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【心と仕事について語る】/誇りを持つことはいけないことなのか?

こんにちは。
「急激に変化する現実と自己の折り合いをつける」―――Mystic Pioneer(ミスティック・パイオニア)―――DEUKUです。




残業は減少しているのに疲労がひどい。


何となく理由はわかっている。いつもそうだ、という感覚だ。


🔹 自分が自分を信じ始めたときに、必ずと言っていいほど邪魔が入ってくる。


「そんなんでいいと思ってるわけ?」

「これだから総合職は」

「顧客のことを何もわかってない」


一般職やパートナー社員はパワハラだの言われる立場でないために言いたい放題だ。自社を馬鹿にした物言いもよくする。

わたしも自社を馬鹿にしながら育ってきたクチではあるが、それだけで終わらせることはない。そんな馬鹿にする部分しかない会社に身を置いていることに自分自身が耐えられないからだ。そんなところに身を置くしかない自分自身のレベルの低さを惨めに感じるからだ。毎日を惨めに感じながら生きていけるほど、わたしは精神的に強くはない。


自社を貶めて顧客を持ち上げること。その心理がわたしにはよくわからない。
いや、総合職的にもよくわからないだろう。


殿様商売はそもそもあり得ない。が、まさかおもねることが営業だと言わないよな?


そんなんでいいと思ってるなんて誰も言っていない。
総合職ならではの弱点や不足があることは意識している。
顧客のことをわかってない点があることも痛感している。


そう感じる日々の中でも、苦手に感じる事柄でも、逃げることはやめて久しい。逃げてもつらさや惨めさが増すだけだから。
「そんなんでいい」で終わらせているつもりはない。
でも、苦手なものはどう頑張っても補えない、限界があることを理解した。
その無力さも歯噛みし、咀嚼して、適材適所を学び、攻略法を変え、自身の役割を知り、ようやく他人を頼ることを覚えた。

ようやく、だ。

ようやく自分自身を受け容れることができ、
自分と他人の境界線を引き、
自分と他人の問題と役割を分けた。


そうやって自分が自分として堂々と振舞おうとするときに、必ずと言っていいほど茶々が入る。


この感覚は初めてではない。だからわかる。


境界を越えられて入られるこの感覚だ。


この興醒め感と無力感の正体が境界線バウンダリーであることに気づいたのはそれこそこのnoteを記している今だ。

「あなたは何もできないもんね」

「総合職は現場では何の役にも立たないんだから」

上の二つの台詞が重なる。それでも、重なると気づくことができるだけ、自身の心はかなり正気になったと言えるだろう。


『だからやってあげてるんでしょう』


「・・・・・・・・・」


境界を越えて入ってこられたときは好きにさせている。
確かにそれで顧客から嘲笑を買うこともある。顧客は社内の力関係をそういった様子から見定めているものだ。
役に立たない、あてにならないと相手に印象づけているのは間違いなくわれらだが、現場でマウントの取り合いをしても仕方がない。


「何故、わたし(部下)の方が上に見られてしまうんでしょうね?」


本当に無意識にそう言っているのだとしたら、ご自身を客観視できていないことに危機感を抱いてしまうのだが、わたしが心配しているのがまさにその客観視の部分である。



🔹 「プロ意識」と「プライド」の危険さ

「プロ意識」と「プライド」。わたしは、この二つほど邪魔なものはないと正直思っている。
会社としての「プロ意識」と「プライド」はまだましかもしれないが、それさえも属人化してしまうと厄介極まりないものになる。


まず、目が曇る。

自分の見たい顧客を見、自分がおもねたい相手におもねる。顧客は他にもいるんですけど。

ただ、木を見て森を見ないのがプレーヤー、鳥瞰して森を見るのがマネージャーといった役割分担もある。こちらの方がよく見える部分もあるので伝えるが。


次に、言うことを聞かない。

どうせ何もできない小娘だから、ただの会社の犬だからという本音が透けて見える。というか隠さない。この際何もできない無力な小娘という自己肯定感ポッキリ事案は甘んじて受け入れるとして、客観的に見た場合、会社の総意と個人の「プロ意識」や「プライド」はどちらが独り善がりかと考える。

“総意”と“個人”なら、大抵の場合は個人が“独り”善がりだろう。

会社は少なくとも“会社”として存続できているという点で、規模の大小はあれ市場のニーズに応えることができていると思われる。



🔹 おもねたい相手におもねない自社は貶めて当然の存在だ。


自分(たち)だけは、あなたのことをよくわかってる。

弊社はそう言ってるけど、自分(たち)は違うからね。


・・・・・・心理畑出身のわたしからすれば、恐ろしく感じる依存構造だが、これがこの支社、そしてこの地の限界か。

全員にあまねく言えるのならいい。ただ、そのようにはいかないし、既にそうでない部分もある。

自社を貶めることでしか仕事を取りにいけないこともどうかと思うが・・・そんな会社に身を置いていて惨めな気持ちにはならないのか・・・・・・対等な接し方ではいけないのか?


立派な仕事をしているとわたしは思っている。

そんな仕事ができる会社を誇りに思うことはいけないことなのか?


自分(たち)の手柄で会社は成り立っている―――その点はもちろん否定しないし、この会社を退職しても各々活躍できる実力はあるだろう。
だから蔑ろにしてもよいという考えかもしれないが、その給料と福利厚生はどこから得ているのかという話だ。
正社員の給料だって決して高くはない。若手の方が低いくらいだ。
雇用の安定度も殆ど同じだ。


過去のことはよく知らないが、そこから抜け出すことができないのは、永遠にわたしたちのせいなのか?あなたたちは、いつまでもそういった子どもの心のままなのか?

かつて自分もそうだったから感じる、期待しないを信条としていた無力な子どもの心。
でも、子どものままでいることはあなたが決めていることだ。



🔹 「何のためにこの仕事があるかって話よ」

先日、例のシゴデキトラウマ上司からまたもバッサリ言われました。
ほんの少し前までであればピーピー泣いていた言葉。

「何のためにあたしらがいるのか考えたことある?馴れ合いの顧客とか、言いなりにならないといけないような顧客はいらないんだよ。偏っちゃいけないの。何の『プロ』なのかもう一度考えてみることだね」


・・・恐らく、まれるな」ということを言いたかったんだと思う。
そう思えるようになったのも、10年かけて、ようやく“大人”になれたからなのだろう。


そこについてもまた“純粋培養”と転職組やパートナー社員からは揶揄されるが、わたしは正確には純粋培養でもないし単にこれまで大人になり損ねていた人間であって、無知だっただけだ。

「あなたは何も知らないもんね」

・・・知らないふりも知ったかぶりも『プロ』(笑)なわたしからすれば、「わたしは知っている」と思い込んでいること、そして「あなたは知らない」と決め込んでいることが怖い。


そもそも、純粋培養では何故いけないのか?


顧客も純粋培養の人はそれなりにいる。「その世界しか知らない」という意味では対等だと思うし、その人たちは第一線に長くいるからこそ本質を掴んでいたりもするものだ。
そして、そのような人たちはコウモリのような外交はしない。責任は自分で取るからだ。


人生は選択の連続。
“自ら”選択したにせよ選択を“迫られた”にせよ、その後の展開を自分自身のものとして受け容れ、責任を取ること。
それが“大人になること”だという、わたしなりの理解だ。

会社は別にかれらに責任を求めない。
ただ、個人的には、せめて自分の人生の責任は自分で取れた方がいいとは思う。

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