なぜ5回も結婚してしまったのか EP2
2. コンピュータヲタクのSE
仕事を片づけると、銀座線ではなく小田急に接続する千代田線に乗っていた。
ヒトミのアパートが相模大野にあったからだ。
そこは、よくわからない機械が雑然と置かれた異空間であった。
ITオンチの私は、ヒトミが技術の話をするのをぼんやり聞いていた。
髪もメイクも完璧にきめた妻のヨーコを思いつつ、ひっつめ髪にさえないメガネのヒトミの部屋にいる時間が心地よかった。
帰りが極端に遅くなった私を、ヨーコは不審に思ったはずだが、彼女は何も言わなかった。
ふた月もした頃だったか。ついにヨーコが切り出した。
全部知ってる。ヨーコは静かに涙を流した。
初めて見る妻の涙だった。
「私のどこが気に入らないのよう」
ヨーコはボロボロ泣いた。
私はあっけにとられた。
なんていい女なんだ。
この人は、頭や顔ではなく、心が美しい人だった。やさしくて、本当は脆い。
今思えば、私はこのとき目を覚ますべきだった。
しかしあの頃の私は、もう引き返せない地点まで来てしまっているのを感じていた。
登戸にアパートを借り、ヒトミと同棲を始めた。
何もかもがいやになる、最悪な時期のこと。
会社では相変わらず孤独だった。
ヒトミのご両親と姉たちに会ったが、やんわりと拒絶された。
長姉の夫からひそかに呼び出されて、別れろ、とはっきり言われた。
世界が真っ暗だった。
ヒトミだけが私の味方だった。
登戸の古くて狭いアパートで私たちは、ふたりで隠れるように棲んでいた。
そんな頃ドイツ赴任の話が決まり、私は忌々しい日本からの脱出よろしく、ヒトミとともにルクセンブルクへ飛び立った。
2人目の妻ヒトミとの生活は平穏だった。少なくとも表面上は。
ヒトミにとっては初めての異国暮らしだったが、IT革命をかなり先取りしていた彼女は、日本との距離をあまり苦にしていないように見えた。
だいたい、mp3とかいう音楽ファイルをダウンロードしまくる(違法である)ようなヲタクである。私もずいぶんヒトミの “技術” の恩恵を受けた。
パソコンの不具合に際してもたいへんお世話になった。なんせ家にサポセンがいるようなものなのだ。それが諸刃の剣でもあることを知るのは、だいぶ後になってからのこと。
ヒトミとルクセンブルクで暮らしながら、私の心はヨーコにあった。自分の意味不明な選択を後悔し始めていた。人はそれを「未練」と呼ぶのかもしれないが、私のそれはそんな文学的香りのするものではなかった。
外国語を話せず、ひとりでは何もできない2人目の妻。
1人目の妻なら英語は最初から問題ないし、フランス語もすぐに習得してしまうだろう。ヨーコだったら、ここルクセンブルクでも仕事を見つけて、自分の足で立っていたように思う。
なんというむなしい妄想だろう。そしてなんという身勝手。
私は妻たちを ”能力” としてみていた。
もちろん口には出さないが、ヒトミの「何者でもなさ」を見るたびに、私はヨーコの完璧さを思わずにはいられなかった。
当時、私はパソコンで日記をつけていた。
そこにはヨーコへの思いが綴られていた。
どうしてヨーコと夫婦を続けられなかったのか?
どうして家に帰りたくなくなったのか?
「あんなに好きだったのに」
ルクセンブルクに住んで1年半たった頃、事件は突然やってきた。
日本での一時帰国休暇を終えて、さあルクセンに帰ろうかというとき、
「わたしはここに残る」
ヒトミがさばさばと言った。
やっぱり異国での生活に馴染めなかったか、と思った。
否、事態はそんな生易しいものではなかった。
ヒトミに新しい男ができていた。
ネットで知り合ったそうだ。ルクセンブルクに住みながらメールでやりとりしてきて、今回の一時帰国中に初めて会い、付き合うことにしたと言う。
私はヒトミと仲の良い夫婦をやっていると思っていた。
しかし、別の場所でまったく別の話が同時進行していたのか。
「あんたの日記、読んでたんだよ」
ヒトミの瞳が一瞬悲しげに見えた。
私のパソコンのセキュリティを突破することなど、この人には簡単なことだったんだな、とITオンチの私は観念した。
(つづく)
この第2章。最も書きたくない章でした。
誰かを悪者にすればもっと楽に書けたんだろうけど。
嘘を書かないと決めたのでそういうわけにもいかず。
ヒトミは、ヨーコへの思いが綴られた日記を読みました。そこには自分への愛は書かれていなかった。
ヒトミがそれを読める ”技術” をもっていたことも不幸でした。
ヒトミが知ってしまったことを私が知ってしまった以上、もう何も言えませんでした。「観念」するしかなかったのです。
続きです。
