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「昭和末期に銀閣寺の池で絵を描いていた人の思い出」#シロクマ文芸部

※以前書いた昭和末期の思い出と同系統の作品です。何しろ子ども時代のことなのでいささか記憶違いがあるかもしれませんがご容赦ください。
※BL注意。

 熱帯夜が続き、窓を開けて眠ることができなくなった今だからこそ、夏の暑さが今ほど酷くなかった少年時代を思い出すことが増えた。昭和末期頃は、気温が三十五度に達すれば「暑すぎる」とニュースになっていた。うろ覚えの昭和末期の思い出を語っていくことにする。中年の追憶に少し付き合っていただきたい。少年時代の記憶は実際よりもきらきらしていたり、世に知られている事実と違っていることもあるかもしれない。そこは思い出補正でご容赦願いたい。

 夏休み、両親に連れられて京都へ観光に行った。寺社仏閣に興味を持てる年齢でもなかった私の視線は、自然と人へ向いていた。銀閣寺の境内にある池で、絵を描いている人がいた。室町幕府の第四十五代将軍、足利ラズベリーその人であると、警備員兼案内係である武士の一人が教えてくれた。

 現在でもそうであるが、昭和末期のその頃でも当然将軍職はお飾りでしかなかった。ラズベリーは住居とする銀閣寺内で絵を描いたり仏像を彫ったりして過ごしており、現在のクールジャパン文化の先鞭として、彼の作品は各国の美術館に収蔵されている。

 足利ラズベリーは北欧の血を引いていることもあり、見目麗しい美中年でもあった。正直に言うと私はラズベリーの描く絵よりも、ラズベリーそのものに見惚れていたといってもいいだろう。そんな私の様子に気がついたのか、父は私の手を引いて足早に次の目的地へと向かった。しかしその後のことは私は覚えていない。

 ご存知のとおり室町幕府は織田信長らの活躍する戦国時代から形骸化しつつも続き、徳川家康が江戸幕府を開いた後でも、京都の一部で生き延びた。ラズベリーが体現したように、文化的側面に特化したことが滅亡しなかった要因であろう。

 国内外の一部では評価されている、実力派ではあるがマイナーな画家、という位置づけであった足利ラズベリーの名は、ある時銀閣寺の片隅から羽ばたくことになる。ラズベリーが主体となって作り上げたアニメスタジオで製作された本格BL時代劇アニメ「足利の末っ子」は放映開始と同時に全世界の時代劇マニア、腐女子及び腐男子を熱狂させた。大多数の保護者は子どもたちの目を塞ぐことに苦心したが、どのような指にも隙間は生まれる。私も含め、数億の子どもたちの心の中にBLの芽を撒いた。

 という話を娘にした後で、改めて「足利の末っ子」を鑑賞してみた。ラズベリー自身をモデルとした美少年が、僧籍の美少年から絵の手解きを受けている。一幅の水墨画のような各シーンひとつひとつが私の心に刻み込まれていた。

 昭和末期のテレビでは、夕方はアニメ再放送の時間帯であり、「パタリロ!」「シティーハンター」「ルパン三世」、夏休みのたびに繰り返し交通事故で和也が死亡する「タッチ」などと並んで、「足利の末っ子」は繰り返し人々の脳を焼いた。しかし期待されていた続編は、ご存知の通り銀閣寺の焼失とともに消え失せてしまう。

「将軍などいてもいなくても誰も困らぬのです」
「あなたが来られると思って、あらかじめ銀閣寺を暖めておきました」
「出家したからといって、離れられるものではない」
「そうか、君の国ではジェネラルというのだな。ではこう言い直してくれないか『ひざまづけ、ジェネラル』と」
「末っ子とは、いつまでも待ち続けてしまう生き物なのだ。弟や妹という存在を」

 あちこちに名台詞を見つけつつ、もっと際どい台詞がなかったっけ、とも思っている。それは私が製作した同人誌にしかない台詞だったようだ。

 昭和末期に一瞬輝いた足利ラズベリーは、平成時代を音もなく過ごし、令和初期に亡くなった。ラズベリーには子がいなかったので、将軍職は甥の足利メタルグランジが継いだ。銀閣寺はライブハウスとして再建され、夜な夜な熱帯夜を切り裂く轟音ライブが開催されている。

(了)

 今週のシロクマ文芸部「熱帯夜」に参加しました。日に日に昔の記憶はおぼろげになっていくので、こうして書き留めておきたいと思ったのです。


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