「半熟質屋」第6話 忘れられないマトラッセ
【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。
質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。
カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。
自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。
第6話 忘れられないマトラッセ
六月になっていた。
朝から雲が低かった。今にも降りそうな空で、のぼりを立てながら僕は空を見上げた。砂利の駐車場が、湿った色をしていた。
店に戻ると、僕はカウンターの端でブランド真贋マニュアルを開いた。シャネルのページだった。ロゴの縫い方、金具の刻印の深さ、裏地のステッチの均一性。
先週、K18のネックレスを一人で買い取った。その前の週はシチズンの時計を買い取った。どちらも大塚さんに確認を求めなかった。どちらも問題はなかった。
「だいぶできるようになったね」
先週、宮本さんがそう言った。カウンターを拭きながら、向こうを向いたまま言った。
僕は何も答えなかった。でも胸の中に、小さな熱いものがあった。
大塚さんからは一週間前に言われていた。
「基本の買取は、まず任せます。わからなければ呼んでください」
それだけだった。繰り返さなかった。
任せる、という言葉が、まだ胸の中に残っていた。
白いSUVのことを、まだ考えていた。
先日、優子さんは帰った。バーキンを抱えて、砂利を踏んで、通りに出ていった。「また来てください」という大塚さんの声が、背中に届いたかどうか。振り向かなかった。でも一瞬だけ、止まった。
あの背中が、頭から消えなかった。
戻ってくるだろうか。戻ってこないだろうか。
梨華さんの分だけ成立して、優子さんの分は成立しなかった。梨華さんが帰り際に小さく頷いた。その顔も、まだ覚えていた。
「信一さん、また電話ですよ」
宮本さんの声が聞こえた。
「あ、はい」
受話器を取った。買取の問い合わせだった。
電話を切って、カウンターに戻ったとき、引き戸のベルが鳴った。
入ってきたのは、四十代前半の女性だった。
ふくよかな体型だった。花柄のブラウスに、ベージュのパンツ。バッグは大きめのトートを肩からかけていた。髪は短く切りそろえていて、化粧は薄かった。目が細くて、少し垂れていた。入ってきた瞬間に「あ、こんにちは」と言った。声が明るかった。
「いらっしゃいませ」
「あの、買取をお願いしたくて」と女性が言った。「バッグなんですけど」
「はい、こちらへどうぞ」
大塚さんは奥にいた。宮本さんは今日は出勤していなかった。
僕は手袋をはめた。
女性がトートバッグの中から、丁寧に取り出した。
黒いバッグだった。
シャネルのマトラッセだった。
ゴールドの金具。チェーンショルダー。使い込まれていた。革に光沢があった。大切に使ってきたのがわかった。
「ハワイで買ったんです」と女性が言った。「もう十五年以上前になりますけど」
「そうですか」
「向こうのシャネルのブティックで。並んで買ったんですよ、何時間も」
僕はバッグを手に取った。
重さがあった。革の質感を確かめた。表面は滑らかだった。金具を見た。「CHANEL」の刻印がある。シリアルシールが内側に貼ってあった。番号も印字されている。
「ギャランティーカードはお持ちですか」
「あ、はい、持ってきました」
女性がカードを出した。
僕はカードを見た。シャネルのロゴ。番号。
違和感があった。
何かが、引っかかった。
でも何が引っかかったのか、すぐには言葉にならなかった。シリアルシールも、金具の刻印も、一見して問題はなかった。革の質感も悪くなかった。使い込まれているだけで、状態も悪くない。
——まあ、大丈夫だろう。
「少々お待ちいただけますか」
「はい、もちろん」と女性が言った。「あの、息子が来年から私立の小学校に入ることになって。入学金をどう工面しようか、まだ全然目処が立ってなくて。どうしようってずっと考えてるのに、横で蓮が『ヴァルガンのおもちゃ買って』って言ってくるんですよ」
少し間があった。
「呆れますよね」と女性が言った。苦笑いだった。「空気読めないんです、うちの子。でもまあ、子供ってそういうもんですよね」
「お子さんがいらっしゃるんですか」
「一人います。小学三年生で」と女性が続けた。「入学金の工面もできてないのに、昔使っていたものを売れば少しはなるかと思って引っ張り出してきたんです。大切にしてたんですけどね、しょうがないですよね」
「機甲戦記ヴァルガンXって知ってます?」と女性が続けた。
僕の手が止まった。
「……知ってます」
「えっ、本当ですか」と女性が言った。目が少し大きくなった。「大人でも見てるんですか」
