の舐め合いのような会話。会って話す時よりも、電話越しの方が、かえって本音が出た。顔が見えない分、弱音を吐きやすいのかもしれなかった。
電話を切った後、布団に入る。その夜は、他の夜より少しだけ早く眠りに落ちた。
怒られて、褒められて
もう一人、この時期に欠かせなかった存在が、エリアマネージャーの上司だった。
がっしりとした体格の、私より四つ上の男だった。店舗を巡回する時は、いつも腕を組んで、売り場を端から端まで、舐めるように見て回る。何かを見つけると、名指しで呼びつけるのが常だった。声は大きくないが、低く、よく通った。
「これで店長が務まると思ってるのか」
「今月の数字、見たか。恥ずかしいと思わないのか」
言葉は、いつも鋭かった。だが、叱られるだけではなかった。
ある日の巡回の帰り際、事務所の隅で二人になった時、その人は腕組みを解いて、ふと言った。
「先月に比べたら、バックヤードはだいぶマシになったな」
たったそれだけの一言だった。だが、叱責ばかりだったその口から出た、初めての肯定的な言葉だった。心臓のあたりが、じんと温かくなった。
「エリア内の順位、見てみろ」
渡された紙には、エリア内の店舗の実績が、一覧で並んでいた。以前、自分の店は下から数えた方が早い位置にいた。それが、少しずつ、順位を上げてきていた。
「まだ真ん中より下だけどな。でも、着任した頃と比べたら、お前の店、確実に上がってきてる」
それから一か月ほど経った、また別の巡回の日。上司は同じように順位表を渡しながら、今度は少し違うことを言った。
「見ろ、もう真ん中まで来てる。この調子なら、来月には上位も見えてくるぞ」
紙を受け取りながら、私はうまく顔を上げられなかった。順位が上がってきているのは分かっていた。だが、その分だけ、自分の中身が伴っていないという焦りも、日に日に膨らんでいた。数字は良くなっているのに、佐藤さんの目はまだ伏せられたままだった。
その顔を、上司はしばらく黙って見ていた。いつもならすぐに次の話に移る人だった。だが、その日は違った。腕を組んだまま、私の顔を、探るように見ていた。
「お前、今、ちょっとやばい顔してるな」
図星だった。何も言えずにいると、上司は珍しく、腕組みを解いて、少し声のトーンを落とした。
「お前、俺が今のエリアを任された時、どうだったか知ってるか」
初めて聞く話だった。首を横に振った。
「俺も、今よりだいぶ早くエリアマネージャーになった。任されたのは、前任がうまく回してたエリアでな。『安定してるから、下手に手を出すな』って言われて引き継いだ」
その言葉に、聞き覚えがあった。自分が着任した時、まったく同じことを言われた。
「結果、どうなったと思う」
答えを、私は知りたくなかった。だが、その人はかまわず続けた。
「一年もしないうちに、俺はそのエリアを、がたがたに崩した。店長たちの信頼も、数字も、両方な」
腕組みをしたまま、その人は少し遠い目をした。
「あの時、誰かに助けを求めればよかったって、今でも思う。だが、任された手前、弱音を吐けなかった。分かったふりを続けて、気づいたら取り返しがつかないところまで行ってた」
そこまで言うと、上司は再び私の顔を見た。
「お前の顔、あの頃の俺にそっくりだよ」
その一言に、喉の奥が、急に熱くなった。
「だから言ってるんだ。お前は、まだ引き返せるところにいる」
そして、いつもと変わらない低い声で、こう続けた。
「お前に足りないのは、発注や在庫管理のスキルじゃない。佐藤とちゃんと向き合ってるか、それだけだ」
最初、意味が分からなかった。発注のことで詰まっているのに、なぜ「向き合え」なのか。
「佐藤は、お前の仕事の出来を見て怒ってるんじゃない。お前が佐藤たちと、ちゃんと話そうとしてないから怒ってるんだ。分かるか、この違い」
だが、さっき聞いたばかりの話が、まだ耳に残っていた。この人も、同じ場所を、同じように崩れながら通ってきた。その事実だけで、目の前の言葉が、単なる業務命令ではなく、もっと重みのあるものに感じられた。
すり減った先に
その言葉を聞いてから、佐藤さんのところへ行くまでに、数日かかった。
その数日間、ずっと体が重かった。朝、目を覚ました瞬間から、鉛を飲み込んだような重さが胃のあたりに沈んでいた。店に向かう足取りは、いつもより明らかに遅かった。
手のひらや背中に、じっとりと汗をかいていることに、何度も気づいた。特別暑いわけでも、動いたわけでもないのに、汗だけがにじみ出てくる。制服のシャツが、いつの間にか背中に張り付いていた。
事務所の前で、佐藤さんと目が合った時、佐藤さんの方が先に視線を逸らした。それだけのことなのに、胃がきゅっと縮んだ。何か言おうとして、喉まで出かかった言葉を、また飲み込んだ。今日じゃない。明日にしよう。
だが、明日になっても、体の重さは消えなかった。むしろ、少しずつ増していくようだった。夜、家に帰って鏡を見ると、目の下に色が沈んでいるのが分かった。自分の顔が、少し老けたように見えた。
三日目の朝、いつものように事務所の前まで行って、また足が止まった。ドアノブに手をかけたまま、動けなかった。手のひらに、また汗がにじんだ。
その時、ふと思った。
――これ以上、何を守ろうとしているんだろう。
答えは、出てこなかった。ただ、それ以上守るべきものが、自分の中にもう見当たらないことだけは、はっきりしていた。
体は相変わらず重かった。だが、ドアノブを握る手に、少しだけ力が入った。
「教えてください」
閉店後、私は佐藤さんのところへ行った。
「佐藤さん、お願いがあります」
佐藤さんは、少し身構えるような顔をした。無理もなかった。あの倉庫でのやり取り以来、私たちの間には、まだ張り詰めたものが残っていた。
「発注や在庫の管理、まだ自分の中でしっかり掴めていません。それ以上に、佐藤さんときちんと向き合えていなかったと思います。教えてもらえませんか」
言い終えた後、続けてもう一言、絞り出した。
「この店を、絶対に良くしたいんです。そのために、力を貸してください」
一瞬の沈黙があった。佐藤さんは少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。
「わかりました」
それだけのやり取りだった。だが、その一言を聞いた瞬間、肩から力がすっと抜けていくのが分かった。
