国譲りの火⑥
第6話:攫われた巫女、呼び戻される影
その夜、ひかるは眠れなかった。
ベッドに横になっても、
目を閉じるたび、泥の匂いが戻ってくる。
湿った冷たさ。
足が沈む感覚。
顔のない影の重さ。
そして、耳の奥に残る雷の声。
(高照……)
ひかるは、胸元を押さえた。
「……なんなの……私……」
普通の毎日が、昨日まであった。
仕事に行って、頭を下げて、愛想笑いをして、
帰り道にコンビニで何か買って、
ただ疲れて眠るだけの生活。
それが――
今夜から別の人生になってしまった。
枕元には、神楽鈴が置かれている。
拾ったはずなのに、
“戻ってきた”としか思えない鈴。
ひかるは、そっと鈴に触れた。
温かい。
金属のはずなのに、
まるで生き物みたいに、体温がある。
その瞬間。
――しゃら……
鈴が鳴った。
誰も振っていないのに。
ひかるの背筋が凍った。
「……嘘……」
次の瞬間、部屋の空気が湿った。
窓は閉まっている。
エアコンも止めている。
なのに、沼の匂いがした。
ひかるは、心臓を掴まれるような感覚に襲われる。
そして――視界が揺れた。
***夢***
白い衣。
闇。
腕を掴まれ、引かれる感覚。
油の匂い。
武具の匂い。
遠くで炎が揺れている。
踏鞴の音。
タタラ場。
「兄上……」
自分の声が出る。
ひかるの声じゃない。
これは、高照姫の声だ。
闇の中で、誰かが笑う。
「巫女よ」
低い声。
柔らかいのに、刃がある声。
「お前の祈りが欲しい」
私は言う。
「祈りは、命のためのもの」
男は笑う。
「命?勝者の命だけが価値を持つ」
私は鈴を鳴らそうとする。
だが指が動かない。
手首に、細い縄。
いや、縄じゃない――
冷たい“言葉”で縛られている。
「祈りを立てたな」
男が言った。
「未来を見たな」
私は息を呑む。
男は近づいて、囁く。
「お前は逃げられない」
私は――知っている。
攫われる未来。
囲われる未来。
削がれる未来。
私は叫ぶ。
「兄上を殺すな!」
男は笑う。
「兄?名を捨てた者は、もう誰にも見えない」
その言葉に、胸が裂ける。
闇の中で、遠くの炎が消える。
そして私は、深い井戸の底へ落ちていく。
落ちる――
落ちる――
落ちる――
その底で、私は祈る。
(魂は奪わせない)
(祈りは奪われてもいい)
(でも……魂の系譜は、残す)
そして最後に、私は言う。
(いつか、器を変えて還る)
その瞬間――
暗闇の底から、雷が鳴った。
(託せ)
兄の声。
アジスキの声。
それが胸を貫き、私は――目を開ける。
ひかるは飛び起きた。
息が荒い。
汗で首筋が濡れている。
時計を見ると、午前3時。
部屋は暗い。
でも、鈴が淡く光っていた。
ひかるは震える手でスマホを握った。
連絡先は、迷う必要がなかった。
師匠。
ひかるは電話をかけた。
「……もしもし」
師匠の声は、寝起きではなかった。
まるで最初から起きていたみたいに。
ひかるは涙声で言った。
「師匠……夢を見ました……」
師匠は続ける。
「今から来い」
⸻
夜明け前の道は、静かすぎた。
街灯が濡れた路面を照らし、
どこか別世界へ続く通路みたいだった。
ひかるは師匠の道場のような部屋に入ると、
床に座る前に、膝が崩れた。
師匠はひかるの前に湯飲みを置いた。
熱いお茶の湯気が、現実を戻してくる。
師匠が言った。
「高照姫は攫われた」
ひかるは息を呑む。
師匠の声は続く。
「攫われた後、彼女は“使われた”」
ひかるの胸が痛い。
「……どうやって……」
師匠は、少しだけ視線を落とした。
「祈りは、祝福にもなる。だが――呪詛にもなる」
ひかるの指が震える。
「彼女は……人を呪ったんですか……?」
師匠は首を横に振った。
「違う。"呪わせられた”」
その言葉が、ひかるの世界を冷やした。
師匠は静かに言う。
「中央は巫女を武器にした。
戦の前に敵国の心を折るために。
国を沈めるために。人を“疑い”で壊すために」
ひかるの胸に刺さる。
今もそうだ。
スマホ。
誹謗中傷。
断罪。
○×の世界。
“疑い”で人を壊す。現代も同じだ。
