夕方の街を小高い丘から見て|おしまいの日まで、今日を生きる【50代】
夕方、小高い丘の上から街を見ていた。
住宅街の屋根が少しずつ暗くなり、あちらこちらの窓に明かりがつき始める。駅のほうから電車の音がして、道路には車のライトが細く流れている。どこかの家では夕飯の支度をしているのだろう。風に乗って、少しだけ台所の匂いが混じる。
この街のどこかで、誰かが仕事から帰っている。
洗濯物を取り込んでいる。親の介護をしている。
病院帰りに薬の袋を持って歩いている。
今日も何とか一日を終わらせようとしている。
そう思うと、少し黙ってしまう。
その日は突然やってくる。
おしまいの日。
それが明日なのか、一か月後なのか、十年後なのかは誰にもわからない。予定表には書かれていないし、スマホが前日に知らせてくれるわけでもない。朝、いつものように茶を飲んでいる時かもしれない。病院の白い天井を見ている時かもしれない。こうして夕方の街を眺めた、その日の夜かもしれない。
人はみな、その日へ向かって歩いている。走っている人もいれば、足を引きずっている人もいる。誰かを背負っている人もいる。介護、仕事、家族、自分の身体の衰え。それぞれ荷物は違うが、行き先だけは同じだ。
若い頃は、時間がいくらでもあるような顔をして生きていた。明日もある。来年もある。そのうち何とかなる。そんな言葉を、何の疑いもなく使っていた。

時間は、黙って人を削っていく。怒鳴りもしない。急かしもしない。ただ毎日、少しずつ持っていく。髪を、筋肉を、記憶を、親の声を、友人と会える回数を、そして最後には自分自身を持っていく。
それでも、夕方の街には生活がある。
明かりのついた家がある。坂を上る人がいる。買い物袋を提げた人がいる。どこかで子どもの声がする。みんな、いつか終わることを本当は知っているはずなのに、それでも夕飯を作り、風呂を沸かし、明日の準備をしている。
そこが、人間の妙な強さなのだと思う。
命を燃やすとは、大きなことを成し遂げることだけではない。今日を投げないこと。目の前の人を乱暴に扱わないこと。自分の身体を完全には見捨てないこと。もう嫌だと思う日にも、どうにか夜まで持ちこたえること。
それもまた、生きているということだ。
小高い丘から夕方の街を見ながら、私はそんなことを考えていた。
おしまいの日は、いつ来るかわからない。だが、まだ街には明かりがついている。まだ自分の足は、丘の上に立っている。まだ胸の中には、小さいが消えていない火がある。
ならば、今日を生きる。
ゆるぎなく、まっすぐに。
結局、私はそこへ戻ってくる。
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「紙につつんださよなら」
子どものころ、
コロッケを一つだけ買うのが、少し大きな楽しみでした。紙に包んでもらって、塩をふってもらう。
文房具屋の前で、ガチャガチャの音を聞きながら食べる。
昔を感じる空気感をこの絵本に。



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