「見てます」と僕は言った。「毎週」
「うそ」と女性が言った。笑い声が出た。「息子と同じじゃないですか」
「すみません」
「いやいや、全然」と女性が笑った。「うちの子も毎週録画して、何回も見て。この間もヴァルガンXのプラモデルを三千円も出して買って。入学金の話してる最中ですよ。もう笑うしかなくて」
「ヴァルガンX、かっこいいですよね」と僕は言った。
「そうなんですか。男の子ってなんであんなの好きなんだろうって、私にはよくわからなくて」
「やっぱり、巨大ロボットというだけでロマンがあって」と僕は言った。「デザインもかっこいいし。あと——主人公が、どんなに打ちのめされても立ち上がる姿が、かっこいいんですよ」
「どんなに打ちのめされても?」
「ヴァルガンのストーリーで、自分の判断ミスで一番大切な仲間が死んでしまうシーンあるじゃないですか」
「……ああ」と女性が言った。「それ、蓮も泣いてた」
「あそこからもう、ほぼ勝ち目はないんですよ。でも立ち上がる。打ちのめされても、また打ちのめされても、それでも前を向く。言い訳しないで。ああいう——」
少し止まった。
「なんか、いいなと思って」
女性が僕を見た。
「あなたが言うと、なんかわかる気がします」
「息子さん、お名前は?」
「蓮っていいます」
「蓮くんか。きっとヴァルガンXの主人公みたいになりますよ」
「やめてください、戦いになんて行かせたくない」と女性が笑った。
僕も少し笑った。
胸の中が、少し温かかった。
バッグに向き直った。
もう一度確認した。金具。ステッチ。内側のシリアルシール。ギャランティーカード。
違和感は、まだあった。
でも何が違うのか、言葉にならなかった。
——大塚さんを呼ぶべきか。
一瞬、そう思った。
でも、K18のネックレスを一人で買い取った。シチズンの時計も買い取った。どちらも問題なかった。宮本さんに「だいぶできるようになったね」と言われた。
——大丈夫だ。
相場を頭の中で計算した。シャネルのマトラッセ、黒、ゴールド金具。使い込まれているがBランクからBCランク。状態を考えれば——。
「十五万円でいかがでしょう」
「十五万円」と女性が繰り返した。少し間があった。「……わかりました」
僕は買取台帳を開いた。
品名を書いた。状態を書いた。金額を書いた。
手袋の中が、少し湿っていた。
女性が帰った。
引き戸のベルが鳴って、砂利の上を歩く足音がして、エンジンがかかって、遠くなった。
店の中が静かになった。
有線放送が、低く流れていた。
僕はカウンターの端に立っていた。
買い取ったマトラッセをカウンターの上に置いていた。
できた、と思った。
一人で、できた。
K18のネックレス。シチズンの時計。そして今日のマトラッセ。少しずつ、確実に積み上がっている。大塚さんに「任せます」と言われた。宮本さんに「だいぶできるようになったね」と言われた。その言葉が、今日初めて本当のことのように思えた。
あのお母さん、喜んでくれただろうか。
入学金の足しになればいい。蓮くんも、きっと喜ぶ。ヴァルガンXのプラモデルをまた買ってもらえるかもしれない。打ちのめされても、また立ち上がる主人公みたいに——あの親子にも、いいことが続けばいい。
そんなことを考えていた。
台帳を閉じた。
胸の中が、静かに温かかった。
奥から大塚さんが出てきた。
何も言わなかった。カウンターの前に来た。
マトラッセを見た。
手袋をはめた。
手に取った。
金具を見た。
ロゴを見た。
ネジを見た。
内側のシリアルシールに、ブラックライトを当てた。
全部で、二十秒もかからなかった。
カウンターに置いた。
僕を見た。
「これ、買い取りましたか」
声は、いつもと同じだった。高くも低くもなかった。
「……はい」
大塚さんが、マトラッセをカウンターに置いた。
「アウトです。偽物です」
僕の胸の中で、何かが落ちた。
音もなく、落ちた。
「……え」
「ネジが違います」と大塚さんが言った。「本物のシャネルは、マイナスネジを使います。プラスネジが使われていたら、まず疑う」
僕はネジを見た。
プラスネジだった。
「ロゴも違います」と大塚さんが言った。「書体の太さ。一見同じに見えますが、本物と比べると微妙にバランスが崩れている。Aの先端も、本物は平らです。これは尖っている」
僕はロゴを見た。
見ていた。触っていた。
「シリアルシールは」と大塚さんが言った。「ブラックライトを当てると、本物は特定のパターンで光ります。これは光り方が違う」
僕は何も言えなかった。
全部、見ていた。全部、触っていた。
でも、何も気づかなかった。
「ギャランティーカードも」と大塚さんが言った。「フォントが違います。本物のシャネルが使うフォントではない」
僕は台帳を見た。
十五万円、と書いてあった。
自分の字だった。
「……すみません」
声が、かすれた。