師匠は、淡々と続けた。
「高照姫は、それを拒んだ。
最後の力で“魂の逃げ道”を作った」
「逃げ道……器を変える道だ」
ひかるの手が鈴を握りしめる。
「……だから、私に……」
師匠は頷く。
「高照姫は、戻ってきた」
ひかるは震える声で言った。
「じゃあ……アジスキタカヒコネは……
どうして怒ってるんですか」
師匠は、ひかるの目を見て言った。
「怒りは、お前に向いていない」
「……」
「怒りは、“忘却”に向いている」
ひかるは、理解できない顔のまま固まる。
師匠は言う。
「名を捨てて消えた者は、
誰にも語られない。
誰にも思い出されない。
“無かったこと”にされる」
その瞬間、ひかるの胸に雷が落ちた。
――そうだ。
あの魂は、怒っていた。
でもそれは殺意じゃない。
存在を消され続けた痛みだ。
師匠が低く言った。
「アジスキタカヒコネは守った。
戦わずに守った。
だが、その代償は“その名を忘れられること”だった」
ひかるの目から涙が落ちた。
「……それは……つらい……」
師匠は頷く。
「怒りは、悲しみが腐ったものだ」
ひかるは顔を上げた。
「じゃあ……どうすれば……」
師匠の答えは、短かった。
「思い出せ」
ひかるの心臓が跳ねる。
「あなたの中の高照姫が、
彼を“兄”と呼べばいい」
ひかるの喉が詰まる。
「呼べば、どうなる?」
師匠が言った。
「怒りはほどける。
魂は、役目を思い出す」
ひかるは小さく頷いた。
その瞬間――
師匠のスマホが鳴った。
画面に表示された文字で、空気が凍る。
「緊急連絡‼️」
師匠が通話を取る。
「……ああ」
短い応答の後、師匠の顔が変わった。
「……分かった」
電話を切り、師匠は言った。
「動いた」
「……何が……」
師匠の声が低くなる。
「中央の末裔だ」
ひかるの血が引いた。
「末裔……?」
師匠は立ち上がる。
「工事現場が、“再開”される」
ひかるが叫ぶ。
「でも危ない……!」
師匠は短く言う。
「危ないから再開するんだ」
ひかるの目が見開かれる。
師匠は続けた。
「奴らは、“確かめたい”」
「確かめる……?」
「巫女が目覚めたかどうかを」
ひかるの指先が冷たくなる。
師匠は言った。
「高照姫の力を欲しがった連中は、
今も形を変えて生きている」
そして、同じことを繰り返す」
ひかるは立ち上がった。
「止めなきゃ……」
師匠は言った。
「お前の役目は、戦うことじゃない。
お前は巫女だ。問いを立てる者だ」
ひかるの胸が震える。
――問い。
易。魂の対話。
師匠が言った。
「ひかる。今夜、また沼が開く」
ひかるの喉が鳴る。
「……そして、あの影も……」
師匠は頷く。
「来る」
ひかるの手が鈴を握りしめる。
怖い。
でも――会いたい。
怒りの奥にいる痛みを、
もう見ないふりはできない。
師匠は最後に言った。
「ひかる。次に影が現れたら、こう言え」
ひかるは息を呑む。
師匠は静かに告げた。
『*兄上、帰ろう*』
その言葉が、胸の奥で光った。
帰ろう。
怒りのままではない場所へ。
忘却の闇ではない場所へ。
ひかるは涙を拭った。
「……はい」
そして、鈴が小さく鳴った。
しゃら……
まるで、答えるように。
⸻
その日の夕方。
工事会社の会議室で、男たちが集まっていた。
スーツ。
資料。
施工計画。
だが空気は、ただの会議ではない。
一人の男が言った。
「昨夜の件は、外部には“事故”で通す」
別の男が頷く。
「作業員には口止め。SNSは監視する」
上座に座る男が、ゆっくり言った。
「再開する」
「しかし危険です」
「危険だからこそ再開する」
その男は、机の上に置かれた一枚の古い紙を撫でた。
誓約書の写し。
不自然なほど古い筆跡。
「巫女が目覚めたなら、
確保しなければならない」
部屋の空気が冷える。
誰かが呟く。
「高照姫……」
男は笑った。
「今度こそ、逃がさない」
そして窓の外で、雨が降り始めた。
⸻
ひかるは、雨の匂いを嗅いで立ち上がった。
心が分かる。
これは偶然じゃない。
沼が呼んでいる。
魂が呼んでいる。
ひかるは鈴を握り、玄関を出た。
(つづく)