大塚さんは何も言わなかった。
少し間があった。
「なぜ買い取ったんですか」
静かな声だった。責める声ではなかった。ただ、事実を確認する声だった。
「……ハワイのブティックで買ったと、おっしゃっていたので」
言いかけて、止まった。
それが理由ではないとわかっていた。
「違和感は、ありましたか」
喉の奥が、乾いた。
「……ありました」
「なぜ呼ばなかったんですか」
答えられなかった。
自信があったから、とは言えなかった。言い訳だとわかっていたから。本当のことを言えば——呼びたくなかった。一人でできると思っていた。それだけだった。
大塚さんは僕を見ていた。
責める顔ではなかった。ただ、見ていた。
「対策を考えてください」と大塚さんが言った。「明日、聞かせてください」
それだけだった。
対策。
その言葉が、頭の中に入ってこなかった。
対策を考える。今日の失敗を繰り返さないための対策を。明日までに。
でも何も浮かばなかった。頭の中がまだ、「偽物です」という大塚さんの声で埋まっていた。十五万円という数字で埋まっていた。考えようとすると、そこに戻ってしまった。
大塚さんが奥に向かった。
「……年々、良くなっています」
歩きながら言った。
振り向かなかった。
僕はカウンターの前に立っていた。
動けなかった。
有線放送が流れていた。いつものジャズだった。でも何も聞こえなかった。
十五万円。
頭の中で、その数字がぐるぐると回った。
十五万円を、店に払わせた。自分が。自分の判断で。
もし「自分で払え」と言われたら——。
考えた瞬間、足元がふらついた。手取り十七万の中から、十五万円。来月の家賃が払えない。食費がない。それだけじゃない。大塚さんに「任せます」と言われた矢先に、十五万円の損害を出した。
辞めるしかないんじゃないか。
その考えが、突然頭の中に入ってきた。
辞める。謝って、辞める。損害は少しずつ返す。それしかない。でも——辞めてどこへ行く。デザイナーも失敗した。営業も失敗した。ここでも失敗した。
次は、どこへ行けばいい。
答えが出なかった。
そのとき、声が聞こえた。
頭の中から聞こえた。
——これは0点だ。
会議室だった。
蛍光灯の白い光。長いテーブル。上司の声。「これは0点だ」。その瞬間より、その後の方が鮮明だった。薄ら笑いだけがあった。誰一人、何も言わなかった。
あの日も。
今日も。
呼べばよかった。
それだけだった。
マトラッセを見た。
なんで。
なんでこんなものを。
ネジがあった。ロゴがあった。シリアルシールがあった。全部、見た。触った。それでも気づかなかった。気づけなかったんじゃない——気づこうとしなかった。
過去の自分の手を、止めたかった。あの瞬間に戻って、殴ってでも止めたかった。
でも戻れない。十五万円は、もう動いた。
次は、どうなる。
次も同じことをするんじゃないか。今度は三十万かもしれない。五十万かもしれない。百万の偽物を掴まされる日が来るかもしれない。そうなったら——。
考えるのをやめようとした。やめられなかった。
自分には、向いていないのかもしれない。
僕はカウンターの端を、両手で強く握りしめた。指の先が白くなった。
マトラッセが、カウンターの上にあった。
黒い革が、蛍光灯の光を反射していた。
気づいたら、動いていた。
「信一さん? 外、今——」
宮本さんの声がした。
引き戸が閉まった。
雨が叩いていた。肩も、髪も、顔も。
額に張りついた髪を、直さなかった。目に入った雨粒を、拭わなかった。砂利に雨が跳ねていた。道路を、車が通り過ぎた。
遠くで、雷が鳴った。
声が出た。声にならなかった。
立ち尽くしていた。
大塚さんの声が、頭の中で繰り返された。
「年々、良くなっています」
来年はもっと近くなる。再来年はさらに。この戦いに、終わりはない。
自分には——。
考えるのをやめた。
体が冷えていた。髪から雨粒が落ちていた。
引き戸を開けた。ベルが鳴った。
宮本さんがカウンターの端に立っていた。僕を見た。何も言わなかった。タオルを持ってきた。無言で渡した。
僕は受け取った。
「……すみません」
宮本さんは何も言わなかった。カウンターを拭き始めた。
僕はタオルで顔を拭いた。冷たかった。
店に戻ろうとしたとき、砂利を踏む音がした。
白いSUVだった。
駐車場に入ってきた。
エンジンが止まった。
引き戸が開いた。
ベルが鳴った。
入ってきたのは、優子さんだった。
バーキンを、両手で抱えていた。
僕を見た。
「全然ダメだったわ、あそこ」と優子さんが言った。「大塚さん、いる?」
「は、はい——」
呼びに行こうとした。
奥から大塚さんが出てきた。
優子さんを見た。
バーキンを見た。
何も言わなかった。
大塚さんが手袋をはめた。
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